ジノンがあまりに心配そうに彼を扱ったので、確かに己がひどい状態だとイーツェンも自分で認めざるを得なかった。くたくたで、まるですり切れた雑巾のようだ。こわばった体中の筋肉を夕食後にシゼが香油で揉み、無理に仮眠を取らせたおかげでふしぶしの痛みはやわらいでいたが、体全体が粘土でできているような血の通わない寒さは、一向に消えていなかった。
「秋に病を得ると長引く。君はもっと用心したほうがいい、イーツェン」
美しい曲線の脚を持つ小さなテーブルをはさんで食後酒を飲みながら、ジノンはイーツェンを気づかう。イーツェンは両手で持った細長い硝子杯からあたたかい蜜酒をすすっていたが、顔を上げて微笑を返した。
「ありがとう、ジノン」
テーブルと合わせてあつらえられたのだろう、同じような曲がりの脚とそれに対応した肘掛けを持つ椅子に座って、ジノンは頬杖をつき、イーツェンを眺めた。
「君は、私が思っていたよりも芯が強いな。だが、少しは人の忠告を聞くものだ。明日は休んでいなさい」
「そうします」
うなずいて、イーツェンは蜜酒を飲んだ。オゼルクに言ったように、この地方で手に入る蜜酒は弱いもので、甘味ばかりが先に立つ。イーツェンのいた修道院では強く発酵させた蜜酒も作っていたが、イーツェンは正直なところ、故郷の味よりこの弱い蜜酒の方が好みだった。
黙ったまま、蜜酒を舌の上ですべらせる。
どうやって話を切り出そうか考えあぐねて口数の少ないイーツェンに気付いたはずだが、ジノンはせかさなかった。ジノンの態度は以前とほとんど変わらず、ほどほどに距離を保ちながらイーツェンをそれとなく気づかう。彼の余裕が心地よくもあり、苛立たしくもあった。そのやわらかさに甘えてしまう自分を、イーツェンは知っていた。
二人がいるのはジノンの私室だった。そこはイーツェンは二日前にオゼルクに引き立てられて「審問」を受けさせられた部屋で、ジノンはここに彼をつれてくることにためらいがあったようだが、イーツェンが、内密の話をしたいと押しきったのだった。
数日前にこの部屋でおこった出来事は、切れ切れの記憶になってイーツェンの中に焼き付いていた。灼けるような痛みよりも屈辱よりも、自分がひとかけらの価値もないように扱われ、踏みつけにされたことが、深い恐怖となって身の奥に冷たく凝っている。イーツェンの意志などあそこには存在しなかった。イーツェンの存在は、彼らが手を払えば吹きとばされ、粉々に消しとんでしまう程度のものにすぎない。
自分が砕かれる寸前だったのを、イーツェンはよくわかっていた。あの時。恐慌と恐怖に追いつめられ、ジノンへの信頼を失って、彼は絶望していた。自分を見失うほど。愚かなことだ、と思う。はじめから、わかっていた筈だ。城の人間を信じてはならない。それを忘れ、自分のあるべき位置を忘れて、ジノンがイーツェンに見せる一瞬のあたたかさに甘えようとした。イーツェンはあの日、その報いを受けたのだ。
あのまま問いつめられ、オゼルクがしようとしたようにあの場で陵辱されたなら、イーツェンは完全に砕けたにちがいない。シゼがそれを救った。決して自分を救うまいと、イーツェンが思っていた相手が。
シゼが「役目」を果たす忠実さをイーツェンは疑ったことはなかったが、そこから離れてシゼを信じたことはなかった。信じてはいけないと思っていた。そんなふうに彼を信じれば、いつか必ず裏切られるという確信があった。
ジノンを信じ、シゼを信じなかった──
その愚かさの報いは自分の身で引き受けなければならないだろうと、イーツェンは思う。そして、彼はそのつもりだった。
見慣れた壁、見慣れた部屋の調度、それを見るたびによみがえってくるここでの記憶が、イーツェンに決心を固めさせる。
背すじを正して、イーツェンはジノンへまっすぐに顔を向けた。
「ジノン。本当に‥‥力になって頂けますか?」
「私にできることならね」
軽い口調だったが、イーツェンを見つめ返したジノンの目は真摯だった。少なくとも、イーツェンにはそう見える。それが自分の願望でないことを祈りながら、イーツェンはつづけた。
「シゼをご存知でしょう」
「君の護衛だな」
「見張りです」
無礼を承知で訂正して、あまりジノンの反応を気にせず、イーツェンは蜜酒を一口飲んだ。ジノンは気分を害するより興味を引かれた様子だった。
「オゼルクをつきとばした彼だろう。彼は‥‥きわめて、君に忠実なようだな」
「彼の記録を調べてもらえませんか」
そう言って、イーツェンは乾いた唇をもう一口蜜酒で湿す。もっとうまい切り出し方がどこかにあるのはわかっていたが、どうやればいいものか見当もつかなかった。真正直にたのむしかない。もっとも、今ここでたのむこと自体、ジノンの罪悪感につけこんでいるのは承知の上だった。
「記録? 何の」
「俸給台帳、で、いいですか?」
何に傭兵の給払いの記録がついているのか、イーツェンが記憶をたぐりながら確かめると、ジノンがうなずいた。
「そこに彼の名があるはずです。シゼ。11年前にユクィルスの軍属になって、7年前にこの城にうつり、別の人質の見張りをしていた。彼の負債と、所属が知りたいんです。あなたにはたやすいことだと思いますが、私にはすべがない」
「直接本人にたずねたらどうだ」
「彼はあまり、自分の身分のことを気にしていない。彼がどこまで立場を把握しているのか、そしてそれが正しいのか、私にはわからないんです。私は、彼に対する城の権利を知りたい。雇用契約期間は満了しているのか、準備金で負債があったならそれがすでに俸給から充当されたのか」
ジノンが目をほそめた。そうやってするどい目をするとユクィルスの王族はみな同じ油断のないまなざしになる、と、イーツェンはだるい頭のすみで思った。
「君が知りたいのは、彼に対して城がどれくらい権利を持つかということか?」
「そうです。傭兵契約には、しばしば悪だくみのようなものがある‥‥失礼を承知で言わせてもらえば、ジノン、城は兵士を安く買い叩く。時に見えない鎖をつけて」
飾り気もなく、柔和でもないイーツェンの言葉と話し方にジノンは軽く眉を上げたが、その表情に非難の色はなく、言葉をさえぎる様子もなかった。ひとまず話を聞くということだろう。イーツェンは浅く息をついた。
「私が知りたいのは‥‥シゼに、そうした鎖がついているかということです」
イーツェンが言わなかった何かを探るように、ジノンはじっとイーツェンを見ている。イーツェンは頭をできるだけ高く上げ、自分の内側に誇りを保とうとした。部屋の壁が自分にじわりと迫ってくるような恐怖を押さえ付け、飲み下す。一度、この部屋で、ジノンの目の前で、イーツェンは屈した。だが今、その恐怖の記憶に自分を支配させるつもりはなかった。
ジノンの目の中にはどんなふうにイーツェンがうつっているのだろう? おだやかに会話をたのしんでいたかつての姿か、ここに崩れて虚しい哀願を乞うた姿か、それとも今の、少しばかり疲れてこわばった彼の姿か。それが、イーツェンにはわからない。ただ今は背すじをのばし、疲れ切った体の姿勢を保ち、せめてなけなしの誇りを示してみせるしかなかった。
ジノンはゆっくりと脚を組み換え、腕を組んで、イーツェンをまっすぐに見つめながら口を開いた。
「君はまるで、彼を解雇したいように聞こえるよ」
「そうですか?」
「彼の自由は城の契約が及ぶ範囲ではないと、たしかめたいように見える。契約の満了と負債の完済? もっと簡単に言ったらどうだ。彼が自由意志で城を去ることができるのかどうか知りたい、と」
成程。体中を引きずり込むような重い疲労にもかかわらず、イーツェンは微笑した。ジノンの口ぶりは親しげで、いつもの礼儀を少々欠いていたが、率直だった。
──それが、次にあなたが私に見せる顔か。
イーツェンが見せた顔に応じて。
少し親しげに、共謀者のように、よりイーツェンを近くに引きこもうとする。
ジノンがそのつもりならば、かまわない。イーツェンは、ジノンと同じほどに親しげな口調をよそおった。
「言い直せばあなたの気に入るなら、言い直しましょうか。でも、私が知りたいのは彼の意志ではない。城の意志です。城が彼をつないでいるのかどうか。私のようにね」
「何故?」
「オゼルクが彼を傷つけようとしているからですよ」
半分は本当、半分は嘘。真実の部分に思いをこめれば、人はたやすく騙される。イーツェンは本心からの気持ちをこめながら、ジノンの目を見つめた。
「彼に、報復しようとしているから。宴での余興を見たでしょう? あんなふうに人前で、負けの決まった勝負を強要して、オゼルクはシゼをいたぶっている。オゼルクが彼に敵意を見せたのはあれがはじめてではない。私は‥‥彼を守りたい、ジノン。彼は私に、二心なく二年の間仕えてくれた。私を守るために、オゼルクとの間に割って入り、オゼルクに逆らった。あなたも見たでしょう?」
見たはずだ、と、心の中でつぶやく。あなたはその目で見ていたはずだ、ジノン。あの瞬間のシゼを。あの瞬間の、イーツェンを。
「あれは、彼が私のためにしたことだ。私を守ろうとした。それでもオゼルクは、彼を罰するつもりでいる。いつか必ず、オゼルクは彼に報復する。彼はそういう人間だ」
「‥‥‥」
「だから、シゼのことが知りたいんです。そうすればきっと守る方法が見つかる。そのためにあなたの力を借りたいんです。傭兵一人、たかがとお思いでしょうが、シゼはこの城で私を気にかけ、私を気づかってくれた唯一の存在でした。私を傷つけなかった唯一の相手でした」
シゼと、そしてレンギと。イーツェンはそう心の中でつぶやく。二人の友、二つの支え。一人は去り、一人は今や、イーツェンのために自らの身をかえりみなくなってきている。
シゼまで失うわけにはいかなかった。何があろうと。
(半分の真実と、半分の嘘──)
身をのりだし、声に祈りと求めをこめ、まなざしでジノンの内にある慈悲を乞いながら、イーツェンはつづけた。
「あなたの力が必要なんです、ジノン。私に力を貸して下さい」
ジノンはすぐには答えなかった。イーツェンは彼の目から視線を外さず、全身の息を喉につめて待った。
じりじりとした時間の後、ジノンがゆっくりと口をひらいた。
「質問がある」
「なんなりと」
「君は、オゼルクと‥‥寝ているな」
「ええ」
今ここでジノンにそれを否定するのはあまりにも馬鹿らしく感じられた。ジノンは頬杖をついたまま、頬骨のあたりを人さし指で叩く。
「オゼルクが好きか?」
「は?」
一瞬、頓狂な声が出た。二の句が継げない。
「つまり‥‥」
ジノンはもう一度、頬を指先で叩いた。
「合意の関係か?」
イーツェンは笑い出しそうになるのをこらえた。それはひどく神経質な、あやうい笑いだったが。
「オゼルクに聞いて下さい、ジノン」
「私は君がどう思っているのか知りたいのだ」
「じゃあ、尚更。もし私が強要だと感じているとして、ここであなたにそう言うと? 私が口止めされているとは思いませんか」
「されているのか」
ジノンは鋭い目でイーツェンを見た。イーツェンは微笑する。
「されていたら、そう言うと思いますか? ジノン、その問いに私は答えられない。されていないとも、されているとも、口止めされているとも」
「‥‥ルディスは、君との関係を強要していたな?」
「オゼルクはそう言いませんでしたか? そう、ルディスはあまり優しい相手ではなかった」
ジノンがルディスの部屋に踏み込んできた時のことを、イーツェンは奇妙になつかしく思った。ルディスはイーツェンを組みしき、彼の首を締めていた──あの苦悶の中から自分を救ったジノンに、イーツェンは少し、何かの期待を抱いていたような気がする。彼ならいつか、ほかのものからも自分を救ってくれると、そんな淡く、薄っぺらい思いがあったことに、イーツェンは今さら気付いていた。
──馬鹿なことを。
愚かなことを。
ジノンが聞きたいことは何だろうと、イーツェンは考える。ジノンとオゼルクの間に微妙な対立があるらしいのは、薄々察していた。それが血筋によるものか個人的な感情によるものなのかまではわからなかったが、おそらくオゼルクは、ジノンを牽制するために謀ってイーツェンをジノンへ近づけたのだ。
そして、ジノンは?
ジノンもまた、オゼルクのそういう意図を悟った上でイーツェンを自分の間合いへ引き込んだのではないかと、今やイーツェンは疑っていた。ジノンは時に、イーツェンの向こうにオゼルクの存在を見ているのではないかと。イーツェンは彼らの駆け引きの糸に架けられた獲物──あるいは、おとりのようなものでしかないのかもしれなかった。
(何が知りたい?)
思慮深い表情で口をつぐんでいるジノンを見つめ、胸の内で、イーツェンはつぶやく。何が知りたい、ジノン。何が聞きたい。
それがわかれば、いくらでも望む返事をするのに。いくらでも嘘をつく。ジノンの聞きたいことをこたえるためなら。
「ルディスは‥‥本気で私を傷つけるのではないかと思うこともあった。彼は、そういう乱暴で一方的なことを楽しんでいるんです。噛んだり縛ったりね」
あえてあからさまなことまで言及してみたが、ジノンに動揺の色はなかった。甥っ子の行為を謝罪するでもなく、肘掛けに頬杖をついて斜めにかしいだ顔をイーツェンへ向けている。
何もかもわかっているとでも言いたげな、落ち着いた表情を見ていると、ふいにイーツェンの腹の底が怒りにむかついた。何をわかると言うのだろう。人にただ従い、頭を下げ、鎖につながれ、身をさらけだして陵辱される──イーツェンの情けなさや屈辱を、彼がわずかでもわかるとは思えなかった。脚にくいこむ革の枷の重さ、それをつなぐ鎖のひやりとした感触、異国の祈りを聞きながら跪く時間の長さ、裸の肌を這う他人の手、他人の汗の匂い、精液の匂い、他人の精にまみれた自分の体の匂い、ぬるい温度がべったりと染みついた肌。イーツェンにとってこの城で人に従うとは、そういうことだ。そのみじめさを、わずかでもジノンにわかってもらえるとは思っていなかった。
(何よりみじめなのは、私自身がそれを愉しんでいるということだ──)
人に抱かれ、組みしかれて犯される瞬間を愉しんでいる。刹那の、強烈で、からっぽな快楽を自ら求めてさえいる。自分で自分を裏切り、ただ一瞬の愉悦に心すら売り渡す屈辱を、自分への嫌悪を、誰かが、ましてやジノンがわかるとは思えなかった。
怒りが体の底を熱くする。イーツェンは強い目でジノンを見つめた。判断するより早く、するどい言葉が口から出ていた。
「オゼルクはそれにくらべれば優しい。あなたが聞きたいのはそういうことですか? 何が知りたいんです、ジノン。私が愉しんでいるかということなら、私は愉しんでいますよ。この城ではほかにさして気晴らしになるようなこともない。私のような人間が暇をつぶすには、悪くない方法だ」
「イーツェン」
「私は男と寝るのは平気です。あなたと寝てもいい。あなたが気まぐれをおこすならね。相手が誰だろうと、ああしたことはあまり変わらない。ルディスのように首を締められてはかないませんが。たいていのことは、愉しめる」
低い声で言い切っていた。そしてそれが半ば真実であると、イーツェンは知っていた。イーツェンの体は愉しむことを覚えていた。快楽をむさぼることを覚え、体の快楽を使って思考を麻痺させるすべを覚えた。それが生きのびるためだったのか、それとも自分の内に元々あった淫らな性分なのか、イーツェンにはもうわからなくなっていた。
イーツェンはかすかな笑みをジノンへ向けた。可笑しいわけではなかったが、胃がねじれるような苦い笑いがこみあげてくるのを抑えられない。
「同意かって、同意でなければどうにかしてくれるんですか? オゼルクだけではない、私はローギス殿下とも寝た。彼をどうにかできますか? 私がどうして彼らと寝ているのか、それを知ってあなたはどうしようというんです、ジノン。知れば、言えば私を助けてくれますか?」
口をついて出る言葉は激しさを増し、声がひび割れて、イーツェンはすべてを断ち切るように言葉をとめた。ふるえる唇をとざし、首を振って、凍るように冷たい手を膝の上で握りあわせる。このままでは、言うべきでないことを言ってしまう。あふれてくる感情と言葉がせきとめられ、体の内に渦を巻いた。めまいがする。
ジノンの表情は読めない。自分自身を押し殺したようなその顔を見ながら、イーツェンは歯を噛んで息を二回継ぎ、全身で抑えた言葉をゆっくり吐き出した。
「ジノン。‥‥お願いです。私を‥‥哀れと思うなら、シゼの記録を調べて下さい。ほかにはもう、あなたをわずらわせたりはしない。だから‥‥」
「君が私のたのみをきいてくれるなら、いいよ」
ジノンはふいに、あっさりと明るい口調で言った。どうしてか、ジノンが今しゃべりだすと思っていなかったイーツェンは、驚いて背すじをのばす。同時に、気怠いあきらめが心を満たした。人から代償に求められることなど、一つしか思いつかない。自ら言い出したことではあったが、それに応じるジノンに奇妙な失望をおぼえていた。
──何もかも、あきらめた筈なのに‥‥
自分の愚かさに嫌気がさしながら、イーツェンはのろのろとうなずく。
ジノンが陽気な仕種でぱんと両手のひらを叩きあわせ、その音におどろいたイーツェンはあやうく椅子からとびあがるところだった。
「よろしい、決まりだ。鹿肉は好きか? なら、冬のはじめには行かないと」
「鹿?」
「好きか? それともマスの方がいいかな。冬はいいマスが採れる」
「マス?」
馬鹿のように単語をおうむ返しにしながら、イーツェンはぽかんとジノンを見つめた。ジノンは屈託のない笑みをイーツェンへ向け、小首をかしげてみせた。
「前に、荘園に冬の招待をしただろう。受けてくれるね? 私の頼みを承知すると言ったのは、嘘ではないだろう、イーツェン?」
「‥‥‥」
「城から、少し離れるといい」
ジノンの声は、澄んでおだやかだった。
「私が君にできることは、それくらいだ」
これほど疲れ切っていなかったら、イーツェンは少し泣いてしまったかもしれなかった。ジノンの優しさには──たとえそれが脆く表面的なものであるとわかっていても──、イーツェンの孤独に沁みてくるあたたかさがあった。
そのぬくもりに、前と同じようにすがってしまいそうになる自分が情けなく、ばかばかしく、ひどくみじめな気持ちになって、イーツェンは唇の内側を噛んで唇を結ぶ。うつむいて、小さくうなずいた。ジノンの目を見ることができなかった。彼を信じられない、なのにすがりつこうとしている。そんな自分自身の弱さが、なによりも憎かった。
体はなかなかよくならなかった。疲労が溜まっていたせいだとシゼは言ったが、五日後、オゼルクに呼びつけられたイーツェンをとめはせず、命じられるままイーツェンの脚から枷を外した。
イーツェンの前に膝をつき、むきだしの太腿に巻き付いた革帯を慎重な手つきで外すシゼの顔は無表情で、内に何かを秘めて押し黙っていた。
オゼルクとの行為を終えて、どろどろと熱のもつれる体でどうにか部屋へ戻ると、体を清めたイーツェンは寝台へころがりこんだ。オゼルクはひどく執拗で、まるでイーツェンの中から手の届かない何かを引きずり出そうとしているかのように酷なまでの愛撫を重ね、彼を追いつめた。そこに何があるのか、イーツェンにはわからない。ただ体の反応だけを返し、その快楽だけに意識を溶かして乱れた。逆らうより、こらえるより、溺れる方がはるかに楽だ。愉しんで、後からそんな自分を嫌悪する。そんなことにももう慣れてしまった。
毛布の中に崩れて眠りに落ちる。その感覚が消えないうちに、ふいに息がつまるような苦しさに、イーツェンは寝台の上に起き上がった。冷たい夜気に体をすくめて毛布を身に巻きつける。
息が荒く、額がじっとりと汗に濡れていた。
力なく寝台に座りこみ、ぼんやりと寝室の壁を見つめた。冷えた空気はもう夜中のようだったが、自分が数時間も眠っていたとはとても思えなかった。闇に沈んだ室内には、窓の鎧戸の隙間から入ってくるわずかな月光だけがまだらな薄闇をおとしている。物の輪郭が見えるか見えないかのくらがりの奥に、うっそりとした闇がうずくまっているような気がした。
「‥‥‥」
ふいに小さく身を丸め、イーツェンは毛布の下で自分の体を抱いた。喉に息をつめ、目をとじて、体の芯を這いのぼってくる厭悪を呑みくだす。洗った筈の肌がベタついている気がしたが、どれほど洗っても無駄だろう。汚れは肌ではなく、その内側に染み付いている。
いや、そもそも自分はそんな汚れた人間だったのかもしれないと、イーツェンは力なく考えた。逆らいもせず、愉しんでいる。やむないことだと自分に言い聞かせながらも、「それがお前の本性だ」とオゼルクに囁かれると、否定できないのも事実だった。
(──だったら、どうだと言うのだ)
体をできるだけ小さくちぢめ、膝に額をつけて、イーツェンはかすかに笑った。この城での暮らしが耐えやすくなるというだけのことだ。イーツェン自身がどう思おうと、どう望もうと、たしかに彼は愉しんでいた。愉しむしかなかった。
(どれほど汚れようが‥‥)
そんなことは問題ではない。
身の芯が屈辱に熱くなって、イーツェンは奥歯を噛んだ。目の裏が熱いが涙は出ない。抱かれた間に散々泣いた、あれで涸れたのだろうか。体に熱がこもっているくせに肌が凍えるように冷たく、体を抱く指先がしびれて小さくふるえた。
息ができない。唇をひらき、体を前のめりに崩して、イーツェンはあえぐように息を吸った。体中がしめつけられたように苦しい。自分を落ちつかせようと、ゆっくり息を抑えようとしたが、そうすればするだけ鼓動が乱れて息が荒くなった。
かすかな力を振り絞り、起き上がる。耐えられないほどに苦しかった。腕からだらりと下がったままの毛布を引きずって、寝室の扉までよろめき歩いた。一歩ごとに膝から力が抜けて崩れそうになる。のろのろと歩いていくだけで、唇から荒々しい呼吸がこぼれ、力の入らない手を扉にかけると、イーツェンはなるべく音をたてないように続き部屋へ出た。
薄暗がりの中、足を引きずって一歩ずつ歩く。裸足の足の裏から冷たい床が体温を奪った。短いはずの距離が、ひどく遠い。耳にざわめく音が自分の血の音なのか、塔の壁にからみつく夜風の音なのか、彼にはわからなかった。
息をつめて最後の数歩を歩く。床に膝をつくと、シゼが眠っている敷布が足にふれた。床を手でさぐり、膝で這って、イーツェンはシゼの毛布の位置をたしかめると、敷布に横たわるシゼのそばへ身を寄せた。自分の毛布を体に引き上げ、身を丸める。
シゼの脇腹あたりで猫のようにうずくまっていると、彼の体が呼吸につれてゆっくりと上がっては沈み込むのがわかる。額をシゼの体によせ、イーツェンはほそい息をついた。やっと息ができる。シゼの、毛布ごしのかすかな体温を感じていると、どろどろともつれた思考が鎮まりはじめた。身の奥に固く凍った熱が引いて、夜の冷えた空気が体の中へ入ってくる。
シゼが、動いた。ぎくりと身をこわばらせるイーツェンをなだめるように、優しい腕が毛布の上からイーツェンの体に回る。肩をなでて、シゼは夜に沈むほど低い声でたずねた。
「眠れませんか」
「‥‥ここにいてもいい‥‥?」
イーツェンの言葉は自分でおどろくほどかぼそく、たよりなかった。シゼの「ええ」と相変わらず静かな答えを聞き、体をさらに小さく丸めてシゼに身を押し付ける。
少し間があってから、シゼがそっと言った。
「リグの話をしてくれませんか、イーツェン」
「‥‥何で?」
「私には故郷がないから、あなたから聞くリグの話が好きなんです。あなたがどんなところで育ったのか、知りたい」
言いながらシゼが姿勢を変え、横向きになるとイーツェンを抱き寄せた。その手はただ優しい。イーツェンはシゼの胸元に額を寄せ、まだ丸まったままつぶやいた。
「今の季節だと、もう水が冷たくて‥‥冬支度のために、家畜の肉を塩漬けにする作業を、皆総出でやっている頃かな」
「あなたもやっていたんですか?」
「リグは小さい国だから、誰もが働く。兄も、妹も、王宮の倉庫で樽に塩をつめていた」
イーツェンは微笑した。そんな微笑がまだ自分の中に残っているのが不思議だった。
「7年前は‥‥塩の準備がどうしても足りなくて、大騒ぎだったよ。広場にありったけの大鍋をならべて、一日中肉の塊を煮た。浮いてくる脂をすくうのが、私たちの仕事だった。ゆでた肉をその脂で樽づめにして保存したんだ。広場には何日も脂の匂いが残って、犬が落ち着かなくて大変だった」
「冬は、肉ばかり?」
「まさか。大麦と干し豆とカブばっかりだ。肉は5日に一度くらい。魚も少しはあるけど、それほど冬ごしの足しにはならないなぁ。でも蜂蜜は冬の方がたくさんもらえてね、子供の頃はそれが楽しみだった」
リグは、豊かな国ではなかった。そのことを、リグを離れてイーツェンは痛感した。それでも今は、あの厳しい冬すらなつかしい。川の水かさが減り、水車が回らなくなった冬の夜は静かだった。しんと身を切るような寒さをしのぐために、人と身を寄せあって眠った。今、シゼとこうしているように。
シゼの手がイーツェンの髪をなでた。
「夏はどんなふうなんです?」
「夏は‥‥短い。でも意外と暑いよ。春先に、湖から切り出した氷を氷室に溜めておくんだけど、子供同士でそこにしのびこんで遊んだよ。氷を欠いたのをくすねて、怒られたりね。氷室に置いておかれた氷は、口の中で土の匂いがするんだ。それを皆で少しずつ分け合って、草の上に寝転がって、食べた‥‥」
もぞもぞと動いて、イーツェンは少し体をのばす。心地よい眠気がしのびよってきたのを感じた。遠い夢、遠い記憶。耳元で話の先をうながすシゼの声は、絹のようにやわらかだった。
「子供の行ってはいけない峰があるんだ‥‥その途中に張りだした大岩があって、山羊も落ちると言われているから、山羊の頭と呼ばれた岩がある。そこまで登ると、リグの中心がほとんど一目で見下ろせる」
「あなたは行ったんでしょう、子供の時に?」
「わかるか?」
シゼがかすかに笑ったのが、胸の動きでつたわってきた。
「わかりますよ」
「五人で‥‥行った。山刀と水筒と干し肉を持って。途中で二人、やめて‥‥岩についた時には残った三人とも、くたくたで、そこで夜を明かすしかなかった。真っ暗で‥‥時おり獣の声がして、皆、息をつめて‥‥すごく怖かったし、後でこっぴどく叱られたけど、とてもドキドキして、楽しかった」
長い溜息をつき、イーツェンは目をとじてつぶやいた。
「あの時、目の下に見たリグは、きれいだった。緑の中に散らばった石造りの白い屋根のかたまり。人形の細工物みたいに、何もかもが小さくて‥‥山から吹く風に吹きとばされてしまいそうだった」
「‥‥‥」
「私の国だ」
髪をなでるシゼの手に少し力がこもった。指先がイーツェンの髪をなで、かすかな動きで黒髪をもてあそぶ。子供のようないたずらな動きにイーツェンは微笑をうかべ、全身の力を抜いた。
静かな眠りの中で、遠くリグの夢を見たような気がする。夢の中で見た景色は目覚めた時には淡くかすんでいたが、どういうわけかシゼが自分の横に立っていたことだけは、くっきりと覚えていた。
(いつか)
彼がシゼにつぶやいた言葉を、イーツェンは思う。いつか。その先にイーツェンが何を言おうとしたのか、シゼはわかっていただろうか。
(いつか──リグへ、二人で‥‥)
──いつか。
その望みがかなわないものであることを、イーツェンはよく知っていた。この安らぎがもう長くはつづかないものであることも。