二人は無言のまま部屋に戻り、シゼは風通しのために開け放されていた扉をしめた。イーツェンはたたんだ敷布の上に座りこんで、シゼに声をかける。
「シゼ」
何かを抑えこんだような表情で振り向くシゼへ、
「手は大丈夫か?」
「手?」
「ルディスを殴っただろう」
言われたシゼは何故かひどく不機嫌そうに眉をしかめたが、イーツェンが手をさしのべると、歩みよって右手の甲を見せた。素手で人を殴るのは、殴った方の手にも強い負担がかかる。人さし指の背が擦りむけていたが、イーツェンの視線にこたえて曲げのばししてみせた指の動きは、ごく自然だった。
イーツェンは指でその手を軽く握った。
「すまない。‥‥ありがとう」
「‥‥‥」
「でも、すっとした。ルディスを殴ってくれて」
シゼの口元がふっとゆるんだ。イーツェンが手を引くと、膝を折ってしゃがみこみ、イーツェンの斜め横に立て膝で座りながら、握ったままのイーツェンの手からゆっくりと指を抜く。
「私も‥‥少し、すっきりしました」
イーツェンは小さく微笑んだ。それからシゼの目を、のぞきこむように見つめる。
「だがアガインを殴っては駄目だ、シゼ。アガインはお前の仲間だし、リッシュは友人だ。どちらも敵ではない」
シゼの口元にまた暗い影が刻みこまれた。自分を見つめる目に怒りの色を見て、イーツェンはおどろいたが、こたえるシゼの声は抑制されていた。
「言った筈だ、イーツェン。私はあなたを守る」
「アガインを殴ってか?」
「誰であろうと」
イーツェンは口元に小さな吐息をくもらせた。
「‥‥私がいると、お前は人と対立してばかりだ」
「あなたのせいではない」
そう呟いて、シゼはふっと表情に必死なものをにじませ、すがるようにイーツェンを見た。
「アガインと何を話したんです。どうするんです、イーツェン」
「お前が出て行く前と同じだ。アガインは私を彼の戦いに参加させようとしているが、私にはそれはできない。‥‥本当に、できないんだ。リグの名は、私が自由に使っていいものではない」
シゼが手をのばし、イーツェンの膝にかるくふれた。
「すみません、イーツェン」
「何が」
「私は‥‥アガインが、あなたを手に入れれば、利用するだろうと、知っていた」
重々しくその言葉を押し出して、シゼは長い溜息をついた。
「ルディスの身柄を手に入れたことで、満足してはくれないかと思ったんですが‥‥」
「アガインはそう甘くないだろう。いい、シゼ。あやまるな。お前にはほかに方法がなかった」
顔を上げて自分を見つめるシゼへ、イーツェンは微笑した。
「アガインにもほかに方法がない。彼はすべてのものを使う。生きのびるために、勝つために。彼にはそうするだけの理由があるし、それは正しい。‥‥そして、それと同じように、私にも私の理由があって、ゆずることができない」
「イーツェン‥‥」
「三日で、アガインは私をどうするか決めるそうだ。つまり三日間は自由だ。考えても仕方がない、楽にすごそう、シゼ」
シゼがまばたきした。イーツェンが微笑んでいるのを不思議がっているようだった。
「どうなると思いますか」
「さあ。その時にならないとわからない」
「‥‥あなたは、どうするつもりなんです?」
体を傾けて、シゼは低くたずねる。強く集中したその声が、イーツェンは好きだった。
はじめはただ無愛想な男だと思っていたが、知るにつれ、シゼが持つ気持ちのこまやかさや、何よりもその芯にある真摯さと強靭さに惹かれた。惹かれるにつれ、抑えた声や表情の中に、さまざまな変化を見つけられるようになった。
シゼを見つめ返し、イーツェンはできるだけあっさりと言った。
「わからない。待つだけだ」
「‥‥本当に?」
「どういう意味だ?」
「あなたは先のことを考えず、気楽にすごすような人ではない、イーツェン」
「疲れてるからな」
軽く流すように言った言葉に、シゼはまったく取り合う様子を見せなかった。
「何があるんです。何をするつもりです」
声は低く保ったまま、シゼの眼光だけがするどさをました。イーツェンはおだやかな表情を装ったが、内心の緊張を見破られたのが、シゼの表情が急にけわしくなったことでわかった。
シゼはぐっとイーツェンに近づき、肩に手を置く。押し殺すような声で囁いた。
「あなたは絶対にアガインに名を使わせるつもりはない、それはいい。だがアガインはあきらめるような人間ではない。あなたもそう言った。‥‥あなたは、何も待ってはいない。もうわかっている。心を決めている。ちがいますか?」
「‥‥‥」
「イーツェン。私は、あなたが考えていることが‥‥恐ろしい。いつもあなたは、黙って決心する」
用心深くゆっくりと、だがシゼははっきりとした意志をもってイーツェンをゆすった。気迫に満ちた表情を見つめ、イーツェンは手をのばしてシゼの手の甲に軽くふれた。肩をつかむ手は強かったが、この手が自分を傷つけないことをイーツェンはよく知っている。恐ろしくはなかった。
手を重ねて、囁く。
「アガインに名を使わせるわけにはいかないんだ。許せ、シゼ」
シゼはじっとイーツェンをのぞきこんでいたが、不意に息を呑み、にらむように激しい表情になった。シゼの目の中に深く傷つけられた痛みを見て、イーツェンは心臓がしぼり上げられるような気がする。だがどうすることもできずに、ただ見つめ返していた。
数秒の沈黙の後、シゼが押し出すように呟く。
「‥‥死ぬ気ですか」
「ほかに、方法を思いつかない」
今度ばかりは正直に、イーツェンは答えた。ユクィルスの城でも、一度はそうしようかと思った。リグにイーツェンの身代金を要求することになったとオゼルクが告げた時。リグに不要な負担をかけ、ユクィルスへ譲歩させるくらいなら、己の命を捨てた方がましなのではないかと迷った。だがリグは遠く、イーツェンの名が使われるまで時間もかかる。使者がリグへたどりつくかどうかもわからない。どうするか、どうなるか、さだめられないうちに状況が流転し、結局、イーツェンが決心することはなかった。
アガインの話は、まるでちがう。イーツェンを旗として押し立て、リグの名を、いやリグの名にまつわる様々にあやしげな噂を利用し、戦いに使おうとしている。イーツェンにはそれを許すことはできなかった。
かと言って、ここから逃げることもできない。今のイーツェンの体力では無理だ。アガインが追手を放てば簡単にとらえられるだろうし、そうでなくとも、わざわざ金属の輪を首につけられた奴隷と傭兵の二人づれは、よく目立つ。逃亡奴隷としてとらえられる可能性も高いし、身分証がなくては関所の橋一つ越えられないだろう。街道をさけて裏道を旅するだけの体力も知識も、イーツェンにはなかった。
──ほかに方法がない。
それはすでに確信していたが、それでも痛みに満ちたシゼの表情に、イーツェンは息がとまるような気がする。シゼは青ざめていたが、目がほとんど殺気のような強い光をおびた。
「私が許すと思いますか」
「‥‥仕方のないことだ、シゼ」
「イーツェン──」
「シゼ」
ため息をついて、イーツェンは痛む背中を一度のばした。アガインとの会見で力のほとんどを使い果たしてしまったようで、残った気力も、シゼの必死な目を見ているとバラバラに砕けてしまいそうだった。
「お前に、話しておきたいことがある。何があろうと、決して誰にも言わないと約束してくれ。いいか?」
一瞬たじろいだが、シゼはイーツェンの確固とした表情を見てうなずいた。イーツェンの肩から手を離し、向かい合って座る。
「約束します」
「ありがとう。シゼ」
イーツェンはゆっくりと息を吸った。どういうふうに話すべきか少し迷ったが、何も思いつかない。待っているシゼを見つめながら呼吸をととのえ、ただそのまま話し出した。
「シゼ。私は、リグの王の息子ではない」
シゼはまたたいただけで、ほとんど驚きを見せなかった。いともあっさりと聞き返す。
「あなたは、身代わりなんですか?」
あまりにもシゼが平静だったので、言葉に力をこめていたイーツェンの方がおどろいた。目をみひらいてシゼを見つめ直したが、やはりシゼは表情ひとすじ動かさずにイーツェンを見ているだけで、驚きを隠しているわけでもなさそうだった。
「いや‥‥私はイーツェン、本人だ。つまりその‥‥私の母は、王家に迎えられながら、王ではない男と通じて、身ごもった。そして生まれたのが私だ。本当なら私は、王家に入ることはできない身だ」
シゼが少し目をほそめた。
「あなたの父親は‥‥?」
「わからない。母の不義の相手かもしれないし、陛下であったのかもしれない。だが重要なのはそこではない。私は罪人の子なのだ、シゼ。ゆえに王の子とは認められない。王の子としての名づけの儀式も、受けてはいない」
王との婚姻はほかの婚姻とは異なり、強い誓いをもって結び合わされる。大地の豊穰を願い、神々による祝福を祈って。それは普通の婚姻ではなく、特に巫女であったイーツェンの母にとっては何より神聖な誓いであった筈だった。
それを裏切った母の心を、イーツェンは今でも不思議に思う。何故裏切ったのか。何のために裏切ったのか。母の中にあった恋は、どれほどのものだったのだろう。
一つ息をついで、イーツェンは用心深く低めた声のままつづけた。
「リグの法では、私たちはどちらも集会から追放される。つまり、人のいる集落の中には住めなくなるということだ。だが王は‥‥陛下は、私の母を哀れみ私を哀れんで、母を裁こうとはしなかった。かわりに私たちを遠ざけ、私をほかの兄弟と離して育てさせた。誤らないでほしいが、陛下は私をゆるし、大切にしてくれた。罪を明るみに暴くことなくすべてを秘密にし、私に暮らしと学びを与えた。母を離縁することもなかった。ただ、私たちをそばに置くことには耐えられなかった」
「あなたには、兄上と妹がおられる」
「兄上がたのご母堂は、前の妃だ。その方が病を得て亡くなられてのち、陛下に見初められた母が王宮に入った。妹のメイキリスは」
イーツェンは短く息を継いだ。
「養女だ。‥‥母を遠ざけてから、陛下は次の伴侶を迎えようとはなされなかった。だが、王には娘が必要だ。王の娘は王の血を持ってほかの部族に嫁ぎ、豊穰をもたらす。王の血を中心にしてつながりあう、それがリグの部族のありかただ。だから娘が生まれない場合は、王に近い血筋から赤子を迎えるしきたりになっている。メイキリスは、王の弟の娘として生まれた。だが王の血筋を引き、名づけの儀式でもって正式に王の娘として迎え入れられている。私とはちがって、彼女は完全に王の子だ」
シゼはまばたきしながら考え込んでいるようだったが、イーツェンが言葉を切ると、無言でうなずいた。イーツェンはうなずき返して、ふたたび口をひらく。
「私は表向き第三子という立場にはあったが、王宮に入ることも少なく、治政にかかわることもなく育てられた。そのままずっと、そうやって離れたところで生きていく筈だった。それを変えたのがユクィルスの侵攻だ。彼らは王家の者を人質として要求した」
シゼの口元がけわしくなった。
「それであなたを──」
「ちがう」
きっぱりと、イーツェンは首を振った。
「お前が思っているようなことではない、シゼ。私が自分で願い出たのだ。‥‥ユクィルスが王女メイキリスを人質として要求していると、導師から聞いた。それで私が、陛下にお願い申し上げた。陛下も兄上たちも、最後まで反対していた」
お前には関わりのないことだと、上の兄は幾度も説いた。それは優しさであったろう。だがイーツェンには貫くような痛みを与える言葉だった。王の子としての名を無為に戴いたまま、関わりないと言われ、遠ざけられつづけることは。
己が何一つ役に立たない存在であることを、あらためて説かれているような気がした。
「私は王のご慈悲を受けた身だ。過分な恵みを頂き、育てて頂いた。その資格がないのに王子と人からうやまわれもした。その御恩を返すには、ほかに方法がないと思った」
自分は意地になっていたのかもしれないと、イーツェンは今になって思う。この身でも役に立つならと、たとえそのまま死んだとしても故国で自分の死を悼んでくれるだろうと、感傷的に思いつめたところはあった。
だが、故郷のため、リグのために尽くそうと思った気持ちが、嘘のない純粋なものだったのも確かだ。
しまいには王も兄も、最後まで反対しつづけたメイキリスも折れた。ほかに方法はないと、誰もがわかっていた。誰かは行かねばならないのだ。それが誰になるか、それだけのことだった。
シゼはきっと口を結んで、にらむようにイーツェンを見ていた。イーツェンは小さく微笑する。
「だから私は、本当はリグの王子ではない。その身分は偽りなのだ、シゼ。王の許しのないところで、私が王子としてリグの名を使うことはできない」
「‥‥‥」
「わかってくれ、シゼ。アガインにリグの名を使わせるわけにはいかない。自分の命のためなら、尚更。もともとこの命は、陛下とリグの慈悲の上にあるものだ。リグにこれ以上の迷惑はかけられない。だから‥‥もう、決めたんだ」
言葉を終え、イーツェンは言い足りなさを覚えながら、まだけわしい顔をしているシゼを見つめた。うまくつたえられた気がしない。ほかにどうしようもないのだと、ただそれだけをつたえる方法がなかった。イーツェンにとって、リグの名がどれほど大切で神聖なものであるのか。何があってもそれを守らなければならないと、シゼにそれだけを純粋につたえたかったが、どういう言葉でそれがつたえられるのかわからなかった。
それまで黙っていたシゼが、ふうっと胸をふくらませて大きく息を吸うと、吐き出すように一度に言った。
「リグのために、あなたは大きな代償を払った。まだ命を賭けて義理を立てる必要があるんですか?」
顔を平手で張られたような衝撃だった。
イーツェンは痛みも忘れてぴんと背をのばした。一瞬心が空白になり、すぐさま怒りがつきあげて、彼はシゼをにらみ返す。
「これは義理だの何だのという低い話じゃない!」
「私にはわからない、イーツェン。どうしてそこまで一方的に、殉じようとするんです。あなたはよくやった。やりとげた。ここで生きのびようとして何が悪いんです。誰もあなたを責めたりはしない筈だ」
「言ったろう、できないと──」
「あなたは罪悪感からかたくなになって、思いこんでいるだけだ。たかが名前だ、命より大事なんてことは絶対にない」
シゼに自分の気持ちを理解してもらおうと打ち明けたつもりが、すっかり考えてもいなかったことを言い返されて、イーツェンは呆然とした。シゼの目にある光はするどく、声は低かったが激しい熱をはらんで、彼は心底腹を立てているようだった。
「大体、あなたは何もしていない。あなたが後ろめたく思うようなことは何もない。それなのにあなたばかりが、ひとりで罪の意識を背負って‥‥犠牲に、されて──」
「シゼ!」
イーツェンは壁に反響するほど激しい声で怒鳴り返した。一気に血が頭にのぼって、視界のふちが赤く染まった気がした。
「何もわかっていないくせに、さかしらを言うな!」
怒鳴られたシゼも荒々しい目で、真っ正面からイーツェンをにらみ返した。
「どうしてあなたが、あなただけが、こんな目にあわなきゃならないんです、イーツェン。私には理解できない」
「リグのためだ!」
「私には、リグのことなどどうでもいい──」
その瞬間、イーツェンは何も考えずに上げた手を振り抜いていた。
シゼの頬が甲高い音をたてるのと、扉が開いてギスフォールが顔を見せるのとほとんど同時のことだった。
「‥‥外まで聞こえてますよ」
ギスフォールが二人を見て、ひどく気まずそうにぼそっというと、引っこんで扉をしめた。
イーツェンは荒い息をつきながら、ただシゼをにらみつけていた。悲しみとも怒りともわからない、これまで感じたことのない荒々しい感情のうねりに手が激しくふるえ、何か言おうとすれば叫び出してしまいそうだった。
リグのことなどどうでもいいと、言い放ったシゼの言葉が耳に鳴っている。その言葉にイーツェンのすべてをつき崩された気がした。信じてきたもの、守ってきたもの、何もかも。すべてを否定され、世界がくつがえったかのようだった。
シゼも底光る眸で激しくイーツェンをにらんでいたが、ふいに顔をそむけて立ち上がり、風を巻くような勢いで物も言わずに部屋を出ていった。大股で荒い足音と、叩きつけられるようにしまった扉の音に、イーツェンは一つ一つびくりと身をすくませる。
シゼの姿が消えると、がらんと殺風景な部屋はしずまりかえった。イーツェンはしばし、茫然と座りこんでいた。何をかはわからないまま、ただ叫びそうなまま、口も喉も動かなかった。舌が縫いとめられてしまったようだ。乱れた動悸に、指先までもが激しい脈を打っていた。息苦しさからのがれようと立ち上がろうとして、彼は背中にはしった痛みに全身を引きつらせた。
用心深くそろそろと敷布にうずくまり、粗い毛布に頬をつけて、イーツェンは自分の情けなさに歯を噛んだ。だがそうやってじっとしていると、体の痛みが乱れた心を少しずつ落ちつかせていくのが感じられた。
痛みで、別の痛みがまぎれる。ユクィルスの城で、イーツェンはそうやって目の前の痛みをやりすごすすべを覚えてきたのだった。
シゼの言葉が、途切れ途切れ、耳に鳴る。それは聞いたこともない激しいひびきを帯びて、イーツェンの心をくりかえしゆすった。あざやかな痛みが堪えがたく胸にくいこんでくる。痛みを噛みしめ、息をつめ、イーツェンは一つ一つ、シゼの言ったことを思い出していく。
先刻だけではなく。再会してからのこと、今日のアガインに向けた言葉、もっと古い記憶。もつれた思い出の中から一つずつ言葉を拾い上げ、一つずつ、それを聞いた時の自分と、シゼのことを思い出していく。言葉だけではなく、彼の表情を。まなざしを。頬にふれ、イーツェンをいたわったあのやさしい指先を。
扉が静かに鳴った時、イーツェンは杖を手に窓辺に立ち、左肩で壁にもたれて、前庭を行きかう人馬を見ていた。村人の訓練は順調にすすんでいるらしく、声や、時にかいま見える集団で槍をかまえる動作など、なかなかにそろい出している。
扉の音はあまりにもひそやかで、イーツェンは一瞬耳のせいかと思った。それからはっと扉へ顔を向ける。扉は動かず、外に立つ者はイーツェンの答えを待っているようだった。
「はい」
答えると、ややあって静かにシゼが入ってくる。扉をしめ、彼は無言でイーツェンに頭を下げた。深くかがめた背中を見て、イーツェンは溜息をつく。
「いい、シゼ。私が悪かった」
「いえ──」
シゼはイーツェンへ歩み寄ると、一歩おいて立ちどまり、沈欝なまなざしを向けた。どこにいたのか、シゼの前髪が派手に濡れているのにイーツェンは気付いた。顔を洗ったのだろうと、それから思いあたる。顔は拭いたが、しぶきの勢いをあびた髪までは気が回らなかった様子だった。
シゼは悄然として、肩が落ち、声は低かった。
「あんなことを‥‥言うつもりはなかった、イーツェン」
「‥‥‥」
イーツェンは無言で右手をのばし、シゼの肩にふれた。服が汗ばんでいる。どうやら剣を振っていたらしい。筋肉の引き締まった肩を数回なでて、イーツェンは壁に左肩をもたせかけたまま、シゼを引きよせた。
シゼはイーツェンによりかからないよう壁に左手をつきながら、体を寄り添わせ、イーツェンの右肩に顔を伏せた。やはり髪が湿っている。イーツェンは腕を回して、滴のからむシゼの髪をなでた。
「いいんだ、シゼ」
「私は‥‥私は、ただ‥‥」
苦しげな声がイーツェンの首すじにくぐもる。イーツェンはシゼの頭に頬をよせ、彼の体に腕を回した。シゼの体も声も熱かった。その熱さがイーツェンの中に残っていたよどみを溶かしていく。シゼの思いを、真摯さを、言葉よりもはるかに深くイーツェンは信じていたはずだった。
「イーツェン、私は‥‥ただ、別の方法があればよかったと、思っただけです。もっと‥‥あなたが、苦しまずにすむ方法が」
「うん」
イーツェンはうなずく。
「わかっている。シゼ。すまない」
「私は‥‥ひどいことを言った」
「お前はそれほど怒っていた」
イーツェンは微笑して、体の向きをかえ、ごく自然にシゼの耳元にくちづけた。シゼが体をこわばらせ、驚いた顔を上げてイーツェンを見つめる。イーツェンがじっと見つめ返していると、シゼが顔をよせて唇を重ねた。
それはほんの一瞬のおだやかなふれあいで、すぐにシゼは体を引き、不思議そうにイーツェンを見た。
「怒っていないんですか?」
「今は。さっきは頭に血がのぼって‥‥叩いて悪かった」
「いえ」
思い出したように、シゼは左頬をさすった。
「随分と元気になられたようで、それはよかった」
イーツェンはふっと笑って、左手の杖を持ったままシゼに合図して歩き出した。タペストリーの前、壁際の長櫃の上に二人で並んで腰をおろし、イーツェンは杖を足の間について背すじをのばすと、右にいるシゼへ顔を向けた。
「お前の知らないことが、まだある。説明させてくれ、シゼ。‥‥リグの者たちが術で嶺を崩して道をふさいだのは、知っているな?」
シゼが無言でうなずくのを待って、イーツェンはふたたび口をひらいた。
「私がユクィルスの城にいる間、リグにいる者たちも、ただ安穏と待っていたわけではない。古い術を解くため、ある者は山深く入って長く封じられた古い坑道を掘りおこし、ある者は地脈と地脈をつなぐ道をつけるため、深い地面の下を細く掘り抜いた」
淡々と語るイーツェンの言葉を、シゼは身じろぎもせずに聞いていた。
「術というのは、簡単に動くというものではないらしい。かつてカル=ザラの街道を切り開いて道をつくった者たちは、道をふさぐ方法として術の起こりを残していったが、その術を目覚めさせて動かすには多くの力を要した。私はあまりくわしくはないが、あれは、水と土の力で動く術なのだと言う。その術の道すじをつけるため、リグの民のうち200人が山へ入った。‥‥地の底を掘るというのは、シゼ、命がけのことだ。わずかでも山のすじを読みちがえれば、山は自らの上へ崩れてきて彼らをつぶす。彼らは皆それをわかっていて、生きてふたたび光を見ることのないかもしれない闇の中へ、自らおりていったのだ」
「‥‥‥」
「苦しんだのも、戦っていたのも、私だけではないんだよ、シゼ。その日‥‥山が崩れた日、もしかしたら地の中から戻ってこれなかった者もいたかもしれない。その妻や子や、親や‥‥皆、苦しんだ。それだけはわかってほしい」
ゆっくりとイーツェンは言い終え、汗ばんだ額を手の甲でこすった。シゼはあまり表情を動かさずに注意ぶかく聞いていたが、イーツェンの言葉が途切れると短い溜息をついて、イーツェンの膝にかるくふれた。謝罪の仕種を受けとり、イーツェンはシゼの手の上に右手を重ねる。
「リグの者たちを悪く思わないでほしい、シゼ」
「‥‥ええ。わかってます」
「うん」
重々しい答えを得てほっとすると同時に、深い疲れが出て、イーツェンの右手の中から杖の頭がすべりおちた。倒れた杖を拾おうとしたが、それより早くシゼがイーツェンの体に腕を回し、用心深い動作で自分へ引きよせた。
イーツェンは力を抜いて横のシゼにもたれる。シゼの肩に頭をのせ、腰のうしろで自分をしっかり支えるシゼの腕を心地よく感じた。
「お前がいなければ、ここまでやってこられなかった。きっととうに死んでいた」
ぽつりと呟いて、イーツェンは半ば目をとじた。シゼはそのまま体をゆっくりイーツェンへ向け、右手でイーツェンの右手を取った。
イーツェンもシゼの手を握り返す。
「ありがとう。すまない、シゼ。本当に、すまない。助けてくれたのに、こんなふうになってしまって」
「イーツェン」
シゼの声はおだやかだった。
「私と一緒に行きますか?」
そんな問いを、前にも聞いた。イーツェンは一瞬、過去の夢を見ているような浮遊感にとらえられる。だが、背中全体をうずかせる痛みは現実のものだった。
頭を上げ、イーツェンは自分をのぞきこむシゼの目を見つめた。シゼの表情も声と同じように静かで、もはや怒りも激情もなかった。ただそこには決然とした意志があった。
イーツェンはかわいた喉に唾を呑みこむ。
「‥‥どこにだ、シゼ」
「どこへでも。行きますか? たしかに、リグには戻れないかもしれない。でもイーツェン、世界は広い。ユクィルスとリグだけではない。あなたの生きていける場所は、たくさんある。あなたが望むなら、そこへあなたをつれていく。私があなたといっしょに生きていく。それだけでは駄目ですか?」
「どうやって‥‥」
「そんなことはどうでもいい。行きますか?」
「だって‥‥でも、シゼ──」
シゼが顔を傾け、イーツェンのこめかみに唇でくちづけた。やわらかな息が一瞬肌を湿らせる。イーツェンはシゼの肩にもたれたまま、シゼの顔を間近に見つめた。
「もう‥‥方法がない、シゼ」
「本当に? あなたは、終わることばかり考えている。たやすくあきらめようとしている。私はあなたを知っている、イーツェン。本当はそんなに簡単にあきらめるような人ではない。今のあなたは深く傷ついて、恐れに心が曇っている」
シゼの目は優しく、悲しげだった。
「私を信じて下さい、イーツェン。きっと方法はある。探し出せる。でもそれにはあなたの意志が必要だ。これを生き抜く、戦う意志が」
「シゼ‥‥」
「あきらめないで、戦って下さい。簡単に絶望しないで。‥‥そんなに簡単に、終わりだと思わずに」
簡単にではない、とイーツェンは言おうとしたが、舌がどうしても動かなかった。シゼの静かなまなざしの奥には、まるでひび割れのような痛みがあって、イーツェンは茫然として銅色の瞳を見つめる。自分の言葉が、決断が、どれほど深くシゼを傷つけてきたのか、その痛みを目の当たりにしたのははじめてのことだった。
「あなたをこんな形で失いたくない」
低いかすれをおびた声でシゼが囁いた。
「イーツェン。私が手伝う。最後まで、私がそばにいる。だから、お願いです。できますか? 戦えますか?」
シゼの言葉を聞きながら、イーツェンは心が痺れたようにただシゼを見つめていた。
まだ戦えるかと、シゼの問いが自分の中にこだまする。できるだろうか。こんなふうに砕かれて、心も体も病んでおとろえた彼に。生きるために戦うことなどできるのだろうか。
この先に何をしていいのか、どうしたらいいのか、イーツェンにはまるでわからない。自分の中をのぞきこんでも、まるでからっぽになったようで、何一つ見いだすことができなかった。心の底に、麻痺したように動かない、ひどく暗い部分がある。そこに棲みついた大きな空虚にいつか丸ごと自分を呑みこまれてしまいそうで、イーツェンは時にそれが恐ろしい。
シゼの言うとおり、いつしかイーツェンは終わることばかり考え、求めていたのかもしれなかった。何より、こんなふうに怯えた自分自身からの解放を願っていたのかもしれない。先を見るのが怖い。この先に、何があるのかが恐ろしい。
──それでも。
(いっしょに‥‥)
シゼの手がイーツェンの右手をつかみ、汗ばんだ指と指がどちらからともなく握りあわされた。指先に乱れる脈動を、イーツェンは感じる。それが自分の鼓動なのか、シゼの鼓動なのか、彼にはわからなかった。
「私がいる、イーツェン」
シゼの声は低く、かすかな震えをおびて聞こえた。シゼはイーツェンの答えを恐れている。そして求めている。そのことがイーツェンを強くゆさぶった。
「だから、イーツェン‥‥私といっしょに‥‥」
「行く」
イーツェンは呟いた。シゼの手を握り、目を見つめて、彼はうなずいた。長く感じたことのない、あたたかなものが体の芯にともるのを感じていた。望み。希望。そんなものを深々とあきらめたのは、一体いつだったのだろう。あの暗闇で、イーツェンが奪われたものは何だったのだろう。
取り戻せはしないのかもしれない。だが、このままあきらめることはできなかった。
「私は‥‥私は、あきらめない。お前と一緒に行く。戦う。道を探そう、シゼ」
「イーツェン」
溜息のようにかすれた声で名を呟いて、シゼがイーツェンの体に両腕を回した。背をねじることのできないイーツェンは力を抜いて横向きにシゼの胸にもたれていたが、ふと、囁くような声が唇からこぼれた。
「いつか‥‥」
「ええ。いつか。あなたはそう言った」
シゼが小さくうなずく。彼も同じことを思い出しているのがわかった。
あのユクィルスの本城で、シゼはかつてイーツェンへ言った。ともに城を出るか、と。城を出て自由にどこかへ行こうと。イーツェンはその言葉に焦がれながらも、首を振ってそれを拒んだ。拒むしかなかった。人質としての役目があった。
(いつか──)
いつか、と。あの時のイーツェンがそう呟いた、それは夢のような言葉だった。今は行けない、だが、いつか、と。あの城から離れることのできないイーツェンの、決して手に入らないまぼろしの希望だった。
あの時のように互いの身をよりそわせ、イーツェンはシゼの抱擁が力を増したことに気付く。傷をいたわってただ優しくふれるだけだった腕が、はっきりと力をこめてイーツェンを抱いた。用心深くおだやかな、だが力強い腕だった。
あれからいくつもの出来事が嵐のようにすぎて、イーツェンは多くのものを失った。あまりに多く。自分がまるで前と同じ存在には思えず、体も心も、半分以下に削ぎ落とされてしまったかのように感じる。
だがそれでも、戦うことはできるだろうかと、シゼのぬくもりを感じながらイーツェンは思い、そして願う。自分のために。シゼのために。それだけのものがまだ自分の中に残されていることを、痛切に祈った。
ふいにシゼが動き、かぶさるようにイーツェンに身を押しつけて、深く抱きしめた。イーツェンの耳元にシゼの低い声が揺れる。
「あの時、あなたをつれ出すべきだった。あの城から。‥‥何と言われても、つれていけばよかった」
その声は、イーツェンの心に直接ひびいてくるようだった。イーツェンはふいにつきあげてきた息苦しいほどの感情に押しつぶされそうになって、弱々しくもがいたが、シゼの腕はゆるまなかった。イーツェンを抱き、シゼは絞り出すように呻く。
「あなたを、残していくべきではなかった‥‥」
シゼの痛みと、荒々しい感情のうねりがイーツェンの中に流れこんでくる。逃れようがなく、イーツェンはあえいだ。心の深いところにある、ひえびえとした部分が揺らいだ。麻痺したように動かなかった心の底。深い傷。そこにひびわれがはしり、長く抑えこんでいたものがあふれ出そうとする。イーツェンはまた逃げようとしたが、シゼが彼を抱きしめていた。
シゼの声がイーツェンの名を呼んだ。その声は熱く、痛みに満ちて、湿っていた。
うなじを唇がかすめ、たしかめるようにもう一度名を呼ばれた瞬間、イーツェンの中で何かが砕けた。それまでこらえていた、抑えつけてきたものがすべて砕け、心がばらばらになる。もうとどめることができなかった。体がふるえ、短い嗚咽がイーツェンの口からこぼれた。
シゼが体勢を変え、イーツェンの前に膝をつくと、子供をあやすように正面からイーツェンへ腕を回す。
その抱擁にすがりついて、イーツェンは泣いた。何も考えず、すべての痛みを吐き出すように。子供のように声をあげて泣いた。