丁寧に角度をつけて切った羽根ペンの先端から、曲線がのびていく。ペンの傾きを変えないよう苦心しながら、イーツェンは下から右上へはねる半弧の線をゆっくりと引いた。無駄な力が入ると中空になった羽根の茎がギリギリと嫌な音できしんだり、歪んだりするが、今日はなめらかな感触が指に戻ってきた。
 肘を支点に、手首を動かさず、曲線の最後を描ききる。これが難しく、すぐに手首がよれそうになる。
「上手になりましたよ」
 イーツェンの肩ごしに板をのぞきこんだ男がほめた。板の上では、イーツェンが今しるした線がゆっくりと消えていく。リボンを幾重にも結び合わせたような、文字と模様が複雑にからみあった装飾文字だった。インクのかわりに水を用いて板に描く修練だ。
 イーツェンは、ほうと息をつく。その肩に手が置かれた。
「もう少し、肩から力が抜けると線が美しくなります。息をとめずに、吐き出しながら最後の線を描かれるとよろしい」
「‥‥はい」
 ドキリとした気持ちを悟られないよう用心深くうなずいたが、手が肩から引かれるとやっと体からこわばりが抜けた。近ごろ人にふれられるのが苦痛で、服の仕立てのために体を採寸するのさえ嫌だった。こうして他人と身がわずかにふれるだけで、どうにも説明のつかないどろどろとした嫌悪感に息がつまる。
 オゼルクは相変わらず数日に一度、イーツェンを呼びつけて抱いた。イーツェンは、嫌悪をオゼルクに知られないよう用心していた──弱みを見せたくはない──が、それが成功しているかどうかはわからない。オゼルクとの行為に押し流され、快感に溺れて抑制を失っていくのは、前と変わらなかった。
「今回は文字だけでなく、詩をうつしてみますか?」
 丁寧な言葉が意識を引き戻す。イーツェンは額ににじんだ汗を手の甲でこすりながら、うなずいた。城の写筆者の一人でもあるこの男がどうやら詩人でもあるらしいと、イーツェンにいたずらっぽい笑みで教えたのはレンギだったと、鈍い痛みが記憶を刺す。
 教師が薄い棚から詩の記された紙を探し出そうとしている間、イーツェンはまた羽根ペンに水をつけ、言われたように肩の力を抜いて曲線を引こうとしてみた。そう言えば、シゼもしきりに言う。剣を振る時、肩の力を抜くようにと──
 扉が叩きつけるような勢いでひらき、イーツェンは身構えながら顔をあげた。入ってきた人物に、全身が凍りつく。肌が総毛立つ気がした。
 オゼルクが、つかつかとイーツェンへ歩み寄った。いつもの黒ずくめのいでたちで、腰に華奢だが美しい短剣の鞘を吊るし、ゆるいくせのついた金の髪を雑に結んでいる。早駆けでもしてきたのか、乗馬用のブーツをはき、髪のふさがほつれて肩に乱れていた。
 声の出ないイーツェンをまっすぐ見つめ、オゼルクは低く命じた。
「来い」
「でも‥‥」
 指の先まで痺れたように冷たい。イーツェンは声の震えを押し殺すのがやっとだった。何が起こったというのだろう。オゼルクの目の中にはあからさまな怒りがあった。
 二の腕をぐいとつかまれて、息がつまる。苦痛と嫌悪に胃の腑がねじれた。
「お前の審問だ」
「何──」
 引きずり上げられ、無理矢理に立たせられて、イーツェンはよろめいた。その体を誰かの腕が支える。シゼだった。扉の外にいたはずだが、オゼルクについて入ってきたらしい。
 イーツェンは怯えた目でシゼを見たが、むっつりと押し黙ったシゼの顔に表情はなかった。オゼルクが乱暴に腕を引いて、イーツェンはもつれる足で必死に歩き出した。


 どこへつれていかれるのか──何の審問だというのか。何故、自分が罪を問われねばならないのか。
 恐慌に体がふるえ、いつもなら慣れた鎖が脚にからみつきそうになる。オゼルクはイーツェンの腕を離そうとはせず、くいこむ指の力は無慈悲だった。
 城の人々が物珍しそうに振り返る。足早にイーツェンを引っ立ててゆくオゼルクの姿へ向けられる好奇の笑みや、眉をひそめた表情は、まるでイーツェンが罪人だとすでに決め込んだ顔に見えた。罪人を見るように自分を見ている。それが恐怖のもたらす錯覚だとわかっていても、イーツェンは屈辱と怯えに身がすくむ。
 東塔の門をくぐり、オゼルクは石段をのぼりはじめた。イーツェンはただ必死についていく。シゼの足音が後ろに聞こえたが、彼をたよりにできないことはわかっていた。シゼは城の人間だ。もしこの場でイーツェンがオゼルクの手を振りほどいて逃げ出せば、首をつかんで引きずり戻すのが役目だった。
(シゼはそうするだろうか?)
 身の内を寒けがはしって、イーツェンは呻いた。シゼ。そんなことには耐えられない──多分、彼らのどちらも。それでもシゼは役目を果たすだろう。彼は、それしか知らない。子供の頃に奴隷とされ、やがて傭兵となって‥‥彼は、常に人に与えられる役目を果たしてきた。人に仕え、人に使われて。
 ほかの生き方を知るまい、シゼは。イーツェンが己の生き方しか知らぬように。そしてイーツェンが脚の鎖を断ち切れないように、シゼは己のしがらみを断ち切れない。
 扉がひらき、室内へ引きずり込まれる。背中を強く押されて世界が傾いた。体ごと床に倒され、衝撃に息がつまる。肘を立てようともがき、どうにか表情をとりつくろいながら顔を上げた。かけらほどの矜恃でもないよりましだ。
 ジノンの青い目が彼を見下ろしていた。東塔。なじみのある部屋の色、部屋の調度。その筈なのに、笑みのないジノンの表情やその目の冷たい色とともに、どれもがひどくよそよそしい。
 ジノンは唇を結んで額をひきしめ、厳しい顔でまっすぐにイーツェンを見つめていた。
 背後で扉がしまった。イーツェンははっと、まるで罠へ追い込まれた獣のように振り戻り、オゼルクが扉をとざすのを見た。シゼ。見回すがシゼの姿はどこにもない。
 室内にはイーツェンと、そしてオゼルクとジノンの三人だけだった。シゼは部屋の外だ。
 ゆっくりと息を吐き出し、立ち上がって、イーツェンは数回呼吸をくりかえした。吸って、吐く。浅くなりそうな呼吸を抑えて、ただ吐き出すことに集中し、シゼに教えられた方法で息を体に入れると、全身の緊張がわずかにやわらいだ。どうにか、声が出せそうだった。
 ジノンを見つめる。
「審問と‥‥うかがいましたが、私に何か咎がございましたか?」
 肩にオゼルクの手がふれた。
「膝をつけ、イーツェン」
 イーツェンはオゼルクを振り向いた。
「私は罪に問われるようなことは何もしていない──」
「膝をつけ」
 くりかえして、オゼルクはイーツェンの髪をつかみ、容赦のない力で押し下げた。髪の根元が引きちぎられるような痛みに、イーツェンは声を殺して膝を折る。オゼルクは髪をつかんだままイーツェンの顔をぐいと上へ向けさせた。薄手の革手袋がイーツェンの黒髪とこすれて、きしんだ音をたてた。
「オゼルク。手をゆるめてやれ」
 ジノンが無表情な声で言う。オゼルクはイーツェンのかたわらへ右膝をつき、叔父を見上げながらかすかに笑った。
「これがどれほど打たれ強いか、あなたはご存知ない、ジノン」
「彼を審問にかけるのはお前の仕事ではない」
「殿下のもとに罪人を引きずり出す前にその罪をあらためるのは私の仕事だ、叔父御」
 イーツェンは喉がひくつくのを感じた。オゼルクが「殿下」と呼ぶ相手は、この城とユクィルスの宮廷に一人だけしかいない。ジノンすら、オゼルクが口にしないその名に──その相手に──たじろいだ様子だった。
「あなたが、告発する前にしらべてみるべきだと言ったのだ」
 オゼルクはゆっくりと、ジノンに考える間を与えるように、低い声で言う。その声にイーツェンは笑いを聞いた。背後で見えないオゼルクの表情が、彼には手に取るようによくわかる。獲物を追いつめていくのを愉しむ顔だ。
 これは新しい遊びだろうか? オゼルクの?
 イーツェンの思考は麻痺したように動かない。まともに物が考えられず、オゼルクに引かれたままの髪の根元からこめかみまで、頭全体がするどい痛みに疼いた。
(自分が何者か、忘れてはいけない──)
 ふいにレンギの言葉が思い出される。おだやかな声も。
 何者? 何者だ、己は。
 レンギに告げられるほどの、そしてこの場で己を支えられるほどの──
(私は、何者だ?)
 私は──
 痛みに頭全体がふくれあがるような気がする。息一つ吸うにも喉がひりひりと痛んだ。イーツェンは必死に考えをまとめようとしたが、床についた膝がきしみ、頭は割れるような痛みに脈打った。
 何の理由があってここにいるのか、ひざまずかせられているのか、たとえばこれがオゼルクの新たな遊びなら、命まで取られる心配はない。そうでなく罪を本当に問われているのであれば、ジノンが頼りになるはずだった。ジノンは理屈に応える男だ。
(少なくとも、リグの「王子」相手には──)
 オゼルクが引く髪の痛みをこらえ、恐怖をこらえて、イーツェンはジノンを見上げる。
「お許しを得てうかがいたいことがございます」
 ジノンはオゼルクに苛立たしそうな手を振った。
「ゆるめてやれ。‥‥イーツェン、何だ?」
 オゼルクの指がかすかにゆるんだが、痛みに麻痺していた感覚が押し寄せてきた分、苦痛はひどくなったようだった。
「私は、何の罪咎によって審問を受けているのですか?」
 その問いにジノンが答えようとした時、背中からオゼルクの声が囁いた。
「反逆だ。王家への」
 イーツェンの息がつまる。それはいかに理由があろうとも、苦痛に満ちた死を申しつけられる大罪だった。たとえ目論んだだけであっても。罪人の親族もまた首を失う。
「私には‥‥身の覚えが、ございません」
 ジノンの目を見つめて訴えた。少しでも彼と親しくなった、そのことは意味をもつだろうか。ジノンを信じたいと思った、ジノンに心を開いた、それはイーツェンにとってだけでなくジノンにも少しは意味のある、そんなことではなかったのだろうか。
 髪を引かれ、首が引き絞られるように上へ引きずり上げられた。強い痛みにイーツェンの全身が硬直する。ジノンがするどい声を出した。
「オゼルク!」
 ふ、と笑う息がして、手はゆるんだが、まだ離れない。首を不自然に上へ曲げられ、首のつけ根の筋肉が痛んだ。
 ジノンは無表情のまま、イーツェンを見下ろした。
「アンセラを知っているな?」
「アンセラ?」
 問われた意味がわからず、イーツェンは眉をひそめる。瞬間、オゼルクのもう片方の手がイーツェンの首をうしろから押さえた。人さし指から小指までの四指がぞろりと首に回る。イーツェンは反射的な恐怖に身をひきつらせ、喉に悲鳴をつめた。
「聞かれたことだけに答えればいい」
 耳元でオゼルクの低い声が囁いた。笑みはあっても、そこに憎しみは聞こえない。それがイーツェンには恐ろしかった。オゼルクはイーツェンを抱く時同様、今ですら、イーツェンにさしたる感情を抱いていない。ただ物のように彼を抱き、彼を追いつめる。
 首をゆすられ、視界が大きくぶれた。
「叔父御にお答えしろ、イーツェン」
「存‥‥じて、おります」
 イーツェンはかぼそい声を絞り出す。アンセラ。リグの隣りの国。ユクィルスが攻め落とし、滅んだ国だ。アンセラの民だと言ってイーツェンを傷つけようとした少年と立ち合ってから、まだ一月にもなっていなかった。
 ジノンはうなずく。首が弓なりに反ったイーツェンを哀れに思ったか、イーツェンの前に膝をつき、目の高さを合わせた。
「アンセラの者と城内で接触を持ったことは?」
 イーツェンはまばたきした。頭の中で痛みが渦巻き、うまく考えがまとまらない。アンセラ? 何故、アンセラが?
「覚えは、ございませんが‥‥」
「練兵場で話をしていたそうだが?」
 オゼルクが背後で言い、イーツェンの首すじにおいた指をすべらせた。背骨を恐怖と嫌悪が這い上がって、腹の中がねじれたような吐き気を感じた。
「誰とですか?」
 声がかすれる。あの少年のことだろうか。だが少年との会話が聞こえるほど近くにいた者は、シゼと、あのサンジャという剣士だけだ。イーツェンが彼の出自を知っていると、オゼルクたちにわかるすべはない。その筈だ。
 ジノンが深く見通すような目でイーツェンを見つめた。
「奴隷の少年だ。セクイド。アンセラの王家の傍流」
「‥‥王家‥‥?」
 イーツェンは呻いた。
「そうだ。知っているな?」
「奴隷の鎖をつけた少年に、剣の修練相手になってもらったことなら‥‥あります。ですが、名前も、出自も聞いてはおりません」
「真か」
「はい」
 半分は嘘、半分は真実。イーツェンはジノンをすがる目で見上げる。この場で彼を救えるのはジノンだけだ。ジノンに信じてもらわねばならなかった。
 ジノンの強いまなざしは、ほとんど痛みをともなってイーツェンの内側へくいいってくる。イーツェンは体の苦痛に額を汗ばませ、ふるえる息に唇をかすかにひらき、ただ名状しがたい圧力に耐えた。己のすみずみまでもを探られているような気がする。ユクィルスの王族の目。青い目。
 ひたとイーツェンを見据えていたが、ジノンは目の力をゆるめた。
「オゼルク。離してやれ」
「叔父上──」
「離せ」
 はっきりと、そう言った。一瞬の間を置いて、イーツェンは髪にかかる圧力がゆるむのを感じる。オゼルクの手が離れると、己を支える痛みがなくなって床へへたりこみ、イーツェンは床に両腕をついた。全身から力が流れ出し、萎えた足で起き上がる自信がない。
 オゼルクがゆっくりとイーツェンの横へ回り、片膝を折った。彼はもう笑っていなかった。
「何故そんな者を、剣の修練相手にした?」
「訓練場で、偶然‥‥」
「偶然出会ってか?」
「そうです。体格が近いので、一度だけ、たのんで、相手をしてもらいました」
 オゼルクの目を見つめ返し、イーツェンは背すじを這う恐怖を表情に見せないよう、息をつめた。オゼルクが囁く。
「嘘をついているな」
「‥‥私が? 何の、ために?」
 弱々しくかすれた声で、イーツェンはつぶやく。体が小さくふるえていた。
「奴らは逃げたぞ、イーツェン」
「誰が‥‥?」
「アンセラの生き残りどもだ──セクイド、それからサンジャと言ったか、あれをつれていた剣士だ。ほかに宿舎の兵が12名と、城内の奴隷5名。どうやら南部での反乱に呼応して城内に騒ぎをおこそうとたくらんでいたようだが、こちらがとらえようとした気配を察知して逃げた」
「‥‥‥」
 イーツェンは呆然と、うつろにオゼルクを見つめた。
「王の酒に毒を盛ろうとしていたようだ」
「それは‥‥陛下は、ご無事で‥‥?」
「事が起こる前に発覚したのでな」
「幸いでございました」
 ほとんど反射的に言ったイーツェンの口元を、オゼルクが手の甲で叩いた。かるいものだったが、手袋のつめたい感触に痛みがぴりりとはしる。
「その口で軽々と嘘を吐くな。お前と奴らにはつながりがあったのだろう? アンセラとリグは、長らく近しい国であった」
 イーツェンは天井がゆらぐのを感じた。緊張のせいか、オゼルクに打たれたためか。それともアンセラの残党が──そしてあの少年と剣士が──王の暗殺を企てたことについての驚きか、自分でも何が一番苦しいのかわからなかった。全身が汗で濡れている。
「私は‥‥私は何も存じ上げません。本当に、何も──」
「お前は何故、剣の修練などはじめた? 訓練場で、あるいは兵舎の一室で、誰と会っていた?」
「私は何もしていない‥‥!」
「奴らは訓練場で互いに接触し、連絡を取っていた。お前がそれを知らんと言うか?」
 オゼルクを見上げ、イーツェンは首を振った。
「私は知らない。本当に何も知らない、オゼルク。リグはアンセラが陥ちた時、兵を出さず、国ざかいの山門を封じて戦いが終わるのを待った。我らはユクィルスに逆らう意志は持っていない。あなたもご存知でしょう──」
 声が上ずる。冷静になろうとしたが、息がつまってどうにもならなかった。オゼルクの冷徹な表情は揺らぎもしない。
「わざわざ似合いもしない剣の修練までしてみせて、何も気が付いていないとは言わせんぞ、イーツェン」
「ちがう!」
 めまいがしたが、首を振り続ける。
「そうじゃない‥‥私は、ただ」
「奴らについて知っていることを話せ」
 オゼルクの声には切迫した焦りがにじんでいて、それが尚更イーツェンを怯えさせた。この夏、オゼルクが長く姿を消していたのは、ユクィルスの南で反乱がおこったからだと聞いた。城内でのたくらみも、オゼルクの焦りも、それとつながりがあることなのだろうか。彼が危機感を覚えるほどに、反乱の炎は大きくなっていると言うのだろうか。塔で暮らすイーツェンには何一つわからぬことだった。
「何も知らない、私は、何もしてない‥‥」
「お前は嘘をついている」
 オゼルクはひどく静かに言った。
「イーツェン。お前は‥‥何かを、その顔の向こうに隠している」
 青い目に容赦なく見据えられて息がつまる。喉を何かがふさいで、声も出ない。オゼルクの指がまた髪をつかみ、ねじりあげた。視界が白くなるほどの痛みに悲鳴を上げ、イーツェンは床へくみふせられながらもがいた。オゼルクの左手がイーツェンのローブの首すじを後ろからつかんだ。
 布地の裂ける音に、イーツェンの悲鳴が重なる。頭を両手でかかえこんで亀のようにうずくまり、彼は、血の音が鳴る耳にオゼルクの声を聞く。
「寝室をお貸し頂きたい、叔父御。私が吐かせる」
 そう──ジノン。ジノンがいる。必死に見上げたイーツェンは、自分を見下ろすジノンの目を見て凍りついた。いつもイーツェンを見ているおだやかな目ではない。ただイーツェンを値踏みし、探る目だった。それは友人を、せめて少しでも親しい相手を見る目つきでもなかった。そこには、イーツェンへのはっきりとした疑心があった。
 体を支える何かが折れたような気がした。
「ジノン‥‥助けて‥‥」
 耳に聞こえる声が自分のものだとは思えない。そんなふうに自分が誰かに、ましてやジノンに哀願すると思ったこともなかった。
「ジノン──」
 すべてをかなぐり捨てたような呻きにジノンは一瞬ためらったが、イーツェンから顔をそむけた。
「お前に問うより体に聞く方が早いな、イーツェン」
 オゼルクが嘲笑うように言って、裂けたローブを引きずりおろし、イーツェンの背中をむきだしにする。イーツェンはくぐもった悲鳴をこぼしてふたたび頭をかかえこんだが、腰帯をぐいとオゼルクがつかんで彼を立たせようとした。
「いやだっ──」
 叫ぶ声がまた喉につまる。体中の血が逆流し、頭が割れるように痛んだ。ジノンのブーツが目の前の絨毯に見える。オゼルクがこんな状況で自分を陵辱しようとしているのが信じられなかった。
 自分の体は自分を裏切るだろうか? ──その答えは、知りすぎるほどに知っている。屈辱も苦痛も、肉体の快感をとどめる手だてにはならない。それに溺れる自分自身も。たとえこの場、この状況においても。それが何より恐ろしい。
 恐怖に全身が汗ばんだが、肌も体も凍りつくように冷たい。血という血が体中から流れ出してしまったようだった。シゼの目の前で快感に狂わされた記憶がよみがえり、イーツェンは内臓が崩れたような吐き気に呻いた。何一つ役には立たない。意地も、矜恃も。
「立て」
 うずくまって動かないイーツェンの尻をオゼルクが平手で叩いた。服の上からだったが、かけらも容赦のない力に脳天まで痺れる。イーツェンは四肢を動かしてもがいたが、逃げようとしているのか立とうとしているのか自分でもわからなかった。
 世界が回る。オゼルクが彼を引きずりあげようとしている。どちらが天井でどちらが床か、感覚を失ってイーツェンは暴れた。何もかもがぐるぐると回り、めまいに体が崩れる。悲鳴がきこえた。オゼルクの叱咤。ジノンが何か言ったようだったが、水の向こうの音のようにすべてはぼやけ、イーツェンの周囲で混沌の渦を巻いた。
 世界が揺らいだ。衝撃が体にはしって息がつまる。イーツェンは、ただその場から逃れようと手足をばたつかせた。体は自由にならない。何かが彼を強くつかんだ。
 悲鳴。
 調子っぱずれのそれが自分の口から上がっていることに気付いた時、イーツェンの体を力強い腕が抱きかかえた。なつかしいほどの感触。彼を支えるぬくもり。そんな筈がない。イーツェンはぼんやりと呻いた。
「シゼ‥‥?」
「大丈夫ですか」
 耳元でシゼの低い声がする。たしかに、彼だった。
「どうして‥‥お前‥‥」
「呼んだでしょう」
 静かな声だった。イーツェンはまばたきする。喉が痛い。悲鳴だと思った自分の声が、くりかえし声を限りにシゼを呼んでいたことを、ぼんやりと思い出した。
 だが──
 視界が光にぼやけて、痛む目に物の輪郭がよく見えない。目の前の影を見つめて目をしばたたいた時、きしるようなオゼルクの声がした。
「シゼ‥‥貴様‥‥」
 絨毯から身を起こして、オゼルクが立ち上がろうとする。横に身をかがめたジノンが甥に手を貸した。
 イーツェンは自分を抱えるシゼの左腕を、すがるようにつかんだ。オゼルクの声が耳を叩く。
「貴様、己の立場がわかっているのか‥‥!」
「私は、城の命により、この方を守る任についております。その役目を果たす義務があります」
 淡々と、シゼは言った。その声には何の恐怖もたじろぎもない。彼の顔が見たいと思ったが、イーツェンはオゼルクの憤怒の表情から目がそらせない。額をこわばらせまなじりを上げて、頬にするどい血の色をのぼらせ、オゼルクは怒りに我を失っているように見えた。
「その城の王子に手を上げるということがどういうことか、知らぬ貴様ではあるまい!」
 イーツェンの心臓が縮み上がる。全身にうずく痛みにあえいだ。
「オゼルク‥‥駄目だ‥‥」
 かすれた哀願を、オゼルクは無視する。立ち上がろうともがくイーツェンを、シゼの腕が抱いてとめた。力強い腕だった。イーツェンを守ろうとしている。オゼルクに逆らい、己の本当の役目を外れてまで。
 イーツェンは息を吸いこんで、体に力をこめた。上体を回して振り返る。シゼの表情をはっきりと見ないまま、右腕を振り抜いた。手のひらがシゼの頬に大きな音をたて、シゼの頭が大きく揺れた。
 唇を噛み、イーツェンはシゼの左腕を自分から押しのけると、よろよろと立ち上がった。吐き気とめまいに体が崩れそうになる。ふるえるあごを引いて、オゼルクを見つめた。
「オゼルク。シゼの非礼は私がお詫びする。申し訳ない」
 ゆっくりと頭を下げた。膝が揺れる。今崩れたら、もう立ち上がれない。必死でこらえた。
「二度とこのようなことをしないよう、私がきつく言っておく。罰なら私が、与える。彼は‥‥私の、護衛だ」
 頭を上げ、背を大きく裂かれたローブが肩から落ちかかるのを戻した。ジノンへと向き直り、イーツェンは自分を見つめる男の目をまっすぐに見つめ返した。
(城の人間を信用してはならない──)
「私は、アンセラの者を知らない。剣を学んでいたのも、体を動かして自らを健やかに保つほかの意図などない」
 イーツェンは静かに言った。声の震えを、どうにか押さえ込んだ。
「幾度でも誓います。審問が必要ならば、告発して下さい。しかし私は、身に覚えのない屈辱を受けるつもりはない。私はリグの王子だ、ジノン殿。あなたがたの屋根の下へ客人として招かれ、あなたがたと同じ食卓で水と塩を口にした。そのことを忘れるようなあなただとは、思えない」
 オゼルクが乱れた金髪を払い、喉で引きつれたような笑いをこぼした。イーツェンはジノンを見つめて目をそらさない。くずおれそうな気持ちも恐怖も痛みも、すべてを押し殺して、今この瞬間の己だけを保った。
 永遠とも思える沈黙のあと、ジノンがうなずいた。
「すまなかったな。戻られよ、殿下」
「感謝いたします」
 イーツェンは膝を曲げて会釈する。シゼが己の短いマントを外し、ローブの裂かれたイーツェンの背にかけた。それを身にきつく巻きつけてイーツェンが歩き出すと、シゼは早足で先に立って扉を開いた。イーツェンはその顔が見られず、絨毯を見つめて歩いた。
「イーツェン」
 オゼルクの声がイーツェンの足をとめた。振り向けないイーツェンへ足音が近づき、オゼルクがイーツェンの目の前へ一本の紐を差し出した。イーツェンの髪をまとめていた紐だ。途中で絨毯に落ちたのだろう。
 イーツェンはふるえる指を悟られないように息をつめ、無言のまま紐を受け取った。オゼルクの視線を顔に感じたが、彼は視線を上げられなかった。
「いい気になるな」
 そっと、やわらかい囁きが耳元をかすめる。オゼルクはブーツの音をたてて下がった。イーツェンはゆっくりと頭を下げ、顔を伏せたまま扉の外へ出た。


 ようやく塔にたどりつきはしたが、石段をのぼる足がもつれる。シゼの腕が背後からイーツェンの脇の下へ入り、体を抱くようにして、一歩ごとに彼の体を持ち上げた。イーツェンは呻くように名を呼ぶ。
「シゼ──」
「もう大丈夫です、イーツェン」
 ひどく低い、ざらついた声だった。イーツェンはシゼの腕にすがりながら石段をのぼりきり、導かれるまま部屋までよろめき歩いた。
 シゼが扉を開き、イーツェンを抱きかかえたまま部屋へ入った。扉をしめ、イーツェンをソファへ運ぼうとする。
 力の入らない膝が床に崩れ、イーツェンはシゼに両腕ですがった。体中がふるえている。全身から冷たい汗が吹き出し、今さら濃厚な恐怖に息がつまった。ただシゼを呼ぶ。
「シゼ‥‥」
 ぐいと抱きしめられた。息がすべて絞り出されるほどに強い抱擁が全身をしめつけ、イーツェンの声をとめた。身がきつくきしむ。その痛みすらこの瞬間には甘かった。抱擁の内に崩れながら、イーツェンは身の内に凝った氷のような冷たさがとけていくのを感じていた。
 それが、一瞬の幻だとしても。