牢を予想していたが、彼らがイーツェンを押し込めたのは、城内の簡素な小部屋だった。裁きを待つ者が控えさせられる部屋らしい。荒削りな石がむきだしで、何一つ調度らしきものはない。大きく手をのばせば左右の壁にふれられるほどの狭さで、壁の上方には切れ込みのような小さな窓があるが、位置が高くて外は見えない。かび臭く、冷えきった、人の気配のまるでない部屋だった。
 自分をここまで引き立ててきた手が離れても、どうにかよろよろと立っていたが、人が出ていって分厚い扉がしまるとイーツェンは床にへたりこんだ。頭が痺れてうまくものが考えられない。頭をさぐって、こめかみにうずく激痛に思わず呻いた。
 ローギスに蹴られたのは、どうやら左のこめかみだったらしい。倒れた時に顔面をしたたか打って、そのせいで鼻血が出たようだった。小さな布を取り出して顔を拭ったが、水がないのできれいに血は取れない。だが出血はとまっていて、イーツェンは少しほっとした。
 椅子はおろか敷物もないので、仕方なく冷たい石床に座ったまま、こごえてくる体を小さく丸める。じっとしていると段々と痛みは小さくおさまってきた。それにしてもローギスの憤怒の表情は見ものだった、と思う。歯牙にもかけずに踏みつけにしていたイーツェンからの思わぬ反逆に、まるで飼い犬に手を噛まれたような気持ちになったのだろう。
 ──本当に噛んでやればよかったか。
 意地の悪い思いが動いたが、イーツェンはそっと首を振った。この春の間、ローギスやオゼルクを傷つける──あるいは殺す、そんな捨て鉢な気持ちがおこらなかったと言えば、嘘になる。だが、イーツェンは人を傷つける刃も持たなければ、ましてや殺人者ではなかった。
 シゼがあの夜宴でオゼルクを殺そうとした時も、それを看過することは出来なかった。人を傷つけねばならない時があることも、殺さねばならない時があることも知っていたが、そこを踏みこえるにはイーツェン一人の憎悪では足りない。リグのためなら──おそらく。自分の手を血に汚すこともいとわなかっただろう。だがもしイーツェンが人を殺すのならば、それは己の憎しみや報復のためではなかった。
 ぼんやりとしていたが、イーツェンは大きなくしゃみをして我に返った。同時に、頭にするどくはしった痛みにたじろぐ。
 マントは蔵書室に置いてきてしまっていたので、室内用の上着だけしか羽織っていない。ひしひしと冷気がせまって、肌がひりつく。身をちぢめてあごの下に両膝をかかえこみ、丸まってどうにか体をあたためながら、イーツェンは腰帯のかくしを探った。
 革帯が合わさって小さな袋になっているかくしの内側から、折りたたんだ紙包みを引っぱり出すと、翡翠のピアスの片割れを指先につまみあげた。ふっと息を吐きかけ、ローブのすみで石を拭う。
 朝霧のように神秘的な曇りをたたえた青緑色の翡翠を見つめ、イーツェンは微笑した。レンギが最後にくれたピアス。
 私もきっとあなたと同じ運命をたどるだろう、とレンギに心で語りかける。だがこの国にいる間に故郷を失ったレンギには、イーツェンがしたことの意味がわかるはずだった。故国を守るということが、故郷のために身を尽くすということが、イーツェンにとってどれほど重い意味を持っているのか。レンギはそのことを誰よりも理解してくれるはずだった。
 左耳を飾っている小さな輪を取り、イーツェンはかわりにレンギのピアスを手探りでつけた。こうして身につけるのははじめてだ。耳に軽くふれて、目をとじる。レンギと、シゼと。この城で彼らと出会えたことだけでも、きっとここにいた意味はあったのだろうと思う。
 ピアスのもう片方をシゼが持っているのを思い出すと、少しばかり心がくすぐったい。こんなふうに遠く離れてしまっても、何かがつながっている気がする。
 微笑をうかべたまま卵のように丸くなって、イーツェンはただ待った。体は凍え、寒さからくる震えが足をのぼってくる上に、頭と鼻はまだじんじんと痛んでいたが、心はおだやかだった。


 体が揺れ、イーツェンがはっと顔を上げると、顔をしかめてのぞきこんでいるオゼルクと目が合った。
「よく眠れるな、お前は」
「‥‥御用ですか?」
 この寒さと状況で眠ったことには自分でも驚いていたが、イーツェンは表情をつくった。それにしてもこれほど安らかに眠ったのはいつ以来だろう。体は冷えきっていたが心が軽く、意識がうまく現実に集中できないほどだった。
 動いた拍子に左の側頭部が痛んで、たじろぐ。こめかみにふれて腫れをたしかめているうちに、オゼルクの後ろにいた従僕らしい男が床に二つの平杯を置き、リンネルの布をさし出した。
「ありがとう」
 礼を言って受け取り、イーツェンは水の入っている方を手に取ると、布を湿して顔の血を拭った。すっかり体が冷えきっていて手が震えるので、杯はすぐに床へ置く。オゼルクは黙ったまま前にかがみこんでイーツェンを見ていたが、イーツェンの手がとまると布を取りあげて、イーツェンの顔に残っている汚れを無言で拭った。
「‥‥ありがとう」
 何か言った方がいいかと思って言ってみると、苦虫を噛みつぶしたような表情でにらまれた。イーツェンは指し示されたもう一つの杯を両手で取る。湯気が立っている陶杯はおどろくほど手に熱かったが、それはイーツェンの指や唇が冷えきっているからだろう。林檎酒の香りがするそれを数口すすると、感覚のなかった体の内側に小さなぬくもりが戻ってくるのを感じた。
 半分ほど飲んだところで、イーツェンはそれを床に置いてうなずいた。従僕が二つの杯と汚れた布を持って部屋から下がると、オゼルクがイーツェンを立たせ、壁際まで下がるよう指示した。自分はその横に立って、黙ったまま姿勢を正す。イーツェンもぎこちない手で服のよじれを直して、扉を見つめた。
 しばらくして扉がひらき、狭い扉口で一旦頭を低くしながらジノンとローギスが部屋に入ってきた。その後ろには書記だろう、記録用の書板を首からかけてペンを手にした男が控えている。
 オゼルクに合図され、イーツェンは両膝をつくと、石に押し付けられる膝の痛みをこらえながら頭を垂れた。
 目の前に靴がならびそろい、足音がとまる。狭い部屋に、ローギスの抑えた声が強い反響をおびた。
「イーツェン。はじめから、故国の裏切りを身に受ける覚悟でいたか」
「あなたがユクィルスを守りたいと思うように、私もリグを守る」
 顔を上げて、イーツェンはローギスの視線を受け止めながらおだやかに答えた。
 すべてを折られ、踏みにじられたと思った自分の中に、まだこんな強さが残っているとは思っていなかった。だが今や彼は自分を恥じてもいなければ、くぐりぬけてきたものを悔やんでも、卑下してもいなかった。たしかに弱く、みっともなく、打ちのめされて──それでもイーツェンは耐えぬいたのだ。そして、己の役割を果たした。
 ローギスは小さくうなずいた。彼は先刻よりはずっと落ちついている様子で、背すじを凛とのばし、ふたたび口をひらいた。
「本来ならばその首を落としてリグへ送りつけるところだが。そなたは死を恐れるか?」
 無言で、イーツェンは首を振る。ローギスがもう一度うなずいた。
「叔父はお前が誇り高いと言ったが、たしかにそのようだな」
 目のすみでジノンが顔をしかめたのが見え、イーツェンはまばたきしたが、ジノンへ視線を向ける余裕を与えずローギスが先をつづけていた。
「その誇りに免じて命はゆるそう、イーツェン。だがそなたはもう客人ではなく、罪人である。罪人にふさわしい運命を受けよ。ここに至っては、そなたも本望であろうがな」
「‥‥‥」
 イーツェンはじっとローギスを見つめ、その青く揺るぎのない目を見つめ──そして、ふいに悟る。ローギスの冷ややかさは、落ちつきではない。そこにみなぎっているのは凍てついた悪意だった。
 己の意志を徹底して通し、それに逆らう者を押しつぶす鉄の意志。敵と見なした者へのためらいのない悪意。
 ──ローギスが本当にはイーツェンを知らなかったように、イーツェンもローギスの本当の顔を知らなかったのだと、イーツェンは思い知る。これか。この徹底した意志と悪意に、オゼルクは常に従わされてきたのか。
 ローギスの表情にも、声にも、憎しみはまったくなかった。それどころかそこには何の感情の揺らぎもなかった。
「鞭打ち30、及び奴隷の使役で罪をあがなうことを、ユクィルスの王の名によってそなたに命じる」
「‥‥慈悲深きご判断に感謝申し上げます」
 用心深く言葉を返しながら、イーツェンは動揺を見せまいとしたが、それが成功したのかどうかはわからない。ローギスはイーツェンを使役奴隷に落とそうと言うのだ。レンギの足にあった奴隷の輪を見た時から、もしかして自分も同じようにされるのではないかと予感していたが、ローギスの無造作で無慈悲な口調に寒気がした。
 ローギスを見つめつづけ、これで終わったのかどうか言葉を待つ。
「そしてもう一つ」
 だが、むしろそっと、ローギスは言った。その表情は引き締められてきびしい。もし彼がこの状況を、あるいはイーツェンを追いつめることを、少しでも楽しんでいる様子を見せていたなら、イーツェンはこれほどまでに戦慄をおぼえなかったかもしれなかった。
 身をかがめたローギスの右手の指が、イーツェンの唇にふれた。
「お前の侮辱的な言葉に対しての罰だ。口をつぐめ、沈黙せよ。もしお前がゆるしなく口をきいたなら、舌を切る」
「‥‥‥」
 唇をうすくひらき、イーツェンはふるえる体の奥からかすれた息を吐き出した。反論する愚を悟って、彼は無言で頭を垂れる。その髪をローギスの指がかるくなで、それから彼は立ち上がった。
「以上だ。よいな、叔父上?」
「寛大なご判断ですな」
 ジノンの声は用心深くすべての表情を消していた。ローギスは書記の男へ向き直る。
「ライハン?」
「証人として、あかしいたします」
「オゼルク?」
「同じく」
 どうでもいいようにオゼルクが答え、ローギスはうなずいて踵を返した。ジノンがそれにつづき、書記の男も去ると、扉が重い音をたててしまった。
 イーツェンは床に両腕をついてへたりこんだ。体中がびっしりと汗を吹き、内臓がねじれたように苦しい。耳鳴りがうるさくひびいていたが、それは自分の血の音のようだった。
 オゼルクの手が彼の肩をつかんだ。
「立て」
 イーツェンはほとんど彼の腕にすがりつくようにして、よろよろと立ち上がる。イーツェンをかかえおこしながら、オゼルクが腹立たしそうに言った。
「楽に死ねると思ったか?」
「‥‥‥」
「そう、利口だな。口をきくな。本当に舌を切られるからな」
 ローギスが本気だということは、イーツェンも疑っていなかった。緊張で忘れ去っていた頭の痛みがぶりかえし、苦痛の脈を打って、体全体が一瞬引きつった。
 他愛もない悪態一つ──高くついたものだ。
 だがもしもう一度あの場に引き据えられても、自分は同じことを言うだろう。イーツェンにはそれもわかっていた。悪態でもついてやらねば気がすまない。どうせ先のない身であることには変わりがないのだ。
 ──あんなに怒るということは、それなりに効いたということだろう。
 そのことに少なからず満足をおぼえていることに気付き、自分自身の他愛のなさを、イーツェンは小さく笑った。こんな状態なのに、まだ笑いが自分の中に残っていることが何よりもふしぎで、奇妙に誇らしかった。何の意味もない誇り。


「一つ!」
 大きくはりあげられたかけ声とともに空気がうなりをあげ、背中全体にはじけた激痛に、イーツェンの身がそった。苦痛の叫びをあげようとしたが、口の中に噛まされた棒のせいでくぐもった呻きしか出ない。舌を噛まない用心だろうが、おかげで息が苦しく、あごがきしんで、叫ぼうと口をあけると唇の両側から唾液がつたいおちた。
 裸の上半身に筋肉が盛り上がった屈強な男が、イーツェンの笞刑台の脇に立っている。その手から下がった縄鞭は五本の縄を柄で束ねたもので、それぞれの縄には結び目のこぶが作られ、縄にも結び目にも古い血が染みて黒ずんでいた。
「二つ!」
 痛みと衝撃に全身が打ち据えられ、息が肺から叩き出される。背中が火のように熱い。身をよじるが手足は刑台の四方にくくりつけられていて、イーツェンの体は背中をむき出しにしてぴんと平らにのばされたまま、ほとんど動かない。
「三つ!」
 その苦痛はそれまでの二つと異なり、骨を貫くようなするどい激痛にイーツェンの全身がそりかえった。狂ったようにもがこうとする。目に涙があふれ、全身から汗を吹いた。背骨が折れたような痛みが脳天から爪先まで貫き通って、肉の一つ一つが骨から剥がされるほどの苦痛に視界が薄らぐ。
 次の声とともにまた一撃が振りおろされた。
 頭の中に痛みの奔流があふれ、感覚という感覚がすべて痛みに満たされた。まともな思考が完全に吹き飛ばされる。ただ体も精神も、肉体の痛みだけしか感じることが出来なかった。
 七つを数えたところで、裸の背中に血がとびちったのを感じた。皮膚が裂けたのだろう。周囲からどよめきがあがったが、イーツェンの視界は涙と痛みににごっていて、人の顔を見る余裕などない。刑台をとりまいている見物人の中にジノンやセンドリスの顔もあったのを、引き据えられる時に目にしていたが、もうどうでもよかった。頭ごと吹きとばされたように記憶が失せ、ただ苦痛、肉片の一つ一つまでも灼き尽くすような純粋な痛みがイーツェンのすべてを押し流した。
 縄でつくられた鞭は、背中を打ち据える岩のようだった。一撃ごとに背中が粉々になる。わずかでも逃れようと身をよじるイーツェンの手首がいましめの縄にこすれて肌が裂けたが、その痛みなどほとんど感じない。背中にとびちる苦痛があまりにも強烈だった。かけらも残さず背骨が砕かれていくのではないかと、恐怖にかられたイーツェンは怯えのあまりわめきちらそうとしたが、口には棒がくわえさせられていて、くぐもった叫びは意味をなさない。
 体がバラバラになる。神経のすべてが一撃で引きちぎられる。体のこまかな一片ずつまでもが燃えさかり、その熱で彼を苦しめる。
 数の感覚を失って、時間の感覚を失った。30、とローギスは言った。だがその30が何なのか、もはやイーツェンにはわからない。一つ、また一つ。それだけを彼は感じ、それだけを数えた。この一つを耐える。ただそれだけで次のことは考えない。考えられない。ただこの一つ。一つ。一つ。
 ──次はもう耐えられない。もう、耐えられるはずがない。
 耐えられないはずだ。ほとんど彼は、自分の限界が尽きることを望む。あまりの激痛に、終わりを──それがどんな終わりであっても──望みながら、容赦なく身を打ち据える一撃にのたうった。
 砕けて、粉々になる。何度も、何度も。


 それは多分、最後の記憶。母という人の。
 夜も明ける前の冷たい朝に、膝をついて祈っていた。どこだっただろう。思い出せない。建物の中ですらなかったような気がする。身も、下についた膝も、凍るほどに冷たい。
 小さな祈りの声がきこえる。その声は苦痛に満ちて、時おり乱れる。その声はただ純粋で、自分の横にひざまずく小さな影の存在など忘れ去っているようだ。もしかしたら彼女の中はあまりにも祈りに満たされて、ほかのものが入りこむ余地などなかったのかもしれなかった。
 冷気が骨を噛む。寒さよりもほとんど痛みがギリギリと全身を締め上げ、くいこんでくる。身を支えられずに崩れ伏したが、雪の中に倒れたかのようだった。冷たい。痛い。頭が痺れて世界が千々に砕け散る。するどい破片の一つ一つが肉を裂き、彼を引きちぎる。
「──‥‥う、無理でしょう‥‥」
 水の中で聞くように遠くくぐもった声がしたが、その声が何のことを言っているのか、もはやイーツェンには理解できない。体に煮えたぎる痛みに何も考えられないまま、声の涸れたすすり泣きを洩らした。背骨からすべての肉がひきはがされたかのように、背中全体を凄まじい激痛が刺しつらぬく。肉の一片ずつが炎にくべられているようだった。
 痛みのあまり、体がふるえる。そのふるえの一つ一つが全身を串刺しにする激痛となり、イーツェンは動きをとめようとしたが、力はもうわずかも入らない。自分の体が自分のものではないようだった。何のぬくもりも、血のめぐりも感じないまま、ただ無力に横たわり、痛みだけに満たされる。
 ふるえはますます激しくなり、イーツェンは全身をがくがくと痙攣させた。とまらない。痛みと痙攣で半狂乱になる。誰かが何かを叫び、手足のいましめが外されたが、そのせいで動かされた体の痛みにイーツェンはまた叫んだ。
 ふいに口に血があふれる。誰かの手が頭の後ろの結び目をほどいて、口の棒を外した。やっと息が自由になるが、肺にも炎があふれているようだった。イーツェンは血を吐きながら何かわめこうとしたが、声が出ない。何一つ。
 苦悶のまま、閉ざされた闇に意識がすべりおち、すべてが遠くなった。