音楽の流れが早さを増し、クスクスと笑いのさざなみを立てながら人々が左右へ割れる。華やかな彩りの布を引く女たちが下がると、色石の敷きつめられたモザイクの石床にぽっかりとした空間が残った。
音がまた早くなる。互いに互いを追うような竪琴の軽やかな旋律は、イーツェンがこれまで聞いたことがないものだった。竪琴師の前でリボンの尾がついたお手玉を投げ上げて芸を見せている道化が、女のように──いや、もっと毒々しく──美粧を施した真っ白な顔を歪め、甲高い声で叫んだ。
「ユギア・ザーリク!」
それは古くからのユクィルスの掛け声で、どうやら「酒を回せ」というような意味らしい。単なる景気づけの叫びだろう。宴の間の人々が口々に同じ言葉を唱和し、声は石の天井に反響して、まるで滝が岩にはじけるようだった。長らくそんな風景も見ていないと、イーツェンはぼんやり思う。滝どころか、川すら最後に見たのはいつだっただろう。
人の多さと宴の熱気に酔ったのか、ひどくたよりない心地だった。紋様が刻まれた石柱のそばに立ったまま、銀杯を片手に、イーツェンは人々の動きを見るともなく眺めていた。
──ユギア・ザーリク──
声のこだまを踏むように、二組の男女が手を高く重ねながら囲みの中央へ歩み出る。離れたイーツェンから見ても彼らの身ごなしは華やかで、そこだけがぱっと明るい炎に照らされているようであった。
男は二人とも、よく似ていた。背が高く、首がまっすぐのびたどこか独特な立ち方で、傲慢な線を見せる肩に金の髪が落ちている。目の色まではイーツェンの場所からわからないが、その青い色をイーツェンはよく知っていた。
男の片方はオゼルクであった。
いつもと同じ黒ずくめのいでたちだが、今日はさすがに銀糸を折り込んだ美しい艶のある厚絹のマントを長く羽織っている。髪を同じ色の細帯でまとめた横顔にはかすかな笑みがあるようだった。顔は手を取りあった相手の女性へと向けられている。
もう一人の男は、オゼルクより少し年上だった。ジノンと同年代に見える。肩の幅が広く、濃紅と灰の布を取りあわせた華やかな服をまとい、顔立ちにオゼルクにはない野性味を感じさせたが、それでも二人ははっきりと似ていた。
オゼルクの兄。すなわちユクィルスの王太子、王位継承権一位の王子──。オゼルクが唯一「殿下」と呼びかける相手であり、本日の宴の主役でもあった。彼は彼で別に城をかまえているため、この城に滞在する時間はいつも大して長くはない。今回の訪れと宴にはおそらく政治的な目的があるのだろうが、イーツェンにはよくわからないことだった。自分はただオゼルクに言われたからこの場にいるにすぎない。だが、宴の中に立つのは苦痛だった。
金糸を折り込んだ絹で縁取りをした濃緑の衣装を身にまとい、蜘蛛の巣のようにからまりあった華奢な金鎖で胸元を飾り、まるで宴の一員のようにしていながらも、イーツェンの脚にはいつもの枷がくいこんでいる。軽やかに舞う人々を見ながら、己一人がこの場にいるべきでない人間のようないたたまれなさに心が沈み、どうすればいいのかわからなかった。彼を舞いに誘う者もいるにはいたのだが、ユクィルスの風習と踊りに慣れぬことを盾にして数度断ると、それきり誘いはとだえ、ほっとしつつも、にぎやかな音曲の中に身の置き所はどこにもなかった。
オゼルクと王太子は、それぞれに相手の女性と優雅に踊っている。二人して巧みな舞い手なのだと、その舞いを知らぬイーツェンにさえわかる。オゼルクを見るのがどうにも憂鬱きわまりないイーツェンではあるのだが、長い裳裾にからまぬよう大胆に裾を蹴上げながら踊る女と、その手を支え重心を入れかえながら身を寄せては離すオゼルクの姿を見ていると、押し寄せてくる華やぎと迫力に呑まれそうだった。
道化が何かを叫び、周囲の人々がどっと笑った。炎で熱くよどんだ空気が揺らぎ、イーツェンはめまいがする。手の銀杯を口に当て、中味を飲んだ。シゼが気をきかせて酒ではなく水が入っているのだが、口の中でべたつく酸い匂いはどうにもなくならなかった。気分が悪い。
ふっと首すじに何かがかすめる。その感触が誰かの視線であると気付くのに、数秒かかった。
迷いながら横合いを見ると、舞いを見つめて方向の揃った顔の中に、ただ一つイーツェンを見ている顔があった。
──ジノン。
追いつめられた気分だった。彼とどう話せばいいのかわからない。うろたえた気持ちをとりつくろおうとしていると、ジノンはふっと目をそらして舞い手へと向いてしまった。
オゼルクとあれほど大胆に対峙した気持ちの昂揚が去ってみると、イーツェンは怯えに身がすくむ。己に何ができるのか──己が何をするのか、イーツェンには怖い。ただ耐えるように生きてきたこの城での二年の間にも、こんな恐ろしさを感じたことはなかった。
視界のはじにシゼをとらえようと、わずかに振り向いた。数歩離れて壁際にひかえたシゼの表情はわからないが、そこに彼の存在をたしかめるだけで、イーツェンは少し息がかるくなった。
どよめきがおこって、あわてて前へと顔を戻す。オゼルクと兄とがほとんど同時に相手の女性を突き放していた。舞いの形で回りながら女の体が床へと倒れかかり、周囲もイーツェンも息を呑む。だが二人の男は倒れてきた女をがっしりと腕で受けとめ、くるりと体を回して立たせると、ふたたび舞いの音に体の動きを合わせはじめた。
舞いの相手を入れ替えたのだ。
鮮やかな一瞬を見つめながら、イーツェンは喉に何かがつまるような気がする。見事な動きの瞬間、兄弟の目は自分と踊る女性たちではなく、互いの表情をうかがって、とぎすまされていたように見えた。
相手を替えて踊りに戻った二人へと称賛の拍手があびせられる。その音が耳に反響するイーツェンの名を、誰かが低く呼んだ。
「イーツェン。大丈夫か? 顔色が悪い」
「‥‥‥」
いつのまにか横に立ったジノンへ、イーツェンはこわばった笑みを見せた。
「ええ。人が多いのに、慣れないので」
「まあ、そうだろうな」
どこか心がここにないように、ジノンがつぶやく。それでも彼はイーツェンを心配して話しかけてきたのだろうが、イーツェンはそれをどう取っていいかわからない。ただ彼を引きとめるために何か言わねばと思って、乾いた声をむりやりに押し出した。
「昼間は‥‥申し訳ありませんでした。お見苦しいところをお見せしました」
「‥‥‥」
ジノンが長い溜息をつくのがきこえた。
「いや。すまなかった」
何をあやまっているのだろう。オゼルクをとめられなかったことをか、イーツェンを疑ったことをか。どうでもいいことだった。ジノンを信じようとしてはいけない。城の人間への信頼に足をすくわれるのは、二度とごめんだった。
イーツェンは短い息を数度吸って、昼間の恐慌を思い出しそうになる自分をこらえた。信じてはいけない。それはわかっている。だがイーツェンには、ジノンと話をする必要があった。オゼルクのためではなく、自分のために。
「ジノン。私は‥‥本当に、アンセラのことは知らない」
「わかっている。告発するようなことはない。少し──昼は、焦ったのだ。私も、オゼルクも。本当にすまなかった」
その声は真摯にも聞こえる。イーツェンがやっとジノンへ顔を向けると、男は沈欝なものを溜めた目でイーツェンを見ていた。あの時、ただ何もせずイーツェンを見ていた目で。
イーツェンは小さく首を振った。
「私がここにいるのはリグのためだ。この城でいらぬことをおこして何になります? もし私が王に害なして逃げたとして、あなたがたは、次の者をリグからつれてきて鎖につなぐだけだ。‥‥私はそんなことのためにここにいるわけではないし、ほかの者が鎖につながれることなど、我慢ならない」
声を低く抑えていたため、音楽にまぎれぬようジノンはイーツェンに体を近づけ、少し耳をよせた。まるで親しく話をしているように見えるだろうと思うと、イーツェンは気が重苦しくふさいでくる。だが話はつづけねばならなかった。
「ジノン。私は‥‥あなたがたが、怖い」
ジノンはゆっくりとまばたきしながらイーツェンを見ていた。
「あなたがたにとって、私など子供がいじって遊ぶ蟻のようなものだ。鎖でつながれた相手をおもしろがっている」
「イーツェン、それはちがう。私はちがう──」
「そうですか? 私にはわからない」
ジノンの言葉を、自分でも意外なほどに怒りのこもった声を重ねてさえぎる。怒りは実際、イーツェンの中にあるものだった。二年、このユクィルスの城で故郷をしのんで思いながら、どうにもならない怒りはイーツェンの奥底に深い根をはり続けていた。ふつふつとたぎる暗い感情をジノンにそのままぶつけそうになる。
たがが外れそうになる自分を抑えて、イーツェンはくいしばった歯の間から言葉を押し出した。
「私にとって、あなたはただ一人‥‥この城で得た友だった。友になれるかもしれないと、思った人だった」
半分は嘘、半分は真実。イーツェンにとって「友」と言うならば、レンギが最も近い。だが、ジノンを親しく思いたい気持ちがあったのも確かだった。底の薄い優しさを見抜けもしなかった自分を思うと、こめかみの奥が痛みにうずく。
ジノンがイーツェンへ向けたまなざしはひどく暗く、炎を盛大に盛った燭台のまばゆさを受けてもまばたき一つしなかった。彼は傷ついたのだろうかと、イーツェンはぼんやりと思う。それすらどうでもいいことのように思えた。
長い──あるいはほんの数秒だったのだろうか。ジノンがふいにまなざしを引きはがすように顔をそらし、イーツェンは割れるような拍手の音に我に返った。反射的に自分も手を叩きながら、人の視線をあわてて追う。オゼルクと、王太子、さらにそれぞれの舞いの相手が優雅に腰をかがめて人々へ一礼するところだった。
いつのまにか舞いの音楽も低くゆるやかなものに変わっている。めまいを覚えてうつむいたイーツェンの耳に、ジノンの低い声がとどいた。
「許してくれと言う資格は私にはないのだろうな」
「‥‥私にはわからない、ジノン殿」
イーツェンは疲れた首を振った。
「わからない。本当に‥‥」
頭の芯がずきずきと痛んで、甘い音楽の一つ一つが耳の中で反響する。首も肩も昼の痛みを残して、体はひどく重かった。音に合わせて天井も床も揺らぐような気がする。
二の腕をぐいとつかまれて、全身が硬直した。
怯えに身がすくんで声も出ない。
イーツェンの表情を用心深くうかがいながら、ジノンが言った。
「すまない。‥‥倒れそうだったので」
「‥‥大丈夫です」
言われてはじめて自分が大きくふらついたことに気付いたが、イーツェンは慣れた虚勢を口にして、無理に背すじをのばした。手にした銀杯から残り少ない水を飲む。生ぬるかった。
「イーツェン。私にできることはあるか?」
問いの意味が熱っぽい頭に沁みないまま、イーツェンはジノンを見やった。イーツェンが自分の足でしっかり立っていることを確かめて手を引き、ジノンがうすい微笑を見せた。
「城のことには手を出せないが、何か‥‥あるか?」
声は優しいが、イーツェンにはもはやその優しさを信じることはできなかった。だが、と頭の痛みをこらえてイーツェンはまっすぐに顔を上げる。信じる信じないではなく、今のイーツェンはその言葉を使わねばならなかった。ジノンをたよるためではなく、ジノンを利用するために。
踊る人々につれ、色鮮やかな布が波打ちながら上下にもっさりと揺れうごく。熱した香皿に垂らした香油から芳香の煙がたちのぼり、たちこめ、煮つめたような花の香気にむせ返りそうだった。
──ここから出してくれと、そう言いたかった。どこでもいい。どこか、安心できるところへ。安らいで眠れる場所へ。城の外へ。
だがそんなことを口にできる筈もなく、そしてジノンが応じる筈もなかった。
こわばった頬に微笑をつくりながら、イーツェンはジノンの青い目をのぞきこむように見つめた。
「どうして私に親切にしようとするんです。リグの話のほかに、何か聞きたいことでも残しているんですか?」
「‥‥‥」
「すみません」
ぶしつけな言葉への謝罪を小さな声でつぶやく。イーツェンを、ジノンは無言で見つめていた。
「でも、ジノン。私は‥‥どうしたらいいか本当にわからないんです。私にはどうにもならないことが多すぎる」
「そうか」
ぽつりと、楽の音に消されそうな呟きをジノンがこぼした。
「そうだな。‥‥また話そう、イーツェン。それくらいはかまわないか?」
「あなたが望むなら」
「私は、君の望みを聞いている」
その言葉はひどく空虚にひびいて、イーツェンは返事をせずに床を見つめた。
溜息のようなものをつき、ジノンはうなずいた。ちらりと微笑を見せたが、それは明るいものではなかった。
「また、招きを出す。その時に考えてくれ」
イーツェンは無言で頭を下げ、立ち去るジノンの足取りをぼんやりとした視界のすみに見ていた。感情が自分から切り離されたようで、ひどくにぶい痛みしか感じない。思うとおりにいったという安堵すらなく、ただイーツェンは疲れきっていた。
ジノンにまた会わねばならないと、ぬるい泥のつまったような頭で思った。彼がまだイーツェンにすまないことをしたと思っているうちに、関わりをつなぎとめ、彼の善意につけこまねばならなかった。
吐き気がしたが、胸の奥へ飲み下す。今はただ、目の前にあることをひとつひとつ、のりこえていくしかない。シゼの顔が見たかったが、彼が控える方へ顔を向けるのもおそろしかった。自分をこの喧騒の中で真摯に見守り続ける相手の目が、イーツェンの中に何を見るか──それが怖い。
自分が心底、怯えていることに気付いてはいたが、イーツェンにはどうしようもなかった。今ジノンと交わしたばかりの会話が頭の中で途切れず回っている。間違ったことを言っていないかどうか考えようとしたが、熱っぽい頭ではうまく判断がまとまらなかった。
道化の叫び声と、どよめく歓声がわあんと周囲に反響し、頭が割れそうになる。何かを誰かが言っているのだが言葉は溶けたように渦を巻き、意味が頭に入ってこない。
ふいにイーツェンは、見知らぬ相手が自分を見つめているのに気付いた。うろたえて目をそらすと、またも誰かと目があった。周囲の誰もがイーツェンを見つめ、まなざしの圧力に息がつまって動けなくなる。
人々の間から、黒ずくめの長身の姿が近づいてきた。オゼルクの目もまっすぐにイーツェンを見据え、イーツェンをどこへも逃がさない。体の芯がきりりと締め上げられるように痛み、イーツェンは息を呑んで立ち尽くしていた。目の前へ歩み寄ってくるオゼルクから、目がそらせない。
オゼルクの目がふっとやわらぎ、残忍な笑みを見せると、彼はイーツェンの肩をぽんと叩いた。
「余興だ。笑え、可愛いイーツェン」
囁く息の温度が耳朶をかすめて、イーツェンは喉が引きつるのを感じた。わけがわからないまま茫然とオゼルクを見つめる。
すぐそばに、ふいに人の立つ気配があった。オゼルクとは逆の方向を振り戻り、イーツェンは驚愕する。シゼが横あいに立ち、きびしく口元を引きむすんで、まっすぐに前を向いていた。
オゼルクが身を翻し、人々の目はイーツェンから離れて彼を追った。シゼがオゼルクにつづいて進む。
宴の間の中央に人々が囲む広い空間がふたたびつくられ、そのほぼ中央に背をまっすぐに立てて仁王立ちになった大柄な剣士の姿があった。革の胸当を身につけ、剣の鞘をつかんだ両手を自然に体の前へ垂らしている。鞘は横に寝かされていた。
打ち出し細工に金の象眼の施された青銅の鞘──高価なものだ。
オゼルクは人のふちで立ち止まり、シゼだけが剣士の前へ歩み出た。オゼルクが肩ごしに振り向いて、イーツェンを手招く。イーツェンはかすれた息を数度飲み込み、床にはりつくような足を動かして進み出ると、オゼルクから一歩さがったところに立った。こわばった自分の表情が微笑に見えるよう、祈りながら。
シゼの手にもいつのまにか、相手と同じ青銅鞘の剣が握られていた。イーツェンは息をつめる。シゼの使う剣は革鞘だ。それにそもそも、シゼは舞踏の宴へ帯剣をゆるされてはいなかった。
バラバラと激しい雨のような音がする。拍手の音だと気付いた時には、シゼと剣士は二歩の間をおいて向かい合い、互いに鞘をつかんで剣を立てると、ほとんど同時に剣の柄にはまった石へくちづけた。
イーツェンの背すじにぞくりと冷たいものがはしる。一度として目にしたことのないその動作が、ユクィルスの決闘の前作法であることを、彼は人から教えられて知っていた。
二人の動作はひどくゆっくりとしながら、それでいて対となった舞いのようだった。互いに相手を見つめたまま剣の柄を右手で握り、ゆっくりと剣を鞘から引き抜き、右膝を折りながら左足を後ろへ引く。空鞘を床へ横たえた。その間、どちらも相手の目から視線を外さず、二人の男の動きには今にもあふれ出しそうな猛々しさと、それを抑え込んだしなやかな緊張感がはりつめていた。
人の輪の中から従卒の服をまとった少年が走り出し、鞘を手にして下がる。シゼも剣士もその時にはすでに両足で構え、刃を上に胸前へ剣を立て、相手を見つめていた。刃が炎を受けてギラリと光る。まるでもう血に染まったような、赤っぽい光に。
イーツェンは二人の緊張に呑まれて、ただその光景を凝視する。オゼルクの声が何かを発した、その言葉の意味すらききとれない。
だがそれは何かの合図であったのか。シゼと剣士はともに相手へ歩を踏み出し、ふたりの剣は美しい光の弧を空に描き出す。するどい鋼はがっきと宙で噛みあって、悲鳴のように甲高い音があたりに響き渡った。