ソウキは、やけによくしゃべるようになっていた。
イーツェンの口数が極端に減った分をおぎなうように、城の様子や、耳にはさんだ奴隷同士の噂話などをイーツェンへしきりに報告する。とりとめのない話をイーツェンは時に楽しみ、時にはうるさく思いもしたが、この少年がイーツェンの気分を盛り上げようと精一杯がんばっているのはよくわかっていたので、ソウキには心から感謝していた。
実際、ソウキの忍耐づよい看護がなければ、イーツェンは二度と起き上がることもできなかったかもしれない。どうしてソウキがここまで自分に仕えようとするのかイーツェンには不思議だったが、少年はイーツェンの面倒を見ることに彼なりのやり甲斐を見いだしたらしく、自信が出て、日に日に態度が明るくなった。ソウキが元気にふるまうようになっていく様子を見るのは、ほほえましかった。生い立ちは知らないが、奴隷の身にされる前は陽気な少年だったのかもしれない。
──支配と服従は人を変える。
オゼルクはかつてイーツェンへそう言った。支配と服従が人を歪めてしまうことは、イーツェンも身にしみている。だが、だとしても、人の芯には意外と変わらない──変えられない──ものがあるのかもしれないと、ソウキを見ているとそんなことを思ったりもした。
そのソウキがある日、パンを細かく砕いて肉汁で煮込んだものをイーツェンの食事に持ってきた。山鳥の肉を煮たものも添えられていて、イーツェンはおどろく。このところ城内では肉がふるまわれることが極端にへっており、肉の多くを兵の糧食や城の保存食に回しているという噂だった。
それが、豪勢なことだ。しかも扱いは「奴隷」のイーツェンの皿に。食欲があるわけではなかったが、ついついイーツェンは皿を眺めた。
「王太子殿下がお戻りになられるので、今宵、宴がひらかれるとのことです」
薄めて蜂蜜で風味づけしたワインまで出たらしい。イーツェンの分と、自分の割り当ての杯を持ち帰って、ソウキが何気なく報告した。
イーツェンはパン粥を食べる手を一瞬とめたが、表情を変えずにうなずいた。ローギスが城に戻る、と言うことだ。しかも、城内の奴隷にまでこの豪勢な前祝い。今のご時世にこれだけの振舞いをするところを見ると、おそらく今夜は、ローギスの戦勝祝いなども兼ねているのだろう。
ローギスが戻ってくる。
──どうなるのだろう。
イーツェンを塔へ戻すとオゼルクに言われてから、もう十日ほどはたつ。果たしてその言葉がどれほど確たる裏付けを持つものなのか、イーツェンにはよくわからない。また同時に、ローギスがイーツェンに対してどれほどの処罰の意志を──この期に及んで──持ち続けているのかも、見当がつかなかった。イーツェンなどに注意を払うほど暇ではないだろうが、簡単に忘れるような相手とも思えない。
本当に、ユクィルスは使者をリグへ送るつもりだろうか。もしその使者がリグへたどりつき、イーツェンの現状をつたえて王を脅すようなことになったなら──と、イーツェンは重い鬱屈が喉につまるのを感じる。もしも、リグがユクィルスの要求を呑まされて身代金や何らかの代償を支払うことになるようなら、その時こそイーツェンは心を決めねばならないだろう。
遅かれ早かれ、出口はない。思いのほかここまで生きのびはしたが、己の身がリグの重荷になるようならば、残された道は一つしかなかった。いや、使者がたてられる前にこそ決断するべきなのかもしれない。たとえそれが、シゼとの約束を破ることになっても。
(──約束を破ったら、怒るだろうな‥‥)
ぼんやりと、そんなことを思う。シゼはきっと、怒るだろう。何よりもそれを切ないと思う自分がイーツェンには少し可笑しい。シゼはもう、ユクィルスやリグの出来事のとどく場所にいないかもしれないのに。
シゼは失望するだろうか。それともここまで耐え抜いたイーツェンを、少しは誇りに思ってくれるだろうか。答えの出ない問いをもてあそびながら、イーツェンはゆっくりと食事を終えた。答えを知ることは永遠にない。それはよくわかっていた。
庭で大きな銅鑼が打ち鳴らされ、兵たちがそろえた声で誓いをのべている。その声は鞭のようにきびしく空気をふるわせ、今まさに戦いの誓いが空へと高らかにのぼってゆくのが見えるようだった。
部屋の中にまでつたわってくる活気と、荒々しい華やぎがうっとうしくて、イーツェンははやばやと毛布にもぐりこむ。城内の浮き足立った様子を遠く聞きながら、やがて眠りについた。
とろとろと、悪夢を見る。もはやそれは彼のならいになっている。身になじんでしまった痛みと同じように、心にもその暗い存在がなじんでしまったようだった。
何かに引かれるようにふと目をさますと、寝室には闇が暮れていた。イーツェンは横倒しの身を丸めたまま、ぼんやりと目の前の暗がりを眺め──城のどこかから騒がしい音がたちのぼっているのに気付いた。宴の華やぎかと思ったが、怒鳴り声が入り混じっている。その剣呑な響きが彼を起こしたようだった。
イーツェンはゆっくりと寝台の上に身を起こした。ソウキが部屋の隅で眠っているはずだが、それを起こすべきかどうかわからないまま、遠く荒々しい音に耳をすました。
──何かがおこった。
それはたしかだった。宴の最中に、いったい何事がおきたものだろう。まさか反乱兵が攻めてきたのかと思ってはみたが、聞こえるのは騒がしく飛び交う人の声ばかりで、剣戟の音も敵襲を告げる角笛の音もない。声の内容を聞き取ることはできなかった。
重々しい鐘の音が、いきなりひびいた。耳をすませていたイーツェンは驚いて身をすくませる。夜気をふるわせる鐘の音がゆっくりとした尾を引いて消えかかった時、かぶせるように次の鐘が鳴った。
イーツェンは息をつめて鐘の音を聞いた。これは、刻の鐘ではない。人を集めるための知らせの鐘でもない。低音の鐘が二つ組み合わされた、不吉で陰鬱な音色が、彼の心臓をきりりと締めつけた。
(似ている‥‥)
レンギの死の時、打ち鳴らされたあの鐘の音と。オゼルクはそれを「死者の溜息」と呼び、城内で死人が出た時に鳴るのだと言っていた。いくるか種類があるのだとも言っていたが、それを聞き分けることはイーツェンにはできない。ただ記憶の底からはいのぼってくるような暗い音に耳を奪われて、慄然と座り込んでいるだけだった。
いきなり隣室の扉がひらいて、大きな灯りを持った男たちが続きの寝室にまで踏み込んできた。
灯りに顔を照らされて、イーツェンはまぶしさに目をほそめ、城兵の姿をあおいだ。何が起こったのかと思わず身がすくむ彼のそばで、ソウキも不安そうに立ち上がっていた。
男の一人が前へ出た。その背後で別の男たちが、何かを探すように隣室を引っかき回している音がする。引き出しの中身でも床にぶちまけたか、大きな音がはねて、イーツェンは息を呑んだ。ここはオゼルクの部屋だ。城兵が、王の息子であるオゼルクの持ち物を乱暴にかき回すと言うのは、考えられないことだった。
──オゼルクに何かあったのだろうか?
そう思った瞬間、イーツェンの背すじを冷たい戦慄が抜けた。
(もしや、死んだのは‥‥)
「来い」
兵の一人がイーツェンへ命じる。引き立てられる前にと、イーツェンは寝台から足をおろして立ち上がろうとした。その足元へ室内用の靴をそろえながら、ソウキが強い声を出す。
「どちらへ行かれますか。お支度がありますので」
その声のきつさに驚いたイーツェンはソウキをたしなめようとしたが、兵の前で口をきいて許されるかどうかがわからない。頭よりも体が声を出すことを拒否して、喉元で息がつまった。
兵はソウキをじろりとにらんだが、忌々しげにこたえた。
「北の塔だ。早く支度をしろ」
そこはイーツェンがかつて暮らしていた塔であり、オゼルクが彼を戻すと言った塔であった。
どうしたらいいかわからないイーツェンをよそに、ソウキがてきぱきと動いて寝着の上から薄いローブを羽織らせ、イーツェンの毛布とソウキ自身の寝布をまとめて小脇にかかえる。イーツェンのそばに寄って、男を見上げた。
「参りますが、この方は傷を負っておられます」
「承知している」
兵は苦い顔で答えた。ソウキの怖じない態度に気圧されているようだった。
イーツェンは感謝をつたえる手でソウキの背にふれると、彼の肩を借りて立ち上がった。
一歩ずつ、慎重に歩き出す。動きの一つ一つが背の傷を引きつらせるが、耐えられない痛みではなかった。ここ数日、短い時間だけでも室内を歩く練習をしてはいたが、萎えた膝はいまだに自分の身の重さにきしむ。
城の廊下は籠に入った蝋燭が角々にともされ、床には点々と黄色い光の輪がおちていた。あわただしい足音が四方から聞こえ、人影が走るようによぎった。
イーツェンはソウキの肩を借りながらゆっくりと──自分としては精一杯の早さで──歩く。オゼルクの部屋から塔の一室まで、かつては幾度となく歩いた道が、今の身には気が遠くなるほど長い。一歩ずつが体にひびいて小さな痛みが蓄積し、服の下の体を汗がつたった。
いつのまにか鐘の音はやんでいた。
塔の、かつて暮らしていた部屋へと外閂をかけてとじこめられたイーツェンは、一晩まんじりともせずにすごした。灯りがもらえなかったので、部屋は暗く、ソウキが半ば手さぐりで床に敷布をひろげる。その上に座ったり、背中がつらくなると横たわったりしながら、イーツェンはただ朝を待った。
ふたたび鐘が鳴ることはなく、この塔からでは城内の気配もまるでわからなかった。
やがて朝日が窓からさしこんで埃っぽい部屋を照らす。陽光の中に浮かびあがった室内は、記憶とはまるでちがう部屋だった。テーブルや棚といった家具はほとんど記憶通りに残されていたが、棚に置かれていた本や手紙箱や皿などはすべて運び去られ、部屋はがらんとしてからっぽに見えた。
人がここで暮らしていた気配など、何もなくなっている。イーツェンは強い疲れが頭の芯にのしかかってくるのを感じた。イーツェンが暮らした名残りも、シゼの気配も、この部屋にはなかった。彼らがここですごした二年間は、まるで拭ったようにこの部屋から消えていた。
夜明けの鐘に少しおくれて部屋の外閂が開けられると、ソウキが待ちかねたように出ていった。イーツェンの服などをオゼルクの部屋に置いたままなので、それを取ってくるか、かわりのものを用意するつもりらしい。しばらく時間をおいてから服をかかえて戻ってくると、イーツェンの着替えを手伝い、今度は朝食を取りに去った。
よく立ち働く少年を見ているうちにイーツェンも少し気持ちが明るくなって、物事をいくらか冷静にとらえはじめる。
城内の様子はさっぱりわからないままだが、ソウキが出入り自由の上、あっさりとイーツェンの服を持ち帰ってきたところを見ると、イーツェン自身の待遇は悪化していないようだ。身の自由はないが、今すぐに牢へ戻されると言うことはなさそうだった。
オゼルクはどうなったのだろうと考え込んだが、判断の材料がほとんどなかった。兵たちはオゼルクの部屋に何のために来て、何を探していたのだろう。何があったと言うのだろう。
もしも死者の鐘が示したのがオゼルクのことならば──と考えて、イーツェンは溜息をついた。そうだとして、どう思えばいいのか、何を感じればいいのか。オゼルクに対しての感情はあまりに複雑にもつれていて、今となっては、はっきりとした憎しみや敵意を心にさだめることができなかった。
かと言って、オゼルクに好意や何らかの信頼があるわけでもない。彼らの間にあったのはただ互いの痛みのようなものばかりで、どちらもそれを相手と共有しようとさえしなかった。情欲と快楽のきわまった瞬間でさえ、互いに何かの感情がつたわりあったようなことはない。彼らはそれぞれに、己の衝動や欲望を追っていただけだった。
ぼんやりと椅子に座りこんでいたが、イーツェンは大きな息をついて前かがみになり、目の前のテーブルに両肘をついた。とうの昔に死んでいておかしくないのはイーツェンの方だったのに。オゼルクが死んだのならば、それは運命の皮肉と言うしかなかった。
扉が開く音に顔を向けると、パンとチーズの木皿を持ったソウキが早い足取りで入ってきた。朝食を手にした少年は見るからに興奮した様子で、目は大きく、視線があちこちへ揺れている。大股にテーブルへ歩み寄って皿をイーツェンの前へ置きながら、待ちきれずに上ずった声を出した。
「陛下がお亡くなりになられたそうです!」
「‥‥‥」
イーツェンは目を見開く。それからちらりと扉を見て、しっかりと閉じていることを確認し、声をひそめてたずねた。
「何故?」
たしかに王は健康をそこねていたし、執務の多くも息子たちや弟のジノンへまかせていた様子だったが、病死ではないのではないかという奇妙な胸騒ぎがあった。ただ病で死んだだけならば、何故兵たちが夜中にオゼルクの部屋を引っかき回しに来たのだ?
ソウキはあえぐように息を吸った。体を傾けあった二人の顔の位置は近く、イーツェンの耳にはソウキの息の揺らぎがきこえる。
「毒死、だそうです」
「‥‥‥」
イーツェンはさらに顔をよせた。ざらついた声で問う。
「誰に?」
ソウキが緊張した声で問いに答えた。
「オゼルク様‥‥」
反射的に何か言いかかった唇はそれ以上動かず、イーツェンは凍りついたようにただソウキを見つめていた。
つまり、あの鐘は王の死のための鐘だったと言うことだ。ユクィルスの王は死んだ。ソウキの聞いたとおりならば、オゼルクが父王を殺した。
──何のために?
父親に対して、オゼルクはほとんど無関心だった。少なくともイーツェンの知るかぎりでは。母親のもとで育てられたためか、オゼルクは王へ肉親の情のようなものは抱いていなかったように見えた。
ソウキは思いもよらない出来事に興奮し、同時に動転しているようで、無意味にテーブルの上の皿の位置を変えながら続けた。
「ローギス様も同じ毒を飲んで倒れられたそうです。それから、ジノン様も」
言われていることの意味が、一瞬、わからない。矢継ぎ早の言葉がうまく頭に入らず、イーツェンは意識をしっかりと集中しなければならなかった。
ローギス、ジノン。オゼルクが毒を用いて、彼らまでもを殺そうとしたと言うのだろうか。何のためだろう。王位につくためか? だが三人を殺したとして、オゼルクが簡単に王になれるものだろうか。ユクィルスは強い武を持つ者を代々の王に戴いてきた。ましてや今は反乱の火も上がり、争乱のさなかだ。己の城を持たず、自ら兵を率いて陣に出ることもほとんどなかったオゼルクに、ユクィルスの宮廷や貴族、そして兵を持つ小領主たちが従うだろうか。それも、王を毒で殺した男に。
剣で殺したならまだしも──
そこまで思って、イーツェンは小さく首を振った。また考えがそれている。
(殺してやろうか?)
あの時、オゼルクがそう言って格子の間からイーツェンへ差し出した手のひらには、液体の入った小瓶がのっていた‥‥
「お二人は、ご無事でいらっしゃるとのことで──」
ソウキの声が、イーツェンを現実に引き戻した。ローギスとジノンのことだ。
「今は、ジノン様が城内の指揮をとられているそうです」
ではジノンには大事なかったのだ。少しばかりほっとしてから、イーツェンは相変わらず低く保った声でたずねた。
「ローギス様は?」
「わかりません。お命はあるそうですが。でもお部屋に療法師が入ったきりだそうです」
「‥‥オゼルク様は?」
「あ」
話を言い落としていたことに気付いた様子で、急に声をあげ、ソウキは短く言った。
「獄に入れられたと」
「‥‥‥」
牢獄の、湿っぽく濁った空気の匂いが鼻腔に満ちたようだった。
ゆっくりと溜息を吐き出して、イーツェンは肘をついた手に額をうずめた。昨夜からの緊張のせいで体中が重く、背中が痛みにうずいていた。ソウキが水を取ってきて、イーツェンの前に置き、自分も口を湿してからさらに話をつづけた。
ソウキが厨房の奴隷から聞き込んできた噂話をつなげると、宴の後に四人だけで杯をかわしている最中、オゼルクを除く三人が毒で倒れたらしい。オゼルクはすぐに助けを呼ばず、伏した者たちの様子を見ていたようで、それもまた彼に対する疑惑を深めたと言うことだった。
──王殺し、そして父殺し。
ならば、死罪はまぬがれえまい。
イーツェンには、まだすべてが現実のものとは思えなかった。最後にオゼルクと話をしたのはレンギの残した文鎮について語った時だったが、あの時のオゼルクには思いつめていた様子もなく、落ちつき払って見えた。
(一体なぜ、そして何を求めて‥‥)
心にさまざまな問いがもつれ、イーツェンは頭の芯にぼんやりとした熱と痛みを感じる。答えなど見つからない。途方にくれたまま押し黙った彼をどう見たのか、ソウキも口をつぐんで皿をならべ直し、朝食の準備をはじめた。
次の朝、さらに興奮した様子で部屋に戻ってきたソウキは、オゼルクが一夜のうちに破獄して姿を消したらしいと報告した。城は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていると言う。
城内の誰かがオゼルクに手を貸したのだ。そうでなければ破獄などできまい。いったい誰が、とイーツェンは不思議に思ったが、相手の名を思いつくほどオゼルクのことをよく知っているわけではなかった。
──どこへ行くのだろう。
ユクィルスの城をはなれ、父殺しと王殺しの罪を負ったまま、いったいオゼルクはどこへ行けるというのだろう。そんなことを考えれば考えるほど、イーツェンは、オゼルクと言う人間について本当は何一つ知らない自分に気付いていた。