短い夢を見た気がしたが、曖昧な意識の中で、それは色も形も持たなかった。
 イーツェンは重い目蓋をあげて、うすくらがりに浮く影を見た。細くひらいた扉の隙間から光がさしこんできており、寝室にある物の形をやさしい影にしている。
 その影が、動いた。イーツェンは思わずびくりとしたが、オゼルクは彼に背を向けていた。壁際に置いた櫃箱の前にかがみこんでいる。腰帯から取り出した鎖の鍵をえりわけ、櫃の鍵をあけた。
 蓋を開けて、一番上にのっている布袋をひょいと脇へのける。カラカラと何か固い音がした。下から小さな本と手紙の束を取り出し、オゼルクは元のように袋を戻して櫃をしめた。
 ぼんやりと見ているイーツェンに気付いて、向き直る。いつも結んでいる金髪が、今は肩から背にかけてゆるく波打っていた。
「夜明けの鐘は終わったぞ。起きろ」
「‥‥ジノンも鍵をかけていましたよ」
 まだ浮遊した意識のまま、イーツェンは呟く。身をおこし、凍えるような夜明けの空気に身をふるわせながら、毛布を肩の上までたぐりあげた。オゼルクもさすがに寒いのだろう、毛織りの肩がけに長く身をつつんでいた。
「鍵?」
「手紙の‥‥書斎の、引き出し」
 ぽつりぽつりとつけくわえる。オゼルクが肩をすくめた。
「だろうな」
「‥‥わかっててやらせたんですか。おもしろいですか?」
「お前は、わかっていないな。愉快だからやらせたわけではないぞ。私はお前が思うほど暇ではない」
 床からイーツェンの服を拾い上げ、まとめて寝台の上へ投げてきた。イーツェンはもつれた髪に手でふれて無駄な溜息をつき、自分のものではないようにぎこちない腕を服の方へのばした。
 オゼルクは肩に壁をもたせかけ、腕組みしてイーツェンをながめている。
「見つけ出せずとも、探すことに意味があるのさ。あっただろう?」
 イーツェンは含みのある言い方にすぐには反応せず、シャツをかぶった。一度拭いはしたが、肌の至るところに粘り気のようなものが残っている気がする。
 下帯をつけ、ローブに袖を通しながら、寝台からおろした足先でブーツをさぐった。ふれた指先に、床は氷のようだ。また溜息が出た。オゼルクの狙いはやはり、イーツェンの持ち帰る情報などではなかったのだろう。
「ジノンを挑発するためですか」
 オゼルクが鼻先で笑う。
「あれは用心深い男だが‥‥あえてお前を気にかけているのが、不思議だな。寝たか?」
「それはあなたには関わりない」
 はねつけるように言って、イーツェンは冷たい指先で留め紐を結びはじめた。オゼルクはイーツェンの言葉を聞き流すと、隣室へ来るよう言い置いて部屋を出ていく。
 ひえきった肌にひえきった服をまとい、イーツェンは身をかがめてブーツを足首までひっぱりあげた。靴の革帯をしめてから立ち上がって、よろめく。めまいに引きずられて床に崩れそうだった。
 小さな机に手をついて体を支えた。両手で机のはじをつかみ、わずかな動きだけで苦しくなった息をととのえる。
 うつむいた視界の中、ぽつりと机に置かれた文鎮が見えた。琥珀まじりの石の文鎮。深いところが痛んで、イーツェンは細く息を吸った。それは、レンギが使っていた文鎮だった。
 ──オゼルクは、彼を助けようとしていた‥‥
 ジノンが語った言葉は本当なのだろうか。嘘をつかれているのではないだろうかと思いながら、ジノンにイーツェンをあざむく理由があるとも思えない。だがどうしても、イーツェンはジノンが語るオゼルクと、シゼやレンギから察したオゼルクの姿とを重なり合わせることができない。あまりにもわからないことが多すぎる。
 何故この文鎮を、オゼルクは寝室に置き続けているのだろう‥‥?
 右手をのばして、イーツェンはその石を手に取る。氷をつかんだようだった。ずしりと重く、かたく、冷たい。うす暗い寝室で琥珀はくろぐろと沈んで見え、その重みを強く握ると、痺れるほどの冷たさが手のひらを灼いた。ほとんど火傷のような痛みだった。
 何かに耐えるように、イーツェンはさらに強く指をくいこませる。
 その時、文鎮の裏に何かのすじが見えて、彼は目をほそめた。傷だろうか。
 開いた扉の隙間へそっと近づけて、隣室からの光にかざす。
「‥‥‥」
 平らに磨かれた裏の一部、琥珀のやわらかい表面と黒い石とにまたがって、あきらかに人の手で傷が刻みこまれている。レンギが刻んだものか、オゼルクが刻んだものか。それは文字のようだったが、ユクィルスの文字ではない。
 いびつな線を目で追っていると、隣室で足音がした。イーツェンはあわてて机に文鎮を戻し、髪をとりつくろいながら歩き出す。これを見ていることを、オゼルクに知られるわけにはいかない気がした。
 息をととのえながら寝室を出ると、暖炉の火がおざなりにかきたてられていた。イーツェンは重苦しい体を引きずるように炎へ近づき、足置きを前に寄せて座りこんだ。
 ただ、寒い。寒さが身の内に棲みついてしまった気がする。ふるえる手でマントをかきあわせた。
 火のそばに林檎酒の壺が置いてある。オゼルクがそれを取り上げると自分とイーツェンに酒を注ぎ、自分も火のそばに立ってたずねた。
「センドリスに会ったと言ったな」
 イーツェンは小さくうなずいて、まだ冷たい林檎酒をすすった。昨夜、ほとんど寝入る寸前に、ジノンの屋敷で誰と会ったのかについては問われて話をした。イーツェンが予想した通り、あの陽気な男の訪問にオゼルクは興味を持ったようだった。
 だがオゼルクが発した問いは、イーツェンを面食らわせるものだった。
「ジノンの家に黒髪の女はいなかったか? それとも、遠乗りの先で。一緒に遠乗りには出たんだろう? その先でジノンと親しそうな女を見なかったか?」
 問いに、イーツェンは首を振った。ジノンはたしかに数度、遠乗りにイーツェンをともなった。イーツェンが枷をつけずに外に出るのは禁止されているはずだったが、馬にまたがって風の中を走るのはあまりに魅力的な提案だったので、イーツェンは黙ってジノンが許してくれた時間を楽しんだ。
 だが、いずれもそれほど遠出ではなかったし、立ち寄った先でも、オゼルクが特に聞きたがるようなことはなかった。
 オゼルクは失望した様子もなく、引き出しから取り上げた骨の櫛で軽く髪をととのえ、紐で雑にまとめた。侍従はもちろんいるのだが、オゼルクはたいがい身の回りのことは自分で片づける。他人をあまり信用していないように見えた。
 座り込んでいるイーツェンの背後へ回って、今度はもつれたイーツェンの髪に櫛を入れはじめる。こういうことをいきなり気軽にやるのが、オゼルクのよくわからないところだった。イーツェンが居心地の悪い思いをしているのを楽しんでいるのか、単なる時間つぶしの手慰みか──両方だろうと、イーツェンは思う。
「女性ひとりの客はいませんでしたよ。夫婦の方はいらっしゃいましたが。誰かお探しなんですか」
「ジノンの女だ」
「黒髪の?」
 疲れて重苦しい気分の底で、ふっと好奇心が頭をもたげた。ジノンに恋人がいるという気配を感じたこともなければ、ジノンがそぶりに出したこともない。だがオゼルクには相手の目星がついているらしい。
「そうだよ。お前の髪ほど黒くはなかったと思うがな」
 イーツェンの髪の間に、オゼルクが目的のない指先をくぐらせる。うなじのあたりがざわついて、イーツェンは首をすくめた。
「ご存知の人なんですか」
「昔な。見たことだけはある。ジノンがまだお前くらいの年の頃か、機織り部屋の娘に手を付けた。はらんだ、という噂もあったらしいが」
 イーツェンはすっと背すじが冷えるのを感じた。ジノンは王の許可のない婚姻も、子を為すことも許されていない筈だった。彼の母が、かつての巫女の血を遠く引いているという、それだけのために。
「‥‥その人は?」
「消えた。王が裏で手を回して、内々に片をつけた──どう片をつけたのかまでは、わからん。私も最近聞いた話でな。だがどうもその時、センドリスを使ったらしい」
 思わず振り向いたイーツェンに、オゼルクがうなずいてみせた。
「娘を殺したか、子流し女のところにつれていってから追い払ったか。とにかくセンドリスは娘を消し、それきりジノンも城から遠ざかった。この二人が今になって親しいというのは、奇妙な話だとは思わんか?」
 イーツェンはまばたきした。
「あなたは‥‥彼らが組んでいたと思っているんですか? ジノンの恋人を助けて‥‥まだ、その人とジノンは‥‥」
「さてな。だが、もしセンドリスが女を片づけるふりをしたのだとすれば、彼らが近しいことには納得がいく。だろう?」
 手が離れ、オゼルクは物静かな足音を踏んで窓際へ歩みよった。もし城から隠された恋人がいるというなら、その存在はジノンの弱みになる。オゼルクが探り出そうとしているのはそういうことだろう。
 イーツェンは、肩をつつむ毛織りのマントの合わせを内側からかきあわせながら、用心深くこたえた。
「ジノンも、その時の真相をさぐってセンドリスに近づいたのかもしれませんよ」
「叔父は、思い出を追うほど感傷的な人間ではないと思うがな」
 ぽつりと、水滴が落ちるように呟いて、オゼルクは窓の向こうに何かを見ていた。淡い朝の光がくもった色で彼の輪郭を浮かび上がらせている。暖炉に埋み火をかき立てはしたが、炎は半ば灰色の薪の中で弱々しく、二人の口元で白い息が散った。
 少しして、ひとりごとのようにオゼルクが続けた。
「去年、な。ジノンは黒瑪瑙が柄にはまったそろいの短剣を二つ、つくらせている。片方は本人が身に付けているのを見たことがあるが‥‥もう一本を、誰にやったのだろうな」
「‥‥‥」
 黙ったままイーツェンは床に落ちる窓格子の影を見つめた。言われてみれば、夜宴でジノンがそんな短剣を身に付けているのを見たような気もするが、記憶はさだかでない。
 かるいめまいがして、頭を振った。
「もし、恋人をこっそりかくまっていたとしても、私に見せるようなことはしませんよ。ジノンは私を信用していない」
 自嘲をこめて苦々しいイーツェンの言葉に、オゼルクは何も言わなかった。そんなことはわかりきっているのだろう。
 誰も彼を信じていないと、イーツェンは思う。イーツェンを信じ、信頼するものは誰もいない。そしてイーツェンも誰ひとり信じていなかった。シゼが去ってから。
 ローギスやオゼルクを信じられず、ジノンを信じられない。そして何よりイーツェンは、もう自分自身を信じていなかった。


 数日たって、イーツェンは夕食の席にジノンが戻っているのに気付いた。
 ジノンは屋敷から城へ戻らず、そのまま己の管轄する砦へ行っていた。そもそも年の半分近くはその砦につめているらしい。近ごろ城に長くいた方が珍しいらしかった。
 砦での用も終えたのか、城に立ち戻ったジノンは隣にイーツェンの知らない客をともなっていて、何か話しながら食事をとっていた。
 食事の途中でもう一度イーツェンがそちらを見やると、ジノンの隣の空席にいつのまにかオゼルクが座っていて、イーツェンはむせ返りそうに驚いた。ジノンが固いパンをエールの粥に浸しながらイーツェンを見て、挨拶するように指を少しだけ上げた。
 何となく赤面し、イーツェンは頭を下げて自分の皿に目を戻す。乾燥豆と大麦をエールで煮込んだ粥に、香りの強いくず肉の煮込み。たっぷりとした香辛料に漬けてよく煮込んだ肉を壺に詰め、上から獣脂をかぶせて保存したものだ。肉は獣脂にぎとついているが、ピリリと舌先にはしる香辛料の清涼感があって美味しかった。ただ、イーツェンには食欲がない。
 下を向いて肉をつついていると、視界のすみでジノンとオゼルクが客をまじえて話し合っているのが見えた。あそこには決して近寄るまいと、イーツェンは心に決める。
 幸い引き止められることもなく、食事もそこそこに冷たい自室へ引き上げた。
 ソウキが灯をともしてきた蝋燭を受け取り、机に置く。冬になって油の割り当てが減り、質の悪い、細い蝋燭を一本もらえるだけのこともあった。
 毛布を肩から膝までかけて、くるまりながら椅子で体を丸める。何か手紙のようなものをまた書こうかと思った。故郷に、あるいはシゼに。だが何も心に浮かばなかった。
 本を読むには、獣脂の蝋燭一本は暗い。しばらく何もしないでいると気が鬱々としてきて、イーツェンはかかえた膝に顎をのせ、先日習った警句の暗誦をはじめた。はじめは気がのらなかったが、口を動かしていると気が紛れるし、いい復習にもなる。ひととおり通してさらうと、リグの祈りも口にのせてみた。
 胸の内で呟くことはあっても、祈りを声に出すのは久々だった。意味のわからない、それこそ呪文のような言葉があちこちにちりばめられた祈りをくりかえし唱えていると、心がしんと静まってくるのを感じた。
 唱えながら、蝋板にリグの文字で言葉をうつしとってみる。目的もなく無為につづられた文字が、何だかなつかしい。シゼにこれを教えてみればよかったのかもしれないと、ふいに思った。リグの文字を教えてくれと乞われて、あの時はユクィルスの書き取り歌を元にして教えてみたのだが。
 シゼがリグの文字を書くことは、二度とないのだろう。彼にとっては何の役にも立たない字だ。今になってみると、シゼがどうしてリグの字を覚えたいなどと言ったのかわからなかった。
 ──いや。イーツェンには、その理由がよくわかっていた。
 励ましの言葉や気休めを口にはしなかったが、シゼはいつでもイーツェンに誠実だった。イーツェンのために、自分にとっては何一つ意味のない文字をおぼえようとした。リグの話をし、リグの文字を書き、そうやって、イーツェンと故郷とのつながりを忘れさせまいとした。
(いつか‥‥)
 もう一枚の蝋板を手に取ると、シゼの言葉がうっすらと残る表面をなでる。そのまま、イーツェンはしばらく考え込んでいた。
 やがて溜息をつき、蝋板をしまう。体が冷えきっていた。そろそろ、眠る準備にソウキがあたためられた煉瓦を持ってきてもいい頃だが、と蝋燭の長さを見てから、イーツェンはベルを鳴らした。
 珍しいほどの間があって、続き部屋に控えていた筈のソウキが入ってくる。少年は目を伏せて一礼した。
「お呼びですか」
「外してくれるか」
 イーツェンは自分の脚をさす。ソウキは黙ったままイーツェンの前に膝をついた。
 奇妙な匂いをかいだ気がして、イーツェンは眉をよせた。ソウキが待っているのでローブの留め紐を外して脇をひらき、脚をさらけだしながら、彼はじっとソウキの顔を見つめた。
 下を向いて鍵を取り出し、ソウキはイーツェンの枷へ鍵を差しこむ。やせた目元に髪の影が落ち、ただでさえ表情にとぼしいソウキをさらに陰気な顔つきにしていた。
 カチリ、と鍵が外される。椅子に浅く腰掛けたイーツェンの脚から枷を取り去り、ソウキは何も口をきかないまま一礼した。珍しい。そのまま背を向けようとする少年の腕を、イーツェンは立ち上がってつかんだ。
 ソウキが狼狽に目を見ひらく。
「殿下──」
 青臭い匂い。イーツェンはふっと吐き気をもよおす。顔を近づけてソウキの呼気を嗅ぎ、彼の唇のはじに拭いきれなかったものがかすかに白く残っているのを見た。怯えて口を隠そうとする少年の、すくみあがった表情も。まるで自分の罪であるかのように恐れて固く身をちぢめる姿に、カッと頭に血がのぼった。
 イーツェンは勢いよく身を翻したが、一歩目でまだローブの脇をはだけていたのに気付いた。紐を結ぶ。苛々とした指で服をとりつくろうと、叩きつけるように扉をあけて、続きの控室へ踏み込んだ。
 番兵にわりあてられたその部屋には二人の兵がいた。かたい木の長椅子に座って何やら低く会話をしていた二人は、イーツェンを見て意外そうに居ずまいを正したが、立ち上がろうとはしなかった。礼儀にもとるが、珍しいことではない。
 イーツェンは二人の前へつかつかと歩みより、居丈高に言った。
「どちらだ。それとも両方か?」
「は?」
 二人は顔を見合わせる。イーツェンは二人をにらんだまま、扉脇に所在なげに立ち尽くしているソウキへ片手を振った。
 とぼけようとしていたのだろうが、イーツェンから見て右側の男の唇が歪んだ。小さな苦笑。二人がちらりと意味ありげに交わした視線を、イーツェンは見逃さなかった。
「貴様か」
 さらに一歩つめよって、イーツェンは右の男の頬を平手で殴りつけた。不意をつかれた男の頬が高い音をたて、もう一人が気色ばんで立ち上がった。イーツェンは胸と胸をつきあわせるように真っ向から対峙し、低い、だが力のこもった声を叩きつけた。
「私の従僕に手を出すな。二度と、指をふれるな」
 殴られた男が立ち上がり、喉の奥でうなった。威圧的にせまる男へ向き直って、イーツェンは冷たく命じる。
「返事をしろ」
「‥‥しなかったらどうします」
 慇懃な口調で、男は歪んだ笑みをうかべる。頬をさすっていた手をのばし、イーツェンの肩をつかんだ。
「それとも、あんたがその口でかわりをしてくれますか? 尻でもいいですよ。あのお上品な連中はさんざん楽しませてやってるんだろう?」
「──」
「気取った顔で、てめぇだってやることやってるんだろうが」
 粗野な口調が剥き出しになる。それがこの男の地金か、イーツェンをのぞきこむ目に粘るような光があった。
 イーツェンはゆっくりと右手をあげ、男の手首をつかんだ。相手の方が少しイーツェンより目の位置が高く、荒々しい目つきで見おろされていたが、つたわってくるうすっぺらな敵意はイーツェンを追いつめるものではなかった。彼はこれよりはるかに暗く、救いのないものの存在を知っていた。
 耳にきこえてくる自分の声は異様なほど静かだった。
「お前もやりたいか? なら、お前の選ぶ道は二つだ。私に力づくで "かわりをさせ" 、城の客人を侮辱した罪として鞭打ちの罰を受けるか、この手をおろして私の言葉に従うか。選択はお前のものだ。好きな方を選べ。自分の身を賭けて私を選ぶと言うならそれはそれで光栄なことだが、私には歯があることも忘れるな」
 男の口元がピクリと引きつったが、凶暴な笑いはまだそこにあった。イーツェンはもう一人の男へちらりと目を向ける。
「そこにいるなら、お前も同罪だ。同じ行為に手を染めるか、己の役目をわきまえるか。──選べ!」
 するどい叱咤に、離れた男がビクリと身を揺らした。イーツェンをつかんだままの男へ声をかける。
「おい‥‥」
「──」
 イーツェンは待った。自分の言葉の意味が、しっかりとしみ込んでいくまで。やがて、もう一人が再度呼んだ。
「おい」
「‥‥クソッ」
 呻くように喉でうなって、男は手を引く。イーツェンも男の手首を離した。
 一歩下がり、強い目で男を見据える。念を押した。
「あの子に手をふれるな。いいな?」
「‥‥わかりましたよ」
 ふてくされた返事ではあったが、男はうなずいた。イーツェンがもう片方に目を向けると、彼もうなずいて服従をあらわすように右の拳で胸にふれた。
 イーツェンは小さい首肯を返すと、二人の顔を眺めわたした。あえておだやかな声で、
「わかってくれたことに感謝する。騒がせてすまなかったな」
 二人へくるりと背を向ける。首根をうしろからつかまれるのではないかと警戒したが、何もおこらず、イーツェンは扉口に呆然と突っ立ったままのソウキへ歩みよった。蒼白な顔でイーツェンを凝視する少年の肩をかるく──本当にかるく、叩く。
「煉瓦を取ってきてくれないか」
「はいっ、すぐに」
 消え入るような声でこたえて、ソウキは半ば駆け出した。
 部屋へ入るとイーツェンは後ろ手に扉をしめ、扉によりかかったままその場にへたりこんだ。脱力してすぐには立ち上がれない。体の小さな震えが緊張から解き放たれたためなのか、怒りの名残りなのか、よくわからなかった。
 しばらく、息をととのえながら、男を殴った右手を見ていた。震えがゆっくりと収まっていく。何も考えずに殴ったが、あの瞬間に自分をつき動かした怒りと憎しみのあざやかさは焼きつくように覚えていた。
 布でくるんだ煉瓦をかかえたソウキが息せききって戻った時、イーツェンは何事もなかったかのように椅子に座っていた。
 ソウキは大あわてでイーツェンの寝台をととのえる。その間ずっと何か言いたそうにイーツェンをちらちら見ていたが、かと言ってこういう時に「どうした」などと聞こうものなら萎縮してしまうのがこの少年なので、イーツェンは気付かないふりをしてブーツを脱いでいた。
 結局、何も言い出さない。イーツェンは体から取ったローブを籠に放りこみ、肌着姿で毛布へもぐりこみながらソウキへ声をかけた。
「お前は厨房の者といっしょに眠っているんだろう?」
「あ、はい、そうです」
 ローブをたたみなおし、肩がけを腕にかかえて、ソウキはいつもの少しあわてた様子で答えた。
 厨房の使い走りの少年などが一室によりあつまって眠っているらしいのだが、ソウキも彼らにまざっている。ちらりと話を聞くに狭そうだったが、少なくとも凍える心配はない。
「そこは安全か?」
 なるべく何でもないような調子でたずねると、ソウキは目を大きくしてうなずいた。イーツェンもうなずきを返す。
「では、夜は今まで通りそっちで眠ればいい。ただ昼間、控え部屋で待つのをやめよう。明日からこの部屋にいていい。お前が居やすいように場所をつくるから」
「そんな、滅相もな──」
「控え部屋の方がいいか?」
 たずねるとソウキは身をすくめ、少ししてから黙って首を振った。
 一体いつから、暇つぶしにソウキを慰みものにするようなことが行われていたのだろう。気付かなかった。気付こうとしなかった自分自身に、イーツェンは怒りと罪悪感の入り混じった痛みを感じた。
 ふいにソウキが伏せていた目を上げ、思い切った様子でイーツェンと視線を合わせた。
「ですが‥‥殿下は、私がお嫌いなのでは‥‥」
「何で」
 心底おどろいて、イーツェンは反射的に問い返していた。その声が少し強かったからだろう、少年はぱっと頬に赤みをのぼらせ、また顔を伏せた。
 イーツェンは強く己を恥じる。ソウキが自分に必要以上に近づかないのをいいことに、彼をほとんど物のように扱っていたのはイーツェンも同じだった。見知らぬ異国の人間、それも枷をはめられた相手に仕えることになったソウキが怯えているのを知りながら、それをそのままにしておいた。ジノンの屋敷でもほとんどソウキと顔を合わせることはなく、その状況にほっとしてすらいたのだ。
 ソウキが嫌われていると思うのも、無理はない。イーツェンの不興をかわないよう必死にもなる筈だった。
 消えてしまいたいかのように身をちぢめて立ち尽くしている少年の姿を見つめ、イーツェンはできるかぎり抑えた声を出した。
「ソウキ。‥‥お前の前に私についていた男は、二年の間、私のそばにいた。私たちは仕える者と仕えられる者でもあったが、同時に友人だった。とても‥‥かけがえのない、大切な友だった。だがどうしてもさけられない理由があって、彼は城を去った」
 ソウキは床の羽目板を凝視している。イーツェンはつづけた。
「私は、彼がいなくなったことに、まだ慣れることができない。‥‥正直に言って、彼がいなくて本当に淋しい。まるで体が引き裂かれたような気がするし、できることなら今でも会いたい」
 なるべくおだやかに言ったつもりだったが、我知らず声にこめられたものを感じとったのか、ソウキが顔を上げてイーツェンを見た。イーツェンは痛みをこらえて微笑する。シゼならこの少年を助けようとしただろう。少なくとも、彼を助けようとするイーツェンの思いを理解して、力を貸してくれた筈だった。
「もし私が、お前を冷たく扱っていたように思えたなら、そのせいだ。私がまだ、変わってしまった物事にうまくなじめずに、すぎたものをなつかしがってばかりいるからだ。お前のせいじゃない。お前を避けているわけでも、嫌っているわけでもない。本当だ。そんなふうに思わせてすまなかった。許してほしい」
「いえ‥‥」
 ソウキは何度も首を振って、大きく息をつき、寝台へ歩みよった。かかえていた肩がけを毛布の上にひろげ、イーツェンの首が寒くないかたしかめてから一歩下がった。
 大きな目でイーツェンを見つめる。いつものおどおどと人をうかがう目ではなく、何かを訴える、まっすぐなまなざしだった。
「‥‥ありがとうございました」
 かぼそいが、真摯な声。
 イーツェンは一瞬おどろいてから、心からの微笑を返した。ソウキも淡い笑みをうかべる。炎の影にまぎれそうなほどかすかな、しかしそれは、はじめて見る彼のあたたかな表情だった。その小さなあたたかさが、イーツェンの胸に直接つたわってくる。
「失礼します」
 ソウキがことわって、机の蝋燭を吹き消した。暗がりの中、コトコトと足音が遠ざかる。一瞬開いた扉に少年の姿が逆光に浮いて、すぐに闇がすべてを覆った。
 イーツェンは目をとじる。目の内にも同じ闇があった。横に倒した身を丸め、膝をかかえるように小さくなって眠りを待つ。今夜は、いつもよりおだやかに眠れそうな気がした。