無事で戻ったというシゼからの伝言をギスフォールが持ち帰り、イーツェンとソウキはそのまま部屋で待った。
城は一気に騒がしくなって、城の庭に野営地でも張るのか、大きな巻き布を持って歩く人の姿が窓からも見えた。ざわつく物音にイーツェンは落ち着かないものの、ただシゼを待っていた間の底の深い静けさよりは、こちらの喧騒の方がずっと気はまぎれた。
どのくらいの兵数がいるのか、ここにやってきたのか、イーツェンには見当もつかないが、彼らの動きはよく統制が取れているようで、二人のいる部屋に誰かが踏み込んでくることもなかった。城内の略奪が行われている気配もない。アガインは、自分の兵をよく掌握しているようだった。
日が傾きかけた頃になって、シゼが夕食を片手に部屋へ戻ってきた。その姿は土で汚れ、イーツェンは目を見張る。窓から見た時には、そんなふうに泥まみれではなかった筈だ。
「どうした?」
「外囲いをつくるそうで、杭打ちの穴を掘ってて‥‥」
シゼはすまなさそうに言って、四角い脚付盆をソウキへ渡した。盆の上には丸いパンとチーズ皿、豆の入った平杯がのっている。さすがに手は洗ってきた様子だったが、顔にも服にも泥がついていて、イーツェンは布に水差しの水を含ませると、シゼに寄って額の土を拭った。
「怪我は?」
「手に擦り傷が出来ただけです」
真面目な顔で、そう言う。穴掘りでつくった傷のようだ。イーツェンはシゼの手を見て、大したものではないと判断し、ほかに戦いの傷がないかどうか確かめてからシゼの手をはなした。
「無茶をする‥‥」
思わず呟きがこぼれる。仲間、友、命。イーツェンのために何もかもを賭けた。
シゼは少しイーツェンの顔を見ていたが、ソウキの持つ盆をさした。
「食べませんか。腹が減った」
「何も食べてないのか?」
「昼前に食べたのが最後ですね」
三人は、車座になって食事をわけ合った。ユクィルスの城での晩餐とはくらべものにならない、スープも肉もない粗末な食事だったが、イーツェンにとってこうしてシゼの帰還を迎えて食べる食事はなにより美味しい。言葉通り腹が減っているらしいシゼの、いきおいのいい一口に食べ物がどんどん消えていくのを見るのは、爽快だった。
シゼは固いパンをぱくついていたが、一通り食べて腹も落ちついたのか、水を飲みながらイーツェンの様子を見た。
「随分と元気そうですね。顔色もいい」
「もう、杖を使わずに散歩されるんですよ」
何故かソウキが得意げに自慢して、シゼは微笑した。イーツェンも笑って、食事用の短剣の腹でチーズを薄く切り、その一枚をシゼのパンの上にのせた。
城内にいる者たちの名簿を作っているとのことで、食事を終えるとソウキは書記に会いに部屋を出ていった。イーツェンの名はもう上げられているので行く必要がないとシゼに言われ、イーツェンは少々気が重くなる。いきがかり上無理もないが、特別扱いされていると言うことだ。
シゼは、さしもにくたびれた様子で長櫃にもたれ、両手を上げて背中をのばした。イーツェンは立て膝に頬杖をついて、シゼの顔をながめる。
「アガインには、いつ会えばいい?」
手を下ろして、シゼは少し困った顔でイーツェンを見た。
「ギスフォールに‥‥」
「あらかた、聞いた」
なるべく平然と、何事でもないようにイーツェンはうなずく。どうしてそんな危険な真似をしたのかと、シゼをとがめることなど出来なかった。シゼがルディスをあざむき、アガインを引きずり込んだのは、イーツェンのためだ。
シゼはうなずいて、あぐらに座り直した。
「そうですか。今、アガインは近くの村へ行っています。戻るのは明日以降になるので、それからでしょう」
食料の徴発に行ったのだろうか。城館がここにある以上、周囲にそれを支える荘園や村があるということだ。イーツェンは生ぬるい水を一口飲み、軽い調子でたずねた。
「どんな人だ?」
「そうですね」
口元を引きしめ、視線を上に据えて、シゼはしばらく考え込んでいた。やがて、そこまで迷うような問いなのかとイーツェンがとまどい出した頃、ゆっくりと答える。
「少し、変わった人ですよ。怖い、と言いますか」
「怖い?」
イーツェンはまばたきした。シゼが人を評して口にするには、らしくない言葉だった。
「気性が荒いとか?」
「いいえ。物腰はおだやかな人です」
「じゃあ‥‥」
「何と言うか‥‥」
言葉が途切れて、シゼはどう言えばいいのか逡巡しているようだった。ぐっと口を結んで考えこむ。イーツェンは手を振った。
「いい、いい。会えばわかるだろ。会わなければ何もわからないし」
「そうですね」
何か言いたそうではあるのだがうまく言葉にならない様子で、結局、シゼはうなずいた。その様子がおもしろくなって、イーツェンはふふっと笑みをこぼす。アガインがどんな相手なのかは結局さっぱりわからないし、怖くはあるが、今いたずらに恐れるのは人の影を恐れるようなものだった。
「泥を洗ってきます。ソウキが戻ってくるのを待ちましょうか?」
立ち上がりながらシゼが心配そうに見たので、イーツェンは首を振った。城内は人もふえ、無人だった三階にも人の足音やしゃべり声が行き交っている。そのことに少し圧迫感はあったが、充分ひとりで待てると思う。
「大丈夫だ」
シゼは一つうなずくと、替えのシャツを長櫃から出して足早に出ていった。腰の後ろへ回した長剣の鞘が揺れ、きびきびと歩く姿がしまる扉の向こうへ消える。シゼはあの剣で誰かを斬ったのだろうかと思ったが、面と向かって問うことはとてもできなかった。
──とにかく、無事でよかった。
そう思い、イーツェンはふとその言葉をシゼに言っていないのに気付く。無事でよかったと、戻ってきてうれしいと、言葉をかけるのを忘れていた。今さら後から言うのもおかしいだろうかとか、いかにもとってつけたようになるだろうかとか、とりとめなく考えてしばらく呑気に時間をつぶす。
扉が鳴った。イーツェンが返事をするより早く開き、大柄な男がぬっと上半身をつき出して室内をのぞきこんだ。
「失礼。シゼは?」
「泥を落としに、下へ‥‥」
一瞬どもってから、イーツェンは舌を押さえつけるようにどうにか答えた。不意の出来事に心臓が大きくはねている。
シゼと同じ、いやそれよりも強く灼けた肌の男で、肩下までの髪を細い編み込みに分けて垂らしている。その赤毛に見覚えがあって、イーツェンはまばたきした。記憶が混濁した渦のようにもつれ、そこからしぶきがはねるように古い光景がいくつもよぎる。一瞬、なにもかもを見失いそうになったが、記憶のふちにしがみつくようにしてどうにか心の平衡を保った。
木剣の鳴る音と、あの訓練場の土埃の匂いがよみがえる。そう。この男とシゼとの、荒々しくもどこか美しく、イーツェンをひきつけてやまなかった刃の打ち込みも。彼は手斧を持っていた。
「リッシュ‥‥?」
「お、覚えてましたか」
陽気に顔中を笑みにして、リッシュは扉から半歩入った。
イーツェンが城でシゼから剣の稽古を付けてもらっていた時、練習場でよくいっしょになった男だ。ユクィルスの傭兵で、シゼの友人でもあり、イーツェンがほかの兵と並んで習練をせずともいいように、よく横に陣取ってくれていた。
リッシュは上から下までじろっとイーツェンを眺め、ずけずけと言った。
「似合いませんな、その輪」
「あ‥‥」
「ひどいことをする」
顔をしかめた。
同情的な物言いではあったが、首の輪の感触を強く意識させられたイーツェンは全身が熱くなるのを感じ、ついで血が引くように体の芯が冷たくなった。
リッシュが悪いわけではない。もう輪の存在にも慣れた。ただ、この輪のことを人の視線で思い知らされるたび、イーツェンはまだ自分が囚われの身だと感じる。あの城から、あの牢獄から鎖がのびて、この首輪につながれているような。
そっと、リッシュに気取られないよう膝の上で目立たない拳をつくり、息を一つ吸って、イーツェンはリッシュにあいまいな微笑を向けた。
「シゼに、何か?」
「城内の武具倉庫の数をね。調査は終わったんですが、見落としがないかどうか‥‥」
「ギスフォールもよく知ってると思う。この何日か、調べていたようだから」
「ん。じゃ、下でどっちかつかまえてみます。どうも」
ひらひらと手を振って、リッシュは来た時と同じような勢いで姿を消した。部屋がいきなり広くなったように感じ、イーツェンはいつのまにか肩に入っていた力を抜いて息を吐き出した。
汗ばんだ手のひらをズボンにこすって、しばらく座っていたが、すぐに落ちつかなくなって立ち上がる。部屋を左右に歩き回りながら、まだ乱れて揺らぐ気持ちをなだめようとした。息苦しい首すじに手をあて、輪の上からさする。
少しでも気をゆるめると、心にひびが入ってバラバラに砕けそうな気がした。何を怖がり、何に慌てているのかわからないまま、イーツェンの体も心も彼の意志を裏切ってどうしようもなく脆い。
また扉を叩く音がしてびくりと立ちどまる。開いた扉から、ソウキが顔を見せた。明らかに硬いイーツェンの雰囲気に、少年は小首をかしげる。
「どうかしましたか?」
「‥‥何でも、ない」
首を振ったイーツェンにソウキはけげんな視線を向けたが、それ以上問わず、下からもらってきたらしい油燭を壁のくぼみにおさめた。まだ火はついていないが、室内はそろそろうすぐらい。ソウキが何か言いたそうに自分を見ているのに気付きはしても、イーツェンは人と話す余裕がなく、窓の外へ顔を向けた。
遠く、森を風が抜けるような音を聞いた気がしたが、細い窓の向こうにはにごったような薄闇がひろがり、城を囲む杭柵のとがった先端がぼんやりと見えるだけだった。
翌朝、何かを命じるはりつめた大声に目をさまして、イーツェンは眠気を払おうと頭を振った。声は続けて独特のふし回しで何かを怒鳴る。イーツェンはそれを知っていた。ユクィルスの城で兵の訓練をする男たちが、よく、そういう高圧的で、遠くまで通る声を出していた。
部屋にシゼの姿はない。四人で敷布を床にならべて雑魚寝しているのだが、敷布に残っているのはイーツェンとソウキだけで、ギスフォールも木の櫃の上に座って壁にもたれ、宙をながめていた。
珍しく、ソウキがまだイーツェンの横で寝息をたてている。昨日、日が暮れてからも何度か部屋から出ていって、彼は何か気になることがある様子だった。ギスフォールがまめに付き添っているのでとりあえず心配はないだろうと思って、イーツェンはひとまず放っておいた。どちらにせよ、ソウキの行動に口を出す権利はない。思いもかけずに巻き込んで、こんなところまで来てしまったからにはソウキの先行きが気になっていたが、今はどうしようもなかった。
開いた窓から入ってくる風の香りは、まだ涼しい早朝のものだった。前庭からまた号令のような声がして、イーツェンが窓の方を見ていると、ギスフォールが低い声で言った。
「訓練ですよ」
「‥‥昨日の今日で?」
「いや。兵の訓練じゃない。村の連中」
「村って、この近くのか」
「ほかにないでしょう」
寝起きの回っていない物言いを揶揄したようではあったが、ギスフォールの声には親しみがこもっていた。もつれた髪を指で梳きながらイーツェンは小さな笑みを返す。朝はどうしても背中が痛んで、すぐ立ち上がって窓に歩みよるというようなわけにはいかない。うずくまるように膝を胸に引き寄せて座ったまま、背が少しでも楽になるよう膝をかかえた。
「そうだな。でも、どうして? ここを拠点にして、村人を徴兵でもする気か?」
「いや。アガインは何日かのうちにこの城を捨てる」
「捨てる?」
馬鹿のように、ただおうむ返しにしてしまう。一呼吸おいて、イーツェンはつぶやいた。
「近すぎるか。それで、彼らを訓練してこの城を残す?」
パチン、とギスフォールが右手の指を鳴らした。
「悪くない読みですな。ユクィルスの本城に近すぎますからね」
指の音に反応したソウキが、むくりと起き上がった。自分に何かを命じた相手を探そうと、まだ眠そうに周囲を見回し、イーツェンとギスフォールを見てきょとんとした。
ギスフォールが手を振って、あやまる。
「すまん。俺だ」
「‥‥おはよう、ございます」
イーツェンとギスフォールのそれぞれに頭を下げたが、ソウキはまだ焦点の合わない表情で頭を振った。
イーツェンは立ち上がろうとして、背骨の内側をえぐるようなふいの痛みに動きをとめる。なるべく何でもないような顔をして、息をつめたまま慎重に重心を戻して座った。その間にギスフォールが壁に沿って歩き、水差しを取ってソウキの目の前に置く。
ソウキが礼を言って水を飲むのを見ながら、イーツェンはそろりと溜息をついた。まったく、本当に、役に立たない。外の傷はふさがっても、ずたずたにされた筋肉が癒えていくまでは長くかかるだろうとシゼは言った。
苦痛というものがこうまで自分を無力にするなどと、イーツェンは考えたこともなかった。
ギスフォールは扉の方へ戻らず、敷布をまたいでイーツェンのそばに身をかがめた。
「どうぞ」
そばの床に水の入った真鍮のカップを置かれて、イーツェンは男の顔を仰ぎ、うなずいた。
「ありがとう」
「ワインとか?」
低い声で、ギスフォールはたずねる。痛みをまぎらわすのにどうか、という意味を汲みとって、イーツェンは首を振った。
「飲むと痛むんだ」
どうもイーツェンは酒と相性が悪いらしい。それを聞いて、ギスフォールがひどく深刻な顔をした。
「難儀ですな」
心底しみじみと言われて、イーツェンは思わず笑ってしまった。酒が好きな男なのだろう。
ギスフォールはそばの敷布のはじを足でぐいとのけて床に座りこみ、腕を組んだ。
「村に療法師がいるそうですよ。呼んでみますか」
「‥‥シゼに相談してみる」
「ふうむ」
イーツェンのためらいの理由を見抜いたのだろう、ギスフォールは鼻先で軽く話を流した。
首の輪と、鞭打ちにはぜた背の傷。この二つをあわせればイーツェンがユクィルスの逃亡奴隷なのだとすぐ知れる。人の口からどう噂がはしるかわからないし、もし城の事情に通じた者が聞けば、イーツェン本人のことまで思い当たるかもしれない。
それに、イーツェンは見知らぬ人間にふれられることに今の自分が耐えられる気がしなかった。誰の手も、指も。
前庭からは相変わらず、掛け声がひびいてくる。大勢が声を合わせたようなそれは、どこかしら間が抜けて不ぞろいに聞こえた。普段は武器を手にしたことのない者たちに訓練を施しているのだろうと思って、イーツェンはギスフォールへ顔を向けた。
「彼らにこの城を守らせるのか?」
「あなたも言ったでしょう。ここは本城に近い。でかい街道からは離れてますが、戦いがおこれば巻き込まれる可能性はある。そうでなくとも、世が荒れてくれば略奪もおこりますからね」
ギスフォールはそう言いながら足の位置をうつし、敷布をたたみはじめたソウキの邪魔にならないようにした。
「その時に村人がこの城に逃げ込んで自分を守れるよう、訓練をしてるんです」
「アガインの考え?」
「そう。アガインは──と言うか、ルルーシュの連中はあちこちでそうやって村の人間を訓練してます。盗賊から身を守ったり、無法な小領主に剣を振り上げたりできるように」
口のはじでニヤッと笑ったギスフォールの言葉に一つ納得して、イーツェンはうなずいた。
「そうやって、各地の反乱を誘発したな?」
「あなたはね」
意を得たりとばかりに、ギスフォールがいきなり指をさしてイーツェンをおどろかせる。
「それだけ勘のいい口がきければ、アガインに気に入られますよ」
イーツェンは立てた右膝に肘をのせ、目をほそめた。
「気に入られた方がいい相手、ということか。参考にする」
「‥‥そういう口のきき方は、やめた方がいいですね」
敷布を部屋のすみへ片づけながら、ソウキが小さく笑い出した。
シゼは昼すぎに一度戻ったが、また忙しそうに去った。村人の訓練を指揮しているらしい。教えるのが上手だからそれは向いているだろうとイーツェンは思い、ふと自分の手を見下ろした。
かたわらに寝かされた杖を拾い、やや手元を余して棒の途中を握る。
かるく振ってみようとして、背中の内側が引きつれる強い痛みに顔を歪め、イーツェンは杖を床へ戻した。腕を真上に上げることもまだ出来ないのに、剣を振ることなどとても無理だろう。シゼに剣を教わっていた時のことを思い出そうとしたが、どうやって自分の体があれほど自由に心地よく動いたものか、今となってはまったくわからなかった。
珍しくソウキも午後いっぱい姿を消しており、ギスフォールも途中からシゼの手伝いに駆り出されたため、イーツェンは部屋で一人ですごしていた。人にいちいち面倒を見てもらうよりは放っておかれる方が気楽だとは言え、さすがに退屈で、少しばかり不安な気持ちにもなる。
アガインはまだ帰ってこないらしい。彼は墓を掘っているのだと、シゼは言った。ルディスの兵との戦い、そして短かったとは言えこの城を陥落させる時の戦いで、数人の死者が出た。彼らをとむらってもらえるように村にたのみ、墓地のはじに場所を借りて、仲間たちとともに死者のための墓を掘っているのだということだった。
死者のとむらいをおろそかにはしない。それは、兵を率いる者の責任でもあるだろう。
墓のことを思うと、ふとレンギのことも思い出されて、イーツェンは落ち着かない気持ちになった。シゼはユクィルスの城を去る時にレンギの骨を掘り出して持ち去ったが、そのことについてまだお互い話していない。イーツェンは、レンギの故郷に行く商隊に骨のとむらいを託すことをすすめたから、シゼはきっとそうしたのだろうと思っていた。機会を見つけて確かめてみるつもりだったが、ソウキやギスフォールのいるところでは聞きづらかったし、そうでなくとも持ち出しにくい話だった。
──レンギは、故郷に戻れたのだろうか。あるいは、故郷のあった場所に。
イーツェン自身、きっとユクィルスの地に、とむらう者もなくうずめられるだろうと思っていた。ユクィルスは裏切りに寛容な国ではない。死ぬことは怖くはなかったが、誰も知らない、誰もとむらわないところで己が朽ちていくのだと思うと、それは恐ろしかった。自分の存在そのものが、まるで朽ちるようにそのまま消えてしまうことが。
アガインが墓を掘るのは、そのためだろうとイーツェンは思った。彼らを覚えておくために。死者が朽ちても、忘れ去られないように。決して彼らの命を無駄にしないと告げるために。
ぼんやりと考えをめぐらせながら、イーツェンは窓際に立って前庭を眺めていた。アガインは、何人もの死者をそうやって埋めてきたのだろうか。彼らはずっと戦ってきた。それがどんな日々なのか、イーツェンには想像もつかない。
部屋の外を足音が行き交う。それにまじって、扉が鳴る音が聞こえた。やや控えめな音はソウキのものだと慣れた耳で聞き分けて、窓際から振り向くと、やはり少年が入ってきた。
ぱっと明るい笑みをうかべ、ソウキは足取りをはずませてイーツェンへ駆け寄る。
「イーツェン!」
その声の明るさにおどろいて、イーツェンは目をみはった。ソウキは息をつく暇もなく笑顔でつづける。
「兄さんが、南の砦にいるそうです!」
「本当か?」
イーツェンの声もはずんで、彼は思わずソウキの手をつかんだ。ソウキがうなずく。その目がうっすらと潤んでいるのを見て、イーツェンは胸を衝かれた。
「はい。ルルーシュの砦の一つにいるって。名前が兄さんと同じで、出身の村がいっしょなんです。同じ砦にいたことのある人に聞いてみたけど、年頃も合うし、別れ別れになった弟を‥‥探して、いたそうです」
最後の言葉を言うソウキの声がふるえ、イーツェンは無言でソウキの体に腕を回した。イーツェンにもたれまいとしながらも身を寄せてくる、ソウキの背中をなでる。
「よかった。‥‥本当によかった」
「‥‥俺の両親は、口減らしに俺を売ったんです」
ソウキの声はイーツェンの肩口に湿って、くぐもっていた。
「兄さんはそれに気がついて、俺が売られる前の晩、親父を殴って、俺を家からつれ出して‥‥でも村を出る前につかまって、二人とも死ぬほど殴られた。‥‥気がついたら、もう、売られた後だった」
肩をふるわせて小さくしゃくりあげるソウキの背をなでながら、イーツェンは低くあいまいな言葉でなぐさめを呟いた。泣いているのだろう、ソウキの体は熱かった。
しばらくたってから、顔を拭い、ソウキは照れた笑みをイーツェンへ向けた。二人は敷物がわりにたたんだ敷布の上に腰をおろして、イーツェンはソウキがつづけるはずんだ言葉に耳をかたむける。純粋な喜びにあふれた声を聞いていると、自分の中によどんでいるものが洗い流されていくようだった。
「ギスフォールがその話を聞いて、俺と同じ出身の人を知らないか、皆にたずねてくれたんです。それで、わかって‥‥さっき、兄さんに会ったことがあるという人に話を聞いてきました」
「そうか。よかった。会いに発つのか?」
「はい」
「いつ」
「たぶん、明日」
それを言うソウキは少し言いづらそうだったが、イーツェンは微笑した。いきなりの別れではあるが、これはイーツェンが幾度も経験した身の引きちぎられるような別れではなく、もっとあたたかく、希望に満ちたものだった。
膝の上に置かれたソウキの手に自分の手を重ね、イーツェンは力をこめて、祝福の思いをつたえる。
「よかった。本当に、よかった。誰かにつれていってもらうのか?」
「はい、その砦に戻る人を、ギスフォールが探してくれて。この城の補給品を持って明日にも向かうそうです」
「じゃあ安全だな。あっちに行って、どうするか当てはある?」
ルルーシュに反乱兵として加わるにしても、ソウキは戦いに向いているとは思えないし、決して平穏な先行きものぞめない。心配したイーツェンへ、ソウキは歯を見せて笑った。
「兄さん、砦で料理長についてパン焼きを習っていたそうです。俺もそこでいっしょに働かせてもらいます。砦の中に学校のようなものもあるんだって」
「そうか‥‥」
深く、イーツェンはうなずいた。それからソウキの膝をかるく、親しみをこめて叩く。
「元気で。本当なら何か餞別をあげたいんだけど、何も持っていないんだ、ごめん」
「いえ」
とんでもない、と首を振ってから、ソウキはおずおずと切り出した。
「その‥‥もし、嫌でなければ、髪をひとふさいただけませんか‥‥?」
「そんなものでいいか?」
ソウキはうなずいて、少しの間黙っていたが、顔を上げて小さく笑った。
「あの時‥‥イーツェンが俺をかばってくれた時、本当にうれしかった。いつもあなたは、俺を大切にしてくれた。自分が死ぬかもしれない時でさえ」
「‥‥‥」
「売られてから、人に大事にされたのははじめてでした」
イーツェンはゆっくりと首を振った。城の男の慰みに使われていたソウキの姿を見て感じた怒りは、ソウキのためというより、自分のためだったような気がする。自分の身に受けている屈辱への怒りを、あの男たちへぶつけた。それは決して、純粋に他人を思いやってのことではなかった。
身勝手な理由ではあったが、ソウキを助けられてよかったと心底思う。同時に尊敬のまなざしを向けられるのが恥ずかしくなって、イーツェンは照れ隠しに微笑した。
「お前が私を助けてくれたんだ、ソウキ。お前こそ、私の恩人だ。決して忘れないよ」
一瞬だけ反論のそぶりを見せたが、ソウキは目に涙をにじませて微笑した。その笑みは誇らしげで、イーツェンはあたたかな気持ちに満たされる。
思いもかけぬ縁であの城で出会って、今また別れゆく。こんなふうに思いがけなく人と人の運命が重なり合うことを、イーツェンは不思議だと思う。レンギと出会い、シゼと出会い、ソウキと出会った。この地でそんなふうに友と呼べる相手を得、誰かに気持ちをゆるしたり、心を預けることがあるなどと、リグを発った時には想像もできなかった。そのことが、これほどまでに切なく胸にしみるものだということも。
その日アガインは戻らず、イーツェンは髪のひとふさを細くきつく編むと、夜になって姿を見せたシゼにたのんでそれを切ってもらった。ついでに、長くのびた髪を肩の少し下あたりで切りそろえる。
髪の房のはしは、蝋にひたして固めた。ソウキにそれを手渡して額に祝福のくちづけをすると、ソウキは顔を赤くしながら満面の笑みを見せ、希望にあふれた笑顔を見つめてイーツェンも微笑んだ。
ギスフォールが貯蔵庫から林檎酒の壺を持ち帰り、四人は別れの前夜の祝杯をかわした。久々に飲んだ林檎酒は、保存の状態が悪いのか口が曲がりそうに酸いものだったが、イーツェンを含めた誰もがそれを美酒のように心地よく飲んでいた。
翌朝、まだ空に白い光がさしはじめたばかりの頃、イーツェンは城館の門の脇に立ってソウキの旅立ちを見送った。荷をくくりつけた荷馬車を城の荷馬につなぎ、それを三台つらねたものを一つの隊に仕立てて、二十人近くが前後を群になって歩く。その多くは成人した男たちだったが、中には女子供もいて、イーツェンはおどろいた。
「アガインは、焼け出された孤児や未亡人の世話をしているんですよ」
あれは誰、と子供たちをさしたイーツェンへ、シゼが答える。二人は城の建物の前に立ち、前庭から木の落とし戸をくぐり、さらに大きな城門を出て行く隊列を見送っていた。ギスフォールは村外れまで彼らを送っていくということで、先導隊に入っている。
人の背中の間に見え隠れするソウキの後ろ姿を見つめながら、イーツェンはうなずいた。
「ああ‥‥ルルーシュの寺院はかつて、孤児やそうしたよるべのない人たちを受け入れる場でもあったそうだからな」
「そうなんですか」
「うん。彼らは寺院へ?」
「隠れ村のようなところがあって、そこでしばらく暮らすと思います」
ソウキが振り向いて手を振ったのが見えた。ガラガラと轍の音をひびかせて荷馬車が遠ざかる。杭柵に口をあけた門の向こうには、生け垣で区切られた荘園と果樹園がひろがっており、道はその生け垣の間へと消えていた。
肩の上あたりまで右手を上げ、イーツェンは痛みに用心しながら手を振った。ソウキから見えるかどうかはわからない。ギスフォールが用立てたという旅用のマントに身をつつんだ姿を目で追いながら、つぶやいた。
「ソウキの兄は、砦でパンを焼く修業をしているそうだ。ソウキもそこで学べると‥‥そういうのもアガインの考えか?」
「そうですね。学べる者は、戦いの外で生きるすべを学ぶべきだと。そう言っていました」
「そうか‥‥」
大きく胸に息を吸いこみ、吐き出して、イーツェンはもう小さくなった荷馬車から目を離してシゼを見た。
「立派な人なんだな。それなのに、怖い?」
シゼが真面目な表情で首をひねる。イーツェンは手をのばしてぽんぽんと彼の二の腕を叩いた。
「真剣に悩まないでいい。いつ会える?」
「多分、午後早くに」
アガインはこの夜中に戻ってきたそうで、早朝から城内には何とも言えない活力がみなぎっていた。やはり格となる人物がいるといないとではまるでちがうものだとイーツェンは感心もし、驚きもする。人を率いる者というのは、そうした存在感をそなえていくのだろうか。
目を戻すと、道はゆるやかに左へ曲がり、人と馬車の姿は生け垣の緑の影に消えていくところだった。イーツェンは溜息をつく。旅立ちは喜ばしいことだったが、ソウキのあの明るい笑顔を見られなくなるのがこんなふうに淋しいものだとは思わなかった。身の内がひやりとするような寒々しさを感じる。
同時に、まっすぐ旅立っていった彼がうらやましかった。あの希望に満ちた軽やかさが。
ソウキは、いずれ落ちついたらリグへ手紙を書くと言った。文字を習えたら、がんばって自分で書くと言う彼へ、イーツェンは笑みを返すことしかできなかった。ソウキはイーツェンがまっすぐリグへ戻れると信じているようで、リグへの街道が断たれ、今のイーツェンの体では残された細い山道をたどることが命取りに等しいことも、彼にはあまり実感がないようだった。それは仕方がない。
ただ、イーツェンもソウキのようにまっすぐ、迷いなく、信じたかった。いつか帰れると。自分の進んで行く先に、リグへの道があるのだと。