昼すぎになるとシゼはしばらく姿を消していたが、やがて服を一そろい持って戻ってきた。
「用意ができていたら、アガインが会うそうです。それと、これを。アガインから」
「‥‥‥」
 服と、細長い布。イーツェンは両方受けとり、あぐら座りの膝にのせてまずは服を眺めた。よこされたのは膝丈まであるゆったりとした前開きの上衣で、幅広の短い袖がつき、裾回りに鉤紋様の組み紐飾りが縫い付けられている。生地は薄い亜麻布を二重にしたもので、指先にやわらかく涼しく、丁寧に染められた淡い青鼠の色も美しかった。
 それにあわせて、幅広の布帯も用意されている。すっかり身になじんだ質素なお仕着せを着たままの姿を自分で見おろして、イーツェンの呟きは我知らず皮肉っぽい響きを含んだ。
「よく気のつく人のようだな」
「似合うと思いますよ」
 シゼが、おだやかに返事をする。イーツェンは一瞬手をとめ、溜息をついた。
「すまない」
「それとも、そのままの格好で行きますか?」
 他の者が言ったなら馬鹿にしていると思うところだが、シゼに真面目に聞かれるとどう扱っていいのかわからない。経験上、こういう時はあまり悩んでも仕方ないので、イーツェンは素直に聞き返した。
「これ、城の召使のお仕着せだろう。似合ってるか?」
「悪くはないです」
 また受けとりづらい返事が戻ってきて、思わずイーツェンは微笑した。シゼには悪意も皮肉もない。まともな服でさえあれば、イーツェンがどんな格好でいようがどうでもいいようだった。
 小さなことに苛立っている自分が馬鹿らしく思えて、膝の上に新しい胴衣をひろげた。
「せっかくの好意だ。着ていくよ」
 シャツの首元のボタンを外し、シゼの手を借りて頭から脱ぐと、下着の上に胴衣をまとった。肌ざわりのよさからもこれが上等なものだとわかる。膝立ちになって裾をのばし、腰帯をゆったりとした飾り結びにして、イーツェンは座り直した。
 床にのけておいた布を取り上げる。それは薄地の紗で、淡い緑に染めたふちを金糸でかがってあり、見るからに高価なものだった。城で、似たようなものを見たことがある。女性が着飾って首や手首に巻き、興が向けば気に入った芸人や一夜の恋の相手に与えることもあるものだった。たまに洒落めかして男が身に付けることもあったが、決して正式な装いではない。
 これは、首の輪を隠すのに使えと言うことだろう。何にしても本当に気のつく相手のようだ。
 イーツェンは一瞬ためらってから、布を丸めてシゼへさし出した。
「これはいい」
「はい」
「変か? していった方がましか?」
 受けとろうと手をのばしたシゼへ、つい重ねて問う。シゼはイーツェンの手から布を取って、首を振った。
「言ったでしょう。あなたはあなただ。私にとっては何も変わらない、イーツェン」
 ごくあっさりとした口調だった。そのてらいのなさが逆にイーツェンの緊張をとく。首の輪が軽くなったような気がして、彼は冗談のひびきを声ににじませながら微笑した。
「でも、お前に会いに行くわけじゃないからなあ」
 シゼの顔にもチラッと笑みがかすめた。だがイーツェンの手から取った布を神経質にたたみ直す手つきから、シゼも緊張しているのだとイーツェンは気付く。
 ゆっくりと立ち上がると背すじをのばし、イーツェンは一通り自分の格好を見まわしてから、うなずいた。服はやせた体には少し大きかったが着心地はよく、やはり身なりをととのえると、これから臨むものに気が引きしまっていくのを感じた。
「会おう」
 シゼはすぐには答えずイーツェンを見ていたが、ゆっくり手をのばし、指先でイーツェンの頬にふれた。不安とも心配ともつかない影を銅色の目に見て、イーツェンはできる限り静かに言った。
「アガインが私に会いたがると言うことは、私に何か求めているということだろう。私は大丈夫だ、シゼ」
「‥‥私が心配なのは」
 シゼが低い声で、ぽつりと呟いた。
「あなたが‥‥迷っている、ということだ、イーツェン。自分を決めかねている」
「‥‥‥」
「アガインと会っている時には、迷わないで下さい。彼は人の迷いを見抜く」
 自分にふれているシゼの手を指で握って、イーツェンはうなずいた。シゼの言うように、心をはっきりさだめることができればどんなにいいだろうと、そう思いながら。


 シゼが向かったのは、城館の中でもイーツェンがいるのとは逆側の、二階の角塔だった。ゆっくりと歩いていくシゼの後ろ姿を追いながら、イーツェンは意外な思いにとらえられる。何となく、広間で会うのではないかと思っていたのだ。無意識のうちにアガインと会うことを王族との謁見のようにとらえていたのかもしれない。
 城の本館の廊下をつきあたったところに角塔への扉があり、そこに座ってカード遊びをする二人の男にシゼが声をかけて、扉を開いた。目で合図され、イーツェンはシゼのおさえる扉の間から塔の中へ歩み入る。
 幅の広い、短い廊下があった。部屋、と言ってもいいだろう。両方を兼ねたその場所は守りの要の一つでもあるのか、左右の壁に細い縦長の窓がいくつも並び、矢の射手のための弓矢と、彼らが座る高めの丸椅子が壁際に用意されていた。
 その空間は無人だった。イーツェンは部屋を横切って向かいの木の扉へと歩み寄る。大股で追い抜いたシゼが先に扉の前に立ち、扉を叩いてから、返事を待たずに引き開けた。
 どうぞ、と中から声がする。それに応じて一歩踏み入り、イーツェンはその場に凍りついた。全身の血が引いていく。耳の中に激しい鼓動があふれて、一瞬、世界のすべてが覆われたように暗くなった。
 ルディスがすぐそこに立っていた。金髪も乱れ、顔色は悪く、唇のはじに派手な痣の痕が残っているが、左足に重心をかけて投げやりに立つ姿はまぎれもなくルディスのものだった。
 不意打ちに息を呑んだまま、イーツェンは立ちすくむ。シゼがかばうように二人のあいだへ半身を入れ、イーツェンの右腕を左手でつかんだ。
 ルディスも驚いた顔をしたが、すぐに口元を歪め、青白い顔にすさんだ笑みを浮かべた。苦々しげに吐き捨てる。
「こっちに乗り換えたか? 淫売」
 その息からは濃い酒香が漂って、まるでイーツェンはあの城へ戻ったような気がした。あの城で、ルディスの目の前に裸で引き据えられているような。
 全身が冷たい。指先までが痺れたようで、動けない。ただルディスの悪意に満ちたまなざしを受け、立ちすくんだ。見えない枷にとらえられているようにどうにも体が動かせなかった。羞恥と怒りと恐怖、それに憎しみ。どろどろに入り混じったどす黒い感情が身の内にふくれあがって、心がきしむ。息ができない。世界が自分をとじこめたまま、小さく小さくちぢんでいくようだった。
 激しい音がして、ルディスの体が床へ叩きつけられ、もんどりうって一転した。イーツェンは悲鳴のまじった息を喉につめる。
 シゼがかがみこんでルディスの襟首をつかみ、乱暴に引き上げて、もう一度拳を振り上げた。シゼの顔には荒々しい怒りが満ち、もがくルディスの唇からは赤い血がしたたっていた。
 ふたたび、容赦なく、シゼの拳がルディスの顔に入った。奇妙に湿った、歪んだ音が鳴る。シゼがもう一度肘を引いて拳を振り上げた。その拳に血がついているのを見た瞬間、イーツェンはすべてを吐き出すように叫んでいた。
「シゼ!」
 駆けよって、シゼの肩をつかむ。うしろに引いてルディスから離そうとした。背の痛みにかまってはいられなかった。
「やめろ、シゼ──」
「‥‥‥」
 シゼはルディスの襟首をしめたまま、くいしばった口から荒い息を吐き出す。イーツェンはシゼをゆすった。
「もういい。立って。シゼ」
 それでもシゼは激しい目でルディスをにらんでいる。怒りがみなぎるけわしい顔を見つめ、イーツェンは膝をついてシゼの肩に前から腕を回した。シゼを抱き起こすように動こうとすると、シゼは自分で立ち上がった。
 いつのまにか見知らぬ男がルディスを引き起こし、顔を押さえて呻いているユクィルスの王子を肩で担ぐようにして、部屋を出ていった。
 激しく動悸が乱れ、全身が汗ばんで、イーツェンはめまいを覚えた。背中の痛みが一気に意識に流れ込んできて、まっすぐ立つのも難しい。だが頭を上げ、息を吸って、彼は部屋の向こうへ顔を向け、まなざしを据えた。
「お見苦しいところをお見せして、失礼した」
 かるく頭を下げる。深い礼は取らない。まるで相手に臣従するような印象を与えるつもりはなかった。たとえ首に輪がかけられていようと、奴隷のようにふるまうのはもう嫌だった。
 壁の上方にある明かり取りの窓からさしこむ光で、角塔の中はほの明るい。手元に油燭を寄せた男が、木の角椅子に座っていた。右膝を折って逆の膝に足首をのせ、その膝に書類をひろげている。目の前にも角椅子が置かれ、そこを机がわりにしているのか、紙や印章が乱雑に置かれていた。
 その男の横にリッシュが立って、腕組みで顔をしかめていた。リッシュの赤毛は肩までの細い編みこみに分けられ、貝や硝子のビーズで飾られている。二日前に会った時よりも身なりがととのい、飾りたてた髪も様になっていた。
 イーツェンはリッシュに目で挨拶してから、椅子の男へ顔を戻す。この男がアガインか。その姿を見て、彼は驚きを押し殺した。
 想像していたのとはまるでちがう男だった。なにより、若い。イーツェンよりいくつかしか離れていないだろう。レンギと同じ程度の年齢に見えた。イーツェンは何となく戦士のような勇猛な男を想像していたのだが、そこに座っているのは僧衣のような飾り気のない灰色のローブに身をつつんだ、ほっそりとした優男だった。
 明るい栗色の髪は巻き毛で、首の後ろで無造作にまとめられている。イーツェンを見上げた目は灰色で、どこか子供のようなつぶらさのある、明瞭な瞳だった。耳の下あたりから顎にかけて髭が生えているが、丁寧に刈りそろえられていて印象は清潔だ。
 髭があるにもかかわらず、顔立ちは女性的で線が細く、美しい鼻すじをしていた。顔は小さく、つくりも華奢だ。イーツェンを見返した灰色の目は繊細で、するどいものを含んだまなざしだった。まるで心を読まれるような視線を、イーツェンは無作法にならない程度にまっすぐ受け止めようとしたが、体の中が不安でざわついた。目を合わせただけで気圧されそうになる。アガインのまなざしには静かな力があった。
 とまどいを隠すように、一つ咳払いをした。
「私は、リグのイーツェン。あなたがアガイン殿?」
「そう。ルルーシュの祭主の一人、アガイン」
 声は低く、静かだった。あまりまばたきをしない目でイーツェンを見つめたまま、アガインは自分のそばの椅子から紙束をとった。
「ここの城主を呼び戻そうと思っててね」
「‥‥修道院から?」
 ソウキの話では、城主と娘は、ルディスによって城から離されているはずだった。
 アガインがうなずく。
「そう。城主がいないと、城は法的にユクィルス本国に接収されるしな。城主を戻しておいて、ルディスとの婚姻も継続させた方がいいだろう。その話を、ルディスとしていた」
「それで、あなたはここに摂政を置く?」
「いや。城主と書面で取引をする。村人からの過剰な搾取と、強引な徴兵を行わず、彼らを城の保護の元に置くよう」
 言いながら、やや横長の椅子を足と手でイーツェンに押しやって、示した。
「座って話そう」
「どうも」
 礼を言って歩みよる間に、シゼが椅子の場所を据え直した。背もたれのない木椅子に腰をおろし、イーツェンは背中全体にうずく痛みを無視しようと努める。
 アガインは無造作な手つきで紙束をいくつか重ね、自分の横へ積んだ。膝を組み、肘をのせてイーツェンの方へ体を傾ける。
「おかげで、ルディスを人質に取れたのでね。身代金をユクィルスに請求しようと思っているのだが、どちらがいいかな」
「どちらとは」
「相手だ。ローギスか、ジノンか。どちらなら払うと思う? あなたは彼らと親しくしていた、彼らのことならよく知っているだろう、イーツェン」
 喉の芯からみぞおちまでもが冷たくなったが、イーツェンは表情を保った。アガインが人をゆさぶって、思わず生じるひずみを待ちかまえているのがわかる。人の本音を探る、それが彼のやり方なのだろう。わざわざここで、イーツェンとかち合うようにルディスを待たせておいたように。
「彼らよりは、ルディスの両親に要求した方が早いと思う。ルディスは王宮で人気者というわけではなかったし」
「ああ、随分と我が侭なたちらしいね。君も、ひどいことをされた?」
 シゼが半歩出て、とがめる声を出した。
「アガイン──」
 右手をかるく上げ、イーツェンはそれをとめる。シゼとアガインを対立させることはできない。すでにシゼはアガインの意志に反し、仲間をあざむくようにしてこの城の戦いに引きこんだのだ。
 仲間や友の信頼をそんなふうに裏切ることが、シゼにとってどれほど苦しいことだったのかくらいイーツェンにもわかる。二度と、同じような思いをシゼにさせたくはなかった。させるわけにはいかなかった。
 シゼが口をつぐんで元の位置に下がったのをたしかめてから、イーツェンはアガインをまっすぐ見据えて、できる限り落ちついた声を出した。
「人質という扱いで留めおかれ、脚に鎖をはめられて暮らしていた。ご承知のように、とても快適という暮らしではなかった」
「そして鞭打たれ、奴隷の輪をはめられて、投獄された」
「あなたはよくご存知のようだ」
 まなざしを外さない。へりくだるつもりはないと、意志を声と態度にはっきりとにじませながら、イーツェンはアガインの表情の向こうにあるものを探ろうとする。アガインは目尻と唇に柔らかい微笑を浮かべていたが、彼の顔も目も何一つ感情をあらわにしてはいなかった。用心深く自分自身をどこかに包みこんでしまっているような、そんな得体のしれなさをイーツェンはアガインのやわらかな物腰に感じる。
「そう。あなたの話はよく聞いた、イーツェン。そう呼んでも?」
「どうぞ」
「ありがとう、私もアガインと。あなたはこれからどうするつもりだ、イーツェン?」
 声もしゃべり方もおだやかなままで、アガインがいきなり切り込んだ。イーツェンは小さく微笑する。
「それはあなたが私をどうしたいか、によるのでは? アガイン」
 シゼがまた半歩出た。
「イーツェンはリグへ帰る、アガイン。そうでしょう、イーツェン?」
 シゼの声に懇願に近いひびきを聞きながら、イーツェンは答えられずにアガインを見ていた。アガインがちらっとシゼを見上げ、イーツェンへ目を戻して、ゆっくりとした動作で腕組みした。
「どうやってリグへ戻る? 街道はふさがれた、そうだろう、イーツェン」
「山道を行く隊商があるはずだ」
 シゼがまた答える。アガインが目をほそめた。
「シゼ、君はその道を知っているか? どこにあるかわかっているか?」
「隊商を見つければ──」
 シゼは声に頑固さをにじませて、なおもそう抗ったが、アガインがあっさりとさえぎった。
「見つけて、どうする。けわしい山道を今のイーツェンにたどらせるのか? 旅慣れた隊商と同じ速度で? 獣も出る、山賊も出る、そういう道だろう、イーツェン。リグにたどりつく前に君は死ぬぞ」
 イーツェンは反論せず、シゼを見上げて小さくうなずいてみせた。アガインの言うことは正しい。そしてそのことを、シゼもわかっているはずだった。
 アガインが足を組みかえ、膝に頬杖をついて、髭の上から人さし指の先で顎を叩く。
「どうかな。体が治るまででいい。私を手伝ってくれないか、イーツェン?」
 あたたかな微笑を向けられて、イーツェンは沈黙した。
「ユクィルスに思うところがあるのは君も同じだろう。ユクィルスはアンセラを滅ぼし、リグを支配した。ユクィルスをしりぞけたとは言え、街道を使えなくなったリグの痛手は大きい。君の隣国のアンセラの残党もここには多くあつまっている。身が癒えるまででいい、何かと手伝ってくれるとありがたい」
 その声には真情がこもっていて、かつてのイーツェンだったら簡単に信じてしまったかもしれなかった。アガインは人を信じさせる力がある。彼が微笑し、人の心をのぞきこむようにまっすぐ見つめると、深い確信のようなものが心にわいてくるのを感じた。
 だがもはや、イーツェンは知っていた。人は自分の心を入れずとも、いくらでも他人にあたたかなまなざしや気遣いを向けられるものだ。それは嘘ではない。だが、それをくつがえすこともたやすい。悪意ではなく、時に善意から、彼らは人をあざむく。
 イーツェンはそれをジノンから学んでいた。そんなふうに他人を利用できる人間もいるのだと。
「アガイン」
 微笑を返して、イーツェンはたずねた。
「私をどうするつもりだ?」
「どうする、とは?」
「私は戦いを知らない。人を集めることもできない。金を集める役にも立たない。何に使う?」
 外の石壁を照らす午後の陽射しが強まったのか、扉がとざされた部屋の空気がねっとりと汗ばんでくるのを、服の下の肌に感じた。首の輪がべたつく。
 背中の痛みは弱まったりぶり返したりして、じんと背骨をうずかせていた。イーツェンは集中が途切れそうになる心をこらえる。アガインが何を求めているのか、イーツェンをどうあやつろうとしているのか、知らねばならなかった。
 アガインがふっと笑った。
「それは過小評価だ、イーツェン。君は自分が半ば伝説になっていることを、わかっていない」
「‥‥‥」
 不意をつかれ、イーツェンはぽかんとアガインを見つめる。アガインのなめらかな声が続けた。
「小国リグが呪法によってあざやかにユクィルスの兵をしりぞけたことは、この地の者たちにとって衝撃的だった。あれに勇気づけられた多くの者がユクィルスに対して立ち上がる気になった。ありがたいことにね」
 そんなことを、これまで考えたこともなかった。イーツェンはただリグのことしか考えていなかった。事が成ってからも、奴隷として城で冷遇を受け、はては投獄されて、目の前の一瞬をやりすごしていくだけで精一杯だった。
「そして君はユクィルスの王家に不幸をもたらし、姿を消した。リグの呪法で身を隠したと言う者もいる」
「不幸?」
「王の毒死。毒を盛って姿を消した王子は、君と親しかっただろう? 彼を君があやつったとの噂もあってね」
 オゼルクの怜悧な顔が脳裏をよぎり、イーツェンはかすかな笑いが自分の唇からこぼれるのを聞いた。アガインの声は奇妙に遠い。
「あれは毒ではなく、呪法だったと言う者も──」
「私には何の力もない、アガイン。そんなことを求めているならあなたは失望する」
「私が求めているわけではない、イーツェン。人がそういうものを見たがると言うことだ。君の名は、存在は、力のある旗となる」
 ──旗。
 背をのばし、目をみひらいて、イーツェンはアガインを見つめた。すとんと、腹の底に何かが落ちたようだった。アガインのほしいのは、それだ。
 アガインは微笑む。
「鞭打ちを生きのび、投獄を生きのび、こうしてここに来たのも縁だろう。君は何も特別なことをする必要はない。ただ体が治るまで、私たちと一緒にいてくれれば」
 一緒にいてどうする、とイーツェンは思った。アガインは目立つ布がほしいのだ。ひらひらと振って、人目を集め、人目をくらませるための。自分にそんな価値があるとはイーツェンには思えなかったが、アガインが手に入れたものは何でも使う男なのもわかっていた。
 イーツェンの名がそんなふうに使われることを、ユクィルスは許すまい。必ずイーツェンを追うだろう。罪人であり、逃亡者であり、そして反乱派の「旗」ともなれば、その追跡が苛烈をきわめることは予想できた。
 ローギスの、鉄の意志がみなぎる青い目を思い出すと、全身が凍りつくようだった。ローギスはイーツェンを許すまい。決して。
 背中が冷たい汗に濡れていた。イーツェンは膝の上にのせた拳をゆっくりと握り、力をこめて、声を保とうと気力を絞る。
「断る」
「何故?」
「リグには、ユクィルスとことを構えるつもりはない。ただ同盟を断ち、かかわりを断つだけだ。それが我らの決断だ。私の判断で、あなたがたの戦いに巻きこまれるわけにはいかない」
 アガインがおもしろそうに目をほそめた。何か言いかけようとする仕種を無視して、イーツェンはつづける。
「私の名を使うということは、リグの王子として動くということだ。あなたが求めているのはそういうものだ、アガイン。それはできない。リグの王はユクィルスとの戦いを望んだことはないし、私は王のゆるしなくしてリグの名を使うことはできない。あなたに使わせるわけにもいかない。たとえ私の命にかえても、それはできない」
「ユクィルスが憎くはないのか」
「これは、私の憎しみの問題ではない。ゆえに妥協はない」
 ゆっくりと、なるべく静かな口調でイーツェンは言い切った。アガインはイーツェンの言葉を交渉のためのはったりと取るかもしれないが、それは仕方ない。だがイーツェンはすべての言葉において本気だったし、それはつたえておかねばならなかった。
 ──憎くないわけがない。
 だが、それを表情に見せてはならなかった。つけこまれるわけには。
 アガインは頬杖から身をおこし、ゆるく腕を組んだ。
「ふむ。まあ、いい。また話そう、イーツェン」
「いえ」
 下がっていいとやんわり言われた言葉に、イーツェンは首を振る。ここでひいては駄目だと、はっきりわかっていた。ずるずると、このまま巻き込まれていくようなことはできない。
「アガイン、私は本気だ。あなたにもそれは理解してもらいたい」
「よかろう」
 自分を見つめる灰色の目がきびしさを増し、イーツェンは部屋の空気が変わったのを感じた。アガインの存在感がぐんと重くなり、すぐ目前にその姿がせまってくるような気がする。肌にちりりと痺れがはしった。
「では、どうする? どこへ行く。ルディスが戻れば、ユクィルスは君が生きていること、そして我々とともにいるということを知る。彼らは追うぞ。君は罪人で、いまだ病んでいて、そして奴隷だ。その輪をつけて、どうする気だ?」
「‥‥‥」
 その答えは、イーツェンがどうしても出せないものだった。この体で、首の輪をつけ、どこへ行けばいいのか。どうやって生きればいいのか。シゼもまたその答えを持っていないことを、彼は知っていた。
「君の望みは何だ、イーツェン?」
「‥‥‥」
 重苦しい沈黙に喉がひりつくようだった。半歩下がったところに立つシゼも、イーツェンの答えを欲しているのがわかる。彼らは二人とも答えを持たず、道を持たなかった。
 ──望みは。
 望みは、何だっただろう。あの城の暗闇でただ望んだことは。
(望みは‥‥)
 イーツェンは一瞬目をとじ、首を振った。
「協力はできない、アガイン」
「私の家系は代々、ルルーシュの寺院の祭主でな。ユクィルスはルルーシュを徹底的に弾圧し、祭主の血を絶やそうとした」
 アガインの声が意識に入りこんでくる。その声は静かで、ゆったりとしていたが、芯に鋼のようなしなやかさがあった。
「私の祖母は身ごもったままユクィルスの軍によって木に吊るされた。夜になって、死んだ体の中から赤子が落ち、それをルルーシュの者が救って育てた。それが私の父だ。父も母も私が子供のうちにユクィルスに殺された。奴らはいまだ、ルルーシュの者たちを狩っている」
「‥‥‥」
「ここにいるリッシュの故郷も、ルルーシュの寺院を奉じていたがゆえに火をかけられ、村人の多くが生きたまま焼かれた。シゼの故郷を攻め滅ぼし、奴隷として売りとばしたのもユクィルスの兵のしたことだ。そしてイーツェン、彼らは君に何をした? 君を踏みにじり、辱めた。ちがうか? 背に残った傷だけが君の傷ではあるまい」
「アガイン──」
 シゼがとめようと声をはさむが、アガインは聞かない。強い声は激しくイーツェンをゆさぶって、うねるような感情の中に引きずり込もうとする。彼の声はまるで火のようだった。
「そこから逃げるか、イーツェン。立ち向かうことなく背を向けようとするのか? それが君の誇りか。逃げて、どこへ行く? どこへ行ける。いずれまたとらえられて、牢へ戻るか? 牢で何があったか、覚えているだろう」
「アガイン!」
 シゼの怒号がイーツェンの耳に遠くひびいた。身の内をはいのぼってくるひえびえとしたものに心臓をつかまれ、イーツェンは息を吸いこもうとあえいだ。牢によどんでいた腐った泥の臭い、闇の中にたちこめた濃密な血の臭いがあざやかによみがえって、生々しい恐怖があふれ出してくる。
 歯を噛んで、イーツェンは前のめりに体を崩し、服の胸元をつかんだ。首の輪が小さく締まってきたかのようで、首が重く喉を息が通らない。怒声と、乱れる足音が耳元で交錯し、一瞬自分がどこにいるのか見失っていた。
 皮肉なことに、イーツェンの意識を現実につなぎとめたのは背中全体のうずくような痛みだった。ふるえる拳を握りしめて心臓に押し当てながら、イーツェンは痛む背をおこし、姿勢をまっすぐに戻そうとした。耳の中で激しく血の音が鳴って、音が反響したようによくきこえない。顔を上げる。
 シゼが壁に押しつけられ、その首元にリッシュが短剣の刃を当てているのが見えた。イーツェンは愕然とする。シゼは怒りもあらわな表情でリッシュを振りほどこうとしているが、いつ入ってきたのか、ギスフォールがそれを抱えこむようにして二人の間に腕を入れ、シゼを押さえつけた。
「シゼ──」
 声が喉にかすれて、イーツェンは激しく咳こんだ。アガインの座っていた木椅子がひっくりかえって、はじにのせられていた紙束が床に散乱している。当のアガインは一歩離れたところに立って、何事もないかのように冷静な顔で乱れた服を直していた。
 アガインを力ずくでとめようとしたシゼに、リッシュが割って入ったのだ。イーツェンはただうろたえて、救いを探すように部屋のあちこちへ視線をとばした。うまく集中できない。どうしたらいいのかわからない。
「落ちつけ、シゼ!」
 ギスフォールが大声でシゼを怒鳴りとばした。イーツェンははじかれたようにそちらをむいて、立ち上がった。背中にはしった痛みをこらえ、リッシュへ必死の声をかける。
「リッシュ。放してやってくれ」
「‥‥‥」
 リッシュはちらりとイーツェンを見てから、短剣を引き、つかんでいたシゼの襟首を放した。ギスフォールはシゼの利き腕を自分の腕に巻きこんで押さえつけたまま、何もさせない。シゼは壁によりかかり、それ以上抗おうとはしていなかった。
 イーツェンはアガインへ顔を向ける。アガインに殴られた様子はなく、少しだけほっとしながら、ふるえそうな声をおさえた。
「二人で話したい、アガイン」
「イーツェン──」
 シゼが声をかける。イーツェンは首を振った。
「大丈夫だ、シゼ。外へ出てくれ。アガインと話す」
「‥‥‥」
 シゼはそれでも動かずイーツェンを見ていたが、アガインがギスフォールにうなずいてみせると、ギスフォールがシゼの腕を引いた。
「行くぞ」
 ぐっと顎に力をこめて口を結び、シゼはギスフォールにつれ出されていく。リッシュはそれを最後まできびしい目で見ていたが、二人が出るとアガインに一礼して扉の外に歩み出、後ろ手に扉をしめた。
 まだ耳鳴りのような音がきこえる。耳の奥で小さな虫がうなっているような。
 イーツェンは一つ首を振り、椅子に座って、アガインを見上げた。アガインは油燭を壁のくぼみにうつし、イーツェンを振り向いたところだった。光の位置が変わったせいで、部屋に落ちる影もその形を変えていた。
「シゼを巻き込まないでくれ、アガイン」
「巻き込んでいるのは君だろう。‥‥そもそも、巻き込まれたのはこちらだしな」
 アガインはもう笑っていなかったが、その方が何故かイーツェンも向き合いやすかった、溜息をつき、イーツェンは背中の痛みに顔をしかめながら、首すじを用心深くさすった。汗でベタついているのに、全身が冷たい。ゆっくりと背中を立てて、アガインをまっすぐ見つめた。
「あなたが、ユクィルスを憎んでいるのはわかる。その戦いに己を賭けていることも。だが私は‥‥あなたがたの戦いに、リグの名を持ち込ませるわけにはいかない。それはできない、アガイン」
「では、どうする? 君は私の提案を蹴った。それはそれでいいだろう。だが、そうしておいてどうするつもりだ。私にシゼを巻き込むなと言うが、君は自分の運命にシゼを巻き込んで、次はどこへ行く?」
「‥‥‥」
 黙りこんだイーツェンを見おろしていたが、アガインは肩をすくめ、身をかがめてころがったままの椅子を直した。書類を拾い集め、腰をおろして紙束を膝の上でととのえる。
「我々はアンセラの残党とも手を組んだ。ユクィルスの反王党派の一部も取り込みに成功している。戦いは長くはかからないよ、イーツェン」
「‥‥そういうことが問題ではない」
「君がどう決心しようと、私にはあまり選択の余地がないのだ」
 あっさりとした口調だった。アガインは灰色の目でまっすぐにイーツェンを見る。
「ここで騒ぎを起こして人目を引くのは、ルルーシュの者の望みでもなかったしな。私に軽々しく判断できたことでもないんだよ、イーツェン」
「それは申し訳ないと思う。感謝もしているが、私にも、選択の余地はない」
 アガインは灰色の目でまっすぐにイーツェンを見据えた。深く、沈むものを秘めた、だが強靭なまなざしだった。
 この目をどこかで見た、とイーツェンは思った。何かを信じ、守ろうとする者の、誠実で残酷な、犠牲をためらわない目だった。
(──牢だ)
 ふっと背すじを冷たいものがつたいおちる。
 何かを守ろうとしてイーツェンに自分の命を断たせたあの男の、一途なまなざしがよみがえって、イーツェンは全身に重苦しい疲れを感じた。同じ目だ。アガインもあの男のように自分の仲間を、この戦いを守ろうとしている。その思いの前に、イーツェンの存在や意志などささいなものでしかないのだった。
 この男に、イーツェンの言葉は通じないだろう。彼を動かすような言葉をイーツェンは何一つ持たない。
「できることなら協力してほしいが、嫌だと言われてもどうしようもない。君が生きていること、我々といっしょにいることなどすぐユクィルス側に知られるしな。放っておいても、君の名は表に出るだろう。ユクィルス側はおそらく君の引き渡しを要求してくる。ルルーシュの上の者は、君が協力しないならば取引の駒として使うかもしれない。私はユクィルスとの取引には反対だが、どうしてもというわけではない」
「‥‥‥」
「私は君を傷つけたくはない。だが、使えるものをむざむざ放っておくこともできない。君の名は今やそれだけの力を持っている、イーツェン」
「‥‥今の私は、名なしだ」
 かわいた唇で、イーツェンは溜息のようにつぶやいた。それは本当だった。リグの王からの声明をユクィルス王やローギスの前で読み上げ、真実の名を彼らの前で名乗った。自分の名によって、王の言葉が真実であると誓言するために。
 その行為によってイーツェンは名を失い、王からふたたび名付けられるまでは通り名以外の名を持たない。今は、名なしの存在であった。
 アガインは唇だけでちらっと微笑して、答えない。そんなことは問題ではない、と言うことだろう。アガインが求めているのがただ飾りとしての名前だということは、イーツェンにもわかっていた。
 痛みと疲労で丸まっていた背すじをまたのばし、イーツェンはアガインを見つめ返した。
「あなたが何をしようと、私にとめるすべはない。それはわかっている、アガイン。でも一つはっきりさせておくが、私はリグの名をあなたに使わせるつもりはない。あなたがルルーシュのためなら何でもするように、私はリグのために何でもする」
「帰るすべもない、君を切り捨てた故郷にそこまで義理立てか?」
「好きに言えばいい。あなたも失われたもののために戦っている。心の中だけにあるもののために」
 言い置いて、イーツェンは用心深い動作で立ち上がった。つまらない見栄をはらずに杖を持ってきておけばよかったと、きしむような背骨の痛みに後悔する。体が重く、輪が首のつけ根にくいいってくるようだった。
「私たちにはほかに方法がなかった。手段をえらぶ余裕などなかった。‥‥だから、あなたの意志はわかる、アガイン。理解できる。でも協力はできない。本当に、できないんだ。だから‥‥私を責めるのはいいが、シゼに圧力をかけるのはやめてくれ。彼は私を救おうとしているだけだ。これ以上彼を苦しめないでくれ」
「シゼのためにも、私に協力できないか?」
 それは、半ば脅しだった。それを感じ取りはしたが、イーツェンはゆっくり首を振った。リッシュに短剣をつきつけられていたシゼの姿を思い出すと、胸が裂けるように痛む。彼らを対立させるようなことはしたくなかった。ここにいるのはシゼの友であり、仲間なのだ。だが、この最後の線は絶対にゆずれない。
「もしあなたの望みが私を奴隷として使うことや、一日中穴掘りをさせることだったなら、そういうことには従える。何でもする、アガイン。だが、リグの名だけは、だめだ」
「今の君が持っているのは、その名前と身分だけなのにか」
 少しばかりあきれた声だった。イーツェンがじっと見ていると、アガインはふうっと息をつき、手と手を打ち合わせた。
「わかった。三日のうちに君の処遇を考えよう。三日たったら我々はここを動く。それまでは客人として安全を保証する、イーツェン。水と塩と寝床は提供しよう」
「その間決して、私の名を使わない?」
 アガインはうなずいた。
「使わない」
「感謝する。私の持つ水は、あなたのものだ」
 客へのもてなしと主人への感謝をあらわす古い言い回しを交わし、イーツェンはかるく頭を下げた。手を打つのはアガインの合図だったのか、扉がひらいて、イーツェンはそちらへと歩き出した。
 待ち合い廊下に出たが、そこにはリッシュとギスフォールの姿しかない。イーツェンが周囲を見回すと、ギスフォールが歩みよって低く耳打ちした。
「先に戻らせましたよ」
「‥‥ありがとう」
 ギスフォールがそれを強要するほどに、シゼは頭に血がのぼっていたということだろう。イーツェンは力のない声で礼をつぶやいたが、同時にほっとした吐息が唇からこぼれ、彼はシゼに会いたくないと思っている自分に気付いた。今、この瞬間は。行くあてを失い、なすすべのない自分を見られたくなかった。
「大丈夫ですか?」
 ギスフォールは本当に心配そうだった。イーツェンはまたうなずいたが、角塔から歩み出た体はふらついて、彼はさしだされたギスフォールの左腕につかまった。倒れそうだった。
「すまないが。‥‥中庭へ、出てもいいか。顔を洗いたい」
 シゼに会う前に落ちつかねばならなかった。考えを整理して、己のことをさだめねばならない。どうするか。どんな道が残されているのか。
 半ばギスフォールの肩を借りるようにして一階へ降り、首の輪と、不釣り合いに上等な服装へ人の好奇の視線を受けながら、イーツェンはうつむいて歩いた。中庭へつづく扉をギスフォールが開く。顔を上げ、見上げた空は青白い光に満ちていたが、イーツェンの全身は冷たい汗に濡れていた。


 ギスフォールが井戸からすくいあげた桶の水で手と顔を洗い、イーツェンは洗濯場のすみに座りこんで顔を拭った。中庭を通りすぎるゆるやかな風が髪を揺らし、ほてっていた肌を涼しく冷やす。
 揺れる洗濯物の間に座っていると、布を透けた光が水紋のように地面で交錯しているのが見えて、少し心が落ちついてくる気がした。頬にはりつく濡れた黒髪を指で払い、イーツェンはふと、湯浴み場でシゼの指が同じように髪を払った時のことを思い出した。あのやさしい指。あの瞬間、自分がふしぎに満ちたりていたことも。
 体も心も痛みが深く、恐怖の傷跡がくっきりと刻みこまれたまま、だがそれでも満ちたりていた。
 この城館ではじめて目をあけた時、シゼの姿を見た瞬間。あの時も。心の中にやわらかな光を感じていた。
 ──あれでよかったのかもしれない。
 あれだけで。あの瞬間。その一瞬。それだけで、すべてのことに意味があったのかもしれない。そう思って、ふとイーツェンは微笑した。
 あんな時間は長くつづかない。彼らのどちらも、それは知っていた筈だった。
 夏の空気は熱をはらんでいたが、風は肌に心地よかった。中庭には時おり人が行き交っていたが、洗濯物の間に引き込んだイーツェンに誰も声をかけず、そばに立つギスフォールも何も言わなかった。
 地面に黒い線が動いている。蟻が、くねった列を這っていた。どれほどすぎたのだろう。それをぼんやり眺めていると、ふいにその上に影が落ち、イーツェンは顔を上げた。
 シゼが立っていた。イーツェンの杖を左手に持っている。シゼは沈欝な表情のまま身をかがめ、杖をさし出した。
 イーツェンは微笑してそれを受けとり、地面に杖をついて立ち上がった。