シゼの出立と同時に、城はひどく静かになった。階下にいた傭兵たちもルディスに付き従っていったのだろう。護城の兵は残っているだろうし、イーツェンは前庭に面した窓からその姿を見たが、彼らの気配もまばらだった。
ギスフォールは昼は城内の見回りに出ていることが多く、イーツェンは歩くのに疲れるとソウキと話をした。イーツェンの言葉が少しばかりたどたどしくても、急に黙りこんでも、ソウキは慣れているので気にしない。まだローギスに言葉を奪われたことが心の重しになっているのか、イーツェンはなめらかに言葉が出ないことがあって、時に話すこと自体が苦痛だった。
それを察したのか、ギスフォールは自分からはほとんどイーツェンに話しかけなかった。気を使って、見回りを口実に部屋をあけているのかもしれないと、イーツェンがそう思い当たったのはシゼの出立から2日すぎてからのことだ。
イーツェンに対する態度は無愛想だったが、気の細かい男なのかもしれない。ソウキも彼には警戒をといているようで、ギスフォールの名を口にする少年の表情はおだやかだった。
「ギスフォールが、キノコをくれたんですよ」
と、ソウキは言う。「キノコ」とは、イーツェンがソウキに呑まされたあの毒のことだ。それをどこから入手したのかと問うたイーツェンは、意外な答えにとまどった。ソウキが続ける。
「あの時ギスフォールは、城に傭兵として入ってたみたいで‥‥私がイーツェンの世話係だと知っていて、あれをくれたんです」
敬称なしでイーツェンを呼ぶことにも、随分と慣れた。オゼルクの部屋でイーツェンの世話をしている時から敬称は外れていたのだが、ソウキは滅多に名を呼ぼうとしなかったのだ。
今の、親しみをこめたソウキの呼びかけが、イーツェンは好きだった。
「見知らぬ者がくれた、何やらわからないものを私によこしたのか?」
わざとらしく眉をひそめたイーツェンの、形ばかりの非難にソウキが微笑む。
「ギスフォールが色々説明してくれて。その時、シゼの名前を言ったんです。シゼが城に戻ってきて、あなたをつれ出せる機会を待ってる、と。だから」
シゼの名前だけで信じたのか、とまぜかえそうとしたが、イーツェンは胸がつまって何も言えなかった。あの時、イーツェンの前には死だけがあった。ソウキが持ってきたものが毒だろうと見当をつけながら、もはやどうなろうとかまわないと切羽つまった思いに押されて、それを飲み干したのだ。ソウキもきっと同じだったのだろう。最後の望みをかけて、ギスフォールに告げられたシゼの名にすがったにちがいない。
そんなふうにソウキは、イーツェンを助けようとしてくれた。一歩まちがえば自分の身があやういと言うのに、ただかつて成り行きの「主人」であっただけの、イーツェンのために。
黙り込んだイーツェンに、ソウキが首をかしげる。その胸元に、もう奴隷の鎖はない。
イーツェンはソウキを見つめてそっと言った。
「ありがとう」
ソウキはぱっと目をみひらいてから、はにかんだ笑みを見せた。
「よかったですね。シゼに会えて」
「うん。ありがとう」
素直に、イーツェンはうなずいた。シゼがいなければ、仮に別の方法で城からのがれられたとしても、杖をついてまで歩く習練をしようなどとは思いもしなかっただろうし、今こうやっておだやかにいられるとも思えない。シゼの存在が自分を支えていることを、彼はよく知っていた。
──もし。
(シゼがこのまま、戻ってこなかったら‥‥)
一瞬でも気をゆるめると、心に暗いものがたちこめそうになる。イーツェンは短い息をついて体を締め、杖をつかんで立てると、腕の力を使って立ち上がった。恐れに負けるのは御免だった。支配されることには、もうあきあきした。シゼはイーツェンのためにルディスと取引し、その取引を満たすために発っていったのだ。その間せめてイーツェンにできることは、何かに負けないようにすることだけだった。恐怖にも、自分にも。
ふいにしゃべるのをやめて扉に向かったイーツェンにソウキは驚いた顔を見せたが、何も言わずにつき従った。廊下を行ったり来たりする二人を、階段をのぼってきたギスフォールが奇妙な顔で見たが、彼もまた何も言わなかった。
3日間は歩くことに打ちこんでどうにかやりすごしたが、4日目になるとイーツェンは落ちつかなくなった。5日目、そしてシゼが目安として言い置いた6日目がすぎ、7日がたった。
──待つことには、慣れているはずだ。
そう、自分に言いきかせる。ユクィルスの城で枷をはめられながら、リグで事が成るのを待ちつづけた。虚しいほどにただ待つだけだったあの2年あまりにくらべれば、たかが片手の指に少し余る日数など、まばたきのようなものだ。ほんの、一瞬。
だがその一瞬ずつがまるで永遠の足踏みのようで、イーツェンの心はじりじりとした焦燥に乱れた。無事だろうか。怪我などしていないだろうか。何か、想像もできないような悪い事態に陥っているのではないかと、とりとめもなくあらゆることを恐れる。
ソウキは控え目ながらもイーツェンの気分を明るく保とうとふるまっていたが、どうかすると彼にまできついことを言ってしまいそうな自分がいた。何か、心にもないことを。そんな自分を持てあまして、イーツェンは我知らず、ひどく無口になった。
──離れているのが怖いのだ。
イーツェンはそう認めざるを得なかった。シゼがそばにいない、それだけで恐ろしい。後ろを追ってくるものに今にも追いつかれて呑み込まれそうな、得体のしれない恐怖がこみあげてくる。のがれようとすればするほど、暗闇はイーツェンの中でふくらんでいくようだった。
負けたくない。そうもがきながら、見失いそうになる。心に浮かぶのは悪いことばかりだ。自分自身で恐怖を生み出し、一人でとらわれる。弱った体だけでなく、弱った心も、今のイーツェンにとってはのがれられない檻のようだった。
「随分、しっかり歩けるようになりましたな」
8日目、杖を使わずに廊下を歩いていると、壁にもたれたギスフォールがイーツェンへそう声をかけた。イーツェンは立ち止まり、うなずく。今日は少し、気持ちが安定していた。
「なんとか」
「まだ少し首が前に出てる。気をつけた方がいい」
背中が痛いので前かがみになりがちな癖は、シゼにも何度か注意されている。ギスフォールに指摘され、イーツェンは姿勢に気をくばりながら廊下のつきあたりまで歩いてみた。
歩くことで体力もかなり戻り、普通にふるまう範囲ならば、ほとんど体の不自由さを感じなくなってきている。はじめは気晴らしとして打ち込んでいたが、回復の実感を得た今では歩くこと自体がおもしろくなってきていた。
少しずつ、自分の体が自分の思い通りに動くようになっていくのは気持ちがいい。どういうふうに動いていたか、体に思い出させていくのは、根気がいるが甲斐のある作業だった。
とは言えまだ疲れやすいし、背中の痛みは相変わらず彼を悩ませる。
用心深く姿勢を保って戻ってきたイーツェンは、ギスフォールが窓の外を眺めているのに気がついて、何となく同じ窓から下をのぞきこんだ。廊下の窓は、室内の窓とちがって窓枠が大きく取られ、そこから建物に三方を囲まれた内庭がのぞめる。狭いながらも木の柵でわけられた内庭には、小さな畑と井戸、そして井戸の脇には洗濯場が据えられていた。
畑にはまだらな葉のかたまりがあちこちにうずくまり、風の強い日には乱れた葉裏がひるがえるのが見える。今は、かすかなそよ風が夏の空気を揺らしているだけだった。
井戸のそばに動く人影を見て、イーツェンは目をほそめた。どうも上半身裸で、井戸水で水浴びをしているようだ。しばらく見つめてから、イーツェンはギスフォールを見上げた。
「あれ、ソウキじゃないか?」
「ええ」
「‥‥のぞきか?」
言ってみると、ギスフォールは唇の左はじを鉤のようにくいっと上げて笑った。左の頬に深いえくぼがきざまれる。決して人のいい表情ではないが、憎めない愛嬌のある笑顔だった。
「護衛のつもりですが、ね」
「ふむ」
城の兵の多くが出払っているが、城館は無人と言うわけではない。誰かが悪さを仕掛けないとも限らないのは本当だが──と思った時、ソウキがこちらを見上げて手を振ったので、イーツェンはおどろいた。ギスフォールが見ていることを知っているのだ。振った腕の白さが妙に目について、まなざしをそらせた。
ギスフォールは別に手を振り返すこともせず、水浴びに戻ったソウキを見下ろしながら呟いた。
「敷地のはじに、遅いイチジクを見つけたらしいですよ。今日あたりあなたに持ってくるつもりです。だから下に降りた」
「‥‥‥」
「あの子は、あなたを尊敬していますよ」
淡々とただ告げるだけの声に、イーツェンはきまりが悪くなって顔を伏せた。苛々しているイーツェンの八つ当たりにもソウキは嫌な顔ひとつせず辛抱づよく対し、シゼはもうじき戻ってくる、とくりかえした。一体いつ戻ってくる、と言葉尻をなじるように言った自分を思い出して、心底恥ずかしかった。
イーツェンは壁に左肩をもたせかけた。部屋は石づくりだが、建物に囲まれた内廊下の壁は木造だ。イーツェンの見たところ、この城館は石の建物の内側に木の回廊を取り付けたような造りになっていた。少なくとも、三階は。二階建ての城館に三階部を増築した時、廊下側を木で作って軽くしたのではないかと思っていた。
窓のそばの、木の柱に頭をつける。そうした首の仕種のいちいちに輪が邪魔だが、その感覚にも慣れてしまった。重い体の芯から、長い溜息がこぼれた。
「‥‥私は、みっともないな」
「そうは思ってないみたいですよ。ソウキも、シゼもね」
シゼの名を聞くと一瞬、心臓がちぢむような気がする。今、どこにいるのだろう。無事で、何事もなくすごしているのだろうか。ただ遅れているだけなのだろうか。それとも──
イーツェンは小さく首を振って思いを振り払い、長身のギスフォールを見上げた。大きく湾曲した異国風の剣を左肩から吊ったギスフォールは、ゆるい腕組みをしたままイーツェンを見返す。ほとんど会話らしい会話をしたことのない、何を考えているのかよく読みとれない相手だが、シゼが自分の不在を託し、ソウキが信頼する男だ。イーツェンが彼を警戒する必要はないはずだった。
「シゼとは、いつからの知り合い?」
「この2、3月くらいですかね」
「どこで?」
そう問うと、ギスフォールは一瞬妙な顔になった。
「何も聞いてないんですか」
ふっとイーツェンは体に緊張がはしるのを感じ、思わず問い返した声は低かった。
「聞いてない」
「‥‥じゃあ俺が話すわけには」
「一つだけ、教えてくれないか」
すがるように言うと、ギスフォールは外した視線をまたイーツェンへ戻した。イーツェンは押し殺した声で続ける。
「もしかして、反乱派の本営地でシゼと会ったんじゃないか?」
「シゼの言ってないものを、俺が言うのは‥‥」
渋面をつくったギスフォールを見つめ、イーツェンは窓枠を右手でつかんで体をまっすぐに支えた。ギスフォールのためらいはイーツェンの疑念を裏付けるものだった。ちがうならすぐさま否定するだろう。
シゼが本営地の場所を知っていた理由が、それでわかる。
まだユクィルスの城に二人がいた時、シゼは、イーツェンを城から逃がす話を持ち出したことがある。反乱の一派の手を借りれば城から抜け出せると。彼らの仲間ではないとは言ったが、シゼには、彼らとつながりがあった。城を去ったシゼがイーツェンを救い出そうと戻ってきたならば、ルディスよりも、まず彼らに接触を取るはずだった。
──それが、どうしてルディスと。
「教えてほしい。シゼは本営地にいたんだろう? そこにルディスを案内して、彼らを裏切るつもりなのか?」
「何も聞いてないんですね、ほんとに」
「‥‥シゼは戻ってきたら全部話すと言っていた。だから」
「じゃあ待ってたら如何です。それも嫌ですか?」
ギスフォールの声にはどこか棘があって、それがイーツェンの身を一瞬すくませた。だがこれ以上、何もわからない子供のように物事の外に放り出されたままでいるのは、耐えられなかった。
「私は‥‥」
声がふるえて、うまく言葉が形作れない。城から解放されてからと言うもの、イーツェンは感情がたかぶると舌がうまく動かなくなる。深く息を吸って言葉を押し出そうとするイーツェンを、ギスフォールはじっと見ていた。
「‥‥シゼを、信じている」
ゆっくり。イーツェンの言葉がもつれるたびにそうシゼが言い聞かせたのを思い出しながら、イーツェンは話しはじめる。
「ただ、心配で、たまらないんだ。シゼは私のために、何か、無理なことをして、いるんじゃないか?」
言葉が短くぶつ切りになるのもかまわず、息を入れながら、たずねた。喉をおさえて、もう一度深く呼吸をする。ひどく緊張している喉を左手でさすった。
ギスフォールは唇の隙間から小さな息を吐き出して、窓の下へちらりと目をやった。そのまま動かない姿に、拒否されるのではないかとイーツェンは思ったが、短い沈黙のあと、ギスフォールは口をひらいた。
「森の本営地にいるのは、アガインという男が率いる一派で、昔この一帯にあったルルーシュの寺院の血筋です。ユクィルスはこの100年で、ルルーシュの寺院を残らず焼き払った。それは、ご存知で?」
まだ声に自信がなかったので、イーツェンは無言でうなずいた。意外な名前を聞いたことで、驚いてもいた。
100年以上前にこの地へ渡ってきたユクィルスの民は「古き神々」をあがめており、すたれていた古き神々の神殿をこの地に復活させた。だがその一方、別の神を奉じる者にも寛容で、国の役人以外には自由な信仰を許していた。
その唯一の例外と言ってもいいのが、「ルルーシュ」だ。
ユクィルスは徹底してルルーシュの信仰を弾圧した。ルルーシュが、全土に配した寺院によって緻密な情報網を持ち、独自の寺院兵をもかかえ、当時の国境いをまたぐほど強い力を持っていたことを敵視したのかもしれない。
王命でルルーシュを異教とさだめると、ユクィルスは寺院を破壊し、火をかけ、棄教を宣しない者を吊るし、祭祀を殺した。寺院は粘り強く抵抗し、十数年に及ぶ戦いがそこにはあったとつたわるが、もはや今ではルルーシュの寺院はすべて失われた筈だった。
だが、そのアガインという頭首がルルーシュの血筋だと言うなら、滅びた筈のものたちが未だひっそりと活動をつづけ、ユクィルスに刃向かう機会をうかがっていたということになる。
(いったい、どれほどの長い間‥‥)
彼らは戦いつづけてきたのだろうと、イーツェンは思う。そこにはまた、イーツェンの知らない暗い闇があるようだった。
ためすように自分を眺めおろしているギスフォールを見上げ、イーツェンは声を低く抑えた。3階には人も来ないし、廊下に人影はないが、用心にこしたことはない。
「あなたも、そのアガインの一派か?」
「まあそんなところです。俺はもともと商隊の護衛士をやっていたんですがね、その商隊ってのがルルーシュの情報網の一つで、そこから縁ができて、ずるずると」
「シゼも、彼らといっしょにいたのか」
ギスフォールがうなずいたのを見て、イーツェンは全身から血が引いていくのを感じた。そうではないかと、思っていた。シゼが反乱兵たちと行動をともにして、彼らの本営地の場所を知ったのではないかと。
ならば、これは裏切りだ。ルディスにくみし、情報を与えた。
──シゼは、イーツェンのために彼らを裏切ったのだろうか。城へ入るためにルディスへ近づき、彼らの本営地の場所と引き換えにルディスの協力をとりつけて。
「シゼは‥‥」
声がつまって、イーツェンはぐっと歯を噛んだ。イーツェンの存在が、シゼに人を裏切らせたのだろうか。窓枠をつかむ指が白くなるほど握りしめる。
ふいにギスフォールが、はあっと大きな息を吐き出した。驚いて顔を上げるイーツェンの前でひとつ首を振って、男は前より少しおだやかな顔を彼へ向けた。
「シゼがやっていることを、アガインも知っていますよ。今ごろルディスの兵を返り討ちにしているころでしょう」
イーツェンは目を見はった。
「それじゃ‥‥」
「計画とはちがうんですがね」
苦々しそうに口元をしかめて、ギスフォールはつづける。
「シゼはずっと、アガインに談判してました。あなたを城から出すのに力を貸せと。その時シゼが立てた計画が、ルディスを使ってあなたを救い出したあと、エサでおびきよせ、アガインがルディスを叩くやり方です。だが、まだ目立った動きを見せたくないアガインは、首を縦には振らなかった。王宮と二日と離れていないところで、しかも王族を下手に叩けば、大騒動になりかねない」
「‥‥‥」
「そうこうしているうちに、ユクィルスの王が毒殺されたという話が出て、シゼは決心した。王の葬儀ともなれば、城に人の出入りもふえて、まぎれるのも楽になる。アガインは今回も承知しなかったんで、あいつは勝手に動いたんです。自分の計画通りにね」
イーツェンは呆然として、ギスフォールの声の中にある苛立ちを聞いていた。その言葉通りならば、シゼのしたことは厳密には彼らへの裏切りではない。だが暴走と言ってもいいものであり、アガインの一党を大きな危険にさらす行為だった。
そしてまた同時に、シゼはルディスを裏切って、罠にはめようとしている。アガインもまた、シゼによって罠に落とし込まれたのと同じだ。シゼはイーツェンのために、二つの陣営のどちらをもあざむき、彼らを戦わせようとしているのだった。
なんてことだろう、と思った。イーツェンに説明したがらないわけだ。体からすべての力が流れ出していくような無力感に包まれて、イーツェンは立ちすくんだ。どちらが勝とうが、シゼはその相手の怒りを一身にあびることになるのだ。それをわかっているのだろうか。
──わかっているだろう。わかっていて、賭けたのだ、シゼは。イーツェンを城から救い出すために。
ギスフォールは言葉の出ないイーツェンの顔をじっと眺めていたが、目をほそめた。
「俺はこの二月くらいしか知りませんがね、シゼはこの春からアガインのために働いて、ユクィルスの兵を斬ってきた。正直俺には、あいつがあなたのためにそこまでする理由がわかりませんね」
「‥‥私が嫌いか?」
「別に。でも、あのままやってりゃ、シゼはアガインの右腕にもなれたでしょうな。あいつには野心がないから、アガインも信用してたみたいだし。ただ、その野心のなさがどこにつながるかまでは読めなかったらしい。なくすものがないって決めた相手ほど、怖いものはないってこともね」
一度水を向けてしまえば饒舌なたちなのか、皮肉っぽくそう言うと、ギスフォールは肩をすくめながらつけくわえた。
「ここまで来た以上、あなたにできることは、おとなしく待ってることだけですよ。アガインが勝つか、ルディスが勝つか。あと何日かでわかる」
「‥‥‥」
それは正しい。イーツェンにできることは何もなかった。ここで待つだけだ。イーツェンは足元に落ちる自分の影を見つめる。影は、床の上で力なくうなだれていた。
情けない、とイーツェンは思う。
(──信じろ、と‥‥)
シゼはそう言った。
ゆっくりと、イーツェンは胸の奥まで息を吸いこんだ。朝から歩きつづけていた体はこわばり、のばした背中全体にちりちりとした痛みがはしる。頭を上げると首の根元を巻く金属の輪が動いて、その重みを首のつけ根にずっしりと感じた。
頭一つ高いギスフォールの長身から見おろされていると、喉元で息がつまる気がする。だが彼のひややかな態度も苛立ちも、イーツェンには理解できた。シゼを心配しているのだ。ギスフォールもまたイーツェンと同じように待つだけの身に苛立ち、シゼが投げ捨てたもののことを案じている。
シゼと出会って二月だとギスフォールは言った。それは長い日にちとは言えないが、シゼはそこで友人を持ったのだとイーツェンは知る。彼を案じ、彼のために力を貸してくれる友を。
窓枠をつかんで体をしっかりと支えたまま、イーツェンはギスフォールへ頭を下げた。
「ありがとう。私を助けてくれて」
たとえそれがシゼのためでも、と心の中でつけくわえる。だからこそ。
ギスフォールは無言だった。もう一度背をのばして、イーツェンはギスフォールを見つめる。彼は反対したのだろう。それでもシゼに手を貸し、顔を知られているシゼのかわりに、ユクィルスの城へ入りこんでソウキに接触した。
「それと、話してくれて、ありがとう。わずらわせてすまない。その‥‥」
言葉がうまくつづかない。どう言えばいいのかわからなかった。シゼが一人ではなかったことに、こうして肩入れしてくれる友がいることに、イーツェンは言い表せない安堵をおぼえていた。
ギスフォールは奥歯に何かがはさまったような、歯がゆそうな表情で、眉をしかめてイーツェンを見おろした。彼が口をひらいて何か言おうとした時、その視線がふっとイーツェンから外れて流れた。
階段からパタパタと足音がひびいて、ソウキが駆けのぼってくる。洗い髪を首の後ろでくくった少年は、両手にそれぞれ握った小さな果実をイーツェンの方へ振った。
「イチジクが熟れてましたよ!」
イーツェンも手を振り返し、窓辺から離れてソウキへ向き直りながら、もう一度ギスフォールへ囁いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
妙に丁寧な返事が戻ってきて驚かされたが、もうソウキが言葉のとどく距離まで歩み寄ってきたので、彼との会話はそれきりで、三人は部屋に入った。
ソウキが持ってきたイチジクの実は、小さいがよく熟れていた。葉の影で鳥の目をのがれていたのだと言う。短剣の先で虫食いの痕を取り去ってから果実を三人で分け、イーツェンはしっとりとした水気のある果肉を口にはこんだ。
口の中にひろがる甘味にほっとして、全身がひどく疲弊していることに気付く。ギスフォールと対峙した緊張がまだ体に残っていた。
扉脇によりかかったギスフォールは、左手でイチジクを口にはこんでいる。シゼの仕種にどこか似ていた。扉のそばに陣取り、右手をつねにあけている。その類似に気付いたイーツェンは、心がしくりと痛むのを感じた。
小さな──だが、刺すような嫉妬。きっとイーツェンよりよくシゼを知り、シゼを理解し、シゼと同じような世界を生きているのであろう男への。
イーツェンの知らないシゼの顔があり、知らない友がいる。それは当たり前のことだったが、自分が本当にはシゼのことを何も知らないとつきつけられるのは、今のイーツェンには鋭い痛みだった。
シゼは自分の得た信頼を投げ打つようにして、イーツェンを救った。そうして救われた己は、一体何だろう。どれほどの価値があるのだろう。それは答えのでない、そして、見据えたくない問いだった。
体を休めようと横になって、うとうととまどろんでしまったらしい。城の鐘が打ち鳴らされる音で、イーツェンははっと目をあけた。飛び起きかかって、背にはしった痛みに身をこわばらせる。あわてて駆け寄ってきたソウキの手を借りながら起き上がっていると、ギスフォールが扉へ歩み寄るのが見えた。
「廊下にいる。俺が呼ぶまで絶対に出るな」
きびしい声で言い置いて彼が出て行くや、ソウキが扉に駆け寄って中から内閂をおろした。どうやらすでに、示し合わせがすんでいるらしい。
イーツェンは立ち上がり、窓辺に寄った。縦長で幅狭の明かり取り用の窓からは、城館の前庭と館をぐるりと囲む杭柵が見えた。ここは平城で、堀はない。戦いのためにつくられた城ではないのだ。
隙間なく地面に打ち込まれた木杭は二階半ばほどまでの高さがあり、火であぶった杭の先端は、天に向けて鋭くとがらせてあった。
その柵の上にぬっと人影が浮き上がって、イーツェンは驚いた。口に大きな湾刀のようなものをくわえた男がするすると柵をのりこえ、身軽に地面へとびおりる。膝を深く曲げて衝撃を吸収し、ぱっと立ち上がった。手に湾刀をかまえながら何か柵の外へ叫ぶ。
柵の外に梯子がたてかけてあるのだろう、次の男がまた柵の上にあらわれ、内側へロープを垂らした。本来なら城館の塔から彼らへ射掛けられるはずの矢は飛来せず、柵の上にのぼった男が、先行した男へと木の丸盾を放った。
受け止めた盾を左手に持ち、男は身を低くして走り出した。細長い窓から見える範囲は狭く、たちまちイーツェンは男の姿を見失ってしまう。いくつも梯子がたてられたのか次々と柵の上に男たちが姿をあらわし、ロープをつたって敷地内へ入りこむ者もいれば、矢をつがえて上から弓の狙いをつける者もいた。
窓をはさんだ逆側にソウキが立ち、心配そうに外をのぞきこもうとするのを、イーツェンは仕種で押しとどめた。
「顔を近くにつけてはだめだ。影が外から見えると、矢の狙いがつく」
「あ、はい」
うなずいたソウキは、イーツェンを真似て壁近くに立ち、斜めに外をうかがう。しいて細い窓を狙う者はいないだろうが、用心にこしたことはない。
城に残っていた護城兵がやっと立ち向かったらしく、遠くに争う音がした。前庭に走り出した兵が、柵上の射手たちに矢をあびせられて倒れる。攻めてきた兵たちは見るからに軽装だったが、よく訓練されている動きに見えた。
「あれが‥‥アガインの兵?」
下を見ながらイーツェンが呟くと、ソウキが「はい」とうなずいた。やはり大体の事情は呑み込んでいるらしい。それから、イーツェンへ真剣な顔を向けた。
「もしこの城館を陥とせなければ、彼らは火をかけて撤退します。その時は、混乱に乗じて、ギスフォールといっしょに逃げますよ」
「私は走れない」
イーツェンは外を見たまま呟いた。
ソウキが首を振る。
「大丈夫。いざとなったら、運びます」
誰が、誰を? とは思ったが、イーツェンは口にしなかった。やせおとろえた今のイーツェンの体なら、ソウキが担ぐこともできるだろうが、あまり楽しい想像ではなかった。
眼下ではまばらな戦いが続いていたが、城館の建物内に争いの音は聞こえなかった。ルディスがどれくらいの兵を残していったにせよ、そのほとんどは傭兵だろうとイーツェンは思う。階下で我が物顔にふるまっていた傭兵たちの姿は記憶にまだ新しい。城付きの正規兵や、ましてや騎士装の者の姿など、庭にも見かけたことがなかった。
傭兵は、簡単に寝返る。自軍側が不利と見ればなおさら。護城の訓練もさしてされてないだろう。数にもよるが、時間が立つだけアガインたちに有利になるか──そう思ったところで、イーツェンはふとシゼの言葉を思い出した。
ルディスは城主の娘と結婚の約束をして、引き換えにこの城館を手に入れたと、シゼはそう言った。この争いのさなかで、その城主と娘はどこにいるのだろう。知らない相手だが、彼らを巻き込むのは哀れに思えた。
「ここの城主と、ご令嬢は?」
たずねてみると、ソウキはくいいるように下の様子を見ながら早口にこたえた。
「今はいません。修道院にいるそうです」
「ふたりとも?」
「ええ。城主様がご病身で、お嬢様とご一緒に道院の中の療法院へ‥‥」
今も抜けない丁寧な口調で説明したところで、ソウキはイーツェンにふっと顔を向けて、笑みをうかべた。緊張で顔色が少し青いが、その目にはいたずらっぽい光がきらめいていた。
「知ってます? ご令嬢、40歳をこしていらっしゃるそうですよ」
「ええっ」
思わず声をあげて、イーツェンは同時に吹き出した。背中が痛むのもかまわず、こみあげる笑いが口からこぼれる。その年齢なら女性の方は何かの理由あっての再婚だろうが、それにしてもルディスは、こんな平城ほしさに随分とえげつのない真似をしたものだ。
すぐに笑いは消え、彼らは固いまなざしを狭い窓の外へ向ける。あの中にシゼがいるのだろうかと、走るようによぎる人影に目を凝らしたが、見分けはつかなかった。
気付くとイーツェンは、リグの祈りを口の中で唱えていた。くりかえし、くりかえし、胸元に拳を握りしめ、祈る。地上で誰かが剣を振り上げ、ギラリと反射したするどい陽光が目を射た。
戦いはあっけないほど短い時間で終わった。窓から見るしかないイーツェンには状況がよくわからないままだったが、男たちが段々と武器をおろし、射手が梯子をおりて柵の外へ姿を消すのが見えた。
部屋の外からギスフォールが声をかけ、ソウキがすっとんで行って扉の閂を外した。ギスフォールの、興奮に少し赤らんだ顔が扉の間からのぞく。
「すんだ。後で、アガインがあんたに会いたいそうですが」
「承知したと。シゼは?」
「俺は見てない」
忙しいのだろう、ひらひらと手を振って慌ただしく姿を消してしまう。イーツェンは溜息をついて石壁に頭を寄せ、拳を胸元に押し付けながら落ちつこうとした。何かあったなら、それこそギスフォールの耳に入るだろう。その筈だ。
ソウキは細い窓枠に顔を押し付けるようにして下の様子にくいいっていたが、ふいに声をあげた。
「あれ、シゼじゃ?」
イーツェンもあわてて顔をよせ、身を引いたソウキにかわって下をのぞきこむ。唾を呑みこみながら目で忙しく地表を探し、倒れている者の姿や、地面に落ちた矢を拾い集めている男をかすめた視線は、やっと柵のかたわらに立つ剣士の姿をとらえた。
髪の色とたたずまいからしてシゼだとは思ったが、後ろ姿なので確信がない。じっと見つめているうちに、男が誰かと話しながら体をこちらへ回し、シゼの顔が見えた。無事だ。
イーツェンはほっとして、汗ばんだ手のひらをひらいた。さっきから指に力をこめすぎていたせいで関節がじんと痛む。血のめぐりはじめる指を握ったり開いたりしながら、シゼの姿を見つめた。
シゼは横に立つ男と話しながら柵の上の方をさして、相手の言葉にいくつかうなずいた。その間も、通りかかった男たちが、シゼに親しげに声をかける。それにくわわって、やがて数人の輪がシゼを囲んだ。
シゼが責められているのではないかと、イーツェンは焦れて目を凝らす。シゼがアガインにそむいて勝手な行動をしたのは確かだ。
だが彼らの雰囲気はなごやかで、一人が何か言うと周囲の男たちが歯を見せて笑い、シゼの肩を叩いた。シゼも言葉を返している。
楽しげな彼らを見おろしながら、イーツェンはふしぎな気分でそこに立っていた。ギスフォール。そして眼下の兵たち。この地でシゼは友を得、仲間を得たのだ。親しい仕種と、それに応じるシゼのくつろいだ様子から、それがはっきりとわかった。
シゼが顔を上げ、イーツェンのいる三階の窓を見る。まぶしいのか、目の上に手をかざした。細い明かりとりの窓ごしには、こちらの姿はシゼには見分けられまい。そう思いながら、イーツェンはただ立って、仲間にかこまれて歩き去っていくシゼを見つめていた。