風の音が、きこえていた。
 遠い何かがむせび泣くような風は、きっと木々の間を駆け抜けるつむじ風だろうと、イーツェンは思う。うねりたけるような森の動きがまざまざと見えてくるような気がした。見えない手が葉をなぎたおすように枝がいっせいにたわみ、倒れ、擦れあった葉と枝のきしみが風の中に舞う、猛々しくも美しいその姿が。
 ──こんな風を前にきいたのは、一体いつだっただろう。ひどくなつかしい気持ちでまどろんでいたが、イーツェンははっと目をあけた。ユクィルスのあの城からは、こんな深い木々の音など聞こえない。あの地に森はない。
 一番はじめに、木の天井が見えた。むきだしの太い梁が交差して天井にいくつかの十文字をつくり、ところどころ蜘蛛の巣が白く垂れている。茫然として、イーツェンは何度もまたたいた。
 塔の部屋ではない。牢でもない。
 夢ではなかったのだ。荷馬車にのせられて城を出た、あの不確かな出来事。そして彼を呼んだ声。彼を受け止めたあの手の、ぬくもり──
 ゆっくりと、イーツェンは横たわったまま頭をうごかした。敷布の感触に受け止められてはいるが、仰向けに寝ているので背中が痛い。自分で寝たわけではなく誰かに寝かされたということだ。苦痛を恐れて、イーツェンは鞭打ちの後から一度も仰向けで眠ったことがない。
 自分の重みで敷布に押し付けられた背中は、だが、耐えきれないほどの痛みではなかった。それよりも首に寝汗ではりついたような輪が、頭を動かす時にひきつれて不愉快だ。イーツェンは頭だけの動きで慎重にあたりを見まわした。
 石の壁にかこまれた小さな一室だった。イーツェンは床に敷布でしつらえられた寝床に横たえられていて、頭側の壁にある縦長に細長い窓の向こうから、風の音が聞こえてきていた。風はイーツェンが眠りの中で聞いたほど大きくはなく、むしろおだやかで、無意識に頭の中で拾い寄せた音がイーツェンにつむじ風の夢を見せたようだった。
 体が奇妙に熱っぽく汗ばんでいて、風がもたらす空気の動きが心地いい。
 天気はあまり冴えないらしい。白っぽく曇った光が窓からタペストリーにさし、元は金色の楽園図刺繍を照らしている。壁にかけられたタペストリーは日に焼けてくすみ、ほつれも目立ち、かつての美しさを失っていた。
 タペストリーの左横に長い櫃が置かれており、木の蓋の上にシゼが座っていた。
 イーツェンはゆっくりとまばたきしながら、無言でシゼを見つめる。シゼは壁際に寄せた木箱に座り込んで腕を組み、壁にもたれて目をとじていた。眠っているようだ。何もかも最悪を予期することに慣れてしまったイーツェンは目を凝らし、シゼの胸元が呼吸で動いているのをたしかめると、ほそい溜息をついた。ではこれは、悪夢の一部でもないのだ。
 シゼはもう皮鎧も兜も身に付けていなかった。かつてイーツェンが見慣れたような皮の袖無し胴衣をシャツの上にまとい、小袋の下がった帯を腰に巻いている。そしてこれもイーツェンの見知った長剣が横の壁にたてかけられ、手のとどく場所にあった。
 ──シゼだな、と思った。
 イーツェンはただ無心にシゼの姿をながめる。
 シゼがそこにいる。何一つ状況は呑みこめていなかったが、とにかくそこにいるのはシゼで、頭の中がそれだけでいっぱいだった。
 やはり少しやせたように見えると、様子を見ながら思う。どことなく顔が鋭利になったようだ。だが髭もきちんと剃られているし、髪も前より短く刈られて、こざっぱりとした身なりにすさんだところはなかった。短くしたせいか、髪は前よりあちこちはねていたが。
 眠る口元はきびしく結ばれていた。警戒を怠っていないようだ。だがシゼがまとう雰囲気は剣呑なものでも、荒々しいものでもなかった。
 イーツェンはぼんやりとシゼを見ていたが、段々と意識がはっきりするにつれ、体が熱っぽくて頭の芯に不快な痺れが残っていることに気付いた。口の中にも違和感があって、舌でさぐるとぶつぶつとした腫れ物ができている。胃の腑にも何かがはりついたような重たさがあった。全身の苦しげなこわばりも、寝起きということだけではないようだ。
 起き上がろうかどうか悩みながら、仰向けの姿勢が気になって動くのが少し怖い。それに何より、シゼを起こしたくはなかった。今のイーツェンではとてもなめらかな動作で起き上がれないし、必ずシゼに気付かれてしまうだろう。そんなことを茫漠と考えていると、逆にその気配に気付いたのか、シゼがふっと目をあけてイーツェンを見た。
 シゼだ、とまたイーツェンは思う。銅色の目。荷馬車の中では、暗くて目の色までは見えなかった。
 シゼは勢いよく立ち上がり、大股の二歩でイーツェンへ歩み寄ると床に膝をついてかがみこんだ。真剣な顔でイーツェンをのぞきこむ。
「気分は? 水を飲みますか?」
「‥‥シゼ」
 自分の声が恐れていたよりはしっかりしていたので、イーツェンはほっとした。シゼは右手の指先でイーツェンの額にふれ、汗ではりついたようになっている前髪をどけた。すまなさそうに、
「まだ何日か、気分が悪いと思いますが‥‥」
 イーツェンは記憶からもつれるものを引っぱり出そうとして、目をほそめる。シゼが同じ指でイーツェンの頬をなで、形をたしかめるように肌をなぞった。そんなふうに優しくふれられると、イーツェンの考えは何一つまとまらない。
「あなたをつれ出すために、仕方がなかった」
「‥‥何を、呑ませた?」
 ソウキが持ってきた得体のしれない杯のことを、やっと思い出す。同時にあの味がよみがえって顔をしかめたイーツェンへ、シゼが微笑した。
「毒キノコを煎じたもの‥‥だそうです。大丈夫、毒と言っても死ぬようなものではなくて、熱と発疹を引き起こすのだとか」
「すごく、まずかった」
「水を飲みますか?」
 イーツェンがうなずくとシゼはイーツェンを抱き起こし、座ったイーツェンをかかえるように左腕で支えて、床から取り上げた水筒の飲み口をイーツェンの唇にあてがった。その毒キノコとやらのせいだろう、口の中にいくつもできた腫れ物で水は飲みづらい。手や腕にも赤い斑点がぽつぽつと出来ているのを見てイーツェンは少し驚いたが、ありがたいことに、痒みや痛みは少なかった。
 水はぬるいが、かわいた喉にしみわたるようで、イーツェンは飢えたようにそれを飲んだ。シゼは「このくらいにしておきましょう」と途中で飲むのをやめさせる。イーツェンは自分をかかえるシゼの顔を見上げた。
 言いたいことはたくさんあった。問いたいこともたくさんあった。だがだるい頭の中で何一つ言葉がまとまらないまま、彼は小さな声で呟いた。
「シゼ」
 シゼが水筒を置いた右手でゆっくりとイーツェンの髪をなで、低く囁く。
「もう少し眠って。あなたは疲れている」
「どこにも‥‥」
「どこにも行きません。ここにいます。大丈夫、ここは安全です」
 静かに語りかけられる言葉の一つ一つが、まっすぐ心の内側にひびいて、イーツェンは小さくうなずいた。シゼの手を借り、姿勢を横向きにかえて身を丸める。
 シゼの手はおだやかにイーツェンにふれながら、注意深く背中をさけていた。丁寧な仕種でイーツェンの頭の下へ小さな枕をさしこみ、肩まできっちりと上掛けでつつむ。その動きを見るよりも肌に感じながら横たわっていると、しだいにあたたかな眠気がひろがって、意識が重くなった。
 もぞもぞと左手を動かして、そばにあるシゼの膝にふれる。そこにシゼがいるということを、まだどこか信じられない自分がいた。夢ではないとわかっていても、今にもこの現実が粉々にくずれて、イーツェンの前からシゼを奪い去ってしまいそうな気がした。
 シゼが、イーツェンの手を両手の間に取った。剣を握り慣れた男の手はざらついていて、どこか熱い。熱があるのは自分の筈なのに奇妙だと、イーツェンはぼんやり思った。
「今は休んで。明日には食事もできますし、すぐ元気になりますよ」
 シゼはそう言いながら床にあぐらで座り、イーツェンの手をかるく握り直した。イーツェンは言葉で答えるかわりに、シゼの手の甲を親指でなで、目をとじた。
 もう二度と「元気に」など、なれないと思っていた。自分は決定的に壊され、変えられてしまったのだと。癒えることも失ったものを取り戻すことも、きっと出来ないのではないかと。身の内深くに刻まれた凍りつくような傷が、常にイーツェンを苦しめる。
 だがシゼの言葉は心に沁みて、その手の温度と同じようにイーツェンをあたためた。背に鞭打ちの傷を刻まれ、首に奴隷の輪をはめられて、もはやイーツェンは前と同じではない。それでも、いつかまた、シゼが知っていた自分に戻れるかもしれないと思う。もしかしたら。いつか。
 手を握ると、シゼがそっと握りかえしてくる。重い目蓋が下がり、世界はゆるやかに遠ざかって、イーツェンは眠りについた。


 かわいた夏の陽のいろが、石壁を明るく照らしている。その上を横切っていく染みを見つけて、イーツェンは目をしばたたいた。やっと自分が目を覚ましているのに気がつく。どのくらいそうやってぼうっと壁を眺めていたのだろう。まだ何もかも、夢のようだった。
 染みは、八本の脚を持つ蜘蛛だった。長い足を器用に使いながら石の壁をはいのぼっていく。のろのろとした動きで慎重にのぼっては、石の継ぎ目ごとにとまって頭を振り立てるように持ち上げ、右を向き、左を見る。どうしようか迷うような様子に、イーツェンはなんとも滑稽な親しみをおぼえた。しばらくたたずんでから、蜘蛛はやっと継ぎ目を越える。それを何度かくりかえして、梁の交差する天井近くのくらがりへ消えていった。
 身を起こそうとして、イーツェンは体中のこわばりにたじろいだ。熱は引いてきたようだが、口の中にまだぶつぶつした腫れ物が残っているし、関節のひとつひとつが自分の動きできしみを上げた。こわばった背中の傷も動くたびに引きつれる。やっとのことで座り込んで、息をつき、部屋を見まわした。
 シゼの姿は消えていたが、そのことに不安はおぼえなかった。眠りながらも意識が浮き上がった時、ぼんやりシゼの存在を感じていた。うわ言のようなイーツェンの呟きにいちいち答えた、律義な声を覚えている。どこへ行ったにせよ、イーツェンを放り出しているわけではないのはわかっていた。
 あらためて見た部屋は粗末というより殺風景で、壁際に、さっきシゼが座っていた長櫃とたたまれた敷布があるほかは、何も家具らしきものが見えない。扉は一つ、窓と向かい合う壁に黒樫で枠を打った木の扉があったが、浮き彫り一つない質素な扉だった。
 イーツェンはしばらくその扉をながめてから、枕元に置かれている木の盆へ目をやった。盆の上に水差しと木の杯、それにたたんだ布がのっている。盆の横には水を張った手桶。イーツェンはゆっくりと体の向きを変え、膝をついたまま腕を使って盆のそばによると、水差しを取ってかわいた喉に水を飲んだ。午後なのか、空気が暑い。
 手桶の水に布を浸して軽く絞り、寝汗のごわつきが残る顔を拭う。首の輪に気をつけながら首すじも拭い、桶で手を洗うと、随分と気持ちがさっぱりした。シゼの心づかいに感謝して布を置こうとした時、盆の表面に何か白っぽいチョークで線が引かれているのに気付いて、慎重な手つきで盆の上のものをどけた。
 白い線はついさっき引かれたようでまだこぼれそうな粉がついているが、水ににじんで何を書いたものかよくわからない。しばらく見ていてから、イーツェンは板の上下をひっくり返し、微笑した。
 そこにはリグの文字で、「すぐもどる」と書いてあった。少しばかりあやしげな線もまざっているが、きちんと読める。書いたのはシゼにちがいない。イーツェンは盆を膝の上にのせ、指についたチョークの色をながめた。
 窓の外から時おり人の声のようなものが聞こえたが、おおむね周囲は静かだった。風の音もなく、夏らしく乾いた部屋の空気も、動きがにぶい。
 ──ここは、どこだろう。
 やっと、イーツェンはそう考えた。まともに考えるだけの余裕がようやく出てきて、周囲をもう一度見回す。窓を見ると、石壁がかなり厚く取られているのがわかるし、大きな館か城塞の一室だろうと思う。しかし一体、どうやってシゼがイーツェンをここにつれてきたのかはわからなかった。どうやってソウキに毒を渡し、どうやってイーツェンを塔の部屋からつれ出したのかも──
(‥‥あの時)
 ルディスが、いた。
 イーツェンは盆のはじにかけた指に力をこめる。いきなり体温が下がったようで、首すじから後頭部にかけて氷になでられたような痺れがはしった。たしかにあの時、塔の部屋にはルディスが立ち、イーツェンを運び出すよう王族の声で命じていた。シゼが身に付けていた兜にもルディスの紋がついていたのだ。
 何故だろう。どうして王族であるルディスが、イーツェンの城からの脱出に手を貸したのだろう。何が目的だと言うのだろう。ルディスは元から欲望が先に立つ性格で、ほしい物がなければ協力するわけがない。イーツェンの反応をいちいち探って楽しんでいたようなオゼルクとちがって、ルディスの抱き方は時に残酷で、他人を苦痛で支配することに執着しているようだった。
 イーツェンの身柄を手に入れて、ルディスに何の利益がある? 何を手に入れたがっている?
 大きく体がふるえ、一瞬歯が鳴った。ルディスに受けた陵辱の記憶が心よりも体によみがえって、イーツェンは息苦しい喉をつかむ。だが指はつめたい金属の輪の上をすべって、その感触がまた彼の息をとめそうになる。奴隷の輪。盆が膝から落ちて床でかわいた音をたてた。
「‥‥‥」
 短い喘ぎをくりかえしながら、イーツェンは身を丸めて呻きを殺した。また大きく身がふるえ、歯がカタカタと音をたてる。何を怯えているのかよくわからないまま、ただ凍りつくような痛みに心臓がつぶれそうだった。
 何でもないことだと、体だけの苦しみだと、あれほど言い聞かせてきたのに。今になって、すぎた行為の恐怖にふるえる自分が心の底から情けない。イーツェンは歯をくいしばろうとしたが、力が入らなかった。ルディスだけではない、もっと深く、どうしようもないほどにイーツェンに刻みこまれた傷がひらいて、そこから恐怖がとめどなくあふれ出してくるようだった。
 世界が暗く狭まる。記憶の底からたちのぼる牢の湿った匂い。それが彼の息をつまらせ、体の中に汚れたものが満ちあふれてくる。自分を見失いかかっているのがわかった。意識がどこかへすべりおちていくのをとめようと、イーツェンは握りしめた拳を胸に押し当て、短い喘ぎを何度も肺から絞り出した。うまく息ができない。呼吸に集中しながらどうにか自分の心の平衡を保とうとしたが、暗いものが体の内側をはいのぼってくるのをとめることはできなかった。凍りつくような嫌悪と恐怖に心が痺れて、呑みこまれそうになる。
 ふいにシゼの声がした。
「イーツェン?」
 イーツェンははっと顔をあげた。目の前に、シゼがいる。シゼは片膝をつき、心配そうにイーツェンを見つめながらイーツェンの肩に手を置いた。
 イーツェンはふるえる手でシゼの両腕をつかんだ。シゼの手にはたしかな実感があって、それがゆらぐイーツェンの意識を現実につなぎとめる。
 息をしようとするがうまくいかない。何かを言わねばと思った。シゼに何かを言おうと、そのことを考えていたはずだった。
「ルディス、が──」
 それだけの言葉を言うのに舌がもつれて、ひどくどもった。シゼの右手がイーツェンの頬にふれ、まっすぐに視線をあわせると、彼はおだやかに言った。
「ゆっくり、イーツェン」
「‥‥ルディ、ス」
 イーツェンは何度も大きな息をついてから、押し出すようにその名を口にした。シゼはうなずいて、イーツェンの頬に手をあてたまま待っている。さらに時間をかけて息をととのえ、イーツェンは低い声でつぶやいた。
「どこにいる?」
「さっき会ってきました。大丈夫、この部屋にはきません」
 そう言ってから、シゼはイーツェンの疑問を先取りしたようにつづけた。
「ルディスの手を借りて、あなたをあの城から出しました。ここは彼の城館です」
「‥‥ルディスは、城を、持ってない」
 城がほしいと従兄弟のルディスに文句を言われた、いかにも軽蔑したふうにそのことを言ったオゼルクの記憶がよぎる。
 まばたきしたイーツェンへ小さく微笑して、シゼはイーツェンの体に腕を回し、前のめりになっていた体を抱きおこした。その間ずっと説明をつづける低い声に、イーツェンは聞き入る。この声はいつでもイーツェンを落ちつかせた。
「ルディスは城主の娘と婚姻の約束をして、ここを手に入れたんです。ゲサンの森の外れの小さな城ですが、あたりの兵をつのって、今、陣を張っています。それで私もここに入れました」
「陣?」
「反乱討伐のための陣だそうです」
 イーツェンの問いに一つ一つ答えながら、シゼは座らせたイーツェンの腰の後ろへ枕を置いて姿勢を安定させ、いつの間にか乱れていた髪を手で軽く梳き、水を飲むかと手で示した。こんなふうに細かく世話を焼かれるのは気恥ずかしいが、心地よくもあり、イーツェンはうなずいた。
 手渡されたぬるい水で乾いた口の中を湿していたが、ふいにイーツェンははっとした。シゼはさっき、ルディスと会ったと言った。ルディスが何故、今、この城にいる?
「シゼ。ユクィルス王の、葬儀は──」
「城での葬儀なら、昨日です」
 日にちの感覚がとんで、イーツェンはまたたいた。イーツェンがシゼによって城からつれ出されたのが葬儀の前日だ。あれから意識を失ったり眠ったりしている間に二日がすぎているらしかった。道理で体に力が入らないわけだ。三日、何も食べていない。
「ルディスは、どうして葬儀に出ていない?」
 王の葬儀が一日だけで終わるわけがない。そう言ってから、シゼの奇妙な言い方に気付いてもう一度たずねた。
「城での葬儀?」
 まるで別の葬儀があるようだ。シゼがうなずいた。
「五日後に、ジノンが聖母堂で王の葬儀をとりおこなうそうです。ローギスもジノンもともに王の遺骸を自らが持ち、己こそ後継者だと主張していますので、いずれ両方が王の名乗りを上げるでしょう」
「ジノンが‥‥」
「どちらの葬儀に参じるか、ためしているようです。ルディスはどちらにも出ないと」
 それはきわめてルディスらしいと、イーツェンは思った。無駄に誇りが高い。ユクィルスの王族──王の妹の子として生まれながら、ルディスはオゼルクやローギスのような青い目ではなくはしばみ色の目を持っていた。外見の差違で陰口を叩かれたと言う少年時代のせいか、彼は誰かに頭を抑えられるのを極端に嫌い、派手な振る舞いをしたがるところがあった。あくまで他人に対し、支配的であろうとする。それは多かれ少なかれ、ユクィルスの王族に見られる癖ではあったが。
 シゼの指がイーツェンのもつれた髪を丁寧に払い、頬におちたほつれ毛を耳のうしろへかけた。
「あとで洗い湯を用意してもらいますが、その前に食事をしましょう。粥だけにしますか? それとも、厨房で鶏をあぶり焼きにしていましたが」
 食欲はないと言おうとした瞬間、見はからったようにイーツェンの腹が鳴って、はしたないと言うよりほとんど滑稽な音に、イーツェンは赤面した。シゼが微笑する。
「両方もらってきましょう。好きな方を食べればいい。食べて、体力をとりもどさないと」
 立ち上がろうとしたシゼの肘を、イーツェンが両手でつかんだ。動きをとめたシゼへ身を乗り出し、低い声で囁く。
「ルディスを、どうやって動かした?」
「取引しました。大丈夫、あなたの身の安全は約束されている。誰もあなたに指一本ふれない」
 イーツェンへ体を向け、片膝をついて彼をまっすぐ見つめ、シゼは誓いのように強くおごそかな口調で言った。
「私があなたを守る」
「‥‥‥」
 心臓がどきりとはねて、熱された血が体の中心から全身へひろがっていく気がした。あれほど怯えて緊張していた体から、冷たさが溶けるように消えていく。シゼの声は低く静かだったが、押さえつけたような荒々しさがひそんでいて、その強さがイーツェンの心をゆさぶった。
 言いたいことも聞きたいことも、たくさんあった。だが言葉は残らずかき消えて、イーツェンはシゼの銅色の瞳に見入った。前と同じようにまっすぐなその目は、イーツェンをうつして揺らがなかった。
 シゼのまなざしの中に呑みこまれそうになる。それが少し怖いが、目がそらせない。イーツェンはかすれた声でつぶやいた。
「私は‥‥私はもう、お前に、何も報いることはできない‥‥」
 シゼがまたたいた。
「私が戻った理由が、そんなことだと思っているんですか?」
「‥‥私は、お前の知っていた私とは‥‥ちがう」
 息が喉につまる。何をどう言えばいいのかわからなかった。シゼが去ってから何があったのか、どんなふうにイーツェンが砕かれたのか。今でさえ、暗い記憶に怯えて何もできずにふるえあがっていた。
 言葉が出ないまま、イーツェンは自分の手をゆっくりとあげ、首の輪にふれた。
 シゼはちらりとイーツェンの首を見てから、ふたたび視線をあわせ、身を前に傾けてイーツェンに顔をよせた。
「だから、何です。あなたがそのばかばかしい輪をはめられたから、私にあなたを見捨てろと言うんですか?」
 その声にある怒りと苦々しさに、イーツェンは凍りついた。シゼはむっつりとイーツェンを見つめていたが、やがてぶっきらぼうに言った。
「あなたはあなただ。見ればわかる。どれほど変わったとしても、そんなことが問題だとは思わない」
「シゼ‥‥」
「あなたは私を守った。城から遠ざけて‥‥私を、遠ざけて」
 シゼの右手がイーツェンの頬をつつみ、武骨な親指がイーツェンの口元から頬へとゆっくりなでた。シゼの表情は苦しげで、まるで彼は何かの痛みをこらえているようだった。
「今度は私が、あなたを守る」
「‥‥‥」
 シゼの指はやさしく、まるで大切なものをたしかめるようで、イーツェンはふいに泣きたくなるが、彼はもう長いあいだ苦痛以外のことで涙を流したことがなかった。熱い塊が喉につまって行き場がなく、頭の芯がキリリとしめあげられるように痛む。
 シゼは無言でイーツェンを見つめていた。だがどうしたらいいのか、自分がどうしたいのか、イーツェンには何もわからない。あれほどに焦がれ、シゼの記憶の一片までも求めたのが嘘のように、今やイーツェンの心はすくみあがっていた。自分がどれほどおとしめられ、汚され、歪められたのか、シゼの前にそれをさらすのが恐ろしい。
 もし一年近く前、あんな思いをするのだとわかっていたら、シゼを逃がすことも守ることもできなかっただろう。所詮、イーツェンの覚悟などその程度のものだったのだ。体も弱りきり、心も砕けた、こんな自分をシゼに知られたくはなかった。
 シゼの手が頬をなでる。
 今、この手にすがったら、二度と離すことはできないと思った。そうしていいのかどうか、イーツェンにはわからない。一度は何もかもを失ったと思って終わりを覚悟した──その時も、鞭打ちの時ですらも感じなかった恐怖に、イーツェンは凍りついたままだった。
 シゼは答えを求めるようにイーツェンを見つめていたが、イーツェンにはどうすることもできなかった。視線をそらすこともできずに、ただシゼを見つめ返す。息がとまりそうだった。
 シゼがゆっくりと体を傾け、その肩がイーツェンの胸元にふれた。のばした両腕でイーツェンの体をやさしく抱きこむ。イーツェンは茫然としたが、身じろぎ一つしない。できなかった。
 背が痛むのを知っているからだろう、イーツェンの腰の後ろへ手を回しながらそっと抱擁し、シゼはイーツェンの肩へ額をのせた。
「こんなに、やせて」
 くぐもった呟きに、イーツェンの喉元から心臓まで何かがつまる。イーツェンの肩口に顔を伏せているシゼの表情は見えない。だが自分を抱擁するシゼの体が小さくふるえたのを感じ、イーツェンは目を見はった。彼は、シゼが泣いているのかと思った。
「怯えて‥‥」
 低い、かすれた声を引くように呟いて、シゼはイーツェンを抱いたまま動かなかった。身を寄せられ、あわさった体に、シゼの温度がつたわってくるのを感じる。あたたかなその温度は、イーツェンを潤すように肌の内へひろがった。
 髪を短めに刈っているので、シゼの首のうしろの肌があらわになっていて、かすかに汗の匂いがした。イーツェンは遠い記憶がゆさぶられるのを感じる。皮と土と鉄、剣の手入れに使う油の潤んだ匂い。城の人間の小洒落た香油や髪粉の匂いとはまるでちがう、シゼはまるで大地のような匂いのする男だった。記憶と同じ匂いにつつまれ、ふいにイーツェンはシゼの存在を強く、体の芯が痛むほどの強烈さで感じた。シゼだ、と思う。ここにいる。これほどそばに。
 こわばっていた体から力が抜け、イーツェンは頭を傾けてシゼの髪に頬をよせた。その仕種にも首の輪が肌にくいこんで邪魔をする。
 短く無造作に刈られたシゼの髪の先が、イーツェンの頬をちくちくと刺激した。陽に灼けたように少しあせた金の髪は、以前から少しばかり癖が悪かった。シゼは紐でくくっていた後ろ髪も断ちおとしてしまったようで、イーツェンはそれを残念に思う。似合っていたのだが。
 そのまま静かに、シゼによりそっていた。少しだけ強さをましたシゼの抱擁の中で、イーツェンは深い溜息をつく。体の芯でねじれていた冷たさが、シゼの腕の中で溶けるように消えていくのがわかった。熱を感じる。それはとてもおだやかな熱で、イーツェンの心にひろがりながら沁みていく。
 少し前から背中の傷がうずいていたが、その痛みは一時期にくらべて遠く、鈍い。思ったよりも自分が癒えていることに、イーツェンはあらためて気付いた。強烈な苦痛の記憶が先立って、痛みの予兆に敏感になるあまり、背中に負担をかけるようなことを臆病にさけつづけていたのだ。
 ──癒えるのだろうか。
 そう思う心は、まだ苦さに満ちていた。癒えることなどできるのだろうか。この傷のように、イーツェンの内側で砕かれたものも、いつか。
 一度は何もかもをあきらめ、すべての望みを手放した。絶望の暗闇に沈み、痺れたイーツェンの心には、わずかな望みすらもあまりにまぶしく見えた。また失うのが怖い。望んで、また奪われていくのがただ怖い。次はもう耐えられないだろう。それを思うと今から心が砕けそうになる。
 それでも彼をつつむシゼの腕はあたたかく、そのぬくもりは陽のように心地よかった。イーツェンはシゼの頭に頬をあずけたまま、かすれた声で呟いた。
「シゼ」
 名を呼ぶだけで、身の内に満ちてくるものがある。目をとじて、また呼んだ。ただ、たしかめたかった。
「シゼ‥‥」
「イーツェン」
 イーツェンの肩に額をのせたまま、シゼが低く彼を呼ぶ。自分の心臓がドクリと脈を打つのを、イーツェンは感じる。まだ生きている。多分、イーツェンの心の中に、まだ生きるものがある。
 イーツェンはシゼの背中にそっと右腕を回し、シゼの背をなでた。ごわつく皮の胴衣につつまれた体は鍛えられてかたい。
 二度とふたたび会えるとは思っていなかった。だがシゼは戻ってきたのだ。それも、イーツェンを救いに。イーツェンを守りに。
 シゼが顔を上げ、おだやかな仕種でイーツェンの右のこめかみにくちづけた。吐息のようなあたたかい息がイーツェンの肌を湿らせる。シゼに回した右手で思わずしがみつこうとして、イーツェンは背中にはしった痛みに呻いた。
 同じ姿勢で長くいすぎたらしい。姿勢をかえようともぞもぞ動き出したイーツェンをシゼがすばやく手伝い、膝を組み替えて座り直させ、歪んだ敷布を直した。イーツェンは離れたぬくもりが惜しかったが、背中の痛みもそろそろ無視できないものになってきていた。
 シゼはてきぱきとあたりを整えてから、水差しと杯を手のとどくところに置き、かるくイーツェンの髪をなでた。
「食事を取ってきます」
 扉へ向かおうとしたシゼを、イーツェンが呼んだ。顔だけで振り向いたシゼへ低い声で、
「ルディスに用心してくれ。必ず、裏切る」
 ルディスは常にイーツェンを見下し、さらにシゼを見下していた。取引や約束など守る気は、はじめからない筈だ。自分の思い通りにほしいものを手に入れようとする、ルディスにはそんな子供っぽい、底の浅い無軌道さがあった。
 シゼはうなずいて、まっすぐにイーツェンを見つめた。
「大丈夫です。‥‥私を信じて下さい、イーツェン」
「うん」
 イーツェンは迷いなくうなずいた。それならできる。どうしたらいいかわからなくても、自分のことすら信じられなくとも、シゼを信じることは今のイーツェンにもできる。そう思うと、世界が確かさをとりもどしたような気がした。
 シゼはほっとした微笑を見せると、すばやい足取りで部屋を出ていった。