互いに木剣を構えて距離をとる。少年の構えはイーツェンのそれより少し低く、背が低いことも相まって、イーツェンの視線は自然と下の方へ向いた。いつもシゼを相手にしている時とは目の高さも、相手から感じとれる呼吸もちがう。
 それにつれて自分の肩の位置も、木剣の角度もちがってくる。以前ならまるで気付かなかったであろう微細な全身のバランスの差や、重心の位置のぶれを、イーツェンの体はこまかく感じとった。
 ──くりかえし、くりかえし。シゼが同じ構えと動きの鍛練をさせていた意味を、イーツェンは悟る。体におぼえこませていたのだ。一つ一つの動きと、その位置を。
 自分がいつのまにか成長していたことに、子供っぽい誇りがこみあげてきた。だが問題はここから先だ。イーツェンはシゼ以外を相手にしたことがないし、シゼがとにかくイーツェンに基本を教えこむために簡単な動きしか見せていないのもわかっていた。こうして構えてはみたものの、闘気をギラつかせてこちらをにらみつける少年を相手に何をどうしていいものか、イーツェンにはよくわからないまま、にらみ返すしかなかった。
 レンギや自分を不当に罵倒された──そう感じた怒りは、まだ腹に熱く凝っていた。
 少年の怒りはわかる。自分も同じ立ち場ならきっと、やり場のない怒りと憎しみを誰かにぶつけずにはすむまい。それはわかっている。だがそれでも、イーツェンは己の怒りをどうすることもできなかった。
 ──生き恥を。
 この城でのうのうと生きながら生き恥をさらしていると、その言葉に切りつけられた胸の奥にはレンギの面影が浮かんでくる。国を失い、名を失って、命までも──ただ何もかもを失うためだけに生きたかのようなこの城での彼を、少年の言葉でひどく侮辱された気がしていた。
 シゼが二人から数歩離れて立ち、右手に彼専用の重い木剣を下げて、難しい顔で二人の様子を見ていた。少年用の木剣をもう一本用意してくれとたのんだイーツェンに反論なく従った彼だったが、歩き去るイーツェンへ低い声で囁いた。
「攻勢に出ては駄目です。ひたすら受けて下さい」
 イーツェンは怒りで頭がいっぱいのまま、ほとんど上の空でうなずいた。あの時は何を言われたかよくわかっていなかったのだが。
 ──これか。
 少年と対峙しながら、イーツェンはやっとシゼの言葉を思い出す。攻めて出ようにも、いったい何をどうしたらいいのかわからない。隙を見せまいと構え、気圧されぬようにらみ返すだけで全身に汗がにじみ、背中を滴の感触がつたった。
 イーツェンがまったく不慣れなのを感じとったのだろう。少年の目に嘲るような笑みが浮いた。じりっと右足の先を外側へひらく。
「やっ!」
 喉の奥から気合いがほとばしった。イーツェンがびくりと身をすくませる、その隙をついて大きく二歩走り、イーツェンの腹を木剣の一撃で横なぎにした。
 のびてきた木剣を、イーツェンはふりおろした木剣ではじく。だがその剣ははねられて宙へ浮き、木剣は肋骨の下側へくいこむように入った。
「!」
 全身から息という息が叩き出され、脳天まで痺れる。息を吸おうにも喉をふさがれたようで体へ入っていかない。膝が笑って体がよろめく。打ち下ろされてくる木剣のヒュッという音が耳に入った。
 苦しい。息がつけないまま身をねじり、イーツェンは踏み込んで上段の木剣で少年の木剣を受ける。ガチッと固い音がはじけたが、イーツェンの剣は今度はしっかりと相手の一撃を受けとめていた。より大きく踏み込んだことで、根元に近い、相手の力が入らない位置で剣を受けられたのだ。
 噛みあったままの剣をひねり下げて叩きおろし、少年の剣先を下げたが、相手の重心はゆらがなかった。強い、とイーツェンは思う。従者として修練をつんだか、奴隷として戦場へ駆り出されたか──どちらにせよ、今さら手すさびで剣の振り方からおぼえたイーツェンのかなう相手などではない。
 ──息が、吸えない──
 しめつけられる苦痛で頭がいっぱいになって、足元がよろける。膝が落ちそうだった。こらえて揺らぐイーツェンの耳に、シゼの声がきこえた。
「叫んで!」
 叫ぶ? 息が吸えないこの時に、どうやって? わけがわからないまま、怒りのような衝動がイーツェンをとらえた。どれほど息を吸おうとしても空気が入ってこない。口の中が焦りに粘ついて、喉が焦げたように熱く、苦しい。
 打たれた肋骨からじんじんと痛みがはしった。握った木剣が鉄のように重く、体ごと地面にのめってきそうになる。教えられてきたはずの動きを何一つできない。情けなかった。イーツェンの視界は苦痛と怒りにくらみ、膝がふるえて、ほとんど絶望的な思いを叩きつけるように、彼は叫んだ。
 自分のどこにあったのだろうというような獰猛な声だった。ぱんぱんに張りつめていた肺から一気に空気が吐き出され、イーツェンは目のくらむ思いで新鮮な空気を吸った。それは嘘のようになめらかに肺に流れ込んでくる。荒い息をついてふたたび身構え、踏み込んだ。
 少年が一瞬ひるんだ。イーツェンめがけてふたたび横なぎに払った木剣が揺らぐ。イーツェンは摺り足で左足を半歩踏み込みながら、左の上腕でその一撃を受けた。根元に近い位置で受けて衝撃を殺したとは言え、背中まで稲妻に打たれたような痛みがはしる。だが叫ぶような声を吐き出して意識を集中し、イーツェンは右足を少年の足の間へ大きく踏み込んだ。
 もはや木剣の振れる間合いではない。イーツェンは手にした木剣の柄側を逆手で引き付け、少年の肩へ叩きこんだ。少年が苦痛と怒りの声をたててイーツェンの手首をつかみ、イーツェンは左手でその少年の手首をつかんで、二人は荒い息をつきながら互いの体を引いた。
 イーツェンは間近に少年の顔を見る。年はおそらく、イーツェンよりわずかに若い。はげしい怒りがその顔を歪め、半開きの口から息の音をたて、くいしばった歯を見せてうなり声をあげた。アンセラの民の顔──イーツェンの国、リグと近しい民の顔だ。
 その首元に奴隷の鎖が揺れている。鎖のにぶいきらめきはどうしてもイーツェン自身に、己の脚鎖のことを思わせた。
 アンセラが陥ちて三年。イーツェンがこの城へ来て二年。その間、少年はどんなふうに生きてきたのだろう。奴隷として売られ、憎む敵の国で働かされて。
(そして、私は、どんなふうに──)
 シゼが警告の声を放つ。イーツェンの足元がすくわれ、背中からどうと地へ落ちていた。だがイーツェンは少年の手首を離さず、少年はもつれながらイーツェンの上へ倒れこむ。二人はしばらく地面でもつれあったが、少年が馬乗りになってイーツェンの上に身をおこした。
 顔を殴られて、イーツェンの首ががくりと仰のいた。視界が白くなり、口の中に鉄の味があふれる。耳がキンと鳴って世界の音が遠ざかった。イーツェンは呻きながら手をのばし、左手に少年のシャツの襟首をつかむと、右手の掌底で少年の顎を打った。重心移動がないのでひどく弱々しいものだったが、もう一度腕をふりまわすと、少年が声をあげてイーツェンの腕をつかんで地面に押し付け、右手でふたたび殴ろうとした。
 その首元をシゼの木剣が抑えた。
「そこまでだ」
 声は、シゼのものではなかった。少年がびくりと全身をすくませる。驚いたというよりほとんど怯えたような彼の視線をイーツェンも地面に横たわったままぼんやり追って、シゼの斜め横に立つ剣士の姿を見た。
 シゼよりも大柄だが、高い上背のためかむしろすらりとして見える。腰の後ろに半槍の鞘を下げて右腰には大きなカトラスを吊るし、肩当てのついた革の上鎧を身につけて、栗色の髪を無造作に首の後ろでくくっていた。たてがみのような髪はあちこちほつれるように房がはねている。
 彼を見たことがあると、イーツェンはがんがんする頭で思い出そうとした。少年をはじめて見かけた時のことだ。少年を従えるようにして訓練場から歩き去っていったのは、この男だった。
 高い頬骨からあごまで無精ひげが散って、どこか獰猛な獣を思わせる顔をしているが、目は明るい。その目でイーツェンを見て、ちらっと口元で笑ってから、男は少年へ視線を戻した。
「馬鹿。何をしている、立て」
 シゼが木剣を引くと、少年はイーツェンの上からどき、地に手をついてよろよろと身を起こした。口元を血がひとすじつたい、それを拭いながら何かを口の中でつぶやいた。イーツェンに打たれた肩をおさえ、痛みに表情をひきつらせる。
 イーツェンも体をおこそうともがいたが、肋骨の激痛に動きをとめた。シゼが横へ膝をつき、手にした布でイーツェンの顔を拭う。どうやら鼻血が出ていくらしく、イーツェンはぬるりとした感触に顔をしかめた。シゼの手が首の下に入って頭を少しだけ持ち上げ、斜め下を向かせる。
「吐き出して。飲んではだめです」
 言われたとおり口の中へ流れこんできた血を吐き出して、イーツェンは痛む体を起こした。ほとんどシゼの力がたよりだったが。息を一つするたびに肋骨から全身に痛みがはしり、呻くと、目の前に男が片膝をついた。
「申し訳ない、殿下」
 その背後には少年が立ったままうなだれている。全身は埃まみれで髪はもつれ、痛そうに左肩をおさえたまま動かなかった。一矢報いる程度はできたのだろうかとイーツェンは思うが、自分の全身がきしみ肺と肋骨に火がついたように痛んでいては、得意な気分にはとてもなれなかった。とにかく息がまともにできず、脇腹をおさえて額に脂汗がつたうのを感じながら、イーツェンは無言で首をふった。
 謝られる筋合いのものではないと言おうとして、数度の息を継ぎ、かすれた声を出す。
「かまうな。‥‥単なる、修練の立ち合いだ」
 男の目の中にきらりと愉快そうな光がはしった。立ち上がった彼はシゼへ小首をかしげて、たずねる。
「シゼ?」
 顔見知りらしい。シゼは顔をしかめ、うなずいた。
「殿下の仰せだ。そのように」
「修練にしちゃ、ボコボコにされたもんだが」
 無遠慮に言った男へ、シゼは固い仕種で肩を向けた。
「その子をつれていけ、サンジャ。──次があれば、俺が相手をすることになる」
 はっきりとした刃を、イーツェンはシゼの声にききとった。彼がこんなふうに人を脅すのをはじめて聞く。おどろきはしたが、今のイーツェンに何を言う余裕もなく、彼はただ土ぼこりにまみれて地面に座り込み、肩を支えるシゼの腕にもたれかかっていた。
 サンジャは笑みを消し、うなずいた。少年がイーツェンを害そうとしたことを、この男はわかっているようだった。彼が少年の主人なのだろうかと、イーツェンはにぶい頭でぼんやりと思う。シゼと同じような傭兵まがいの剣士に見えるが、身の回りの世話でもさせるために奴隷を使っているのだろうか?
 少年は口を結び、ややうつむいていたが、奇妙に光る目はイーツェンへ据えられていた。抑えたまなざしにあるものが何なのか──イーツェンにはわからない。まだ憎しみと怒りだけが彼を動かしているのだろうか。その目はやはりするどかった。
 イーツェンはこわばった唇をうごかして、注意深い笑みをつくった。殴られた頬の皮膚と口の内側が引きつる。自分の声は奇妙にくぐもって聞こえた。
「いつでも相手になるから」
 少年もサンジャも目を見開いてイーツェンを見つめ、シゼがイーツェンの肩に置いた手にも力がこもった。イーツェンはあごが痛まない程度にかすかにうなずき、地にころがった木剣を重い右手でさししめす。
「ただし、あれで」
 いきなり高らかにサンジャが笑い出し、愉快そうな目でイーツェンを見つめた。
「その腕前で、大したお人だ。それとも少し足りないとか?」
「サンジャ──」
「おっと」
 シゼの警告にかるく両手を上げてみせてから、パシンと少年の肩を叩く。
「行くぞ!」
 肩ごしにシゼへ目礼し、サンジャは大股に歩き去った。少年はぐっと唇を結んだまま大きな目でイーツェンを見つめ、頬を引きつらせて数秒そこに立っていた。その体が動いてばね仕掛けのように頭を下げると、身を翻して小走りに主を追った。
 元気に走ってるなぁとイーツェンは目でそれを追い、ため息をついた。かなわないだろうことはわかっていたが、こうまで差を見せつけられるとひどく情けない。何より、自分に根気よく手ほどきをしてくれたシゼにどうにも申し訳ない気がした。サンジャというあの男相手に、シゼの顔をつぶすようなことになった。
 シゼがまたイーツェンの顔を拭い、布を折り返して血に汚れていない面を表へ出した。イーツェンは礼をもごもごと呟いて布を受け取り、シゼの手を借りて立ち上がった。
「部屋まで歩けますか?」
「‥‥着替えないと」
 脚鎖をつけずに城内を歩くことは禁じられている。イーツェンの言葉の意味を悟ったシゼは吐息をついて、首を振った。
「あなたは怪我をしている。塔へ戻るだけだ。着替えて行く必要はない」
「シゼ」
 イーツェンはかすれ声で名を呼ぶ。動きをとめたシゼを、すがるような目で見た。
「お前の役目だ。‥‥役目を忘れるな」
 シゼの顎にぐっと力がこもる。何か言いかかったが、やがて無言のままうなずき、イーツェンを支えてゆっくりと倉庫の方へ歩き出した。


 役目を忘れてはならないと、イーツェンは思う。
 自分の役目、シゼの役目。
 その境を忘れてはいけない。決して忘れるわけにはいかない。
(たとえ、どれほど──)


 着替えてシゼの手で脚に鎖をはめられ、イーツェンは痛む体を引きずるようにしてどうにか自室へ戻った。塔の階段で幾度も立ちどまった彼をシゼは辛抱づよく待っていたが、イーツェンをソファへ座らせると、水を満たした水盤をテーブルへ置いて布を濡らした。
 鼻血はとまっていたが、鼻頭から頬、口元にかけてズキズキとうずく。シゼが丁寧に拭う唇のはじがヒリついて、イーツェンはそっと指先でふれた。
「‥‥アザになる?」
「紫色になりますよ」
 シゼはうなずいて、イーツェンの頬に指をおいた。
「歯は大丈夫ですか?」
「何ともない」
 もう一度無言でうなずき、シゼは布を置くとイーツェンの肋骨あたりに手を置いた。痛みにたじろぐイーツェンに息を吸うよう言う。胸全体がギリギリときしむような気がしたが言われるままに吸って、ゆっくりと吐き出す行為を何度か繰り返すと、シゼはホッとした様子で息をついた。
「骨は大丈夫ですね」
「そう? 痛いんだけど」
「そこも紫色になりますよ」
 イーツェンが呻くと、シゼが小さく笑った。すりむけてた手のひらを水盤で洗わせる。地面に手をついた時にすりむいたのだろう、大きな傷ではないが中に砂が入りこんでいて、それを布で洗い出しながらイーツェンはまた痛みに呻いた。
「痛い──」
「これからまだまだ痛みますよ」
「そうなの?」
 膝の傷はシゼに洗ってもらいながら、イーツェンは天井を仰いだ。それだけの仕種で顔から首にかけて激痛がはしり、世界がぐらりと揺れる。
 丁寧に傷を洗うと、シゼはぐったりとしたイーツェンを少しの間眺めやっていた。イーツェンがひらひらと手を揺らす。
「説教なら、きかないからな」
「‥‥‥」
 ため息を長く吐き出して、シゼは水盤からとった布をかるくしぼった。
「立てますか? 寝台で寝たほうがいい。私は療法師を呼んできます」
「大丈夫──」
「イーツェン」
 静かに、だがそれ以上の反論の余地を与えない声でシゼが言い、イーツェンは不承不承、うなずいた。


 療法師は物腰のおだやかな小男で、手伝いもつれず、いろいろな物をつめた皮袋ひとつを肩にかけて現れた。イーツェンの口の中をのぞき、肋骨や肩に手を当てて骨に異常がないことをたしかめ、傷にフィグワートの軟膏をすりこんでシゼにうなずいた。
「数日は腫れが引かんよ。おとなしくしてることだね。ヒレハリソウの香油をあげるから、取りにきなさい。筋肉に揉みこんでおくと張りにきく」
 それからイーツェンを見やり、ニヤッとした。
「かなり、やんちゃなさいましたなぁ?」
「‥‥年頃なので」
 なるべくすました顔で、イーツェンは答える。以前に寝ついた時に見立てに来た療法師はもっと慇懃無礼でどこか粘着質な雰囲気を持っていたが、この男は明るくてかまえたところがなく、数度の会話だけでイーツェンの警戒をとかした。
 療法師につき従ってシゼが部屋を出ていくと、イーツェンはじっと横たわったまま寝室の天井を見上げた。脚の鎖は部屋に戻ってきたところで外されている。そうして休んでいても、体中にひろがる鈍い痛みはおさまらなかった。脇腹や肩や顔が脈に合わせてズキズキとうずく。晩餐の席をどうしようかと思って、イーツェンはうんざりした。体が痛むのはともかく、顔が青く腫れ上がっているのはごまかしようもなく人目を引くだろう。
 ──仮面でもつけて出るか。
 ヤケ気味にそう考えながら、無意識に寝返りを打とうとして、イーツェンは脇腹に引きつった激痛に呻いた。じっとしていると少しずつマシになってきたと思ったが、動くと前にも増した痛みがおそってくる。
 慎重に息をととのえていると、シゼが部屋に戻ってくる音がして、彼の静かな足音が寝室へ入ってきた。
 黙ったまま、シゼはイーツェンの頭側に歩み寄り、イーツェンの顔を見下ろした。手に小さな壺を持っている。
「気分はどうです?」
「‥‥よくはないけど」
「明日はたぶん、もっとひどいですよ」
「何かお前」
 イーツェンはきつい目でシゼをにらんだ。
「楽しそうだな?」
 シゼはふっと口元をゆるめて、壺をかるく持ち上げた。
「少しほぐしておいたほうがいい。かまいませんか?」
 シゼが何の許可を取ろうとしているのかわからずにまばたきしてから、イーツェンは気が付いた。これまでも油を使って筋肉を揉みほぐす方法は教わってきたが、すべて自分で行ってきた。今回はシゼがイーツェンに施そうというのだ。
 シゼは辛抱づよくイーツェンの答えを待っている。イーツェンはうなずいた。
「たのむ。脱いだほうがいいか?」
「油で汚すとまずいですから。自分で出来ますか?」
「そのくらいは‥‥」
 強情に言って起き上がったものの、イーツェンがローブを取る動きはひどくぎこちない。とにかく体中がきしんで、少し身をねじるだけで骨と骨がギリギリと削られているような気がした。
 どうにか膝下までの肌着姿になると、シゼがイーツェンを仰向けに寝かせ──うつ伏せだと胸が痛くて息が出来ない──、壺から粘りのある香油を取って手のひらであたためた。両手になじませてから、寝台に片膝をつき、イーツェンの脚の筋肉を両手のひらで揉みほぐしはじめた。
 はじめはゆっくりと肌をさすってから、油でなめらかになった肌を指と手のひらで押し、肌の内側に凝る張りをほぐしていく。ゆるやかに、肌に肌をなじませるようにふれながら、膝を立たせると、シゼの指は脚の裏側へすべりこんでふくらはぎを押しほぐしはじめた。
 イーツェンは小さな溜息をついて、真摯な表情で手を動かしているシゼを見やる。肌をゆっくりと指が押しすべり、血の流れにそって丁寧に揉みあげた。
 しばらく無言でイーツェンの脚を揉んでから、シゼは場所を移してイーツェンの脇腹近くに膝をつき、右腕にふれた。肩口まで袖をまくり、丁寧に肌をさする。香油が二人の肌の温度で潤み、薬草の香りが漂いはじめて、イーツェンの呼吸は心地よく鎮まっていく。
「‥‥どうして、あんなことを?」
 ふいにシゼが低い声でたずね、イーツェンはおどろいてまぶたを上げた。いつのまにか半分眠りこんでいたらしい。シゼはイーツェンの手を取り、親指のつけ根から手首にかけての筋を指の腹でさぐりながら、自分の手の動きを見つめていた。
「何。どれ」
「彼と立ち合うと言ったことです」
「お前だって言ってたじゃないか、実戦に勝る訓練はないって」
 そう言ってから、イーツェンは痛む唇のはじを持ち上げて微笑をつくった。
「わかってる、私にそれをしろと言ったわけじゃないんだろう。私だってそういうつもりでやったわけじゃないけど‥‥もう少し勝負になると思ったんだけどなぁ」
 つぶやきは少し情けないぼやきに変わって途切れ、シゼはちらっとイーツェンを見て微笑した。また油を手につけ、濡れた指をイーツェンの肘の内側から手首まですべらせる。シゼの体温がうつって肌があたたまり、腕全体が心地よく重くなってきて、イーツェンは体から力を抜いた。
 シゼは左腕の袖もまくりあげたが、打ち身が痛む場所に丁寧に香油をなじませただけで、そちらは揉まずに手を引く。何しろ痛むのでイーツェンにはありがたかった。シゼはまたイーツェンの右腕を手にして、ゆっくりと揉みはじめた。
 イーツェンはかすかな声でつぶやく。
「‥‥私が騒げば、彼の首がとんだだろ」
「立ち合う必要はなかったでしょう」
「そうだな」
「何でです、イーツェン」
 シゼの声は低く、静かだった。イーツェンは天井を見上げる。ふれる肌からつたわってくるのはシゼがイーツェンを案じる真摯な気持ちだけで、その指先に苛立ちや失望の動きは感じられなかった。
「何でだろうな。頭にきてたからかな。何の苦労もしてないように言われただけで、あんなに腹が立つとは思わなかった」
「‥‥‥」
「それに、私も彼も、同じようなものだ」
 イーツェンは囁きほどに声を低くして、つぶやいた。
「この城を憎んでいる。この国を‥‥憎んでいる。でも彼の気持ちはわかるし、私が憎まれるのは仕方ないね」
 決してあの少年にはわかるまい。イーツェンもまた、自分と同じ憎しみを共有しているのだとは。彼はこれからもイーツェンを憎みつづけるだろう。去っていく最後の瞬間、イーツェンをにらんだのと同じまなざしで。
 それが可笑しくて、イーツェンは身をふるわせるように笑って、体のにぶい痛みに息をつめた。だがシゼのおかげで、痛みは随分とやわらいだものに感じられた。
 シゼは少しの間だまっていた。指が、揉むでもなく押すでもなく、イーツェンの腕を怠惰にすべっていく。優しいふれ方に、ふいにイーツェンはぞくりと身の内のうごめきをおぼえ、うすぐらい天井へ視線をうつした。
 シゼのふれた場所があたたかい。香油に濡れたなめらかな肌と肌がすべって、かすかに湿った音がした。
「‥‥あなたが、あんなふうに傷つく必要はない」
 ひどく低い声でシゼが呟いた時、イーツェンは半ばまぶたをとじていた。
 シゼはイーツェンの腕を布で丁寧に拭い、袖を戻して寝台へ置いた。また位置を移し、足の裏を軽く揉みほぐす。イーツェンは溜息をついた。
「べつに。私は‥‥意外とおもしろかったよ。お前にはすまないことをした、シゼ」
「は?」
 奇妙に意表をつかれた声だった。イーツェンはかすかに笑う。口元の腫れはかなりひどいことになっているらしく、左の唇がうまくうごかない。
「みっともない、ことになって‥‥もう少しマトモにできればよかったんだけど。せっかく、いろいろ教えてくれたのに」
「あなたはよくやりましたよ。差はいずれ埋められます」
「まさか」
「本当です」
 シゼはきっぱりとそう言って、イーツェンの脚の油を拭い、自分の指を布で拭った。壺を床におろし、そこでイーツェンがまだ信じがたいという目で自分の動きを追っていることに気付いて動きをとめた。
 空気が揺れる。
 イーツェンは目をみひらいた。眼前にぼんやりと大きな塊が見える。それが目の前にせまったシゼの拳なのだと気付いた時、シゼが腕を引き、イーツェンを見おろした。
「わかりますか?」
「‥‥ううん」
 眉をしかめて、イーツェンはシゼを見上げる。何も反応できなかったし、動くこともできなかった。所詮、自分の反応も腕前もその程度でしかない。シゼが何を言いたいのかわからなかった。
「見えているんですよ」
「‥‥何が」
「相手の動きが。あなたは彼と立ち合っていた時も、殴られた時でも、目をとじなかった。ふつうは目をとじたり顔をそむけたりするものなんです。あなたは無意識のうちに相手の動きを追っている」
「でもよけられなかったら、同じだろ」
「見えていれば、訓練でよけられるようになります。あなたには、見えているし、見ようとしている。自分でそれに気がついていないだけです。これは才能なんですよ、イーツェン」
「‥‥‥」
「誰も気付かなかったんですか? 誰かが気付けば‥‥あなたはもっと、きちんとした手ほどきを受けてきたはずだ」
 シゼはかすかな困惑を見せ、イーツェンの答えを待つように見おろしていた。イーツェンはまばたきする。ぎくりとした内心を悟られまいとしたが、声は自分の耳にも硬くきこえた。
「‥‥私は、子供の頃は、あまり体が丈夫でなかったから‥‥」
 シゼはそれ以上たずねることもなくうなずいて、イーツェンの体の上に毛布をかけた。油の残る壺を手に取り上げる。
「少し眠ったほうがいい。夜には湯浴みで体をほぐせるよう手配します。となりに控えていますので、どこかが不自然に熱をもったり痛みがひどいようなら呼んで下さい。冷やしましょう」
 てきぱきと言い置いて寝室を出て行くシゼの気配を耳で追いながら、イーツェンは天井をじっと見上げた。
 そうして体の痛みを感じていると、自分に剣の才能があるなどとは信じられない。シゼは嘘はつかないが、見あやまっているのではないかという思いがちらっとかすめた。苦い考えだった。シゼを失望させたくない。剣を通して少しでも彼と絆を持っていられるなら、シゼのまなざしにかなう自分でありたかった。この城で、イーツェンの存在に価値を持ってくれるのはシゼだけだ。
 彼がいなくなったら‥‥
 そう思うと、背すじが冬のようにつめたくなった。イーツェンは目をとじる。シゼなしで、この城で生きていけるだろうか。
 ゆるい痛みが胸から喉元へひろがっていく。傷の痛みでないのはわかっていたが、シゼを呼びたくてたまらなかった。まだシゼがふれた肌の温度も感触も手足にはっきりととどまり、淡い熱をそこに残していた。
 ふいにひどい疲労が全身を浸す。唇をとじたまま、痛む手を拳に握り、イーツェンはじっと動かずに目の内のくらやみを見つめていた。眠りはなかなか訪れなかった。