眠れない──


 城の夜はいつも死んだように静かだ。
 冬なのに汗のにじむ体を、冷たい毛布の中で幾度もころがして寝返りを打つ。眠れないのに、意識を明晰に保っておくこともできない。浅くよどんだまどろみの中で、出口のないことばかりを考え続ける。
 これなら誰かに抱かれていた方がましかもしれないと、ひとりで苦く笑った。人の匂いのしみついた体を丸めて泥のような眠りをむさぼるのと、ただ息苦しく闇の中に横たわって朝を待つのと、どちらがいいのだろう。もし自分で選ぶことができるとしたら、彼はどちらを選ぶだろうか。
 遠く、城の鐘の音がきこえる。うっすらと、地平の果てから夜が明けていく。そうやってまた一晩がすぎ、また一日がはじまる。くりかえし、くりかえし。


 ジノンの屋敷で一月近くをすごしてからイーツェンが城へ戻ると、城は変貌していた。
 城が建つ小高い丘は、元から草木が切り払われてまばらな茂みがちらばるばかりではあったが、今やそのすべてが徹底して取り除かれ、小さな潅木もわずかな草むらも、残らず抜かれていた。むきだしになった地面の、寒々しい灰色が城を取り囲んでいる。
 城までの道に遮蔽物が一切なくなり、丘にきざまれた道をのぼってゆく人々の姿が、城から一目瞭然となっていた。
 防備を固めはじめているということだろう。それと関係があるのか、オゼルクもローギスも忙しそうで、じかに会う機会もなく、イーツェンは思いのほか平穏に日々をすごしていた。
 冬の城には、いつもはいない珍しい食客も滞在している。それを聞き、いい機会だと思ってイーツェンは数人と話をした。自分で手紙をしたため、失礼ながらとたのみこんで、相手の部屋で短い歓談の時間を持ってもらう。特に、貴石のたぐいを扱う商人の話はおもしろく、もしかしたらリグの山でも他国で珍重されるような色石が採れるのではないかと、イーツェンは根拠のない空想をたのしんだりもした。
 商人が言うには、研磨によって多くの石がまるで異なる顔を見せる。彼の扱う石が高く売れるのも、石のよしあしよりも、腕のよい職人をこっそりと探し出して専属の工房をかまえさせているからなのだと、上機嫌でイーツェンへ打ち明けた。
 イーツェンが人質だと知ってか、会うのを拒む者もいたが、イーツェンは気にしなかった。自分のことをろくに知らない相手が何を思おうと、どうでもいい。いくら軽んじられ、時に蔑まれようとも、それはイーツェンの地位や立場への蔑視であって、イーツェン本人を見下しているわけではなかった。
 厳しくなった冬の寒さをおもんばかって、イーツェンの住まいは一時的に城の本館にうつされた。ほこりっぽい小さな、窓のない部屋で、番兵のいる続き部屋を通らないと廊下に出られない。今さら不服を言いはしなかったが、イーツェンは日中の多くを蔵書室で費やした。
 蔵書室にはレンギの記憶がある。そしてレンギの記憶は、常にシゼの記憶を呼びさました。あの夏。彼らが三人でいた夏。気の向くままにささいなことばかりイーツェンは語り、レンギは冗談めいた相槌でまぜかえし、シゼはそんな二人に時おり微笑していた。  そんな記憶をひとり静かにひもときながら、イーツェンはいくつか手紙を書いた。紙にではなく、蝋板に。父や兄、妹、故郷の友人、導師、そしてシゼに、とりとめなく物事をつづっては消す。とどかない言葉をくりかえしくりかえし、自分の思いを文字にしながら、遠い何かを見つめていた。


 向かいから大股で歩いてくるルディスの顔を認めた瞬間、反射的にイーツェンの体がすくんだ。のがれる場所を探したが、入れる曲がり角もなく、背を向けて駆け出そうかとまで思いつめたが、それではかえって相手の注意を引きそうだった。逃げたら、追われる。それは確実だ。
 何でもないような表情をとりつくろって、ごく自然にルディスとすれちがおうとする。
 だがイーツェンに気付いたルディスは、まっすぐに歩みよってきた。イーツェンに従う兵を片手で下がらせ、体をよせながら右手を肩に回して、親しげに笑いかけた。
「やあ」
 城の回廊に今は彼らのほかに人の姿がないが、決して人目のない場所ではない。イーツェンは失礼にならない程度に体を離そうとしたが、執拗に彼を引き寄せるルディスの息からは、鼻を刺す酒香が漂った。
 イーツェンは顔をしかめる。
「‥‥酔っているんですか」
「だったらどうした?」
 ルディスの体重が肩にかかり、体が傾きそうになった。後ろにつき従っていた番兵に視線をやっても、相手は無表情につっ立ったまま反応はない。ルディスが王族だからだろう。イーツェンはルディスから体を引きはがそうとしたが、首に手を回しながら全身でもたれてくるルディスはひどく重く、二人はもつれるように壁際までよろめいた。壁の円柱に、イーツェンの肩がぶつかる。
「痛っ。ルディス──」
 首すじに顔を伏せられた。なまあたたかい息が高襟とあごの間を這って、イーツェンは驚愕に目を見開いた。こんなところで何をしようとしているのだ。ルディスの肩をつかんでゆすった。
「ルディス! 場所をわきまえて下さい」
 ルディスが顔を上げる。イーツェンをのぞきこむ目はどんよりと眠そうに目蓋がゆるんで、白目がうっすらと赤い。そのくせ眼光は野犬のようにギラついていた。
 ニッと唇をひらいて、酒くさい息を吐いた。
「場所をうつせばかまわないか?」
「そんなことを言っているんじゃない──」
 突き放す。思いのほかに力がこもって、ゆらいだルディスの上体が後ろに倒れかかった。右肩が大きく倒れ、体をねじって足を踏んばろうとする。あっとイーツェンが息を呑んだ瞬間、ルディスはよろめきながらぐるりと一転し、手の甲でイーツェンの頬を殴りつけようとした。
 視界に、ルディスの手が大きくかぶさってくる。動け、とイーツェンは自分に命じた。動け。よけろ。危機をはっきり感じているのに、体が硬直して動かない。力をこめる。シゼに教わったように、まず胸の中心──心臓から。熱を感じる。胸元へ、肩へ、腕へ──
 動く。動ける。体に血がめぐるのを感じた。
 身をひねろうとしたが、わずかに一瞬後れを取っていた。ルディスの手はイーツェンの右のこめかみを打ち、目元をかすめて、痛みがはじけた瞬間、イーツェンの視界は赤い光に呑みこまれた。
 右目が痛んで目を開けていられない。痺れたように熱い目から涙が次々とあふれ、頬をつたった。イーツェンは柱に背をもたせかけて体を支え、右目を覆った。ルディスが自分に手をさしのべるのが半分になった視界に見えたが、左手でそれを振り払う。
「放っといて下さい」
 ルディスの表情は見えなかったが、手はそれ以上のびてこなかった。不規則な足音が走るように遠ざかっていく。
 イーツェンは右手で目をおさえ、うつむいたまま歩き出した。殴られたこめかみもじんじんとうずく。目の痛みに気を取られて足元がおぼつかず、鎖がもつれそうだったが、足をとめると今にも何かに追いつかれそうな気がした。


 顔を押さえて入ってきたイーツェンを見て、オゼルクは何も言わずにまずソファへ座らせた。イーツェンの頬に手をあてて上を向かせる。右目を覆ったままのイーツェンをのぞきこんでたずねた。
「療法師を呼ぶか?」
「‥‥‥」
 イーツェンは首を振る。手の下の右目はまだ痛みに脈打ち、涙はとまっていなかったが、ぼんやりとした視界が戻ってきていた。
 オゼルクが水盤の水に浸した布をイーツェンに手渡した。イーツェンはひんやりする布を左目にあて、熱をもった目を冷やしながら溜息をついた。
「‥‥すみません」
「ルディスか?」
 低いテーブルの上に腰をおろして両膝に肘を置き、オゼルクはじっとイーツェンを見やる。イーツェンが驚いて顔を上げると、彼はかるく唇のはじを持ち上げた。
「ついさっきここに来たが、酔っていて機嫌が悪かったのでな。そこで鉢合わせたか?」
「‥‥何かあったんですか」
「何も。まあ、ルディスが遠縁の城の相続権を主張して、しりぞけられたりしたが。私に、彼のための証人として立てと言う」
 立ち上がって棚に歩みよると、オゼルクは細長い錫の杯に林檎酒を二杯つぎ、水で薄めた片方をイーツェンの前に置いた。
「文句を言わずに去年、結婚すればよかったのだ。そうすれば、小さいが一城の主にもなれた。なのに、持参金が気に入らんと話を蹴ったりするから」
 クスッと笑った。
「今になって慌てることになる。城がほしいの、自分の傘下に騎士がほしいのと」
 イーツェンは右目から布を離してみる。視界がにじんでいた。おそるおそるまばたきすると、刺すような痛みが眼球の中心を貫く。顔をしかめてまた布でおさえた。爪の先でもかすめたのだろう。
「‥‥ルディスも遠征に加わりたがっているんですか?」
 いきなり城を手に入れて騎士を集めたがる理由など、それくらいしか思いつかない。オゼルクは鼻を鳴らした。
「一人で討伐すると言っている」
 これにはイーツェンも思わず笑っていた。イーツェンにすら、その言葉が現実的でないのはわかる。オゼルクも笑って、林檎酒を一口含んだ。
 杯を置く。
「見せてみろ」
 イーツェンの顎に指をかけて上を向かせた。イーツェンは顔からそろそろと布を外し、まだぼやける右の視界に軽いめまいを感じながら、オゼルクを見た。まばたきすると痛むので、つい目を見開いてしまう。ふっとオゼルクの顔が近づき、反射的に身がこわばったが、オゼルクは間近からイーツェンの右目をじっと検分しただけで離れた。
「目が赤くなっているが、傷はついてないようだ。見えるか?」
「大丈夫です」
 イーツェンはうなずき、目のふちに溜まった涙を拭った。右目をつむって、目蓋をそっとおさえる。眼球が熱を持ってうずくようだったが、痛みは一時よりおさまっていた。
 オゼルクがイーツェンを見て何か言おうとした時、扉を打つ音がひびいた。せわしない。その叩き方に思い当たるものがあったのか、オゼルクは舌打ちすると室内用のマントを翻して立ち上がった。
「話はまただ。夕食後」
 そう言い残すと大股に部屋を横切り、イーツェンを残して出ていってしまう。ジノンに関する報告はその時に聞くと言うことだろう。
 イーツェンは溜息をついて、目を押さえたまま林檎酒を一口すすった。話半ばだったせいだろうが、オゼルクが優しいと奇妙に調子が狂う。たとえそれが、つないでいる犬の頭を気まぐれになでる程度のものであっても。


 夕食の席にもオゼルクはいなかったが、彼の部屋で待つようイーツェンにことづてがあった。言われるように待ったが、夜が更けてもオゼルクは戻らない。イーツェンは書棚から小さな二つ綴じの蝋板を見つけ出すと、中に簡単な伝言を書き、テーブルにそれを置いて自室へ戻ろうとした。
 控えの間で待っていたソウキにうなずき、廊下へ向かおうとしたまさにその時、扉がひらいて、イーツェンは立ちすくんだ。オゼルクが入ってくる。後ろめたいことをしていたわけではないが、思わずたじろいで目を伏せた。
 オゼルクがすぐ目の前で立ち止まった。
「待っていろと言った筈だ」
「‥‥遅くなりましたので、もうお戻りにならないかと」
 用心深く、イーツェンはうつむいて答える。オゼルクはイーツェンのあごをくいとつかむと、顔をのぞきこんだ。
「目は大丈夫そうだな」
「‥‥‥」
 小さくうなずくイーツェンをまだじっと見ていたが、部屋へ戻るよう肩を押した。どこへ行っていたのか、オゼルクの服からかすかな香油の匂いを、イーツェンはかぎ取る。甘い香りは、城の女性が髪によくつけている匂いだった。
 密会でもしていたのだろうか。それなら今夜の話し合いも早く片づきそうだと望みをかけたが、部屋に入るとオゼルクは、イーツェンをつきとばすようにソファへ座らせた。上からのしかかるようにイーツェンへ唇を重ねる。
 どこにいたのかその唇は冷たく、身ぶるいするイーツェンの歯をこじあけるように熱い舌が入りこんできた。唾液がまとわりつく舌の表面はざらついていて、生あたたかい。人の体のもつ熱さがイーツェンの口腔を刺激する。深く、強く入りこんでくる舌を拒めずに、イーツェンは口を開いた。
 上あごの内側、歯の根元にそうように舌がなぞっていく。オゼルクの舌先が動くたびに首すじがざわついた。体の内側を奇妙な浮遊感が抜けて、肌の内側が湿る。オゼルクの唇が動いてイーツェンの唇を強くとらえなおし、舌を絡めると、濡れた音がたつほど吸い上げた。舌全体が生き物のように互いの粘膜をこすりあわせ、相手を味わう。慣れた行為を何も考えずにたどりだす自分の体に、イーツェンはぞっとした。
 唇が離れ、イーツェンは荒い息をついて顔をそむけた。オゼルクが近くにいるせいで、なおさら香油の甘い匂いがはっきり漂う。どうしてか、その香りはひどくイーツェンをみじめな気持ちにした。
「‥‥嫌だ、オゼルク」
「どうして」
 オゼルクは目をほそめる。おもしろがっている様子でイーツェンの左手を引き寄せ、手の甲に唇を這わせた。イーツェンがその手を引くと、ゆっくりと笑った。
「嫌なら、どうする。助けでも呼ぶか?」
「‥‥‥」
 イーツェンは唇を噛んで黙った。オゼルクは微笑を残したまま、イーツェンの太腿に服の上から指を強くくいこませる。イーツェンの足をブーツで払い、脚の間に膝を割りこませながらソファと自分の間でイーツェンを動けなくすると、頬を両側からがっちりとつかんだ。
 強い目でのぞきこむ。
「学べ、イーツェン。力も覚悟もないくせに無駄に逆らおうとするな」
「‥‥無駄なのはあなたの方だ。私はリグへは戻らない。あなたがたが何をしても」
 低い声がふるえそうなのを気取られないよう、イーツェンは椅子の横にだらりと垂らした右手に拳を握った。
「ここから逃げ帰ったりはしない。人の体を好きにしたくらいで、決断まで思い通りにできるなどと考えない方がいい、オゼルク」
 オゼルクが目をほそめた。
「成程。ジノンが入れ知恵したか」
 その呟きは、ジノンの推測が半ば真実であると言うようなものだった。イーツェンの手のひらに爪がくいこむ。やはりイーツェンへの陵辱は、彼をリグへ戻すためにはじまったのだろうか。客人の怪我や病などユクィルスに非難が向けられる方法ではなく、イーツェンの意志でこの城から逃げ出すように。
 喉にふくれあがった息を押し出すために、全身の力を振り絞った。
「あなたがたの試みは無駄だ。私を放っておいて下さい。もう、用はないでしょう」
「ふん」
 オゼルクが笑った顔を近づけ、イーツェンの唇の横から頬骨の上までゆっくりとなめあげた。ざらりと生あたたかい感触に、イーツェンの視線が揺らいだ。
「どうせはじめから、半分はあの男の酔狂だ。私はお前がいてくれてよかったと思っているよ、イーツェン」
 イーツェンがとじた唇をオゼルクの舌先が弱い力でまさぐる。唇をあわせず、湿った息を這わせながら唇の形をじっくりとなぞり、怠惰にイーツェンの唇を濡らした。
 イーツェンの頬を両側からつかんだまま、上から見つめおろす。
「最初は、もっと弱々しいかと思ったがな。‥‥お前がいなければ、この城はずっと退屈だっただろうな」
 あの男、とはローギスのことだろう。兄を「あの男」と呼び母を「あの女」と呼ぶオゼルクの声に読みとれる感情はない。イーツェンは暗い気持ちでオゼルクを見上げた。
「あなたは兄上が何をしろと言っても従うんですか?」
「まあ、お前といい勝負だろうな」
 ひややかな言葉にひそむ嘲りのひびきが、イーツェンを笑っているのかオゼルク自身を笑っているのかはわからない。ふいにつきあげた怒りに、イーツェンの腹腔から喉元までが熱くなった。それはほとんど暴力的な衝動だった。
 この迷路、迷宮、出口のない、決してイーツェンを逃がさない、支配の鎖、支配の連鎖──
「あなたは王になりたくないんですか、オゼルク。何もせず、ずっとそうやってローギスに何もかも奪われるつもりですか?」
「‥‥ジノンはお前に何を吹きこんだ」
「ローギスにいつまでも尾を振りつづける? 私には枷と鎖がはめられているが、あなただって同じようなものだ。目で見てわからないからと言って、あなたの方が自由だと言うことにはならない。見える鎖と、見えない鎖。私とあなたと、どちらが不自由なんでしょうね。少なくとも、私の枷は外すことができる」
 頬を歪めたオゼルクを見つめて、イーツェンの気持ちは奇妙なほど残酷に昂揚していた。目の前の相手を傷つける言葉を、心が勝手に探し求める。
「だからあなたは、私を従えたがる。優越を得るために。楽しいですか? 何のよるべもない、力もない人間を脚の下で踏みつけにして、さぞや満足でしょう? でも、オゼルク。私の姿は、ローギスにとってのあなたの姿だ」
 自分はさぞや醜い顔をしているだろうと思った。怒りと憎しみと。むきだしの敵意と。あふれ出す言葉をとめるすべはなく、激情がイーツェンのわずかな抑制をつき崩した。
「己に逆らわず、従順な奴隷。犬と同じ。彼の目にうつるあなたが、私よりもましだと思いますか? 城の庭で鎖をぶらさげている奴隷とかわるところがあるとでも? いっそあなたも目印に何かつけたら如何です。鎖でも、金輪でも、それこそ──」
 レンギのような金属の足輪を、と口から出かかった時、喉が塞がれたように言葉がつまった。土の中に残されていたというあの輪の、肌にくいこむ冷たさがよみがえる。いきなり、ずしりとした重さを体全体にのせられたようだった。
 それはこんな形でぶつけてはならない言葉だった。怒りにまかせて他人を嘲るために使ってはいけない記憶だった。レンギの思い出を、彼の残した輪を、自分の憎しみの引き合いに出すことなどできない。
 憎悪にたぎっていた心が凍りついて、イーツェンは喉をおさえた。声が出ない。言わなかった言葉が逆流して喉を灼き、唇が、まだ悪意をつむぎ続けようとするようにふるえた。
(人は、自分で思っているほど強くはない──)
 ふいにレンギの言葉がよぎって、一瞬、目をとじる。人は弱い、だがその弱さにすら耐えねばならないと、レンギは言った。あのおだやかな言葉が切るようにイーツェンにくいこむ。こんなふうに憎しみに満ちて、人を傷つけるためだけの言葉を吐き捨て、どんどん醜く、脆く愚かになっていく。己を支えようにも、耐えようにも、イーツェンにはこれ以上すがるものがなかった。
 激痛がこめかみから背中の中心まではしった。かすれた悲鳴をあげる。オゼルクがイーツェンの髪をつかみ、皮膚をはぐような力で首をねじまげていた。
 間近に、オゼルクの青い目がイーツェンをのぞきこむ。まばたきもせず、まっすぐに、その視線は容赦なくイーツェンを貫いた。
「言うことはそれで全部か」
 平坦な声で、オゼルクは囁く。頬の線が削いだようにするどい。
 イーツェンが何も答えられずに息をつまらせていると、オゼルクは手の力もゆるめず、かすかに笑った。声のない笑いが喉からこぼれる。
「一つ、私とお前には大きな違いがあるな。這え。お前の口は、しゃべるよりもいい使い道があるだろう」
 抗うようにイーツェンはもがいた。オゼルクがつかんだ髪を引き、ソファの前の床へとイーツェンを乱暴に引きずり落とす。床へ頬を押し当てられ、背中にずしりと重みがかかって、イーツェンは押しつぶされそうな肺に必死に息を吸いこんだ。
 イーツェンの背へのせた膝に体重をかけながら、オゼルクがかがみこんで、耳元へ囁く。
「本気で逃れたいなら、私を殴ってでも逆らえばいい。そうしないのは、はじめからお前が限界を悟っているからだ。無駄だと知っている。だろう、イーツェン? どうせ従うことになる。お前はよくわかっている筈だ」
「‥‥‥」
 体がこごえ、指先から力が抜けて、イーツェンは床に這いつくばったまま動きをとめた。オゼルクが髪から指を抜き、指先でイーツェンの頬をなでる。つめたい指だった。
「どうせ、逃げ場はない。私がお前と同じだと言うなら、お前もそろそろ従順になるすべを学べ。抱かれている時以外にもな」
 乱れた前髪の下からオゼルクをにらんで、イーツェンはただ何を言うでもなく小さく頭を振った。ささいな反応を無視して、オゼルクは彼のローブの下に手をすべりこませ、枷の間の鎖をつかんだ。
「一つ、な。教えておいてやろう、イーツェン。お前は、いつか解放されてリグへ戻る日がくれば、すべて終わると思っているだろう? それまで耐えればいいと」
 オゼルクの声はむしろおだやかなほどで、その平坦さがかえってイーツェンの気持ちを追いつめた。
「だがな、イーツェン。支配と服従は、人を変えるものだ。‥‥お前は故郷へ戻っても、元の自分には戻れない。私たちは皆、そうだ。いずれお前にもわかる。自分が完全に変わってしまったと言うことがな」
 オゼルクはふいに低く笑い出すと、鎖を離して立ち上がった。外扉の方へ歩いていく。イーツェンがのろのろと体を起こして身をふるわせた時、オゼルクに呼びこまれたソウキが彼の前へ膝をついた。
「‥‥‥」
 乱れた髪と服のまま、無言で顔をそむけ、イーツェンは自分の手でローブを太腿の上までたくしあげる。服従。ソウキは目を伏せて、じっと唇を結び、今は慣れた手でイーツェンの枷を外しはじめた。
 鍵がカチリと外される音が、骨までひびく。ソウキが手にした枷の鎖がこすれあい、鈴のように奇妙に美しい音をたてた。


 どうしても、溺れることができなかった。
 重苦しい快感が肉体をほてらせているのに、すべてを忘れ去ることができない。憎しみとやるせなさが身の内にたゆたって、どこかわからない体の奥に棘をたてる。ふいにつのる苦しさに、時おり息がつまった。
 逃げ場のない心を持てあまして、イーツェンは敷布の襞に指をくいこませた。オゼルクの重みに沈みこむ体をよじり、布をかきむしるように指に力をこめる。男の肩にかつぎあげられた裸の両足が宙に踊った。
 体の奥に満ちてくる他人の熱が息苦しい。頭を振って、イーツェンは喉につまる息を吐く。髪のきしむ音が耳元にきこえた。
 オゼルクが凶暴なほどの動きで腰を突き込み、肉体の奥に散る火花のような熱さにイーツェンの首がそった。うねるような快感が衝撃のように体の芯をゆさぶって、どこかもっと深いところへ抜けていく。それが消えると、体の半ばがからっぽになったような虚しさだけが残った。
 次の快感を求めて腰をゆする。オゼルクの固い屹立が奥を貫き、深く、イーツェンに所有のしるしを刻みこむ。何かが自分からはぎとられ、削ぎ落とされていく感覚に、体も心もせきたてられていく。
 オゼルクが背を丸め、イーツェンの胸に唇を這わせると、乳首を含んで強く歯をたてた。背すじが痺れる。痛みと快感の区別はすでに曖昧だった。ただ熱い。その熱さにイーツェンの意識は溺れはじめていた。
 オゼルクがイーツェンの脚をおろし、かかえ直した。イーツェンは荒い呻きをあげながら両足をオゼルクの腰にからめ、がむしゃらに快楽を追いはじめる。そうでもしないと今にも何かが崩れてしまいそうだった。体に与えられる熱で満たされているうちは、心の存在を感じずにいられる。体を動かし、ひたすらに求めた。
 おだやかな冬の記憶がすべて溶けて消えていく。
 己を投げ出して快感に溺れようとするイーツェンを、オゼルクは無言のまま犯した。ローギスがするように、容赦なく、ただイーツェンをむさぼる。二人は汗にまみれた肌をあわせ、何の言葉も交わすことなく、獰猛な動きで肉体だけを深くつないだ。