何か言おうとしたイーツェンの唇に指をたてて黙らせ、シゼはきびしい顔で銅鑼の音を聞いていた。イーツェンには基本的なことしかわからないが、銅鑼にはこまかな種類があって、多様な命令の音があるらしい。これは戦場で使われる音のようだった。
ユクィルスの兵は銅鑼や太鼓によって遠くまで命令を知らせるすべに長けている。彼らは海を渡ってこの地に来た時、持ちこんだ技だということで、銅鑼の音そのものに兵をふるいたたせる力があるのだとも言われていた。戦場でこの音を聞くのはたしかに怖い、とイーツェンは思う。鳴り響く金属の音に腹の底をゆすられているような気がして、動悸があがった。
一連の音がおわると「くりかえし」を知らせる五連打がはさみこまれ、また同じ銅鑼が鳴りはじめる。シゼがイーツェンに向き直った。
「慌てずにそなえよ、とのことです。イーツェン、私はアガインのところへ行ってきます。すぐ戻るつもりですが、あなたは荷をまとめていてくれますか?」
「荷づくり?」
「お願いします」
シゼはうなずくと壁にたてかけてある剣をつかみ、左腰に鞘を吊るしながら足早に出ていった。イーツェンは一瞬だけ後を追いそうになったが、思い直して木の櫃に向き直った。ともかく何もできない身だ、せめてシゼにたのまれたことくらいきちんと片づけたい。
長櫃の蓋をずらし、蓋のはじを床におろしてから回すようにして壁にたてかけると、櫃の中をのぞきこんだ。二人とも服は大した量がない。イーツェンの服はそもそも借り物で、アガインからもらった物まで含めて荷につくっていいのかどうか迷ったが、着る物が足りないのも困る。ズボン、シャツ、下着と、かたくたたんで腰帯で結んだ。その間に銅鑼はやんでいた。
櫃に手を入れ、下にしまってあった褐色のマントをつかんで引き出す。たたみ直そうと膝にひろげて、イーツェンはそのマントをまじまじと見つめた。旅用の仕立てで、裏のついたしっかりとしたそのマントをどこかで見た気がしたが、シゼがこれを身に付けているところを、イーツェンは一度も見たことがない。
小首をかしげて、生地をつまんだ。蒸気をあてて目をつませたのだろう、しっかりとつまった毛織り地は少しくたびれて、ところどころ汚れを擦り落とした時につく布地の荒れがある。裏についたポケットを上から叩いて中に何もついていないのを確認し、両手で布をひろげながら持ち上げた。
ふっと誰かが首のうしろをなでたようだった。その瞬間、ひどくなつかしい感覚にとらえられる。前にも同じようなことをしたような──
「‥‥ああ」
思わず、溜息が洩れた。これはイーツェンがシゼに贈ったマントだ。城を出るようシゼに決断させた、あの時に、ブーツとともに。
あれからあまりにも色々なことがあって、すぐには思い出すことができなかった。一年ほどの間によく使いこまれた布に丁寧な手のひらをすべらせてから、マントをたたんで横へ置いた。これは荷に入れるか、着ていくか、シゼに決めてもらおう。
だがそもそも、シゼは一緒に来るのだろうか? 荷づくりをしろとは言ったが、それはイーツェン一人の分かもしれない──と、不安のさざ波が心を抜ける。いや、とイーツェンは息を吐いた。たとえアガインの命令だろうと、シゼはイーツェン一人を発たせるようなことはしないはずだ。
服をまとめてしまうと、後はこまごまとしたものだった。火打ちがね、剣の手入れに使う油布、小さな砥石、たばねた皮紐、中にいくらかの軟膏が入って蓋をされた動物の角。ジノンに裏書してもらったシゼの紹介状も出てきて、イーツェンはなつかしいようなみぞおちが痛いような心持ちになりながら、それらの小物をまとめて布でくるみ、結んだ。火打ちがねは出して、小さな革袋に入れた。イーツェンの布帯では駄目だが、シゼの革帯ならば袋を腰からぶらさげられる。
扉が軽い音をたて、イーツェンは顔を上げた。シゼが戻ったかと思ったが、足早に入ってきたのはギスフォールだった。手に一枚のなめし革を持っている。
イーツェンの足元にならんだ包みを見て、感心した表情になった。
「上手ですね。そういうことはできないと思ってましたよ」
皮肉とも感嘆ともつかない言葉に、イーツェンはちらっと笑った。
「リグの子はたまに山を旅するから、荷づくりくらいできる。外はどうなってる?」
城内の騒がしい気配はつたわってくるが、それ以上のことはわからない。イーツェンが予期したほど殺気立ってはいないようで、それが少し不思議だった。
ギスフォールはイーツェンの前の床に革をひろげる。それはなめしてから一度いぶし、脂をすりこんで防水と耐久性を高めた牛皮で、細く切った皮紐が四隅に縫い付けられて、荷を中にくるんで紐を結び合わせることができた。雨でもなかの荷が濡れないし、背に負うための肩帯もついている。
ひろげた皮にイーツェンのまとめた荷をくるんで、ギスフォールは床にたたんである敷布へ手をのばした。藁の入った下の敷布は残し、毛織りの上掛けをくるくると筒状に丸める。
「先駆けの伝令が来ましてね。ユクィルスの巡回隊がケルバストの橋まで来たって。普段の巡回よりも重装備だそうで、どうもキナくさい。俺らは明日発つつもりだったんですが、計画をかえます」
「今日発つのか?」
「一部はね。あらかたは森に入って、奴らの出方を見ます。アガインは森に誘いこんで殲滅するつもりですな」
早口にそう言うと、ギスフォールは上掛けを荷袋にくくりつけ、イーツェンを見た。
「アガインが呼んでます。来れますか?」
シゼと同じく、ギスフォールもきびきびとして無駄のない動きをするが、どちらも今日は、さらに鋭い雰囲気を身にまとっていた。銅鑼の合図のせいだろう。事態を把握し、それに対処しようとしている者特有の、有無を言わせぬ揺るぎなさがあった。
あれこれ反問して彼らに無駄な時間をとらせるのは無駄なことだった。イーツェンは杖に手をのばし、うなずいた。
「行く」
アガインは一階の大広間に立って、忙しく行き交う男たちに指示をとばしていた。この城館にいったいこれほど人がいたのかと、イーツェンが思わず茫然とするばかりの人数が右から左、左から右へと流れている。大声ががやがやと壁に反響し、イーツェンは久々に感じる声の圧力に頭がくらくらした。
だが混乱はなく、人々の流れにはそれなりの統率がとれていた。
ギスフォールが人がぶつからないようイーツェンの斜め前に手をのばし、彼をアガインのところまでつれていくと、アガインは小柄な男と話しつづけながら、片手をあげて待つよう手振りで示した。
アガインと男が馬車についてなにやらこまごまとした話を交わしている間、イーツェンは周囲を見回したが、窓からさしいるまだらな光の中を行き来する人々の中に、シゼの顔はなかった。何か用を果たしに行っているのだろうと思う。
すぐにアガインが一段落した話を切り上げ、イーツェンを指で招いた。
「すまんな、騒がしい、イーツェン」
「いえ。何ですか?」
この忙しいのにイーツェンを呼んだということは、重要な用があるということだ。それが何についてなのかイーツェンには大まかな見当はついていたが、アガインの口から出る言葉を喧騒の中に聞き逃さないよう、じっとアガインの顔を見つめた。
アガインは早口にかぶせるように、
「例の話だがな。宣誓は受けるが、法廷という形ではなく、ルルーシュの後ろ盾の元に宣誓の場を設ける。そこでの君の誓言をもとに、ローギス及びジノンに質問状を出すものとする。同時にその質問状をユクィルスの貴族たちにも送る。事実上は、告発ということだ。君は毒殺者を、物の証拠によって指し示すことはできない。だが君が知ることをルルーシュの神とリグの神々に自ら宣誓する、そういう形を取る。それでどうだ?」
耳からきこえた言葉がしっかりと自分にしみこむまで、イーツェンはアガインを見ていた。アガインはせかす様子もなくイーツェンにうなずくと、横から何かたずねてきた男に小声で返事を返し、もう一度イーツェンへ向き直った。
──自由になれるのだろうか。
体中が締めつけられるような感覚が襲い、問い返す声は一瞬かすれた。
「私を解放してくれるんですか」
「終わればな。形式を踏むと、冬近くまでかかるぞ」
「かまいません」
即答した。待つことには慣れていた。その向こうに待つものが希望であるなら、いつまでも待てると思った。
アガインはどんな返事が戻ってくるか予期していたのだろう、あっさりうなずき、話を変えた。
「我々は森へ入って準備をととのえるが、荷馬と、この城館と村で保護した女子供のうちでよるべのない者を北東の村へ送る。ここから十日ほどの旅だ。そこからまた、身をよせる場所へとおのおの移っていくが、君らはしばらくそこにいろ。参事会が終われば連絡をやる」
君ら、という言葉に、イーツェンはほっとする。シゼもいっしょに行けるのだろう。礼を述べようとしたが、それよりアガインが手を振る方が早かった。
「行け」
イーツェンは背中が痛まないよう注意しながら一礼し、ギスフォールに導かれてふたたび人波を抜ける。ギスフォールはどこに行けばいいのか承知している様子で、イーツェンに歩幅をあわせた足取りについていくと、今度は城の前庭へ出た。その間、視界の中にシゼを探すが、それらしい姿は見当たらない。
柵と城館の間にひろがった前庭は、広間よりさらに混沌としていた。木の物置の前では荷馬車が組み上げられる最中で、一方では、すでに馬をつなぐばかりとなっている荷馬車に荷が積まれている。一列に埋め込まれた馬杭につながれて腹帯をつけられている馬たちが、人の活気につられるように前脚で土をかき、短いいななきを上げた。
穀物の袋や塩漬け肉の樽、塩のつめられた木箱。領主の封印をされた小樽が城内から運び出されてはごろごろと地面をころがされ、荷馬車に手際よく積み込まれていく、あれは酒だろうか。地面に置かれた木箱の蓋がずれており、中に重なり合った銀の燭台を見てイーツェンはまばたきした。アガインは、この城の貯蔵物と金銀を、ことのついでにどこかへ運び出そうとしているらしい。軍資金にするのだろうか。
もうもうと埃っぽい前庭を抜け、ギスフォールはイーツェンを一台の荷馬車へ押しやった。
「あなたはあれに乗ることになります」
それは屋根のない、やや大きめの荷車と言った感じのものだったが、棒をたてる窪みが荷車の左右にあるところを見ると、どうやら悪天候の時にはそこに低い幌をかけられるらしい。
もうすでに、周囲には5、6人の女と子供がいた。腹がせり出して見るからに子をはらんでいる女もいて、イーツェンはおどろく。
「戦いがふえるとね、兵士のしっぽみたいにくっついて、あっちこっち行く女子供もふえるんですよ」
イーツェンの視線の方向に気付いたのか、ギスフォールが低い声で言った。
「あのへんのは、ルディスのとこにいた傭兵の女と、その子供ですね。哀れなもんだが、ガキでも手クセが悪いので気をつけて下さいよ。あなたなんか、いいカモです」
「‥‥‥」
そう言われても今さらカモられるようなものは持っていない、とは思ったが、イーツェンは黙ってうなずいた。と、いきなり背後から声をあびせられてびくりとする。
「結局お前とは立ち合えないんだな」
「‥‥セクイド」
イーツェンは振り向いて、一瞬たじろいだ。アンセラの少年は肩をすくめる。
「また叩きのめすのを楽しみにして馬をとばしてきたのにな」
言いながら、ちょいちょいとイーツェンを手招きするので、イーツェンは馬のつながれていない馬杭のそばまで移動して、セクイドと向き直った。ギスフォールはイーツェンの荷をセクイドへ押し付けるように渡すと、忙しそうにどこかへ消えてしまっていた。
人の流れから外れると、セクイドは荷をドサッと下に置き、イーツェンをしげしげと見た。イーツェンはきまりが悪くなって、少し目を伏せる。
「すまない。手間をかけてここまで来てもらったが──」
「いい。どうせアガインに用がある。あの男は、かかえこんでいるアンセラの兵を離さん」
うんざりした様子でつぶやいて、目の上におちてくる黒髪を指の背で払った。くだけた口調がやたらと板についている。
その言葉を聞いて、イーツェンはアンセラに──あるいはセクイドに、シゼを通して示した取引の条件を思い出した。
「そうだ。ジノンに紹介状を書くと言ったのに──」
「気にするな」
セクイドは右手を振って、ニヤリと唇の片はじを上げた。少しクセの悪い犬歯がのぞく。
「アンセラはいずれ解放される。いや我らが解放する。次の春には衆を集めて北上するからな」
「だが──」
「人の話を聞け」
鼻先に指をつきつけられて、イーツェンは口をつぐんだ。
「あのな。サンジャからことづけられた話だぞ。あれは今、用があって来れないからな」
「サンジャが、何て?」
「お前は、どうしてユクィルスがリグを攻めたか知っているか?」
「‥‥硝石のためだろう?」
予期しない問いをぶつけられて、イーツェンは眉をひそめた。リグは──中に住む人々の暮らしはともかく──対外的には貧しい国であった。人々は自給すること、そしてそれに足ることをよく知っていたので、イーツェンにとって「貧しい」という思いはなかったが。
だが全般にリグの生活は質素であり、自分の手で自分の暮らしをつむぐことが中心で、他国の贅沢品を買ったりすることは滅多になかった。硝石はそれなりの値で取引されたが、リグは年間の採取量をきびしく制限しており、そこから得られる富は微々たるものであった。
ユクィルスがそんな山あいの小国にまで攻め入ったのは、第一にその硝石の採掘権を求めてだとイーツェンは思っていた。実際、リグと「同盟」を結んだ時の条件の一つが、硝石の採掘権利をユクィルスに委譲することだったのだ。
が、その返事をきいたセクイドは舌打ちした。
「やっぱり考えてなかったな」
「何を?」
「シレイギオの大足に抜ける道だよ」
「‥‥あの道は」
イーツェンは今度こそとまどいを隠せず、セクイドを見つめた。
リグから山を抜ける道はいくつかあるが、もっとも楽な道はカル=ザラの街道だ。それはアンセラの近くを通り、ユクィルスの王道へと通じた交易路でもあった。この春に、リグの民は古い呪法をおこしてこの道をふさいでしまったが。
残る道のほとんどが、けわしく狭い山道だ。そのうちの一つがリグから北東へのび、「塔」と呼ばれる嶺の東側を回るように下って大湿地帯へとつづいていることは、勿論イーツェンも知っていた。アンセラやユクィルスとは嶺をはさんで逆側になるその土地は、湿っぽく、低い潅木とじめついた沼が点在する荒野であった。その湿地帯を「シレイギオの大足」と言う。天を支える巨人が踏んだ足跡から、水がわき出していると言うのである。
「湿地帯につながるだけだ。旅する者はとても少ない‥‥」
「だが塔の峰をこえられる。カシャの河を下れば、ゼルニエレードの港町まで出られるだろ」
左の手をひろげ、手のひらをまるで地図のように指で示しながら、セクイドは早口にたたみかけた。イーツェンは眉をよせてセクイドの手を凝視する。
湿地帯に、国と呼べる国はない。あえて言うならば湿地のあちこちに住む人々がいるのだが、多くが移動式の暮らしをしていることもあって、一つのまとまった勢力ではなかった。
その湿地の水を集めるように、カシャの河が東へ流れ出していく。やがて大河となるこの川をたどれば、ゼルニエレードという国の領土へ入り、いずれ湾に面した港町へと出る──地図をたどって一口に言えばそうなるが、カシャ河のあちこちは浅く、特に川上には船が通れないほど流れの早い急湍がいくつもあって、ところどころ水は渦を巻き、旅の道として使うには危険すぎた。
つまるところ、山の北東側はリグにとって遠い地であり、ほぼ未開にひとしい場所であったのだ。イーツェンとてゼルニエレードの国の名は知っていても、それはただ遠い場所の名を地図で見る以上のものではなかった。湿地の者が魚や染料に使う特殊な泥を売り、リグの者が金属や木でつくった道具を売ったりすることはあるようだったが、それも交易と言えるほどのやりとりではない。
イーツェンは困惑を深めた顔でセクイドを見た。
「話はそうたやすくない。カシャの河の急湍は‥‥」
「ユクィルスは治水がうまいそうでな。と言うか、治水のうまい男がいる。堰をつくったり埋め立てたりして川筋をととのえ、大勢の兵を船で一気に運ぶことを得意にしているんだとか。ルルーシュの話ではな、そいつはリグが落ちた直後から、リグに行きっぱなしだったって話だ。カシャの河さえうまくこなせば、ゼルニエレードまで一度に荷も人も運べるだろ?」
「‥‥‥」
「ユクィルスがリグを攻めたのは、硝石なんぞが狙いじゃない」
苛々した様子で、セクイドは足元の石を蹴った。
「ユクィルスは塔の峰々の向こう側へ人をおくりこみ、ゼルニエレードとの商業路をつくるつもりだったんだよ。リグはその足がかりだ。サンジャが、アンセラ落城の時に工兵指令官が話しているのを聞いたんだ。いずれリグの向こう側の道もカル=ザラの道と同じようにひろげる、とな」
話の本筋よりも、セクイドの言葉の中に意外な一言を聞き取ったイーツェンは目をみはった。
「サンジャが‥‥アンセラが陥ちた時、ユクィルス側の傭兵だったということか?」
「そうだよ。シゼに聞いてないのか?」
「シゼに?」
イーツェンがそう反問した瞬間、セクイドが大きくたじろいで、顔をしかめた。ぱっと宙に右手を舞わせる。
「いい、いい。忘れろ」
気まずそうに目をそらそうとしている少年を見つめ、イーツェンは声を低めた。
「シゼもアンセラにいたんだな? サンジャと、一緒に」
それならシゼとサンジャが、城で知り合いの様子だったのもわかる。
「‥‥知らないとは思わなかったんだよ」
ふてくされたように口をとがらせるセクイドの表情に、イーツェンはふっと微笑をうかべた。内心は驚いていたが、あまり気にしていないかのように話を変えてやる。
「だが、そういう道の話はリグ本国からとどいてないよ」
「手紙だろ。お前に言ったって仕方ないし、俺なら、人に心配させるようなことは書かないな。川の工事に奴隷がかきあつめられてる、とかさ。ユクィルスが口止めしてたかもしれないぜ」
「‥‥‥」
それは一理ある。当たりさわりのない話題しか、手紙にはなかった。
イーツェンは眉をしかめる。たしかに考えてみれば、ユクィルスはリグのことを特別に扱っていたふしがある。リグの山中に攻めこむほど硝石洞に価値があるかどうかも微妙だし、人質であるイーツェンを本城に住まわせ、王族とともに食卓につくことを許したことも、他国とはちがった扱いをしていたように思えた。
セクイドの言うとおり、もし、川を通ってゼルニエレードの港まで荷を運べれば、新たな交易路を手に入れることができる。ゼルニエレードの港町は深く切れ込んだ内海に面し、きわめて繁栄した港だという話だ。
──あるいは、とイーツェンは背すじを冷やした。
運ぶのは荷とはかぎらない。ユクィルスは、ゼルニエレードへ兵をおくりこむつもりだったのだろうか。リグを足がかりにして。
少し考え込んでいたが、イーツェンはセクイドをまっすぐに見た。
「だが、川の道を作っていたとして、もう何の意味もないだろう。カル=ザラの街道がなくなった今、ユクィルスはもう──」
「馬鹿か、お前は!」
セクイドが大声でののしった瞬間、前庭の人間が動きをとめて一斉に自分たちを見た気がして、イーツェンは真っ赤になった。何の騒動でもないとわかると人々の視線は彼らから外れ、中断された動きがぎこちなく再開されていく。
セクイドをにらんでから、イーツェンは小声になった。相手に釣られて口調がくだけたものになる。
「何の話だよ」
「だからさ」
悪びれることもなく大仰にため息をついてみせて、セクイドは腕組みした。
「リグからゼルニエレードまでの道があるなら、ゼルニエレードからもリグに行けるってことだろう」
「‥‥それが?」
「お前が東回りでリグに戻る方法もあるってことだよ!」
イーツェンはぽかんとしてセクイドを見つめた。ユクィルスからゼルニエレードに通じる道はないし、まったく知らないと言っていい国だ。セクイドはイーツェンの反応の鈍さに一人で苛々している様子で、早口につづけた。
「ユクィルスの川港から船で下って、ルスタの港町に出るだろ。そこから海路でゼルニエレードに行けるだろうが」
「‥‥‥」
海を渡れ、と言われているのだと理解するまでしばらくかかった。異国の港をいくつかつなぐようなその行き方は、イーツェンの考えの外だった。イーツェンは聞こえた言葉が耳の中で鳴りひびくのをくり返し感じながら、ただセクイドを凝視していた。
やがて、世界の音がゆっくりと戻ってくる。自分を見つめ返すセクイドの黒い目に視線をからませたまま、イーツェンはかすれた声で囁いた。
「川の道ができてるとは‥‥限らない、し、山が‥‥」
「リグの東側の山道の方が、こっちから行くよりはマシだろ? 山から湿地までは獣に乗って降りられるって聞いたぞ。お前らの使う牛で──」
「ハジュカ」
分厚い毛皮に頑強なひづめと、忍耐づよい性質を持った山の牛の名を、イーツェンはほとんど無意識に呟いた。
「そう、それだ。それに乗れば歩くよりは楽だろ。とにかく、サンジャはそっち側のことを考えてみろって言ってた。いいな? わかったな?」
セクイドに念押しされた回数だけ、イーツェンはうなずいた。あまりにも実態のわからないことが多いし、しばらく考えなければならないが、サンジャやセクイドがこの話をイーツェンにつたえようとしてくれたことがうれしかった。
セクイドが妙なものを見るように顔をしかめた。
「何で笑ってる」
「心配してくれて、ありがとう」
「俺じゃないぞ、サンジャだ、サンジャ」
黒髪に指をさしこんでばりばりとかき、セクイドは口のはじを歪める。イーツェンはわざとらしくニッコリしてみせてから、表情を引きしめ、真摯な気持ちをこめて言った。
「助けてくれて、ありがとう」
「‥‥んー」
ごにょっと口の中で呟いて、セクイドは腰帯に右の親指をひっかけ、少し肩をいからせた。
「その‥‥何だ。悪かったよ」
「何が?」
「城で、お前を殴って」
あまり「悪い」と思ってなさそうな声ではあったが、それが見せかけなのもわかる。セクイドの目は真剣で、イーツェンの反応を心配そうにうかがっていた。イーツェンはまばたきして、首を振った。
「気にしてないよ。気持ちはわかる。‥‥リグがアンセラを助けられなかったのは、本当のことだ。すまなかった」
「するしかないことをやった、そうだろう。リグも、アンセラも。お前も。サンジャだってそうだ。みんな、そうするしかなかったんだよ」
イーツェンはシゼのことを思い浮かべて、うなずいた。枷を外し、枷をかけた、あの指。彼らはほかにどうしようもなかった。
セクイドが声をひそめるようにしてたずねた。
「お前は自分がどうなるかわかってて、ユクィルスにきたんだろ?」
また城内で銅鑼がひびいて、二人は同時にびくりとしたが、それは残る時を知らせる合図のようだった。人の流れに変化がないことをたしかめてから、イーツェンはセクイドへうなずいてみせる。セクイドは溜息をついた。
「俺はさ‥‥あの後、サンジャに怒られちまったよ。何もわかってないって。お前は馬鹿か、って言われて、あの日の夕飯抜かれた。あの野郎」
手慣れた様子で悪態をつく口調は、言葉づらほどには憎々しくなく、イーツェンは思わず微笑をさそわれていた。それにしても、サンジャとセクイドの間柄がよくわからない。どうしてユクィルスの傭兵でアンセラ攻めにくわわった男が、セクイドをまるで守るようにし、今また付き従っているのだろう。
気安い雰囲気にのって、たずねてみた。
「サンジャは、どうして君と一緒に?」
「俺にもよくわからん。暇つぶしだとか言ってるけどな」
セクイドは肩をすくめる。
「‥‥アンセラの戦いの時、山門の前で追手に追いつかれて。その中にあいつがいてな。斬りかかったけどボコボコにされた。あいつ、すごく強いんだ」
「だろうな‥‥」
「俺をひっつかまえて、最後に笑いたければ今は生きろと言った。くやしかったら、何があっても生きのびてみろ、って。それから俺をもう一発殴って中隊長のところにつれてくと、手数料もらって、奴隷商人に売りやがった。俺を!」
話自体はひどく悲壮だったし、セクイドはその時に自分が仕えていた相手を失ったはずだが、セクイドが歯がみする様子はそれほど深刻そうではなかった。きっと、多くの煩悶があったすえ、今は彼の心の中におさまりを得たことなのだろう。
とは言え、どう反応したらいいかわからないイーツェンへ、セクイドはしかめっつらを向ける。
「そんで、奴隷のせりに現れて、自分で俺を買いやがった。俺を! 物みたいに売り買いしたんだぞ、あいつは。無茶苦茶だ」
セクイドは今はもう鎖のかかっていない首すじをなで、遠慮のない目でイーツェンの首を見た。
「俺はサンジャに解放してもらったけどな。お前のそれ、そのへんの鍛冶じゃ外してくれないぞ」
「知ってる」
どうしてか、セクイドに不躾に見られても、イーツェンはあまり圧迫感をおぼえなかった。視線のせいで首の輪の存在を意識こそしたが、見下されているような感じはしない。態度こそきわめて高飛車ながら、セクイドの物言いやたたずまいにはすがすがしい清涼さがあって、イーツェンに不快感をもたらさなかった。
それは少年が何かを──イーツェンと同じような何かを、のりこえてここまできたからかもしれない。どちらも互いに、そしてごく自然に、相手をみとめていた。
セクイドは少しの間、イーツェンをそのまま眺めていた。やがてふいに一歩下がり、腰を深くかがめ、少年は地につきそうなほど額を垂れた。
「幸運を祈る。達者で行け」
イーツェンの胸にこみ上げる熱さがあった。ほんの一瞬、出会い、そしてまた別れていく。
心に揺れるものをこらえて、イーツェンは静かに囁いた。
「ありがとう」
「それは俺の言葉でもある、リグのイーツェン」
少年は頭を下げたままつづけた。
「リグは街道を封じる前、アンセラの駐屯地を襲撃して、捕虜となっていたアンセラの者を保護したと聞いた。隣国の者として心からの礼を述べ、かつての非礼を腹の底からわびる」
低く張りのある声で、セクイドは真摯に言い切った。イーツェンはうなずき、手をのばして彼の肩にふれる。
「その言葉を受けとった、アンセラのセクイド。アンセラの先行きに光があることを祈る」
セクイドはいきおいよく体をあげ、イーツェンへ向けてにっと白い歯を見せた。
「人のことを祈る余裕がお前にあるか?」
イーツェンも思わず笑みを返し、しばらく二人は、互いをからかうような他愛もない会話をつづけながら、周囲をつつむ喧騒の中で笑いあっていた。