ジノンが口元に吐息を溜め、のばした指でカードを表に返した。
「一体何をしたんだね?」
「少し気合いが入りすぎただけですよ」
イーツェンはカードの絵をにらみながら、ほとんど上の空で答えた。ファーキマというこのゲームのコツを、近ごろやっと覚えはじめた気がするのだが、油断するとジノンの手慣れた罠に引っ掛かって形勢を逆転される。
「練習相手と押しあって、地面に倒れて自分の木剣で顔を打ったんです」
これが一番後くされのない説明だった。誰かに打たれたとあっては「誰か」を罰しようという人間が出ないとも限らない。たとえば、オゼルクあたりが暇つぶしのためにでもそのくらいのことは言い出すかもしれないと、イーツェンは用心していた。
じつにばかばかしい話だが、王族に傷をつけたというだけで、罰の理由となる。イーツェンがこの国の王族でなくとも、王族として遇されている以上、罪としてそれが訴えられれば罰は与えられるのだ。
肉体の痛みと傷など、いずれ治るものだと言うのに──
それだけ手厚く扱われているはずの城内で、自分がどれほど傷つけられてきたか、それを思うと滑稽な気持ちが吐き気のようにこみあげてくる。目に見える傷がすべてでもなければ、それだけが人を苦しめるすべてでもない。
ジノンがイーツェンの言い訳を信じた様子はなく、睫毛を独特の仕種で上げて青い目でイーツェンを見たが、何も言わなかった。嘘は嘘として受け入れる、ということだ。それがありがたかった。
「痛むか?」
「時おり‥‥でも、もう随分と治りました」
まだ口元に青みが残っているが、紫に近い色に腫れ上がったことに比べれば、ないに等しい名残りだ。
「それならよかった」
おだやかな口調で言って、ジノンは青い海の絵の描かれたカードをイーツェンの陣へ置く。陣内の三方を封じられたことに気付いて、イーツェンは天井を仰いだ。負けは確実だ。
手持ちのカードを表へ向けてさらし、頭を下げた。潔い降伏もまたこのゲームの暗黙のルール。
「参りました」
「うん」
いつものように唇の片側で笑ったジノンは、だがいつものように手元の蝋板へ結果の点数をつけようとはせず、一人掛けのソファの肘置に頬杖をついてカードの表面を眺めていた。
何か見落としていることがあっただろうかと、イーツェンはつられてカードを眺めるが、特に思いあたるところはない。
ジノンはそのまま、不自然なほどの時間、黙っていた。次第にイーツェンは不安になる。うかつな言葉を恐れて口をとざしたまま、全身の緊張をどうにか見せないように肩の力を抜こうとした。膝の上に置いた右手で左手をぐっと握りこむ。何でもない──きっと、大したことではない。ただの思いすごしだ。
ジノンはすっかり自分の物思いに入り込んでしまったように見えたが、ふと肩を揺らして視線を上げ、イーツェンを見た。王族の顔だ。目元がするどく、頬が高く、人を貫くような青い目。その目でまっすぐ見据えられると、ジノンが相手であってもイーツェンは身がすくむ。
ふいにシゼの不在が身に冷たく感じられた。部屋の外で控えている筈だが、室内にはイーツェンとジノンの二人きりだ。ジノンが怖いわけではないが、彼の名の一つであるユクィルスの王族が怖い。それはイーツェンの骨身に深くしみてしまった恐れだった。
「イーツェン」
静かに名を呼ばれ、ギクリとする。ジノンを見つめて、イーツェンはどうにか表情を平静にとりつくろったまま、小首をかしげてみせた。
ジノンは腕を組み、視線を浮かせて言葉を選んでいた。
「リグには‥‥呪術を使う者がまだいるのか?」
「え?」
不意をつかれて、イーツェンはぽかんとジノンを見つめた。ジノンは低い声でつづけた。
「リグの王族は遠く呪師の流れを継いだ者だと、聞いたことがある」
「それは‥‥」
イーツェンはジノンが何をたずねたがっているのか、どんな答えを求めているのか必死に思考をめぐらせる。何を言えばいい? どう返答すればいい?
「‥‥儀式としてなら、色々と残っていますが、人知をこえた技を使う者などはおりません。一人残らず、ユクィルスと変わらぬ普通の民です」
「ああ──」
ふいにジノンはイーツェンの恐れに気付いた様子だった。声がやさしくなる。
「大丈夫だ、イーツェン。私のきわめて個人的な問いだよ。たとえ君が呪術を使えたとして、その首を吊るすようなことはしない」
ジノンが思いやりで言ったのはわかったが、レンギの処刑を連想してしまい、心臓が一瞬縮んだ。イーツェンは顔を伏せ、口の中でごまかしの言葉をつぶやく。膝にのせた手のひらが汗ばんでいた。
ユクィルスは呪術を認めない民だ。建国の時から呪師を忌み嫌い、征服した地の呪師は残らず首に縄を掛けて吊るしたと、イーツェンは記録に読んでいた。
ジノンが吐息をはきだした。
「すまない。きちんと説明する」
「‥‥‥」
「我らユクィルスの民は、 "見捨てられた地" を船で逃れ、この陸地へと渡ってきた」
その建国の言い伝えについては、レンギがイーツェンにユクィルスの建国記を見せながら説明したことがある。彼らが去ったその地は呪術を扱う者たちによって支配されていたが、最も強大な力を持つ呪師が姿を消したことによって、呪師同士の争いがおこった。それを逃れ、一部の民──呪術の力を持たぬ者たち──が船に乗り、海へ出たのだと。
彼らが海の向こうへたどりつき、苦難のすえに興した国が、今のユクィルスの祖であった。
ゆえにユクィルスの国は呪術を嫌い、それを扱う者を殺す。かつての支配者に、ふたたび自分たちを支配させぬために。
もっともイーツェンの知るかぎり、呪術を扱う者はもはやいない。海の向こう、あるいは白冠の嶺々をこえた向こうにはまだ妖しの術が残っているとの噂はあったが、それも単なる噂にすぎなかった。
呪術そのものが、もはや子供のおとぎ話のようなものだ。
リグにおいても──
「ユクィルスの民が元の民と分かたれた時、わずかだが呪師の血を引く者も共に来た。‥‥私の母はその系譜につらなる者だ、イーツェン」
物思いから引き戻され、イーツェンはジノンを見やった。
ジノンは、今の王とは腹違いの兄弟だ。彼の母親が古い巫女の血につらなる姫であると、たしかにレンギがイーツェンに教えたことがあった。
あの時レンギは、こうも言った。保てるならばジノンと距離を置いたほうがいいと。後に、城の人間に心を許してはいけないという忠告も残した。
そうなのだろうか。
イーツェンはジノンの表情を見つめる。時おりひどく老成した、淋しげなまなざしを見せることのある男だった。ジノンはいつも人に優しく接しているが、礼儀正しい物腰はどこか他人との距離をあけておくためのもののようにも見えた。だがイーツェンといる時、二人で話している時、ジノンはその垣根を払ったように打ち解けた笑みを見せることがあった。イーツェン自身も、彼といるとくつろぐのを感じていた。
親密な空気が見せかけだけのものなのかどうか、イーツェンにはわからない。信じたいとは思う。そこには、人と人との何かの形の絆があると。そう思おうとしながらも、レンギの警告が彼を引きとめる。
「ユクィルスでは呪術を扱うことは禁じられ、書物も火に投じられる。呪師が見つかればその首を吊るす。この100年、そんなことは一度もなかったがね。私の母も私も、何か特別な力を持つわけでもない」
そんな国で、呪師の血統につらなるジノンの母やジノン自身が生き続けているのは、どうにも奇妙なことだった。
ジノンの父は前代の王だ。ユクィルスの王は、自分たちがそれほど忌み嫌う呪術の血統にわざわざ王家の血を混ぜてつたえたことになる。
ジノンは少し言葉を切り、茶で唇を湿してからつづけた。
「私は王家の許可なくして妻を娶ることも、子を為すことも認められていない」
あまりにも静かな声だった。イーツェンはぎょっとしてジノンを見つめる。意味のあることを何か言う前に、ジノンがつづけた。
「巫女の血だ。今でもユクィルスはその血を恐れている」
「‥‥では、なぜ‥‥」
口ごもったイーツェンに、ジノンはかすかな微笑を見せる。
「なぜ老いて死ぬにまかせず、女に孕ませて子を生ませるか?──私の母のように」
「ジノン‥‥」
「いい、いい。そういうことなのだ」
面倒そうに手を振った。
「ユクィルスは、巫女の血を絶やすことを恐れてもいる。力のある血筋を滅ぼせば、そのうらみが害となって国に仇なすかもしれないとな。ゆえに、巫女の血はここまで続いてきた。私もいずれ子を為す。王家の心配を取り除いてやるためにな」
「‥‥‥」
イーツェンは半ば茫然と、その言葉を聞いた。衝撃がゆるんでくると、ふつふつと怒りが沸いてくる。信じられなかった。それほどに人を馬鹿にした話があるだろうか。そんなふうにただ道具のように子を為す、あるいは子を孕ませる、そういうことが。
「そんな‥‥あなたは平気なんですか? こんな、ひどい‥‥」
ジノンはテーブルに肘をついた右手の甲にあごをのせ、黙ったままイーツェンを眺めていた。
イーツェンは言葉が続かずに、黙る。真剣なジノンのまなざしが肌へくいいってくるようだった。
「イーツェン」
ゆっくりと、彼は口を開く。
「君は平気か? この城に人質として差し出され、自由を奪われて」
「‥‥それは──」
「その脚に鎖を掛けたのはユクィルスの国であると同時に、君の国、リグだ。イーツェン。いくつでユクィルスに来た? 18か?」
「‥‥17」
イーツェンは手を握りしめて動揺を押さえつけた。ジノンがイーツェンの鎖のことを口にしたのは初めてだ。決して侮辱が目的ではないとわかっていても、羞恥にいたたまれなかった。
「リグの国は17の君をユクィルスの鎖の下へ差し出した。ひどいとは思わないか? 君は平気か?」
「ほかにどんなすべがありますか!?」
激しい声で言葉を吐き出して、イーツェンは唇を噛んだ。ジノンへ自分の怒りを見せたくはない。それは無作法でもあり、危険でもある。
ジノンがうなずいた。
「私も同じだ、イーツェン。平気か平気でないかとか、そういう問題ではない。ほかにすべがない」
「‥‥あなたは、王の弟であられる」
「たかが私一人の地位を振りかざしたところで、国のさだめたところには何の役にもたたんよ」
「‥‥‥」
視線を落としたジノンの肩がひどく淋しげで、イーツェンは何を言えばいいのかわからなかった。
「あなたは‥‥」
かすれた声で言うイーツェンへ、ジノンがちらりと睫毛を上げた。
「それでつらくないんですか、ジノン?」
「──君は?」
イーツェンの息が喉でとまる。ジノンの声は優しかった。
頬杖から身を起こし、ジノンは凍りついているイーツェンへ唇だけで微笑した。
「いや、いい。つまらないことを聞いた。私には言えまい。君は用心深い、イーツェン」
見抜かれている。顔から火が出そうで、イーツェンは下を向いた。
ジノンが何もなかったかのような口調で話を戻す。
「私はね、ずっと呪術に関心を抱いてきた。その力がほしいというわけではない。ただ母を通じてこの身に流れる巫女の血に何の意味があるのか、何かの意味があるのか、それが知りたかった」
「‥‥‥」
「ユクィルスにはその手の本は残っていない。焼かれてしまってな。だがリグには、古く呪術の言い伝えが残っていると聞いたことがある」
つまり、そういうことだったのだ──ふいにイーツェンは、ジノンとはじめて言葉を交わした時のことがすとんと腑に落ちる。ルディスの部屋にジノンが踏み込んできた日のことだ。あの時、ジノンがなぜイーツェンを自室に招待したのか、イーツェンはずっと不思議だった。
(リグの話が聞きたい)
彼は、そう言った。あれは真実だったのだ。
ジノンは膝を重ねて足を組み、茶を口元へ運びながらイーツェンの言葉を待っている。イーツェンは少しの間黙っていたが、口を開いた。
「リグが国となったのは300年あまり昔のことですが、それより以前、我らは山あいを移動しながら暮らす山の民だったと言います。長のほかに〈声〉と呼ばれる者や〈耳〉と呼ばれる者がいて、ふしぎな技を使ったそうです」
「どのような?」
イーツェンは首を振る。
「もう、わかりません。ただ、山の声を聞き、それを語ったと言われます。それが呪術なのかどうかもわかりませんが、彼らのおかげでリグの民は山深くの鉱山を見つけることや、吹雪を避け冬をこすための洞穴や山の水の流れを見つけられたと、言い伝えにはあります」
「彼らは、今‥‥」
「今のリグに、人と異る技を使う者はおりません」
その言葉を聞いて、ジノンは小さな失望の溜息をついた。
「何故だろうな。彼らはどこへ行ったのだろう」
「私には‥‥わかりません」
イーツェンは首を振りながら、つぶやく。ジノンがうなずいた。
「ありがとう。とにかく話が聞けてよかった。あらためて言うのも申し訳ないが、今日の会話は他言無用にしてくれ」
事実、ジノンが打ち明けた内容はひどく個人的な秘密だった。そのことをどう受けとめていいのか、イーツェンには判断がつかなかった。ジノンがイーツェンを信じているのか、軽んじているのか。親しみから打ち明けたのか、リグの話を聞き出すために話したのか。
ただ彼の言葉のはしばしに、自分に対するいたわりを感じた。それは錯覚かもしれない。それでもジノンを信じたいと、イーツェンは思う。
(城の人間に心を許してはいけない──)
イーツェンはもう、人を疑うことに疲れきっていた。誰にも心を開かぬようにして、つねに身構え、警戒に身を固くして、優しい言葉を聞けばまずその裏がないかと疑心を抱く。そんなことにもう疲れ果てた。レンギがいない今、心から打ち解けて話せる相手もいない。深く傷をかかえこんで苦しむシゼを見るのも、どうしようもなくつらかった。
‥‥ジノンを信じることは、できるだろうか。
ジノンを見つめ、イーツェンはうなずいた。
「お約束します」
「ありがとう」
やわらかな声で言って、ジノンは組んでいた足をとき、ひろがっているカードを手早くまとめはじめた。イーツェンは盆に空のカップを戻し、立ち上がる。ジノンもソファから立つと、イーツェンのすぐ横を扉まで歩いた。
「冬の間はどうする、イーツェン」
扉の手前で立ちどまってたずねたジノンを、イーツェンはきょとんと見上げた。
「どう、とは?」
「予定だ」
「‥‥‥」
まだきょとんとしているイーツェンの様子が答えになったか、ジノンは小さく笑った。
「去年の冬はどうしていた。冬は城に人も少ない。夜餐もあまり開かれないと思うが」
「城に、おりました。‥‥塔に」
一度だけオゼルクの別邸へつれていかれたことを思い出したが、それは言わずにおいた。半月ほど、それも春に近い頃のことでもあり、思い出したくない出来事でもあった。
「そうか。私は荘園に戻る。砦の様子も見なければならないしな。招待してもいいか?」
今度こそ心底茫然として、イーツェンはジノンを凝視した。ジノンは首をかしげる。
「予定があるか?」
「ありません。‥‥が、城が‥‥」
「そうだな。城の許可を取らねばな」
何でもないことのように言う。事実、ジノンには何でもないことなのだろう。オゼルクがイーツェンをつれ出せるくらいだ。
ジノンは軽い声でつづけた。
「冬はまだ先だ。返事は今でなくていいが、心に留めておいてくれ」
「あの‥‥シゼは?」
思い切ってイーツェンがたずねると、今度はジノンの方が当惑の表情になった。
「君の護衛だな? 一緒に来ればいいだろう。彼に冬の予定がなければ、だが」
「‥‥‥」
少し自分を馬鹿のように思いながら、イーツェンはうなずいた。オゼルクはイーツェンだけを伴い、シゼをつれていこうとはしなかった。どうしてもそれを基準に考えてしまう。あまりに何もわからない自分に、溜息をついてしまいそうだった。
ふいに、ジノンの手がイーツェンの髪をなでた。おどろくイーツェンの肩をその手でポンと叩いて、ジノンは扉をひらく。
「もう転ぶんじゃないぞ」
微笑したジノンへ頭を下げ、まだ混乱した気持ちのままイーツェンは廊下へと歩き出した。この東塔はイーツェンのいる塔よりずっと広く、部屋の前には待ち合い廊下が取られている。廊下と言っても室内のようにゆったりとした調度で飾られ、階段との間にはもう一つ扉があった。その扉のかたわらにシゼが立っている。
背後にジノンが扉をしめる音を聞きながら、イーツェンは鎖の感触の這う足をゆっくり動かしてシゼの方角へと歩き出した。
目が痛む。まばたきして文字に集中しようとしたが、こめかみに痛みが脈打って目をとじた。
息をついて革紐で綴じられた紙の束を置く。表紙代わりに彩色絵を一番上にして綴じた簡易本だ。首の後ろで髪を結んだ紐をとき、重い頭を振った。
水を飲もうと、立ち上がる。水差しはソファの前のテーブルに置いてある。手元に水があるとこぼして紙を駄目にしてしまうかもしれないので、イーツェンは紙の上に瑪瑙の文鎮を置き、立ち上がってソファへ歩み寄った。
シゼは扉側の壁のすみに彼の寝床となる毛織りの敷布をたたんで置き、その上に座って膝に抜き身の剣を置いている。しきりに刃をしらべ、油の染みた布を剣身にあてていたが、それ以上の手入れをしている様子はない。
「どうかしたか?」
ソファで水を飲みながらイーツェンがたずねると、短く「いいえ」とだけ答えた。イーツェンが眉を寄せてじっと見ていると、シゼは吐息をついて革鞘へ剣をしまった。
「古い剣なので、柄に打った釘が少し歪んできているような気がします」
「城にも剣鍛冶がいるだろう。見てもらったらどうだ」
「そうですね」
気乗りがしない様子のまま礼儀正しくうなずいて、シゼはかたわらに鞘を置く。剣のことはイーツェンにはよくわからないが、その古い剣をシゼが大切に扱っているのは知っていた。きっと長く彼の身を守ってきたものなのだろう。
半分残った水を置き、イーツェンは少しためらってから声をかけた。
「シゼ」
シゼの銅色の目が無言でイーツェンを見る。
「冬‥‥ジノン様の荘園に招かれた。行くか?」
シゼは当惑した様子だった。
「どうして私に聞くんです?」
「お前もいっしょに来るからだ。嫌でなければ、だが」
「私は‥‥」
困惑を深め、シゼは眉の間に影を寄せる。イーツェンはあわてて言葉をつづけた。
「気にしなくていい。まだ招きを受けるとは申し上げていないから──」
シゼがかるく右手を上げ、イーツェンの言葉をとめた。
「イーツェン。あなたは私を気にする必要はない。私はゆるされればあなたと共に行くし、そうでなければ城に残る」
「私は‥‥お前を無理につれ回したくはない」
その言葉に、微笑のようなものがシゼの唇をかすめた。
「私の仕事です、イーツェン」
「そういうことを言っているんじゃない」
イーツェンの口調は自分で意図したよりずっと荒かった。苛立ちを声にあらわにしてしまう。それに自分でたじろいで、彼はシゼから目をそらす。
テーブルに肘をついた手に顔をうずめ、溜息を吐き出した。
シゼが何を望んでいるのかはイーツェンにとって大切なことなのに、シゼ自身はまるでそれが下らないかのようにあしらう。腹が立ったが、シゼに腹を立てる自分が馬鹿にも思えた。シゼはただ仕事をし、イーツェンの意志を尊重しているだけだ。彼には何の非もない。
シゼの静かな足音が近づいてくる。すぐそばに立ったのがわかったが、イーツェンは顔が上げられなかった。
「イーツェン?」
「‥‥何でもない。ただ‥‥」
喉に息がつまり、イーツェンは「ただ」ともう一度くりかえして、黙った。疲れきってこわばった頭がずしりと重かった。色々なことが空回りしている。せめてシゼとは前のように自然な距離を取り戻したいのに、イーツェンのすることも言うこともすべて上すべりに終わってしまうようだった。
ふいにイーツェンの肩に腕が回された。驚いたが、引き寄せられて、イーツェンは体の力を抜いた。シゼの胸に体ごともたれ、彼の肩に頭をのせる。ソファに座ったシゼが両腕をイーツェンに回し、胸に抱き寄せた体をしっかりと抱いて、あやすように背中をなでた。
シゼの胸が呼吸の一つごとに動く、ゆっくりとしたリズムがつたわってくる。イーツェンは目をとじた。もたれた体は強靱に受けとめられ、その力強さに安堵の吐息がこぼれた。
背をなでていたシゼの手が上がり、イーツェンの髪をかるく指で梳いた。
「イーツェン」
耳元でシゼの声が低く囁く。イーツェンの睫毛がふるえたが、目をあけず、シゼの肩にのせたままの頭で小さくうなずいた。
「あなたは本当に、私のことを気にかける必要はない。私は‥‥あなたの傍についているのを嫌だと思ったことは、ない」
「でも‥‥」
「あなたの行くところに行く。私にはそれで充分です」
「‥‥私はお前に、楽しんでほしいんだ」
馬鹿なことを言っている自覚はあったが、それはイーツェンの本音だった。レンギを失って以来、シゼは滅多に笑顔も見せず、くつろいだ表情もしない。それが痛々しかった。
シゼは沈黙したまま、しばらくイーツェンの髪をなでていた。次第に互いの体がなじみ、服ごしにシゼのぬくもりが沁みてくる。あたたかい。
イーツェンは腹の深いところがからっぽになったような、奇妙な痺れを感じた。
やがてシゼが、ゆっくりと言った。
「私は、このごろのあなたを見ているのがつらい。あなたは‥‥ひどく苦しんでいるように見える」
「シゼ‥‥」
イーツェンの声がかすれた。シゼの指が髪の間に入りこみ、イーツェンの首すじにふれる。その指先が肌に熱い。
シゼの言葉は彼らしくもなく、奇妙にとぎれとぎれだった。
「私はあなたを‥‥私のことで、わずらわせたくは、ないんです。ただでさえあなたは──つらい思いをしている。私まで、あなたの重荷にはなりたくない、イーツェン」
「お前は、私を支えてくれている」
イーツェンは短くつぶやいた。喉に力が入らず、長くしゃべる自信がない。
シゼがそんなふうに自分のことを見ているとは思っていなかった。そんなふうに、イーツェンを気づかっていたとは。近ごろのシゼが自分の殻にこもってばかりいると──そう思いこんでいた自分が、心底恥ずかしかった。
一瞬、イーツェンを抱くシゼの腕に強い力がこもった。
「ありがとう、イーツェン。でも、いいですね? 私のことで気をつかわないで下さい。さっきのようにたずねられると‥‥私は、とても、困る」
「‥‥お前がひとつ約束をしてくれるなら、もう言わない」
「何です?」
イーツェンは顔を上げる。シゼの目が驚くほど間近に彼を見つめていた。
喉に言葉がからみつく。イーツェンは、言葉を押し出すようにつづけた。
「嫌なことを私が命じたら、嫌だと言ってくれ。無理に従おうとしなくていい」
シゼが微笑した。あまりに近い彼の微笑に、イーツェンの鼓動がはねあがる。表情には出すまいとしたが、平静な顔をしている自信はなかった。目がそらせない。
「イーツェン。あなたは自分が主人だということを忘れている」
「‥‥私は主人ではないし、お前は奴隷ではない」
短い沈黙の後、シゼは小さく頭を動かしてうなずいた。
「わかりました、イーツェン。あなたにつたえる」
「ただし、ほかに人のいない時に」
そう呟きながら、イーツェンはシゼの肩に頭をのせる。シゼの声には久々に笑いがあって、耳に心地よかった。
「私も自分の身は惜しい、イーツェン」
「うん」
口の中でそう呟いて、イーツェンはあくびをした。いきなり押し寄せてきたひどい眠気に、体中が重い。腕がゆるみ、シゼが離れるのではないかと残念に思ったが、シゼはイーツェンがねじれた体勢を直すのを待ってまた抱き寄せた。
「シゼ‥‥」
「黙って」
髪をなでる手は優しい。イーツェンは言われた通りに口をとじた。どうせ言葉など何も思いつかなかった。シゼの息づかいを感じながら心の底からの安堵感に身をゆだね、体からすべての力が抜ける。いつしか深い眠りにおちていった。