あまり多くは食べられなかったとは言え、食事を楽しんだのは本当に久々だった。シゼがイーツェンの斜め横に座りこみ、自分の食事をつまんでいる。シゼが食べている姿を見るのはなつかしく、心が落ちついて、イーツェンはつられるように少しずつ食べ物を口にはこんだ。
ゆっくりとした食事の途中で、イーツェンはソウキのことをたずねた。彼も城を抜け出したのかどうか知りたかったのだが、シゼは珍しくはぐらかすように「そのうち会えます」とだけ答えた。
ルディスとの取引の内容も語ろうとしない。秘密と言うより、今はそれをイーツェンに説明する時ではないと思っているようで、「後にしましょう」とやんわり言われてイーツェンは引き下がった。信じろ、とシゼは言ったのだ。それならシゼが語る時までは、ただシゼを信じていたいと思った。
今日。明日。この一瞬。シゼは何かを待っている。それはイーツェンにもわかる。ならばシゼを信じて、今はシゼのそばにいるこの時間のぬくもりを味わいたかった。
シゼは多くをたずねなかった。イーツェンに何があったかも、城での出来事も。かわりにイーツェンに控えめな笑顔を見せ、イーツェンがふれたソウキのことについて興味を示したり、この城の近くの森のことを話したりした。
イーツェンはこのところ口をきくことが少なかったせいで、話したいことがあっても舌がついていなかない。時おりつっかえたり、どもったりしながら、シゼに答えた。そうこうしているうちに疲れてしまって、シゼに言われるまま、また横になる。
そばにいてくれとは言わなかったが、シゼはイーツェンが眠るまで横に座っていた。
目が覚めるとシゼはまだそばにいて、イーツェンがくたびれていないかどうかたずねた。体の芯ににぶい疲労はあるが、食事と睡眠のおかげで気分はいい。イーツェンが首を振ると、シゼは少し部屋を留守にしてから布を手に戻ってきた。
「体を洗いに行きましょう」
そう言うと、寝着のままのイーツェンに襟のある長めの上着を着せかけ、背を向けて膝をついた。
「どうぞ」
「‥‥‥」
ぽかんとして、イーツェンはシゼの広い背中を見つめた。おぶされと言われているのに気付いたのは、少しの沈黙の後だ。イーツェンのとまどいを感じとって、シゼが向こうを向いたまま淡々と言った。
「下の階へ行きます。少々、歩くので」
イーツェンは無言のままシゼの肩に手を回し、弱った体をシゼの背にもたせかけてから、あらためてシゼの首を抱くように後ろから腕を巻いた。シゼはイーツェンがしっかりとつかまったのを確認してから、膝をすくいあげ、やや前のめりに身を倒したまま慎重に立ち上がった。
「痛くないですか」
「大丈夫」
シゼの肩に頭をつけてイーツェンが小さな声でこたえると、シゼは歩き出し、扉をあけて廊下へ出た。
飾り気のない石の廊下が長くのびていた。まばらに並んだ窓から射し入る光はやわらかく、くすんだ石床を淡く照らしていた。四角い窓の光を踏んで、シゼが体を揺らさないようゆっくりと歩き出す。ほそい廊下にはシゼの足音がひびくだけで、人の姿がなかった。
「人が住むのは一階で、二階と三階はあまり使わないそうで」
と、シゼが歩きながら説明する。ここは何階だとイーツェンが問うと、三階だと返事が戻ってきた。道理で、人がいないわけだ。
シゼの背中に預けた体は、彼の慎重な一歩ごとに少し揺れる。シゼの肩にあごをのせ、痛みがわずかでも軽減されるよう背中の緊張をゆるめながら、イーツェンは胸の内の苛立ちを押し殺した。
こうしてシゼに背負われたり、こまかに世話を焼かれたりするのが嫌なわけではない。むしろ半ば心地よい。だが同時に、自分の弱さを目の前にさらけだされているようで、イーツェンは思い通りに動かない体が恥ずかしかった。
シゼが階段をおりはじめると一歩ごとに体が上下にゆすられて、イーツェンは短い呼吸をくりかえした。耐えられないほどではないが、背中の内側に石か何かがもぐりこんでいるかのようで、擦れるような痛みがはしる。二階の踊り場を回ると、下から人の話し声がきこえてきた。イーツェンはシゼの肩に半ば顔を伏せ、人の視線を避けようとするが、こうして背負われた姿はさぞや滑稽だろうと思うと頬に血がのぼるのをとめられなかった。
幸い、人の数は少なかった。廊下が交差した場所に大きくひらけた円形の広間に5、6人の男たちが座りこんでサイコロ遊びのようなものをしており、どこかくずれて物慣れた雰囲気から、イーツェンは彼らが傭兵だと直感する。ルディスは城内に傭兵を住まわせているのだろうか。
シゼが足早に廊下を抜ける間、誰も彼に声をかけなかった。好奇のまなざしがちらちらと投げられるのがわかったが、イーツェンは下を向き、上着の襟に顔を半分以上隠した。首の輪も襟に隠れることに気付き、それがシゼの心配りだったのだとやっと理解する。少しだけ気持ちが落ちつき、シゼの首に回す腕の位置をもう一度直した。
シゼは彼らの間を抜け、正面ホールを横切って廊下の角を曲がった。開け放した扉と横に立つ見張りの前を通り、武器が積まれた部屋の前をすぎ、膝をついて床を磨く女の横を歩き抜けると、奥まった部屋の扉をあけた。
そこは客用の寝室のようだった。小さな切れ込み状の窓からさしこむ陽で、室内はうすぐらい。壁の中に石の暖炉があり、イーツェンのいる上の部屋より丁寧な調度で飾られていた。もっとも今や、そのほとんどがうっすらと埃をかぶっていたが。寝台を覆う布はくすんで長く使われた気配はなく、足付の燭台には蝋燭が立っておらず、壁のタペストリーのはじはほつれて糸が垂れ下がっている。
床石で仕切られた部屋の奥は湯浴み場になっており、据えられた浴槽を見てイーツェンはおどろいた。塔の部屋にも似たようなつくりの湯浴み所はあったが、浴槽はなく、人がかがめる程度の湯桶が置かれていただけだ。この部屋に据えられているのは、人が入るための大きな木の浴槽で、しかも中に湯がはられていた。
シゼはイーツェンを石の床へおろし、あらかじめ用意してあった丸椅子に座らせる。
「洗いましょう」
イーツェンは一瞬たじろいでから、服に手をかけた。塔にいた時のようにシゼが彼に手を貸し、イーツェンの服をたたんで編み籠へ入れていく。
大してまとっているものはない。シゼが着せかけてくれた上着のほかは寝着のままだ。ゆるい留めボタンを外し、長い上衣を脱いで腰布を取ると、腰帯一枚となったイーツェンは立ち上がった。
獄につながれ寝床に伏していた体からは肉が削げ落ち、シゼに見られていると思うと、余計にその貧弱さを強く意識する。肋骨が浮き出して腰骨の形がはっきりと見え、肌には沈んだ痣が散っていた。まるで骨に皮をかぶせただけのような裸身は、自分で見てもみすぼらしい。背中の傷は半ば肉塊のように醜くはぜているだろう。イーツェンはちらりとシゼを見た。
目が合ったが、シゼは無言で、その表情は静かだった。イーツェンは溜息をついて腰帯をほどくと、裸になった。あと身につけている物と言えば首の輪だけだが、これは外すことが出来ない。
浴槽をまたぐ動作は、思った以上に大変だった。たかだか膝より少し上の高さをまたぐのに、またシゼの手を借りる。
足が湯に入った瞬間、潤んだあたたかさに肌をつつまれて、イーツェンは息をつめた。シゼの腕をつかんだまま、ゆっくりとしゃがみこんで湯に身を沈める。背中の傷が刺すようにちくちくと痛んだが、心配したほど強くしみるということもなく、イーツェンは用心深く浴槽の底に座りこんだ。水の浮力が体を支えるので、動くのは随分と楽だった。
湯はまだ充分にあたたかく、沈めた体をおだやかなぬくもりが包みこむ。胸のすぐ下まで湯量があって、厨房で沸かした湯をいちいち運びこむことを思えば、それは本当にたっぷりとした量だった。湯になじむにつれて体の緊張がほどけ、イーツェンは小さく嘆息した。
こんなふうに湯につかったのがいつのことだったか、もう思い出せない。城にある浴場を使わせてもらったことはほとんどないし、塔にたっぷりとした湯をはこぶのも難しかったから、いつもは大きな湯桶の中にしゃがみこんで行水をしていた。ジノンでの屋敷の滞在中、ヴォルが気を利かせて何度か湯浴みの機会をとってくれたのが、多分、最後だ。
腕を湯の中に入れ、ゆっくりと手のひらをすべらせた。骨の浮き出した体に、偽病の赤い斑点だけではない、黄色っぽくにごった痣がところどころにしみのようになっている。やせると、それこそどこかに押し付けただけで痣が残るのだ。牢でついた傷だろう、腕や脚の内側にまであちこち傷跡が残っていた。この体では治りも遅い。
シゼが無言のまま小さな布を濡らし、イーツェンの肩に布でふれた。水で濡れるからか、シゼは胴衣を取ってシャツを肘の上までまくりあげている。布をイーツェンの肩から腕へすべらせながら、やわらかく洗いはじめた。
肌の上から何かを拭うように、布はゆっくりと動いていく。イーツェンはシゼの顔を見上げた。塔でよく、シゼはイーツェンの体を拭った。いつもその手は迷いなく、的確で、シゼは作業に集中した表情を見せていた。
同じ表情をしているが、今日の手は、記憶の中で一番やさしい。時おりまた湯にひたし、イーツェンの肩を濡らすようにそっと拭い、右腕を取って指先まで布をすべらせると、左腕も丁寧になでてから胸元にふれた。肌にひろがっていくやわらかさにイーツェンはぼんやりとしていたが、胸元をざっと拭ったところで、シゼが手をとめた。
シゼに目で問われて、イーツェンは布を受けとった。湯の中に手を入れて脚を洗いはじめる。しばらく、部屋にはイーツェンの動きがたてる小さな湯音だけが聞こえていた。シゼは浴槽の横にしゃがみこみ、ふちに両肘をのせてイーツェンを見ている。たまに手をのばして、イーツェンの顔に水気ではりつく髪を払った。
「‥‥リグに」
脚の間を拭いながら、イーツェンが呟く。肌をぬぐうのが心地よく、洗うことで色々なものが落ちていくような気がした。少なくとも、この瞬間は。
「岩の蒸し風呂があったな‥‥」
「どういうものですか?」
「蒸し風呂、入ったことがない?」
シゼはうなずいて、またイーツェンの髪をなでた。
「焼いた石に水をかけると、湯気が立つだろ‥‥あれを、岩室でやる。火を焚いて、水をかけて‥‥そのうち、体中から汗が滝のように出てくるよ。すっきりする」
今ひとつさだまらない口調で、イーツェンがたどるようにぽつぽつと言うと、シゼが口元をやわらげた。
「気持ちよさそうですね。熱いんですか?」
「うん。あんまり熱くしないで長くたのしむ人もいるけどね。‥‥上がったら、川で体を洗って、その辺の日なたで、寝る」
「ああ、それはいい」
本当にうらやましそうな声だった。イーツェンは体を拭い、布をかるく絞ってシゼに渡した。シゼが手桶を手にする。
「髪を洗います。いいですか?」
少しばかり心配そうにたずねた。イーツェンがうなずくと、すくった湯を頭の上から少しずつかけ、髪を濡らしてから、石鹸を手に取って泡立てる。泡をすくったシゼの手が濡れた髪にふれ、髪を梳くように動いた。
イーツェンの首がぐらつくのを見たシゼは左手でイーツェンの額を押さえ、右手の指を髪の間にすべらせた。つむじから後頭部、首のうしろまでゆっくりと髪をなで、頭皮をなでる。泡が髪に入りこみ、シゼの指の間でイーツェンの黒髪が濡れた音をたてた。
イーツェンは頭を少し前に倒し、目をとじた。シゼの指が頭皮をさぐり、円を描くように動く。イーツェンの反応を確かめながら、その動きが少し強くなった。もみほぐすように指の腹で押し、動かす。シゼの左手が額を押さえているために頭がしっかり固定されていて、洗う手に力がこもってもイーツェンにはあまり負担がかからなかった。
したたった湯が首すじを流れ、首の輪の下に入りこむ。首にぴたりと回っていた輪は、イーツェンが痩せたせいで、今は少し隙間があった。
イーツェンの意識はぼんやりと焦点を失い、シゼの指が丁寧に肌をほぐす感触の中に沈んでいく。湯の表面に落ちる水の音がぽつりぽつりと鳴って、湯が静かに肌をなでた。空気は湯のぬくもりをおびて、あたたかく湿っていた。
「‥‥シゼ」
目をとじたまま、イーツェンは小さな声で呟く。少しして、シゼがこたえた。
「はい」
イーツェンは溜息をついた。
「城で‥‥人を、殺した」
シゼの手はとまらなかった。髪をほぐすように指先でさぐり、うなじからゆっくりとさすりあげる。
「聞きました」
「‥‥そうか」
キシッとイーツェンの黒髪が音をたてた。
やがて洗い終わったのか、シゼは手桶を取り、湯を数度かけて泡を流した。布で髪の水気をざっと拭ってイーツェンを立たせる。のぼせたわけでもないと思うが足腰に力が入らず、イーツェンはシゼに抱きかかえられるように浴槽から出た。濡れた体をまともにかかえこんだシゼの服もすっかり濡れてしまったが、シゼは気にした様子もなくイーツェンを椅子に浅く座らせ、布で体を拭った。
首の輪のあたりを丁寧に拭ってから、体の前をざっと拭き、イーツェンを立たせて背中側へ回った。傷の上へ布を押し当てるように慎重な手つきで水気を取っていく。イーツェンは反射的に身構えたが、ごわついた刺激とかすれた痛みが傷の上にはしるだけで、恐れたほどの痛みはなかった。湯にもそれほどしみなかったし、傷の表面はイーツェンが思う以上にかたまっているようだった。
傷にふれられるのは、相変わらず奇妙な感触だった。ソウキに油薬を塗られた時もそうだったが、ぼんやりと遠くをさわられている気もするし、時おり、骨にじかにふれられているような生々しさを感じることもあった。
湯につかった体はここちよく、重い。意識して膝に力をこめないと立っていられない。少しうつむいて、イーツェンは呟いた。
「ひどいだろう。背中」
「ええ」
シゼの左手は、まるで倒れるのを恐れるようにイーツェンの左腕をつかんでいる。声は低かった。
「本当に。あなたが生きているのが、不思議なほどだ」
同情めいたことをシゼは何も口にしなかった。かがみこんで、イーツェンの尻から太腿の後ろを拭う。何度、そうやってシゼはイーツェンの体を清め、拭っただろう。それがはるかに遠い昔のことのように思えて、イーツェンは、ふいにつきあげてきたなつかしさに体がくずれ落ちそうな気がした。この手をどれほど恋しいと思っただろう。記憶と同じほどに、いやそれ以上に、シゼの手はやさしい。
シゼが用意していた新しい服はイーツェンのやせた体にあわず、大きかったし、粗末なものだった。リネンの下着に、ごわついた薄い毛織り地のシャツとズボン。この城のお仕着せだろうか、清潔だったが新品でもない。だがシゼの手を借りて城の衣服のかわりにそれらを身に付けると、気持ちが拭い去られたようにさっぱりした。
シゼを見上げて微笑する。シゼも満足そうに笑みを返し、手をのばしてイーツェンの襟元を直した。
また背負われるのも、今度はあまり気にならなかった。部屋に戻ると、行き来と入浴で疲れたイーツェンは、シゼに言われるままにおとなしく敷布に横たわった。右肩を下にして横になり、彼はそばに座ったシゼを見上げた。
こんな日々は、きっと長くはつづかない。それはわかっていた。これは本当の自由ではない。今はまだ、あの城からルディスの城へと檻がうつっただけだ。
ルディスはイーツェンの命や気持ちなどまったく問題にしないだろう。今はジノンとローギスのどちらにつくのが有利か見定めようとしているようだが、もしローギスにつくことに決めれば、約束などかまわずイーツェンの身柄を引き渡すにちがいない。まるで贈り物のように。
ローギスがどれほど彼を憎んでいるのかシゼはわかっているのだろうかと、イーツェンは疑問に思ったが、ローギスの名を口にしようとすると喉がつまって言葉にならなかった。
小さな溜息を口元にくもらせ、イーツェンはつぶやく。
「‥‥シゼ」
「はい」
「私は、どうなる?」
シゼは少しの間、答えを探すように黙っていたが、やがて慎重に口をひらいた。
「ルディスは今、反乱派の討伐に出ようとしています。森の中にある彼らの本営地の一つを討つつもりです。‥‥それが終わったら、全部お話します」
シゼの右手がイーツェンの肩をかるく叩く。子供をなだめるような仕種だった。イーツェンは眠気に落ちてくる目蓋を、まばたきで開ける。
「お前は‥‥私を、どうしたい?」
シゼの手が一瞬、イーツェンの腕の上でとまった。それからその手はかるくイーツェンの頬をかすめ、まだ湿った髪のひとふさを指先にすくいあげる。
城から出た後、シゼはイーツェンによくふれるようになった。弱りきっているイーツェンを安心させようとしているのだろう。その手はやさしいが、まるでイーツェンの存在をたしかめるかのようで、心地よい一方、時おりイーツェンは苦しい。
「今はただ、早く元気になることだけを考えて下さい、イーツェン。それからまた考えましょう。あなたがどうしたいか、どうするか」
「お前は‥‥? 私に、どうしてほしい‥‥?」
イーツェンは重い右手を上げてシゼの手をつかんだ。シゼの指にイーツェンの骨張った指がからむと、シゼはやさしく握り返した。
「私はあなたを助けたい、イーツェン」
「わからない‥‥」
子供が駄々をこねるような言葉が口からこぼれた。わからない。どうしていいのか、どうしたらいいのか。
リグのために人質としてユクィルスへ渡り、ただリグのためにと2年以上を耐えた。すべては、街道が封じられてユクィルスの兵をしりぞける、その日のためだった。その日のために、イーツェンはユクィルスの城ですべてに耐え、ただひたすらに待ち続けた。自分がそのために必要なのだと、ただ信じて待った。ユクィルスの目をリグ本国へ向けさせることなく、ただ支配者として彼らを満足させるために、イーツェンの身はあの城にあった。
──そして、すべては達せられた。
リグは街道を断ち切って安全なところへ遠ざかり、もうイーツェンの役目は失せた。なのにこの身はそのまま残って、行き場のない苦しさに心がつぶれそうになる。今の自分に何の意味があるのか、イーツェンには見いだせない。故郷は遠く、残してきた者たちにとってはイーツェンはもはや死んだも同然だろう。そして事実、半ば死にかけ、半ば砕かれた。自分のこの先に何があるのか、イーツェンには何も見えない。
シゼは答えなかったが、背を丸めて、イーツェンの指の骨張った関節にくちづけた。顔を上げてイーツェンを見る表情はおだやかだったが、どこか悲しげだった。
「今は、眠って下さい。あなたは疲れきっている、イーツェン」
「‥‥もし」
眠りの中に引きずりこまれながら、イーツェンは自分の声がつぶやくのを聞く。
「ルディスが、私を、城に戻そうとしたら‥‥」
「そんなことは許さない」
「また牢に、戻されるようなことになったら‥‥その前に、私を殺してくれ、シゼ」
「イーツェン──」
「おねがいだ。二度と‥‥二度と、あんなところには、戻れない‥‥」
おねがいだ、とくりかえしながら痛むほどにシゼの指を握りしめ、イーツェンはまた呻いた。半ば眠りかかったまま、体が恐怖にふるえる。悪夢の中に心がすべりおちていく。どうすることもできない。己を強く平静に保とうしても、体にも心にもひとかけらの力も残っていなかった。
額にあたたかな、湿った息がふれた。
「わかりました、イーツェン。約束する」
「かならず‥‥」
「ええ。かならず」
耳元でシゼの声が囁き、手がイーツェンの指を握り返す。
「でも私は決して、ルディスにそんなことはさせない。何があろうと、絶対に。‥‥だから、もう、眠って」
眠って、と声はくりかえし、シゼの唇がこめかみにふれた。そのぬくもりと声にしがみつき、すがりつくように、イーツェンの心はゆっくりと平衡を取り戻していく。ただ子供をなだめるように言いきかせ、くりかえす声を聞くうちに、その声だけに意識を満たされて、やがてイーツェンは深い眠りに沈んでいった。
そんなふうにさらに2日間がすぎ、イーツェンは食事の量も増え、3階の廊下を歩いて気晴らしと運動を同時に行った。シゼはイーツェンがのろのろと歩くのをしばらく見ていたが、その日の午後、断ち落としたばかりのハシバミの枝を持ってくると腰の高さに合わせて切り、イーツェンの手になじむよう握りを削り出した。
さしだされた杖を、イーツェンは無言で受けとった。杖を見ると、どうしてもレンギのことを思い出してしまう。あの杖の音。
歩き方にくせがつくからあまり杖にすがるなとシゼは言ったが、背中が痛んで立っていられなくなるまで歩きつづけるイーツェンを、とめようとはしなかった。
杖は姿勢を保つのにかなり役に立ち、長く歩けるようになって、イーツェンの足は歩き方を思い出しつつあった。シゼは疲れはてたイーツェンの足を手のひらでほぐし、すっかり筋肉がおちた両足を丁寧に押し揉んだ。少なくともその足にもう枷はない。そのことは、わずかながらイーツェンの気持ちを上向きにし、少々大胆に大股で踏み出してみたりもした。
イーツェンが廊下を行ったり来たり、疲れてへたりこんだりしている間、シゼはずっと階段のそばに立ってイーツェンを見ていた。ごくたまに階下からのぼってくる者がいると、3階は城主の命で人払いされているのだと言ってやんわり追い返す。
コツン、コツンと杖の先が石床を叩く。腕が重く、背がじんじんと痛んでも、イーツェンは歯を噛んで歩みをすすめた。体が早く快復すれば、胸の中でざわつく不確かな苛立ちもおさまるかもしれない。自分のこの自由にならない体はまるで、イーツェンにとって新しい牢獄のようだった。
早くそこから抜け出したい。自由になりたい。一瞬一瞬、そうもがくイーツェンに、シゼは黙ったままずっとそばにつき従っていた。
城に来てから5日目、シゼはイーツェンを部屋に残して出かけ、しばらくして戻った時には二人の人物が一緒だった。
一人はイーツェンの知らぬ男で、細身だが目を引くほどの長身だった。左の肩から吊った革鞘に、強く湾曲した異国の剣がおさめられている。低い扉口で窮屈そうに頭を下げて入ってくると、イーツェンへ頭だけ揺らして礼のようなものをした。
「ギスフォールと言います。お目にかかるのははじめてですな。今はルディス殿にかかえられてこの城詰めになっております」
傭兵と言うことだろう。目尻がするどく、引き絞られた印象を与える。あごの細い異国風の顔立ちだが、言葉にはなまりがない。この地の暮らしが長いようだ。
だがその男の姿よりも、イーツェンの視線はギスフォールの後ろに立つ小柄な影に吸い付けられていた。どうにか礼を保ったままギスフォールへ頭を下げたが、一言二言あいさつの返しをつぶやいただけで、すぐにそちらへ顔を戻す。
自然と口元がほころんだ。
「ソウキ!」
「イーツェン様!」
少年も明るい笑顔を返し、ギスフォールの影から進み出てイーツェンの前で膝をついた。床に座っているイーツェンと視線の高さを合わせる。ソウキの服は埃っぽく、彼はくたびれている様子だったが、その目にうっすらと浮かんだ涙を見てイーツェンは胸をつかれた。
ソウキの声は揺れていた。
「ご無事で──」
「お前も」
どちらからともなくのばした手を取り合い、握り合った。ソウキは矢継ぎ早にイーツェンの熱の具合をたずね、「妙なもの」を飲ませたことをわび、背中の傷を気づかった。イーツェンが一つ一つ答えるより、ソウキの問いの方がよほど早い。
二人が手を握り合ったまましゃべっている──主にソウキが──後ろで、シゼがその様子を見ていた。ギスフォールがシゼの横に立って何か話しかけると、イーツェンから視線をはなさずにうなずき、短く答える。
聞けばソウキは、イーツェンが連れ出された同じ時にギスフォールにつれられ、荷馬車に付き従って城を出たのだと言う。その後はずっと歩きで、少し寄り道をしてからこの城塞へ来たということだった。
寄り道というのが気にかかったが、イーツェンがソウキにたずねるより早く、シゼがソウキの傍らに右膝をついた。
「イーツェン。私は明日から何日か、ここをあけねばなりません」
「‥‥‥」
突然言葉が出なくなって、イーツェンは呆然とシゼを見つめた。そばにいると言ったのに──反射的にそうなじりかかる己を押さえて、ゆっくりと息をする。困惑と混乱に心がゆさぶられ、まるで自分が3つの子供に戻ってしまった気がした。
「何で? どこに?」
声がふるえかかるのをどうにかこらえる。自分でも滑稽だと思うほど、イーツェンはシゼと離れることに怯えていた。シゼの手を一度離したが最後、二度とふたたび会えないような気がする。
「ルディスがこのあたりの反乱派の本営地を叩きに出ます。その案内をしなければなりません。数日かかるかと」
「案内‥‥? 何で、お前が‥‥?」
「ルディスとの、それが取引の条件なので」
シゼは淡々と答え、イーツェンの膝頭をかるく叩いた。おちつけ、ということだろう。
「事がすめばすぐ戻ります。その間、この二人があなたのそばについていてくれるので、大丈夫です。待っていてくれますね?」
信頼をこめた声でそう問われると、どうにも首を横には振れない。イーツェンは溜息をつき、うなずいた。ソウキをわざわざこの城館へつれてきたのはシゼの手配りにちがいなく、その細やかな気遣いはうれしい。だがそれでもシゼとは離れがたく、できることならついていきたいと思ったが、それが馬鹿げた考えなのはわかっていた。杖にすがってついていくか、背負われてついていくか。そんなわけにはいくまい。
ソウキとギスフォールの二人は、今日はひとまず階下の召使部屋で眠ると言って、シゼと翌日の示し合わせをすませて部屋から去った。イーツェンは、扉をしめる寸前のソウキの笑顔に手を振ったが、扉がしまると膝の上に手を置き、ぼんやりと指先を見つめた。
シゼの動く音が聞こえる。明日の出立の用意をして、荷をととのえているのだろう。そちらを見ると何か言ってしまいそうで、イーツェンはじっと下を向いていた。
シゼは何も言わずにしばらく動いていたが、準備を終えたのか、床に座って剣の手入れをはじめた。イーツェンはそれでもまだ唇をむすんで黙っていたが、やがて胸の内で波立つものをついにこらえきれなくなった。
あまり切羽つまった響きにならないようにしようとしたが、耳にひびく自分の声はひどく硬かった。
「‥‥お前も、反乱兵と戦うのか?」
シゼは剣身を布で拭う手をとめ、顔を上げておだやかに言った。
「大丈夫です。あまり心配しないで待っていて下さい」
「どうして‥‥お前が、彼らの本営地を知っている?」
シゼはそれには答えず、革鞘に古びた長剣をしまうと、柄にかるく指の腹をすべらせた。その剣でまた人を斬るのかと、イーツェンは思う。ルディスの命で、反乱派の兵たちを斬るのだろうか。だがシゼがそうするのは、イーツェンのためだ。
流れる血が相手のものばかりとは限らない。ルディスがシゼを守るわけがないし、かさにかかって危険な役目を押し付けるだろうことは目に見えている。そんなことを思えば思うだけ胸の中に黒い予感がひろがり、喉がつまって、呼びかけるイーツェンの声は揺れた。
「シゼ‥‥」
剣を床へ置き、シゼはイーツェンへ歩み寄ると、片膝をついて無言のままイーツェンを抱いた。背中にふれないようにしながら胸に抱きこんで、用心深く腕を回す。イーツェンはシゼの肩に頭をのせ、つぶやいた。
「行くな」
シゼは無言のままイーツェンの髪をなでる。イーツェンはシゼの首すじに頬をあてるようにして、また呟いた。
「‥‥嫌な予感が、するんだ」
「用心します。でも行かなくては。大丈夫、必ず戻ってきます」
自分にもたれかかるイーツェンの頭を抱いて、シゼは少し声を低くする。
「そうしたら、いっしょにここを出ましょう。これが終われば、あなたは自由の身だ」
髪をまさぐっている指先が首の後ろをすべり、イーツェンの首の輪にふれた。
「これを外す方法もきっと見つかる」
「ユクィルスの鍛冶師は‥‥絶対に、これにさわらないだろう」
人をつなぐための輪を作るのは人鎖工で、彼らはユクィルスにおいては忌み職としてさげすまれる。普通の鍛冶師は、イーツェンの首の輪にふれることなど何があっても拒否するはずだった。
「そうですね。でも方法はあるはずです」
静かな声で言って、シゼは丁寧にイーツェンの髪をととのえ、体をはなすと、イーツェンへ真摯なまなざしを向けた。
「戻ったら、話しましょう。これからどうするのかも、全部。それから考えればいい。リグへ戻る方法もわかるかもしれない」
「リグ‥‥」
その名を口にした瞬間、心臓が切りつけられたようにズキリと痛んで、イーツェンはひるんだ。街道をとざしたあの国は、今はもう遠い。あまりにも。
「‥‥遠すぎる」
「でも帰りたいでしょう?」
そう言ってから、シゼはイーツェンの唇に軽く親指でふれて、何かを言おうとしたイーツェンをとめた。
「そのことも、後で話しましょう。今はまだ」
それが今のイーツェンに負担をかけまいとしての言葉だと、イーツェンにもわかる。リグのことを口にしようとすると自分の心に重苦しい熱が満ちて、言葉が出ない。冷静に話すことなどとてもできそうもなかった。
イーツェンは無言でうなずくと、横に座り直したシゼの肩に軽くもたれた。まだそうした動作のいちいちで背中が引きつれるが、傷の痛みを極端に恐れて身がすくむようなことはなくなっていた。
「何日くらいかかる?」
「おそらく5、6日は。それからすぐに兵をまとめて戻ってこれるかどうかは、わかりませんが。ソウキにもたのんでおきましたが、あまり根を詰めて歩かないで下さい。あなたは、無理をしすぎるから」
「うん‥‥」
ぼんやりとしてイーツェンがうなずくと、シゼは物言いたげなまま黙った。自分を心配しているのだろうとイーツェンは思い、何か言えればと落ち着きのいい言葉を探したが、そらぞらしい気がして何も言えなかった。ただ無言でシゼの左手を取り、両手で包むように握る。
自分の無力さが腹立たしかった。せめて、出立するシゼを安心させたいと思いはしても、口が動かない。何を言っても嘘になるだろうし、その嘘をとりつくろうだけの気力がないまま、小さな溜息だけをついた。
シゼがイーツェンの指に指をからめて、軽く握り返した。
「すぐ戻ってきます。きちんと食べて、眠って、待っていて下さい」
「‥‥子供扱い」
「今はね」
低い笑みを含んだ声で言われて、不意にイーツェンはドキリとした。シゼの物言いがいつもよりくだけたものだったせいか、心臓をつかまれたような気がする。頬にうっすらと熱がのぼって、わけもわからず黙ってうろたえながら下を向いた。
よりかかった肩と頬からシゼのぬくもりがつたわってくる。それはイーツェンを安らがせながら、息苦しいような切ないような追いつめられた気持ちにもした。あんなに会いたいと思いつめ、一心に焦がれて、今はそばにいるのに、どこか苦しい。
イーツェンは握りあった手を見て、また溜息をついた。
「気をつけて。‥‥無事に、戻ってきてくれ」
「はい」
「ルディスに注意して」
「はい」
いちいち生真面目に、シゼがうなずく。思わず微笑をさそわれながら、イーツェンはつぶやいた。
「待ってる」
シゼは沈黙したままだったが、イーツェンの手を握り返して、無言でこたえた。