血の匂いは消えなかった。
 むせるほどに肺を重く満たし、そこからどろりと肉に沁みてくるような、くらい匂いだ。生ぐさく、奇妙な熱を帯びて、それはあたたかい。
(──人を斬る、というのは)
 イーツェンはぼんやりとくらんだ頭で考える。自分の体温よりも、あの瞬間血の匂いとともにイーツェンの中へ入りこんできた熱の方が、ずっと強く鮮明なものに感じられる。
(いったい、どういうものなのだろう‥‥)
 剣の重さをイーツェンは知っていたが、その鋼が誰かの肉を斬るためのものだということを、本当の意味で考えたことはなかった。誰かの命を斬ることを考えたこともなければ、ましてや実感したこともない。
 躰の内側に熱が入りこんできて、イーツェンは身をよじった。上から腰をかかえこまれ、膝を胸につくほど折り曲げさせられて、まるで身動きがとれない。むっと鼻をつく生々しい匂いがたちのぼり、全身をぬるく濡らすものが汗なのか、血なのか、見失いそうだった。
 ローギスが思いきり突き込み、深みをえぐられる。自分を貫く男の体の熱さは鮮明に感じとれるのに、自分自身の体は奇妙にうつろで、現実味がなかった。一瞬の、火花のような快感と痛み。
 強烈な感覚に喉をそらせ、イーツェンは腕をのばして、自分にのしかかっている男の腕をつかんだ。すがるものがなくては、底のない闇へずるずると呑みこまれてしまいそうだった。
 足の間で鎖が鳴る。ローギスが枷のついた状態でイーツェンを犯すのを好むのか、それとも枷を外させるのが面倒なだけなのか、イーツェンにはよくわからない。だがこうして、体を歪めるほどに折られた体勢で容赦のない男の重さを受けとめる行為は、たしかにイーツェンの中の何かを満たした。
 ローギスは、イーツェンに頓着しない。イーツェンの快楽にも痛みにも、彼は関心がない。ただイーツェンの体を道具のように扱って、自分の欲望だけを思うさま満たす。一方的で荒々しい行為には、心のつながりのようなものは何一つ存在しない。
 そこに歓びはない。だが、オゼルクの手で心をねじ伏せられるように快楽を引きずり出される行為より、こうして物のようにただ肉体を蹂躙される行為には、イーツェンを深く溺れさせるものがあった。
 ひたすらに、体の内側の熱だけをむさぼる。ローギスがイーツェンの体をむさぼるように。ためらいなく純粋な愉楽に押し流されながら、激しさをました男の動きに、イーツェンはかすれ声で呻いた。体も心もつきくずされて粉々になってしまいそうだった。
 深く、打ちつけるように牡を突きこんで、ローギスが動きをとめる。荒々しい息が男の体を大きくゆすり、イーツェンの奥にどろりとした熱がはじけた。
(血の匂いがする‥‥)
 ぐったりと頭をあおのかせ、イーツェンは目をとじた。その匂いは生々しい温度で、彼の内側を満たしていく。ゆっくりと、容赦なく。何かが喉元までつまって、イーツェンはあえごうとしたが、息は体の中へ入ってこなかった。
 ローギスがかかえこんでいたイーツェンの足を離し、身を起こす。男の存在が後ろから抜かれると、体がすべてからっぽになったような気がした。皮膚だけしか残っていない、うつろな生き物。その中に血のような匂いと熱がどろどろと満ちて、つまっていく。イーツェン自身を圧しつぶすほどに、どこまでも。
 ふいに堪え難くなった。口を押さえ、もがいて、イーツェンは体を寝椅子へうつぶせに返した。すえたものが胸から喉へと上がってくる。どうにか抑えこもうとしたが、息ができずに目に涙がにじんだ。
「ほら」
 髪をつかまれ、うずくまっていた顔を持ち上げられる。同時に顔の下に布が当てられ、イーツェンはこらえきれず嘔吐していた。食事はあまりとっていないが、ワインまじりの嘔吐を数度くりかえし、やっとおさまると肩で息をついた。
「‥‥すみません」
 うつむいたまま、呟く。オゼルクは嘔吐物を内側にくるりと巻き込み、布を丸めた。それは誰かの替えのシャツに見えるが──と少したじろぐイーツェンに何も言わず部屋を横切り、汚壺にそれを放り込んだ。
「飲みすぎるからだ」
「‥‥‥」
 渡された布で口を拭い、イーツェンはオゼルクの手から水の杯を受け取った。厚みのある硝子でつくられた半透明の丸杯は、大きさのわりに手に少し重い。
 オゼルクは上着こそ脱いでいるが上下とも乱れたところのない服装で、水で口の中の不快感を流そうとするイーツェンを見ていた。彼はあまり愉快そうではなかった。
 暖炉に小さな火は入っているが、夜も深い室内の空気はつめたい。汗が冷え、イーツェンは裸の身を小さくふるわせた。ローギスはイーツェンなどいないかのように悠然と裸の上半身を拭い、自分の水を一気に飲み干した。
 彼の心にイーツェンへの興味などかけらもないのはわかっていたが、存在ごと無視されて、思わずイーツェンは口元だけで笑っていた。欲望を果たすためだけの道具として使われているのに、そのことに強い快楽をおぼえる自分自身が滑稽だった。
 ローギスが自分に関心がないと知れば知るだけ、イーツェンは彼との行為にためらいなく溺れた。ローギスは、イーツェンに何も求めてこない。ただ肉体と、行為の間の服従だけを求めた。話しかけられないので、返事をする必要もない。いたわりもまるでないが、悪意を向けてくることもない。ローギスの心の裏をおしはかる必要も、何かを演じてみせる必要もなく、どの程度の距離をおいてつきあうべきなのか、信用できる相手なのかどうか、イーツェンを悩ませることもなかった。
 殺伐とした関係。そんなものに満たされる自分自身が哀れだった。体だけをさしだす、まるで、男娼の役回り。イーツェンは心の底からばかばかしく、笑い出したくなる。男の下で腰を振る男娼、それが自分の正体でなければ、いったい何だ?
(──それでも)
 シゼは、そんなイーツェンを大切にしていた。傷つけまいと。イーツェンの体で自分の欲望を果たすことよりも、ただ彼を抱きしめることを選んだ。もう汚れきった躯だとわかっているはずなのに。自分自身を嘲笑うことはできても、イーツェンにはそんなシゼの不器用な真情を笑うことはできなかった。
(シゼ‥‥)
 療法師にきちんと傷を見てもらっているだろうか。あの薬はどれほどの強さがあるものなのだろう。あの傷は、命にかかわるほど深くないはずだ──だが、イーツェンが思ったより深い傷だったとしたら。それに、痺れ薬でも量を越せば危険なはずだ。
 ぼんやり考え込んでいたイーツェンへ、オゼルクが寝着の上衣を投げてよこした。白いビロウドでふち取られた灰白色のローブを、イーツェンは袖を通さず羽織って、冷えていく体をうずくまるようにちぢめた。ゆったりとした厚地のローブは裏地に絹まで使われていて、この上等なローブはきっとローギスのものだろう。こんなものをイーツェンが使っていいのだろうか。
 持ち主へちらりと目を向けると、ローギスはぐっと何かを噛みしめるような表情で手早く服をととのえ、オゼルクへ小さく手を振って、相変わらずイーツェンの存在を無視したまま部屋を出ていった。扉がしまる。
 まだ夜中の筈だが、一体何の用があるというのだろう。扉に浮き彫りになった車輪文様を何となく眺めていると、オゼルクが言った。
「母上のお召しでな」
「‥‥‥」
 イーツェンは、ぼんやりとまばたきした。ローギスとオゼルクの母──その人が今、この城にいるということを、イーツェンは知らなかった。彼女はこの石の城ではなく、もっと華やかで暮らしやすい豪奢な館にいると、前に人が話しているのを聞いたことがある。そこにはまた、この城にあるのとは別の、「もう一つの王宮」とすら言われる集まりがあり、王族や役人の妻たちとともににぎやかな遊びをしていると。
 今でも王の妻の座にいる筈だが、今宵の宴に、彼女は顔を見せていなかった。
 オゼルクは壁際に並んだ二つの椅子のひとつを暖炉脇へ寄せると、イーツェンの方を向いて腰をおろし、足を組んだ。彼の動きには、兄の獰猛さとはまたちがう獣じみた優雅さがあった。
 組んだ足に肘をつき、頬杖になる。金の髪が耳元から頬にひとふさ落ちた。影のある口元を歪める。
「人を、そうやって動かすのが好きなのさ。息子が自分の思い通りに動くかどうか、時おりつまらない無理を言ってたしかめている」
 ひえきった声には、自分の母親に対する愛情などかけらもなかった。むしろ憎しみに近いようなつぶやきに、イーツェンは茫然とする。
 オゼルクは自分の家族に親しみを見せたことが無い。兄に対しても、服従はしているようだったが冷淡で、父王には上辺の敬意をとりつくろってみせている。そして、母親。
 しんと冷える身を、イーツェンはさらにちぢめた。
「‥‥あなたは行かなくていいんですか」
「私は母の気に入りの息子だからな」
 微笑したが、目はつめたかった。
「私に無茶は言わない、あれは。10日に一度ほど手紙を書いてやればおとなしくしている。情人に書くような甘ったるい返書をよこしてくるよ」
「‥‥‥」
 兄弟をあからさまに分けへだてて扱っているということだろうか。だが、話からすると母親の愛情を強く受けているはずのオゼルクが、ひややかに母親をさげすむ言葉はひどく寒々しかった。
 ──オゼルクは、何がほしいのだろう。
 イーツェンにはそれがわからない。何を望み、何を欲しているのだろう。オゼルクは、普段から大抵いつも楽しそうにしていたが、行為の最中にも終わったあとにも、満たされた様子はまるでなかった。彼の中には大きな空虚があって、それが時折オゼルクを駆り立てているようにも見えた。
「気分はどうだ?」
 いきなりたずねられて、イーツェンは驚いたが、とっさに答えられずに首を振った。オゼルクは青い目でイーツェンをじっと見ている。その目で見すくめられると、イーツェンは体が痺れてくるような気がする。
「人が斬られるのを見たのははじめてか?」
「‥‥‥」
 今夜のことを思い出すと何か叫び出してしまいそうで、イーツェンはローブの前をかきあわせる手をぐっと握りしめた。小さく身を丸めると、脚の間でこすれた鎖が小さく鳴った。
 オゼルクが背もたれにもたれかかり、前髪を長い指でかきあげた。
「その鎖を誰がつくっているか知っているか、イーツェン」
 足にふれる細い鎖は、つめたく肌を這う。身を動かさないようにしながら、イーツェンは床を見つめた。
「鎖鍛冶師でしょう」
「まあな。だが、ただの鎖作りではないぞ」
「‥‥?」
 オゼルクが何を言っているのかよくわからず、だが不吉なひびきだけは聞き取って、イーツェンは視線を上げた。オゼルクは物憂げに、睫毛の下からイーツェンを眺めていた。
「この国にはな。人が忌む職がいくつかある。皮なめし、膠作り、墓掘り、奴隷商人、娼館の主」
 ユクィルスでは娼婦そのものは忌み職ではないのだが、娼館を営むことは強い蔑みを受けるらしい。どちらもそれほど禁忌ではないリグの民にしてみると、ふしぎな話だった。
 オゼルクは淡々とつづけた。
「そしてまた、奴隷につける鎖や首輪をつくる鍛冶屋も、忌まれ、さげすまれる。彼らはふつうの鎖鍛冶師とも区別され、人鎖工と言われる。ひとたび人鎖をつくった者は、決してふつうの鍛冶師には戻れない。剣や鎧どころか、馬の蹄鉄を打つこともゆるされず、ただ人をつなぐための鎖だけをつくらねばならん」
「‥‥‥」
「そう、お前の鎖をつくるのも彼らだ、イーツェン」
 足の間の鎖がいきなり氷のようにつめたく感じられて、イーツェンは細い息であえいだ。オゼルクの言葉の一つ一つに自分の誇りを砕かれ、すりつぶされていく。
「何故お前の鎖をシゼ以外の誰かが外さないのか、いちいちあの男にばかり鎖を扱わせていた理由を、お前は考えたことはなかったか? この国で、人並みの誇りを持つ男は、奴隷の鎖を自分の手で扱ったりはしない。異国の、奴隷あがりでもなければな」
 その瞬間、イーツェンはテーブルの上のグラスをひったくり、オゼルクへ向けて投げつけていた。
 オゼルクはよけようともしなかった。胸元にぶつかったグラスが絨毯の上ではね、一瞬遅れて、三分の一ほど中に残っていた水が服に細かくとびちった。
 数滴のしずくが頬をつたう。それを指の背でぬぐい、オゼルクは表情のない目をほそめた。
「自分が、まともな立場にいるなどと思うな。この城で鎖につながれているのは、獣と囚人と奴隷だ。お前はその中のどれだろうな、イーツェン? 人の前で散々四つ足で這ってみせもしていたな、そう言えば」
「‥‥じゃああなたは何だと言うんですオゼルク」
 自分がしゃべっているのだという自覚のないまま、耳に聞こえてくる声は恐ろしくひややかだった。声とは逆に、頭に血がのぼったイーツェンは己をとめることができない。
「私を兄上にさし出して、あなたは、あなたこそは、ご立派な奴隷商人か娼館の主じゃありませんか? ローギスは私を抱きながらあなたを嘲笑っている。あなたに借りなど、彼は何一つ感じていない」
 ガタンと椅子を鳴らしてオゼルクが立ち上がり、イーツェンはびくりと身をすくめた。声が途切れ、水を投げた時にすべりおちたローブをかきあわせながら寝椅子から逃げようとしたが、大股に寄ったオゼルクにぐいと髪をつかまれた。ねじるように寝椅子へ組み伏せられる。脚の間に張った鎖がイーツェンの動きを不自由なものにしていた。
 取り返しのつかないことを言ったという恐怖に、肌が粟立つ。だが同時に、腹の底では怒りが煮えていた。イーツェンの誇りなどどうでもいい──どうせ地にまみれた誇りだとは思うが、シゼのことを言われるのは許せなかった。シゼがどんな思いでイーツェンの枷を──あるいはレンギの枷を外しつづけてきたのか、そこにあるものを、痛みを、オゼルクなどに軽々しく馬鹿にされたくはなかった。
 体の芯までさしつらぬくような青い目で、オゼルクはイーツェンをのぞきこむ。彼の顔色は白く、唇にはゆがんだ笑みがやどって、頬骨をなぞるようにうっすらと赤みが浮いていた。息にはワインの匂いがした。
 身がすくむ。まるでしつけられた犬のように、この目を見るとイーツェンは動けなくなる。
 オゼルクの左手がイーツェンの首すじを這った。ローブは一連の動きでまたすべりおち、イーツェンの裸の体がむきだしになっている。髪をがっちりつかまれて身動きできないイーツェンの肌を指がすべり、鎖骨のくぼみをさすり、胸の中心をついっとおりると、いきなり右の乳首を爪先で押しつぶすようにおさえた。
 先刻の荒々しい性交のためか、肌寒さのためか、緊張のためか、オゼルクの指先で乳首はかたくとがっていた。敏感になった先端に爪が容赦なくくいこんで、イーツェンは悲鳴をこぼす。やわな皮膚にビリビリと痺れるほどの苦痛がはしり、体の芯までが引きつれた。
「ひ──、あっ!」
 ぐり、とこねまわされる。先端にくりかえし与えられる愛撫には、苦痛しかなかった。しばらくイーツェンをもてあそんでから、オゼルクはイーツェンの体を寝椅子から引っ立て、暖炉の前の絨毯へつき倒すように這わせた。イーツェンに膝をつかせ、また髪をつかんで、服の下から引き出した自分のものへ引きずりよせる。
 男のそれはすでにきざしを見せていたが、イーツェンが舌を這わせるとさらに硬く大きさをました。イーツェンは抵抗せずただ慣れた行為をなぞり、くわえこんだ口内で生々しく温度を持つものをなめ、吸い上げた。
 しばらく奉仕させ、オゼルクはイーツェンの顔を引き上げた。イーツェンは半開きの唇から早い息をつきながら、思考が痺れたままオゼルクを見上げる。
 心のどこかで、自分を嘲笑う小さな声がした。獣か、奴隷か、囚人か。
 ──そのすべてなのだろう。
 獣のように命じられれば這い、奴隷のように自らの意思をへし折られ、見えない檻に囚人のようにとらわれている。鎖は、イーツェンの体も心も縛りつけていた。
 オゼルクはイーツェンの顔をじっと見おろしていたが、ふいに笑った。
「お前はな。そんな目をするから、男に執着される。わかっているか?」
「‥‥‥」
 言葉が耳にぼんやりひびいて、何を言われたか一瞬わからない。イーツェンはまばたきして、言葉を返すこともできずにオゼルクを見つめていた。
 長い指がイーツェンの頬をなぞり、首すじをなぞる。肩に残るローギスの噛み痕を指先でなで、オゼルクはイーツェンに顔をよせた。
「いつまでも、最後のところで砕けようとしない」
「私、は──」
 ちがう、と言いかかって、イーツェンは声を呑んだ。オゼルクの唇が兄のつけた肩の傷に吸いつき、歯をたてていた。熱い痛みからのがれようと身をよじるイーツェンを、オゼルクが抱きよせようとしたが、いつまでももがく彼に業を煮やしたか、自分の腰帯を抜くと左手にイーツェンの両手首をまとめてつかんだ。
 手際よく布の帯で手首をいましめ、動くイーツェンの頭を絨毯に手荒く抑えつけて静かにさせると、オゼルクはあまった帯のはじをテーブルの脚に結びつけた。
 腕を前にのばして腹ばいの体勢になったイーツェンの後ろへ回り、尻をぴしゃりと叩いて腰を上げさせる。イーツェンは左の頬を絨毯に押しつけ、オゼルクの手がつかむ腰を高く持ち上げながら、何も考えまいとした。何一つ。ただ己の意志を殺し、思考を殺し、与えられるものを受け入れようとする。苦痛も、快楽も。
 鎖にはばまれてうまくひらかないイーツェンの脚をオゼルクがまたいだ。イーツェンの尻肉を強くつかんで左右へ押し広げながら、乱暴な動きで後ろから押し入る。すでにローギスとの行為で慣らされていた奥は、かすかな痛みと引きつれの感覚だけでオゼルクの牡を受け入れ、熱く締めつけた。
「ぐ‥‥」
 奥まで深くうずめられ、イーツェンは内臓がせりあがってくるような圧迫感に呻く。手は前へのばしたままテーブルの脚へ結びつけられて、自由にならず、絨毯に押しつけた顔が布地にこすれ、肩がきしんだ。
 オゼルクがゆっくりと腰を引く。体の内側が引きずり出されていくような異様な感覚が、身の芯をぞろりと這った。もう一度、熱い牡が肉襞を擦りあげながら深々と貫くと、イーツェンはテーブルの脚を指をくいこませるようにしてつかみ、尻をゆすった。
「う、あ‥‥、ああっ!」
 満たされ、肉の内側をえぐるようにかき回される。わきあがってくる熱い奔流に身をゆだね、イーツェンはオゼルクの動きをねだって腰を振った。オゼルクの動きはいつもよりずっと荒々しく、まるで先刻までの兄の動きをくりかえすようにイーツェンをむさぼり、深く犯していく。力強い突き上げが体全体にずしりと響き、イーツェンはたまらず嬌声をほとばしらせた。何も考える余地がないほど、ほかの何かを感じる余地もないほど、満たされ、支配されていく。
 男に抱かれることに慣れきった体はたやすく後ろの快感に溺れ、火照りだした全身がたちまち汗に濡れた。
 オゼルクが荒く動きながら、かすれた声で呻いた。
「何故、とめた、イーツェン──」
「‥‥‥」
 答える余裕どころか、イーツェンはオゼルクが何のことを言っているのか考えることすらできなかった。ひらいた口でただ声もなくあえぐ。がむしゃらに腰をゆすり、深く入りこんだものを熱い襞でしめつけた。角度をつけて突き上げられると、視界が白くなる快感に、身を小さく痙攣させた。
 オゼルクの手がイーツェンの牡をつつみ、擦りあげる。ほとんど一瞬で、イーツェンは強烈にのぼりつめていた。絶頂にふるえる体をオゼルクが数度突き上げ、しめつけてくる肉襞の中へ己の欲望をぶちまける。体に注ぎこまれる熱さを感じながら、イーツェンは荒い息を吐いた。
 少しの間、オゼルクは動かなかった。イーツェンはぐったりと絨毯に頬を押しつけ、細かな凹凸を肌に感じながら、ぼんやりと色をながめる。絨毯に擦れた乳首が痛んだ。ぬるりとした熱が満たす後ろに、まだオゼルクのものがあるのを感じる。放出で萎えたそれは、それでもはっきりと、男の熱をおびていた。
 オゼルクがどうして動かないのか、イーツェンにはわからない。後ろにいる男の表情を見ることもできず、このままもう一度犯すつもりだろうかと気だるく考えていると、少しかすれたオゼルクの声がした。
「二度目の機会は、ないぞ」
「‥‥‥」
 やっと、イーツェンはオゼルクが何を言っているのか悟る。シゼのことを言っているのだ。シゼが自分を殺そうとしていたことを、それをイーツェンがさえぎったことを、オゼルクは知っているのだった。
 総身の熱が一気に引き、戦慄に全身が凍りついた。イーツェンの反応を、つながったままの奥の反応に悟ったのか、オゼルクは低い含み笑いをこぼすとイーツェンの中から己を引き抜いた。
 横倒しにぐたりと身をくずし、イーツェンはオゼルクの動きを目で追った。オゼルクははだけた下衣の前を直し、服をととのえると、まだ両腕をしばられたままのイーツェンを見おろした。頬にあった赤い色がいっそう強まっていて、この男はもしかしたら酔っているのかとイーツェンはようやく気がついたが、ただ黙ってオゼルクを見上げた。
 何がおもしろいのか、オゼルクは頭をそらせるようにしてくくっと笑う。
「そうだな。ローギスは私に何一つ借りなど感じていないだろうな。あれはただ、私のものを自分のものにしてみないと気が済まないだけだ」
「‥‥前にも言った、私はあなたのものでは──」
「どうでもいいのだよ。実際がどうであるのかは」
 あっさりとさえぎって、オゼルクは膝をつくとイーツェンの手首を結ぶ帯をほどきはじめた。イーツェンが行為の最中に思わず引っ張っていたせいで、結び目が締まっている。小さく舌打ちした。
 辛抱強くテーブルの脚から布をほどくと、イーツェンの手首も自由にし、イーツェンの頬を手の甲でかるくはたいた。
「ぶつぶつ言うな。お前は愉しんでいるだろう、イーツェン? あの男に犯されている時のお前の顔ときたら、まるっきり淫売だ。薄っぺらで、かわいい顔だぞ」
 イーツェンは無言で身を起こし、ローギスが放り出していった布を寝椅子から取ると、太腿をつたいおちた男の精を拭った。脚の間を拭おうと、膝立ちになって脚を鎖の長さギリギリまでひらくと、鎖がかすれた金属音を鳴らした。
 人鎖、と、イーツェンは胸の内でつぶやく。それをつくる、忌み職の男。奴隷と囚人をつなぐ鎖をつくる鍛冶師。
 鎖を見つめ、イーツェンは機械的な動作で体を拭った。これを外し、またとりつけた、シゼの手の動きを思い出す。手早く、丁寧に、イーツェンの肌にふれないようにして、シゼは枷を扱ったものだった。
 レンギをいましめ、イーツェンをいましめてきた鎖。そのにぶい色を見つめていると、不意にイーツェンの胸に憎悪がこみあげ、彼は、自分が心底この城を憎んでいることを悟った。ローギスやオゼルクを憎む以上に、それは深く純粋な怒りだった。
 人に鎖をかけ、誇りを奪い、城へつなぎとめて物のように扱う‥‥
 オゼルクを殺そうとしたシゼをとめたのは、シゼの命が大切だったからだ。あそこでオゼルクへ剣を向ければ、狙いが成功しようがしまいが、シゼの命はない。そんなことをさせられるわけがなかった。
 だが同時に、イーツェンはオゼルクだけを憎んでいるわけでもなければ、彼がいなくなれば自分が自由になれると思っているわけでもなかった。深くイーツェンをつなぎ、傷つけているのは、この城──そして、それが象徴するユクィルスの国そのものだった。
 オゼルクが死んでも、イーツェンの鎖は外れない。オゼルクが死んでも、ユクィルスはリグに圧力をくわえつづける。イーツェンはその重みからも、脚にくいこむ革枷からも、のがれることはできない。この城があり、ユクィルスがある限り。
 生まれてはじめて、イーツェンは心底なにかを憎んだ。そしてこの憎しみがこの先の自分を支えていくのだろうと、心のどこかで悟っていた。


 結局イーツェンとオゼルクは、そのままローギスの部屋で朝までをすごした。オゼルクはさっさと寝椅子で眠ってしまい、イーツェンは毛布をかぶって暖炉の前でうずくまると、小さな火を時折かきたてながらぼんやりと朝を待っていた。
 じっとしていると、どうしてもシゼのことを考えてしまう。どうしているだろう。どうするのだろう。無事なのだろうか、彼らが予定した通りに城を出られるのだろうか、それともまた彼らは色々なことをやり直さなければならないのだろうか。そんなことをずっと考え続けながら、イーツェンは服の上から自分の鎖をゆらすようにもてあそび、声を出さずに少しだけ泣いた。
 ローギスは戻らず、朝になるとオゼルクは侍従の一人をつけてイーツェンを塔へ戻した。
 塔へつながる扉番の兵士はイーツェンを見るとうなずき、侍従と役目をかわって自分が部屋までイーツェンに付き添った。侍従に付き添われ番兵に付き添われ、イーツェンはシゼの不在を噛みしめずにはいられない。
 階段をのぼりおわったイーツェンは、足をとめてまばたきした。見知らぬ、痩せた少年が、扉の前に所在なげにたたずんでいる。彼はイーツェンに気がつくと丸まっていた背中をぴんとのばし、深々と腰を折った。
 番兵はイーツェンをそこに残し、戻っていってしまう。少年は頭を下げたままじっと動かず、イーツェンはどうしたものかと訳もわからず途方にくれていたが、相手がイーツェンに話しかけられるのをひたすら待っているのに気付いた。自分から声をかけることを、許されていない。
 ──奴隷だ。
 胸の奥でむかつく熱が動いたが、それをおさえて息を吸い、イーツェンは数歩近づいた。彼の怒りも痛みも憎しみも、この少年のせいではない。
「頭を上げていい」
 はたして、少年はバネ仕掛けのように背すじを正した。まだ15、16というところだろうと思うが、食事のせいだろう、肩から首すじに骨の形が浮くほどやせていて、年ははっきりとはわからない。髪は短く、無造作に刈られていて、怯えを含んだ目でイーツェンを見つめた。首の根元を、はっきりと見える形で短い鎖が巻いている。
「名前は? あと、用件は?」
 くたびれはてていたが、イーツェンはなるべく無愛想にならないようにたずねた。少年は床に視線をおとす。
「ソウキ。と、申します、ご主人さま。その、お世話を‥‥その」
 ご主人さま、の言葉にイーツェンが面食らっていると、ソウキと名乗った少年は手に持った布包みをイーツェンに見せた。片手に乗るほどの包みの中に、イーツェンの枷の鍵がつつまれていた。
 鍵の輪の色を、イーツェンはじっと見つめる。鉄の輪の、いつも手がふれるところが、磨かれたように光っている。
 ──それは、シゼがいつも腰につけていたものだった。イーツェンの、脚枷の鍵。
「‥‥そうか。入って」
 イーツェンは溜息を吐き出すと、自分で扉を開き、重い体を引きずるように室内へ入った。ソウキはしばらくちらちらとイーツェンの顔色をうかがっていたが、イーツェンが目で命じるとつづいて中へ入り、怯えたように身をすくめて立っていた。
「誰に命じられた?」
「その‥‥城の役人さまに‥‥」
「その鍵は、役人からもらったのか?」
 そうたずねると、ソウキはうなずいた。イーツェンは内心の落胆をおさえる。もしシゼから渡されたというなら、シゼのことを聞こうと思っていたのだが、この少年はシゼとは何の接点もないらしい。
 ──枷の係として、この少年を、城がよこしたと言うことは‥‥
 シゼは城から出られたのだろうか。それとも怪我か薬で動けなくなっているのだろうか。まさかオゼルクが彼の身柄に手を回すということはないだろうが──
 イーツェンに、何一つ知るすべはない。唯一、彼に成り行きを教えてくれるだろうジノンは、二日前から王の使いで近隣の砦に出ていて、城を留守にしていた。
 イーツェンは溜息を殺して、おどおどと床を見つめている少年へたずねた。
「その鍵が何の鍵だかは、知っているか?」
「はい、ご主人さま」
 その呼び名は非常に気にくわなかったが、今ここで呼び名にこだわるには疲れきっていた。それについては後回しにすることにして、ソウキへうなずく。
「ではすまないが、外してくれないか。体を洗いたい」
 ソウキがイーツェンの前へためらいがちに近づくと、イーツェンはローブの裾を自分でまくり、布をたぐって太腿までをあらわにした。シゼを前にしてのこの行為には慣れていたが、あらためて人にこうして脚と枷をさらすとはげしい羞恥がこみあげてきて、表情をうごかさないよう堪えるのがやっとだった。
 むきだしの脚と太腿に装着された枷を目にして、まさかこういうものだとまでは思っていなかったのか、ソウキは仰天した顔をした。だがイーツェンが辛抱強く待っていると、彼はふるえる手に鍵を取って床に膝をついた。
 たどたどしい手が太腿にふれ、イーツェンはぎくりと身をこわばらせたが、こらえた。鍵の回し方一つにも苦労する様子で、手間取りながら、ソウキは枷を自分の右側から外していく。ひたすらにイーツェンは待ったが、少年が枷を外し終わるまでおそろしく長い時間がたったような気がした。
「ありがとう」
 枷が外されると礼を言い、ほっとしてローブをおろす。そのまま続きの奥部屋へ入っていこうとしたイーツェンは、うろたえてきょろきょろしているソウキに気付いて立ちどまった。
「‥‥下がってていい。閂をかけていってくれ。用があったら、ベルを鳴らす」
 そう命じると、ソウキは勢いこんでうなずき、一礼して部屋を出ていった。ふうっと長い溜息をつき、イーツェンは奥の部屋へ歩み入る。
 服を脱いで湯浴み場の仕切りをまたぐと、水がめから手桶で水をすくい、身を切るような冷水で体を拭った。左肩についた歯形は赤黒くなっている。それを見てまた溜息が出た。
 肌を洗い、体の奥に残された男の精液も、歯を噛んできれいに洗い出した。男の匂いがやっと消えたような気がしたところで、ひえきった体で立ち上がる。肌をぬぐいながら湯浴み場を出ると、居室へ戻って櫃箱から新しい服と下着を取りだし、裸の体に手早くまとった。
 次の鐘が鳴ったら礼拝堂へ行かねばならない。その前にあの少年を呼んでまた枷をはめねばならないのかと思うと、それだけで気持ちが深々と滅入ったが、ソファに座りこんだイーツェンは大きく首を振った。自分の頬を一つ叩いて、気合いを入れる。
 仕方のないことだ。割り切って、耐えていくしかない。自分でそれを選び、自分でシゼを遠ざけたのだ。
(シゼ‥‥)
 首を動かした拍子に、机のあたりが目に入った。何かの違和感につかまれて、イーツェンは動きをとめる。何がおかしいのかわからない。じっと机を見つめたが、机上には見慣れたものしかなく、別におかしなところはない。しばらく小首をかしげていたが、イーツェンはもう一度、用心深く、首を振る動きをくりかえしてみた。
 視界のすみを、ちらっと何かがよぎる。そこで動きをとめたが、まだわからない。だが違和感はたしかに強くなって、胸がざわついた。目の焦点をぼかして全体を見ながら首を振り、棚あたりにこの感覚の元がありそうだと見極めると、棚をじっと見つめる。刻むようにはじから棚を見ていたが、ふいにイーツェンははっとした。
 ──蝋板。
 棚の下の方に立てて置いてある二枚の蝋板の一枚が、微妙にずれて棚からはみ出ている。わずかなずれだが、イーツェンは決してそんなふうに蝋板を置いたりはしない。
 はじかれたように立ち上がって、イーツェンは机へ駆け寄り、棚からその蝋板を抜いた。表へ返し、ならした蝋の表面へ目をはしらせて──彼は、目に涙があふれてくるのを感じた。
 拭うこともできずに、その場にへたりこんで、膝の上の蝋板を見つめる。塵がまじり、黄色くにごった蝋の表面。そのかたすみに、鉄筆でひっかいた文字がしるされていた。たどたどしく、角張った筆跡がしるした、リグの文字──それは、イーツェンが書き方を教えた、シゼの字だった。
 文字を教えると約束し、ユクィルスの字を中心に教えたが、シゼはリグの文字も知りたがったのだ。イーツェンもリグの字を教えるのは楽しかった。その時に見慣れたシゼの字が、蝋の上にしるされている。
 ──"いつか"。
 いつか、と。そこには短く、それだけが書かれていた。
(いつか‥‥)
 そうシゼに語ったのはイーツェン自身だ。いつか。
 子供が書くような下手な字を見つめ、削られた蝋の表面にふるえる指でふれて文字をなでながら、イーツェンはいきなり声をあげて笑った。宴に出る前、蝋板にこんな文字はなかったし、きちんとしまわれていた。それは確かだ。つまりこの文字は、シゼが、昨夜か早朝のうちにこの部屋へ立ち戻ってここに記したものなのだった。きっと、荷を取りに塔へ戻った時に書き残していったのだ。
 ──シゼは無事だ。
 荷を取り、イーツェンへ言葉を残した。自分は無事だと。
 涙が蝋におちる。熱い涙だった。
(いつか)
 そう語った、イーツェンの言葉への、これは返事。いつか、と。
 これがシゼの別れの言葉なのだと、イーツェンにはわかる。さよなら、とは書けなかったシゼの思いに胸がつまってどうしようもなく、蝋板を抱きしめると彼は体中をゆするように笑った。涙は頬をつたいつづける。
 今ごろきっとシゼは、朝に開放された城門を抜け、堀を渡って跳ね橋の向こうへと歩み出し、城から自由になっている。シゼは無事で、そして、自由だった。
 身を二つに折って声を立てて笑いながら、イーツェンは目をとじ、両手で抱いた蝋板を胸にきつく押し付けた。体も心も嘘のように軽く、疲れ果ててはいたが心は澄明だった。涙をぬぐって、机の脚にもたれて座りこみ、イーツェンは長い間泣きながら笑っていた。
 ──いつか。


 きっと、いつか‥‥

第二部完