耳元にシゼの息遣いが荒くきこえた。
 顔を寄せた彼の首すじからは汗と革の匂いがして、イーツェンは目をとじる。すべてをシゼに預けてぬくもりにすがっていると、ばらばらに乱れていた息と脈がゆっくりとリズムを取り戻していくのを感じた。
 イーツェンの体からこわばりが抜ける。シゼの腕がゆるんだが、両腕はまだイーツェンの背へ回され、彼を支えていた。やがてイーツェンは顔を上げ、自分を見つめる銅色の目を見つめ返した。
「シゼ」
 名を囁いて、唇をふれあわせる。シゼは動かなかった。
 静かなくちづけの後で身を離し、イーツェンは右手でシゼの左頬にふれた。まばらにひげの散る頬には、イーツェンの叩いた痕がうっすら赤い。それを丁寧になでた。
「痛くなかったか」
 シゼは小さく首を振った。
「シゼ。どうしてあんなことをした」
「‥‥呼ばれたので」
 どこか困ったように、シゼは答える。イーツェンは溜息をついた。呼んだのは自分だ。呼んでいることにも気付かないまま。
「オゼルクを‥‥殴った?」
「割って入っただけです」
「お前の役目じゃない。お前はあんなことをしてはいけないよ、シゼ」
「そうですね」
 シゼの声は平坦だった。王族の前に割って入り、相手を床に倒したことをどう思っているのか、彼はひどく落ちついた様子だった。
 シゼの首に手を回し、がっしりとした肩に額をつけて、イーツェンはつぶやいた。
「ありがとう」
「いいえ」
 いつもと同じ声。同じ口調。イーツェンは何かを言おうとしたが、息が喉につまってどうにも声が出せなかった。
 シゼがあんなことをするとは思ったこともなかった。だが、やったのだ。イーツェンを守ろうとして、彼は城の人間に──それも王族に──きっぱりと逆らって見せたのだった。
 シゼの手がイーツェンの髪にふれ、なだめるようになでた。イーツェンは目をとじる。人にふれられるのが厭でたまらなくなっていても、シゼだけはイーツェンにとって特別でありつづけていた。今もただ心地よい。その理由を、イーツェンは考えないようにしていた。
「立てますか?」
 シゼがそっとたずねる。小さくうなずき、イーツェンはシゼの手を借りて立ち上がる。その動きで体に巻いていたシゼのマントが床へすべりおち、ローブが裂かれたイーツェンの背中が大きく剥き出しになった。
 あわてて服をとりつくろおうとしたが、シゼがイーツェンの手をとめ、後ろへ回って背中をしらべた。
「痛くないですか。血が出ている」
「血?」
「多分、爪で」
 オゼルクの、とは言わなかった。イーツェンは身を抜ける寒気に小さく肌をふるわせる。背中に、そう言われればひとすじの痛みがうずいたが、まだギリギリときしむ首や体中の疼痛にくらべればささいな痛みだった。
「大丈夫‥‥」
「後で軟膏をつけましょう」
 呟いて、シゼは布でイーツェンの背を拭った。とにかく着替えようと、イーツェンはローブの肩をおさえながらふらつく足で歩き出す。まだ足元がやわらかく、床ではなく泥でも踏んでいる気がした。
「シゼ。すまないが‥‥熱い湯か茶を取ってきてくれないか」
 木の衣装箱の前にかがみこんで蓋を開け、中からローブをひっぱり出すイーツェンの様子を見ていたが、置いていっても大丈夫と判断したか、シゼはうなずくと部屋の外へ姿を消した。
 外から閂棒をかけられる音を聞きながら、イーツェンはほっと息をつく。とじこめられる、そのことに安堵するのはおかしな話だったが、外界と遮断されたことで不安と恐怖がやわらぐ気がした。
 このままこの部屋から出たくない。シゼが戻って、彼さえいれば、繭のようにここにこもって生きていたかった。
 イーツェンは苦笑して、首を振る。あまりにも愚かな考えであり、夢にしてもあさはかだ。
 服の背は、長袖の柔らかな肌着まで裂かれていた。イーツェンはローブを脱ぎ、肌着を脱ぐ。剥き出しの体が冷えた秋の空気に固く締まる。
 首の前側がひりつくのを感じて指を這わせた。服の背中を裂かれた時に襟元がくいこんだのだ。オゼルクにつかまれた左の上腕には赤く指の痕が浮き、顔を動かすたびに首のつけ根の筋肉がひどく痛んだ。
(──体の痛みなど‥‥)
 さしたるものではなかった。常に。心の痛みにくらべれば。
 イーツェンは歯を噛んで、新しい肌着をまとい、ローブを羽織る。やっと手の震えが鎮まり、こめかみに脈打っていた熱っぽい痛みも薄らいできた気がした。だが時おり心臓が早鐘のように乱れ、喉元まで何かがせりあがったように息ができなくなる。
「‥‥‥」
 結んだ唇から呻きをこぼし、イーツェンは腹に手をあてて体を二つに折る。体中が苦しい。何が苦しいのかよくわからなかった。今日の一連の出来事か、オゼルクが及ぼうとした行為にか、ジノンの対応にか、シゼの行動にか──
「‥‥シゼ」
 名を呟いて、身をおこす。脱いだ服を箱の上へ放り、イーツェンはよろよろとソファへ座りこんだ。シゼ。そのことを考えねばならなかった。
 オゼルクに逆らった以上、シゼの身は無事にはすむまい。元々オゼルクは、レンギのこともあってシゼをひどく意識している。彼を逆上させるに充分な、そして罰を受けるにも充分な、シゼの不服従だった。
 シゼを殺すことなど、彼にはたやすい。
 そう思った瞬間、イーツェンは大きく身をふるわせた。シゼを投獄することも、処刑することも。オゼルクには簡単なことだった。そしてイーツェンにはそれをとめる手だてはない。己を抱くように腕を前で交差させ、ソファで前かがみになって、イーツェンはじっと考え込んだ。ジノンにたよれるか、と思ったが、その考えは一瞬で消えた。彼も王族だ。目の前でシゼがオゼルクに無礼をはたらいた以上、それをかばえる筈もないし、かばう気にもならないだろう。
 どうするか。どうすればいいのか。
 閂の外れる音に、イーツェンははっとして顔を上げた。開いた扉からシゼが小さなポットを手に入ってくると、心配そうにイーツェンを見た。
 イーツェンは微笑をつくる。
「早かったな」
 シゼはまばたきしたが、何も言わずにテーブルの上へ焦茶の陶のポットを置いた。棚へ近づき、かがみこんでイーツェンの使う陶杯を取り出す。戻ったシゼが目の前へカップを置いた時、イーツェンは湯気の中にまじる独特の甘味にやっと気付いた。シゼを見上げる。
 無言のままうなずき、シゼはポットを無造作に片手で傾けて黒っぽく煮出された茶を注いだ。イーツェンはシゼが押し出したカップへ手をのばし、手元へ引き寄せて、湯気の香りをかいだ。
 まちがいない。カルザ豆の茶だ。イーツェンの故郷、リグの名産。一口飲んで、イーツェンは口にひろがる香りに微笑した。煮出しが少し足りないせいで苦味が先走ってしまっているが、そんなことは問題にならないほど、その一口はイーツェンの体をあたためた。
 ジノンが量が手に入ったからと二度目に分けてくれたカルザ豆を、イーツェンは少しシゼにも分けた。それを、彼がどうしたかまで気にしたことはなかった。今の今まで。
 シゼはまだどこか心配そうに眉の間に影をため、イーツェンを見ている。イーツェンはもう一口、なつかしい味を飲み、微笑した。
「おいしい」
「そうですか」
 満更でもなさそうにうなずく。それがどこか可愛らしく思えて、イーツェンはクスッと笑いをこぼした。
「今まで飲んだカルザ茶の中で、これが一番おいしい」
「──」
「お前も飲め、シゼ」
 手招きするとシゼはためらったが、もう一度手招くと棚の下から余分の陶杯を手にしてイーツェンへ歩み寄った。隣に座らせ、イーツェンは茶を注いでやる。
 シゼは用心深く湯気を吹いてから一口飲んだ。イーツェンを見て、小さくうなずく。相変わらずの無言だったが、表情からは険が取れていた。イーツェンは体の力を抜いてソファにもたれ、腹の底にこらえていたものをすべて出すような大きな溜息をついた。
 つぶやく。
「‥‥おいしい」
「ええ」
 シゼが短くうなずいた。イーツェンはもう一口飲み、目をとじた。手の中のぬくもりと茶のあたたかさが体の外と内からゆっくりとしみわたっていく。このままこうしていたかった。おだやかな気持ちのまま、自分を蔑むことも人を憎むこともなく。ずっと、このまま。
 目をひらき、イーツェンは手の中のカップを見つめた。
「シゼ」
「はい」
「お前は‥‥この城にいつからいる?」
 シゼは口元にカップをあてたまま、少し考えこんだ。
「城には、7年ですね」
「その前は」
「南の砦に3年」
「ジノン殿の砦か?」
「いいえ、エグリーシェではなく、もう少し東側の砦です」
 シゼはほとんど空になったカップを膝におろした。イーツェンが重ねてたずねる。
「お前、いくつだ?」
「‥‥26ですが」
 2年近くもいっしょにいてはじめてたずねられた問いに、シゼは少し居心地が悪そうだった。イーツェンはうなずく。
「ふうん」
 ユクィルスの軍属になったのは11年前だとシゼは以前に言っていたから、15で軍に入ったということになる。それからシゼはずっとユクィルスの国で働いてきた。
「その前は‥‥」
 一瞬ためらう。シゼの目を見た。
「聞いてもいいか?」
 シゼは少し考えていたが、言葉を整理するようにゆっくりと口をひらいた。
「6才の時に、村が戦争で焼けて、私は奴隷商人に売られました。町で競りにかけられるところだったんですが、その奴隷市が盗賊に襲われまして──」
「え?」
 目をぱちくりして、イーツェンは思わず声をはさんでいた。奴隷市は知らないが、市場というものはたいていしっかりと護衛や兵がたてられ、盗賊の襲撃をよせつけないものだ。シゼが同じ淡々とした調子で説明する。
「どうやら敗残の兵が徒党を組んでいたようで、自分たちの身寄りが市にかけられていたようです。それを取り戻しに来たらしい。金目当ての者も含んで、100人近くいたと思います。記憶があいまいですが」
「じゃあシゼは逃げられたのか?」
「いえ。彼らにさらわれましたよ。多分、彼らもいずれ奴隷商人に私を売りとばすつもりだったのだと思いますが、結局、私は3年ほど彼らについて回っていました。私の家は‥‥宿屋だったので、私は幼い時から馬の世話をしていたんです。それが重宝されたんでしょう」
 家、と言うところで一瞬声がよどんだ。傷。イーツェンはシゼを見つめたまま、その声が静かに語ることに聞き入った。
「9才か10才の時、ユクィルスと南のバンゼッカとの国境紛争がおこり、私はそこの酒保隊にくわわりました。身分は奴隷のままでしたが、主人はいませんでした。あとは、戦場をちょろちょろと駆け回って、鉄の装備を拾い集めて売ったり、冬にはどうにか砦のはじにもぐりこんでいましたね」
 残る茶を一口で飲み干し、テーブルへ置く。注ぎ足そうとしたイーツェンを手でとめて、シゼはつづけた。
「15の時に、ユクィルスの徴兵に応じて契約を結びました。眠るところを得るために。そのうちこの城へ移って、後は、ご存知のとおりです」
 レンギの護衛としてそばについた、と言うことだ。そして今はイーツェンの。イーツェンは考えこんでいたが、そっとたずねた。
「お前がこの城へつれて来られた理由はあったのか? その‥‥どうしてお前が、選ばれた?」
 シゼはとまどったように睫毛を動かしたが、反問せずに答えた。
「砦で怪我人が出たのを、私が城まで運んできたんです。丁度その時、レンギの護衛を探していて、私にその役が回ってきました」
 その時のことを思い出したのか、かすかに笑った。
「私はちゃんとした屋根の下で毛布を使って眠る暮らしにあこがれていました。それがわかったのかもしれません。‥‥レンギが、私を選んだんですよ」
 心臓がドキリとはねて、イーツェンはシゼを見つめた。いきなり沈黙が怖くなって、あまり考えずに早口で問い返す。
「レンギが自分で兵を選んでいたのか?」
「彼は怪我人を診る療法師を手伝っていたんです。それで私を見つけて、名前や育ちを聞いて、後は誰かに話して事を決めてしまいました」
「そう」
 その時のことを想像して、イーツェンは微笑した。レンギがシゼの中に何を見たのか、わかるような気がする。実直。頑固。城内での、人々と心の裏を探り合うような関わりにきっと疲れ果て、レンギはシゼを選んだのだろう。そう思った。その目はたしかだった。
「ありがとう。話してくれて」
 かるく頭を下げる。シゼはイーツェンを凝視したままだった。
「イーツェン。どうして聞くのか、教えてもらってもかまいませんか」
 イーツェンは小首をかしげる。
「知りたかったから」
「‥‥どうして、今」
「べつに。理由はない。そういう気分になったんだ」
 それはあからさまな嘘で、そうと気付かれたのもわかったが、イーツェンは気にしなかった。シゼは納得していない様子だったが、イーツェンが思った通りそれ以上たずねてはこない。
 イーツェンはゆっくり茶を飲み干した。まだ体の芯にはさっきの恐怖がこびりついていたが、一息入れて、頭はまともに回りはじめていた。冷静に、と自分に言い聞かせる。とにかく、冷静に。
(味方をつくりなさい、イーツェン)
 レンギはそう言った。城の人間は友にはならない。だが味方をつくって、自分の身を守らねばならないと。その言葉の重さが、ギリギリと心にくいいってくるようだった。
 ──友にはならない。
 ジノンの目を思い出し、イーツェンは唇を噛んだ。信じようとするなど愚かなことだった。ジノンはたしかに親切だし、優しい。だがそんなことは問題ではない。個人的な好意や優しさなど、何の役にも立たないのだ。イーツェンに対する少しの疑念だけで、ジノンはオゼルクに好きなようにさせ、イーツェンの弁護のために口を開こうともしなかった。
 オゼルクははじめから、それがわかっていたのだろう。わざわざあの場にイーツェンを引きずり出し、叔父に挑んでみせた。自分をとめられるものならとめてみろと。あれはジノンに対する己の誇示であり、イーツェンへ立場を思い知らせるための行為でもあった。
(ジノンと寝てみろ)
 オゼルクは、かつてそう言った。あれはイーツェンを馬鹿にするためだけでなく、案外と本音だったのかもしれない。今日、イーツェンを使って、オゼルクはジノンに己を示してみせた。
 唇に指をあて、イーツェンは目をほそめながら考えこんだ。その手からシゼが空のカップを取り上げ、その場を手早く片付けはじめる。上の空のまま口の中で礼を言い、イーツェンは壁のしみを見つめてじっと考えをめぐらせ続けた。
 そう。一番はじめにジノンと会った時もそうだ。ジノンにイーツェンとルディスのことを知らせたのは自分だと、オゼルクは言っていた。ルディスを遠ざけようとしたのだと──あの時イーツェンはそれにさしたる注意を払わず、ただ滑稽な話だと思っただけだったが、もしかしたらオゼルクの行動にはイーツェンが思うより深い意味があったのかもしれない。
 オゼルクは、ジノンにイーツェンを近づけようとしていたのだろうか。
(何のために?)
 腕組みして長い間考えこんでいたが、イーツェンはポットを片付けて戻ってきたシゼへ顔を向けた。
「シゼ」
「はい」
「オゼルクに会いたい。どうすればいい?」
 常に引きずり回されてきて、こちらから会おうとしたこともなかった。
 シゼが驚いた様子でイーツェンを見つめた。
「今すぐですか?」
「うん。さっき説明しそびれたことをちゃんと言ってこないと。早いほうがいい。もう一度あんなふうに呼びつけられるのは、御免だからな」
 イーツェンが冷静にそう言うと、シゼは一瞬の間を置いてうなずいた。
「使いをたのむか、部屋にいるのを確認して会いに行くかですが」
「‥‥もう部屋に戻ってるかな」
 イーツェンは考えこむ。シゼがそっとたずねた。
「確認して来ましょうか」
「んー‥‥」
 ふっと鋭い息を吐き出し、イーツェンはソファから勢いをつけて立ち上がった。とにかく早く会わないとならなかった。その方がオゼルクは驚くだろう。わずかでも有利な位置から手を打たないとならない。それも、手遅れになる前に。
「一緒に行く。いなければ戻ってくればいいし、いれば会う」
 きっぱりと言い切ったイーツェンを、シゼは物思わしげな目で見つめたが、何も言わずにうなずいた。