頭の中に藁くずでもつまっているようだった。目蓋はぬいつけられたように重く、はれぼったく、体中の骨が石になったように身が重い。どうにかぼんやりと目をあけて暗い天井を眺め、何も考えずに起き上がろうとして、イーツェンは背中の痛みに短い声をあげた。
「寝てた方がいい」
 ギスフォールの声がした。イーツェンは顔をしかめたまま用心深く目を動かして、頭側に座っている男の姿を見つける。声をかけようと口をあけたが、喉が妙にごわついていて、きしむように痛んだ。
 泣いたせいだ、と思いあたる。自分でも信じられないほど、ただ泣いた。
 一気に記憶が押し寄せ、ひどく恥ずかしくなって、イーツェンは口をとじた。わあわあと声をあげて泣くなんて、どうかしている。だがどうやっても自分をおさえることができず、しまいには背中が痛くなっても泣きやめず、感情の昂ぶりと激痛の中で恐慌におちいった。うろたえながら泣きつづけるイーツェンをシゼが敷布に寝かせ、そばに横たわると、腕を回してなだめた。
「‥‥‥」
 思い出せば思い出すだけ顔に血がのぼってきて、イーツェンはそろそろと持ち上げた右手で頬をさすった。涙の痕がごわついていた。とにかくきまりが悪いし、頭は痛いし、背中は痛いし、喉も痛いし、目がはれぼったい。ひどい顔をしているだろうと思った。
 それなのに、心はまるで重石が取れたように軽く、はればれとしていた。目の前の曇りが除かれて、世界が澄み渡ったような気がする。これでどこも痛くなければ幸せですらあるのだがと思って、イーツェンは溜息をつき、たずねた。
「シゼは、どこに?」
「馬を借りて、一つ離れた村の外れまで。そこに流れの薬師が住んでいるんです」
「‥‥キノコの?」
「やっぱり勘がいい」
 おだやかに言って、ギスフォールは小さく笑った。イーツェンにソウキが呑ませた毒キノコの出所は、やはりそこらしい。
 一体そこに座って何をしている、とギスフォールに聞きかかって、イーツェンは寸前で口をとじた。シゼが留守居をまかせていったのだろう。イーツェンを見るために。まさに子供扱いだが、自分のていたらくを思えばそれも致し方ない。
 頭をゆっくり動かし、イーツェンはギスフォールを見た。ギスフォールは腕組みしてイーツェンを見返す。
「ありがとう。‥‥すまない、手間をかける」
「別に」
 素っ気ないが、冷たくはない。イーツェンはなぜか気分が落ちついて、ぼんやりとした目を天井へ戻した。
 シゼが薬師のところへ行った理由はわかっている。イーツェンの背中のためだ。イーツェンはこの背中がいまいましくてならない。もしもっと自由に体が動けば、シゼにあれこれと気をもませることもなく、行動の選択肢もひろがるのだが。
 少なくとも、この背中がある限り、この城からこっそり逃げ出すようなことも難しい。逃げることはともかく、追手を出されたらひとたまりもあるまい。イーツェンは天井を見つめ、唇を結んで、しばらくじっと考えこんでいた。
 戦え、とシゼは言った。だがそれにも手段が、武器が、必要だった。
 アガインに情で訴えかけたところで何にもなるまい。彼はそういうものでは動かない。たとえイーツェンが自分の首に短剣をつきつけてせまったところで、たじろぐとも思えなかった。冷たいからではない。もっと重いものを負っているからだ。
 ──彼を動かすには、動くだけの理由が必要だ。負の理由でも、正の理由でも。
 つまりイーツェンは、恫喝か取引のどちらかで、アガインを動かさねばならないのだが、どうやればいいのか見当もつかなかった。今のイーツェンにはアガインを動かせるだけの力などない。
(──知識も、力だ‥‥)
 ふとレンギの言葉を思い出す。知ることがいつかイーツェンを守ることもあるだろうと、レンギは本を見せながらそう言ったものだった。
 天井を見上げたまま、イーツェンは梁の交差をゲームの盤のように見立て、マスに一つずつ自分の知識をならべてみた。ルルーシュに関する知識、アガインに関する知識、ユクィルスについて何か使えそうな知識。城の地下牢で男たちが話していた噂話まで思い起こしてみる。息のつまるような汚れた記憶の中から、どうにか一つでも助けになるものがないかと、できる限り記憶を呼びおこす。
 息苦しさをこらえながらしばらく考えこんだが、甲斐のないまま、今度はアガインとの会話を一つずつ頭の中でくりかえしてみた。あらためて自分のかたくなな物言いをかえりみて、イーツェンは苦笑する。あまりに強情で、これではシゼの不審を招いたのも当然だった。意固地な子供じゃあるまいし、もう少し余裕を持って対するべきだったのだろう。同時に、アガインの激しい物言いの中に若さも感じた。あの時はわからなかったが、アガインもまた、ふところがやや浅い。
 ある意味、イーツェンと対峙していた時のアガインは誠実だった。きびしく、そして冷徹ではあったが、イーツェンをあざむこうとはしていなかった。打ち負かそうとはしていたが、それはイーツェンを憎んでいるからではなかった。
 アガインという人間について、イーツェンはじっくりと考える。全然似ているところなどないと言うのに、どうしてか彼はイーツェンにレンギのことを思い起こさせた。もしレンギが、アガインのように戦う立場に置かれたならば、どうしただろう。失われた故国サリアドナを取り戻すことができると思えば、きっとレンギもまた多くのものを賭けて戦いに身を投じたのではないかと──イーツェンには、そんな確信があった。
 求めるもののために戦う、それがどんなことなのか、イーツェンも含め、彼らは知っている。自分のためではなく、ほかの誰かを守って戦うということがどれほど幸福で、どれほど孤独なことなのか。だからだろう、イーツェンの中にはアガインに対する非難の気持ちは浮かんでこなかった。
 ──彼をどうやって、曲げるか。彼の意志をどうやって、変えるか。
 長々と考えこんでから、イーツェンはゆっくりと体を回して横向きになり、ギスフォールの方を向いた。
「ギスフォール。一つ二つ、たずねてもいいか?」
 ギスフォールは少し視線を浮かせて考え込んでから、こたえた。
「俺も一つ二つたずねたいことがあるんですが、取りかえっこというのはどうです?」
 この提案に意表をつかれたが、イーツェンはうなずいた。ただし、とつけくわえる。
「どうあっても言えないこともある。そういう時には、別の質問にかえてくれるか?」
 ギスフォールの口元がぴくりと引きつれた。笑いのようだとイーツェンは思うが、一瞬で消えたそれに確信は持てなかった。
「あなたが嘘をついた方が早い」
「私は必要な時以外、嘘はつかない」
「どうしてです」
 この反問にイーツェンはまた面食らった。理由があって嘘をつくことはあるが、嘘をつかないことにさしたる理由はない。当然としていることを「何故」とあらためて問われると、言葉で説くのはひどく不自由だった。
「‥‥疲れる」
 やっとそう答えると、ギスフォールが小さな笑い声を喉の奥でたてた。イーツェンはムッと唇をとがらせる。
「だって、そうだろう。あの人にこれを言って、別の人にそれを言ってでは、とても疲れるぞ。それに‥‥私は、人に嘘をつかれるのが嫌いだ。だから‥‥何かおかしいか?」
「呑気なお人だと思って」
「‥‥‥」
「で、何です、聞きたいことと言うのは」
 ギスフォールはくつろいだ様子で片膝を立て、そこに右肘をのせて、顎をなでた。
 一瞬何の話だったかと頭が空白になったが、イーツェンはすぐに本来の目的を思い出して、間もたせに小さい咳払いをした。
「うん。何だ、その‥‥」
「はい」
 ちらかった頭の中をどうにかまとめて、問いの形をつくる。
「アガインのことだ。彼はルルーシュの頭首というわけではないのだろう?」
「上の一人、という感じですかね。武闘派としちゃアガインが一番上だと思いますが、ルルーシュには決まった頭がなくて、合議制らしい。参事会の中にも上下関係はあるようですが‥‥その手のことは、俺よりはシゼのがくわしいんじゃないですかね、一時期アガインにくっついてあちこち動いていたから」
「あとで聞いてみる。アガインは、アンセラの残党と手を組んだと言った。アンセラの者たちがルルーシュの下に入ったと言うことか、それとも対等に手を結んだと言うことか?」
 リグの隣国──と言っても山道をはさんでのことではあったが──アンセラは、三年前にユクィルスに滅ぼされた。その残党と、イーツェンはユクィルスの城で顔を合わせている。おそらく王族の血を引くであろう少年は、奴隷の身に落ちていた。
 アンセラがどのくらい組織を立て直したのか、今どんな状況なのか、イーツェンにはまったくわからない。それでたずねてみたのだが、イーツェンの顔を見おろして、ギスフォールは考えぶかげに目をほそめた。彼の沈黙の間を利用して、イーツェンはゆっくりと床に手をつき、身をおこしてみる。体中がこわばっているが、切羽つまるほどの痛みはなく、慎重に起き上がった。
 その間に、ギスフォールは頭の中で答えをととのえていたようだった。
「俺はあんまりくわしく知りませんから、ちがってるかもしれませんよ」
 まず念押しをする。イーツェンはうなずいた。
「かまわない」
「アンセラとルルーシュはあんまりべったりって感じじゃありませんね。アンセラの残党自体もいくつかに割れてて、王族の生き残りを頭に立てるのもいれば、ただ敗残兵がよりあつまった、ほとんど略奪者の集まりみたいなのまでいる。アガインは一時期、けっこう熱心にその兵を集めて、ルルーシュに取り込んでましたがね」
「アンセラは、ばらばらだと言うことか」
「それがね。最近はちょっと頭みたいなのができてまして、それがアンセラの旗を揚げて声をかけたって言うんで、ルルーシュから離れてそっちに行くヤツもけっこう出ましたよ。今はルルーシュとアンセラで共闘の形を取ってますが、ちと微妙なんじゃないですかね。近々、ルルーシュの参事会があるんですが、そこでアンセラとも話し合いをする筈ですよ。アガインは、それに間に合うようにここを発ちたがっててね」
「ふうん‥‥」
 何か、頭の奥にもやもやとした曖昧な動きがあった。喉元まで何かがでかかっているのに、どうしてもその正体がわからないような。イーツェンは相変わらず木屑がきつくつめこまれたような頭を振って、溜息をついた。
 時間がない。三日──いや、もう二日の猶予しかない。何が必要だろう。何が出来るだろう。
 じっと考えこんでいたが、ふいに視線を感じて、イーツェンはギスフォールと目を合わせた。何を見ているのかと思ったところで、やっと約束を思い出す。
「交換だったな。何が聞きたい?」
「誰がユクィルスの王を毒殺したんです?」
 まばたきして、イーツェンはギスフォールを正面から見つめた。
「誰って、オゼルクでは?」
「本当にそうなんですか?」
 ギスフォールの声は軽く、好奇心からたずねているように感じられたが、イーツェンは答える前に一瞬の間を置いた。
「何でそう思う」
「ソウキが言ってましたよ。オゼルクという男が、父や兄を毒で殺すような男には思えない、と」
「ソウキが?」
 それは正直、意外だった。ソウキはオゼルクがイーツェンに何をしていたか、何を強いていたか、よく知っているはずだ。
 だが、とイーツェンは思い出す。イーツェンが牢から出されてオゼルクの部屋に運び込まれ、痛みで意識もないまま煩悶していた間、ソウキは同じオゼルクの部屋にずっといたのだ。イーツェンが明瞭な意識を取り戻した時には、ソウキはもうオゼルクに対して怯えた様子も、必要以上のへりくだりも見せてはいなかった。
 オゼルクがソウキを丁寧に扱ったわけでもない。オゼルクの態度は素っ気ないものだった。だが素っ気ないのはオゼルクの常でもあって、思えばごくごく自然に、オゼルクは振る舞っていただけのような気もする。その自然な立ち居の中に、ソウキは何か、オゼルクを信頼できるだけのものを見つけていたのだろうか。
 そうかもしれないと、イーツェンは思う。おかしな話だが、イーツェン自身もオゼルクが「悪人」であるとは考えられなかった。容赦なく踏みつけにされた身で滑稽だとも思うが、今となってはオゼルクの中に、身内を毒殺するに至るほどの憎悪や野心を見ることはできなかった。
(オゼルクがローギスを毒で殺そうとするだろうか? そして、ジノンを?)
 それでも人は相争い、時に殺し合う。それが権力の舞台であることはイーツェンも知っていたが、自分がずっと感じていた違和感をソウキも持っていたのだとわかると、尚更疑問は強くなった。
 もし殺したのなら、それは何故、何のためだったのだろう。
 もし。
(オゼルクでなければ──)
 誰が殺したのだろう?
 軽い身じろぎの音に、イーツェンははっと顔を上げ、ギスフォールが自分を見つめているのに気付いて、きまり悪く首をすくめた。
「すまない。わからないんだ」
「そうですか」
 落胆したのか、半信半疑なのか、ギスフォールの返事は妙に上滑りなものだった。だが、それ以上はたずねてこない。ギスフォールとの間にある距離を、イーツェンはこういう時に感じる。それはギスフォールがイーツェンとの間に用心深く残している隙間だった。
 だが、ギスフォールがイーツェンだけにそうしているわけではないということも、今はわかっている。アガインに対しても、その背後のルルーシュに対しても、ギスフォールはどこかしら醒めた態度で接し、確たる距離を取っていた。それはあちこちを渡り歩いてきた男の用心なのだろうし、身についた習性なのだろう。
 ──だが、ソウキには親切だった。
 イーツェンはふとそう思う。ソウキもギスフォールにはよくなつき、軽口を叩かれるとあけっぴろげに笑っていた。あの少年にとってギスフォールの存在は、ほんの短い間でも、兄のようなものであったのかもしれない。そんなふうに無防備にたよられては、ギスフォールの用心もまるで効果がなかったのかもしれなかった。
 とりとめのないことに考えをさまよわせていると、ギスフォールがふいに「あー」と間延びした声を出したので、イーツェンは自分の心を悟られたようでドキリとした。
 どうやら、イーツェンの注意を引こうとしただけらしい。ギスフォールはあぐらを組み換えながらぶっきらぼうに言った。
「俺がここにいるのは、シゼにたのまれたからと、もう一つ。アガインにあなたとシゼを見張れと言われているからです」
「‥‥ああ」
 イーツェンはまばたきした。
「だろうな。ご苦労さま」
「だからあんまり、おかしな真似をしようとか考えないで下さいよ」
「考えてないよ。何かしそうに見えるのか?」
「別に。ただあなたはちょっと、得体のしれないところがあるんでね」
「‥‥そうか?」
「シゼも言っていましたよ。おどろくほど無謀なことをする時がある、って」
「‥‥そうか」
 シゼの名を持ち出されると、しおしおとそう言うしかなかった。


 留守だった薬師が戻るのを待っていたと言うことで、シゼが香油の瓶を持ち帰ったのは日が天頂を回ってからだった。
 シゼの手で背中に香油を塗られるのは久々で、前の時はまだイーツェンの背に傷は刻まれていなかった。敷布にうつ伏せになり、ふたたびシゼの手を背中に感じるのは、ひどく奇妙だった。ふれられているのが自分の体のような気がしない。そのくせ時おり、ひどく生々しくその指を感じた。
 濡れた音をたててシゼの手が動くたび、体の深いところにやわらかいうずきがひろがって、同時に何か土と草をまぜたような匂いが漂った。
「どんな感じですか」
 低く、シゼがたずねる。イーツェンは顔の下に当てた枕に右頬を押しつけたまま、もごもごと答えた。
「ほんの少し、ピリピリする」
「カラハナと、ヒヨスなどがまぜてあるそうです。痺れさせて感覚を麻痺させるとのことで。それほど強いものではありませんが、油を目に入れないように気をつけてください」
「うん‥‥」
 香油が沁むにつれ、背中全体がぼんやりと熱をもってくるのを感じたが、それは不快なものではなかった。シゼが一度手を離し、また香油をひとすじ垂らして、背骨の脇の筋肉に沿うように手を動かしはじめる。シゼの手は、傷を圧迫しないよう慎重だった。
「少しすれば、痛みも随分おさまると思いますよ」
「うん。ごめん」
「いずれよくなります」
 シゼの声は優しかった。傷が引き攣れて隆起した肉塊のようになっている、その背中全体をゆっくりとなでる。ただ純粋ないたわりをこめた声と手に、イーツェンは胸がつまって何も言えなかった。
 背中はあたたかく、同時に、皮膚をもう一枚かぶせられたように触感がにぶくなっていた。シゼの手の存在はわかるが、刺激をあまり感じとれない。ちりちりと背の内にくすぶっていた痛みも、ゆっくりとおさまりはじめる。
 やがてシゼがイーツェンの背中を拭い、痛まないよう注意しながら抱き起こした。シゼの手を借りて下着とシャツを身につけると、イーツェンはシゼの手をつかんだ。
「手は? 痺れてるんじゃないか?」
 シゼは小さく笑って、指の曲げのばしをしてみせる。拭き取った香油の色がしっとりと残っているが、指の動きはなめらかだった。
「皮膚が少し、にぶくなっているだけですよ」
 イーツェンはシゼの手を見つめた。彼はこの手が好きだった。剣を握り慣れ、少し関節の出た武骨な手は、だがイーツェンにふれる時はいつも驚くほど繊細だ。この手にどれほどたよってきたか、守られてきたか。今、この手を失ったら自分はきっと生きていけないだろうと思うと、重く切ないような気持ちになって、思わずつぶやいていた。
「手間ばかりかけさせて、すまない」
 イーツェンがそう言った瞬間、シゼの手がふっと動き、香油のついていない手の甲でイーツェンの頬をなでた。
「あやまらないで下さい。あなたのせいではないことで、あなたにそんな顔をされると、困る」
 イーツェンはシゼを見つめた。シゼは手を引き、水盤にもう一度手を浸して丁寧に拭いながら、静かに言った。
「元はと言えば、彼らが悪い。彼らの‥‥ユクィルスの負わせた傷だ、イーツェン」
「それは、そうだが‥‥」
「それにもし私がもっと早く戻って、もっと早くあなたを助け出せていれば、あなたがこんなに苦しむこともなかった」
 シゼの声は抑えたものだったが、そこにある苦い響きにイーツェンは心臓を絞られるような気がして、思わず声を上ずらせていた。
「お前のせいではない!」
「あなたのせいでもない。いちいちあなたが悪く思うことはない、イーツェン。私は‥‥私は、こうやって、あなたの面倒を見るのは、好きだ」
 ひどくぶっきらぼうに、ほとんど吐き捨てるようにシゼは最後の言葉を言って、あっけにとられているイーツェンを残して立ち上がった。背を向けて壁際に歩みより、木の櫃の蓋を開けて壁にたてかけると、ガタガタと中の整理をはじめる。
 イーツェンは敷布の上に座ってシゼの後ろ姿をながめながら、こみ上げてくる笑いを無音で噛み殺すのに苦労していた。体中が浮き立ったようで、どういうわけか笑いがとまらない。
 ──照れているシゼを見るのは、はじめてだった。
 いつもイーツェンから見るシゼは、内に確信を秘めて、揺るぎがない。あらゆるものに対してすべての心構えができているかのようなシゼが、イーツェンに他愛もない一言を言っただけで動揺している姿は、何だかひどくかわいらしく思えた。しかし、面と向かってそう言ってしまえばシゼをいたたまれなくさせそうで、イーツェンはただ幸福な気持ちでシゼの背中を見ていた。
 香油のせいだろう、背からぼんやりとした熱をおびた痺れがひろがって、めまいに似た高揚を感じる。体の中を流れる血はいつもより軽いようだった。
 シゼは櫃の中からとり出した服をひろげて、つくろいのいる部分がないかどうか、調べて選り分けているらしい。いかにも真剣に、気になる部分を指でつまみあげるようにして、いちいち服を検分している。その手の動きは相変わらず的確で、迷いがなかった。
 シゼの後ろ姿を見つめ、イーツェンは微笑した。
 イーツェンの頬をなでた手。背中に香油をひろげた手。あの時、城からイーツェンを抱きかかえて救い出し、崩れる彼を抱きとめた手。ルディスを殴り、アガインに逆らおうとした手。
 信じればよかったのだ。もっと早く。この手がただ、イーツェンを救おうとしていることを。
 なのに、イーツェンは自分の中だけを見ていた。苦痛に満ちた己の心だけを見ていた。己に刻まれた傷を、自分の中に巣喰った闇を、ただ恐れて怯え、逃げ道だと思ったものに考えなくすがりつこうとした。この手を信じずに。
「‥‥シゼ」
 イーツェンが呼ぶと、シゼは動きをとめたが、振り向かなかった。イーツェンはおだやかに続ける。
「一つ、あやまりたい」
「イーツェン──」
「一つだけ。本当に、あやまりたいんだ、お前に。たのむ。聞いてくれ」
 手にしていた服を櫃の口にかけ、シゼはゆっくりとイーツェンを振り向いた。イーツェンはシゼにかるく頭を下げる。
「馬鹿なことを考えて、すまなかった。自分がいなくなれば、全部きれいにおさまると、あの時は思ったんだ。‥‥ひどいことを考えていたな。思い上がってた。許してくれ」
「イーツェン‥‥」
「お前の言うとおり、怯えて、心が曇っていた。愚かだし、あさはかだった。お前に言われなければ、自分がこんなに怯えてるなんて気付かなかった」
 シゼはぐっと口を結んでイーツェンを見ていたが、強いまなざしはやさしかった。互いの視線を結び合わせたまま、イーツェンはうなずいてみせる。
「やっとわかった。自分が何をしようとしていたのか。私は‥‥最後の誇りも、捨てるところだったんだな。戦いもせず、抗いもせず、いたずらに自分を投げ捨てるところだった。お前が助けてくれなければ、そうしていた」
「‥‥‥」
「お前はいつも私を救ってくれる、シゼ」
 シゼは無言のまま、小さく首を振って、かすかに笑った。どこかその笑みは苦い。イーツェンはできることならシゼにふれたかったが、手をのばすには少しだけ距離があった。
「お前のおかげで、レンギの言ったことがやっとわかった」
「レンギが、何と?」
「人は、自分が思うほど強くはないと‥‥だから、その弱さを受け入れなければならないと」
 それはもうずっと昔のことのように思える。埃っぽい部屋でレンギと向き合い、あのおだやかな声に耳をかたむけていた日の記憶は、今でもイーツェンの声を少しつまらせる。
「あの人は、私にそう言った。私は‥‥自分がそう強い人間だと思ったことはないが、ここまで弱いとは知らなかったよ、シゼ。こんなふうに、物事の見分けがつかなくなるほど怯えてしまうなんて、思わなかった」
 シゼは首を右へ傾けるようにしてじっと聞いていたが、立ち上がると、イーツェンのかたわらに寄った。膝をつき、慣れた仕種でイーツェンの髪をなでる。イーツェンはその手に頭を少し預けるようにして、小さな溜息をついた。
「‥‥お前のように、強い人間でありたかった。その手で何かを為せるような」
 シゼの手が一瞬とまったが、すぐにやさしい動きで黒髪を梳いた。
「だから、私はユクィルスへ来たのかもしれない。この身でも、せめてリグの者を少しは守れると、そう信じるために」
「あなたは私よりもずっと強い、イーツェン」
 その声は低いがおだやかで、イーツェンの内側へあたたかな陽のようにしみわたっていく。無言で顔を向けたイーツェンへ、シゼはうなずいた。
「本当ですよ。何もかもをやりとげた。あんなに苦しい思いをしても、結局、彼らはあなたを砕くことができなかった。そうでしょう? あなたにしかできないことだ」
 そんなことはない、と思う。あの日々の堪えがたさに自暴自棄になったこともあれば、情けないほど悲観的に落ち込んだこともある。シゼに当たり散らしたことも思い出して、イーツェンは少し頬が熱くなったが、優しい言葉をかけようとするシゼの気づかいに笑みを返した。
「ありがとう。でも、まだやりとげなければならないことが色々残ってるな。そうだろう?」
 シゼが口元を引いて真剣な顔になった。イーツェンの前へ姿勢を正して座りこむ。
「考えが出来たんですか」
 イーツェンはシゼを見つめて、低い声でつぶやいた。
「私が嘘をついても、許してくれるか? ‥‥神々の名のもとで、嘘を言っても」
 シゼはまばたきした。
「勿論。でも、イーツェン‥‥私は信仰深い者ではないから、許しを得る当てにはならない──」
「お前が許してくれるなら、私はそれでいい」
 イーツェンは微笑した。許すと、シゼがそう言ってくれるだろうという確信はあった。だがイーツェンは言葉にして支えられる必要があった。自分を押し出すために。
「まずはお前の知っている話を教えてくれ、シゼ。アンセラと、ルルーシュについて」
「アンセラ?」
 シゼの顔に少し緊張がはしり、イーツェンを見つめていたが、やがて身をのり出すと低く言った。
「それについて話があります、イーツェン」
「聞こう」
 イーツェンはうなずき、背中をのばした。香油の刺激はもうおさまっていて、痛みはにぶく、久々に心が集中しているのを感じた。自分を押しつぶそうとしていた巨大な岩が消えうせたような、まるで解き放たれたような、軽やかな心地よさがあった。
 ──だが、まだだ。イーツェンが自分で言ったとおり、まだやり遂げねばならないことがある。


 翌日、イーツェンは熱が出たと言うことにして部屋にこもり、シゼに城館をあける口実を与えた。イーツェンのための薬を求めにシゼが去ると、またギスフォールが入れ替わるように部屋にやってきて、奇妙な目でイーツェンを眺めた。
「元気そうですね」
「元気だよ」
 イーツェンは膝の上に服をひろげ、針を手にして、古い縫い目のほつれをにらんでいた。少し曲がった骨製の針と糸は、シゼが雑仕の女から分けてもらってきたもので、今日のイーツェンの暇つぶしである。
 イーツェンが生まれ育った修道院でも雑仕の人間はいたが、基本的に自分のことは自分でするように育てられたおかげで、針物仕事くらいはできる。もっとも昨日、イーツェンが少々落ち込んだことに、シゼの方がはるかに針運びが巧みだった。
「奴隷も兵も、自分のものは自分でつくろえないと」
 そうシゼは説明し、いとも器用に針を動かしてみせた。その時にシゼに教わった、ほつれにくい縫い方で、イーツェンは自分とシゼのシャツをつくろっている。手を動かしていると、ただ待っているよりはずっと心を落ちつかせることが出来た。
 ギスフォールはしばらく黙っていたが、やがてぼそりと言った。
「何が目当てです」
「暇つぶしだよ」
 そう答えると、はあっと大きな溜息が戻ってきた。
「そっちじゃなくて。‥‥シゼに馬を借りさせて、どこへ?」
「夜までには戻ってくる、大丈夫」
 馬なら今日中に戻れるだろうとシゼは言っていた。今日でアガインの言っていた「三日」がおわり、明日にはイーツェンはまたアガインと対峙しなければならない。小手先の時間稼ぎはいくつかひねりだしてあったが、アガイン相手にイーツェンの小手先が通用するかどうかはあやしかった。
 ──アガインと一対一で勝つのは無理だ。
 長考のすえ、イーツェンは、自らそういう結論に達している。イーツェンにどうにかできる相手ではない。ならば方法は一つだけ、アガイン以外の者を巻きこんでいくしかない。
 ギスフォールは苛々した様子で、あぐらの膝を指で叩いた。
「何でそんなに呑気にかまえているんです。昨日まで、今にも死にそうな顔をしてたってのに」
 針が布の重なりに食いこんでとまった。イーツェンは顔を上げ、骨の指貫をはめ直しながらギスフォールの表情を見やる。彼が本気で心配しているようだったので、イーツェンは少しおどろいたが、笑みを返した。
「ありがとう」
「‥‥は?」
「いや」
 顔を戻し、折れないよう慎重に針を布にくぐらせていく。女性用の指貫がたやすくはまるほど、まだイーツェンの指はやせていたが、黄色っぽくしなびていた爪にも血色が戻り、指先にまでしっかりと力が入るようになっていた。
 少しずつだ、とイーツェンは思う。一目ずつ、ほつれた部分をつくろっていく、その心は自分でもふしぎなほど落ちついていた。


 シゼは結局、その夜は戻らなかった。イーツェンはギスフォールと食事を取り、一人で眠った。
 夢は見なかった。何一つ。