オゼルクが置いていった金属の輪を磨こうとしたが、イーツェンはどうしたらいいのかわからなかった。いびつに変形した輪の全体を錆が覆ってしまっている。
 手元に砥石も砥草もなく、磨き粉や皮を手に入れようとしてもソウキはたよりにならず、かと言って城の工房へ持っていけるわけがなかった。奴隷の輪だ。ユクィルスの職人が忌み嫌うだろうことは、ためさなくてもよくわかる。それを作る鍛冶師を「人鎖工」としてさげすみ、普通の鍛冶師と区別するほどだ。
 レンギの足元にこの輪を取り付けたのも、人鎖の鍛冶師なのだろう。ただ人をつなぐための鎖を作り、輪をつくる鍛冶師。人鎖をひとたび作った職人は決して普通の職人には戻れず、人鎖だけを作り続けるしかないと言う──人鎖工は奴隷の鎖を作る一方で、まるで己自身もその鎖にとらわれているかのようだった。
 その鍛冶師ならば、輪を磨いてくれるだろう。だがイーツェンに、会うすべはない。
 腐蝕がそれ以上すすまないようせめて薄く油を塗って、イーツェンはその輪を引き出しにしまいこんだ。同じ引き出しには、髪を結ぶための細い網ひもがくるりと束に丸めてしまわれている。
 シゼの髪を結んでいたひもだ。かつてオゼルクの部屋で陵辱された後、髪をとめるひもがないと茫然としていたイーツェンに、シゼが自分の髪から取って渡した。返しそびれて、イーツェンはそれをそのまま引き出しに入れて忘れていたのだが、今となってみれば、あのすさんだ物事すら奇妙になつかしかった。なすすべなくうろたえ、混乱しきっていたイーツェンをシゼが抱き起こし、頬を叩いて叱咤した。あの腕はやさしかった。
 時おりにひもを自分の髪にあて、肩の下まで少しのびすぎた黒髪をまとめてみる。また失うのが怖くて、つけて歩くことはできなかった。
 そんなふうに、日々はイーツェンの周囲でにぶく流れすぎていく。城内の慌ただしさの中、礼拝で見る顔ぶれも少し変わり、いつのまにかルディスが城の食卓に戻ってきていたが、イーツェンに近づこうとはしなかった。
 ジノンに牽制されたか、それとも単に興味を失ったか、遊びにかまける時間などないのか。どんな理由であれ、イーツェンにはありがたかった。ルディスの荒々しい蹂躙に耐える気力がない。
 秋の終わりからずっと、イーツェンは微熱がつづいていた。気怠い彼に気付いたオゼルクが療法師をよこし、それから毎朝薬草の茶を飲んでいたが、体の重さは一向に取れなかった。
 朝な夕なに使う水は指先につめたく、石の城は冬の寒さを吸いこんで冷えきっていった。山あいのリグの冬よりユクィルスの冬ははるかに優しいが、暖炉のない塔の部屋は体にも心にも寒々しかった。
 時おりイーツェンは、引き出しの奥の輪を取り出して握る。ざらついた金属は握りしめると灼けつくような冷たさでイーツェンの肌にくいこみ、微熱のつづく体を冷やした。


 眠りは、いつも浅い。まどろむたびに息苦しさが体によどみ、うっすらとした熱に肌が湿る。そのくせ体は訪れた冬の寒さにすっかりなじんで、身の内の骨が冷たかった。
 どろどろと、体の中で何かが揺れる。腕にも指にも力が入らない。細い息を継ぐ。とじた目の奥が痛んで、重い意識を刺した。
「‥‥イーツェン」
 声は遠い。夢だと思って反応せずにいたら、もう一度呼ぶ声は、少しだけ近づいて聞こえた。
「イーツェン」
 泥から引きはがすように瞼をあげ、頭を動かすと、のぞきこんでいるジノンと間近に目が合った。イーツェンはまばたきする。その瞬間ガタンと轍の音が鳴って、体を揺らす振動の正体に思いあたった。
 馬車だ。
「‥‥すみません。眠ってしまって」
 重い頭を振り、イーツェンはくずれた体を起こそうとする。やわらかく沈む座席が馬車の揺れを吸い、体への路面の当たりはおだやかだ。ジノンの馬車は機能的で王族のものとは思えぬほどに質素なあつらえだったが、座席は上等で、快適だった。
「いや。もうじき、村が見えてくる」
 ジノンはイーツェンの方へ傾けていた体を戻し、座席へ体を沈めた。馬車の窓には布張りの枠がはめこまれ、布地を通したうすぐらい光がジノンの落ちついた表情を淡く照らした。
「なかなか具合がよくならないな」
 言いながら、小さく咳のからんだイーツェンへ皮の水筒を手渡す。イーツェンは粘つく口の中を湿して不快感を呑みこみ、心配の情を見せるジノンへ微笑を返した。ある程度の距離を保つことを己に叩きこんでしまえば、ジノンの儀礼的な優しさに揺らいだり悩んだりすることもなくなっていた。
「塔は少し、寒いですからね。ご招待、本当にありがたく思っております」
 イーツェンの丁寧な言葉に、ジノンも鷹揚にうなずく。
「しばらくのんびりするといい」
「ええ。‥‥外を見てもいいですか?」
 街なかでは窓を開けるのは禁じられていた。「身の安全のために」とジノンは言ったが、ユクィルスの情勢がそこまで不安定なのか、王族のいつもの用心なのか、イーツェンにはよくわからない。
 ジノンの了承を得てから、イーツェンは布の張られた窓枠を上へずらし、細く開いたところで留め金で固定した。普通の馬車など窓に何もはめられていないか、外を走る時は板窓でふさがれているかだが、さすがに王族のものは作りがちがう。
 すきまから冬の風が入りこんで、うたた寝に冷えた体が小さくふるえたが、イーツェンはかまわず隙間に顔をよせ、外の風をいっぱいに吸いこんだ。土と枯れ木の匂いがする。塔でかぎ慣れた石と布の匂いではなく、もっとざらついてとがった大地の匂いだ。
 灰色の木立が後ろへ流れていくのが見えた。木はほとんどが細くまっすぐで、枝先だけにまばらな葉を残し、冬の陽光に幹はうすい灰色にひかった。木の根元にぽつぽつと点在する焦げ茶のかたまりは、枝がからみあった低い潅木の茂みのようだ。
 木立は、イーツェンの右手へ向かってゆるやかに上がる斜面で、上がりきった先には黒ずんだ緑の生け垣が長くつづいていた。生け垣の向こう側にちらりと石積みの小屋が見える。垣で家畜を囲っているのか、畑をかこんでいるのか、イーツェンからはわからなかったが、ゆるやかにうねる生け垣を目で追いながら、蛇の背中のような曲線を目で楽しんだ。生け垣も広い平地も、リグにはない景色だ。
 かわいた、冬の大地の匂いがした。
 枠に額を押し付け、イーツェンは馬車の進行方向に目を向けた。低い丘陵が見えた。道はその間を抜けていくのだろう、空と丘との境目が馬車の向きにつれて上下に動くのをじっと眺める。風が流れこんでくる馬車の中はすっかり冷えきっていたが、ジノンは何も言わず、イーツェンはまるで子供のように熱心に冬の匂いを頬に受けていた。


 ジノンが予定通りイーツェンを招待するとは、正直、イーツェンは期待していなかった。いささか城が騒がしくなっていたからだ。
 冬のはじめ、城館からそれほど遠くない村が焼き打ちに遭ったという物騒な噂が城内をかけめぐり、イーツェンの耳にすら入った。その日のうちに、王家の旗を掲げた討伐隊がローギスの指揮で出陣した。城内にはものものしい空気が漂い、イーツェンも三日の禁足を言い渡されたため、蔵書塔から借り受けた本とともに部屋へこもった。
 もしかしたらほかの勢力と通じているかもしれないイーツェンに──それは、イーツェン自身にとっては言いがかりだったが──、城内を動かれるのを避けたのだろう。己が「囚人」同然なのだと、彼の自由など一瞬で奪われる脆いものなのだと、イーツェンはその思いを噛みしめる。城はイーツェンを信頼していない。それは当然のことだったし、承知の上だったが、己の行動や権利がすべて城の握った鎖の内にあると思い知らされるのは、いい気分ではなかった。
 だが同時にその用心は、城が何かをひどく恐れている裏返しのようにも思えた。
 ──ユクィルスの足元は、どれくらいぐらついているのだろう。
 城内には、本当にユクィルスに刃向かう者たちがもぐりこんでいるのだろうか。
 城内の様子や噂話をイーツェンは時おりソウキにたずねたが、少年の答えはいつも曖昧で、参考にならなかった。常にイーツェンに対してかしこまり、身構えるこの少年と、イーツェンは会話らしい会話を交わせたことがない。ソウキが敏感に、そしてはしっこく反応するのは「命令」に対してだけで、イーツェンが何を語りかけても、その言葉の中に自分に対する命令や叱責ばかりを探していた。常にイーツェンを恐れ、彼の機嫌を損ねるのを恐れていた。
 そんなふうに、ソウキはこれまでの主人たちに扱われてきたのだろう。恐怖は人を歪める。イーツェンはそれを身をもって知っていた。
 何がおこっているのかはっきりわからないまま、ただざわつく城の中で、冬至の祭りばかりは奇妙にはなやかに行われた。ジノンがイーツェンをあらためて招いたのは、その十日ほど後のことであった。


 ジノンの荘館は、イーツェンが想像していたほど大きくも壮麗でもなかった。たしかに家としては大きく、二階建ての本館だけで十数の部屋があるのがわかるが、かつて訪れたオゼルクの別宅のような城館ではなく、それは至って普通の屋敷であった。それも手の入った洒落た造りではなく、荒く仕上げた木の梁とくすんだ白漆喰のきわめて質素な造りだ。屋根はさすがに焼き瓦で葺いてあったが、赤茶けた土の色そのままの素朴な丸瓦で、屋根の傾斜は低い。
 直角に折れ曲がった形の館の、角部屋の一階の壁から大きな煙突が突き出し、悠然と煙をたちのぼらせていた。
「田舎屋敷なんで、驚いたろう」
 先に馬車から降りたジノンが微笑する。御者がイーツェンのために踏み台を置き、イーツェンは脚鎖に気をつけながら馬車を降りた。まるで女性のように高い踏み台を使うのは嫌だったが、仕方ない。何も指示されずとも御者が踏み台を出したのは、ジノンの心配りにちがいなかった。
「こんなふうだからな。あまり大きなもてなしはできん」
 荷を載せて彼らの後から来た馬車はどうするのだろうとイーツェンが見ていると、幌のかかった荷馬車は正門を入ってイーツェンたちの脇を通り抜け、踏み固められた地面をガタガタと鳴らして館の向こう側へと消えていった。
 あれのなかにソウキも乗っている筈だが──と、イーツェンが何となく見送っていると、ジノンが横に立った。
「別館がある。一時的に召使も増えるから、そちらで寝泊まりしてもらっていてね。君の部屋付きもそこに留め置くが、いいのか?」
「はい。よろしくお願いします」
 イーツェンは会釈を返す。自分の身の回りのことは自分でできるし、その方が落ちつく。ソウキもイーツェンのそばにいるよりは楽だろう。
 それから、微笑してつけくわえた。
「私はこういう家が好きです。少し故郷を思い出しますし、とてもすごしやすそうですね」
「掃除も楽だしな」
 王族とは思えない現実的な言葉を言って、ジノンが笑い返した。馬車からジノンとイーツェンの手荷物を取り出している大柄な男の召使がそれを耳にはさみ、ニヤッと白い歯を見せた。鷲鼻で剣呑なするどさのある顔が、笑うと驚くほど愛嬌のある表情になる。
「お好きなようだから、煙突のすす払いをせずにお待ちしていましたよ。期待してます」
「お前の尻で雑巾がけをするぞ」
 召使の軽口も、ジノンのくだけた物言いも、城では見られないものだった。イーツェンがびっくりしていると、召使はイーツェンにも人懐こい笑みを向け、荷をぶらさげて正面玄関へ歩みよった。
 ジノンがイーツェンへ合図して、召使の後へつづく。
「あれは、ヴォルだ。私の召使頭だよ。彼に何でも言うといい」
「針仕事からカードのお相手まで!」
 独特のはずむような節回しでそう口ずさんで、ヴォルは肩ごしにイーツェンへ片目をつむってみせた。大男の愛嬌にイーツェンは思わず笑う。ジノンも楽しそうだった。ここまでくつろいで肩の力を抜いたジノンを見るのは、はじめてだという気がした。
 ──人には色々な顔がある、とイーツェンは思う。いつもイーツェンへ向けられている顔だけが真実とはかぎらない。
 そしてイーツェンが他人へ見せている顔が、いつも真実とはかぎらない‥‥


 田舎屋敷とジノンは言った。事実、内装もこざっぱりとしている一方で凝った調度品はほとんどなく、無垢板のどっしりとしたテーブルや、脚にノミ跡を残した椅子などが素朴な存在感を漂わせていた。
 イーツェンに与えられた部屋は南の奥部屋で、下から寒い空気ののぼってくる階段からは遠く、壁にも毛皮が吊るされて、あたたかくしつらえられている。暖炉はなかったが鉄囲いをかぶせられた手あぶり用の炉が置かれ、灰の上で泥炭が燃えて、部屋の冷気をやわらげていた。
「少し手狭ですが、こちらをお使いください」
 ヴォルはそう言って、寝台の横へ荷物をおろした。イーツェンはうなずく。
「充分だ。ありがとう」
 客室としてはたしかに狭いだろう。寝台ひとつと、衣装櫃、脇テーブル、小さな一人がけのソファ、腰高の薄い棚。炉のそばに鉄の枠が置かれ、そこに毛布がかけられて、火の熱を受けていた。
「いい部屋だよ」
 イーツェンはぐるりと眺め回し、微笑した。本気だった。それがつたわったのかヴォルも満更でもなさそうに微笑し、一歩下がると、少しばかり口調をあらためた。
「失礼でなければ、おみ足のものを外させていただいてかまいませんか」
 意表をつかれた一方で、イーツェンはヴォルに枷の存在を知られていることに不快感をおぼえなかった。イーツェンの顔色や機嫌をうかがう様子が、ヴォルにまったくなかったからかもしれない。ヴォルはおだやかにイーツェンの返事を待っていたが、イーツェンがうなずくと、腰に吊り下げた二つ折りの革袋から枷の鍵を取り出した。ソウキから受け取ってきていたらしい。
 イーツェンがローブの脇留めを外して服をひらき、脚をむき出しにしても、その太腿を締める枷を見ても、ヴォルは眉ひとすじ動かさなかった。彼は前にこれを見たことがあるのだろうかとイーツェンはいぶかしむが、失礼な気がして聞けなかった。
 ヴォルは片膝をつき、手早くイーツェンの枷を外す。枷を布でくるみ、立ち上がって一礼した。鎖にふれることをためらう様子はまるでなかった。
「ご無礼いたしました。こちらのものは私どもでお預かりしてよろしいでしょうか」
「うん。たのむ」
「ありがとうございます。邸内ではご自由におすごし下さいますようにと、主人が申しておりました。庭の散策なども、少々寒いですが、よろしければご案内いたします。なんなりとお申しつけ下さい」
 てきぱきと説明して、ヴォルは微笑んだ。
「カードのお相手もいたしますよ。殿下は、かなりの腕前とうかがっております」
 つりこまれるようにイーツェンも笑みを返していた。
「イーツェンと呼んでくれ。でもカードの腕前については、ジノンが私の顔を立てているだけだよ」
「ならば尚更うれしいですね。私もたまには誰かに勝ちたいんです」
「ひどいな」
 二人は笑いあう。イーツェンはなごやかな雰囲気に心がくつろいでいくのを感じた。
 ヴォルはさらに邸内の配置と注意点をいくつか説明し、召使を呼ぶベルを引くためのひもの場所を教えた。階下で足湯と食前酒を用意しているから一休みしたらおりてくるようつけくわえ、丁寧に一礼してから部屋を去った。
 イーツェンはソファに腰をおろし、ひとつ息をついた。馬車で二日の旅をしてきた体はふしぶしがこわばって、相変わらずうっすらと熱っぽかったが、久々に心がかるい。ヴォルの、確信を持ったおだやかな態度は、イーツェンにシゼを思いおこさせた。節度を持ちながら、きわめて誠実に相手に接しようとする。
 ヴォルがジノンに忠実なのも、ジノンがヴォルを信頼しているのも、物言わぬまま何かがつたわっているような二人の間の空気でわかる。ジノンが他人に対してそれほど近い距離感で接しているのをイーツェンははじめて見た。城でもヴォルをそばに置けばいいのにと思うが、ジノンにはジノンの理由があるのだろう。
(‥‥誰にでも、それぞれの理由がある──)
 イーツェンはソファにもたれかかってぼんやりと天井の羽目板を眺めていたが、やがて体をおこした。旅装から着替えはじめる。枷の外された足は軽い。つかの間の自由を、今は少しでも楽しんでいたかった。