契約の終了を告げる証書、シゼの身のあかしを立てる、城からの証明書。これにはジノンの自筆の裏書きがあって、ユクィルスの名の及ぶ範囲ならかなりな効力を持つはずだった。
給金の分の手形──これは、シゼが自分へ両替屋へ持っていかねばなるまい。
一つ一つ、書類をたしかめて読みながら、イーツェンは額の汗を幾度も拭った。全身がまだじっとりと冷や汗を吹いている。みぞおちに気持ちの悪い熱塊がうずくまって、時おりそれがうごめき、吐き気がした。
冬までは少しある。だが、いずれ厳しい季節が訪れる。その中で、シゼがしっかり生き抜いていけるだけの物をそろえねばならない。
地図の小さな写しは、すでに用意した。イーツェンが時間を使い、自分で写しとったものだ。湖のあたりの街道すじを記したものが一枚と、もっと大きく、隣国までつながる主街道を記したものが一枚。あまりかさばらせるのもよくない。イーツェンはさだまらない目で道筋を追った。シゼはいったいどこにいくのか、それはわからない。
地図に描かれた道が揺れる。地図を持つ手が、大きくふるえていた。
目をとじ、額に拳を押しあてて、吐息をするどく吐き出した。体の中に溜まった嫌な熱がどんどんふくれあがってくる。内臓が圧迫されるような感覚に耐えきれず、立ち上がると、部屋を無為に歩き回った。うまく考えがまとまらないまま、単調に歩きつづける。
長い時間をかけて少し落ち着くと、ソファに座ったが、テーブルに残された二つの蜜酒の呑み残しを見てまた大きな溜息をついた。
体の熱は、深くこもった痛みにかわりはじめていた。
「‥‥‥」
ぼんやりとにじんできた涙を拭って、天井をにらむ。シゼを脅したことを後悔してはいなかったが、反吐が出そうだった。ジノンの罪悪感につけこんで協力させ、シゼを脅して、一体自分は何をしているのだろうと思った。シゼを守りたい、そう言えば聞こえはいい。だがイーツェンが実際にしていることときたら、人の弱みをついて脅し、思い通りに動かして──それはほとんど、オゼルクのしていることと同じだった。イーツェンの弱みをつき、脅して、意志をねじ曲げる。
腹の底から吐きそうだった。
口元を覆い、ソファの上で身を丸める。痛みをかかえこむように体を小さくして、イーツェンはそのままじっとしていた。動いたらこらえているものがあふれてきそうだったが、今は泣きたくなかった。今の彼に、自分を憐れんで泣く資格などない。
ただ身を抱き、痛みを押さえて、イーツェンは待った。
扉のひらく音がした。
体の奥が痛んですぐには起き上がれず、イーツェンはのろのろと首を回した。シゼが後ろ手に扉をしめる。イーツェンを見つめたまま、ゆっくりと歩みより、身をかがめると両腕で彼を抱きおこした。
シゼの体は冷えていて、服からは砂ぼこりの匂いがした。訓練場で木剣を振ってきたのだろうと思って、イーツェンは体を裂くような痛みにもかかわらず小さく笑った。いかにもシゼらしい。
ソファに座り直し、イーツェンは横にシゼを座らせた。
「答えは?」
シゼは大きな溜息をつく。イーツェンを見つめる表情は痛ましげだった。
「わかりました。城を出ます」
「‥‥‥」
体の中がからっぽになったようだった。イーツェンは無言でうなずく。感情が一度に押し寄せてきて、声が出せなかった。
シゼはイーツェンを見ながら、抑えた口調でつづけた。
「私が残ろうとすれば、あなたは私と戦いつづけることになる。‥‥そんなことは、させられない。あなたにそんなことはさせたくない」
無言のままもう一度うなずき、イーツェンはテーブルから蜜酒の杯を取ってシゼに渡した。シゼは半ば残った酒を一気に飲み干すと、大きく息をつき、それから思いがけなく微笑した。
「あなたには驚かされてばかりだ、イーツェン」
シゼの笑顔は自然なものだった。イーツェンはうろたえた視線を床へおとす。
「怒ってないのか。私はお前を、罠にかけた」
「怒ってますよ。でもあなたにではない」
では誰に、と言おうとした時、シゼがイーツェンの頬に手をあてて自分の方を向かせた。イーツェンの目をのぞきこむ。低く囁いた。
「あなたをここに残していきたくない」
イーツェンは小さく首を振った。シゼがこもった溜息をつく。
「‥‥あなたを助けたい」
「もう充分だ。お前には感謝している。こんなやり方でしか報えないのを、すまないと思う」
ぽつりと呟いて、イーツェンはシゼの手を外し、立ち上がった。安堵に体中の力が流れ出してしまったようで、足も手もおぼつかない。部屋の空気はつめたいのに、背中をねっとりとした汗がつたっていく。
衣装の入った木箱の蓋を開くと、布の包みを取り出し、蓋をしめた。ソファに戻り、テーブルの上にのせてほどいた。
中から出した新しい鹿皮のブーツを、シゼの目の前に置いた。ふくらはぎの半ばまであり、真鍮の留め金がついて、青く染めた細い革で留め金を結びあわせている。灰色の羊毛でふちどりがしてあった。
「リグから送られた革で、ブーツを作らせた」
シゼがまばたきする、その驚きの反応に微笑を返した。5日前に針子部屋からこれを持ち帰ってきたのはシゼ本人で、彼はこれをイーツェンのものだと思っていたのだ。シゼの寸法は、城のお仕着せを作った際の記録が針子の記録に残っていた。
「薄くなめした裏出しの起毛革で内張りしてある。リグの独特のなめし方をした革で、とてもやわらかいし、暖かい。こっちはマントだ」
ブーツをくるんでいた布の埃をはたいてたたみ直すと、どこか茫然としている様子のシゼの膝へ、裏張りのある褐色のマントをのせた。これもリグの布で、羊毛を叩いたり蒸気を通して目をつませた布は、風を通さず暖かい。それにしっかりした麻で裏をつけ、布二枚の間に隠しポケットがいくつもついている、旅装用のマントであった。
「お前のものだ。持っていけ」
ポン、とマントの上から膝を叩く。シゼはイーツェンを凝視していたが、手のひらをゆっくりと布の表面に這わせた。五本の指でたぐるようにつかんだ布を見つめ、イーツェンへ顔を戻す。
何か言おうとして、その唇は半開きでとまった。口をとざし、シゼはイーツェンに深く頭を垂れてしばらく動かなかった。
シゼが自分の所持品にブーツとマントをしまって戻ると、イーツェンは蝋板を裏にしてテーブルに置いた。インクの吸い取り用に壺に入った細かな砂を板にまき、枠木の中で均等にならす。
横に座ったシゼに見せながら、手にした鉄筆でゆっくりと大きな紋様を描きはじめた。
曲線が複雑に入り組んだ紋様であった。半円を支えるようにのびた数本の長い弧と、中を分割する横の直線とに曲線がからみつき、細かい模様が折り重なる下部へとつづいている。全体がいびつに右へ傾いているが、左側に大きく張りだした弧とでうまく均衡がとれていた。
停滞なく書き上げると、イーツェンはシゼの前に板を押し出し、鉄筆を渡した。
「なぞってみてくれ。ここから」
示された場所から、ぎこちなく、シゼは砂の上の線をなぞっていく。複雑な線をどうにか一度なぞり終えると、イーツェンは砂を平らにならし、もう一度同じ紋様を描いてみせた。またシゼになぞらせる。
「見ないで書けるようになるまで、練習しよう」
「これは‥‥文字ですか?」
線をたどたどしくなぞりながら、シゼは眉をひそめる。イーツェンはうなずいた。
「そうだ。これは、私の名前だ。正式な」
手をとめたシゼが顔を上げる。イーツェンはふたたび指で砂を平らにならした。
「キル=ヴァン=ニェス、というのを聞いたことがあるか? 高位文字だ」
「それは?」
「一文字に、言葉のすべてが圧縮されている文字だ。言葉をつらねて書くのではなく、その言葉全体を一つの文字として形を為すという。とても長い言葉ですら、一文字で、一つの意味としてあらわすことができると言うが、そこまでのものは私は見たことがない。‥‥古くは、呪法に使われた文字だと言う」
ふっとシゼが砂の表面を見、イーツェンを見た。明らかな警戒に、イーツェンは微笑する。
「それは、ただの私の名だ。リグの王族はこの高位文字によってあらわされた正式な名を持っている。これを覚えて、そらで書けるようにしろ。色染布屋の主人に蝋板を借りて、これを書いてみせれば、お前の身のあかしは立つ。私の名を持つ者に、リグの者なら必ず力になってくれる」
その夕方をすべて使い、シゼは黙々と練習をしていた。砂に書いた見本を横に置いて、もう一枚の蝋板の裏に水をつけた羽根ペンで文字を書き、それを拭っては書く。イーツェンが小さな夕食会に出る時には勿論つき従ったが、戻るとさっそく油燭の灯りで練習をはじめていた。
イーツェンは時おり砂をならしてシゼにそらで書かせてみては、線の位置や傾きのまちがいを指先に示した。これは、見様見まねで書けるほど単純なものではない。リグの文字にもユクィルスの文字にも似ていない、怜悧で複雑な線を、シゼは根気よく追っていたが、油燭の油が少なくなると背をのばして吐息をついた。
イーツェンが微笑して、シゼの肩を叩く。
「明日にしよう」
「‥‥これは、何と読むのですか?」
シゼはこわばった首を回しながらたずねた。イーツェンは板の上の砂を羽根ぼうきで丁寧に壺へ戻し、蝋板をかるくはたいて、二枚の蝋板を棚へ戻した。砂と水だと、書いたものが残って誰かの目にふれる心配がない。リグの王族の秘められた名のしるしは、きわめて大切なものだった。
「イーツェン・ゼイデ・ウィスエレサ・イリギス」
テーブルに落ちた水を拭いながら、シゼが重々しくうなずいた。
「長い」
率直な感想に笑ったイーツェンは、その倍以上もある流麗な文句をさらりと口にのせた。歌うようなふしまわしのそれを、シゼは言葉の意味がわからないまま聞き、目をほそめた。
「それもあなたの名前ですか?」
「そのようなもの。名の一部であり、私に呼びかける語句だ。生まれた時、名付けの時、成人の時、婚姻の時、死ぬ時に唱えられる。私の運命の言葉」
シゼは無言でイーツェンを見つめていた。彼の座ったソファに歩み寄りながら、イーツェンが呟く。
「リグの民でも、この名は知らない。──この名を聞いた者は、ほとんどいない」
それを彼にはじめて語った母は死んだ。父と、乳母と、名付けの儀式をとりおこなった祭祀。そのほかに誰が知るだろう。成人の儀式をイーツェンが18の時に行おうという話もあったが、ユクィルスに来る騒動でそれも流れた。
シゼの横に腰をおろす。長い一日がやっと更け、体も心も緊張に疲れ果てていたが、炎が淡く照らすシゼの顔を見るとふしぎなほど心が落ちついた。シゼをこの城から逃すことができたのだ。
──成功した。
満足の息を洩らして、イーツェンはシゼを見つめ、微笑した。シゼは重く硬いものをはらんだ眸でじっとイーツェンを見ている。強いまなざしだったが、その目に見つめられるとイーツェンは安心する。イーツェンのなにもかもを知って、あさましい彼の姿も弱さもすべて知って、それでもシゼは決してイーツェンから目をそらさなかった。常にイーツェンを受けとめ、支えようとしていた。
城を去れば、もう二度とは会えまい。この目も、彼を案じる声も、時おりの優しい指先も、なにもかもを失う。よりそった体の温度も。
忘れまいと、すべてを心に刻みこむように、イーツェンはシゼを見つめた。テーブルの上の灯りが揺らぎ、シゼの左頬が濡れた琥珀のような色に光る。右の半顔は影に沈んでいたが、瞳は炎の反照を受けて、まなざしはひたとイーツェンに据えられていた。
イーツェンが上半身をのりだしても、シゼは動かなかった。顔が近づいても。ゆっくりと、イーツェンはシゼの唇に唇でふれる。吐息のぬくもりを感じながらシゼの温度を味わい、少し顔を離した。乾いたくちづけ一つだけで、頭の芯がぼうっとした熱をおびる。
シゼの目は、まばたきもせずにイーツェンを見つめていた。炎の揺らぎに、銅色の瞳が奇妙な光を帯びて見える。彼の唇は真一文字に引きむすばれ、あごはぐっと固く締まり、首すじが強く張っていた。
炎が揺れる。
シゼの目にあるのは炎の光ではないと、ふいに気付いてイーツェンの心臓がはねた。そこにあるのは、乾きに飢えた、見まごうことのできない欲望の光だった。
戦慄がぞくりと背すじを抜けていく。見えない手で引き寄せられるように、イーツェンはもう一度シゼに唇を重ねた。半開きの唇でシゼのとじた唇を愛撫し、ゆっくりと擦りあわせた。
シゼが唇をひらいた。濡れた舌がイーツェンの唇をさぐり、イーツェンは身をふるわせて目をとじる。シゼの腕がイーツェンを引き寄せるのとイーツェンがシゼの首に両腕ですがりつくのと、ほとんど同時だった。互いをかたく抱きしめ、服のきしむ音をたてながら体をきつく寄せあって、二人は唇をひらく。激しいくちづけをむさぼりながら唇を押し付けあい、舌をからめた。
シゼのくちづけは獰猛で荒々しく、まっすぐにイーツェンを求める。唇を吸い舌を吸う、濡れた音がくちづけの間からこぼれた。不器用なほどにむきだしの情熱がイーツェンの全身を蕩かす。シゼの舌で口腔をあますところなくなぶられ、流れ込んでくる彼の匂いを飢えたように呑みほした。
自分というものが、溶けてなくなってしまいそうだった。回した腕でシゼにしがみついているのがやっとだ。流れ込んでくる熱のあまりの激しさに、体中が苦しい。それでいて全身が甘く痺れていた。
物も言わずに互いをむさぼりつづけ、やっと唇が離れた時にはどちらも荒い呼吸をついていた。シゼの首に腕を回したまま、イーツェンは信じられない思いでシゼを見つめた。息があがって何も言えず、ほそい喘ぎをこぼす。
イーツェンの頬にほつれた黒髪を、シゼの指がやさしく払った。その指は頬にとどまって、輪郭をたしかめるようになぞった。
「イーツェン‥‥」
シゼの声には、一度もきいたことのない奇妙なひびきがあった。シゼの唇が濡れている。呼吸は早かった。
抱きあった体が熱い。陶然と、イーツェンはシゼに全身を預けて、もう一度唇を求めた。シゼとのくちづけははじめてではないが、こんなふうにシゼから求められたことはない。濡れた熱の生々しさが、指先まで甘美にしみとおった。
シゼの腕がイーツェンをかき抱いた。服をきしませる強い愛撫が背中を這い、イーツェンの体をたしかめるように何度も抱きしめる。くちづけを求めて顔を寄せるイーツェンにシゼが激しく唇をかぶせ、二人はまた長いくちづけに溺れた。イーツェンのはっきりとした求めに、シゼの舌がこたえる。互いに相手を求める舌の動きはひどく淫らだった。
シゼの手がイーツェンの服をまさぐり、イーツェンは吐息をこぼして体の力を抜いた。人が自分に向ける欲望を、こんなふうに愛しく思ったのははじめてのことだった。焦らしもせずただ求めてくるだけのまっすぐな愛撫が、体の奥にこらえきれない熱をともす。求められる、そのことがこうまで幸福で、興奮をかきたてるものだとはまるで知らなかった。
強く求めながら、体を押し付ける。シゼの手がイーツェンのローブの合わせから入り込み、素肌にふれた。イーツェンが呻く。愛しげな手がイーツェンの足をすべり、肌をなであげ、太腿の枷にふれた。
ふいにシゼが動きをとめる。
ゆっくりと、彼は体を引いた。苦しげに頬を歪めた、その声はしゃがれていた。
「できない」
イーツェンはぼんやりとシゼを見ていたが、同じように欲望にかすれた声でたずねた。
「どうして?」
求められているのがわかる。シゼが、自分を欲しがっているのを感じる。いつものように拒まれてはいない。それなのに、何故シゼが踏みとどまろうとするのか、イーツェンにはわからなかった。
熱に酔った頭がくらくらする。シゼの右手がイーツェンの頬にふれ、なでた。イーツェンは自分の左手をその手に重ねた。
「シゼ?」
「‥‥彼らと同じようなことは、できない‥‥」
しぼり出すように、シゼは呻いた。イーツェンがシゼの指をなでる。
「私はそんなふうには思わない。お前と彼らはちがう、シゼ」
だが、イーツェンを見るシゼの目は哀しげだった。
「あなたは‥‥鎖にいましめられ、半ば虜囚のようにここにいる。私は‥‥あなたを押さえ付けている城の一部だ、イーツェン」
イーツェンはいったん口をひらいたが、反論せずにとじた。シゼはオゼルクたちのように城の力でイーツェンの意志をねじ曲げようとしているわけではないが、シゼとイーツェンの関係がいびつなものであるのは確かだった。シゼはイーツェンに仕えながら、あくまでも城に──イーツェンをここに縛りつける、強大な権力に──属する者なのだ。
シゼがやっと聞こえるほどの声で囁いた。
「自分の欲望のためには、あなたの枷を外せない」
「‥‥‥」
イーツェンは目をとじた。今この瞬間も、二つの枷はイーツェンの脚をしめつけ、鎖でつながれて、シゼにもたれかかるイーツェンの姿勢を少し不自然なものにしている。
これを外すのはいつでもシゼの役目だった。眠る前に、時には人に抱かれる前に。
どうしようもないことだ。だがシゼは、一体どんな思いでイーツェンの枷を外してきたのだろう。そして幾度も彼は、枷を外されて男の前に屈するイーツェンを見てきたのだ。くりかえされた陵辱の記憶。そのたびに自分がイーツェンの枷を外し、彼らに手を貸してきたという事実が、シゼの心に楔のように打込まれているのがわかった。
目をひらき、シゼを見つめて、イーツェンは喉にからむかすれた声で囁いた。
「少し‥‥こうやって、そばにいてくれないか。それだけでいい」
シゼは重い表情でうなずいた。そのかたくなな抑制が愛しくもあるし、少しばかり邪魔でもある。イーツェンは、シゼの肩に頭をのせて、見えないように微笑した。これが、シゼだ。一体ほかの誰が、この城の歪んだ状況の中で、そんなふうに己を律そうとするだろう。
シゼの腕がイーツェンの背に回る。その動きはもう静かなもので、背中をゆっくりなでる手はいつものシゼのものだった。ほんの少し前の激情が嘘のように。だがイーツェンの体は、自分を荒々しく抱きしめた力をはっきりと覚えていた。
唇にも、口の中にも、まだシゼの熱が残っている。
目をとじ、力の抜けた体を完全にゆだねた。シゼが背中をなでるリズムに合わせて深く呼吸をくりかえすと、ほてるような体の熱がおだやかな陶酔にかわっていく。世界がただ互いの熱で満たされて、ほかに何も考えられなかった。
好きだ、と思う。ただの逃避でも一時の慰みでもなく、シゼが欲しかった。彼の記憶を自分の体に刻みこんでほしかった。
だがそうは言えずに黙っていた。城からシゼを解き放つ。そう決めた。今さら言葉ですがりつくことなどできるわけもない。
シゼが長い溜息をつき、両腕ですっぽりとイーツェンをかかえこんだ。二人は上背がほとんど同じなのだが、がっしりと鍛えられたシゼと、華奢というほどではないが細身のイーツェンと、体格はまるでちがう。回した腕で、あやすようにイーツェンの体をゆすった。
「イーツェン。‥‥イーツェン」
「うん?」
「何か、私にできることはありますか? 何か‥‥あなたの、望むことを」
「城を出ろ」
「それ以外で」
シゼの声は、少し笑っていた。あきれたようでもある。その響きがイーツェンは好きだった。
「ん‥‥」
もぞもぞと、シゼの腕の中で体勢をかえ、頑強な胸に斜めにもたれて体をまるめる。脚鎖が邪魔で、姿勢を取りづらい。シゼがイーツェンの肩に腕を回し直し、ポンポンとかるく叩いた。
「イーツェン」
生返事をして、イーツェンは膝の上に置かれたシゼの左手に自分の右手を重ねた。かたい手のひらをさぐり、ふしばった指と自分の指を握りあわせる。怠惰に指をすべらせていると、シゼが強く握り返してきた。イーツェンの体を抱く右腕にも力をこめる。
「約束して下さい、イーツェン。何も‥‥無茶はしないと。自分を傷つけるようなことはしないと」
「しないよ」
イーツェンも指を強く握った。
「しない。大丈夫だ」
「‥‥‥」
重い溜息が額にふれる。シゼの息は湿って熱く、声はかすれていた。
「私はレンギに約束した、イーツェン。あなたの、そばにいると‥‥」
「お前は充分、そばにいてくれた」
イーツェンは微笑して、シゼの親指のつけ根のふしを指の腹でなでた。レンギが自分の決断を理解してくれると、イーツェンには確信があった。レンギはわかってくれる。シゼがいつかわかってくれるように。城から遠く離れた、その時に。
ふっと、イーツェンの心を何かがよぎった。目をほそめ、彼はテーブルの上に揺れる弱々しい炎を見た。煤のついたほろの硝子が、まだらに濡れたように光っている。時おりゆらめく炎の赤さが奇妙に毒々しかった。
「──シゼ」
「はい」
「‥‥レンギの骨を持ち出せないか?」
言った瞬間、自分でもぞっとした。墓を──たとえこの城にあるのが「墓」と呼べるものでなくとも──あばくという、冒涜的な考えを自分が口にしたことが信じられなかった。
シゼもすぐには答えなかった。イーツェンは身を離し、ソファに座り直して、シゼを見つめる。シゼは青ざめていたが、それはイーツェンも同じだった。二人は怯えたまなざしを合わせる。
「焼かれたなら‥‥骨は‥‥」
イーツェンはつぶやきながら、言葉をとぎらせる。何と言っていいのかわからない。
しばらくして、シゼが重い口をひらいた。
「遺骸を焼かれた後、集めた骨は布につつまれ、土の下に埋められます」
「あの日‥‥レンギと一緒に死んだ者はいるか?」
もし処刑が複数行われて一緒に焼かれたとすれば、骨を見分けるすべはない。だが、シゼは首を振った。
ならば、埋められた布のつつみを掘り出し、レンギの骨を見つけ、城外へ持ち出すことは可能だ。イーツェンはひえびえとしたものにつかまれて、半ば茫然とシゼを見つめた。
この城から解き放たれることのなかったレンギの、最後の笑顔が脳裏をよぎった。故郷に戻れる、と笑った彼の声が耳に遠くきこえる。
この願いはまさに冒涜だと思いながら、イーツェンは何も言えなかった。考えれば考えるほど、墓の下で眠る骨と、それを囲うこの城の冷たい城壁のことで頭がいっぱいになっていく。彼らを──彼とレンギを閉じこめ、逃がさない重い壁。
次にきこえてきたシゼの声は静かで、落ち着き払っていた。
「それがあなたの望みなんですね?」
「‥‥あの人は、故郷に帰りたがっていた」
イーツェンはつぶやいて、うなずいた。シゼのおだやかさが彼を落ちつかせる。
「フェイギアは‥‥レンギの故郷は、遠い。それは無理でも‥‥せめて、城から出してあげたい。死んでもここから出られないなんて、あまりにかわいそうだ‥‥」
ふいにこみあげてきた涙をうつむいてこらえていると、シゼの手がイーツェンの髪をなでた。
「わかりました。できるかどうかわかりませんが、やってみます」
「いいのか? ‥‥墓を掘るんだぞ」
「あそこはレンギのいるべき場所ではない。私も、そう思います」
イーツェンは顔をあげる。シゼの声にただの気休めではなく、本心からの共感があるのが嬉しかった。シゼは指の背でイーツェンの頬をなで、身を傾けてこめかみに軽くくちづけた。
「少々騒がせても、レンギはわかってくれると思いますしね。レンギの神々は怒るかもしれないが‥‥彼の神々は私の神ではないので、気にしないことにしましょう」
ふっと笑った。冗談めかした言い方で、自分自身を鼓舞しようとしているのだ。死者の骨を掘り出すという行為に、畏れを感じないわけがなかった。
シゼの決意に応じようと、イーツェンも微笑をつくる。まだ彼のどこかは自分自身の考えに怯えていたが、心はまっすぐさだまっていた。考えれば考えるほど、これはしなければならないことだという確信が強まる。たとえこの行為が冒涜でも、罪でも。
「リグの店主がいる例の店で、もしかしたらフェイギアの方へ行く隊商が見つかるかもしれない。そこで託せるかどうか、たのんでみるのもいいだろう」
シゼは無言でうなずいて、イーツェンの髪をやわらかな手つきでなでていたが、やがて溜息のように呟いた。
「本当に、あなたには驚かされてばかりだ」
珍しく、やれやれとでも愚痴るような声。だが言葉にはあたたかな響きがあった。イーツェンがくすくす笑ってもたれかかると、シゼの腕が彼をやさしく抱きとった。
どれほど焦がれるだろう。このぬくもりに、この声に。
シゼのいない城がどんな牢獄になるのか、イーツェンにはまだ何の考えもなかった。