冬はゆっくりとすぎていく。
 その冬ほどイーツェンを惨めにさせたものはなかった。人の手が体をもてあそぶたびに、自分という存在がどこまでもすり減らされていく。埋めようのない空虚感はさらなる体の快楽をイーツェンに求めさせ、結果として、ひどい自己嫌悪をもたらした。いびつな悪循環に気付いていたし、心底うんざりもしていたが、わかっていてもイーツェンにはどうすることもできなかった。快楽を追う体も、はげしく拒否する心も、どちらもがイーツェンの思い通りにならず、どちらもが彼を引き裂こうとした。肉体に与えられる一瞬の火花と、心にくいこむ湿った苦痛と。両方をかかえこんで、イーツェンにはなすすべもない。
 この冬を、シゼはどこですごしているのだろうと思う。シゼの記憶をたどっている時が一番平穏で、イーツェンはソウキに時おりシゼの話をした。とりとめなく、あたりさわりのない記憶。やわらかな思い出。すべてがあまりになつかしくて、声にするのが苦しいようなこともあった。
 今、どこにいるのだろう。どこで眠り、どこで糧を得ているのだろう。どのくらい遠くにいるのだろうか、無事でいるのだろうか。
 リグの昔の術師は魂をはしらせ、山の嶺をこえて、夢で相手に心をつたえることができたと言う。子供のおとぎ話ではあったが。そんな力が自分になくて幸いだった。もしそんな力がそなわっていたなら、イーツェンは何もかもを忘れてシゼにすがりつき、彼を呼び戻そうとしただろう。
 わかっていたならきっとあの日、シゼを手放すことなどできなかった。こんなふうにシゼのいない日々、一瞬ずつをこの城で耐えるのが、心を切り刻まれるような苦痛なのだと。
 彼のくちづけの熱さを、イーツェンを抱擁した腕の強さを、体が忘れていく。イーツェンの名を呼んだ彼の声すら日々遠くなっていく。
 イーツェンをさいなむように、その年の春は遅かった。


 せっかちな渡り鳥の姿が空を横切りはじめた頃、リグとの連絡が取れないという話をオゼルクに聞かされたが、イーツェンは無関心をよそおった。
「山道が雪でふさがっているのでしょう。いつものことですよ」
「視察に向かわせた者たちも戻っていないそうだが」
「失礼ながら、オゼルク。あなたがたは冬のリグもあの山道も知らない。冬に行き来させるなど愚かなことですよ。行かせた者がリグにたどりつけたのならいずれ連絡があるでしょうし、そうでなければ、雪がとければ見つかります。山賊は、服ははいでも体までは持っていかない」
 ほとんど冷淡な、皮肉っぽくさえあるイーツェンの言葉にオゼルクは唇をすぼめたが、何も言わなかった。
 オゼルクとの会話があった翌日、イーツェンはソウキに灰の入った鉢を用意させ、蝋燭の炎ですべての手紙を燃やした。窓のない部屋に煙がよどみ、目にしみる。ゆっくりと、すべての作業を終えるまで時間がかかった。
 父の手紙、兄たちの手紙、友や導師からの数少ない手紙、妹の手紙。それらが燃え尽きると、冷えた灰を崩して表面をならした。
 次に薄い木の板に描かれた家族の肖像画を取り出し、しばらく見つめてから、それをこまかく折り砕いた。原形がなくなった破片を灰の上にのせて、ソウキにどちらも捨ててくるようたのむ。ソウキはイーツェンの作業をじっと見ていたが、何も言わずに思慮深い沈黙を保ち、すべての指示に従った。
 空気は日一日とやわらいでいく。リグの雪がとけるのはいつだろう。灰色の山肌に音もなくふりつもり、冬の間に圧しかためられて固く締まった雪の壁。それは融けるというよりも、半ば割れるように斜面からはがれ落ちて、春の訪れの前に屈する。
 冬をくぐりぬけた大地は厳しく凍てつきながら、清浄だった。冬ごとに、リグの神々は大地を洗い流して新しい息吹を吹きこむ。再生の息吹は大地の底から深い脈を呼びさまし、ゆっくりとすべてを目覚めさせていくのだ。
 そしてある日、狂ったように春の生命の奔流が押し寄せてくる。
 あざやかな木々の芽吹きの色、ぬかるんだ大地と泥の豊かな匂い。シゼを思うように、イーツェンはリグの春もなつかしく思い出す。そしてシゼの記憶と同じように、その記憶も遠くうすれつつあった。
 だが間に合うだろうと、彼は思う。すべてを忘れる前に、すべてを失う前に。彼からすべてが奪い去られてしまう前に。この茶番も、遊戯も、憎しみも、何もかもが終わる。
 もうすぐ──
 それを自分が望んでいるのか恐れているのか、イーツェンにはわからない。これほどまでに待ち望み、同時にこれほどまでに怯える。それぞれに、どちらも彼の真実だった。


 空気が春にかわりはじめたころ、じき塔に戻されるという知らせがイーツェンにとどく。だがもはやイーツェンは自分の身の回りに関心がなかった。
 晴れたが、風の強い日であった。
 イーツェンは朝から熱を出したので、蜂蜜で風味付けしたワインを少し飲んで、午後まで眠った。浅い眠りから目を覚ますと少し体が軽くなっているように思えたので、寝台から這い出す。ソウキの手を借りて着替え、ソウキにすすめられるまま、薄く切ったパンを食べた。ソウキは近ごろ、イーツェンに食事をさせるのが上手になって、あれこれと工夫しては少しずつ食べ物を取らせる。
 おかげで随分と人心地がつき、暗い部屋にとじこもっているのに嫌気もさしていたので、イーツェンは起き出すことにした。まだ疲れていたが、今夜は近ごろ珍しく小さな夜宴が予定されている。こわばった体をのばして、少しは自分が使いものになるようにしておかなければならない。
 足は自然と蔵書室へ向き、彩色本を眺めて午後をすごした。だが本をながめていてもなかなか文字が目に入らず、痛むこめかみを押し揉んだ。
 十何度目かの溜息をついていた時、蔵書室の扉が勢いよくひらいた。ほとんど叩きつけるように。
 書架の間にいた司書がとびあがるように驚く。イーツェンもぎょっとしたが、風を巻く大股で踏み込んできたオゼルクと、その背後にしたがえられた三人の兵士を見て、思わず微笑していた。
 イーツェンが笑ったのを見てオゼルクの眉がピクリと動いたが、それ以外、彼の表情は空白だった。イーツェンの座った背もたれのない長椅子の前までまっすぐに歩む。一歩ずつが何かを切り裂くように鋭い。ほとんど黒に沈んだ灰色の長いマントをひるがえし、いつもの黒ずくめのいでたちで、手にも黒い革手袋をはめていた。
「リグの第三王子、イーツェン殿下」
 オゼルクは彼を見おろし、ほとんど軽蔑のあかしのように敬称をつけくわえた。イーツェンは居ずまいを正す。
「王はそなたを審問に招いた。私とともに来ていただこう」
「王の意に従うのは、私のよろこびです」
 礼儀正しく頭を下げ、イーツェンは立ち上がる。自分でも驚くほど落ちつき払っていた。
 多分ずっと求めていたのだ。待っていた、自分をこの迷路から出す何かを。その先に待つもののことは、もはや気にならなかった。
 彼のその態度に、オゼルクはあからさまな怒りを見せてイーツェンの上腕をつかんだ。青い目にするどい──痛みのようなものがはしるのを、イーツェンは無関心に見る。
「お前は終わりだ」
 低い声で、きしるようにオゼルクは囁いた。イーツェンはまた微笑する。それは本当に純粋な微笑だった。
「とうに。ずっと前から。あなたはご存知だと思っていた、オゼルク」
「イーツェン──」
「あなたがたが少しずつ私を殺したようなものだ。今さら気にかけるなんてあなたらしくない」
 オゼルクの表情が冷え、彼はイーツェンへ歪んだ笑みを向けた。
「結構。──行こう」
 肩に手が置かれる。ほとんど親愛のあかしに見えるほど、それは慣れた仕種で。その手の重さはほとんど奇妙な感慨をイーツェンに呼びおこす。正常でもなく、まっすぐに向き合ったわけでもない、何一つ生まない関係ではあったが、オゼルクほど彼と深くかかわった人間はいなかった。自分の魂に形があるなら、きっとそこにはオゼルクの爪痕が深い傷をつくっているだろう。そして今のオゼルクの表情を見ると、オゼルクにとってもイーツェンは少なくとも「何か」であるようだった。
 蔵書室の扉脇にソウキが立ち尽くしている。つれていかれようとしているイーツェンを見つめる顔は蒼白で、茫然とした様子があまりにも可哀想になったイーツェンは、歩き抜けながらそっと声をかけた。
「ありがとう」
 それ以上長い言葉をつむぐ余裕がなかった。ソウキは目を見張ってイーツェンを見送る。
 イーツェンは廊下に立ち止まっている野次馬を無視して歩きはじめた。彼をつれていくオゼルクの足取りはいつもよりゆっくりで、珍しくイーツェンにあわせているようだった。
 ──シゼがいなくてよかったと、イーツェンは思う。ソウキの恐怖と悲嘆の表情だけで、彼の心は充分に痛んだ。もしそこに立っているのがシゼだったら、耐えられなかっただろう。そう思って、彼はかすかに微笑んだ。今はシゼは遠くにいる。
 どうか、安全な場所で。無事な旅を。その日々に光のあらんことを。
 そしていつか。
 もしいつか、魂がふたたびどこかで、出会えるならば‥‥


 王の間には異様な静けさがはりつめ、空気はまるで押し固められて凝っているかのようだった。
 王は疲れた様子で緋色の椅子に座り、その横に腰に剣を佩いたローギスが立っている。王座をはさんで逆側には無表情のジノンが立ち、二人とも足首近くまである長い緋裏のマントをまとっていた。胴着は青みがかった深い灰色で、銀糸でユクィルスの紋章が刺繍されている。ヘラジカの角に獣の爪が組み合わされた紋。その装いは二人に似合っていて、イーツェンはふいに彼らがよく似ていることに気付いた。
 ローギスの方が若く、しっかりと筋肉がついた体にどこか荒々しい雰囲気がある一方、ジノンは静謐なたたずまいですらりと背すじがのび、おだやかな威厳と言ったものを身にまとっている。だが二人ともに誇り高く、決断力を秘め、まなざしには揺るぎがなかった。
 奥が深い部屋の左右に、多くの男たちが立っている。その中にルディスの顔もあった。数名の女性もまじっており、金の髪を結い上げて男装している女性までいる。ここにいるのは地位を持ち、治政のために王に仕える女性たちだ。だが彼女たちのまなざしも男たちのものと同じほど厳しく、貫くようにイーツェンを見ていた。
 イーツェンはオゼルクにつれられて、王に向かって部屋の中央に立った。
「リグの民の王ウィハクの息子、イーツェン」
 オゼルクが一旦立ちどまって明快に告げ、イーツェンの背を押す。イーツェンはそれを合図に前に歩み出した。ゆっくりと足取りをはこぶ。
 王の左右にいた兵士がイーツェンの前に立ち、それ以上近づくなとイーツェンに無言の警告をおくる。イーツェンは彼らのかすかな合図に従い、王の手前で身をかがめて床に膝を折った。
「御前に」
 一瞬の間。人々のかるい身じろぎといくつかの咳払いがきこえた。それから、ローギスの声。
「立て」
 イーツェンは脚をつなぐ鎖が張らないよう、この城の二年間で洗練された動きで立ち上がって、王とジノンとローギスに対峙した。
 ローギスの目には容赦のない怒りがあったが、声はしっかりと感情を抑えこまれていた。
「リグは我らを裏切った」
 裏切りとは味方同士において可能なものだと、イーツェンは思う。同盟を確かなものにすると言う口実の元にイーツェンを人質に取ったユクィルスに、リグをそしる資格はあるまい。だが口をつぐんで次の言葉を待った。
「リグはユクィルスの兵を殺し、あるいはとらえ、リグから追放した。そしてリグへとつづくカル=ザラの峡道を岩でふさいだ。いかなる技をもって、山崩れがおこることを知った?」
「偶然であったとは思われませんか」
 イーツェンは、自分の声が石壁の部屋に反響するほどしっかりしているのに満足した。ふんだんにともされた蝋燭から獣脂の香りがたちのぼり、部屋には独特の匂いと緊張がたちこめている。
 ローギスがそれこそ岩をも動かしそうな視線でイーツェンをにらみ、何か言おうとした時、王をはさんだ逆側からおだやかな声がした。
「リグの民は山の民だったと聞いている」
 イーツェンは、ジノンが立つ左側へとまなざしを向ける。ジノンの声はまるで部屋で話している時のように静かで、イーツェンへとまっすぐに話しかけていた。
「カル=ザラの道は、その山の民が自らひろく切り開いた道だ。場所を選び、地面を選んだ。危険な場所は毎年見回りをし、つねに道を保ってきた。そうであろう?」
 ジノンは答えを必要としていない。それがわかったので、イーツェンはジノンがつづけるのを待った。
「その道を、山の嶺が崩れてうずめた。山の一部が丸ごと動いたような規模であったと、報告にある。ユクィルスの兵をリグの民が追放した、その三日後であった。これを偶然と思えと言うか、殿下?」
「たしかに」
 イーツェンは微笑む。かすかに、ジノンも微笑を返した気がした。ありえないことではあったが。イーツェンは微笑を残したままたずねた。
「申し上げても?」
 ジノンがローギスへ問うまなざしをおくる。ローギスが表情をかたく引き締めたままうなずいた。
「許す」
「では‥‥はじめに、感謝を」
 かるく膝をかがめて一礼してから、イーツェンはぴんと背をのばして胸に息を吸いこんだ。リグ。彼の国、今やたどりつく道を崩れた山にふさがれたあの国を思う。故郷。ついに、やったのだ、彼らは。
 その誇りと喜びを声にこめた。
「そして、我が声にて我らがリグの王の言葉を申し上げます。本日をもって、リグはユクィルスとの同盟を断つ。理由はのべるまでもありますまい。山の民には山の民の誇りがあり、生きる道があります。それはあなたがたに隷従することではない」
 イーツェンの背後でざわざわと囁きかわされる声がひろがったが、ジノンもローギスも眉ひとすじ動かさなかった。本当によく似ていると、イーツェンは思う。オゼルクの方がローギスと姿形は似ていたが、こうして見るとそんな見かけだけの相似など問題にならないほど、ローギスとジノンには似通ったところがあった。ローギスがジノンを敵視するのも無理はない。そして、もしかしたら、ジノンもローギスを。
 だがそれをたしかめるには、ジノンはあまりにも自分を覆い隠すことに長けている。そしてもはや、すべてはイーツェンに関わりないことだった。
「我らは我らの民を守り、暮らしを守り、我らの血のゆくすえを守る。カル=ザラの道は完全にふさがれ、二度と人があそこを越えることはかなわない。残るはわずかな険しい山道のみ。山の民ではないあなたがたがそこを辿ろうとするならば、すべての者が命を落とすでしょう。これは警告ではなく、かつて同盟であった者へ我らの送る最後の忠告とおこころえ下さい」
 今やその場はしんとしずまりかえり、はりつめた静寂にイーツェンの言葉だけがひびいていた。
「我らが手を下すまでもなく、山がリグを守る。山に挑む者は己の愚かさを知ることとなる」
 うたうようなふしまわしで、イーツェンは告げる。体に力が満ち、解き放たれたように心が軽い。この日がくるのをどれほど切望しただろう。どれほど、待っただろう。
「ユクィルスの王、ならびに人々よ。リグの民は、自らの自由をあなたがたへ宣する。そしてあなたがたがリグの自由をふたたび侵さぬよう願う。この日が、我らにとってよき別れの日であることを」
 王へ、ジノンへ、ローギスへ、それぞれイーツェンは小さく頭を下げてから、昂然と背をのばした。
「私は王の誓言者であり、今の言葉はリグの王ウィハクの言葉である。神々と大地と、私の母の名と私の血にかけて誓う。我、イーツェン・ゼイデ・ウィスエレサ・イリギス。この者の言葉のすべては真実であり、そして、これにて言葉を終える」
 微笑して、もう一度頭を垂れた。
 真実の名を用いて言葉を語ることがどういう意味を持つのか、ユクィルスの民にはわかるまいが、イーツェンはとにかく自分の名を告げた。これは彼の命と魂がかかった言葉であり、こうして人々の前で公然と名を言い放った以上、イーツェンはこの名を失う。名は秘められてこそ力を持つ。その力を、この言葉と引き換えにイーツェンの名は失った。
 王の間には重い沈黙がたれこめて、わずかな衣擦れさえ聞こえてこなかった。イーツェンはまっすぐに前を向いて、待つ。二年あまり、この城で待った。今さら急いて先を求めはしない。
 ローギスは炎を秘めたような目でイーツェンをにらんでいた。リグは硝石の産地とは言え、失って大きな痛手となるほど重要な存在ではないが、それでもユクィルスの誇りは傷つく。そして他の同盟や、ユクィルスが呑みこんできた領地の人々に与える影響は少なくあるまい。
 ──だが、あなたは二度とリグには手がとどかない。
 イーツェンは落ちついて、挑むような強いまなざしをローギスへ返す。彼はイーツェンを支配したかもしれない。だがリグは、イーツェンの故郷は、もはや彼の手のとどかないところにあった。イーツェンの愛した、そして愛するものは無事なところに去った。
 二人の視線がまっすぐにぶつかり、噛みあう。ローギスがこれほどまでに意志を持ってイーツェンを見たことはなかった。
「一つ問うてよいかな」
 イーツェンはローギスから視線を引きはがすようにジノンへ顔を向け、うなずいた。ジノンの表情はきびしく引き締められているが、そこに敵意はない。
「いかにして山が動く時を知った?」
「山を動かしたのは、我らでございますゆえに」
 人々の間を言葉のない声のざわめきが渡って、ジノンの口元がピクリと動いた。一瞬、彼は笑いそうに見えた。この状況をおもしろがっているのだろうかとイーツェンは疑う。
「リグの民が山を崩したというのか」
「はい」
「いかにして。呪法か?」
「半ばは。ただ、私は多くのことを知る立場にはおりません。はっきりと知るのは、我らの祖父の祖父たちがあの道を切り開いた時、同時に道をふさぐ方法も作ったということでございます。そしてその方法は、リグの守りとして当代までひそかに継がれて参りました」
 すでにして忘れられかかった技、薄らいだ記憶。言いつたえが正しいのかどうか、その技が今でも生きているのかどうかわからず、どう呼び起こせばいいのかもさだかではないままに、彼らは賭けた。そして王からあの手紙が来た時、イーツェンは彼らの努力が無駄ではなかったことを知ったのだった。
(今年はリグの冬もきびしく、岩も割れるような寒さになると空読みの者たちは申す──)
 岩を割り、山の一部を砕いて道をふさぐと、あれはリグからの知らせだった。
 カル=ザラの峡道を失うのは、リグにとっても大きな痛手だ。リグを支える交易物の多くがそこを通ってもたらされる。そのすべてを失って生きていくのはたやすいことではない。
 だが選択の余地はなかった。あのままではいずれユクィルスはリグを呑みこみ、支配し、リグという国は失われる。
 王が小さく咳きこんだ。ローギスは微動だにせずイーツェンを見据えていたが、湿った咳が途切れると口をひらいた。
「もはやリグは我らの同盟ではない。兵を殺し、我らに牙をむいて、リグは自ら敵となり裏切りを示した。リグの王子イーツェン。そなたはもはや、ユクィルスの客人ではない。そなたはもはや、我らの屋根の下で安んじることはできない」
 うしろから足音が近づく。顔を向けぬままイーツェンはそれがオゼルクのものだと感じ、肩に置かれた手が黒い手袋につつまれているのを見て、自分の正しさを悟った。
 押されるまま、床に両膝をつく。ローギスが朗々と通る声で宣した。
「そなたは裏切り者であり、罪人である」
 イーツェンは微笑してローギスを見上げた。
「そもそもこの城の客の扱いには問題がありましたよ、ローギス。失礼ながら申し上げると、あなたがたなんか、くそくらえだ」
 今度こそ本当に、ジノンの表情を笑いがよぎった。ローギスにはそこまでの余裕はないらしく、また咳こみはじめた王から離れて、彼は大股にイーツェンの目の前へ歩みよった。
 不意打ちの衝撃に脳天を吹きとばされたようだった。意識が白くなり、重い痛みと熱さが頭の中心ではじける。
 誰かがイーツェンの髪をつかんで床から引きずりおこし、イーツェンは自分が倒れていたのに気付いた。ぬるりとしたものが口元から顎へしたたっている。熱い痛みが体を引きつらせ、視界は苦痛に歪んでいた。
 ローギスに顔面を蹴られたのだ。鼻血が流れていることに気付いて拭おうとしたが、いつのまにか両腕を手首でまとめて背中にねじり上げられていた。頭が割れそうにうずいて、くいしばった口元からかすれた呻き声がこぼれた。
 耳鳴りの向こうに聞こえるジノンの声は、まだ落ちつきはらっているようだった。
「リグの王子は、自らの身を犠牲にして故国に報いた。己が身の破滅を知りながら、人質としてその身を捧げた。その覚悟と潔さに最低限の礼儀は払うべきであろう、ローギス殿下」
「ご教授感謝する、叔父上」
 氷のようなローギスの声が応じる。
 後ろからの腕にうながされ、イーツェンはどうにか足をぐらつかせながら立ち上がった。膝ががくがくと震えて今にも力が抜けそうになるが、最後の意地を振り絞る。
 ジノンが声をはりあげて命じるのが聞こえた。
「裁きは後に下す。つれていけ」
 わずかに膝を曲げて会釈を返すのがやっとだった。兵の一人に腕をつかまれて引き立てられ、イーツェンはまろぶように王の間を去る。すべてが終わった安堵で気が遠くなりそうだった。
 何もかも、すべて。イーツェンの夢も悪夢も、これで終わる。