それから三日、時間のある時、イーツェンは地図ばかり見ていた。シゼがどこにいるのか、どこへ行くのか、その影を追うように飽くことなく紙を眺め、シゼの立つ街道の景色を想像した。その想像の中でシゼはイーツェンが贈った旅装のマントとブーツを身につけ、あの古い剣を腰に佩いて、ととのったいでたちは、背すじがまっすぐのびた彼によく似合っていた。
──どこにいるのだろう。
城から離れ、解き放たれて、ただ広大な空の下、シゼはどんなことを思うのだろう。少しは自分のことを思い出してくれるといいとイーツェンは思ったが、少しでいいとも思っていた。この城には、あまりにつらい記憶が多すぎる。痛みのように食い込む記憶なら、忘れ去ってくれるほうがよかった。
多分、シゼがイーツェンを抱かなかったのは正しかったのだろう。あの瞬間、彼らのどちらも強烈に相手を求めた。あんなふうに求めあって、もし互いを互いの熱で満たしてしまえば、別れはもっと耐えがたかったかもしれなかった。自分を荒々しく抱きしめたシゼの腕の力を、抱きすくめられた感触を、イーツェンはまだ鮮やかにおぼえていた。
(‥‥どこにいる?)
蝋板の、かすかに残った痕をなでながら、イーツェンは心に呟く。人の目にふれぬよう、シゼの文字はもう消した。だがそれと思って見れば、蝋にうっすらと沈む線の形はシゼの文字の幻影だった。
どこにいる──
扉の閂が外される音がした時、イーツェンは奴隷のソウキが何かの用で顔を見せたのだと思った。一人になりたいと言って、廊下で控えてもらっていたからだ。
隣に使用人部屋があるのだが、日中、ソウキは下がっているようイーツェンから言い渡されても廊下で待機しているらしく、その様子はイーツェンの気を重くした。だが互いにまだ気づまりな関係でもあり、正直、今のイーツェンによく知らない少年を思いやる余裕はなかった。
シゼの不在に耐えるだけで、必死だった。毎日、毎朝、他人の手に枷をかけられ、城内を歩く時には城の番兵がイーツェンに従って歩く。知らない指が鎖にふれるたび、知らない足音が己の後ろを付き従うたび、イーツェンは心が何かに踏みつけにされているような気がした。
──シゼのいた場所が、奪われていく。
理屈にならない子供っぽい怒りだったし、それはわかっていたが、だからと言ってうまく割り切れる思いでもなかった。イーツェンがどうにか心を落ちつかせるよりずっと早く、周囲がシゼのいた痕跡を消していく。イーツェンにはそれをどうすることもできなかった。
「殿下──」
ほそい声をふるわせて、ソウキがイーツェンを呼ぶ。「ご主人さま」よりましな呼びかけだということで、イーツェンはそれで妥協していた。少なくとも慣れた言葉だ。
地図を置き、振り向いたイーツェンは、ソウキがおさえた扉から入ってくる長身の姿を目にして茫然とした。無造作にゆるく束ねた金髪、冷たく青い王族の目、いつもの黒ずくめの姿──オゼルクだ。
ぎょっと、椅子を鳴らして立ち上がったイーツェンへ、オゼルクがちらりと笑みを見せた。その表情は冷えきっていた。
「少しいいかな、殿下?」
皮肉っぽく呼びかけられて、背すじがうっすらと痺れた。オゼルクの声に感情がない。それは、彼が何かの感情を押し殺し、抑えているからだ──そしてそれは、危険なしるしだった。
オゼルクがこの塔へイーツェンを訪れたことはない。それどころか、王族も役人も客も、ここへ来たことはなかった。一度だけ、イーツェンが病でふせっていた時に酔ったルディスが押しかけてきたことがあったが、シゼは療法師の言葉を盾にしてルディスを部屋内へは入れなかった。
何故、何をしにオゼルクがわざわざイーツェンを訪れたのか。思考が上ずったまま、イーツェンはただ身についた習慣だけで腰をかがめて一礼した。
「何か‥‥御用がおありでしょうか」
声をおさえ、なるべく平坦に言った。肌のすぐ下で波のようにざわめく恐れを知られないように、その口調は固い。
「ある」
短く断言して、オゼルクはちらっと部屋の内側へまなざしをはしらせてから、中央のテーブルへ歩みよった。扉口ではソウキが慌てたように廊下へとびだし、外から扉をしめた。オゼルクの剣呑な気配を感じとって逃げたな、とイーツェンは気怠く考える。彼の保身を責める気はない。イーツェンもできるものならこの場から逃げたかった。
粗末な塔の一室に興味を失い、オゼルクは腕組みしてイーツェンへまっすぐ顔を向けた。その腰に下がった護身用の短剣が3日前の出来事を思い起こさせて、イーツェンは憂鬱になった。血の匂い。シゼの肌から染み出す、血の色。
「何でしょうか」
「犬が、死人を掘り起こしていったようでな」
「‥‥‥」
「骨を」
「!」
何の話かわかっていなかったイーツェンは、オゼルクの付け加えた言葉に、背骨をしたたか打ち据えられた気がした。
(レンギの──)
息がつまる。喉から腹腔にかけてするどい痛みを感じ、体を二つに折った。レンギの骨。無論忘れていたわけではないが、シゼがあんな形で去って、もう終わったことだと思っていた。驚きというよりも不意の恐れに身をつかまれて、あえぎ、イーツェンはよろけた体を起こして後ろ手に机をつかんだ。
オゼルクが目をほそめる。
「やはりお前か。何が欲しかった。骨など何になる?」
「‥‥あの人は、故郷へ帰りたがっていた──」
今さらごまかしてもはじまらない。イーツェンは吐き捨て、オゼルクをにらんで肩を前へ出した。
「こんな城、あの人の居場所じゃない。骨まで鎖につないでおくつもりですか?」
「‥‥‥」
ふ、と笑って、オゼルクは腰の後ろへ吊った革袋に手をやり、取り出した何かをイーツェンへ向けて放った。金属のきらめきがはね、イーツェンは反射的に動いた右手に何とかそれをつかみ取って、手の中の冷たさと意外な重さにたじろいだ。
金属の肌を覆う錆がやすりのように、肌にこすれる。手のひらに少しあまる、それは鉄錆に覆われた金属の輪だった。継ぎ目は溶けた鉄で接合され、輪には切れ目がない。
その輪に、イーツェンは見覚えがあった──あの日、レンギが自身の身の上についてイーツェンへ話した時に、見せられた。彼の足首にはめられていた、金属の輪を。
奴隷のあかしだ。城の所有物であるという──その、あかし。
レンギの足に見た時とはちがって輪は黒く汚れ、赤黒い錆が全体に浮いていた。まるで、土の中に埋められていたかのように。イーツェンはぎりりと奥歯を噛む。生きている限り、外されることのない輪だ。外す時には金属を切るしかない。それが完全な輪のまま、イーツェンの手の中にある。
輪をつけたまま葬られたのだ。この輪が足を噛んだまま。
怒りが腹から胸までをふつふつと焼いた。ざらつく金属を握りしめ、イーツェンは食い込むようなオゼルクの視線をにらみ返した。
少しの間、オゼルクは唇を結んだままイーツェンの顔を眺めていた。オゼルクの表情は相変わらず読めない──その無表情の下にかすかな怒りが感じとれたが、それが自分へ向けられたものなのかどうか、イーツェンにはわからなかった。ちがうような気はする。だがイーツェンでなければ、誰に怒りを向けているのだろう。シゼだろうか。
沈黙はかたく、つめたく、無言のまなざしはイーツェンを落ち着かなくさせる。胃の腑がねじられるような重苦しさをこらえて、目はそらさなかった。もうシゼはいない。イーツェンは、自身の力だけで自分を支えていかねばならなかった。
イーツェンはオゼルクを見たまま、静かに口をひらく。
「私にいただけるのですか?」
オゼルクは小さくたじろいだようだったが、すぐに皮肉っぽく笑った。
「足の鎖一つでは不足か? ほしいと言うならくれてやろう。‥‥お前には、似合いかもしれんな」
イーツェンは頭をかるく下げ、輪を机の上へ置いた。オゼルクの見せたかすかな動揺が、イーツェンを少しだけ落ちつかせる。
──何がオゼルクを、この塔まで来させたのだろう。一度も足を向けたことのない場所へ。彼は本当は、何を言いに、あるいは何をたしかめに来たのだろう。何か、彼が言わずにいる言葉がある。それをイーツェンは不自然に長い沈黙に嗅ぎ取っていた。
何故、レンギの骨のことを彼が気にするのだろう。もうレンギがこの世を去っても、自分の手からすり抜けるように骨が消えたことが、許せないとでも言うのだろうか?
執着──だろうか。
オゼルクとレンギとの関係は「執着」だと、レンギは自らそう言った。イーツェンはそれを、シゼから聞いていた。レンギは、己の口からはほとんどオゼルクのことを語らなかった。憎しみはおろか、ほかの感情も見せたことがなく、かつて自分を追いつめた男に、もはや大きな関心を持っている様子でもなかった。
許していたのだろうか。──許せるものだろうかと、イーツェンは思う。たった4年で。自分の中にあるオゼルクへの憎しみと恐れを思うと、許すことはあまりに遠く、そんな日がくるとは思えなかった。たとえこの城から、オゼルクから、離れたとしても。
レンギはどうやって、自分の中の痛みや憎しみと向き合っていたのだろう。どうやって、あんなにおだやかな微笑を浮かべていられたのだろう。
黙ったままのイーツェンを、オゼルクは青白い顔をほとんど動かすことなく見つめていたが、物憂げに言った。
「シゼを、殺しておくべきだったな。ずっと昔に」
「‥‥‥」
イーツェンは疲れた溜息を吐き出した。
「もう、いいでしょう。レンギはいない。シゼも去った。もう‥‥どちらも戻ってくることはない。‥‥もういいでしょう、あなたも」
何故そんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。ただふいにイーツェンは、オゼルクの中に落ちる影を見たような気がしたのだった。
レンギの処刑があった後、鬱屈した痛みをかかえこんで苦悶をこらえていたシゼを見て、イーツェンは「火傷のようだ」と思った。湿って、いつまでもじくじくと肉をさいなみ、消えない傷。
──そんなものが、オゼルクの中にも灼きついているように思えた。
オゼルクは無言のまま、貫きとおすようなまなざしでイーツェンを見ていたが、不意に大股で距離をつめた。机を背にしたイーツェンへ体をよせ、そむけようとした顎を右手で強くつかむ。
「お前に何がわかる?」
囁くような声には怒りが、顎にくいこむ手には容赦のない力がたぎっていた。イーツェンをねじ伏せようとする圧倒的な意志が炎の熱のように彼からあふれだし、イーツェンの肌がひりついた。首すじの産毛がそそけ立ち、心臓が暴れ馬のようにはねる。屈服の記憶を刻む体が勝手に反応をはじめ、イーツェンはそのまま緊張と恐怖に呑みこまれそうになる。
それでも、ここはイーツェンの部屋だった。そして、シゼのいた部屋だ。幾晩も、この部屋で悪夢をやり過ごし、どうにか心の均衡を保ってきた。
──これも悪夢の一つ。彼を引きずりこもうとする力──
速くなる呼吸を抑えこんでゆっくりと息を吐き、ちぢみこんだ肺にさらにゆっくりと息を吸い込んだ。この部屋でまでオゼルクにこんな扱いを受けることにするどい反発を感じたが、感情は心の底へ押しこめた。恐怖に反応してはならない。ただ、石のように、冷たく、心をにぶく、温度のないものにしていく。何も感じない。自分の憎しみも、オゼルクの怒りも。
イーツェンは無表情にオゼルクを見つめ、顎にかかったオゼルクの手に自分の手を重ねた。ほとんど力はこめていない。ただ、のせただけだ。
オゼルクの手は外れなかったが、指が少しゆるんだ。手を無理に押しやろうとはしないまま、イーツェンは低い声で言った。声の震えを悟られたくはなかった。
「あなたが何を探しているのか私は知らない、オゼルク。あなたの中に何があるのか、そんなことはわからないし、昔、何があったのかも知らない」
オゼルクが警告のようについと目をほそめたが、言葉をはさまずイーツェンを見つめていた。イーツェンは息を吸う。オゼルクの指がつかんだ顎から、その肌から、自分が凍りつき、跡形もない破片に崩れてしまいそうだった。
「でも、もう、皆去った‥‥皆、いない。もういいでしょう。取り戻せないものというのは、あるんです」
「皆、ではない」
そっと、むしろやわらかいほどの声で、オゼルクが囁いた。そのままイーツェンの返事を待たず、顔を上へ向けさせると、唇を重ねた。
オゼルクの怒りが、激しく沸騰した激情が、ふれた唇から流れ込んでくるようだった。昂ぶった感情のままに熱い唇でむさぼられる。
イーツェンは目をとじた。乾いた唇を吸われ、入りこんできた舌に唇の裏を探られてさらに唇をひらくと、オゼルクの舌が深く口腔を這った。
舌をとらえられ、まるでしゃぶるように執拗にもてあそばれる。熱をもった脈動が体の芯に疼きはじめるのを感じた。心をともなわない、反射的な、まるでしつけられた動物のような反応に、イーツェンは気怠く自分を笑う。
オゼルクの手は顎から離れたが、唇は離れず、息苦しいほどに強く重ねられていた。イーツェンの息を奪う。強い手が服を乱しながらイーツェンの体の脇をなでおろし、布の上から太腿を這うと、前側へするりと滑りこんだ。イーツェンは腰を引こうとしたが、腰骨の後ろがすでに机に押し付けられていてそれ以上下がれない。
下着とローブの上からまさぐられる、ひどくもどかしい感覚が下肢を這う。焦れったさに、かえって意識がそこに集中するようだった。唇が離れ、イーツェンは顔をななめにそむけて荒い息を吸った。牡をぐいと下からもみあげられて、痛みに近い感覚に呻く。乱暴にゆすられて口からは小さな悲鳴がこぼれたが、そんな荒々しさにすらイーツェンの体は反応した。
冷たい汗を帯びていた肌が潤むように湿り、腰の奥に重苦しい熱がよどむ。体をオゼルクの手にゆだねたまま、相手の肩に顔をよせ、イーツェンはぼんやりと床を見つめた。自分の心が欲望のふちに傾き、呑みこまれていくのがわかったが、そのことに何も感じなかった。布帯をとかれ、ローブの前合わせから入りこんだ手が太腿を這う。指の冷たさと愛撫の熱さに体を押し付け、かすれた呻きをあげながら、イーツェンの中にはひえびえとした荒涼がひろがっていた。
快楽に慣れた体は、なじんだオゼルクの手を、くちづけを、何も考えずに追い求めてむさぼりだす。それに抵抗せず、引きずられる重さのまま心が墜ちていく。いつもと何一つかわらない筈だったが、イーツェンは頭の芯がにぶく痺れているのを感じた。オゼルクの手は、イーツェンの体ではなく、まるでどこかちがうところを這っているようだった。
余裕もなければ、醒めているわけでもない。ただ、熱せられた自分が薄い膜一枚へだてた向こうにいるような、奇妙な現実感のなさがイーツェンをつつんだ。いや、現実味がないのは、イーツェンではなく、彼を取り巻く世界の方なのかもしれなかった。
ソファに座ったオゼルクが足でテーブルを押しやり、ずれたテーブルの空間に、イーツェンはひざまずいた。ボタンを外したオゼルクの上着を左右へ押し開き、腰帯を外してズボンの前をくつろげると男の足の間へ顔をうずめ、イーツェンは生あたたかいそれを口に含んだ。
舌腹を押すように男のものが固く勃ちあがってくるのは、奇妙な感覚だった。猛々しくはりつめていくそれは、くちづけとは別のなまなましさで、イーツェンの口腔を刺激する。ぬるりとなめらかな先端を含み、舌をからませて唾液に濡れた茎をねっとりとなめあげながら、イーツェンの口はオゼルクの反応を微細に感じとった。
──何故オゼルクは、自分にこんなことをするのだろう。
快楽の相手なら、いくらもいる筈だ。女は勿論、男も。それこそ技にたけた性奴隷にも事欠くまい。なのに何故、イーツェンにこだわろうとするのだろう。
(どうして‥‥)
頭に手がおかれ、ぐいとイーツェンの顔を押しこんだ。
「余計なことを考えるな」
ぼそっと、オゼルクが呟く。その声は、イーツェンの口を犯すものの熱さとは裏腹に乾いていた。性的な快楽をオゼルクが愉しんでいるのをイーツェンも知っていたが、彼が体の関係に溺れている様子はなかった。
イーツェンはもう一度、丁寧に舌を使いはじめる。やがてイーツェンが手をのせたオゼルクの太腿にぐっと力がこもり、口腔に精液があふれた。他人の温度が口に沁みていく。反射的な嫌悪に喉がしまりかかったが、イーツェンはこらえて、飲みくだした。
髪を引かれて顔を上げる。オゼルクの牡と唇との間を、白く濁った唾液の糸がつないだ。
オゼルクの目がイーツェンをじっとのぞきこむ。息苦しいまなざしだった。イーツェンをすみずみまで探り、彼の内にあるものを引きずり出そうとでも言うような。
何もない、とイーツェンは言いたくなる。オゼルクの求めるようなものも、欲しがるものも、オゼルクを満たすことのできるものも──何も、イーツェンは持っていない。あるのはただ怯えてちぢみあがった心と、うつろな体だけだ。何一つ、イーツェンからオゼルクが得られるものなどない。そう、わめきたかった。
体も明けわたした、服従もさし出した。これ以上何がある? 鎖と枷につながれ、男の前にひざまずいて、命じられるまま淫らな奉仕をする。そんなふうに人を支配し、打ち砕いて──
「‥‥もう、充分でしょう」
ぽつりと、イーツェンの唇から言葉がこぼれた。
オゼルクは無表情のままイーツェンを見おろしていたが、何も言わずに手を放した。床にへたりこむイーツェンを無視して服をととのえ、立ち上がる。帯をしめながら言った。
「ジノンの荘園へ行くそうだな」
「‥‥‥」
イーツェンは床を見つめた。そう言えばそんな話があった。招待され、それを受けた記憶はあったが、今のイーツェンには大した興味がなかった。城から彼を離そうというジノンの心配りだとわかっていても、今では、義務の一つのように味気なく感じることしかできない。
オゼルクがテーブルの脇に立ち、彼を見下ろした。
「客に会うことがあったら、名を覚えてこい。それと、手紙を探してこい」
「‥‥手紙?」
「書斎の手紙箱にあるだろう」
まるで、何でもないことのように言う。イーツェンは茫然と見上げた。
「盗みは‥‥しない」
「盗めとは言わん。目を通してくればいい。何を探せばいいかは、行く前に教える」
身をかがめると、オゼルクは右手の指先でイーツェンの頬をかるく叩いた。
「ジノンを探ると言ったろう。言葉を果たせ。今さら己の言葉を裏返しはすまい?」
「あなたはシゼを殺そうとした」
「あれは、余興だ」
微笑して、オゼルクは体をおこし、黒い革手袋を両手にはめた。黒ずくめの彼はどこかまがまがしく、顔の白さがきわだっている。額にゆるく落ちた金髪を払った。
「お前がジノンとたくらんだりするからだ。忘れるな、たくらみにはたくらみを返す」
「ジノンがそんなに怖いですか」
投げやりになった気持ちが、イーツェンに大胆な言い捨てをさせる。だがオゼルクは眉ひとすじ動かさなかった。
「叔父の後見を呑むことが、父がローギスを跡継ぎに指名した条件だった。ローギスが王になった時、あのお人が頭の上に居座ると言うわけでな。あの人も、まつりごとに興味などないような顔をしてたくせに、ここのところこの城に長く居る。目ざわりなことだ。‥‥それが目的だろうがな」
ぼそりと、最後の一言を言い捨て、机へ歩み寄ると手袋の指先に鉄の輪を拾い上げた。錆が幾重にも汚す奴隷の輪を、オゼルクは唇を結んで見下ろしていた。秋のうすい陽が青白い翳をつける横顔には、厳しくはりつめたものがあって、イーツェンは呑まれたように目がそらせない。
コトリと音をたてて机に輪を置き、オゼルクが踵を返して扉へ向かった。
「シゼの鞭打ち30と焼き印。お前はそれだけ私に借りがある。永遠とは言わんが、冬の間に返せ、イーツェン。己の言葉を裏切るな」
「‥‥‥」
相変わらずイーツェンを見もしないまま、返事も待たず、オゼルクはすべてを断ち切るような足音を最後に鳴らして部屋を出ていった。
狭い壁の間に入りこんで行くも戻るもできなくなったような、そんな気分だった。しばらく床を見つめていたが、イーツェンはのろのろと立ち上がり、ソファに重い体を沈める。半端に高ぶらされた体の熱が気持ち悪かったが、オゼルクの言葉にずしりと気が沈んでいた。
あれは取引だった。それは確かだ。そして、イーツェンが約束した己の役目を果たしていないのも、確かな事実だった。シゼがいなくなったからと言って、手のひらを返すように言葉を裏返すことはできない。イーツェンにとって約束や誓いは、そんなふうに軽々しくひっくり返せるものではなかった。
誓いを裏切るか、人を裏切るか。
これは、イーツェンが自らはまりこんだ罠だった。シゼのためにした約束も、その取引も後悔はしていない。自分のしでかしたことも承知している。だが、押しつぶされそうな息苦しさを、どうしたらいいのかわからなかった。
きっと自分は、オゼルクに逆らえない。それを悟るのが何よりも恐ろしい気がした。
ソウキが部屋に入ってきた気配があったが、イーツェンは膝に肘をついてうつむいたまま、顔を上げなかった。少年の足音がひたひたと近づく。ひそめようとしてひそめきれないその足音は、静かで揺らぎのなかったシゼの足音とはちがう。歩数も多い。ソウキの立ち居振る舞いの一つ一つをシゼとこまかく比べてしまう自分自身が、イーツェンは嫌いだった。
自分の前にソウキが身をかがめた時、イーツェンは何も考えていなかった。だが、少年の手がローブをたくしあげようとしているのに気付き、彼は仰天して身をちぢめた。
「何をする!」
「‥‥お世話を‥‥」
イーツェンよりも、怒鳴られたソウキの方が小さくちぢみ上がっていた。怯えた目でイーツェンの反応を探りながら、イーツェンの下肢の方へ曖昧な手を振る。乱れたままの自分の服と、オゼルクの愛撫に熱を持たされた股間の状態をローブの上から悟られていたことに、イーツェンは耳まで真っ赤になった。
「世話って‥‥いい。いらない」
身をすくめて立っているソウキの顔に色欲の気配はなく、ただ従順な奴隷として「主人」の面倒を見ようとしただけだと、イーツェンは気がつく。同時に、掃除も給仕も不器用なソウキが奴隷としてこれまでどんなふうに前の主人に仕えていたのか、暗然とした気分になった。
案の定、ソウキはその場に膝をつき、頭を垂れた。
「お世話をさせていただけませんか。‥‥殿下」
まだ慣れない呼び名をたどたどしく付け加える、その肩は小さく震え、全身で懇願していた。イーツェンに殴られることを恐れているかのように。
イーツェンは唾を呑みこんで、こわばっていた体を少しのりだした。
「ソウキ。本当に、いいんだ。本当に‥‥大丈夫だ。お前に怒っているわけではない。私は、お前をそんなことのために‥‥使う、つもりはない」
ソウキが顔を上げる。イーツェンは目を合わせて、おだやかにうなずいてみせた。
「大声を出してすまなかった。怒ってない。不興でもない。ただ少し、一人にしてくれないか」
ソウキはそれでもイーツェンの本心を探るように不安な目をしていたが、イーツェンの言葉に命令を聞き取ったのか、立ち上がって深く一礼した。
外から閂をかけられる音とともに一人きりで残されると、イーツェンは両手に顔をうずめて、首をうなだれた。イーツェンを慰めようとためらいなく膝をついたソウキの姿が、自分自身の姿のうつしのようにイーツェンの中でぴたりと重なって、吐き気をもよおす。だがそれはまさしく、彼の姿だった。怯えきったあのまなざしすらも。それはイーツェンの姿にほかならなかった。
「──」
大きく息をつき、イーツェンはぎこちない動きで立ち上がる。うがいで口をゆすいでから、隣室へ入って寝台へ浅く腰をかけた。オゼルクが半端に乱していった服を自分でひらいて下帯をゆるめ、己の屹立に手をふれた。さっさと放出してしまおうと握った手を単調に動かすが、まだ泥濘のようなにぶさが体に残っていて、勃ち上がっているくせに反応はぎこちなかった。
これならおとなしくソウキの手を借りたほうがましだったかもしれないと、イーツェンは歪んだ笑みをうかべる。
(──世話、か)
塔で、あのソファに座って、シゼの手を借りたことをぼんやり思い出す。追わないようにしていた記憶。欲望をかかえこんだまま部屋へ戻されたイーツェンを見かねてだろう、シゼはあまり表情を見せることなく、手での愛撫を与えて解放へ導いた。
あの時、シゼは義務感からそうしているのだと思った。それこそイーツェンを「世話」している、それだけのことなのだと。そう思いこまなければイーツェンは歯止めがきかなくなりそうだった。それでもいいと投げやりにシゼの体を求め、彼の拒否に傷ついた。
(愚か、だった──)
今なら、あれがシゼの優しさだったのだと、イーツェンにもわかる。不器用に、だがシゼはいつもイーツェンのことを考えていた。
心よりも体がシゼの手の熱を思い出して、腰の中心がぞくりと熱くなった。敏感な先端を指先がかすめる。シゼの指の動きを、ためらいのない愛撫の記憶をなぞりながら、イーツェンは目をとじて手を動かした。先端からこぼれた滴を指でひろげ、なめらかになった動きで茎をしごいていく。
全身の血が熱を帯びて腰に凝縮する。短く呻き、左手を先端にかぶせると、手の中に熱い精液があふれた。
湿った吐息をつき、イーツェンは布で手を拭ってから、手水を使って熱を洗い落とした。
手を洗いながらふっと小さな笑みをこぼす。一度も身を重ねたことなどないと言うのに、心だけでなく体までもシゼのぬくもりを恋しがっているのが、奇妙に悲しく、滑稽に思えた。二度とうずめられることのない空虚が自分の中に棲みついているのを、深く思い知っていた。