知らないうちに夏も深まっているのだろう、空気はたしかな熱気をおびて、イーツェンの体を汗ばませる。
今年の小麦の出来はどうだったのだろうかと、身をおこして座ったまま、イーツェンはぼんやり考えていた。それともあちこちでおこっていると言う争いにまきこまれて、畑も踏みにじられ、農民も戦いに駆り出されているのだろうか。
時おり、城の内庭で兵が声をそろえて気勢を上げているのがイーツェンの耳にもきこえた。練兵の最中か、それとも出陣なのか。外の世界から隔離されたように部屋から一歩も出ない暮らしの中でさえ、イーツェンは城のあわただしい気配を感じていた。
もし畑が荒らされているなら、今年の冬や来年の暮らしは厳しくなるだろう──と、そこまで考えたところで、イーツェンは小さく頭を振った。どうでもいいことだった。
体の芯に粘るような疲労を感じて、イーツェンは左肩を下にして寝台へ横たわった。数日前からオゼルクの寝台を借りている。イーツェンの腰と背中の痛みを見かねたソウキが、寝台の上にさらに敷布を重ねて寝床をしつらえ、イーツェンも言われるままに場所をうつしたのだ。寝台の持ち主にはソウキが許可をもらったということだった。
横になって目をとじていたが、胸が重苦しくて眠れない。身の内にこもった熱と痛みで額が汗ばみ、首がべたつき、イーツェンはもう一度目をあけた。体が自分の思い通りにならない苛立ちを、慣れたあきらめで抑えこむ。
痛みが強い時にはもちろんそうでない時も、全身が疲労していて、イーツェンはろくに身動きがとれなかった。自分が本当に癒えているのかと、イーツェンは疑う。背中の傷はふさがって、膿みで布を汚すこともなくなっていたが、体力は尽きたまま回復の気配を見せない。
──このまま、治ることはないのかもしれない。
笞刑と、その後の牢の暮らしが、イーツェンの中の何かを完全に砕いてしまったようだった。一生このままかもしれないと、イーツェンは思う。このまま、自由に起きたり立ち歩いたりすることもできないまま、人に飼われるようにここにいるしかないのかもしれない。この暮らしがどれほど続くのかはまるでわからなかったが。すべてはオゼルクにかかっていたし、イーツェンは彼に何かの期待をするのをやめていた。
横倒しになったまま、用心深くのろのろとした動作で、イーツェンは身を丸めた。背中がきしんで痛むが、この程度の苦痛にはもう慣れていた。
しばらくそうして息をととのえていたが、イーツェンはうつ伏せになってから腕を使って上体を起こし、用心深く座りこんだ。腰の痛みにしばらくじっとしていてから、枕元の水差しへ手をのばす。ソウキは洗濯に出ていた。一日寝ているイーツェンを快適にすごさせるために敷布を頻繁に替えていて、それを彼は洗濯女にまかせず自分で洗っているようだった。
一人の部屋で、自分で水を注ぎ、イーツェンは杯をゆっくり唇にあてて水を飲んだ。こうして起き上がっていると、首の輪の重みが肩へずしりと食い入ってくる気がする。一口、ぬるい水を飲んだ。輪と肌の間が汗で湿って気持ちが悪い。輪に指先をすべらせ、金属の感触にまた小さな溜息をついた。
座りこんだままそうやって茫としていたが、することもできることもなく、イーツェンはふたたび水を含んだ。自分の動きの一つ一つがのろくてぎこちなく、嫌になる。
意図のないまなざしが部屋の中をさまよった。オゼルクの寝室には幾度か入ったが、相変わらず何の飾り気もない部屋だ。部屋に漂う素っ気なさには、黒い服ばかり無造作にまとうオゼルク本人にどこか通じるところがあった。
そうして視線を遊ばせていたが、ふ、とイーツェンは目をほそめた。以前壁際に置かれていた木の櫃がなくなっている。オゼルクの私物が入っていた物だが、イーツェンをここへ入れることになって運び出したのだろうか。
まなざしは記憶をたどるように動いて、逆の壁際にある小さな置物机を見た。記憶通り、机の上の影めいた場所にレンギの文鎮がひっそりと置かれていた。レンギの部屋にあったが、いつからか何故かオゼルクの寝室に置かれているものだ。
ほのぐらい石の色に何とも言えない涼しさを感じて、イーツェンは寝台のはじまで身を寄せてから手をのばしてみたが、指先は、机にふれても文鎮まではとどかなかった。
床に足をおろす。長く歩いていない足の裏が、ざらついた床板の感触をあまりにもはっきり感じとる。イーツェンは壁に手をついて息をつめ、体を引き上げながら立ち上がった。自分の身が重い。信じられないほどの重みが腰や膝にかかって、体ごと床へ引きずり倒されそうな気がする。それを支えようとしても、膝にも腰にもほとんど力が入らなかった。
壁にもたれながら一歩踏み出して、イーツェンはあまりの自分の体のぎこちなさに茫然とした。必死で集中していなければ、そのまま膝が折れて崩れてしまいそうだ。そのくせ、子供の一歩にも劣るようなわずかな距離しか動けない。
さらに一歩踏み出したところで、洗った布をかかえたソウキが扉口に姿を見せた。おどろいた顔で立ちどまる。
「どうかされましたか?」
「‥‥‥」
正直、イーツェンはソウキが戻ってきてくれてほっとしていた。数歩歩いただけで全身が粘ついた汗を吹いている。ソウキの細い肩を借りて用心深く寝台へ戻ると、横たわって、腹の底から息をついた。
自分の体がこんなふうに頼りにならないということに、どうにも慣れない。人の力を借りなければ何もできない、なすすべのない弱さが彼は嫌いだった。
ソウキが、持ち帰ってきたばかりの薄いリネンの上掛けをイーツェンの上にひろげる。陽を吸いこんだようなあたたかな感触は心地いい。それから彼は、イーツェンの顔をのぞきこんだ。
「何かご用はありますか?」
「‥‥そっちの机の上に、文鎮、あるだろう? それを‥‥」
イーツェンの小さな声を聞きとろうと、ソウキは彼の口元へ身を傾ける。イーツェン自身も聞きづらいほどの言葉に、だがソウキはうなずくと、机へ歩み寄って琥珀の混じった石の文鎮を取った。
横たわったままのイーツェンの手に、文鎮を握らせる。
「これですか?」
「‥‥‥」
イーツェンは無言でうなずいた。指先で石をさぐる。ひやりとした感触に吸いとられるように、体中の嫌な熱がゆっくりと引いていく気がした。息がおだやかにしずまってくる。
ソウキが水盤と水差しの水を換えに出て行くと、イーツェンは文鎮を持った手を胸元へたぐりよせ、手の中で石を数回まわしてから、平坦な裏を見た。石の表面にややぎこちなく入り組んだ線が刻まれている。短剣のような鋭利な刃物を使って掻いたようだった。
レンギの作業室にあった各種の刃物、その刃にひかっていたにぶい光のいろが、ふっと目の前に浮かんだ。イーツェンは息をつめる。記憶の底がいきなり裂けたようだった。あの作業部屋でレンギと向かい合った時間、本の匂い、おだやかに語りかけてくる声、彼らがすごした季節の温度。そういった思い出が大きなうねりのように心の中にあふれ出してくる。夏、陽射しのまだらにおちる円柱の間をならんで歩いた、足音より常に一歩早いレンギの杖の音──
そして、いつもそばにはシゼがいた。彼の声、イーツェンを見つめたまなざしが鮮やかによみがえって、イーツェンは力のかぎり歯を噛んだ。胸がやぶれそうな気がする。つめたい石の文鎮を握りしめ、息をつめて、するどい痛みが通りすぎていくのを待った。
──もう、何もかも遠い。
遠いことだ。何も戻らない。何ひとつ。どうしようもないことだった。何もかもすべて、この手からはこぼれおちた。
(遠い‥‥)
きしむ体を少し丸め、膝を引き寄せて、イーツェンは自分の中の傷を思い出すように文鎮を見つめる。平らに磨かれた石の面に刻みこまれた、刃物の傷の形を。
それは文字というよりも、紋様のようだった。見つめていたが、ふと違和感を感じたイーツェンは手の中で石をころがし、角度を変えてもう一度眺めた。一見、文字には見えない線と線の形を、頭の中で組み立て直す。
カチリと、何かがはまったように、線の形がはっきりと見えた。それはイーツェンにはなじみのある形だった。
しばらく茫然としていたが、やがて背中の痛みに負けて、イーツェンはうつ伏せに身を横たえた。枕元に文鎮を置き、目をとじる。全身に疲労とやり場のないよどみがうずいていた。
いったい彼は、彼らは、何と遠くまで来てしまったのだろう。
夢はいつものようにとりとめのない、痛みと悪夢を織りまぜたものだった。血の匂い、鉄の鳴る音、男の苦鳴、自分の悲鳴──
イーツェンは、粘りつくものから意識を引きはがすように、浅い眠りから目をさます。同時に、誰かの影が自分に覆いかぶさっているのを感じて全身が硬直した。
うつ伏せで横たわっているので、相手が誰だかわからない。うすぐらい部屋の壁に動く影の形、自分にふれそうになっている相手の気配に、恐怖が喉元までこみあげた。悲鳴をあげそうになったが、喉はきつくとじていて、息一つも通らない。
視界のすみを人の手が動く。黒い袖──
オゼルクだ、と思った。
その手はイーツェンの上へのびて、顔と逆側の枕元をさぐった。イーツェンにはふれないまま、何かをつかんで戻っていく。同時に、イーツェンの上へかぶさっていたオゼルクが身をおこす姿がはっきりと見えた。
オゼルクは手につかんだ文鎮を無表情にながめていたが、イーツェンが無言で見上げているのに気付くと、石をもてあそびながら皮肉っぽく言った。
「護身用か? 少し軽すぎないか」
「‥‥‥」
もう少し元気だったら、わずかでも笑えたかもしれない。イーツェンは無言のまま、両腕を使ってのろのろと身をおこした。喉がかわいていたし、それに実際、部屋の主が戻ってきているというのに無作法に横たわったままというのは気が引けた。礼儀などこの期に及んで無意味なのはわかっているが、身に叩きこまれたものというのは滑稽なほど抜けない。
部屋は夕闇がおち、慣れた目にもオゼルクの表情はよくわからない。オゼルクは机にゴトリと音をたてて石を置くと、水差しを取って水を注いだ。
無言のまま杯をイーツェンへさしだす。イーツェンも無言のまま取り、唇を湿した。夢の中で口にあふれた血の味が消えない。まだ自分の目がさめていない気がする。小さく頭を振って、オゼルクを見上げた。
オゼルクは机のそばの壁によりかかり、少し首をななめに傾けて、卓上の文鎮を眺めているように見えた。イーツェンの動きに気付き、身じろいでイーツェンへ顔を向ける。彼の表情はぼんやりとしたくらがりの中で、ひどく曖昧だった。
──輪を見ているのだろうか。
イーツェンは首の枷が重さをましたような気がする。牢の暮らしで首も痩せ、はじめにはめられた時よりもゆるいが、その分輪の重みは骨に食いいるようだった。
見られている感覚に、肌がちりちりとした。オゼルクは以前まだ脚鎖がはめられていただけの時にも、鎖につながれた足を眺めていた。彼の容赦ない目がイーツェンの鎖や枷を見ているのか、それともその向こうに別の鎖を見ているのか、イーツェンにはわからない。
イーツェンの胸の内で何かが動いた。
「‥‥あなたが、押したんですか。彼を。塔から」
かすれた言葉が完全に消えて静寂が戻るまで、オゼルクは何の反応も見せなかった。自分の声も言葉も耳に聞こえた幻なのかと、イーツェンが思わず疑った時、ようやく平坦な声が答えた。
「いや」
イーツェンは寝台に座りこんだままオゼルクを見上げる。また夕闇が濃さを深め、壁にもたれたオゼルクの表情はさらに読みとり難くなっていた。
「私は押さなかった。あいつは自分でとびおりたのだ。丁度、こんな季節だったな」
「‥‥‥」
痛みがしめつける胸へ、イーツェンはゆっくりと息を吸いこむ。膝の上で水を持つ手がふるえた。
(殺してやろうか?)
牢で、オゼルクはイーツェンへそう囁いたのだ。
(あれは言ったぞ。救えないなら、殺してみろと──)
あの時、半分もわからずにごった意識で聞いていた言葉は、棘のようにイーツェンの心にくいこんでいた。その意味を、知りたいと思いながら、彼は半ば恐れていた。
──レンギは、塔から身を投げた。
深々とした沈黙が部屋を覆っていた。城のざわめきは遠い風がはこんでくるが、うっすらとした響きしかもたないその音は、かえって部屋にはりつめる静寂をきわだたせた。
オゼルクの声がふいにその静けさをやぶった。
「それを聞いてどうする。私を信じるか?」
かすかに、笑った。
「信じられるか、お前に?」
その声は何もかもを殺したように乾いていた。イーツェンは息を吐き出す。この緊張に、彼の体は長くは耐えられない。それはわかっていたが、思わず強い口調でたずねていた。
「その文鎮は、レンギがあなたに渡したものでしょう」
「それが?」
「‥‥裏に何と書いてあるのか、知っていますか?」
オゼルクは無言だったが、視線が薄闇の向こうから自分を凝視しているのがわかった。だがその視線のするどさは、前のようにはイーツェンをすくませない。イーツェン自身に今さら怯えるだけの余裕がないということもある。イーツェンは変わった。
──だがきっとオゼルクも変わったのだと、イーツェンは思う。何がオゼルクを変えたのかはわからないが、オゼルクの攻撃的なするどさがやわらぎ、まとう雰囲気の中に確信に似た落ち着きがたちあらわれていた。
それでも沈黙のうちに、部屋の空気ははりつめていく。イーツェンはゆっくりと、喉に言葉がからまないよう注意しながら、もう一度たずねた。
「読めますか?」
「これは、紋様だろう」
つまり、そこに何かが書かれているのは知っているということだ。
「紋様でもありますが‥‥文字でもあります。キル=ヴァン=ニェス。言葉全体、意味全体を一つの文字として書きあらわす高位文字です」
シゼに教えた、イーツェンの名を書きあらわす文字と同じ、正確には「近いもの」である。
キル=ヴァン=ニェスと呼ばれる高位文字にも位階や系統があって、イーツェンのものとレンギが使ったそれとは異なるようだった。だが複雑な文章が記されているわけではないので、一つの系統を学んだことのあるイーツェンがレンギの字を読みとるのは難しいことではなかった。文字の正体にさえ気付けば。
レンギの国、かつてサリアドナと言ったその国にも高位文字はつたえられていたのだろう。古い智の言葉、智の文字。多くの者が知る文字ではないが、レンギが王族であり、少なくとも8才までは本国で王族としての教育を受けたことを思えば、基礎の知識があって何の不思議もなかった。
オゼルクは腕をほどき、腰に手をあててイーツェンを見おろした。
「それで? お前には、読めるのか」
「ええ」
「何と読んだ」
「これは‥‥」
イーツェンは一瞬ためらったが、もう話を始めてしまった以上、秘匿には意味がない。残されたものはあまりに重く、それを秘密としてかかえこむにはあまりにもイーツェンは疲れすぎていた。それにただ、イーツェンは知りたかった。オゼルクがそれをどう受け止めるのか。彼にとってどういう意味のあるものなのか、つきつけてみたかった。
一度、小さく息を吸う。喉の奥が痛んだ。長い間声を出していなかったせいか、少ししゃべるとすぐ痛む。声はたよりなく、かすれをおびていた。
「これは、レンギの名前です」
「名前?」
「おそらく、正式で、完全な名前で‥‥」
ふっと何かが胸につまる。イーツェンは薄闇ごしにオゼルクをにらんだ。
「それをレンギは、あなたに書き残したということです。あなたに渡したものに。人に名を与えるというのがどんなことなのか、あなたはご存知ないでしょうが──」
「勿論、知っている」
オゼルクの声の冷ややかさが、怒りをこめたイーツェンの言葉を断ち切った。
「人に正式な名を与えるというのは、己の魂を与えるということだ。少なくともお前たちの慣習ではな。ちがうか?」
「‥‥そうです」
イーツェンは小さくうなずき、薄闇に目を凝らしたが、壁にもたれたままのオゼルクの表情はよくわからなかった。暗く沈みかけた部屋に、夕闇のもつかすかな涼しさがしのび入ってくる。
オゼルクはなめらかな動作で身をおこし、寝室の壁龕におさめられている油燭を取った。そのまま隣室へと出て行った彼が、火を入れるようソウキへ命じている声を聞いて、ソウキが隣室に控えていることに気付いていなかったイーツェンは心底おどろいた。
すぐ油燭に火をともしたソウキが戻って、寝室の吊り台へ灯りをかける。一礼した彼が隣室へ戻ると、オゼルクはまた壁にもたれてイーツェンを見おろした。
まるでそれまでの会話などなかったかのような調子で、
「もうじき、お前を塔に戻す」
「‥‥塔?」
壁塔の地下牢のことかと思ったイーツェンは全身が痺れるほど怯えたが、間を置いて、オゼルクの言葉がさしているのが、以前にイーツェンが暮らしていた塔のことだと気付いた。二年の間、シゼと一緒に。
どういう反応をしたらいいかわからないままオゼルクを見ていると、オゼルクは淡々と説明した。
「リグにな。使者をたて、お前の身代金を要求することになった」
「‥‥リグに?」
イーツェンは警戒の表情をオゼルクへ向ける。
「カル=ザラの道は失われたが、古くは別の山道をたどってリグと交易をしている者もいた。それを使えば、便りをとどけることはできるだろう」
イーツェンは吐息をついた。
「あの道は、山の民の道。もし彼らに接触できたとして、山の民はユクィルスの便りは運ばない。決して」
「ためしてみる価値はあるかもしれん。お前を牢で腐らせるよりはましな使い道だろう。‥‥と、ジノンが言ってな」
その名をあまりにも久々に聞いたので、イーツェンは一瞬、奇妙な感覚にとらえられた。ジノンという人間が、自分の記憶の中だけでなく現実にも存在していたのだ──それは、そんな理屈にならない驚きだった。
オゼルクが壁から身を起こすと、漆喰の壁に黒い影が動いた。
「ジノンはその案を王に呑ませた。ローギスのいない間にな。王の決定とあればローギスも表向き逆らえん。お前はまた人質の身に戻れるということだ。叔父に感謝することだな」
「‥‥‥」
イーツェンは小さくひらいた口を、またとじた。言う言葉が何も見つからなかった。感謝。いったい、何を、何故、どうやって感謝できるというのだろう。これ以上生きのびることに対して、人質の身としてふたたび扱われるということに対して、感謝しろと言うのだろうか。この暮らしから、以前の暮らしへ戻ることに対してだろうか。
背中の傷が焼けるように痛みだし、イーツェンは歯を噛んでこらえた。身を二つに折り、ただ灼熱の苦痛を耐えて無言で呻く。遠く、かすむような意識のかたすみで、オゼルクの足音が遠ざかり、扉の向こうへ消えていくのを感じていた。