首の輪に通された縄は短く、先を格子の一番下にくくりつけられて、イーツェンは完全には立ち上がることもできなかった。
 ──動物だな。
 背中の苦痛に苦しみながら、イーツェンはぼんやりとそう思う。けだものの扱いだ。
 だがそれでも、イーツェンが打擲されている場にあらわれた、ローギスの冷たい両目にたぎっていた怒りを思い出すと、彼は小さな満足感をおぼえずにはいられなかった。これで二度、イーツェンはローギスの思惑を裏切ったことになる。
 その満足感はすぐに、深く、逃げ場のない痛みと絶望にかわる。あの目。イーツェンを見つめた男の、疲れきった、だが誇り高いまなざし──
(あの目を知っている)
 あんな目でイーツェンを見つめたのは、彼がはじめてではなかった。その時のまなざしの光を思い出さないように、声を思い出さないように、イーツェンは息をつめる。それはもう、夢のようなものだった。ただ遠く、美しい、手のとどかない夢だった。
 それを思い出すのが、それを求めるのが、今の自分にとってどれほど危険なのか、イーツェンは本能的に知っている。疲れきり、思考力などほとんど残っていない泥のような心は、それでもぎりぎりの危険をかぎ取っていた。
 何も考えない。何も望まない。ただこの一瞬をやりすごす、それだけしかない。
 ふたたび打たれた背の傷は裂け、割れた肉は膿んで、イーツェンに高熱と痛みをもたらした。最初の一度を除いてもはや療法師が牢を訪れることもなく、ローギスは自分を殺すことに決めたのかとイーツェンはうつろに考える。
 だが何の感情も動かなかった。もう随分と長い間、イーツェンの中には痛みと苦しみだけしかなく、それ以外のものを彼の心は忘れ去ってしまったようだった。
 自分の体から腐臭が漂っている。傷は、この湿っぽい地下牢で腐りつつあった。こんな状態でもおもしろいのか、それともこんな状態だからか、イーツェンを牢から引きずり出して格子の前で時おりに陵辱が行われたが、彼が熱に浮かされるようになると、それもやんだ。それとも熱に意識のくらんだイーツェンが、現実を認識できていないだけかもしれなかった。
 時おり、夢を見た。
 鞭打ちの後から、夢を見ることはほとんどなかった。それがあの男の目を見てから、イーツェンの眠りは常に夢にさまたげられる。目をあけてみれば夢の形はもう思い出すことができないが、そこにあったものの温度は体のどこかに残って、イーツェンを苦しめた。何の夢だろう。額にふれる指、耳に囁く声、そんなもののあいまいな感触ばかりがざわつく。これは、何の夢だろう。
 体は火のように熱く、イーツェンは水を求めて呻いたが、言葉を出すことはできなかった。言葉を禁じられたことは強く残って、いまだに彼の舌をいましめる。力なくのたうって冷たい石床で体を冷やそうとしながら、時おりの寒気におそわれては歯の根もあわないほどに震えた。
 自分が死につつあることを、イーツェンは悟る。もうそこに何の感情もないまま、目をとじて、夢を見る。かすかな、遠い夢を。


 もう身になじんでしまった痛みをつらぬいて、背中に激痛がはしった。首が上へ向いているせいで、首のつけ根から背中までが裂かれたように痛む。もがいて姿勢を戻そうとしたが、イーツェンの髪をつかんだ誰かの手はがっちりと揺らがず、彼の頭を吊り上げていた。
「起きろ、イーツェン」
 その呼びかけを聞くのは、随分と久しぶりだった。「間抜け」や「うすのろ」「淫売」「死に損ない」‥‥今、その声が呼んだのが自分の名だと気付いて、イーツェンはおどろく。重く、粘ついた目蓋を上げたが、目の前は白い光に覆われて何も見えなかった。
 目をしばたたくイーツェンの様子に溜息をついた相手が、光を遠くへ押し下げた。ぼんやりとした黄昏のような明るさの中で、ようやくイーツェンは相手の顔を見る。頬骨が高く、するどい、どこか猛禽を思わせる美しい顔の男だ。黒ずくめの姿はほとんど背後の闇にとけこんでいる。
 イーツェンの目の焦点があったのに気付くと、男の口元が皮肉っぽい笑みにまがり、なじみのある傲岸な表情がイーツェンの記憶をはじいた。
 ──オゼルク。
 イーツェンはまばたきした。奴隷の身に落とされた後、イーツェンはほとんど彼の姿を見たことがなかった。オゼルクが格子ごしにつかんだままの髪の根元が痛いが、燃えるような背中と、石に横たわったまま押し擦れた体の方がずっと痛い。ささいな痛みは、むしろ気をまぎらわせた。
 オゼルクはじっとイーツェンの顔を見ていた。光がオゼルクの左側にあるので、光を受けた目は青くかがやき、くらがりに沈んだ目はほとんど黒く見える。同じように、彼の表情も半ば闇だった。
 無言がつづき、イーツェンが疲れた目をとじかけた時、オゼルクの抑えた声が低く囁いた。
「殺してやろうか?」
「‥‥‥」
 思考があまりにものろく、言葉が自分の中心にひびいてくるまでひどく時間がかかったが、イーツェンは言われた内容をやっと理解して目をあけた。オゼルクはもはや笑っていなかった。格子の間からさしだされた右手のひらにのった小さな硝子の瓶を、イーツェンはぼんやり見た。
 瓶の口には木栓が押し込まれ、溶けた蝋につけて口を封じてある。曇った硝子を通して、瓶の中に何かの液体が入っているのがわかった。
 イーツェンは少しの間それを見ていたが、オゼルクを見上げ、小さく首を振った。オゼルクが目をほそめる。
「お前は言わないのか。あれは言ったぞ。救えないなら、殺してみろと」
「‥‥‥」
 何かが記憶の底で動いたが、それを追うにはイーツェンは疲れすぎていた。ただ彼は、もう一度、首を振る。
 ──約束した、とイーツェンは思う。約束した。
(自分を傷つけるようなことはしないと──)
 約束してくれと言われて、約束した。ほとんどそれしか思い出せない。だが約束したことは覚えていた。その約束に何の意味があるのか、それは今のイーツェンにはわからない。ただ、約束したのだった。己を傷つけたりはしないと。
 はじめの笞刑、首に輪を打たれた時、そしてあの男を手にかけた時も、イーツェンは自害を考えた。だがどの時も、彼を押しとどめたのがその約束だった。
 こんなふうに生きのびることに、イーツェンが生きることに、もう何の意味もないのかもしれない。それでもきっと、この約束には意味がある。その約束を果たすことには何かの意味があるはずで、イーツェンはそれを失いたくなかった。何もかも失って、何ひとつ意味を持たずに死んでいくことなど、耐えられなかった。
 それ以外のことは、今のイーツェンにはどうでもいいことだった。死は今でなくとも、いずれ彼を迎え入れる。それは確かだった。
 オゼルクが苛立たしそうにイーツェンの頭をゆする。
「お前は。馬鹿か?」
 苦痛に呻いたが、イーツェンがはっきりと相手に意識を向けられたのはそこまでだった。彼は目をとじ、浅く荒い息をつきながら、苦悶と熱の入りまじった混濁へまたすべりおちていく。遠のく意識の外側で、オゼルクの舌打ちと、つづく声を聞いた。
「運び出せ」
 間を置いて、体中を冷たい水が打つ。背中の火のような熱が一気に凍りつく激痛へとかわり、ひらいた口にも水があふれ、イーツェンは咳き込みながら息を吸いこもうとしたが、最後のもがきの中ですべてを見失った。


 誰かの手がイーツェンにふれていた。丁寧に体を拭い、傷に何かを塗る。時おりそれは強く貫くような痛みを引き起こし、イーツェンが悲鳴を上げると、手はイーツェンの髪や傷のない肩をなでて、痛みが耐えられるほどにおさまるのを辛抱強く待った。
 その手は髪をなで、もつれた髪を時間をかけて梳く。時おりイーツェンの体を横に傾け、擦れた体の前側の傷にも薬を塗った。
 イーツェンの意識は薄かった。自分自身を手放してしまいそうになりながら、彼は最後の何かをあきらめきれない。何もかもすり減らし、使い果たしてしまった自分の中に、最後の──ほんのかすかな──火のようなものが残っていることに、彼はどこかでぼんやりおどろいていた。
 誰かの手がイーツェンの顔を横へ向け、小さな枕を下へ入れてあごの位置をさだめると、唇にゆっくりとさじがふれた。あたたかなものが唇の内側を濡らす。甘みのついた液体だった。湯で薄めた蜂蜜のようだ。食欲よりも渇きに押されて、イーツェンは口の中へ入ってくるものを飲んだ。
 眠って、また薄い意識を取り戻す。熱にうなされ、痛みに苦しんで、目ざめはつねにあいまいだった。それでも短い覚醒を幾度かくりかえした末、イーツェンは重い目蓋ごしに光を見た。光の前で影がゆらゆらと動いている。はっきり見定めようとして、彼は目蓋をひきつらせた。
 ひどく明るい。まばゆい陽光が満ちて、刺すように強く感じられる。白いものを見つめながら、イーツェンは自分が何を見ているのかしばらくわからなかった。
 漆喰の壁。──どこかの部屋だ。
 牢ではない。普通の部屋に寝かされている。しばらく茫然としてから、イーツェンはうつ伏せの顔をさらに上げようとして、首から背中までを裂くような痛みに呻いた。
 すぐに誰かの足音が歩みより、イーツェンの髪にふれた。牢の暮らしで汚れてもつれた髪は、いつのまにか指が通るほどに梳かれ、洗い清められていた。
「まだ動いては駄目です。‥‥イーツェン」
 最後の呼びかけをぎこちなく口にしたその声に、聞き覚えがあった。イーツェンはまばたきする。視界のすみに、かがみこんできたソウキの姿がうつった。
 一瞬、何もかもが夢だったのかと思った。まだ塔での暮らしが続いていて、リグの秘密の露見も鞭打ちも牢獄も何もかもすべてイーツェンの悪夢で、彼はまだ、ソウキと塔にいるのだと。
 だがすぐに、首にくいこむ輪の重さと背中の痛みが、その考えを吹きちらす。それに、ソウキはイーツェンの名を呼んだ。「ご主人さま」でも「殿下」でもなく、敬称もつけずに。イーツェンはもはやソウキの主人でもなければ、敬われる地位の人間でもない。ソウキと同じ──あるいはソウキよりもさらに位階の低い、罪人の奴隷だった。
 何もかも現実だ。イーツェンの身におこったことは、夢ではない。だが、ならばどうしてイーツェンは今ここにいて、ソウキが彼のそばにいるのだろう。
 ソウキはイーツェンを安心させるようにうなずき、髪をなでた。
「水を飲みますか?」
「‥‥‥」
 イーツェンはほんのわずか、うなずいた。体の中から何もかもが絞り尽くされたように力が入らない。ソウキはガタガタと部屋の中を動き回っていたが、やがてイーツェンの脇に膝をつき、さじで少しずつイーツェンの口元へ水をはこんだ。
 子供が与えられた蜜に吸いつくように、イーツェンは力ない舌でさじをしゃぶる。水がしっとりと口の中にひろがり、乾いてはりつきそうな喉へ少しずつしみていく。
 水を飲み終えると、ソウキに言われるまま目をとじ、イーツェンは眠りについた。


 そんなことをくりかえしながら、イーツェンが粥をのみこめるようになると、ソウキはどろどろに煮込んだ豆粥をイーツェンに食べさせた。
 その頃にはイーツェンの意識も少し明瞭になっていて、自分が寝かされているのが、なぜかオゼルクの寝室の床であることに気がついていた。敷き藁をつめた厚地の敷布の上にさらに布を重ね、丁寧にしつらえられた寝床だ。傷の膿みで寝台を汚さないためと、床の方がソウキが世話をしやすいためだろう。
 隣──オゼルクの私室へとつながる扉はたいてい開け放され、煉瓦でおさえられていて、昼はそこから陽光が入りこんでいた。目が光に慣れれば寝室はそれでも薄暗かったが、イーツェンには丁度いい。
 オゼルクは夜どこで眠っているのか、イーツェンに寝室をあけわたしたきり、昼間の隣室へ時おり姿を見せるだけだった。もっとも、牢から出された病人の匂いがこもった寝室は、とても安らかに眠れる場所ではなかっただろうが。オゼルクはいつも忙しそうにしていて、イーツェンに声もかけず、関心を払っている様子はまるでなかった。
 ──何を考えているのだろう。
 イーツェンは疑問に思ったが、すぐにその問いを忘れた。オゼルクの意図をはかったところで、今のイーツェンにはどうしようもない。ただ牢から出され、ソウキの手厚い世話を受けて日をすごすだけで、自分の心に恐れも望みも持たせないようにしていた。
 ──望まないこと。恐れないこと。
 ただ日を、その一日を、一瞬を、やりすごしていく。ほかに何も考えないようにしているうちに、イーツェンの体はわずかずつ回復していった。息を深く肺に吸い込めるようになり、目をさましていられる時間も長くなる。自分で杯を取って水を飲めるようにもなった。
「どうやら生き残ったようだな」
 ある日、ぼんやり横たわっていたイーツェンは皮肉っぽい声を聞いた。うつぶせのまま顔を斜めに向けると、オゼルクが扉口に立っていた。ソウキはイーツェンの洗い物をかかえて出ていったまま、まだ戻っていない。
 オゼルクは相変わらずの黒ずくめで、無造作にくくった金の髪を左の肩へ流し、目をほそめてイーツェンを見おろしていた。
 少しして、イーツェンが黙っている理由に思い当たったらしい。ぼそっと言った。
「口をきいてもいいぞ」
「‥‥‥」
 イーツェンは唇をひらいてみたが、喉を息が通るだけで、うまく声をつくることができない。オゼルクはその様子を見ていたが、肩をすくめた。
「まあ、いい。何かほしい物があればあの奴隷に言え。お前が投獄されてから、何度も牢番小屋へ食べ物をとどけに行っていたそうだぞ」
 イーツェンはまばたきした。ソウキには結局ろくに何もしてやれなかったし、深い信頼を得ることもできなかったと思う。その彼がイーツェンのために尽くそうとしたことに驚いていた。
「部屋の中ではしゃべってもいい。外には出るな。ローギスはまた理由を見つけて、罰を与えるだろうよ。お前はあいつの顔に泥を塗ったのだ、イーツェン」
 その声はどこか愉快そうだった。
「お前が殺した男は、反乱派の一人でな。城内の誰かと連絡を取ろうとしていた。その裏切り者の名を割る前に、お前があいつの喉をかき切った。‥‥わざわざ、拷問した男の世話をさせてお前を怯えさせようとしたようだが、ローギスは、お前に骨があるということをわかっていなかったようだな」
「‥‥‥」
「兄には、お前のような人間が理解できないようだ。弱いくせに、折れない。何にでも従い、自分の下でだらしなく腰を振っていた相手を見くびる気持ちは、わからんでもないがな」
 言葉づらのわりに、平坦な声に棘はなかった。オゼルクが何を言いたいのかよくわからないまま、イーツェンはオゼルクを曖昧なまなざしで見つめる。オゼルクは扉口にさしてくるやわらかい逆光の中に立ってしばらく黙っていたが、ふいにぼそっと言った。
「安心しろ。ローギスは陣を率いて出ている。少し大掛かりな話でな、しばらく戻らん」
 では、ローギスは知らないのだ、イーツェンが牢から出されて看護を受けていることなど。ローギスが戻ってきたらイーツェンはどうなるのだろうか。それを思ったが、恐怖は感じない。感情はとうに乾ききっていて、イーツェンの心はふしぎなほど動かなかった。
 だがローギスが戻った時、オゼルクは一体どうするつもりなのだろう。そもそも何のために、オゼルクはイーツェンを牢から出したのだろう。それがわからない。
「‥‥どうして‥‥」
 かぼそい、きしるような声が自分の口からこぼれていることに気付いて、イーツェンは言葉をとめた。聞いたこともないほどいびつで、喉を押しつぶされたような声だった。
 オゼルクは、イーツェンがつづけるのを待つように唇を結んでいたが、ぎこちない沈黙がつづいた後、ふっと笑った。
「何でだろうな」
 奇妙に静かなその声に、イーツェンは何か答えようとした。だが何も言葉が出ない。声が出ない。
 先に視線を切ったのはオゼルクだった。イーツェンへ背を向け、黒に覆われた姿はいつもと変わらぬ傲岸な足音を立てて部屋を出ていく。一人になったイーツェンは疲れた目をとじ、枕へ頭を沈めた。


 ローギスがいないためか城に残るオゼルクも多忙で、相変わらず滅多に姿を見せなかった。
 他にオゼルクの部屋を──ましてや寝室を──訪れる者もなく、ソウキがかいがいしくイーツェンの世話をして、やがてイーツェンは彼の手を借りて体を起こせるようになった。
 イーツェンの手足は自分でもおどろくほどやせ細り、肉が削げ落ちて骨の形の見える体は、そのくせ鉛でも呑んだように重い。少し座っているだけで腰が痛み、背中がうずいてイーツェンを悩ませた。
 背中の痛みは、単なる傷ではなくもっと深い身の内の痛みとして、肉体へ入りこんでいた。肉が内側から裂けるかのように痛む。何か、身のうちにねじれた苦痛が刻みこまれていて、それがことあるごとにイーツェンの身を引きつらせた。
 目をさましているだけで疲れて、イーツェンはよく眠ったが、うつ伏せになっているしかない体の前面も擦れてあざが痛み、時おりソウキの手を借りて体を横倒しにした。だがそれも長くはもたず、腰や背中がきしんで、うつ伏せに戻るしかなかった。
 ソウキはイーツェンの許可を取っては湯桶を持ちこみ、よくイーツェンの体や髪を拭った。牢の汚れは肌の内にまでこびりついたようで、簡単には消えないのだった。
 ソウキの手つきは丁寧で、イーツェンをいたわっているのがよくわかる。そんなふうに大事にされるいわれはないと思ったが、イーツェンにそう口にする気力はない。何事もなく、ただ眠り、食べ、静かに一日がすぎる。それだけのことがもたらす安らぎを乱すことは、何もしたくなかった。
 それでも時おり、悪夢が彼の身を震わせる。喉の輪が彼の息をつまらせ、背の痛みが彼を砕く。
 自分が怯えていることを、イーツェンは知っていた。心は麻痺したように動かず、恐怖も怯えも感じなかったが、それは、心のどこかが壊れているからでしかない。彼はもう、身動きができなかった。
 明日をわずらう余裕などかけらも残っていないだけだった。ただ、今この一瞬、この刹那。それに怯え、それを恐れ、身も心もちぢみあがったままだった。