泥が足首までまつわりつき、ぬるぬるしたものの中に彼を引きずり込もうとする。それを蹴るように引きはがし、歩こうとしたが、次の一歩はもっと深くとらわれた。
凍るような風が吹いているのに陽射しは肌を灼く。気が付けば自分が裸でいるのが何故か、イーツェンにはよくわからなかった。陽が照っているのを体に感じるのに、目には何も見えない。白く、時には黒く、視界はただぼんやりとした影と光にまだらに覆われて、イーツェンはどちらに自分が向かえばいいのかもわからない。
ただその奥に何かの大きな影がゆらめくことがあって、イーツェンはそのたびに怯え、向きを変えてよろめきまろんだ。一歩ずつ、地面から足をひきはがすように。陽光に肌が灼けるが、その下の体はつめたい。冷えた体を抱きながら、イーツェンは歩き続けようとしたが、次第に泥はイーツェンの体を這い上がり、足首から膝、膝から太腿までもをどろどろした感触が這った。
疲れ切っていた。イーツェンは崩れるように膝からのめって、倒れ込む。やわらかな泥が口の中へ流れ込んだ。何の味も温度もない。もがく体を泥がからめとり、沈めていく。体の奥にまでそれが入り込んでくる感覚に、イーツェンは喉をつまらせた。何かが彼の内側に入ってくる。吐き気と痛みの中で彼は口を大きく開けたが、叫びは入り込んでくる泥に消されていた。
頭がずきずきと痛みの脈を打ち、破裂しそうにふくれあがる。体が動かない。もがきつづけた。
「イーツェン」
耳元で低い声が名を呼ぶ。なおももがくイーツェンの胸元を、誰かの手が押さえた。
「イーツェン、大丈夫ですか?」
「‥‥シゼ?」
イーツェンは呻いたが、目をあけることができなかった。全身が痺れて動けない。まだ体中に泥が這い回る感覚が残って、自分がどこにいるのかわからなかった。
「シゼ!」
「落ち着いて。体の力を抜いて」
「うごけな‥‥」
「息を吸って」
有無を言わせぬ強靱な声が、イーツェンの恐慌を断ち切った。剣を教える時にシゼが使う声と口調だ。その時のように、今回もイーツェンは従った。ゆっくりと息を吸い、新しい空気が体中にひろがってしみわたるのを感じる。緊張に張りつめていた体が少し落ち着きをとりもどし、息を吐きながら、イーツェンは目を開いた。シゼがのぞきこんでいる。シゼの頭の向こうに、塔の部屋の漆喰の壁が見えた。
いつ塔に戻ったのか。記憶はオゼルクの部屋で途切れていた。ぼんやりとシゼを見上げて、これが夢ではないと思えるだけの時間を取ってから、イーツェンはかすれた声でたずねた。
「‥‥何で?」
「熱を出したんですよ」
シゼの指がゆっくりとイーツェンの顔から髪を払い、額に手をのせて体温をはかった。
「あなたは一日、うなされていたんです」
「‥‥‥」
イーツェンはさだまらない目でシゼを見上げていたが、鉛のような右手を持ち上げると、シゼの頬にふれた。左頬、頬骨のすぐ下に斜めに傷がはしっている。傷にさわらないよう注意しながら指をそわせた。
「大丈夫か?」
その問いに、シゼがひるんだ。頬にふれるイーツェンの手をつかんで、彼は低い声で言った。
「私のことなど、どうでもいい」
「よくはない。平気か? 怪我は? 腕は?」
「何も」
「でも‥‥」
「腕はかすめただけですし、顔の傷も、あの時の見た目より浅いんです。もうふさがっているし、一月もすれば消えます」
起き上がろうともがくイーツェンの背にシゼが腕を回して抱き起こす。シゼは枕元の水差しに手をのばして片手で水を注ぎ、小さなグラスをイーツェンに持たせた。イーツェンはシゼの腕にもたれて水をすする。熱は引いているようだったが全身がひどく頼りなく、すべての感覚が遠く、シゼが支えていなければ骨からぐずぐずに崩れてしまいそうな気がした。
「そんなふうには見えなかった‥‥」
「それがコツですから。向こうもそれはわかっている。すみません、あなたに心配させるつもりはなかったのですが、いきなりの話だったので説明する時間がなかった」
シゼの手がなだめるようにイーツェンの肩を叩く。おだやかな力に溜息をついて、イーツェンはシゼの肩に頭をもたせかけ、もう一口水を含んだ。舌の痺れが取れてやっと声がまともに出るようになったが、それでも自分の耳に届く声は情けないほど細い。
「あんなこと、前にもやったことが?」
「砦で。その時は、コインをもらうために、人前の余興として。あまり珍しくはない話です。城でも前に、やったことがある」
「‥‥‥」
ふうと息を吐いて、イーツェンは肩から力を抜いた。シゼがたよりない手から水のグラスを取り上げ、枕元に置く。もう一度自分を寝かせようとする腕を、イーツェンは必死につかんだ。離れたくなかった。
「やだ、シゼ‥‥」
声が喉につまって、彼は顔を伏せた。誰にでもそんなふうにすがりつく自分に、深い嫌悪を感じる。体は熱のせいかぎくしゃくとして、首や肩、それに体の内側にはっきりとした痛みが残り、長い一日の記憶を焼き印のようにとどめていた。罪の印のように。
シゼが丁寧な手つきでイーツェンを寝台へ寝かせた。イーツェンの手から力が抜けてずり落ち、彼はぐったりと横たわって、シゼが離れるのを見ていた。
シゼはいったん離れたが、寝台のへりに腰をおろすと、身をかがめて何かしていた。靴の紐を外しているのだとイーツェンが気が付いた時には、もう体を起こして長袖の上着を取り、麻のシャツ姿になる。シゼは寝台へ上がってイーツェンの毛布の中にすべりこんだ。
イーツェンの頭の下へ左腕を入れ、右腕を回して軽く抱き寄せる。体を寄り添わせると、自分を見つめるイーツェンの額に額を合わせて、目をのぞきこみながらシゼは低く囁いた。
「眠って」
「‥‥‥」
シゼの銅色の目はただ真摯にイーツェンを案じていた。イーツェンの全身から緊張がほどけ、彼は小さくうなずくと、シゼの肩に頭をよせて目をとじた。シゼの安定した呼吸に自分の呼吸が重なり、浅かった呼吸がゆっくり深く変化していく。
体の上にのせられた腕の重みが、ともすれば悪夢に戻りそうになるイーツェンの意識をつなぎとめる。碇のように。シャツに残る石鹸の香りと少し土臭い布の匂いの奥にまじって、シゼの匂いがした。
冷えていた体が次第にあたたかくなり、やがて体の芯のこわばりが溶けた。イーツェンは肩を下にして寝返りを打ち、小動物のように身を丸める。シゼに体を寄せて、息に上下する胸元に頬をつけた。シゼの手が髪をなで、イーツェンは細い溜息をついた。意識がおだやかにまどろんでいく。遠くで朝課の鐘が鳴る中で、何かあたたかいものが額にふれたが、もう目を開けることができなかった。
眠ったという感覚はまるでなかったが、目を開けたイーツェンは部屋に昼の光がさしこんでいるのを見て睫毛をしばたたかせた。まばたきしただけの間に太陽が一気に動いたような錯覚に陥る。
重い頭を起こして、寝室を見やる。自分の横に残るくぼみを見て微笑した。シゼがいつまでいたのかわからないが、敷布にもう人の温度は残っていなかった。
起き上がろうと体をねじると、首のつけ根に刃がさしこまれたように激しい痛みが走った。息をつめ、痛みが弱まるのを待ってから、イーツェンはそろそろと体を起こし、手を当てて首すじをあたためた。少しはましになるだろう。
じっとしていると、遠くから大勢の声と銅鑼が鳴る音が聞こえた。そう言えば内堀の浚渫をすると言う話を、数日前に聞かされていた。泥やごみを底からさらって堀を深く保つのだ。その作業に駆りだされた人足と、それをまとめる命令の銅鑼だろう。イーツェンを起こしたのもその音のようだったが、はっきりとはしなかった。
寝台の横のサンダルを見つけ出し、肌着姿でサンダルを足に引っかけた。足元がたよりなくふらつき、一度、寝台に腰をおろして息をととのえる。体がひどく脆くなったような気がして、おぼつかない気持ちで冷たい汗を額と首すじから拭った。
ふと額で手をとめる。眠りに落ちる寸前、額にふれたあたたかな感触‥‥あれは、シゼの唇だったのだろうか。思い出そうとしたが夢と現実の区別はあいまいで、記憶は混濁しており、イーツェンは溜息をついた。
扉がそっと開いて、シゼが顔をのぞかせた。イーツェンが動いている音を聞いたのだろう。立ち上がろうとするイーツェンを片手でとめ、一度姿を消すと、シゼは室内着のゆったりとしたローブと長袖を持って部屋に入ってきた。
「シゼ。水を持ってきてくれるか? ‥‥体を拭きたい」
イーツェンのたのみにシゼは小さくうなずいて、水桶を持って出ていくと、少しして戻ってきた。寝台の足元に水を置き、布を浸してしぼる。イーツェンを見上げた。
「手伝います」
イーツェンはうなずいた。体のふしぶしが痛む上に力も入らず、自分でうまくできるとは思えなかった。何があったか、はっきりと知っているはずのシゼの目に体をさらす羞恥はあったが、それよりも、体に残る何かを拭いたい気持ちの方が強い。シゼの手を借りて、肌着を脱いだ。
体は意識のない間──おそらく、シゼの手で──すでに一度拭われていて、かすかな鬱血以外に性交の痕跡はほとんどとどめていなかった。枷の外された太腿にははっきりと黒ずんだ、痣に近い痕が残っていたが。これはいずれ消えると、イーツェンは濡れた布の動きを目で追いながら胸の内でつぶやいた。そんなふうに、何もかもが消えるならいい。すべてが癒えるなら。
シゼの手は確かでためらいがなく、イーツェンに不安や迷いを与えない。手早く、だが丁寧に肌を拭うシゼの顔は真剣だった。それでも、肌をつたう人の手の感触が、体の記憶を呼びさまそうとする。イーツェンは自分の気をそらせるために口を開いた。
「シゼ」
「はい」
「剣は誰かに教わったのか?」
「ええ。砦にいたころ、教えてくれた人がいました。その時に余興のような大振りなやり方も教わったんです」
イーツェンを気づかってか、シゼはいつもより冗舌に問いへ答えながら、汗でべたついた首すじを拭い、布をたたみ直して面を替えた。
「あれを覚えておけば何かの時に金になる、と」
「昨日の‥‥」
と言いかかって、イーツェンは「おとといの」と言い直した。意識がないまま消えた一日を、まるで誰かにだましとられたような気がする。
「あの余興。どちらが勝つかは始めから決まっていたんだろう? だからお前は‥‥相手の隙を、見のがした」
シゼが一瞬手をとめ、イーツェンを見上げた。
「見えましたか」
「うん‥‥」
「やはりあなたは目がいい」
微笑したシゼにつられて、イーツェンも微笑を返した。まるで笑えるような気分ではない今でさえ、シゼがそんなふうにイーツェンを高く評価している事実は、イーツェンの心をあたためた。できるならそれに応えたい、と思う。だがきっと、オゼルクはイーツェンが外で剣の修練をすることを二度と許さないだろう。
シゼの手を借りてイーツェンがのろのろと服を着終えると、シゼは慎重にイーツェンの首や腕の痛みをたしかめた。
「何日かすればよくなります。今夜眠る前に、ヒレハリソウの香油をつけましょう」
「ああ、まだ残っているのか、あれ‥‥」
ぼんやりと呟く。あのアンセラの少年と木刀を交わした時のことが、もう遠い昔のように感じられた。わずかな間に自分がひどく年老いたような気がする。立ち上がってよろめく彼を、シゼが手をのばして支えた。
「眠っている間、何か‥‥あったか?」
「ジノン様から招待と見舞いが。オゼルク様からも、見舞いに薬酒がとどいています」
後半は右から左へ聞き流して、イーツェンは寝室を出ると居室のソファに腰をおろした。こめかみを押し揉んで、呟く。
「ジノンに‥‥後で行くと、返事をしておいてくれないか。まだ昼前か?」
「正午の鐘は二時間は前です。イーツェン、今日は休んでいた方がいい」
心配しているのはわかっていたが、イーツェンは小さく首を振った。考えなければならないことが多すぎる。頭を整理して、きちんと心を決めなければならなかった。
「そうだな‥‥後で見舞いの礼を書くから、手紙を持っていってくれ。夜の食後酒でもご一緒できるかもしれない」
「イーツェン」
これ以上議論をするつもりはなかった。イーツェンはもう一度首を振り、数歩離れたところに立っているシゼを見上げる。シゼは唇を引き結び、何かを訴える目でイーツェンを見つめていた。思いつめたようなその表情が何を意味するのかイーツェンにはわからなかったが、強いまなざしに心臓がどきりとはねた。それを押し殺して、話を変える。
「シゼ。‥‥レンギが使っていた文鎮を覚えているか? 黒っぽい、琥珀のまじった‥‥」
シゼは当惑の表情になってうなずいた。
「あれは何か、珍しいものか?」
「さあ‥‥」
シゼがとまどったまま考えこむ。イーツェンが待っていると、やがて記憶をたぐるように口を開いたが、思い出す口調はゆっくりとして、途切れがちだった。
「レンギは‥‥あれを、自分で磨いたのだと言っていました。この城の工房で。まだ子供の頃に‥‥あの琥珀は、たしかどこかで拾って」
ふいに口をつぐんで一回首を振り、シゼはイーツェンを静かな目で見た。
「オゼルクが、子供の頃に遠乗りで拾ってきた筈です。琥珀が石とくっついてしまっていて、価値がないので、レンギはそれを文鎮にして自分で使っていました。前に、そんなことを言っていた」
いびつな感情がイーツェンの胸にうごいた。オゼルクの寝室に置いてあった文鎮を思い浮かべる。何故、何のために、あれはあんなところにあったのだろう。レンギが最後まで使っていたはずのものが。
レンギのことを思い返そうとするとまだ鮮やかな痛みがひろがって、体中が締めつけられ、イーツェンは長い息を吸いこんだ。
「レンギの墓はどこにあるか、知っているか?」
首は使者が国に持って帰ると、かつてオゼルクは言った。ならば体はユクィルスのどこかに葬られたはずだった。
シゼが深い息をついた。
「墓‥‥では、ありません。城の裏手にある果樹苑の一画に‥‥焼かれた後の骨を、埋められたそうです」
「焼かれた?」
イーツェンは呆然とシゼの顔を仰いだ。ぞっとする寒気が体を抜け、心臓が鉤爪でつかまれたように痛む。
「罪人でもないのに遺骸を焼いたのか?」
声がはねあがったイーツェンの怒りを抑えるように、シゼが軽く右手を上げた。
「遺体を焼くのは、レンギの故郷の風習だそうですよ。多分‥‥彼の望みだったんでしょう」
「あ、そうなんだ」
自分がいかにも間抜けな気がして、イーツェンは指で頬をかいた。リグでは死者は、山へ還すためにそのまま埋められる。火で燃やすのは死者を冒涜するための行為とされたので、他の風習があるとわかっていても、火葬のことを考えると少し落ち着かない気持ちになった。とにかく、それがレンギの望んだ方法なら、それでよかったのだろう。
「私が行ける場所か?」
「内堀の外なので、難しいかと」
「そうか‥‥」
イーツェンはうなずき、テーブルの上に置かれた水差しをぼんやりと見つめた。喉も乾いていないし、腹もすいていない。ただ体の中がからっぽで、自分が脆い皮一枚でできた空洞のような気がした。何か食べなければならないのはわかっていたが、今は何の食欲もなく、食べられるとも思えなかった。多分、後で。もう少したてば。
強い視線を感じて顔を上げると、シゼがまっすぐにイーツェンを見おろしていた。その目の強さにイーツェンの首すじを痺れが抜ける。怖くはなかった。ただとらわれたように動けない。
何か言おうとしたが、唇が動かなかった。シゼが一歩イーツェンの横に寄る。見上げるイーツェンの首の動きが痛みでぎこちないのを気にしてか、ソファの横に片膝をつき、下からイーツェンを見た。
「どうしてそんなことを聞くんです」
「‥‥‥」
「何を考えているんですか、イーツェン?」
静かな声だったが、まなざしは強く、シゼは何かを決心しているように見えた。イーツェンは乾いた喉に唾を飲み込む。
「何って‥‥」
「あなたは‥‥何か、思いつめているように見える」
訴えるようなシゼの目に、イーツェンは微笑んだ。
「私は大丈夫だ、シゼ‥‥」
声が途切れる。シゼの指がイーツェンの頬にふれ、結んでいない黒髪をそっとかきあげた。視線を合わせたままシゼはゆっくりと身を起こすと、イーツェンに腕を回して彼を抱いた。
「あの時、レンギもそう言った、イーツェン。自分は、大丈夫だと‥‥」
その声はひび割れていた。やさしい抱擁の中でイーツェンは、シゼの恐れているものが何であるのか悟る。シゼに深く刻まれた傷。古く、癒えない傷が、彼の内側にまだ生々しい苦痛を刻んでいる。
イーツェンはシゼの腕をつかんで彼を自分の横に座らせると、シゼの顔を自分へ向けさせた。まっすぐに目をのぞきこみ、今できるかぎりの力を声にこめた。シゼに信じてもらわなければ意味がない。
「そんなことはしない。シゼ。私を信じろ。私は、自分の命を捨てたりはしない」
「あなたは‥‥」
シゼの喉がふるえ、彼は息を数回飲みこむと、低い声でつづけた。
「あなたは、私を守るためにオゼルクと何か取引をしたでしょう、イーツェン。でなければ彼が私を放っておくはずがない」
答えを求めてイーツェンを凝視するシゼに、イーツェンはかすかな笑みを見せた。
「何を取引する? 私には取引に出せる材料などないよ、シゼ。確かにお前に咎が及ばないようオゼルクに頼みはしたが、それだけだ。それ以上、私には何の力もない」
「‥‥‥」
シゼは無言のままイーツェンの体を引き寄せた。強靱な腕がきつく体を抱くのを感じて、イーツェンは目をとじ、シゼの首すじに頬をつけた。シゼがイーツェンの言葉を信じていないのはわかったが、これ以上どうしようもなかった。
シゼの腕に抱かれて、しっかりと支えられているのは心地よかった。疲れた体がシゼの腕の中でゆっくりとくずれる。全身を預けたイーツェンを抱きとめて、背をなでながら、シゼがかすれた声で呼んだ。
「イーツェン‥‥」
ぬくもりと抱擁のもたらす酩酊の中で、イーツェンは生返事をつぶやく。オゼルクとの取引を後悔していないと、シゼに言いたかった。自分を守ろうとしたシゼに感謝していると。シゼの腕が自分を守ろうと抱いた、あの瞬間をイーツェンは決して忘れることはないだろう。
だが、言えばそれすらもシゼの重荷となって彼を苦しめるだけだとわかっていたから、イーツェンは言葉をすべて呑みこんで、シゼの背に回した腕に力をこめた。シゼの腕が彼を抱き返す。
「イーツェン。私と一緒に、城を出ますか?」
耳に囁くシゼの声はひどく低く、彼が何を言ったのかイーツェンが理解するまで数瞬の間があいた。
聞いたものが耳の誤りではないとわかると、イーツェンは茫然と身をおこす。互いの腕をからませたまま、二人は互いの目を見つめた。シゼの目は澄んで迷いなく、銅色の瞳にイーツェンの姿をうつしてまばたきもしない。
「シゼ‥‥お前、何を‥‥」
「私と一緒に行きませんか。城を出て‥‥どこでもいい。あなたの好きなところへ」
「‥‥どうやって‥‥」
イーツェンの声もかすれた。この城を出て、どこかへ。シゼと?
シゼはイーツェンを逃がそうというのだろうか。頭が驚きに痺れ、熱っぽく、ほとんど物を考えられなかった。
イーツェンの髪をくりかえしなでながら、シゼがやっと聞き取れるほどの声で囁いた。
「アンセラの残党が城から逃げたのは聞いたでしょう。あんなふうに‥‥逃げる方法が、まだあります」
イーツェンは息を呑んだ。
「お前も仲間か?」
「いいえ」
シゼは真摯に重々しく、首を振る。その一言だけで心から信じる自分がイーツェンには不思議だったが、そんなふうに信じられるものがあるのは心地よかった。
シゼのふしばった指の背が、イーツェンの頬をなでる。その手はやさしい。
「ですが‥‥段取りをたのむことはできます」
誰に、と問おうとして、イーツェンは問いをこらえた。知りたくないし、知るべきではなかった。秘密は知る者が少なければ少ないほど、長い間保たれる。自分をそのほころびにはできない。
シゼが顔を近づけた。囁く息のゆらぎすらつたわってくる距離から、彼の緊張と決心を感じ取って、イーツェンの睫毛がゆらいだ。
「イーツェン‥‥」
城を出る──
シゼと?
その考えにイーツェンの鼓動は早鐘のように打った。心臓が熱くなって、喉元に言葉がつまる。どこへ行くともどうやって生きるともわからなかったが、シゼと行けるならどこでもいい。この城を離れて、二人で。いつかリグにも戻れるかもしれないと、ふいにつきあげるような思いにとらえられて、イーツェンはひび割れた声でたずねた。
「何で‥‥?」
「これ以上あなたが傷つくのを見ていられない」
シゼの声は少しこもったようで、深い熱をおびていた。イーツェンの首すじがうっすらと汗の湿り気をおびる。頬をなでるシゼの手も熱く、イーツェンの息も熱かった。
「イーツェン‥‥」
「私は──」
あえぐように息を吸って、イーツェンはシゼの腕をつかんだ。顔を伏せて、もう一度息を吸う。シゼの目は見ない。見れば心がくじけそうだった。
「行けない‥‥シゼ‥‥できない‥‥私が逃げたら‥‥また、誰かが、リグから‥‥」
「イーツェン」
「だめだ、できない‥‥すまない、シゼ‥‥」
涙のまじった声で呟きをくりかえすイーツェンの頭にシゼが手を回し、優しく引き寄せた。イーツェンの体を力強い腕でかかえこみ、小さくもがくイーツェンをゆっくり抱きしめる。
「‥‥すまない‥‥」
「わかっています。あやまらないで下さい」
「お前‥‥お前は‥‥城を出た方が、いい、シゼ‥‥行けるのなら、どこかへ‥‥」
シゼが、強いほどの力を腕にこめた。
「私はあなたを置いていったりはしない」
「‥‥お前は城にいない方が‥‥安全だ。オゼルクはきっと、お前をあきらめては、いない──」
「私は行かない」
きっぱりと言って、シゼはイーツェンのこめかみに軽くくちづけた。ごく自然で、やさしい唇だった。
「これでこの話は終わりです。いいですね? 私はあなたのそばにいる。ここに」
「‥‥お前‥‥」
何を自分が言おうとしているのかわからないまま、イーツェンはじんと熱い目をとじてシゼにもたれた。
二人は、しばらくただ身を寄せ合ったままでいた。部屋は静かで、銅鑼の鳴る音と人足のはりあげる声が、窓の外から遠く聞こえてくる。シゼの鼓動が体全体にひびき、自分の心臓がシゼにあわせて鼓動を打っているような気がする。
「シゼ‥‥いつか‥‥」
「ええ」
シゼの指がイーツェンの頬に落ちる黒髪をかきあげ、耳の後ろにかける。心の底からの溜息を吐き出して、イーツェンは呟いた。
「いつか」
その先は言葉にならない。シゼは無言でイーツェンの髪をなでていた。
やがてイーツェンは、ゆっくりと身を起こした。シゼがイーツェンを抱いていた腕をほどき、立ち上がって一歩下がる。すでにその顔はいつもの落ち着いた表情を取り戻していた。
イーツェンは首すじを揉みながら、なるべくおだやかな声を出そうとする。
「シゼ。何か‥‥食べるものをもらえないか? スープのような、軽いものがあれば‥‥」
「乳粥をたのんであります。取ってきましょう」
「ありがとう」
微笑して、イーツェンは部屋を出て行くシゼの後ろ姿を見送った。いつでも思慮深く、気をくばっている。
(いつか──)
約束とも夢ともつかない呟きが、もう一度、イーツェンの唇にのぼった。いつか。その先は言葉にならないまま、彼はうなだれた顔を両手にうずめた。
シゼもイーツェンも、ただ互いを守ろうとしている。そんな単純な望みがどれほど難しいことなのか、どれほど未来のないことなのか、二人だけがそれを知っていた。