相手ができると宣言しただけあって、ヴォルはカードの巧手だった。ジノンほどではないが、イーツェンにはどちらもなかなか歯が立たない。だが、からめ手の多いジノンともまたちがう、どこか運まかせのヴォルの大胆な勝負運びと対するのも楽しかった。
 二階の角、廊下が折れるところの角部屋は遊戯室になっていて、カードや駒を使った卓上ゲームに、的あての短剣と的まで一そろい用意してある。壁の暖炉に火が入ってあたたかな部屋の一角には長椅子があり、棚に酒の壺も置かれて、イーツェンは甘い蜜酒と焼き菓子をかたわらにヴォルと駒遊びをしたり、ジノンに借りた彩色本を眺めたり、時にジノンを訪れる客と遊戯に興じたりもした。
 その日もイーツェンがヴォルを相手にカードで負けていると、ふいにヴォルが視線を上げた。部屋に入ってきたジノンに気付き、イーツェンは立ち上がる。
「遠乗りですか」
 ジノンがおや、という顔をするが、髪も乱れているし、首すじにまだ細い毛皮を巻いているのに自分で気付いていないのだろう。イーツェンがヴォルと笑いあっていると、一つ咳払いをした。
「マスを釣ってきた。夕食に出るから、ほめるように」
「勿論」
 と、イーツェンが軽い調子で受け合う。ジノンが苦笑して、手招きした。
「イーツェン。──勝負の邪魔をしたならすまないが」
 イーツェンはヴォルに目で挨拶してから、部屋を出るジノンの後へつづいた。
 ここへ来て五日がたつが、ジノンは少し忙しそうだった。屋敷の主が滞在していると知った村の者が訪れてくるのを歓待し、役人や地領頭の訪問にもくりかえし応対した。
 イーツェンも数人と会った。リグの王子という身分をきいても、リグがどこなのかすらわかる者の方が少ないようだったが、リグ産の質のよい硝石となめした鹿皮のことは知られているようで、イーツェンはほのかに誇らしい思いをしていた。
 屋敷が小さいためだろう、誰が来ても、ジノンは晩餐でもてなすようなこともしなければ、邸内に泊めることもなかった。当人はそれを不便とは思ってない様子で、むしろ「便利な家だ」と話を向けたイーツェンへ答えている。数人の晩餐にまで困るほどの家ではないのだが、いい口実にしているらしい。かわりに、招かれれば自分から出かけた。
「少し元気になったようだな。ここの空気が体に合ってよかった」
「本当に。感謝しています、ジノン」
 礼の言葉は、ごく自然にイーツェンの内側から出た。この飾り気の少ない家と、ヴォルをはじめとした使用人の丁重だが親しみをこめたもてなしは、城の暮らしでこわばっていたイーツェンの心を少しずつほぐしていた。
 この家は、あたたかい。
 ジノンが自分の書斎の前で立ち止まると、細工のあるらしい落としがねを手早くいじってきしむ扉を開き、中へイーツェンを招いた。
 細長い明かりとりの窓が奥の壁の左右にくりぬかれ、うっすらとした冬の光が漂いこんでくる。書斎の内側はジノンの城の部屋とあまりかわるところはなく、整然としていた。ただ、陽を避けてだろう、本はすべて扉のついた棚にしまいこまれ、ヘラジカの角と弓を組み合わせたジノンの紋章が扉板に焼き印されていた。
 ジノンは机に向かわず、棚の下扉をひらいて古びた編み籠を引きずり出し、ほこりっぽい手紙の束を無造作に取った。ひもでくくられている束を手早く分類し、その中の一つを取ると窓辺へ歩みよって外へ埃をはたく。それから机のこちら側にひょいと腰をのせて、古い手紙とおぼしきものを選り分けはじめた。
 目は手元におとしたまま、
「センドリスという名を知っているか? 少し変わった男でな。まあ王家の遠縁と言えんこともない男のくせに、ぶらりと国外をうろついて、傭兵として戻ってきた」
 イーツェンはその名を聞いたことがなかったが、ジノンも答えを求めたわけではなく、自分の呼吸を継いでつづけた。
「つい二月ほど前まで、彼がアンセラ領の執政官をやっていた。それが明日、昼食を食べに来る。同席してみないか?」
 イーツェンは笑みを消して、黙ったままジノンを見つめた。アンセラはリグの隣国であったが、ユクィルスに武力で蹂躙されておびただしい血を流し、今はユクィルスの領土としてこの国に属する。
 何故そんな相手と、と胸の内で呟いた無言の声を聞いたかのように、ジノンが顔を上げずに答えた。
「リグに近いところにいたから、近ごろの様子を聞くのもなつかしかろうかと思ってな。君の国のみやげ話も持っているかもしれん」
「‥‥‥」
「気が向かないならかまわないが」
「いえ」
 反射的にそう言ってしまったイーツェンを目のはじでちらりと見て、ジノンは頬に笑いを見せたが、何も言わなかった。相変わらず奇妙に表情の読めない男で、そのとらえどころのなさが時おりイーツェンには怖い。
 オゼルクとはまた別種の、ひどく深い得体の知れなさだった。それはジノンの優しさと表裏となってイーツェンの前にちらつき、そのたびにイーツェンはたじろいで、距離を取ろうとあがく。たよりにできる相手がジノンしかいないのも事実だったが、時にジノンへの警戒を忘れて気持ちをほぐしてしまう自分自身に、イーツェンは心底うんざりしていた。
 ──傾くな。
 そう、イーツェンは己に呟く。シゼを失って、時おり身の内を切るように淋しい。それでも、ただ居心地がいいからと言ってジノンに傾いてはならない。あれほど傷ついたのに、そう心に言い聞かせなければつい一瞬のあたたかさに望みをかけそうになる自分がいる。
 どうしてこれほど自分が弱いのか、イーツェンには理解できなかった。そんな己を、彼は心の底から嫌っていた。ほとんど憎むように。
 ひどい疲れを、イーツェンは全身に感じた。立っていられない。不躾だと思ったが、砂がつまったような体が倒れる前にと壁際へよろめき、布張りの足置きに腰をおろした。気付かれぬうちに息をととのえようとしたが、肺に入った息は炎のように熱く、吐きだすこともおぼつかない。世界がぐらついて、意識をゆるめるとどこかへすべりおちていきそうになる。
 ジノンが足音を鳴らして部屋を横切り、扉をひらいて廊下に「ヴォル!」と呼ばわった。その声も水の向こうに聞くようにどんよりと遠い。前にのめったイーツェンの肩をヴォルがつかみ、顔をのぞきこんで、驚きに眉をあげた。
「カードに負けてそこまでがっかりなすったんですか?」
 ほそい息をたてて、イーツェンは思わず笑っていた。苦しいが、おかしい。首を振る。声が喉につまって、別人のようにしゃがれた。
「大丈夫だ。ただ、少し──」
 目の前にヴォルがひょいと人さし指を当て、それを自分の唇に当てる。子供のような合図に意表をつかれて、イーツェンは思わず口をとじた。シゼといいヴォルといい、目下の筈なのにイーツェンを黙らせるのがうまいと、埒もないことが心の外側をかすめた。
 ヴォルがてきぱきと動き回って、たちまちイーツェンは毛布に肩をつつまれ、あたたかな蜜酒が湯気をあげる杯を手に持たされる。一口すするとぬくもりが体の内側へ滴りおちて、ほうと吐息がこぼれた。
 頭を振る。世界がまだ揺れていた。
「すみません。何だか‥‥めまいがして」
 ジノンは唇を引きむすび、奇妙に目をほそめてイーツェンを見ていたが、目が合うと安心させるような笑みをうかべた。また例の読みとれない表情で、それでも優しい顔をしている。イーツェンはなるべく何事もなかったかのような態度をとりつくろい、微笑を返した。
 一つうなずいて、ジノンが手にしていた古い紙の束を机にのせた。そう言えば彼は何を探していたのだろうとイーツェンは思うが、声に出して問う前にジノンが口をひらいた。
「下の居間で休むといいだろう。火のそばで、あたたまっていた方がいい」
 その声も優しかった。
 自分の中にある何かをジノンに読みとられた気がする。だがもうどうしようもない。イーツェンはうなずき、ヴォルの手を借りて立ち上がった。自分の体がまるで思い通りにならない苛立ちとあきらめに心がささくれだって、動悸はなかなか静まろうとしなかった。


 リグの話を聞きたいかと問われれば、焦がれるほどにそれは聞きたい。あの国から切り離されて、もう二年以上になる。イーツェンは常に故郷の気配に飢えていたし、あの国がまだ確かに存在していて、そこにイーツェンを知る人々が生きているという実感は、自分がユクィルスの城に居続けるための意味そのものだった。
 ──だが、リグを知る、ユクィルス側の人間。しかも、アンセラを陥としたであろう男の目を通したリグは。きっとそれは、イーツェンの知るリグではない。彼らの目にうつるのは、ユクィルスの同盟とは言うが、人質を差しだして自ら支配と隷属に甘んじている貧しい小国の姿だった。
 センドリスの口調にもまた、どこかリグへのあなどりがあるようにイーツェンには感じられる。それは、いつしか人の言葉の裏を探る癖がイーツェンの身についてしまったからなのかもしれなかった。
「何度かリグの視察にも同道いたしましたが、なかなかふしぎなところですな。斜面に這うように段々になった石の建物を見ましたよ。山の内側にまで掘り込まれているようで、私は外回廊だけ案内していただいたが、それだけで迷路のようでしたねぇ」
 いぶした魚を食べながら、センドリスがイーツェンに会話の水を向けた。イーツェンは干しなつめの甘酸っぱい果実を呑みこむ。昼食なので、長卓にならべられた食事は豆粥を中心にした軽いものだった。
「それは、祈りの回廊寺院ですね」
「そうなんですか?」
 センドリスの目は、王族の血筋にしては灰が青みに勝って、色合いも淡い。だが顔立ちにはオゼルクやローギスに似た頬のするどさがあった。口はやや幅があり、さらにそれをひろげるように笑うと、あの兄弟にはないどこか粗野な愛嬌があった。
 傭兵として異国を放浪していたからか、所作にも居ずまいにも崩れたところがあって、魚をむしった指をぺろりとなめるとその手で無造作に髪をかきあげた。
「何か、ちがう名でしたが‥‥ええと。セ・クア‥‥」
「セ・クワィゼ。古い言葉で、祈りの宮と言うような意味です」
 イーツェンは何気なくそう言ったのだが、センドリスがふっと目をほそめた。
「ような、とは? 正確な意味か解釈があるのですか?」
「祈りの子宮、というのが、近いかと」
 思わぬ踏み込みを受けたような気持ちで、イーツェンはつぶやくように答えた。細い光が床の模様の上を這っていく、その光の蛇を追うように石の床に膝をつき、進みながら祈った。床は氷のように冷たく、日の祈りが終われば身動きもできないほどに体がこごえた。
 記憶にこびりついて残るものは何だろう。イーツェンは五つの時にそこを去った。
 ジノンが目の前の粥の椀から顔を上げ、手の甲で頬杖をついた。
「セ・クワィゼ。そこは君の母上が亡くなった場所ではないか、イーツェン?」
 今度こそ完全に虚をつかれて、イーツェンは茫然とジノンを凝視した。無作法にも気付かずまじまじと見つめて、言葉も出ない。唇がまるで何かを言わねばというように反射的にひらいたが、心はただあの冷たい石床のざらついた感覚に満たされて、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
 言葉の出ない彼をどう思ったか、ジノンは自分の服から何かを探す仕種をしてから、立っていってさっきまで着ていた上衣を籠から取り上げた。内懐から古い紙を取り出し、まだ食事中のセンドリスに一言わびを言ってからイーツェンの横へ回る。
「昨日、見せるつもりだったのだがな。君の母上の名だろう、このイイリエという方は」
「‥‥これは‥‥」
 すっかり黄ばんだ粗紙を見せられて、イーツェンはふいにつきあげてきた感情に声を奪われた。リグの文字だ。傾きもいびつで、ところどころまちがいも散見されるが、それはたしかにリグの文字で、しかも王の署名の、不完全なうつしで飾られていた。
 ──イイリエ・サリム・ウィスエレサ・イリギスの暁の光が雲間に伏したことをここにお知らせするものであり‥‥
 ──声なき悲しみが山々の間を渡りゆき‥‥
 ──その名は永遠となりて我らの胸に刻まれましょう
 不吉な知らせを美しい言葉で飾った文章の上を、すくうものもなく視線はすべっていく。自分の母の死を告げるこの手紙を、イーツェンが見るのははじめてだった。
 イーツェンはつぶやくように、
「死者の手紙のうつし‥‥どうして、あなたがこれを?」
「子供の頃、これをリグの使者が王にとどけたのを見て、あれは何かと師範にたずねた。それが、私がリグという国の名を聞いたはじめだった」
 ジノンがやわらかに語る間、テーブルの向かいからセンドリスが立ち上がった。ぐるりと回ってジノンの逆側からイーツェンの手元をのぞきこむ。無遠慮に言った。
「下手な字ですな」
「私がうつしたものだ」
 その言葉に、イーツェンはジノンを見上げ、紙を見た。そう思えば、子供の字だった。この手紙が国々を回っていた時、ジノンもまだほんの子供だった筈だ。
 死者の手紙とは、人の死を知らせるための文書のことだ。形式こそ国によってさまざまだが、王族から死者が出ると、王家は触れ文を出す。身分が相応に高い者であれば手紙を持参した使者が国々を回り、訪いを受けた国はそれに対して弔問の手紙を使者に持たせる。それを前の手紙に長くつなぎながら、使者はやがて長い嘆きの巻物を手に、国へ戻るのだった。
 ジノンはイーツェンへ向けて、小さくうなずいた。
「リグの王妃はもとは巫女であったと聞いた。私の母も、巫女だ。子供ながらに何かしらゆかりのある心持ちになって、師範に読みを聞きながら写筆させてもらった。近ごろそれを思い出してね、ここにきたついでに古い手紙箱を探してみたが、まだ持っているとは自分でも意外だったな」
「あんたは執念深くてしつこい」
 センドリスが歯をむき出しにするようにして笑った。手紙の表面を指で甲高くはじかれて、見つめていたイーツェンがびくりと身をすくませる。男は豪放に笑っただけで、気にもかけなかった。
「敵にはしたくないですなぁ、ジノン」
「ユクィルスのために立つ限り、我らがどうやって敵になる、センドリス?」
 絹にくるんだような声で返すと、ジノンはイーツェンの手から手紙を取り上げた。イーツェンははっとする。手紙をたたんで、ジノンはその紙片をイーツェンの手にもう一度戻した。
「子供の字ですまないが。よければ後でゆっくり読んでみてくれ。‥‥読めるだろう?」
 幼い写筆の腕前の評価を今になって求めるような、少しばかり不確かなジノンの声音がイーツェンの意識を現実に引き戻した。ジノンが彼の返事を求めている。うなずいて、イーツェンは唇に微笑をうかべた。
「お上手です。ありがとうございます。母の‥‥死者の手紙は、はじめて見ます」
 ジノンはうかがうように慎重な目でイーツェンを見た。
「思い出させてしまったかな」
「母のことを、忘れたことなどありませんよ」
「ならいいが。君の母上を、父上はたいそう愛してらしたという話だな。寺院の祈り手であった御方を、乞うて妻に迎えられたと聞く」
 ジノンは母のことを調べたのだろうかと喉にこわばりを覚えた時、ふいにセンドリスがぱんと手を叩いて、耳元で空気が鳴ったイーツェンはほとんど椅子からとびあがった。肘が皿にふれてガチャリと大きな音をたて、咄嗟にあやまろうとしたイーツェンへ、センドリスが左手を振った。
「やあ、すまん。俺はどうにも不調法でしてな。そんなにビクつかなくても取って食いやしませんが」
「いえ──」
「しかし、そうか。あなたはあの暁の巫女どのの息子か」
「知らなかったのか?」
 あきれ顔とあきれ声で、ジノンが口をはさんだ。
 センドリスはまた頭をがりがりかいた。無造作に皿を押しやり、テーブルへひょいと腰をのせる。ジノンのとがめるような目配せなどおかまいなしだ。
「そう言えば、まあ‥‥聞いた気はしますがね。俺、リグで暁の巫女どのの遠縁にお目にかかりましたよ。アンセラの方ですが」
「リグで?」
 アンセラに、母の遠縁の血筋があるのは知っている。アンセラ王家の傍流に入った者もいた筈だ。だがどうしてその相手がリグにいるのかが、わからない。
 半端に聞き返したイーツェンへ、センドリスがうなずいた。顎の下の方のまばらな髭を一本、指でつまんで抜く。テーブルにのせた腰には、護身用にしては刃の厚い短剣を革帯で巻き付けてあり、柄も帯も、人の手の脂の痕がしみこんで黒っぽくつややかだった。使う者になじんだその色は、イーツェンにシゼを思い出させる。
「そうです。アンセラ攻城の際にあちらの守備隊におられたお人でね。戦で大怪我なさって、ずっと我々の砦で手当てを受けていたんですが」
 捕虜としてか、人質としてか──そう思ったが、よもや言えるわけがなかった。センドリスは思い出すように目をほそめ、語を継いだ。
「そのお人はリグの王后であった方の遠戚である、との申し入れがリグからありまして、それでリグにうつられたんですよ。アンセラ王家の血筋の方でもあるんで、ちょっとどうするかはアンセラの本陣でも扱いがモメたようですがね」
「お前が執政官だろう」
 とがめるようにジノンが言ったが、口調はかるく、深刻なものではなかった。ニヤリとしたセンドリスの口元に右の犬歯がのぞく。
「俺のやることは野郎どものまとめばっかりですからね。もってまわったお上品な連中のケツは、奴らが自分で拭いてりゃいい」
 ジノンが一つ咳払いをしたが、センドリスは無視した。二人はどうやらそれなりに馴染みが深いらしい。
 食事が大体終わったと見たか、ヴォルが手早く食卓に歩みよって大皿を下げていく。料理を並べる段階では召使が給仕するが、食事と会話がはじまるとヴォルだけが部屋のすみにひかえて給仕に動くことに、イーツェンは数日前から気付いていた。ジノンはほかの召使に会話を聞かせたくないほど用心深く、ヴォルはそんな彼の信頼を得ている──そういうことだ。
 ヴォルが手渡す食後酒の杯を受け取り、イーツェンはあごに指を当てて考えこんでいたが、ふっとセンドリスへ顔を向けた。
「もしかして、ハルセ様ですか?」
「存じよりか」
 妙にうれしそうな顔をして、センドリスはテーブルに座ったままイーツェンへ体を傾けた。ぬっと鼻先をつき出すような男に、引きそうになる身を抑える。いちいちこの男は動作が大きい。
「母のゆかりこそあれ、お会いしたことはありませんが‥‥アンセラでの戦いで大きな怪我を負ったと聞き及び、心配しておりました。リグにうつられて、お元気になられましたか?」
「夏に会った時はすっかり健やかであられましたよ」
「それならよかった」
 イーツェンはしみじみとつぶやいた。ハルセは、母方の大祖父の妹がアンセラへ入嫁した、その直系の筈である。数度ばかり儀礼的な手紙をかわしたほかに知るところのない相手ではあったが、やはり無事と聞くと、心にひろがる感情があった。
 アンセラの王族のたどった運命についてイーツェンはよく知らないが、奴隷の鎖をつけたあのアンセラの少年がかつて王族の従者であったことを考えれば、王族の多くが苛烈な運命をたどったのではないかと思う。その中で、わずかなリグとの縁をたぐってたった一人でも自由の身になったという話には、ささやかな火が胸にともるようだった。
 ──母の名が、人の身を救ったのか‥‥
 内懐に入れた "死者の手紙" が急に重みを増し、イーツェンは服の上から胸をおさえた。母はずっとイーツェンにとって遠い人だったが、その名が、その存在が、この冬になってまぼろしのように目の前に立ちあらわれる。
 あるいはこれが、さだめと言うものなのかもしれない。運命は、きっとこの地でイーツェンを待っていたのだ。
 そう胸の内でつぶやいて、イーツェンは一瞬、目をとじた。逃げられない。逃げようなどと思ってはならない。