それでも日々はすぎていくもので、結局のところ、イーツェンは慣れつつあった。どこへ向かって生きているのかわからなかったが、とにかく生きている。息をして、与えられる食事を取り、眠る。何もかもを意識の外へ押し出すようにしながら、イーツェンはその日ずつ、時にその一瞬ずつを、ただ身をすくめ心をすくめてやりすごした。
イーツェンが自力で歩けるようになると、雑役を命じられた。だが体力はおろか気力も折れ、自分でも驚くほど彼は何もできなかった。物事が手につかず、集中が続かず、陽にあたればすぐに倒れ、痛みでしばしば動けなくなり、時に夜通し湿った咳に苦しめられた。背中の傷は外側ばかりふさがっても、物を持てば背骨が激しく痛んで、高いところにある物へ手をのばすこともできない。
あまりに何もできないことへの怒りや苛立ちは、そのままあきらめに変わっていった。イーツェンは一つずつをあきらめ、一つずつを忘れていく。
レンギのピアスをなくしたのに気付いたのはそんな時だった。だがそもそも笞刑の後に自分がピアスをしていたかどうか、イーツェンには記憶がない。そこまで自分のことを気にする余裕がなかった。
結局のところ、どこであの翡翠が自分の耳から失われ、あるいは奪われたのか、見当もつかないままそれもあきらめるしかなかった。どうせ、奴隷の身にはすぎたものだ。イーツェンには私物を持つ権利が認められていない。彼の持ち物だとはっきり言える物は、首にはまった輪、ただ一つだけだった。
そんなふうに何もかもを失いながら日々がすぎていく。
イーツェンの采配は奴隷頭の男が仕切っていた。高圧的な男は動きののろいイーツェンを奴隷用の皮鞭で殴りつけたが、その後何日もイーツェンが高熱を出して動けなくなったのを見て、殴打はやめたようだった。慈悲からではないだろう──と、イーツェンは思う。替えのきく奴隷の命を惜しむような男ではない。おそらくはローギスの命令なのだ。イーツェンを殺すな、と。
イーツェンを生かしておくつもりなのだろう、ローギスは。
その気まぐれな復讐心がいつまで続くものかイーツェンは少し疑っていたが、ローギスが気を変えるならそれはそれでよかった。
しまいに、イーツェンは地下牢へ押しやられた。囚人へ食事を与え、空の牢を掃除し、番兵や牢番の言いつけに従って雑用をする。
毎日、汚れてぬるぬるとした床を裸足で歩き、もう一人の奴隷男とともに囚人に食事を与えた。暗い闇に油燭の灯りはほんのわずかな明るみしかもたらさず、彼らが動くたび、かぼそい光の中を形のない影がゆらめき通った。
悪臭に喉をつまらせながら、イーツェンは牢の格子からのびてくる腕につかまれないよう用心深く距離をとり、杖で囚人に食事の皿を押しやる。
闇の中で、囚人の顔をほとんどまともに見たことがない。途中から燈火を遠ざけ、自分の顔も用心深く隠すようにした。はやしたて、時にがなりたてる囚人の声の中に聞く卑猥な言葉と、あからさまな欲望が恐ろしかった。
時に囚人は腹立ちまぎれに汚物を投げつけることもあって、それはイーツェンの悩みの一つでもあった。だがささいな悩みはむしろ、彼の目をもっと大きな現実からそらさせてくれたので、本気でそのことを思い悩んでいたわけではない。洗えば落ちるもののことなど、もはや大して気に病んでいなかった。
囚人が死ぬと牢番と奴隷が死骸をはこび出し、イーツェンは空の牢獄の掃除をした。悪臭を煮詰めたような牢に入ると、目がつんとして涙がにじむ。はじめのうち、くらがりで鼠や虫の塊がわさわさと動くのを見ては悲鳴を上げたが、それにも慣れた。
病で死んだのか、死者の髪がごっそりと抜け落ちて残っていたこともあった。無感動に、心の感情を押しこめて、イーツェンは死者の名残りを片づける。死者などもう怖くはなかった。死も怖くはなかった。体に牢の臭いがしみつくことも気にならなかった。一体誰がイーツェンのことなど気にするというのだろう。イーツェンすら、もう自分のことに関心がない。
時おり、男たちの前にひざまずかされた。番兵たちのこともあったし、奴隷頭や牢番もイーツェンに奉仕を命じたが、その屈辱すらどうでもよかった。ただ背中の痛みだけがまだ自分が生きているということ、自分の肉体が生き続けているということを、イーツェンに思い知らせる。生きていることはわかる。だがもう、その理由が見つからない。
それでもただ、日はすぎる。そうやって生きていく。
反乱の話が牢番や兵の噂話にのぼっていたが、地上に出ることも減ったイーツェンの日常には、何の変化もなかった。牢に入る人数はふえたり減ったりして、入れ替わりは激しい。イーツェンは彼らに興味をもたなかったし、彼らはイーツェンへ憎しみや剥き出しの欲望しか見せなかった。
もっともそれは、イーツェンの周囲にいる男の多くがそうだった。イーツェン自身に興味を向けるというよりも、王族だったものが奴隷の身に落とされ、犬か何かのようにあごで使えるのがおもしろいのだろう。彼らの振るまいは常に支配的で、嘲笑に満ちていた。
夏の訪れを、イーツェンは遠くぼんやりとしたものに感じる。地下牢はひやりとしていて季節の感覚はなかったが、それでも春は去り、夏が城を訪れた。何の意味もないままに。
夏になったとイーツェンが思ってからしばらくして、男が一人、地下牢のさらに奥の牢に入れられた。やがてその石室からたえまない悲鳴や怒号がきこえはじめる。時に苦痛の呻きは夜もやまず、牢番部屋のすみでうずくまるイーツェンの眠りをさまたげた。
牢番や番兵が話しているのを聞くと、男は反乱派にくみする人間のようだった。扱いからして重要人物なのだろう。
何を問いただしているのか拷問は幾日もつづき、イーツェンの耳は男の悲鳴やすすり泣きでいっぱいになった。静かな時でも耳鳴りのようにその声がひびく。男が弱ると、体を回復させるためだろう、数日の休みがおかれた。その間だけはわずかな静けさが戻ったが、それは破られるための静寂で、拷問と悲鳴は必ずふたたびはじまるのだった。
牢番は慣れきっている様子で、漏れきこえる男の絶叫を聞きながら平然とイーツェンを犯した。小さなテーブルにイーツェンの上半身を伏せさせ、自分は立ったままで、後ろから猛るものを突きこむ。体がゆすられるたびに、イーツェンがかかえたテーブルの脚がガタガタと鳴った。
イーツェンは半分目をとじて、かすかにひらいた唇から苦痛のあえぎをこぼした。油を使ってはいるし、牢番は行為の前に自分で慣らすようイーツェンに命じていたが、それでも充分ではなく、男が動くたびに体の内側が裂けそうに痛い。時に傷つけられることもあった。イーツェンは緩慢な苦痛の呻きを殺しながら、かすかな快楽を拾うようにして、この時間が終わるのを待つ。後ろの苦痛にまぎれて背中の痛みが一瞬遠くなったが、激しいだけの突き上げに体をゆさぶられると、火のようにあざやかな痛みが身のうちをかけぬけた。
喉がつぶれるような悲鳴が遠くきこえる。まるで自分の悲鳴だと勘違いしてしまいそうだった。
痛みに世界がくらむ。男が荒々しく欲望を果たし終えると、イーツェンは喘ぎながら部屋のすみの敷きわらの上にうずくまり、汚れのこびりついた布で足の間を拭った。
手がふるえる。ふるえは全身にひろがって、イーツェンは膝を抱いてうずくまり、全身を引きつらせる痙攣に耐えた。
熱病のように、がくがくと揺れる体をとめることができない。遠い悲鳴をききながら、薄暗い部屋にうずくまって、ただ発作的な痙攣が通りすぎていくのを待つ。この一瞬、次の一瞬が通りすぎていくのを。
奴隷の男が両手に粥の入った鍋を下げ、牢へつづく階段を下りてくる。牢の入り口の格子扉をイーツェンがひらくと、黙ったまま牢内の廊下へ歩み入った。
足首に輪をはめられた大柄な男で、異国風の顔立ちをしている。イーツェンはこの男が話すところを見たことがない。無口なのかと思ったが、最近ではもしかしたら口がきけないのではないかと思っていた。ローギスがイーツェンを脅したように、この男も舌を切られているのかもしれない。
黙々と言われたことをして、力仕事は全部引き受けるこの男の名を、イーツェンは知らない。ただ男が置いた鍋から冷めたどろどろの粥を皿にすくい、それを手にして、イーツェンは闇の中へ入っていく。
苦鳴が牢の奥からまた漏れ聞こえる。もう随分と弱い、とイーツェンは思った。拷問は確実に男から何かをそぎおとしている。その男が死ねばまた死骸を運び出し、石の床にこびりついた汚泥と血を掃除するのだろうか。
それ以上の感慨はなく、自分の心が死んだように動かないことが今のイーツェンには救いだった。他人のために苦しむ余裕などかけらも残っていない。
囚人たちへ食事をくばり終え、残った一つの皿を牢番の机に置く。牢番は脂の浮いた粥を見て顔をしかめ、大きな鍵の輪をイーツェンへ渡した。
「持ってけ」
「‥‥‥」
イーツェンは頭を下げて鍵を受けとり、牢のさらに奥へつづく廊下をうつむいてたどった。つきあたりを一度折れた先に、鉄の幕板を幾本も打たれた扉がある。歩みよるにつれ、扉の向こう側から聞こえてくる獣の悲鳴のような呻きが少しずつ大きくなる。
油燭と皿を床に置き、扉の錠前に手を添えて鍵を開くと、閂棒を抜いて壁に立てた。そうしている間に、皿にはもう一匹の虫がすばやく寄っていた。無造作な手で払い落として、左手に油燭と皿をまとめて持ったイーツェンが扉をひらくと、きしるような声はさらに大きくなった。
小さな石室には濃密なにおいがこもっている。すでにイーツェンの鼻は牢の悪臭に麻痺しているが、それでもこの小部屋に足を踏み入れると、粘っこい空気が器官にはり付いて喉をつまらせる。甘く、苦い、奇妙な味が舌の上にとけだしてくる。
──これは、血の匂いだ。
流されたばかりの、濃い血臭。体のうちにとろとろと溜まるようなその感覚がイーツェンに何かを思い出させようとするが、イーツェンは心にのぼってくるものを無視して、記憶の残骸を遠くへ押しこめた。それよりは、裸足の足の裏にまとわりつく泥濘の感触と、灯りに走り去る鼠をよけて歩く方に意識をとられていた。
鼠は、血と、その先にある生肉の臭いに寄せられて集まってくる。その生肉がまだ生きている人間だということは、この無情な動物に何のためらいももたらさないのだった。
うっかり鼠にぶつかって足首でも噛まれると、その血の臭いが飢えた小さなけだものを引き寄せる。用心深い足取りで、イーツェンは小部屋の中へ歩み入った。
小さな光の輪が動き、狭い部屋の壁に影が踊る。イーツェンの影、そしてもう一人の影。
部屋の中央に据えられた大きな柱に横架がかけられ、そこに十字に腕を広げた男がくくりつけられていた。
床に点々と溜まった血溜まりをよけようとするが、わずかな光と、今のイーツェンののろい動作ではうまくいかない。足の裏に、指の間に、色々なものが粘ついている。重い足を引きずるように、イーツェンは油燭と食事の皿を持って男へ歩み寄った。
わずかな光の中でも、男の体が凄惨な傷で覆われているのがわかる。この男から何を引きずり出そうとしているのかわからないが、男はまだ屈していないようだった。これほどまでに耐えて何を守っているのだろうと、イーツェンは麻痺した心のすみでぼんやりと思う。それとも、本当に何も知らないのだろうか。
油燭を床に置き、イーツェンは粥の皿と木のさじを手に取った。下を向いた男の口元から呻きのまじった荒い息がこぼれ、血で縄のようにかたまった髪が時おり揺れる。イーツェンは男の前へ立つと、粥をすくって男の口元へ近づけた。
腫れ上がり、裂けた唇の間へさじを入れると、男は呻いて、口をもごもごと動かした。
イーツェンはさじを引き、男が苦労しながら粥を嚥下しようとしているのを見守る。口の中も傷だらけで、歯もほとんど残っていないはずだ。呑みこむのも苦痛だろう。一口に、ひどく長い時間がかかった。
男へ食事を与えるのは牢番の仕事であった。だが男は食べ物を拒否し、命じられたイーツェンが男の口に無理矢理さじを押しこんでも、その粥を呑みこもうとしなかった。
城兵は男の前でイーツェンを裸に剥き、陵辱した上で背中の傷を打ち据えた。痛みのあまりイーツェンは気絶したが、水をかけて引きずりおこされ、ふたたび命じられて粥とさじを持たされた。イーツェンが震えながらもう一度男に粥を運ぶと、今度は男は黙って食べた。
それからずっと、イーツェンが日に二度、男に食事を与えている。はじめは牢番がそばについていたが、ひどく時間のかかる仕事を嫌ってか、このところはイーツェン一人にまかせきりだった。
まだ数口のところで、男の口の動きがとまった。一口飲むのにもひどく力を使うのだ。イーツェンは突っ立ったまま待ちながら、男の足元の血溜まりに動く鼠の影を蹴りとばした。男の膝から下は何かではさまれたように肉がつぶされていて、男はもはや立っているというより柱にただくくりつけられているだけのようだった。
「‥‥水‥‥」
しゃがれた、不明瞭な声をどうにか聞き取って、イーツェンは腰に下げておいた皮の水筒を取ると、角でできた細い飲み口を男の唇にあてがい、皮袋の腹を絞った。
水はだらだらと男の唇のはじからこぼれ落ちる。痛みに呻きながら力なく口を動かしていたが、男は腫れ上がった目蓋の下からイーツェンを見た。右目はほとんどふさがっている。細くしか開かない左目の隙間から、まだ生気をおびた眼光がイーツェンを見据えた。
イーツェンは無言で男の視線を見つめ返した。男の唇がまた動く。舌を何かにくるまれたような声を聞き取るために、イーツェンは男の口元へ耳を近づけた。
「‥‥名前は?」
そう、聞こえた。イーツェンは男を見て、首を振る。口をきく許しは得ていない。
男はかすかにうなずいた。顔全体が腫れで変形し、年齢はまるでわからないが、裸の体を肉片のようにされてなお、そのまなざしには力が残っていた。
──この目を、イーツェンは知っていた。
彼は何かを守っていると、イーツェンは思う。何を守っているのだろう。
床からふたたび粥とさじを取り上げ、イーツェンは食事をつづけようとする。男もいくらか粥を口にしたが、何度目かにさし出されたさじから小さな動きで顔をそむけた。イーツェンは手を引いて、待つ。時間がかかるのはいつものことだ。
だが、待ってからふたたび差し出されたさじも、男は拒んだ。イーツェンは暗い気持ちでそこに立ちつづける。男が食事を残せば、イーツェンが殴られるのだ。聞きたい何かを男の中から引きずり出すまで、城は男を生かしておくつもりなのだった。
「‥‥助けて、くれ‥‥」
男の唇から、ぼそぼそと、つぶれた囁きがこぼれる。イーツェンが、まるで聞こえていないように反応を見せずにいると、腫れた唇で笑みのようなものを見せた。唇のはじから唾液と粥がこぼれてつたう。
「もう、俺は、もたねェ‥‥手を、貸して、くれないか‥‥? たの、む‥‥」
イーツェンはまばたきして男を見つめた。血と傷が覆っていない場所は一つもなく、無残な傷の一部には虫が湧いている。左の目蓋は裂けてほとんど眼球の上に垂れ下がっていたが、その下からイーツェンを見据えるまなざしはまだ死んでいなかった。
この目を知っている、とイーツェンは思う。命をかけて何かを守ろうとする、そんな男を、そんな目を、彼はほかにも知っていた。
男の目に無言の哀願が満ちている。純粋で必死なまなざしが、イーツェンの乾いた心に、長く忘れていた痛みを呼び起こす。息もできないほどの痛み、彼の胸を締めつけるこの深い痛みがどこからくるのか、イーツェンにはわからなかった。
イーツェンは粥を置くと水筒を手に取り、男にもう一度水を飲ませた。男は口をひらき、舌を洗うように水が流れ落ちるにまかせていたが、ふいに大きな痛みの声をあげ、体をふるわせた。イーツェンはただそこに立って、男の体を苦痛の嵐が通りすぎていくのを待つ。
やがて痛みの声が引き、男はもう一度顔をあげてイーツェンへうなずいた。それから、イーツェンの手にある水筒と牢の扉を目でさす。
イーツェンは腰に結んでいた布帯を取ると、角をくりぬいてある飲み口を布で包んだ。細くひらいた扉の隙間に水筒の飲み口をはさみ、扉に肩をあてて力をこめる。今のイーツェンに出せる力など微々たるものだが、扉の重さと、扉に打たれた枠の固さがそれをおぎなった。角の飲み口が折れる。布に包まれてくぐもった音は、男がわざと大きくあげた苦痛の叫びにまぎれて、イーツェンの耳にすらほとんど聞こえなかった。
布包みを手のひらに取ると、ぼろぼろの布の中で角の飲み口は細かく割れていた。いくつか指先でしらべてから、結局イーツェンは、水筒にくくりつけられた根元の部分を皮袋ごと手に持つ。男は疲れきった頭を時おり揺らがせながらそれを見ていたが、歩み寄ったイーツェンへ微笑した。それは、元気だった頃の男の名残りを思わせるもので、野太く、あたたかい笑みだった。
「‥‥悪いな‥‥うしろに、立ちな。俺の、影に、隠れるみてェに」
イーツェンは男に言われるまま後ろに立ち、男の腕をくくりつけた横架の下から右手をのばして、割れた飲み口の先を男の喉元へあてた。急所は知っている。あごのつけ根、耳に近いところ。男も顔を動かして、するどい角の切っ先へやわらかい皮膚を押し当てた。
「ありがとよ。‥‥たのむ」
かすれた声が呟くのを聞いてから、イーツェンは手に力をこめて角の破片を男の喉へくいこませた。一瞬、肌が切っ先を押し返す。だがイーツェンは歯をくいしばって背中の痛みをこらえ、全身の力を振りしぼった。
ブツリと全身をふるわせるような衝撃が手につたわって、そこからは奇妙にやわらかいものに破片が沈んでいくようだった。男の喉から、空気の洩れる音が鳴る。それにゴボゴボと血のあふれる音がまじり、イーツェンは手を離して、よろよろと後ろへ下がった。
水筒が床に落ちる。その音に身をすくめたが、それきり部屋はひどく静かになっていた。しばらく立ちすくんでいたが、イーツェンはおそるおそる男の前へ回り、油燭のわずかな光の中で男が首を倒してこときれているのを見た。
男は顔を伏せて、まるで眠っているようだった。首から胸元までを濡らす、真新しい血の色さえなければ。
イーツェンはじっと男の姿を見つめて、ただそこにたたずんでいた。頭も体もからっぽになったようで、何も考えられなかった。男が今にも何か話しかけてくるような気がして彼を見つめ続けたが、男の唇が動くことは二度となかった。
自分の右手が血に濡れているのに気付き、イーツェンはぼろ布で手を拭った。それから皿に残った男の粥の残りを部屋のすみに捨て、油燭を拾い上げる。息が荒く、背中が痛んで、彼の動きはひどくのろかった。
部屋を出て、扉をしめ、閂棒をさしこんでから、錠前の鍵をかけた。ゆっくりと歩いて牢番部屋へ戻ると、牢番の男へ鍵を差し出す。牢番は見もせずにイーツェンの手から鍵をひったくると、番兵の一人とともに興じているサイコロ遊びへ戻った。
イーツェンは部屋の隅へうずくまり、湿った敷き藁の上で身を小さく丸め、薄い毛布を肩に巻きつけながら目をとじた。疲れていた。体の芯まで鉛でできているように重く、ズキズキと背中全体が熱い。
小さく丸まったまま荒い息をととのえていたが、イーツェンはふと、まだやわらかな感触が残る指先を自分の首すじにあてた。
血の脈をそこに感じながら、それ以上、動けない。
イーツェンは小さな溜息をついて手を引き、安らぎのない眠りをまどろみはじめた。背中の痛みはやがて薄らいだが、あの男の目を見た時に感じた心の痛みは、いつまでも心臓の真上に残っていた。
その日のうちに男の死が露見し、イーツェンはふたたびの打擲を浮けた上、首の輪に縄をかけて投獄された。