レンギが去り、シゼが去った。そしてオゼルクまでも。
 彼がいなくなって淋しいとはとても思えなかったが、それでもイーツェンは奇妙なほどの空虚を感じずにはいられなかった。
 そしてまた、この一件で自分の立場が不安定になったことにも気付いていた。オゼルクがどうやってイーツェンを牢から出し、どんな口実のもとに自室に置いたのかは知らないが、下手をすればイーツェンもオゼルクの「一味」として見られてもおかしくなかったのだ。王の毒死にかかわりありと見なされれば、確実にまた投獄される。いや、今でもいつそうなるかわからない。
 ──ローギスなら、喜んでそうするだろう。
 皮肉っぽい思いは、ほとんど確信だった。
 ソウキが聞き集めてきたところによれば、ローギスの容態はかなり重かったらしい。三日目にやっとローギスの食事のための支度がととのえられはじめたと、ソウキは厨房での話をイーツェンに報告したが、イーツェンはうなずいただけで注意深く口をつぐんだ。
 イーツェンがローギスに抱く警戒や、ユクィルスに対する抜き難い憎しみ、オゼルクの毒の小瓶を見たことについてなど、ソウキには聞かせてはならないことだった。イーツェンの立場はあやうく、いつまた転落しないともかぎらない。その時にソウキを巻き込まないよう、自分の本心を語ることでソウキを余計な危険にさらすことのないよう、イーツェンは細心の用心を払っていた。
 どちらにせよ、もともとイーツェンは滅多なことでは口をひらかなくなっていたので、さらに口数がへろうと不自然ではなく、二人の関係にほとんど影響はなかった。
 数日のあいだ、イーツェンの暮らしは思いのほか平穏にすすんだ。一度だけ城の役人が塔の部屋を訪れ、王の毒死については何も知らず何も関わりないとの誓言書をイーツェンに書かせたが、それは形式的なもののようだった。役人はイーツェンを問いただすことさえしなかった。
 回復の早かったジノンが王の代理をつとめ、城内はおちつきを取り戻したらしい。待遇がおだやかなのはそのせいだろうか。ジノンがまだ自分のことを覚えているのか、少しでも気にかけているのか、イーツェンにはよくわからない。期待してはならない、そのことはよくわかっていた。この城で何かを望むことは、常にイーツェンを苦しめるだけだった。
 この一日、この一瞬。がらんとした塔の部屋ですごすだけの何事もない一日。これが砂上の楼閣のようにはかないものであることも、よくわかっていた。


 ローギスが回復して政務をとるようになったと聞いたのは、王の死から五日後。イーツェンの部屋にいきなり豪勢な食事がはこびこまれてきたのは、それから二日たった日だった。
 夕食にはまだ少し早いが、それよりも、その皿の華麗さにイーツェンはおどろいた。銀の皿に丁寧に盛りつけられた鴨肉のロースト、木の実を使ったソース、大きなキノコに飾られた山鳥の姿焼きの腹は何かの詰め物でふくらみ、きわめつけに甘い泡菓子が銀の器に盛られていた。
 ソウキも手伝うどころではなく、テーブルに並べられていく料理を茫然と見つめている。皿を運びこんでくる男は城の使用人の中でも高級な服をまとっていて、なれた手つきで食卓をつくると、最後にグラスを置いて琥珀色の林檎酒を注ぎ、イーツェンへ一礼した。
「もし何かご要望のものがあれば、どうぞ何なりとお申し付け下さい」
 それを口をきく許可と取って、イーツェンは静かな声でたずねた。
「何故です?」
「お食事をお先にどうぞ」
 そうは言ったが、男はイーツェンが首を振るのを予期していた様子で、テーブルから一歩脇に動いた。ソファのイーツェンと視線を合わせる。
「私は、王の代理人であり執政官であられるローギス殿下のお申し付けによってこちらへ参りました」
 イーツェンは内心の驚きをおさえこんで、無表情をたもった。王の代理はジノンがつとめていた筈だ。それがローギスにかわっている。そのことが、今の城内においてどういう意味を持っているのかはよくわからなかったが、ローギスの名を聞くだけで不吉をおぼえてしまうのはどうしようもなかった。豪勢な食事にかくされた意味があるのだろうと、予想はつく。
 ちらりと皿へ目をやってから、イーツェンは男の次の言葉を待った。
「三日後にユクィルス王の葬儀がとりおこなわれます。死者を迎える神々へ供物を送るお役目として、ローギス殿下は高貴なあなたに、貢ぎの者をひきいる大任をお願いしたいと申しておられます、イーツェン殿下」
「‥‥‥」
 イーツェンは表情を動かさないまま男を見つめた。男は微笑して一礼する。それで何もかも説明がついたと言うように。
 ──事実、説明はついていた。
 イーツェンは何かがすとんと腹の底におさまったような気がする。ユクィルスでは時に高貴な者の葬儀にあたって、神々への貢ぎとして奴隷を殺すことがあるのだ。決して毎回行われる風習ではないが、それはユクィルスについて学んだ記憶にあった。
 イーツェンの国リグでも、葬儀の時に供の死が認められることはある。これは死者への忠誠や強い情のあかしとして為されるもので、長老会の同意も必要となるひとつの大切な、そして尊ばれる儀式だった。ユクィルスのものはそれとは異なっているが、形としてはわかる。死でもって死を飾るのだ。
 だが、よもや自分が供死の一人としてえらばれるとは予想していなかった。
 イーツェンをリグに対する「人質」として長らえさせるという話は、それを認めた王の死とともに反故になったのだろう。口約束と言うのはそういうものだ。
(王の死を口実に──)
 ローギスは目ざわりな自分を片づけるつもりなのかと、イーツェンは気怠く思った。ならば早く殺せばよかったのだ。もてあそぶように虜囚の身に落としたりせずに。だが、まずはイーツェンに思い知らせずにはおかない、それがローギスの猛々しさなのだろう。
「リグの王族に我がユクィルスの王の送りに参加していただき、王の死へ神々の祝福をもたらせることを心より感謝いたします」
 慇懃に述べる男の顔をちらっと見上げて、イーツェンはうなずいた。男がつづける。
「今夜のお食事もお好きなものをお持ちいたします。お望みがありましたらお申し付けください。明日は、水とワインのみで一日断食していただきます」
 イーツェンはそれにも無言でうなずき、さらにつづく儀礼的な謝辞を黙って受け流した。首に奴隷の輪をはめられた自分に対して、城の上級召使の男がやたらと丁寧にへつらおうとするのが滑稽だった。この男とて、イーツェンをうやまう気などかけらもないだろう。
 さらに数回の辞儀を重ねてから、もう一度「望むものはないか」と男にたずねられ、イーツェンはやっと口をひらいた。
「紙とインクとペンを貸していただけませんか」
「何に使われます?」
「手紙を書きます」
 男の目にチラッと警戒がうごいた。
「どなたへ?」
「ジノン様に」
 イーツェンは手でかるくソウキの方を示した。ソウキは立ちすくんだまま倒れそうなほど青ざめ、二人のやりとりを大きな目で見ていた。イーツェンはかすかにうなずいてみせる。
「彼の紹介状を書いて託したいのです。よく働くし、気もつく。どうかよきように、ジノン様に先行きをとりはからっていただけないかと」
 そのことはずっと気にかかっていた。何の力もすべもないが、ソウキの先行きにせめてもの手配りがしたいと思った時、イーツェンにはジノンしか思いつく相手がいなかった。
 聞き届けられるかどうかはおいて、せめて手を打つだけでも──と、願いを口にしたイーツェンへ、男は小さな溜息を向けた。
「残念ながら、それは不可能かと」
「不可能?」
 イーツェンは眉をひそめる。無理と言って退けられるならともかく、奇妙な言い方だった。
「はい。ジノン様は、二日前に城を発たれました。陛下のご葬儀にも戻られないとのことです」
「‥‥わかりました」
 詳細を問いただしそうになる自分を押さえて、イーツェンはうなずいた。今、城を去り、王の葬儀にも姿を見せないと言うのは、あまりにも異様なことだ。ジノンはもはやこの王の城へ戻るつもりがないのではないかと言う思いがかすめた。これは、内乱の前ぶれではないのかと。
 王の死をきっかけに、ユクィルスは割れつつあるのかもしれない。それもまたいいだろうと、イーツェンは気怠く思う。喰いあえばいいのだ。彼にとっては何の意味も持たない国であり、何の意味も持たない未来だった。
 二日たてば、イーツェンはユクィルスの王の供葬として葬られる。その先はない。
 終末へたどりついた。得体のしれない虚脱感につつまれて、イーツェンは男が去った後もぼんやりと座り込んでいたが、やがて、ソウキへ小さな微笑を向けた。
「こっちにおいで。座って、いっしょに食べよう」
「‥‥‥」
 ソウキはまだ青ざめたままだったが、イーツェンが重ねて手招きするとソファの隣に座り、すすめられるまま皿に手を付けはじめた。イーツェンがあれこれと取り分けてやる。ソウキは豪華な食事の味など一口もわからない様子でもぐもぐと口を動かしていたが、ふいにうつむいて下を向き、ぽろりと涙をこぼした。
 イーツェンは乾燥果物を混ぜこんで固められたチーズをつまみながら、もう片方の手でぽんとソウキの頭をなでる。無言の部屋に少年の小さなすすり泣きが低くひびき、イーツェンはずっとソウキの髪をなでつづけていた。


 その夜の食事にイーツェンは何も特別なことを望まず、いくらかのパンとチーズを食べて眠った。
 翌朝、屍衣ということなのか、金糸でふちどりされた薄灰色の長衣がとどけられた。
 別にとりたててすることも、できることもない。イーツェンはソウキが持ってきた手桶の水を使って体を清め、粗末な普段着に袖を通すと、ソファに座ったままぼんやりとしていた。心に満ちてくるように思い出されるのは故郷のリグの地、そしてシゼのことばかりだった。
(──私と一緒に、城を出ますか?)
 もうあれは一年近くも前のことだ。この部屋で、シゼはイーツェンにそう言った。もしあの時うなずいていたらどうなったのだろう。ユクィルスの城を出て、シゼと一緒に。一体、どこへ行けただろう。それを思うと胸がつまるようだった。決して望めない夢であり、もう一度あの場にかえったとしてもイーツェンは首を縦に振ることはできない。だがそれでもあの瞬間、どれほどイーツェンはただうなずきたいと思っただろう。
 溜息をついてイーツェンは首の輪に指をふれ、その冷たさに目をとじた。何もかもが遠い。
 ソウキは別室に控えさせられていて、部屋は胸苦しくなるほど静かだった。死を前にして、一人ですごせということなのだろう。しんとした静寂の向こうに何か得体の知れないものを聞いてしまいそうで、イーツェンは身を丸めた。
 しばらくして、ガチャリと扉が鳴る。身構えたイーツェンの前へ、ソウキと、扉付きの兵が姿を見せた。ソウキは胸元に細長いワインの壺をかかえて一礼し、イーツェンのそばへ歩み寄ると、壺の栓を取って陶杯へワインを注いだ。
「お飲み下さい」
 今日は一日断食だが水とワインはゆるされている。喉はかわいていなかったが、ソウキに杯を手渡されて、イーツェンは何気なく少年の顔を見上げた。
 イーツェンが思わずぎょっとするほど、ソウキは真剣な、むしろ深刻なほどの顔でイーツェンを見つめていた。もう一度低い声でゆっくりとうながす。
「どうぞ」
「‥‥‥」
 兵は扉口に立ったまま、二人の様子を眺めている。イーツェンは杯を口元に近づけながら、杯の中に入っているものがワインではないのに気付いた。色も茶色っぽく濁り、鼻先につんと青臭いにおいがたちのぼる。杯に口をつけながら、イーツェンはソウキを見上げた。
 ソウキは懇願のまなざしでイーツェンを凝視している。唇が無言のまま、「飲んで」と言葉の形だけをつくった。
「‥‥‥」
 イーツェンははじめの一口を飲んで、むせかえりそうになるのをこらえた。胃液が逆しまに戻ったような苦さがひろがる。どう考えても酒でもなければ、まともな飲み物だとも思えなかった。
 イーツェンの舌先は何かの毒の苦味をさぐりあてていた。ぴりぴりと口の中全体が痺れ出している。吐き出しそうになったが、彼を見つめ続けるソウキのまなざしは真剣で強く、少年が必死でイーツェンに訴えかけているのがわかったので、イーツェンはこらえて飲み続けた。不快感が胃に溜まり、強烈なまでの嫌悪感に腹の底がねじれる。
 どうしてソウキが毒を持ってきたのかはわからない。目的もその意味もわからないまま、イーツェンはそれを飲み干した。ソウキは慈悲のつもりでイーツェンに毒を飲ませているのかもしれないが、もうそれならそれでよかった。
 全部飲み干し、イーツェンは吐き気をこらえながらソウキへ杯を渡した。ソウキは無言のままそれを水差しの水で一度洗い、水を注いでイーツェンの前へ置いた。
「失礼します」
 イーツェンはうなずくと、出て行くソウキと兵を見送ってから、顔をしかめて水を飲んだ。舌の上のヒリつきが取れず、体の内側にいやな熱がこもっている。こみあげてくる吐き気をこらえたが、小さな溜息すら喉に苦かった。
 ソファでななめに丸くなり、呻きを殺して腹を押さえた。ソウキが一体何を盛ったのかはわからないが、それにしてももう少しマシなものはなかったのかと少々うらみに思いつつ、イーツェンは頭を肘掛けにのせる。しばらくそうしていたが、気分は一向によくならず、重苦しい眠気に閉口して立ち上がると体を引きずるように寝室へ入った。どうにか眠ってしまうのが一番よさそうだった。もう一度目覚められる保証は、どこにもなかったが。


 ──いつか。
 いつか。そう呟く、これは最後の夢だろう。いつか、と。シゼの声が囁いた気がした。
 耳元がざわついて、イーツェンは短く呻いた。熱い。夢の中に戻りたいのに、周囲の騒々しさが邪魔をする。人の手が彼にふれ、そむけようとする顔を押さえて口に指をこじ入れた。
 火にあぶられるような肌は汗でべたつき、人の手の感触が気持ち悪い。このまま死なせてくれと思った。もう充分だった、痛みも苦しみも。充分耐えた。もういいだろう。
「──口の中にまで発疹ができている」
 聞き覚えのある声が冷然と言った。その声はイーツェンの足元からきこえ、イーツェンの顔をつかんでいる相手へたずねた。
「療法師?」
「病小屋へ運ぶのがよろしかろうかと」
「いえ、城外へ出すことは──」
「ならば、地下の牢へ運べ。そこで様子を見る」
 傲慢なこの声を、イーツェンは知っている。目をあけようとしながら小さくもがいたが、首の輪は信じられないほど重く、頭の芯が痺れてうまく動けない。自分の体が自分のものではないようだ。息が通るたびに喉が灼け、ヒュウヒュウと耳障りに鳴る音が自分の呼吸音だとやっと気がついた。
「ですが、ここから出してはならないと、ご命令をいただいて‥‥」
「こんな状態の者を陛下の供として葬儀に出せと言うのか? お前たちは我らを笑いものにしたいのか? 見ろ、まともに目もあけられないぞ。とにかく牢へ運べ、ローギス殿下には私が話をする。人にうつってからでは遅い」
 牢は嫌だと、イーツェンは逆らおうとする。だが声が出ない。うっすらとかすんだ視界に、頭側へ歩いてきた男の姿が見えた。はしばみ色の目がイーツェンをまっすぐに見下ろした。ルディスだ。
 どうして死にきれなかったのだろうと、イーツェンの心は暗澹と沈む。何故。また牢へ戻り、またあの湿った闇の中に横たわって、いつくるかわからない終わりを待つのは嫌だった。あの闇に戻ることなど、もう耐えられない。死ぬ方がはるかにましだ。
 嫌だ、と力を振り絞ってもがくイーツェンの上に皮鎧の男がかがみこみ、イーツェンの体を薄い敷布でくるんだ。面頬のついた兜をかぶっていて、イーツェンのかすんだ視界では相手の顔が見えない。兜にはルディスの紋章がついていた。城内で兜をかぶる者は多くないが、王家の紋が入った兜をこれ見よがしに身につける兵はいる。自分が王族にかかえられている兵だと示したがるのだ。
 男はルディスの命令に従って、弱々しいイーツェンの動きを苦もなくおさえ、背中に腕を回してかかえ起こそうとする。背中の傷がよじれたイーツェンが痛みに呻くと、腕は彼の体をそっとかかえ直した。
「じっとして」
 耳元に声がして、イーツェンはまたたいた。その声は聞き取るのがやっとで、低く静かだったが、まっすぐに心臓をゆさぶられた気がした。
「‥‥‥」
 体の力を抜き、抵抗をやめたイーツェンを、男は荷物のように布でくるんで肩へかつぎあげた。男の背中へ逆しまに顔が垂れ、イーツェンは吐きそうになるが、布の上から男の手が彼をなでた。やさしい手だった。
 この手を知っている。
 イーツェンは熱に揺らぐ意識の中で思う。この手を知っている。だが、そんな筈はなかった。そんなことがあるわけがなかった。熱が見せる夢にちがいない。これは、ただ会いたいと、あのやさしい手がなつかしいと、それだけを思いつめる彼が見てしまう幻だった。
 男はイーツェンをかかえあげたまましっかりとした足取りで歩き出す。もう日が暮れているのだろう、城内は暗く、頭から足先まですっぽりと布にくるまれたイーツェンの視界には影がゆらめくだけで、何も見えない。イーツェンは目をとじた。どこへ運ばれていくのかはもう気にならなかった。
 一歩、また一歩、男の歩みは静かだった。時おりルディスが何かを命じる声がする。やがてふいに周囲の音が反響を失い、イーツェンは自分が建物の外へ出たのに気付いた。不安に身を硬直させると、それを感じたのか、男の手がまたイーツェンの背へふれる。傷の痛みがはしるが、それでもその手はやさしいとイーツェンは思う。
 獣の鳴きかわす声と荒々しい人の足音、そして木のこすれるような音。イーツェンの体がぐいと持ち上げられ、布につつまれたまま固い何かの間に座らされた。そこはひどく狭く、身をちぢめなければならない。今のイーツェンにとって苦痛に骨まできしむような体勢だったが、導く手に従って、彼は布をかぶったまま暗い隙間へもぐりこんだ。
「いいと言うまで、じっとして。‥‥もう少しです」
 布ごしにくぐもった声がする。イーツェンは全身がねっとりと汗を吹くのを感じた。そんなわけがない。そんなことは、ありえない。
 ──ならば何故、この声がこれほどまでになつかしい?
 言われるままにじっとして痛みと吐き気をおさえこむイーツェンの上へ、何か木の板のようなものがバタンとかぶせられた。イーツェンはただ息を殺して、何も考えまいとする。期待してはいけない。望みはいつでも彼を裏切る。希望をもってはいけない。
 そんなことが、あるはずはない──
 戸がしめられるような音がひびき、周囲の音がはたと遠ざかった。しばらくあちこちでガタガタと物音が動いていたが、イーツェンはひたすら身をちぢめていた。体中が痛み、熱にうかされた身のふるえがとめられない。それでも動かなかった。
 世界がいきなり大きく揺れ、ガタンと強い衝撃が床の下からつきあげてきた。肩を木箱のような固いものにぶつけて、イーツェンは悲鳴をこらえる。
 体ごとどこかに動き出しているのがわかった。馬車──いや、おそらくは荷馬車の荷台に自分がいるのだと、イーツェンは気付く。車輪が地面を噛む乾いた音とともに、荷馬車は進みはじめていた。人をのせるための馬車とちがって、かなり激しい揺れが彼と周囲の荷をゆさぶる。
 今や、イーツェンの心臓は激しい鼓動に破れそうだった。体を左右にゆすられる痛みは強く、熱のせいで気分が悪くて、まともに物を考えることなどできない。吐き気をこらえるのがやっとで、まともな息をつけないまま、口に手をあてて呻きを殺した。ただじっと小さく身を丸める。あの声が言っていたように。
 あえいで、熱い肺にやっとの息を吸いこむ。また大きく荷台が揺れ、イーツェンは周囲の木箱につぶされるのではないかと思わず怯えた。暗闇で布をかぶせられ、何も見えない。どうにかなってしまいそうだった。
 荷馬車は数回とまり、そのたびに人の声がして、一度は荷台の扉がひらかれた。灯りが中を照らしているのがわかる。イーツェンがただ身をちぢめて凍りついていると、やがて戸がしめられ、馬車はもう一度動き出した。
 ガタゴト、ガタゴトと、イーツェンは車輪の音を数えながら、ふと道がゆるやかな傾斜をくだっていることに気がついた。体の芯が痺れ、全身を汗がつたった。こんな長さの下りの馬車道など城内にはない。
 ──どこを走っている? どこへ向かって‥‥
 どれほどたっただろう。イーツェンは痛みと胸苦しさに耐えながら、いつしか頭の中でリグの祈りをくりかえしていた。無言の祈りを幾度もくりかえし、今にも何かを叫び出してしまいそうな己を押しとどめる。全身はびっしょりと冷や汗をかき、汗を吸った服が肌にはりついた。不自然に小さくなった体勢で馬車に揺られつづけた背中や腰の苦痛は、骨までくいこむようだった。それでもただ祈りながら待った。
 やがて道は平坦に戻り、さらにしばらく揺れながら速度をあげて走っていたが、荷馬車は小さな掛け声とともにとまった。イーツェンはふるえながら待つ。少しして荷台の後ろ側の戸がひらき、足音が荷台にのぼって、イーツェンの上にかぶさっていた箱か何かを取り去ると、イーツェンをつつんでいる敷布をゆっくりとはがした。
「もう平気です。‥‥大丈夫でしたか?」
 低い、静かな声の主をさがして頭をあげ、イーツェンは暗がりに沈む人影を見つめた。視界がにじんで相手の姿がよく見えない。
 そんな筈はない。そんなことがあるわけがない。
「‥‥イーツェン?」
 凝固したように動けないイーツェンの名を、心配そうな声が呼ぶ。その時、夜空の雲が晴れたのか荷台に薄い月光がさしこみ、男の顔をななめに照らした。淡く弱い光だったが男の顔の輪郭がうかびあがり、独特の強さを持つ頬からあごの形がイーツェンにはっきりと見えた。
 イーツェンは息をすることも忘れて、シゼを見つめた。
 シゼは、少し疲れているように見えた。記憶しているよりは髪が短く、頬のするどさがましている。だがイーツェンを見つめる視線は前とかわらず真摯で、まっすぐで、やさしかった。
「‥‥‥」
 シゼ、と呼ぼうとしたが、声が出ない。動けない。世界がいきなり歪んで、イーツェンは細い息であえいだ。体中がしめつけられたように苦しく、悲鳴のような呻きが唇からやっとこぼれたが、それはとても声とは言えないものだった。爪がくいこむほど拳を握りしめる。
 シゼがすばやく身を近づけ、のばした手でイーツェンの手をつかんだ。肌がふれた瞬間、シゼの存在が、そのぬくもりが、実感を持ってイーツェンにせまってくる。彼の肌の感触、イーツェンの手を握りしめる指の強さ、シゼの温度。幻ではない。夢ではない。そこにいるのはまちがいなくシゼだった。
 つかんだ手をたぐるようにシゼがイーツェンを引き寄せ、崩れたイーツェンの体を力強い腕が受けとめた。イーツェンは力の入らない手でシゼにすがりつこうとしたが、体の中で何かがこわれたようでもう動けない。
 シゼの腕が彼をかかえこみ、胸の中に抱き寄せる。それと同時にまるで壁が左右からとじるように暗闇が押し寄せ、イーツェンは一瞬感じたぬくもりを最後に意識を失っていた。

[三部完]