男の剣が描く軌跡はなめらかで、動きには大きな緩急がついている。ゆったりと、そして素早く。その切り替えがすばやく、蛇が獲物に襲いかかるような自在な動きであった。
剣がぐうと空気を裂きながら、さらに半歩分シゼの間合いの内側へのびる。その剣をシゼが下からすり上げた剣ではじいたが、剣身の根元を使った動きは窮屈で、肘を不自然にたたみ込む形になっていた。いつものシゼの動き方ではない。
身を低くした男は右へ踏み込み、シゼの太腿をなぎ払う。シゼが後ろへとびすさってかわすのとほとんど同時にたわめた体をのばし、男はぴたりとシゼの動きについて跳んでいた。喉元へ突き込んでくる剣尖を、シゼが力ずくに振った剣ではじいた。
男の剣が様々な方向からシゼに襲いかかる。まるで自在にのびる剣を手にしているかのような、こんな剣をイーツェンは見たことがなかった。激しい動きを見せながらも足裏がぴたりと床に吸いついたように低い重心で安定し、体がくずれない。
シゼは防戦一方になっていた。いつもより拳一つ分低く剣をかまえ、どうにか半身の姿勢を乱すことなく男の剣を受けている。かすかにひらいた唇で息を吐きながら、するどい目を男へ据えて、剣の一閃をかいくぐって相手と体を入れ替え、受けとめた斬撃を流す。シゼの動きは獰猛で無駄がなく、イーツェンは野生の獣の身ごなしを思いうかべていた。
いつになく──いや、イーツェンが見たこともないほど、シゼの動きは猛々しい。力強い動きの美しさに呑まれながら、イーツェンは不安になる。そんな動きを見せなければならないほどに、シゼは追いつめられているのだろうか。
はやしたてる声があたりにこだまして、イーツェンの耳の中は虫がうなるような音でいっぱいになる。一歩、二歩と、シゼが小さな歩みを見せ、男がそれに応じて体の向きをじりじりと変えた。男の目は血走り、口元には残忍な笑みがあった。
イーツェンは息を呑む。
シゼの左前腕の服が裂けていた。先刻、男の剣がそこをかすめたのは目にしたが、シゼが何の反応も見せなかったので、切れたのは服だけなのだと思っていた。だがじわじわと服にしみてひろがっているのは、たしかに血の色だった。
「おもしろい勝負だ」
オゼルクが笑みをはらんだ声でつぶやく。イーツェンは脇腹に右手をあて、拳を握りしめた。体の中で内臓がねじれたように苦しい。
これは、死闘だ。
ギラついた男の目を見ていれば、本気でシゼを殺しにかかっているとわかる。囚人を、勝利と引き換えに自由にする約定でも与えたものだろうか。男の殺気は後のない捨て鉢なもので、それだけに純粋だった。人を殺そうという、ただそれだけの純粋な意志。
イーツェンは身をこわばらせてシゼを見つめた。シゼは、男に気圧されてきているように見える。こんな場所で見せ物として引き据えられ、無慈悲に囚人を切り捨てられるだろうか、彼に。何のうらみもない相手を殺す気で斬れるだろうか? シゼの中にそういう無慈悲さがあるのかどうか、イーツェンにはわからない。彼はそんなシゼの顔を知らない。
殺す気もなく勝てる相手ではないのは、イーツェンから見ても明らかだった。男の剣は強く、粘り強い。そして何より、シゼを殺すというまっすぐな目的にささえられた迷いのない剣だった。
汗が額から目のすみへつたい、しくりと目が痛んで、イーツェンは目元をこすった。いつのまにか全身がつめたい汗に覆われている。胃の底に溜まった葡萄酒がよどんだ炎のように熱い。
シゼが動く。その足元が、少しもつれたように見えた。イーツェンは痛む目をしかめる。シゼの額にも汗がびっしりと珠を吹いていた。たしかに激しい動きだが、それは少し異様な量に思える。
男が踏み込んだ剣をシゼが払う。払われた剣尖がくるりと宙でひるがえって再び下からはねあがってくる、それは幾度もくりかえされた動きだった。シゼはまたもギリギリの動きでかわす──だが今度は、動きが浅い。はっと息をつめたイーツェンの眼前で、シゼの頬を剣がかすめた。
──ふれてはいない。
イーツェンは細い息を吐く。シゼの顔に血はついていない。寸前でどうにかかわしていた。
だが、明らかにシゼらしくない動きだった。両手で剣の柄を幾度も握り直している。まるで、手からすべりおちるのをふせぐように。
男の動きは先程よりもゆったりとしたものに変わっていた。はじめのように強く踏みこまず、ためすようにシゼの間合いへ剣を突き込むが、それは軽い動きだった。
(何かがおかしい‥‥)
シゼの汗。動き。剣をかたく握る手。いつもシゼは、剣の柄を強く握りすぎてはいけないとイーツェンに教えていたのに。何故そんなふうに握りしめているのだろう。
シゼが口を半開きにして荒い息をつく。表情が明らかにけわしかった。それだけ動き、汗をかいているのに、顔から血の気が引いている。肌の色が濃いため顔色は読みづらいが、イーツェンにはわかった。
(何故だ?)
イーツェンは、シゼの左前腕ににじむ血を見、男がかまえた剣を見た。刃の一部はかすかな血の色に濡れ、燭台の光をギラリとはね返した。
いきなり頭を殴られたような気がした。イーツェンは、はじかれたようにオゼルクを見上げる。
「あなたは──」
「勝負を見逃すぞ、イーツェン」
やんわりと言葉をかぶせ、オゼルクはイーツェンへいつもの微笑を見せた。イーツェンは拳に爪をくいこませ、声を低く保つ。
「何を塗ったんです。毒ですか?」
「馬鹿だな。わずかな傷一つでいきなり倒れたら、子供でも何かあると疑うだろう」
「‥‥痺れ薬」
シゼを見つめて、イーツェンはかすれた声で呟く。男たちが錫の酒杯の底をリズミカルに卓へ叩きつけ、その音で自分の声も聞こえなかったが、オゼルクにはどういうわけか彼の言葉がとどいたようだった。
「明察だな」
「殺す気ですか」
「さて。どうなるかな?」
楽しげな笑みが、オゼルクの唇にあった。それは少し投げやりなものに見えたが、時として彼はそんな顔をする。世の中に大事なことなど何一つないとでも言いたげな。
この男は、支配することにしか興味がないのだろうか。イーツェンを支配し、抱くことよりも支配そのものを楽しみつづけている。そしてその支配の手から出ていこうとするシゼへ、気まぐれな報復を与える。
だが、この気まぐれにはシゼの命がかかっていた。
何も言葉の出ないイーツェンの耳元へ、オゼルクがそっと囁いた。
「つめが甘かったな、イーツェン」
イーツェンはぐっと奥歯を噛みしめた。シゼの姿を見つめる。肩が揺らぎ、明らかに疲弊して、剣をまた握り直している。傷に近い左手の指がしびれてきたのだろうか、左手は添えるような持ち方にかわっていた。
薬が回っている。
鈍い剣に男の一撃を受けとめそこねて、シゼが左肩を斬られた。血の珠が宙に散り、人々がどよめく。深手ではない──が、浅い傷でもない。
「やめさせて下さい」
イーツェンは、シゼを見つめて呟いた。
「お願いです」
「余興だ」
「オゼルク!」
「あまり騒ぐな。お前を部屋の外へ放り出すぞ。せめて見届けてやりたいだろう?」
オゼルクは微笑していたが、イーツェンへ囁く声は眼前で男二人がかわす剣のようにするどかった。
シゼの血のついた剣を見つめ、シゼの傷を見、汗の垂れる顔を見つめる。イーツェンは自分の息が小刻みに荒く上がっているのに気付いたが、どうやってもそれ以上息を吸えなかった。体中が苦しい。シゼの、明らかににぶくなった動きを見つめていると心臓が握りつぶされそうに痛んだ。
ドン、と酒杯の底が木卓の表面を一斉に叩く。ドン、ドン、と。体中をゆさぶるリズムで男たちが石床を踏みならし、天井や柱から粉のような埃が舞った。
イーツェンは身をのりだす。体のうしろにオゼルクの手が回り、腰帯をぐいとつかまれ、引き戻された。
「シゼ!」
叫んだが、その声はかすれて、どよめく人の声とリズムの中に呑みこまれてしまう。
男の剣は、明らかにシゼをいたぶるような動きにかわっていた。知っているのだ。長引かせれば自分がそれだけ有利になると。剣を振りはしても深く踏み込んでこない分、動きが小さく、シゼに反撃する隙を与えない。この一瞬ずつが、シゼには不利だった。
シゼの脇腹を剣が払った。服をかすめただけであってほしいというイーツェンの願いもむなしく、その傷から赤黒い血が沁み出すのが見えた。
「シゼ!」
喉から絞り出すように絶叫する。それはほとんど、悲鳴だった。
シゼがよろめいた。その体をふたたび男の剣がかすめ、ギリギリでかわしたシゼの体が逆側に傾く。
オゼルクがはやしたてる指笛を吹く、甲高い音がイーツェンの耳をしびれさせた。
シゼの剣が下から逆しまにはしり、剣尖がかすめた男の手から血が飛びちる。一瞬、間合いが深くなっていた。男の左足がシゼの足を払い、それをよけたシゼが大きく均衡を崩した。ふところにぽっかりと隙ができる。
男が踏みこみ、シゼの腹へ剣尖を突きこんだ。シゼは横ざまに払った剣でその一撃をそらすが、衝撃で手から長剣がおちた。痺れの回った指がもうこらえきれなくなっている。イーツェンの全身が凍った。
剣を拾おうとすれば斬られただろう。男がそれを待ちかまえていたのがイーツェンにもわかる。無手になったシゼは剣に拘泥することなくとびすさり、距離をとって、何も持たない両手を拳に構えた。肩で早い息をつくその表情は荒々しく、目は激しい怒りと闘気にギラついていた。
──あきらめていない──
その目を見た瞬間、イーツェンの体の中に熱い感情があふれた。シゼがあきらめていないなら、イーツェンもあきらめるべきではなかった。心に激しいものがみなぎる。よどんでいた絶望が吹きとばされるように霧散し、世界が一瞬、動きをとめた。
体が素早く動いた。オゼルクに身をぶつけながら手をのばし、イーツェンはオゼルクの腰から護身用の短剣を引き抜いた。
「シゼ!」
宙に投げ上げられた短剣を、シゼの右手がつかみとった。瞬間、前に身を放るように膝をつき、頭上を横なぎに裂く一閃をかわしながら、シゼは踏み込んできた男の足の甲へ短剣を突き立てた。石床までもつらぬく勢いで突き通す。
一転して離れ、頭上から苦痛のうなりとともに落ちてくる一撃をかわした。床から自分の長剣をつかんではね起きるや、均衡の崩れた男の突きを剣の腹で払い落とす。肘をたたんで踏み込みざま、シゼは男の腹を存分に斬り払っていた。
鮮血が石床にとびちった。どよめきがたちのぼり、ビシャリと音をたてて床に落ちた臓物に、イーツェンは吐き気をもよおす。
血溜まりの中に男が膝をつき、剣を杖のように立てると、両手ですがって体をおこそうとした。噛んだ歯の間から小さな咳とともに血の泡が押しだされ、あごをつたう。彼のまなざしが死んでいないのを、イーツェンは茫然と見た。腹を深く裂かれているというのに凄まじい執着であった。
シゼは荒い息をつきながら、だらりと左手を垂らして立っている。服の前面は返り血に染まり、彼の姿も凄絶なものだった。
血刃を下げたままゆっくりと動き、イーツェンの視線から隠すように男の前へ立つ。右手の剣を動かした。シゼの手元はイーツェンからは見えなかったが、男は体の糸が切れたように床に崩れ、動かなくなった。
骨までゆさぶられるような歓声と拍手がわきおこる。イーツェンはただ立ち尽くしていた。
シゼがゆっくりとイーツェンを振り向いた。否、イーツェンではない──シゼの目は、イーツェンの横に立つオゼルクを見ていた。
血の滴る長剣を右手に下げ、返り血と己の血に身を染めて、シゼはまっすぐにオゼルクを見据えている。その目には激しい光がみなぎり、シゼははっきりと決断を下したように見えた。
ゆらりと、オゼルクへ一歩を踏み出す。
(──殺す気だ)
イーツェンの体を戦慄がはじいた。今、ここで。シゼはオゼルクを殺す気なのだ。
オゼルクは勝負を祝福するように両手を叩いている。その腰に護身用の短剣はない──イーツェンがその手でシゼに投げ、今は倒れた男の足につきたっている。
シゼの剣から石に血が滴った。赤いそれが、石床に沁みて黒く沈む。
一歩。決闘を終えた剣士が主人の祝福を求めるように、シゼがオゼルクへ近づいた。
イーツェンはついと足を踏み出し、オゼルクとシゼの間に立った。両手を叩き、微笑をうかべる。
「よくやった、シゼ。見事だった」
シゼが立ちどまる。イーツェンは自分を凝視する目を見つめ返し、無言の懇願をまなざしにこめた。わかっている、もういい、と。
(お前は、自由になってくれ──)
シゼに顔を向けたまま、肩ごしにオゼルクへ語りかけた。
「余興ついでに私も参加させていただいてしまって、申し訳ありません。今お返しします。シゼ、オゼルク殿の短剣を取ってくれ」
「‥‥贔屓もすぎると興ざめだぞ、イーツェン」
オゼルクが笑った声で相槌を打つ。彼の笑いを感じ取って周囲の空気がゆるみ、イーツェンも微笑して、声に笑いをのせた。本当はまっすぐそこに立っているだけで死にものぐるいだったが。
「お許し下さい。少し酒をすごしてしまったようです。的当てとまちがえてしまいまして」
狙った的へ短剣を投げる遊びを口にしてみせると、笑いのさざなみがおこった。下手な言い訳を笑っている。いくらでも笑えばいいと、イーツェンは思う。それでこの場を切り抜けられるなら、何と言われようとかまわなかった。
シゼはまだ動こうとしない。心臓がひやりした。たのむ、と心でくりかえす。たのむ、シゼ。そう声にならない声でつぶやきながら、イーツェンはただ銅色の目を見つめつづける。シゼの表情は奇妙に歪んでいたが、それが薬のもたらしたものなのか、苦痛からなのか、それともほかの何かなのか、イーツェンにはわからなかった。
シゼが顔をそむけるように視線を外し、数歩下がった。
イーツェンは、つめていた息を吐き出した。笑い出してしまいそうな安堵がわきあがる。それをこらえ、表情を保ったまま小さくうなずいた。すべて当然のことであって、何一つ変わったことなどなかったかのように。
侍従の一人がすばやく進み出て、死んだ男の足から短剣を引き抜いた。刃の血を丁寧に拭い、オゼルクへ両手でさしだす。オゼルクは何も言わずに受け取って、鞘におさめた。
板にのせて運び出されていく死骸の横で、シゼの体がぐらりと揺らぎ、床に膝をついた。だがイーツェンがそちらへ行くより早く、オゼルクにぐいと腕を引かれた。
「ではお前が得意な的当てをしようか」
「‥‥そうですね」
腕にくいこむ指は強い。イーツェンは痛みを押し殺し、笑みをかたちづくり続けた。一息ごとに、血の匂いが体の中を満たしていくような気がする。
目の前でくりひろげられた「余興」の意味を知らない人々が興奮さめやらぬ声をかわしては、生け贄に捧げるように酒杯をかかげる。その喧騒のさなかで振り向くと、血の沁みる床がひろがるばかりで、シゼの姿はもうなかった。