扉をひらいたオゼルクは、目をほそめてイーツェンを見た。身がすくむ。体の深いところをぬらりとしたものが這ったように、イーツェンの背すじを寒気がつたった。これまで与えられた屈辱、そして先刻の苦痛と恐怖とが、イーツェンの体にはくっきりと刻み込まれている。それを意志の力で押さえこむのはひどく難しいことだった。
イーツェンは微笑をうかべる。もしくは、自分が微笑だと思っているものを。
「入っても?」
「‥‥ほぉ」
感心した表情になって、オゼルクは扉を開いた。イーツェンが入ると続き部屋に立つシゼに目もくれずに扉をしめ、喉の奥で笑った。
「元気そうだな。水をかけたら溶けそうなほどしょぼくれていたが」
腹の底が怒りに固くねじれたが、イーツェンは何も言わず、部屋に一つしかないソファへ歩み寄ってその真ん中へ勝手に座った。すぐに後悔する。立ったままのオゼルクに見下ろされ、ほとんど物理的な圧力に息が苦しくなった。
オゼルクは唇のはじに笑みをうかべてイーツェンを見ていたが、目には冷たい光があった。何を考えているのだろう。いや、何を考えてきたのだろう。この一年半あまり、イーツェンを抱きながら、彼はいったい何を求めてきたのだろう。
それを自分が知りたいのかどうか、イーツェンにはよくわからない。だがいつか知らねば──せめて、近づかねばならなかった。
沈黙は重く、オゼルクは問うようにイーツェンを見下ろして、動かない。どちらも相手が先に話し出すのを待っていた。イーツェンも動かなかった。唇を結び、オゼルクを見返し、おだやかな微笑を保つ。内心じりじりと焦りが増し、身に染みついた恐れがうごめくのをどうにか押さえ付けていた。
オゼルクが先に動いた。本が数冊と地図がひろげられた机に寄り、腰でよりかかると腕を組み、彼は尊大な調子で言った。
「それで?」
一瞬、イーツェンは笑い出しそうだった。この二年間ではじめて、オゼルクをイーツェンの意志で動かすことに成功したのだ。あまりにも些細な、ばかばかしいほど小さな成功──だがイーツェンにとっては、確かに何かをくつがえす出来事だった。
オゼルクは、イーツェンの内側をさぐるように用心深く彼を見おろす。
「続きをしたくて来たわけじゃあるまい? そうなら夜にまた来い。可愛がってやる。それともアンセラの話を吐きに来たか」
声に含まれた挑発を、イーツェンは無視した。笑みを消し、背すじを正し、イーツェンは腰を折ってオゼルクへ深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
頭を下げて床を見つめたまま、彼はつづける。
「私の護衛の者があなたに無礼なふるまいをしたこと、本当に申し訳ない。心からお詫びします。あなたに許していただきたい、殿下」
数秒、沈黙がおちた。イーツェンはゆっくりと呼吸を数えてから頭を上げ、自分を凝視するオゼルクの青い瞳を見つめた。
「‥‥‥」
腕組みし、目をすがめて、オゼルクはイーツェンを上から下まで無遠慮な視線で眺める。何も言わなかった。
イーツェンは微笑を向ける。
「あなたは寛大だから、あの状況の責めをシゼにかぶせることなどなさらないと思いますが?」
皮肉の棘を感じたか、オゼルクの目の中に怒りが揺れた。
「‥‥あまり利口な物言いではないぞ、イーツェン」
「そうですか?」
「王族の者に意図的に身をぶつけて床に倒したのだ。腕一本くらい落としても軽い。それをお前の謝罪一つでどうにかしろと言うのか? 馬鹿なことを言うより前に、ジノンのところに泣きついて頼め。裸になってみせれば、あれも嫌とは言わないかもしれんぞ」
それで救えるならそうする、とイーツェンは胸の内でつぶやいた。ジノンに脚をひらけばシゼを救うことができると言うなら。だがジノンには、オゼルクと事を構える気がない。イーツェンのために何もしようとしなかった男が、イーツェンの護衛であり、たかが一介の剣士のためにオゼルクの意志をしりぞける筈がなかった。
オゼルクをどうにかしなければならない。それも、手遅れになる前に。
「あなたの望みは何ですか、オゼルク。シゼをどうするつもりです?」
「鞭打ち30と焼き印」
返事はあっさりとしたものだったが、イーツェンの息をとめるに充分だった。鞭打ちは、太い縄に結びこぶを作った縄鞭を5本たばね、一度に振りおろす。大の男でも10度振ればへとへとになる。ましてやそれを受ける方は、数度で肌が裂け、10、20となれば肉がはじけて骨が見える。
30? 命がある方がふしぎだ。挙句に焼き印。
──そんなことをさせるわけには、いかない。
イーツェンはオゼルクを見つめる。彼の慈悲にはすがれない。そんなものをたよりにはできない。オゼルクをとめるには、はっきりとした力と意志が必要だった。
「オゼルク。シゼにはあなたを傷つけるつもりなどまったくない」
「あればとうに死んでいる。だが何であれ、逆らう者は罰せねばならん。いずれ、お前もな」
「オゼルク、私は本当にアンセラについては知らない。故郷の水にかけて誓う。私はただリグの安定のためにここにいる、それ以外は何も望んでいない」
イーツェンはいつのまにか身をのりだしていたのに気付き、背すじを正した。冷静に、と言いきかせる。必要なのは「味方」だ。オゼルクと無意味に争ってはならない。だが、冷たい目に見すくめられたままそこに座って感情を抑えるのはひどく難しく、服の下の肌がじっとりと汗ばみ、首すじを誰かに締められているように苦しかった。
オゼルクが鼻先で笑った。
「お前の誓いなどに、何故私が敬意を払わねばならない?」
「少しは払う人もいるかもしれませんよ。あなた以外にね」
小首をかしげて見せながら、言葉に含みをもたせる。青い目で睨まれると体が奥からすくみ上がるのを感じたが、イーツェンはかわいた声を平らに保った。
「あなたが私にしてきたことに、興味を持つ人も」
二人の間の空気がはっきりと冷えた。イーツェンの肌がひりつくほどにオゼルクの視線はするどい。その目が恐ろしくて仕方ない。
「お笑いだな。私を告発するとでも?」
「いいえ。この城で私が何を叫ぼうが、人は私ではなくあなたを聞く。意味のない告発などしません。あなたが前に言ってくれたように、私は馬鹿ではない」
にっこりしたが、頬が今にも引きつりそうだった。イーツェンはローブの上から腰を留める細い革帯にそっとふれる。帯の内側には小さな隠しがあって、そこに彼はレンギからもらったピアスをしまいこんでいた。
お願いだ、と祈った。やりとげられるように──
数秒の沈黙をおいてから、ふたたび口を開いた。
「ユクィルスが人質を取っているのは、リグだけではないでしょう。その国の人々が、人質がどう扱われているか知ったら、一体何を思うか‥‥」
「私を脅すか、イーツェン」
低い声が背すじを凍らせる。イーツェンは言葉をとめずに続けた。
「彼らが私の宣誓証言をどう扱うか。私は神々の前で宣誓しますよ。あなたを告発はしない。だが何があったかは告げる。すべて。私が恥を恐れて話さないと思いますか?」
オゼルクはまばたきもせずにイーツェンを見ていた。
「ユクィルスへの好意を失うだけでなく、怒りを買うことにもなりかねない。反発のきっかけを待つ国や人の背を押すことも考えられる。決してユクィルスは、安泰ではない。あなたもそれをよくご存知のはずだ」
「‥‥イーツェン」
「あなたの結婚話にも影響する。そう考えたことはありませんか、オゼルク」
もはやイーツェンは体中に冷たい汗をかいていた。だが言い出した以上、とめられない。とめるわけにはいかない。指先に腰帯の感触をさぐって、つづけた。
「あなたは城内にあるものは恐れない。だが城の外となると話はちがうでしょう。私が城外へ言葉をつたえる手段は少ないが、完全にないというわけではない。そして誰かが耳を傾ければ、あなたはわずらわしい立場に置かれることになる。ためしてみますか?」
オゼルクの目を見つめ、その青を見据えて、囁いた。
「特に今、わずらいは一つでも少ないほうがいい。そうでしょう」
何一つ、イーツェンの言うことに決定的な力はない。他の国の反応も、時おり噂だけ流れる──そのたびに相手がちがうのだとレンギが言っていた──オゼルクの政略結婚話も、何の影響も受けないかもしれない。それは互いにわかっていたが、それでもこれを言うイーツェンがどれほど捨て身なのか、オゼルクは悟ったはずだった。
安定している時ならいざ知らず、おそらく今はユクィルスもオゼルクも火種をかかえている時だ。そこに、イーツェンは賭けた。
かすかに微笑を見せる。
「シゼに罰を与えると言うなら、私はすべてを賭けてあなたに逆らう。あらゆる手段を使って。多少はわずらわしく思うことでしょう、あなたも」
「お前の塔に鍵をかけてしまえばすむことだ、とは思わないか?」
「やってみますか?」
あごを少し上げた。やっと息が胸の内側まで入ってくる。オゼルクは不気味なほど静かな顔でイーツェンを見おろしていた。すでに怒りは消え、ただイーツェンの内側を推しはかるような眸をしていた。
「私はジノンにも洗いざらい話す。彼は私を守りはしないでしょうが、塔にゆえなく押しこめておくようなことを放置するとも思えない。あなた自身が塔の前に門番で一日中立つと言うなら、別でしょうが。いっそ塔の中へあなたもいっしょに入られたら如何です」
ふしぎなほどなめらかに言葉が出た。オゼルクと対等に話をしたことなど一度もなかったような気がする。いつでもイーツェンは身をすくめ、心をちぢめ、時に媚びをつかい、ただ彼のまなざしと意志から逃れようとしていた。
「私を黙らせておきたいなら、オゼルク、シゼのことは放っておいて下さい。どうせ私も、シゼも、あなたにとって取るに足らない存在にすぎない。あなたがわずらわされるほど、重要な相手ではない。お願いです」
「私を脅そうとしてただですむと思うか、イーツェン」
イーツェンはゆっくりと首を振り、頬に落ちた黒髪を耳のうしろへかきあげた。肝心なのはここからだ。腹に力をこめ、まなざしをまっすぐオゼルクへ据えた。
「ですが、あなたにとっても悪い話ではない。私はあなたの役に立つ」
「ほう?」
「ジノンの情報を、あなたへつたえる。彼が話したこと、私が見たこと。あなたが知りたいことを、すべて。これから、ずっと」
オゼルクは唇を結んだままイーツェンを見つめていたが、それを聞くとかるく首をのけぞらせて喉から笑い声をたてた。
「シゼがそんなに大事か、イーツェン」
「彼は私を守ろうとした。それを見殺しにはできない。‥‥私は、そんなことには耐えられない」
吐き捨てるように呟く。オゼルクがまだ肩を揺らして笑いながら、うなずいた。
「可愛いな、お前は。そんなことで取引しているつもりか。一番大事なものが何だか悟られていては、取引にはならんぞ」
「私が一番大事なのは私の国ですよ」
それには答えず、オゼルクは腕組みの右手をといて頬杖のように甲へ顎をのせ、イーツェンを眺めた。これまでとはちがう目つきだったが、青い瞳にあるものが何なのかイーツェンにはよくわからない。どういうわけかオゼルクはどこかおもしろがっている様子で、激怒するだろうと思っていたイーツェンにはいささか肩透かしでもあり、不気味でもあった。
「シゼと寝たか」
「いいえ」
「不憫だなぁ」
笑った唇でつぶやいた。イーツェンは何か言い返そうとしたが、言葉が出ず、カッと頬が火照るのを感じて下を向いた。
オゼルクがぽんと太腿を叩く。
「イーツェン」
「‥‥‥」
吐息を一つ呑みこみ、イーツェンは立ち上がると思いのほかしっかりとした足取りでオゼルクへ近づいた。一歩間を置いて立ちどまり、彼を見つめる。
「返事を下さい」
「よかろう」
あっさりと、オゼルクはうなずいた。
「シゼのことは、今回に限りとがめない。次がないよう、しっかり首輪につないでおけ。お前が泣こうがわめこうが、その場で罰する」
「‥‥ありがとうございます」
イーツェンは頭を下げる。敵にするためにオゼルクに話をもちかけたのではない。どうにか、彼を味方にしておきたかった。まず今は、シゼの罰をまぬがれただけでいい。
オゼルクが手をのばし、イーツェンの肩にふれる。ゆっくりと肌にひろがっていく嫌悪感を、イーツェンは頭の外へ押し出して感じまいとした。押されるまま、脚鎖に気をつけながら床に膝をつく。
髪をオゼルクの指がなでた。見上げたイーツェンをなで続けながら、オゼルクは低く囁くようにたずねた。
「シゼのためにジノンを裏切るか、イーツェン?」
「‥‥‥」
声を出せる自信がないまま、イーツェンは小さくうなずいた。はじめに裏切ったのはジノンの方だと思う。そう思いながらも、心がきしんだ。
少し身をかがめたオゼルクの指が髪をすべり、イーツェンの耳の形をなぞり、頬を唇までなでた。あごを二本の指でつかんでかるく力をこめる。イーツェンは素直に唇をひらき、口の中へさしこまれたオゼルクの指を従順な舌でねぶりはじめた。
長い指がゆっくりと動いてイーツェンの口の中をさぐる。舌の上を這う感触に、ぞくりと背すじに熱を感じた。意識をゆるめると厭悪感が浮かび上がって喉がつまりそうで、イーツェンは指の感触に集中した。
「なぜ、自分にふれるなと言わない」
またオゼルクがそっとたずねた。
指が抜かれる。イーツェンはかすかに湿った息を洩らして、オゼルクを見上げた。
「言ってもいいんですか?」
オゼルクは少し睫毛を動かし、珍しく棘のない微笑をうかべた。そうして表情をやわらげた彼は美しかった。凛として誇り高い鼻すじ、白く広い理知的な額、時おりきびしい線を見せる口元。知性があり、強い意志の力を持った顔だ。
イーツェンの顔を両手ではさみ、オゼルクはかがみこんで上から唇を重ねた。熱い舌に唇をなぞられ、イーツェンは口をひらく。入ってくる舌はいつものように強引ではなく、やさしく舌をからめて擦り、吸った。オゼルクの匂いが唾液とともに口中にひろがる。それを嚥下して、イーツェンはもっと求める唇をひらいた。他人の熱がほしい。自分の体の冷たさをすべて忘れさせるような。その中に溺れていくほどの。
ゆっくりと唇をむさぼってからオゼルクが体を引き、乱れた息をつくイーツェンを見おろした。イーツェンの頬にそえられた親指が肌の形をなぞる。
「たしかに。お前は利口だ、イーツェン」
「‥‥‥」
どう答えたらいいのかわからず、イーツェンはあいまいな微笑をうかべ、床に膝をついたままオゼルクを見上げていた。首がまだ痛い。だが体の痛みなど問題ではなかった。
オゼルクが自分の手で腰帯をほどき、上着の前をひらいて長い下衣をくつろげる。イーツェンは手をのばし、半端にふくらんだ下帯にふれた。やわらかなリンネルの布を横へずらして下着から男のものをつかみ出す。指をからめるようにしごくと、オゼルクの牡は内側にはっきりとした芯をもって硬く勃ち上がりはじめた。
オゼルクが軽くひらいた脚の前へあらためてひざまずき、イーツェンは熱い昂ぶりに唇をかぶせ、ゆっくりと口淫をはじめた。先端の張りを含んで舌をからめ、熱っぽい茎へ指の腹をそっとすべらせる。
さらに硬度を増してふくらんだそれを、口へ深く呑んだ。塩味と苦味がひろがって、吐き気と熱が同時にイーツェンの体の奥でうごめく。熱い牡を含んで頭を前後にゆるく動かしながら、舌腹で舐めあげ、口の中の上あごで敏感な先端を擦った。口にオゼルクの滴りがあふれてくる。それを音を立ててなめとり、飲みこんで、イーツェンはいきなり強く吸った。
頭上で抑えた呻きがきこえる。一度ゆるめ、あふれた先走りを飲みこみながら、もう一度深くへくわえこんだ。頬をすぼめて吸い上げる。男の形に口の中の粘膜が吸いついていくようだった。その形を感じとった腰の奥が熱い。忌まわしく、どこまでも愚かな体だった。
(代価のために体を売ったりはしない──)
オゼルクにかつてそう言い切った自分を、イーツェンはぼんやりとかすんだ頭のすみで笑う。愚かで、純粋で。何も知らなかった。
だが、もういい。望むものが得られるのならば、体も誇りも、今のイーツェンにはどうでもよかった。
(シゼ‥‥)
心のどこかが名を呼ぶ。
彼があんなふうにイーツェンを守るとは思わなかった。イーツェンにはそれだけでよかった。絶望し、恐怖に崩れそうだった体をシゼの腕が抱いた──あの刹那、世界が終わってしまえばいいと思った。自分を支える腕がシゼのものだと悟った瞬間、イーツェンは心底、ただ純粋に幸福だった。
(今度は私が、お前を守ろう)
オゼルクの指がイーツェンの髪をつかみ、頭を固定する。深く口を犯されたまま、イーツェンは目をとじ、喉の奥にどろりと注ぎこまれる熱と生々しい匂いを受けとめた。
咳込まないよう注意しながら吐精を飲み込み、そのまま、口の中で萎えたものを丁寧に舐める。頭を引き、オゼルクの顔を見ずに下帯を元に戻した。
服はオゼルクが己の手でととのえていく。どうするべきか迷いながら口元を拭うイーツェンに、彼はいつもの笑みを投げた。
「今夜、殿下のための舞踏会がひらかれる。お前も来い」
「私は‥‥踊れませんが」
ユクィルスのものはともかく、リグの舞踊ならいくつか知っている。だが、脚の鎖がそれをゆるさない。
オゼルクはあっさりとうなずいた。
「かまわん。途中で帰るな」
「‥‥わかりました」
イーツェンは小さく頭を下げ、床に手をつくと鎖が張らないよう両足で立ち上がる。ひざまずいていた膝が痛い。たじろいでいると、オゼルクがさらに言った。
「ジノンと話をして、仲を取り結んでおけ。だが、あれはお前に悪いことをしたと思っている。罪悪感は持たせたままでいた方がいい」
「‥‥‥」
「では、夜にな」
出ていけということだ。イーツェンはうなずき、口元をもう一度こすって汚れをたしかめてから扉へ向かった。
奥部屋から出てくるイーツェンに、客間で待っていたシゼが心配そうなまなざしを向けた。人が見たらいつもと変わらず表情を殺した顔に見えるだろうが、イーツェンにははっきりわかるほど、シゼの顔はいつもと違う。案じていたのがありありとわかった。
シゼをまっすぐ見て、イーツェンはうなずく。どうしてか少し泣きそうな気分で、体がうつろだったが、それでいて奇妙に幸せだった。ひとまず、やりとげたのだ。めまいに近い昂揚を感じた。
「大丈夫。すんだよ。戻ろう、シゼ」
その言葉を聞いてもイーツェンを心配そうに見ていたが、シゼはイーツェンが歩いていく先の扉を開く。部屋を後にし、自分に一歩遅れて従う足音を聞きながら、イーツェンの口元には微笑があった。