ジノンの午後の時間をさいてもらって話をすると、イーツェンは深い謝意を示して部屋を後にした。
 ジノンは言葉通り、イーツェンに最大限の力を貸してくれた。それが何故なのか、好意なのか、それともほかの何かなのか、イーツェンにはよくわからない。今はどうでもよかった。いつか見定める時もくるだろう。
 枷のはめられた足を慣れた足取りで動かし、塔へと戻っていく。城内を歩いていると、すぐ後ろにシゼの気配がぴたりとついてくるのを感じた。守られている、と思う。妙なことだった。シゼは、城から配されたイーツェンの見張りだ。
 それでも、思う。シゼの姿が目に入るたび、彼の足音が聞こえるたびに。守られている、と。
(お前は私を守った──)
 シゼは、たしかに彼を守った。自分のすべてを投げ打って、イーツェンを守ろうとした。イーツェンはそれに応えたかった。
 石の床を踏みしめて歩きながら、イーツェンは腰帯にふれた。革で仕立てた前帯の隠しには、レンギからもらった翡翠のピアスがしまわれている。上から、あるかなしかの感触をたしかめながら、彼はまっすぐに前を見つめていた。
 力をくれ、と、レンギに願う。彼には今こそレンギの支えが、あのやさしい手が必要だった。


 部屋に戻ると、イーツェンはシゼに蜜酒を二人分、持ってこさせた。二人分、という言葉にシゼは少し物問いたげだったが、いつものように反問せず従う。
 戻ってきたシゼをソファに座らせると、その右側へ座り、イーツェンは陶杯に蜜酒の壺を傾けた。酒の入った杯をシゼの前に置き、自分の分を一口すする。
 シゼはイーツェンを見たまま、気配を察してじっと待っていた。イーツェンは杯を置くと、テーブルの上に用意しておいた紙を取り上げた。
「シゼ。これが何だかわかるか。‥‥これは、お前と城の兵庁との契約満了の書類だ」
 シゼは少し眉をひそめて、じっとイーツェンを凝視している。イーツェンは書類を見せながら、指で示した。シゼはかなり文字が読めるようになっているので、説明すれば後は自分で細かく読める筈だ。
「これがお前の名前と、出身。出身地はでっちあげられているみたいだな。これが年齢、身体特徴。契約の年と、契約担当者の名。こっちは給金の概要。お前の給金の合計はサヴォリスの銀貨で15枚、銅貨22枚、受け取れる。後でこの手形を持って城下の両替商のところに行け、手数料はちゃんと城が払うから、騙されるな。しっかり全額受けとるんだぞ」
「イーツェン──」
「お前には、今日を含めて5日間の猶予がある。それがすぎれば城はお前を庇護する義務がなくなり、お前は城の屋根の下で眠ることはできない。5日のうちに手続きをすませて、城を出ろ。毛織物組合の通りにカルナバの槌という色染布を扱う店があって──」
「イーツェン!」
 言うことは全部一度に言おうと思っていたのだが、シゼの声の大きさと迫力にイーツェンは言葉を失った。シゼはにらむようにイーツェンを見つめ、頬を歪めた。見たこともないほど、そのまなざしは荒々しかった。
「何を言ってるんです。一体どうして私の契約の話になるんです?」
「お前を解雇した」
 できるかぎり平坦に、イーツェンは言ったが、内心ひどく動揺していた。いつも淡々として、運命をそのまま受け入れているようなシゼは、イーツェンの言うこともきっとそのまま受け入れるのではないかと思っていたのだ。少なくとも、もっと冷静に聞くと踏んでいた。
「あなたにそんなことはできない」
 シゼは語気荒く、まだイーツェンをにらんでいる。彼にそんな怒りのみなぎる目で見られると、イーツェンは全身が凍るようにすくむ。
 指先で、帯にふれた。レンギのピアスの隠し場所を指でさぐりながら、彼はシゼの目を見返した。
「私にできなくとも、ジノンにはできる。もう話は通った、お前が何を言っても無駄だ」
「何故そんなことを!」
「5日のうちに城を出ろ。さっき言った、色染布の店に行って店主に会えば、給金とは別の礼金を渡してくれる。これは、私からだ。お前が──」
 まだ先を続けようとしたが、シゼの手にいきなり肩をつかまれ、真正面から目をのぞきこまれていた。激しい色をたたえたシゼの瞳に見すくめられて、イーツェンは声が出なかった。弱々しくもがいてシゼの手から逃れようとするが、肩にくいこむ手は強く、また揺さぶられた。
「イーツェン、何故──」
「離、せ、シゼ‥‥」
 逃げられない力の拘束に、反射的な恐怖をおぼえる。息がつまって身動きができない。揺すられて、首ががくりと前後に動いた。悲鳴が喉にかすれる。
「離せ‥‥!」
 暴れ出したイーツェンの視界が崩れ、床が斜めにせりあがった。体が倒れているのだ。悲鳴を上げようとしたが、耳の中で轟々と血がひびいて、もはや自分の声もシゼの声も聞こえなかった。
 体が自由にならない。目の前が暗く、息ができない。つまった喉で喘ぎながら、イーツェンは何か言おうとしたが、耳元で低い声がした。
「イーツェン」
 動けないまま、イーツェンは呻く。自分がどこにいるのか一瞬、完全に見失っていた。
 シゼの手が背中をなでた。
「落ちついて。暴れないで。ゆっくり息をして下さい。‥‥大丈夫ですか?」
「‥‥大丈夫‥‥」
 首すじまで脂汗がじっとりとにじんでいた。シゼの腕がイーツェンの体をすっぽりと抱きかかえている。イーツェンが暴れるのをやめるとその腕がゆるんだ。
 イーツェンはシゼから体を離すと、まだ息の苦しい喉元をつかんだ。ゆっくりさする。動悸が耳の奥で鳴っていた。
「すみません」
 シゼは心底恥じ入っている様子だった。イーツェンに蜜酒の杯をさし出し、心配と狼狽のいりまじった顔でじっと彼の様子を見つめている。シゼの方が何故か青ざめていた。
 イーツェンは酒をすすって、小さく首を振った。
「お前のせいじゃない。大丈夫だ」
「‥‥すみません」
「お前も少し飲め。私もお前も、落ちつかないと」
 シゼは一息に半分近くを飲むと、音をたてて杯をテーブルへ置いた。イーツェンも甘い酒をもう少し飲んでから、シゼへ向き直る。目が合うと、シゼはもう一度あやまった。
「すみません」
「落ちつけ」
 イーツェンは思わず微笑した。
「いきなり言ってお前をおどろかせたのは私の方だ。悪かった。とにかく、まず私に説明させてくれるか、シゼ」
 シゼがうなずくのを待ってから、口をひらいた。
 どこまで話をしたか、記憶が混乱したが、どうにか話をたぐって、イーツェンはもう一度説明をはじめる。
「‥‥その色染布の店へ行き、店主に会え。古くはリグの血筋の者で、商会もやっている。店ではリグの手形も扱ってくれる。その店で、お前にしばらく困らないだけの礼金を払うし、先行きの相談にものってくれるよう手紙でたのんでおいた。何でも遠慮なく言っていい。多分、隊商の護衛の仕事などあるだろう。お前の、次の生き方を探せ」
 シゼは何か言いたそうだったが、ひとまず黙って話を聞いていた。じっと見入ってくる目から視線をそらし、イーツェンは膝においた自分の拳を見つめた。
「私にできることはみんなする、シゼ。たよりになるだろう者の名も、少ないが、後で教える。だから、この城を出ろ。決して戻るな。ここにいてはいつか必ず、オゼルクはお前に報復する。きっといつか、お前を殺す。次は私もお前を守れない」
「イーツェン──」
「たのむ、シゼ」
 顔を上げ、シゼをまっすぐ見て、イーツェンは身をのりだす。まなざしに力をこめ、すがるようにうったえた。
「たのむ。そうすると言ってくれ。お願いだ、シゼ」
「‥‥あなたをここに残してはいけない」
 シゼの声は抑えて低く、イーツェンを見据える両目には強い反発の光があった。イーツェンは微笑して、首を振る。
「私は大丈夫だ」
「大丈夫なわけがない。あなただって、わかっている筈だ──」
「シゼ」
 イーツェンは吐息をついた。これは言いたくなかったが、ほかにどうやってシゼを説得できるのかわからなかった。
「お前の存在は、私の弱みになっている。私は、お前が‥‥大切だ。オゼルクはそれを知っている。お前が城にこのまま残れば、彼は私の首根を靴の下に踏んだも同然だ。このままでは私も身動きがとれない」
 シゼは無言だったが、首すじの筋肉がきつくはりつめたのが服の上からもわかった。
 イーツェン自身を人質に取ってせまるようなこの言い分が卑怯なことは、わかっている。それでもイーツェンには、手段を選ぶつもりも、そんな余裕もなかった。
「城を出ろ」
 シゼを見つめて、イーツェンは一息に言った。
「できることならユクィルスからも。ここから遠く去れ。お前のためにも、私のためにも」
「‥‥‥」
 シゼの表情は空虚だった。イーツェンを、まるで見知らぬ相手のように見つめ、一度ひらいた唇をまたとじる。首を振り、また何かを言おうとして、がくりと手の中に顔をうずめた。
「駄目だ、イーツェン‥‥」
 絞り出すような呻きに、イーツェンは心臓をえぐられる気がする。だが、声を低く抑えた。
「もう決まったことだ。ジノンの意志であり、私の意志だ。お前にはくつがえせない、シゼ」
「私は‥‥」
 苦しげな声をこぼし、シゼは顔を上げた。その目は、まるで祈るように必死にイーツェンを見つめていた。そんなシゼを、イーツェンは一度も見たことがない。
「あなたを置いては、行けない‥‥」
「行ける」
 心が折れそうだった。シゼの苦悶の表情、迷いと苦痛のにじんだ声、イーツェンの答えを求める目。シゼは怯えてすらいるように見えた。
 イーツェンは爪がくいこむほど手を握りしめた。ここで引くわけにはいかなかった。何があろうと、シゼをどれほど傷つけようと。
「もしお前が従わないなら、私はお前を告発する、シゼ」
「告発?」
 見ひらいた銅色の目を、じっと見据える。挑むように。握った手のひらが汗をかいていた。
「何でもいい。お前に物を盗まれたと言っても、怪我をさせられたと言ってもいい。お前は罰を与えられ、城から追放されるだろう。‥‥私がやらないなどと思うな、シゼ。私は本気だ」
 手に刺さるような痛みだけが彼を支える。イーツェンは自分の中の怒りや決意を死に物ぐるいでかきあつめて、真っ向からシゼへ告げた。
「疑うな。ためすな。私は必ずやる」
「‥‥イーツェン」
「私の言葉に従え、シゼ。逆らうな。無駄なことだ」
「‥‥‥」
 シゼは茫然とした目で、声もなくイーツェンを凝視している。イーツェンはさらに何か言おうとしたが、頭の中で言葉が渦巻くだけでまとまった考えにならない。乾いて痛む喉に、唾を飲んだ。
「話は‥‥これだけだ。5日間だ、シゼ。何か望むもの、旅立ちにあたって望むものがあるなら、言ってくれ。できるかぎり、都合する。お前には、本当に感謝している──」
「何故です、イーツェン」
 シゼの言葉は背骨がぞくりとするような低い響きをおびていて、答えようとするイーツェンの声はかすれた。
「それはもう言った。オゼルクが、お前を‥‥」
「それだけではない。何か‥‥別のことが、あなたに決心させている。そうでなければこれほど強硬に、これほど急ぐ必要はない」
「急いでなどいない。ずっと前から、こうすることを考えていた──」
 だがシゼにはイーツェンの言葉をとりあう気配もなかった。
「何があなたに決心させたんです、イーツェン。何かがおころうとしている。それとも、あなたが」
 身をのりだし、顔を近づけて、シゼは囁きほどに声を落とした。風にすら聞かれるのを恐れるように。
「何かをしようとしているんですか」
 否定しようとして、イーツェンの唇は動かなかった。シゼの中にはもう確信があって、言葉ではくつがえすことができない。今さっきの思いつきではなく、長い間イーツェンのそばですごしながら、シゼはイーツェンが何かを隠していることを知ったのだ。
 ふるえる喉に息を吸った。
「‥‥城を出ろ。約束しろ。ここから、離れて、自由になれ。シゼ‥‥たのむ」
「イーツェン」
「私に、お前を自由にさせてくれ。それしか、できない。それしか、お前に報いるすべがない‥‥自分のためにそんなことができないと言うなら、私のために、そして、この城からついに解き放たれることのなかったレンギのために、お前だけは自由になってくれ」
 シゼの顔は互いの息の揺らぎが肌をかすめるほど近い。彼の額に汗がにじみ、あごに強い力がこもっているのがわかった。
 シゼの右手がゆっくりと、イーツェンの頬にふれる。無骨な親指が肌をなで、頬をつたう涙を拭った。イーツェンは潤む瞳をしばたたき、涙を払いながら、囁くような声で言った。
「私は、本気だ」
「‥‥‥」
 シゼは短く、切るようなため息をついて、頭に回した手でイーツェンを抱きよせた。一瞬あらがったが、さらに引かれてイーツェンの体はシゼの腕の中へ崩れる。強く、ただ強く抱きしめられて息がつまった。
「イーツェン──」
「言ってくれ‥‥私の、言う通りにすると」
「いったい何があるのか、教えて下さい」
「何もない」
「イーツェン」
 さとすような声。心に直接ひびいてくるようなその声が、イーツェンは怖い。すべてをあきらめて溺れてしまいそうな抱擁から、もがいて身を引き離すと、ぐいと頬の涙を拭ってシゼをにらんだ。
「二つに一つだ、シゼ。それ以外はない。私に従って自ら城を出るか、城に残ろうとして私に告発されるか。自ら去るか、罪人として去るか、好きにえらべ」
「イーツェン──」
「決めたら、戻ってこい。それまでは私の前に姿を見せるな」
 言葉を叩きつけると、イーツェンは扉を指さした。動かないシゼへ、もう一度、苛立たしく腕を振る。
「出ていけ!」
 シゼはイーツェンを見つめたまま、身じろぎもしない。
 イーツェンは立ち上がると、シゼに背を向けて机の前に座った。紙束を手に引き寄せ、無言のまま目をはしらせはじめる。視線は紙の上を無為にすべって、自分が見ている文字の一つすら頭に入ってこなかったが、ひたすら読みつづけるふりをした。
 やがて、背後に扉のしまる音がする。重々しく掛け金がかけられる、その余韻が消えるまでこらえてから振り向いた。そこにはもう、誰もいなかった。