扉が叩きつけるような勢いで開けられたのは、まだ朝もやが残る時間だった。
 早々と起き出していたイーツェンはもう着替えをすませ、水盤に浸した布で顔を洗っていたが、扉を向いて眉をあげた。
 風を巻くような勢いでつかつかと入ってきたのは、黒髪の少年だった。旅のマントをはおってくるぶしまで包む革の靴をはき、細い腰に幅の広い布帯をしめて、背中から長剣を吊っている。顔立ちはややきつめで目尻が切れ上がっていて、黒髪を首のうしろで結んでおり、すらりとした背丈はイーツェンが覚えているより高いような気がした。
 少年は、まなじりをさらに険しくしてイーツェンをにらむ。空気が鳴るようなするどさで、ぴしりと指をつきつけた。
「立ち合うか?」
 イーツェンはまばたきする。
 少年のうしろに人影がいくつか現れた。ほとんど戸口の上につかえそうな大柄な男の姿を、イーツェンは城の訓練場で見たことがある。シゼは彼を「サンジャ」と呼んでいた。少年があの時の薄汚れた格好からはうってかわってきちんとした服装なのに対し、サンジャはあいかわらずで、袖のないシャツをまとった上によれよれの革の胴衣を着込んで、無精髭をはやしていた。
 サンジャの横にはアガインがいた。腕組みして様子を眺めてはいるが、眉間に皴をよせている。さらにその後ろには、シゼが苦虫を噛みつぶしたような顔で立っていた。そんな険悪な雰囲気の中でサンジャが一人でにやにやしている。
 イーツェンはちらりと面々に目をはしらせてから、少年へ顔を戻した。
「久しぶり、セクイド」
 名を呼ぶのははじめてだった。
 ユクィルスの城で二度、まみえた。一度目は訓練場で、二度目はそのそばの小屋で。訓練場では憎悪をむきだしにした目でにらみつけられ、小屋では命を狙って襲われた。その時、少年と木剣で立ち合ったイーツェンは、いやというほどの打撃を受けている。
 その数日後、セクイドはアンセラの一派とともにユクィルスの城から逃亡した。彼について何か知らないかと、イーツェンはジノンの前でオゼルクに詰問を受けたのだった。それがもう遠い記憶のような気がする。オゼルクに髪をつかまれ、ジノンの前にひざまずかされたことも、思い出すたびに胸苦しくなっていたが、今ではもう平静な気持ちで受けとめることができた。
 さまざまな苦痛の記憶にもかかわらず、少年を見ると、イーツェンは口元に笑みが浮かぶのを感じた。あの時に見た、みすぼらしい奴隷の姿はどこにもない。質素だが清潔な服に身をつつんだセクイドは、頭を毅然と上げて、もはや誰にも従わぬと言った様子だった。
 名を呼ばれてセクイドは目をほそめたが、尊称を要求することもなくうなずいた。頭をそらせる。声に荒々しいものがにじんでいた。
「お前はいつでも立ち合うと言っただろう、イーツェン」
「たしかに言ったけど」
 イーツェンはかるく右手を持ち上げ、首の輪にふれた。セクイドは燃えるような目でイーツェンをにらんでいる。
 セクイドの怒りの顔を見上げ、イーツェンは溜息を殺した。まだうらみは残っているのだろうか。アンセラを救おうとしなかったリグへの、少年のうらみと怒りはするどいものだった。ユクィルスの城内で、自分の身もかえりみず、イーツェンを殺そうと襲いかかったほどだ。もし自由の身になった今もまだあの怒りが鮮やかだと言うならば、セクイドがイーツェンの提供しようとした取引にのってくるとは思えなかった。
 ──仕方がない。
「今の私はアガインの客人だ、セクイド」
 そう静かに言っている間に、シゼが人のあいだを抜けてやってきた。守るようにイーツェンのそばに立ったシゼの顔はひどく厳しい。彼の表情とセクイドのはげしい目つきを見て、イーツェンはどうしてシゼが今朝までかかったのか、わかったような気がした。イーツェンの味方につくよう説こうとして、時間がもつれこんだにちがいなかった。
 アンセラの人間を巻き込めるのではないかと考えついたのはイーツェンであり、セクイドとサンジャが森の中のルルーシュの駐屯地にいることをイーツェンに教えたのは、シゼである。
 シゼの話によればセクイドは、アンセラ一派の遊撃隊の、副官のような位置にいるということだった。この月の末に行われるルルーシュの指導者たちとアンセラの一派との会合にあわせて、彼らはアガインの駐屯地を訪れていたのだった。
 アガインが一つ咳払いをした。
「セクイド。その通り、リグの王子は我らが客だ」
「こんな人間をルルーシュが担ぎ出す気だと言うのは、本当か? これは、ユクィルスの者に体をゆるして暮らしていた男だぞ」
 ぴしりとセクイドが言い切る。イーツェンは喉が強くこわばるのを感じたが、二人から目をそらさぬまま床の杖をさぐった。シゼがすばやくしゃがみこんで杖を拾い、イーツェンはシゼと杖の助けを借りて立ち上がる。朝はどうにも体がこわばって仕方なかった。
 イーツェンの左腕を支えたまま、シゼが重々しく口をひらく。
「セクイド。あなたはイーツェンの慈悲がなければ、ユクィルスの城で殺されていた身だ。あまり礼儀知らずな口はきかないで頂きたい」
 おどろいて、イーツェンはシゼの顔を見た。口調こそ静かだが、シゼの言葉は威圧的にひびいた。案の定、頬に朱をはしらせたセクイドは背中に吊るした剣の柄へ手をのばし、サンジャが後ろから素早く肘をつかんだ。
「離せ!」
 それを体ごと乱暴にもぎはなし、セクイドは荒々しい目でイーツェンをにらんでからアガインへ向き直った。
「リグの者などに力を借りるつもりはない、アガイン。ここで出会えたのも神々の意志だ、俺は俺の決着をつける」
 セクイドを見るアガインの目にはひややかな怒りがあった。
「彼の身柄は私が預かっている、セクイド」
「ならば参事会にかけさせてもらおう。この者をルルーシュの "旗" とすることが、果たしてルルーシュの名誉のためになるかどうか」
 するどい声で叫ぶように言って、セクイドはアガインへと指を向けた。この半年、セクイドはアンセラの分派を率い、ルルーシュと協力しながらユクィルスと戦っていたと言う。少年ぶりはそのままながら、アガインの圧力に負けない風格がすらりとした体にそなわっていた。
 にらみあう二人を見やり、小さな溜息をついて、イーツェンは右手の杖でコツンと床を叩く。二人がイーツェンへ向くと、なるべくおだやかに言った。
「私から一つ、提案を申し上げても?」
「何だ」
 アガインより先にセクイドがたずねる。イーツェンは少年の黒い目を見つめてうなずき、アガインをまっすぐ見た。
「私は自分の身柄を買い取りたい、アガイン。あなたがたが参事会で私のことについて話すと言うなら、私の提案も参事会へかけていただきたい」
 騒ぎを聞きつけたのだろう、廊下からざわついた人の気配が流れてくる。アガインは無表情に近い顔で戸口から室内へ歩み入ると、うしろから現れたリッシュに一言二言何か言い、リッシュを外へ残して扉をしめた。サンジャは扉の前から脇に寄って、壁にもたれて腕組みする。話に口をはさむ気はなさそうだった。
 アガインが向き直った瞬間、その背後から、サンジャがイーツェンへ向けて片目をつむった。イーツェンはまばたきしたが、サンジャの表情を読む余裕はなく、すでにアガインと向き合っていた。
 アガインは微笑のようなものをうかべていたが、その微笑には温度がなく、イーツェンは体の内側が圧迫されるような息苦しさをこらえて背をのばした。
「イーツェン。一体何で支払うと?」
 何一つ持ってないくせに、と揶揄するようなひびきが聞こえる。その通りだ、とイーツェンは思った。何も価値のある身ではない。だが、そんな人間を利用しようとしているのは誰だ? イーツェンに利用価値があると踏んでいるのはアガイン本人だ。イーツェンに必要なのは、その利用価値を崩すことだった。
 イーツェンは背すじをのばし、ゆっくりと息を吸う。左腕をつかんで支えていた手は離れていたが、見ずともすぐそばにシゼが立っているのを感じた。アガインのするどい目で射ぬかれるとまるで心が痺れたようになるが、シゼの存在が、シゼが支えてくれるという確信が、イーツェンの心をまっすぐにさだめる。戦わねばならない。自分のために、シゼのために。
 心を落ちつけて、平坦な声を出した。
「情報だ」
「何の」
「誰がユクィルスの王を殺したか」
 そう言って、イーツェンは二人の返事を待たずに壁際へ歩みより、長櫃に腰をおろした。あえてゆっくりと時間を取りながら杖をそばに置き、ぱんと手を打ちあわせる。挑戦的にアガインを見上げた。
「アガイン。私の証言を使って、ローギスをユクィルスの王座から追い落とせば良い」
「‥‥ローギスが、王を殺したと?」
「ローギスは私の口から真実が洩れることを恐れて、私を王の葬儀の供物として殺そうとした。私がそう証言すれば、信じる者がいるだろう」
 窓辺に立ったままのシゼがじっと自分を見ているのを感じる。アガインが何か言いかけるのを、右手を上げて押しとどめ、イーツェンはつづけた。
「ユクィルスは海の向こうから渡ってきた民だ。ユクィルスの名でこの地を支配しているとは言え、地方を治めているのは彼らより古い土着の地方領主が多い。かつてはルルーシュを崇めていた者もいる。‥‥ルルーシュは彼らに言えばいい。父殺し、王殺し、そして弟にその罪をかぶせた男を王としていただくのか、と。そしてルルーシュの神の名において審判を要求すれば、彼らは揺らぐ。特に今、ジノンとローギスによって国は二つに割れている。どちらにつくべきか迷っている者も多いはずだ」
 アガインは用心深く表情を消してイーツェンを見ていたが、低くこたえた。
「我々がローギスを弾劾したとして、多くの者はルルーシュではなくジノンの側へ流れるだけだ」
「ルルーシュはジノンを支持すればいい」
 イーツェンは平然とした調子で言った。
 馬鹿な、と一笑されるかと思ったが、アガインの目に理解の色がうごいた。通じたな、とイーツェンは思う。ローギスとジノンを対立させ、ユクィルスを二つに割る。ルルーシュがこの戦いを勝つ気なら、一番現実的な選択肢だ。
 問題は、二人の争いの中でルルーシュがいかに自分の存在感を示すかということだが、イーツェンの証言、そしてローギスへの弾劾があればそれも可能だ。神の名と正義の名。その後ろ盾をつかむ機会を、ジノンに与えればいい。一度ジノンがルルーシュの存在を認めれば、ルルーシュの名はもう一度よみがえる。
 貫くような灰色の目で見据えられながら、イーツェンはアガインを見つめ返していた。
 低く、アガインが言った。
「ルルーシュの法廷で宣誓するか。ローギスが毒殺者だと」
「する」
 イーツェンはうなずく。自分の言葉に身の内が凍りつくようだったが、表情には出さなかった。
「だが、ローギスもまた毒を飲んでいるぞ」
「ローギスは、父と弟の両方を殺す気だった」
 無表情に声をおさえ、イーツェンは言葉をひとつひとつ喉から押し出していく。
「そして、その罪をジノンに着せるつもりだった。だがオゼルクは兄が何をしようとしているか知っていて、自分の酒と兄の酒をすり替えた。ローギスが飲んだ毒は、オゼルクを殺すために自分がはかったものだ」
「見てきたようなことを言うな?」
「ローギスは17の時にオゼルクを殺そうとした。水の中に頭をつけて、息がとまるまでそうしていた。それ以来、オゼルクはずっと兄について用心していた。ユクィルスの宮中の人間なら知っている」
「証拠は?」
「ローギスが帯の間に小瓶を隠しているのを見た」
 ユクィルスの城内で毒殺についての裁きは行われなかった。オゼルクが破獄して姿を消したことで、罪はほとんど自動的に彼にかぶせられた。誰が毒殺者か、今となってはローギスとジノンしか語れる者はいない筈だが、その双方が、まるで示し合わせたように口をつぐんでいる。そのことは人の噂を呼んでいるにちがいなかった。
 真実である必要はない。ただ一瞬、物事を動かすための楔になれば。
 アガインはじっとイーツェンを見つめている。イーツェンの中に何があるのか、引きずり出そうと言うように。イーツェンは喉元に心臓がせりあがってくるような圧迫感を抑え込み、一度唾を飲みこんで、低い声で言った。
「この宣誓を、私の代価とする。‥‥これをルルーシュとアンセラの参事会で検討するよう要求する。承知するか?」
「承知」
 アガインが答えるより早く、セクイドがうなずいた。よし、とイーツェンは思う。これでセクイドが証人となる。アガインはもう、イーツェンの提案をこのまま無視して葬ることは出来ない。
 セクイドの了承の一言は、アガインの選択肢を限定した。この混乱をこのまま参事会へ持ち込むか、それがいやならイーツェンとの個別交渉で参事会の前に問題を解決するか。
 アガインは目をほそめ、ちらっとセクイドを見てからイーツェンへ視線を戻した。
「それで自分の身柄が買えると?」
「アガイン。あなたがたが私を "旗" として使いたくとも、私はあなたに協力しない。言ったはずだ、あなたに私の名を使わせる気はない。参事会でもそのことは言うよ」
 ルルーシュの参事会でのアガインの立場は、決して安泰なものではない。イーツェンはそれをシゼから聞いていた。嫉妬、権力欲、駆け引き──ルルーシュの指導者たちとて、人間の集まりだ。同じ理想を追いながら、自分たちの立場を秤にかけ、他人の上に立とうとする。
 アガインは武闘派として現実的な力を持ち、人望もあるが、それだけに敵意も向けられることが多かった。イーツェンとの対立を、アガインは参事会にもつれこませたくはないだろう。そこはアガインの弱みでもあった。
 イーツェンは昂然としてアガインをにらむように正面から見た。
「私を人前に出さないよう永遠にとじこめておくだけの覚悟はあるか? 私の名を使いたいならその覚悟が必要だ、アガイン。覚悟がないなら、私はいずれ必ずあなたの妨害者となって、あなたの足を引っ張る」
 静かな声でその言葉を言い切るのに、全身の力をかき集めねばならなかった。長櫃に座ったのは、アガインとセクイドの視線を動かして大声を出さずに自分の話を聞かせるためでもあったが、自分の気力と体力に余裕を持たせるためでもあった。
「解放されたら、その後で俺と立ち合うか、イーツェン?」
 セクイドが腰に手をあて、皮肉っぽく言った。アガインは無言でイーツェンを見下ろしている。イーツェンはかすかに笑って、横に立てかけた杖を握ってみせた。
「どうしてもと言うなら、これで相手をしようか。あまりおもしろくはないと思うけどね」
「だがルルーシュがジノンを支持したとして、アンセラはどうする? アンセラの者にまでユクィルスのジノンを支持しろと言う気か、お前は?」
「ローギスとジノンの両方を相手にできるだけの力が今のアンセラにあるか、セクイド? 選ぶならジノンだ。ローギスは取引には応じない。ジノンとうまく取引すれば、アンセラを自治領として再興できる可能性もある」
 イーツェンはおだやかに言おうとしたが、それを聞いたセクイドの目にするどい、獰猛なほどの光がはしった。それが怒りなのか、復讐に燃える憎しみなのか、イーツェンにはよくわからない。
 少年は癇性のひびきのある笑い声をあげ、アガインの前に押し入るように歩み入ると、イーツェンの鼻先へ身をかがめた。
「自治領か。お前はいいな。お前の国リグは我らアンセラを切り捨て、のがれた。さぞや気分がいいだろう。だから、ユクィルスに頭をさげろなどという呑気なことが言える!」
「アンセラの望みは領土を取り戻すことだろう。ルルーシュとともに戦うだけでなく、国を再建する道を探せ、セクイド」
「憶病者!」
 セクイドの手がのびてイーツェンの首もとをつかみ、左手で襟をねじりあげた。息がつまったがイーツェンは反射的な恐怖を押しこめ、こわばりそうになる体をおちつかせようと必死に鼓動の数を数えながら、セクイドをにらんだ。
「ならば最後の一人まで戦え、セクイド! お前の友や仲間が皆、死ぬまで!」
「うまいことを言って、お前はジノンに味方したいだけじゃないのか? ユクィルスの王族どもにどうやって骨抜きにされた、イーツェン──」
「もういい!」
 そう怒鳴ったのはアガインで、腹の底からひびくような重い怒号に二人はびくりと動きをとめた。のろのろと、イーツェンはセクイドの指を、首と首の輪から引きはがす。セクイドは気まずそうに、だが攻撃的な眸でアガインをにらんで、吐き捨てた。
「提案は提案だ、参事会には掛けなければならないだろう。だが俺は、この提案には反対だ」
「わかっている」
 不機嫌そうにアガインは切り捨て、後ろに立ったままのシゼへ、肩ごしの鋭いまなざしを向けた。
「どうして助けに行かない? 私を殴ろうとしたあの勢いはどうした、シゼ」
 まるで八つ当たりのような物言いに、イーツェンはまばたきした。シゼは肩をすくめる。
「イーツェンは、対応できていますよ」
「‥‥‥」
 シゼを見つめていたが、アガインは一歩扉の方へ動いて、シゼとイーツェン、それにセクイドの顔を順にながめた。最後にサンジャの顔も。サンジャは腕組みしたまま扉のそばに寄りかかって、おもしろそうに成り行きを見ていたが、アガインの視線が向くと口元を引き締めて真面目な顔をつくった。
 じっくりと眺めてから、沈黙の後、アガインはぼそっと呟いた。
「はかったか」
「何が?」
 いかにも心当たりがなさそうにセクイドが問い返し、イーツェンもせいぜい白々しい顔をとりつくろった。杖を手にして、立ち上がる。アガインへ向き直ってたずねた。
「私は参事会に出席できるのかな?」
「その背中で行く気か」
「あなたに飼い殺されるよりは、馬の上で死んだ方がマシだね。‥‥私が本気でないと思うなら、ためせばいい、アガイン」
 わざと挑発的な口をききながら、自分よりわずかに高いアガインの顔を見つめ、イーツェンはこわばった頬に笑みをうかべた。ためしてみろ、と思う。そうすればわかる。
「どうせ旗として使われるなら、ルルーシュの幹部どのにご挨拶もしたいものだし。ルルーシュの教えにもあっただろう、人と人の絆を結ぶには、声とまなざしをもってすべし、と」
 アガインの顎のあたりがふっと硬くなったのが見えた。
「考えておく。ほかに何かあるか?」
 鉄のようなひびきのアガインの声に、イーツェンは首を振った。アガインはセクイドに合図をして、先に部屋を出るよう示す。彼らが残って何か示し合わさないための用心だろう。セクイドはおとなしく部屋を出、サンジャがそれにつづき、アガインは戸口で一瞬立ちどまってイーツェンを振り向いた。
「私を敵に回したいか、イーツェン?」
「いや。私を敵にしようとしているのはあなただ、アガイン。私はあなたの味方でありたいが、自分を捨ててと言うわけではない」
 アガインは目をほそめ、シゼを見た。
「それでいいのか、シゼ」
「私はイーツェンの立つ側に立つ。それがどこであれ」
 静かに、シゼは答えた。アガインの口元にチラッと苦笑がかすめると、彼は部屋を出て後ろ手に扉をしめた。
 ふいに室内に静寂がおちたようで、イーツェンはしばらく、茫然とした心持ちでとじた扉を見つめていたが、シゼが歩み寄ってくるのに気付いて我に返った。
「大丈夫ですか、イーツェン?」
「んー‥‥」
 まだ少しぼんやりとした頭のままシゼを見て、イーツェンはたよりない笑みをうかべる。
「どうだろう。わからない。うまくいったのかなぁ?」
「さあ」
 シゼは真面目な顔で小首をかしげ、イーツェンを長櫃にまた座らせた。イーツェンはその腕をつかんで自分の横に座らせると、耳元に口をよせて小さく囁いた。何となくまだはっきりと言うのははばかられるような気がする。
「セクイドのあれ、芝居か?」
 本当は、アガインもまじえてもっと冷静な話し合いを行う腹づもりだった。朝っぱらからのセクイドの乱入で面くらったのは、誰よりイーツェン本人である。
 シゼはうなずいた。
「とにかくひたすらアガインを驚かせないと、と言っていまして」
 それは成功したようだったが、それにしても随分ときついことまで言っていた。自分をののしったセクイドの剣幕を思い出して、イーツェンは息をつく。
「‥‥私が驚いた」
「私も、少々」
 その答えに微笑して、イーツェンはシゼの肩に頭をのせた。金属の輪がぐいと首の内側にくいこむ感触にも、いつのまにか慣れてしまった。
 シゼの腕がそっとイーツェンの背へ回り、傷に圧迫を与えないよう注意しながら腰を抱く。今朝、馬で森を抜けてきたばかりなのだろう、シゼの服の肩には朝露の染みがあった。
「うまくいかなかったら、どうしようかなあ」
「一度であきらめては駄目ですよ」
「うん。‥‥少なくとも時間稼ぎにはなるだろう」
 イーツェンはそう呟いて、ふと顔を上げた。無精ひげがちらばったシゼの頬をなでる。
「夕べ、眠ったか?」
「見張りに立ってましたからね」
 森で野営した、その見張りで夜をつぶしたと言うことだろう。間近にうかがうと目元にかすかな黒ずみが見えて、あまり眠っていない様子がわかった。イーツェンは立ち上がると、シゼの腕を引く。
「休んでいろ。できれば、少し眠れ。朝食は私が取ってくる」
「イーツェン──」
「大丈夫。ギスフォールが手伝ってくれる」
 少しあわてた様子のシゼを押しとどめて、イーツェンは扉へ向かう。下の厨房へ行って戻る程度ならば杖がなくとも平気だろうと楽観的に決めこんで扉をあけると、にらんだ通り、ギスフォールが廊下の壁によりかかって立っていた。
 苦虫を噛みつぶしたような顔でイーツェンを見る。
「朝から皆さん、お元気ですな」
「うん」
 機嫌よくこたえて、イーツェンは部屋の中で困りきっているシゼへ笑みを向け、扉をしめた。


 朝食を取り、シゼに眠るよう言いおいて、イーツェンは杖を手に中庭へ出た。歩く練習を口実にして、少し頭をまとめるためでもある。イーツェンがそばで考えこんでいては、シゼも眠れまい。
 ギスフォールは木の影に座りこんであぐらに頬杖をついている。イーツェンは洗濯中の雑仕女と他愛もない会話をしながら中庭を行き来したり、疲れるとギスフォールと同じように石の上に座って木陰の涼しさを楽しんだりしていた。
 日が高くなるにつれ、歩くのが面倒になって座る時間が長くなる。故郷であるリグの夏はすごしやすいが、陽射しはするどいもので、短い夏の盛りともなると陽が天頂にある時の人通りはなくなった。大人の目を盗んで外で遊んだ子供が時に目を回して倒れては、頭から容赦なく川の水をあびせられるのだった。
 その夏にくらべて、ここの夏は空気は熱いが、やわらかい気がする。夏の光が木の間を透けて、重なりあった葉はいろいろな緑の濃淡を見せ、風がうごくたびに光と影が優雅にひるがえった。
 そろそろ戻るかな、と思いながら、イーツェンは足を前に投げ出して座り、靴に当たるまだらな陽を見ていた。考えをまとめようとして降りてきたはずが、結局何だか夏の空気の中を歩くことだけに気分がもっていかれてしまった。
 だが、色々な考えばかりがつまっていた頭はずいぶんと軽くなっていて、とにかく何があろうと来るものを受けとめなければならないということだけは、心にさだまっていた。
 ふいに、ギスフォールが低く呼んだ。
「イーツェン」
「‥‥‥」
 顔を上げ、イーツェンは井戸の向こうから歩いてくる人影を見た。アガインだ。灰色のローブの上に短いマントをまとい、襞をひるがえしながら鋭い足取りで歩いてくる姿を見て、イーツェンは立ち上がろうと杖に手をのばしたが、アガインが右手でそれを押しとどめる仕種をした。
 イーツェンの前へ立ち止まると、ギスフォールへ目をやって、かるく頭を下げる。
「すまないが」
「イーツェン?」
 許可を求めるかのようにギスフォールにたずねられ、イーツェンは驚いてまばたきしてから、うなずいた。
「うん。たのむ」
 その言葉を受けてギスフォールが立ち上がり、井戸の向こう側の、二人の声が聞こえない──そして同時に、二人の周囲が見渡せる場所へと腰をおろした。その斜め後ろにある小さな道具小屋の横にリッシュが立っていたが、彼らは目を合わせなかった。
 中庭はいつのまにか人払いされたのか、ほかに誰もいない。アガインはイチジクの根元にしゃがみこみ、イーツェンに左側へ腰をおろすと、立てた膝に肘をのせた。イーツェンは斜めにアガインの顔を見る。暗い部屋ではなく、こうして陽のもとで見るアガインの表情はいつもほどに鋭くはなく、少しばかり若く見えた。
 しばらくの間、葉擦れの音だけが揺れていたが、やがてアガインがたずねた。
「背中の具合は?」
「随分といい」
「そうか」
 小さくうなずいて、口元を笑みの形に曲げた。
「君は、話し合いを、子供の喧嘩の場にかえてしまったよ」
 イーツェンも苦笑した。
「すまない」
「あの騒ぎを参事会まで持ちこむ気か?」
「お望みなら」
「そこまでして名を使わせまいとする理由があるのか?」
 アガインの声はやわらかく響く。イーツェンはかたわらから長くのびた草を数本引き抜き、根を切って、指の間で葉をひねった。言質を与えられる問題ではなかった。
 沈黙がつづくとアガインは左で頬杖をつき、イーツェンの手元で折ったり結んだりされている草を眺め、目元をやわらげた。
「本当に宣誓できるのか」
「ええ」
「誓言が虚偽であるならば、君は二度と、リグの五柱神の赦しと慈悲を得ることはできないぞ」
「虚偽ではない」
 イーツェンはそっとそう答える。イーツェンが神々の名のもとで嘘をついても、シゼは許すと言った。彼にはそれだけで充分だった。
 アガインは肩をすくめた。
「ならば、簡易裁判を執り行う。ルディスを証人に立てるぞ」
「私もそれがいいと思っていた」
 イーツェンはうなずく。ルディスならば証人としてはうってつけだ。宣誓したイーツェンが本人であることも証明できるし、ユクィルスの王族である。
 しかも、注目を集めるのがきらいなたちではない。利用されているとは言え、自分が事態の中心になれるとなれば、それなりに張り切るにちがいなかった。ユクィルスの宮中に戻せば、こちらから仕向けるまでもなくさまざまな波紋をひろげてくれるだろう。
 手元で葉をくるりとねじり結び、イーツェンは小鳥の形につくった草結びを地面に置いた。子供の頃に遊んだきりだが、案外と手はそういうものを忘れないらしかった。
 話に続きがあるかと思ったが、アガインはしばらく黙っていた。イーツェンも口をとじて足元に揺れる木漏れ日の模様を見ている。
 やがて、アガインが前を向いたまま低い声で言った。
「一つ聞きたい、イーツェン。‥‥ユクィルスの地下牢で、囚人を殺したな」
「ええ」
 イーツェンは静かにうなずいたが、心臓が小さくすくんだように、一瞬全身がドキリとする。あの男の喉を裂いた時の生々しい手の感触、瞬間に手を押し返してきた弾力のことは、忘れようとしても忘れられるものではなかった。
 アガインが呟いた。彼はまだ前を向いていたが、そのまなざしが現実を見ているかどうかはわからなかった。
「何故だ?」
「‥‥たのまれたので。本人から」
「何と言っていた」
 イーツェンは牢の闇を見つめるように目をほそめ、あのしわがれた声をもう一度聞こうとした。牢での様々な記憶は、るつぼで溶かした金属のようにどろどろと入りまじり、イーツェンの奥深くで熱をもったままうずいている。まるで心をこまかく砕かれたようで、あの時のことをはっきりと思い出すのは今になっても難しかった。
 闇の底で聞いた声。濃密にたちのぼり、彼の息をつまらせる血の匂い。腐った肉の匂い。足の裏に粘りつく汚泥の感触。
 切れて腫れ上がった瞼の下から、自分を見ていた目──
「‥‥自分はもうもたないと。だから手を貸してくれと、言っていた」
「もたない?」
「拷問に、それ以上耐えられないと」
 悲鳴がいきなり耳元によみがえってきたようで、その言葉を口にしながらイーツェンはたじろいだ。心を麻痺させるようにして、ただ小さく小さく自分をちぢめて、イーツェンはあの日々をやりすごした。そうでなければ耐えることは出来なかった。
 遅れて感じる痛みは、すぎ去った時間の分だけ鮮やかに身を灼くように思える。
 針が刺すような肺に、イーツェンはゆっくりと息を吸いこんだ。問いは、意識するより早く口からするりとこぼれた。
「あの男は、ルルーシュの者だったのか?」
「‥‥そうだ」
 一瞬、目の前が暗くなる。イーツェンは目をとじた。そこにも同じ闇があった。
 歯を噛み、目をあけて、イーツェンはもう一度ゆっくりと息を吸った。体が冷えきっていて、杖をさぐる手がひどくふるえた。アガインの声が水を通したように遠い。
「セクイドは、私があくまで君にこだわるなら、そのことで君を参事会で提訴すると言う。ルルーシュの者の血で手を染めた君を保持しておくことは、ルルーシュのためにならないと。どうあっても君を私から引き離そうとしているようだ。彼は、何のためにそこまで君に肩入れする?」
「‥‥‥」
 アガインが背を丸めて地面から杖を取り、イーツェンの右手に持たせた。イーツェンは杖を立てたが、立ち上がることが出来ずに、握りを持った拳に額をつけた。
 低くひびくアガインの声は、ほとんどやさしい。
「すまなかったな。本来は、あれは私たちの役割だった」
 イーツェンは内臓をえぐられるような痛みをおぼえた。血の匂いが体の中に満ちてくる気がする。杖を握りしめ、全身の力を振り絞って立ち上がった。
 背後からアガインが呼び、イーツェンはよろめく足をとめたが、振り向くことはできなかった。
「行くあてはあるのか、イーツェン?」
「探す」
 夏の陽すら体に冷たい。息苦しさをこらえ、杖をついて、イーツェンはそのまま歩き出した。ギスフォールが歩み寄って、無言でイーツェンにつき従う。彼がどんな表情をしているのか、イーツェンには見る余裕はなかった。
 建物内へよろめき入ったイーツェンは何かに追われるように廊下を歩き、ふるえる膝をこらえて階段をのぼりきると、三階の部屋の扉を開けた。
 シゼは壁際に座って剣の手入れをしていた。扉の音に顔を上げ、剣を革鞘へ叩きこむようにしまうと大股にイーツェンへ歩みよる。ギスフォールへ低い礼を言って扉をしめながら、イーツェンの体に腕を回した。
「こっちへ、イーツェン」
 杖を床に落として、イーツェンはシゼの腕をつかんだ。杖が床にはねる音がカツンと耳に遠くひびく。シゼは驚いた様子でイーツェンを見つめた。
 銅色の目は、今はうすぐらい部屋の窓を背にして、暗く沈んだ色に見える。正面からまなざしがあうと、シゼは一度だけまたたいた。
 シゼに支えられた腕だけがあたたかい。シゼのシャツをきつくつかみ、イーツェンは自分を見つめる目の中をくいいるようにのぞきこむ。
 牢の中で生き長らえ、人を殺し、そして今また偽の誓言を誓ってまで生きのびようとして──
(──何のためだ)
 するどく自分にそう問う声がする。イーツェンは息をつめてシゼの背中に腕を回し、身をよせた。足元すらたよりないイーツェンの体をシゼの体がしっかりと支え、安定させ、つたわってくるぬくもりが彼の心をも安定させる。何のために抗おうとしているのか。何のために──
 シゼの背を抱くように身をあわせ、イーツェンは細くあえいで、シゼの唇に自分の唇を重ねた。唇からじかにシゼの熱を感じる。シゼのぬくもりをおびた息が自分の中に直接吹きこまれてくるようで、こごえたように冷たい体がぞくりと熱をおびた。
 シゼは一瞬動かなかったが、イーツェンが強く唇を押しつけ、舌先でシゼの唇をなぞると、身じろいでイーツェンへ腕を回した。左手で慎重に腰を抱き、右手でイーツェンの髪をなでる。かるく唇を動かし、イーツェンのくちづけにこたえるようにしたが、口はほとんどひらかなかった。二人は唇をあわせたまま、互いの息のあたたかさをゆっくりと分かち合う。
 シゼの指が髪の間に入りこみ、なでおろす。イーツェンの首すじ、輪の上近くまで指の腹をすべらせ、また上からなでた。
 少しして唇をはなしたイーツェンは、どこかうろたえた気分でシゼの肩口に顔を伏せた。こういう時にどんな表情でシゼを見ればいいのか、わからない。
「ごめん」
「いいえ」
 耳元でシゼの声が呟く。イーツェンの髪をかきあげ、シゼはイーツェンのこめかみに軽くくちづけた。その唇は湿っていて、こめかみに痺れるような感触を残した。
「何か‥‥ありましたか」
 心配している声に、イーツェンは顔を上げ、微笑をつくった。
「アガインは私を解放してくれるつもりだ。一緒に行ける、シゼ」
 シゼはまじまじとイーツェンを見つめ返した。聞こえていないのではないかと疑ってしまうほどの時間そうしていてから、ふいに彼は、微笑んだ。
 きびしい目元がやわらぎ、唇の線がほどけて、あたたかな表情になる。シゼは滅多にこんなふうには笑わないが、イーツェンはいつでもシゼの微笑みに目をうばわれた。今この瞬間も、それはくちづけと同じほどにイーツェンをあたため、心の中に小さな火がともされたようだった。
 このためだ、と思う。このためなら耐えられる。これまでおこったことにも、これからおこることにも。
 イーツェンはシゼの肩にあごをのせ、もう一度シゼの体に腕を回した。シゼがイーツェンの頭を抱きよせ、髪をなでる。
 力の抜けた体を無防備に預け、イーツェンは小さな声で呟いた。
「行くあてはあるかと、聞かれた‥‥」
「そのことなんですが。サンジャが、道のことであなたに話があると」
「サンジャが?」
 まばたきして、イーツェンは顔を上げた。大柄な傭兵は、かつてユクィルスの城でセクイドをつれていた時には少年の主のようにふるまっていたが、今は護衛のように従っている。彼ら二人の関わりがそもそもどんなものなのかイーツェンにはよくわからなかったが、サンジャに対する印象は悪くない。いかにも陽性の、豪放な感じの男だった。
 シゼがうなずき、イーツェンの頬におちる髪を指先でかきあげた。
「あとで会ってみますか」
「うん。できればセクイドにも‥‥」
「それは全部片づいてからの方がいいかもしれませんね」
「あ、そうか」
 とりあえず、当面のあいだは、イーツェンに対する「怒り」をセクイドが見せていた方がいいのだろう。うなずいて、イーツェンがシゼから身を離した時だった。
 城内の、正面口に置かれている大きな銅鑼が鳴った。金属がはげしく震える咆哮のような音を聞いた瞬間、シゼの体がかたくなる。
 イーツェンも息を呑んだ。独特のリズムで打たれた一連の音は、敵襲を告げる警告であった。