リグからの手紙が届いたのは、それから十日がすぎてからだった。
冬の前の、これが最後の手紙になるだろう。リグへの道は雪と断崖にはばまれて、旅慣れた山の隊商以外は足を踏み入れようとしなくなる。リグへ兵を入れたユクィルスは、手前のアンセラに──アンセラのあった場所に──大きな陣を張り、冬の間も兵と物資を運んでいたが、それも隊商の先導あってのことだった。
小さく折りたたまれ、紐が十字に掛けられた手紙を目にした瞬間、イーツェンは息がつまる。手紙の一つにかかった紐には、印を押した白い粘土のかたまりがぶら下がっていた。
ふるえる指で、印を返す。まぎれもない。リグの王の名が刻まれた印であった。
「‥‥父上が、手紙を書かれるとは珍しい」
机の水差しに水を補充して戻ってきたシゼへ、イーツェンは微笑を向けた。声が喉にからむ。すぐにシゼが、水を注いでイーツェンのそばへ置いた。
一口水を含み、咳を払うと、イーツェンは背すじをのばした。紐をほどき、父王の手紙をゆっくりとひらいて中に目をはしらせる。
息災であるか、不自由はないか、淋しくはないか。そんなことがゆったりとした筆致で書かれていた。王は自分でペンを取って書いたのだなと、直筆の文字を見つめて、イーツェンはするどい痛みを胃の腑に感じた。これまでとどいた手紙の中にも、数回に一度王の署名のある手紙が入っていたが、どれ一つとして本人の手によるものではなかった。
先の文章に目が吸い寄せられた。
(そなたの献身には心より感謝している──)
一文字ずつ、心に灼き付けるようにその一行を見つめていた。
視線を引きはがして、文字をたどる。
手紙はリグの近況についてざっと述べた後、イーツェンの健康を案じる文で締められていた。
(体調をくずされぬよう、くれぐれもご留意なされよ。今年はリグの冬もきびしく、岩も割れるような寒さになると空読みの者たちは申す、そちらにも思わぬ寒さが訪れるやもしれぬ。御身、大切にされたし)
数度、手紙を読み返し、イーツェンは机の上にそれを置いた。まだ指がふるえている。
(岩も割れそうな寒さになると──)
ついに、と思った。準備はととのったと、王は自分でイーツェンに告げてきたのだ。
折りたたんだ手紙を額にあてて遠いリグの地の王へ感謝の意をあらわすと、イーツェンは残る手紙をひらいた。兄二人のものと、妹のもの。リグの様子や、イーツェンがなじんだ修道院の様子が丁寧に記された、こまやかな手紙だった。数人の友人の名と近況もあって、イーツェンは微笑する。兄は、修道院へ人をやって今の様子をたずねさせたのだろう。その心づかいがうれしかった。
「妹が、春に嫁ぐ」
手紙を読み返しながら、イーツェンは壁ぎわに立つシゼへ話しかけた。指先がつめたく、全身が小さくふるえるのをとめられない。シゼの声が聞きたかった。
シゼがうなずいた。
「おめでとうございます」
「うん。よかった。可愛くて陽気な子でね。相手の顔は鼻が曲がって少々気に入らないが、声がとても良いからいいか、などと手紙に書いてある。遠慮もない」
無理にくすくす笑って、イーツェンは棚に置かれた胡桃材の箱をひらき、中から両手ほどの大きさの肖像画を取り出した。シゼを手招きして、見せる。
「ほら、この子だ。メイキリス」
金泥模様でふちどられた肖像は、木の板に薄く漆喰を塗った上に描かれていた。さして細密なものではないが、描かれた少女のはなやかな雰囲気はよくうつしとられている。髪を覆ったベールを肩へ垂らし、下唇のふっくらとした口元に笑みをうかべ、大きな目はいかにもいたずら好きにこちらを見つめている。
シゼは肖像を見て、うなずいた。イーツェンはつづけて父や兄たちの肖像画も見せる。シゼはイーツェンが肖像画を見ているところを目にしたことはあるが、どれが誰だかは知らないはずだった。イーツェンはあまり家族の話をしない。
シゼは、ほとんど口をさしはさまず、イーツェンがぽつりぽつりと語る言葉をきいていた。とりとめなく、手紙に書かれたリグの様子をシゼに話したり、旅立ち前に兄がくれた木彫りの護符を見せたりしていると、段々と気持ちが落ち着いてくるのを感じた。水を一口飲んで、もう手がふるえていないのをたしかめる。
少女の肖像画を、もう一度見おろした。メイキリス。そうして見つめていると、あの明るい笑い声が耳にきこえてくるようだった。
「ユクィルスは、はじめ、彼女を人質に要求した」
手紙を箱へ入れてから、絵を一枚ずつ丁寧におさめていく。シゼはやはり何も言わなかったが、彼がイーツェンの言葉に耳を傾けているのはよくわかっていた。
「人質ではなく、ユクィルスの王族との婚約という形での申し入れだったが。‥‥でもそれが体のいい人質話だということは、明らかだった。ユクィルスは、彼女を娶る予定の相手の名さえはっきりさせようとしなかった」
絵の上に布をかけてから、箱をしめる。真鍮の留め金を横にひねって留め、イーツェンはシゼを見つめた。
シゼが低い声でたずねる。
「だからあなたが代わりになったのですか、イーツェン」
「次の春に、彼女は嫁ぐ」
イーツェンは微笑した。
「リグの、部族の長老の息子だ。王とは少し部族すじがちがうから、彼女の婚姻はリグの中での新しい絆になるだろう。それにね、シゼ。彼女は相手の顔に文句をつけているけれど、本当は彼が好きだったんだ、ずっと前から。皆、知ってた」
「──」
「彼が長老の息子でなければ、もっと早く結婚できたかもしれないけど、まず彼は、父の跡継ぎとして自分がふさわしいことを周りに示さねばならなかった。半人前が王の娘をめとろうとしたら、いい笑いものだからね。でももう大丈夫みたいだ」
箱を棚に戻す。少し埃の舞った机の上を、シゼが黙って拭った。自分のすぐ横に立つシゼを見上げていたが、イーツェンは首を傾けて、シゼの胸元に頭を預けた。
シゼが動きをとめ、布を置く。そろそろと、用心深い動きでイーツェンに向き直って、回した左腕でイーツェンの頭を軽く抱いた。慈しむような抱擁だった。シゼの手が髪を撫で、イーツェンはゆっくりと息を吐き出す。シゼは決してイーツェンと一線を越えようとはせず、求めを拒否したが、彼なりの優しさをイーツェンへ向けていた。それは友に対するようなものかもしれないし、あるいはただの同情なのかもしれないが、それでもシゼのぬくもりはいつもイーツェンを支えた。
「二人とも、きっと幸せになる」
つぶやいたイーツェンの背を、シゼがポンポンとかるく叩いた。相変わらず無言だが、その手で相槌を打ったつもりらしい。微笑して、イーツェンはそのままシゼのぬくもりを感じていた。
もっと欲しいと、シゼにしがみつきそうになる自分を、もう慣れた抑制で押しこめる。かなわないことだった。イーツェンがシゼに向ける思いと、シゼがイーツェンに向けている優しさは多分ちがうものなのだ。強く拒否されるくらいなら、このままでよかった。
「シゼ」
名を呟いて、イーツェンは頭をおこした。シゼが一歩イーツェンから離れる。
イーツェンは少しの間、シゼの顔を見つめていた。シゼの肌はイーツェンの肌の薄い褐色とも異り、もっと赤みがかった赤銅色を帯びている。少しあごが張った口元は一文字に結ばれ、目鼻立ちの彫りが強い上に、頬の下に落ちた薄い影が26という年齢より彼を年上に見せている。
右眉の方が少し高く、シゼの表情は左よりも右の目によく表れるのを、イーツェンは知っていた。だから彼はシゼとならぶ時は右側にいるのが好きなのだが、シゼは利き手側の右をあけておくためにイーツェンを左側にするのだった。
濃い金髪にはゆるい癖があり、前髪はいつも短く切られて、幾すじか、つむじのあたりではねている。後ろ髪は、うなじの後ろで一つにくくられていた。短くするよりその方が邪魔にならない。結んだ髪の先も、大して長くはなかったが。
表情を殺した、固い、だが誠実な顔だった。
じっと見つめていると、シゼもイーツェンを見つめ返した。銅色の目の奥に、イーツェンを案じる色がある。
(2年──)
2年か、と、イーツェンは心の中で呟いた。2年。距離を置こうとしながら、結局、こんなふうにシゼに惹かれた。この国で、この場所で、誰かを好きになるのは命取りだとわかっていたのに。
それでも、悔やむ思いはなかった。もしシゼがいなかったら、この城はイーツェンにとってどれほど冷たい牢獄となっていたことか。シゼの存在がどれほどかけがえのないものなのか、イーツェンにはよくわかっていた。
「シゼ。お前は‥‥何か、したいことはないのか?」
問いの意味をよくつかめないように、シゼは眉を上げた。イーツェンが言葉を補う。
「どこかに行きたい、とか‥‥この城から出て、何か、ほかの仕事をするとか、そんな望みはないのか」
「イーツェン、私は‥‥」
一瞬、言いよどんでから、シゼは首を振った。
「ここで生きるだけです。望みなど持ったことはない。‥‥私のような者に、それは‥‥大それたことだ」
「どうして」
「私は、奴隷あがりの傭兵にすぎない。この国では、異国人だ。係累もなく、何の力もない。イーツェン、どうしてそんなことを聞くんです」
イーツェンの反論を封じるように、シゼは早口の問いをかぶせた。彼の目を強いまなざしで見つめ返しながら、イーツェンは首を横に振る。
「何でもない。すまなかった、下がっていい」
「イーツェン──」
「シゼ」
きっぱりと、イーツェンはそれ以上の反問を拒んだ。そんなふうに上からシゼを押さえ付けるのが卑怯なのは、承知の上だった。
シゼはすぐに表情を殺し、一礼して部屋のすみへ下がった。かたくなな背中にイーツェンの胸が痛んだが、唇を結んで机へ向き直った。
インク瓶を机の下棚から取り出し、紙を取って、手紙をしたためはじめる。それは家族への返事ではなく、新しい手紙だった。
(我が名を持参せる者に、格別のご配慮をたまわりたい──)
わずかな文面を、時間をかけて丁寧に書き上げた。紙を丸めて紐をかけ、引き出しにしまう。後でジノンに託して城の外へとどけてもらおう。それくらいのことは、してもらっていい筈だった。
背後にシゼの動く音が聞こえてくる。寝室を掃除していた。掃除女も来るのだが、シゼは合間を見てあれこれとイーツェンの身の回りに気を配り、部屋を清潔に保っている。少しでもすごしやすくするためだろう。
彼が動き回る気配を聞きながら、机に地図をひろげ、イーツェンは怠惰な指先で地図の表面をなぞった。
ユクィルスから。ターゼルの自治区を抜け、山あいの街道は「塔」とも呼ばれる峰のふもとへ入ってゆく。そのふもとから山腹へ這うように、かつてアンセラの国があり、その先の峡谷をこえるとリグへのけわしい道があった。
あまりにも遠い、遠い道。その先にある空の色を、もう覚えていないような気がした。