修道院では、時おりに薬草からエキスや精油をつくっていた。
銅釜にぐらぐらと湯を煮立て、大量に集めた薬草を次から次へと放りこんで、いっぱいになったら蓋をする。半円形の蓋からは銅管がのびていて、それはとなりの作業台に置かれた丸形の鍋の下へ蒸気を導いている。鍋には水が張られ、鍋底に当たって冷やされた蒸気は水滴となって、下で待ち受ける別の鍋へゆっくりと滴りおちていくのだった。
はじめのエキスは不純物が多いので捨て、また液体が滴ってくるのを根気よく待つ。一度取ったエキスをまた蒸留して濃度を高め、精油と分離するまでその作業をくりかえすこともあった。
どれほど大量に薬草を育て、また集めても、おどろくほどわずかしかエキスは取れない。イーツェンは炎の番をしたり、熱を吸ってあたたまった冷却用の水を替えたり、火からおろした釜に残ったぐったりした草の残骸を片づけて裏庭に埋めたりと、修道士を手伝って働いた。
作業そのものは好きだった。炎の匂いがたちのぼり、傷だらけの銅釜の中では湯がたぎって釜を打つ音がきこえてくる。じれったいほどゆっくりと滴るエキスに近づけば蒸気の熱がただよう中につんと鼻を刺す薬草の香りが嗅げた。小屋のすみの藁に座りこんで膝をかかえ、火の番をする。滴る液体の色が失せれば草を替え、継ぎ足して、作業は数日続くこともあった。
火や蒸気で熱せられた釜や道具、あるいは火や蒸気そのもので、イーツェンは時に火傷をした。一度など手のひら全体に大きな火傷をつくり、油を塗って布を巻いたが、その傷はいつまでもじくじくと痛み、布の表面に膿のような黄色い染みが浮いてイーツェンを閉口させた。傷は長い間痛みながら、湿りつづけ、なかなか癒えようとしなかった。
レンギを失ったシゼを見ていると、イーツェンはその傷を思い出すことがあった。癒えようとしなかった火傷。布の下で膿に湿っていた傷。
子供だったイーツェンが涙ながらに訴えると、修道士たちはおだやかな微笑みで「時間こそが最大の療法師だ」と説いた。その言葉通り、時がたち、幾度も布を替えるうちに傷の表面がかわき、つやつやと薄い新しい皮膚が傷を覆い、それでもしばらくは何かにつけてひりひりと痛んだが、いつしかその感覚も忘れ、傷は消えた。
だがその記憶を思い出してなお、イーツェンは、シゼの傷が同じように癒えるとは思えなかった。
見た目には、ほとんど前と変わらない。シゼはイーツェンの世話をし、枷の着脱をし、城内をつき従って歩く。いつものように、義務とされることはすべて淡々とこなした。その表情は平静で、態度に変化はなく、表からではシゼの傷は見えなかった。
それでも傷がそこにあることを、イーツェンは知っている。それがどれほどシゼを苦しめているのかも。
元から寡黙ではあったがシゼはさらに物を言わなくなり、イーツェンと二人でいても、自ら口をひらくことは滅多になくなっていた。イーツェンも気軽に話の水を向けるような気分ではなく、二人の間には自然と沈黙が落ちるようになっていた。
その重苦しさからのがれようと、イーツェンはひたすら本を読み、なじみのない文字を読み解き、蔵書室を訪れては地図を眺めた。リグの国は遠い。北東の峰を一つ越え、さらに高い山の間を抜ける危険な道をたどった先だ。
(今ごろはもう、冬支度をはじめているだろう──)
きびしい冬にそなえて家畜をこやし、魚を塩漬けにし、薪を拾い集める。時に冬をこえるのが無理だと判断した親は、我が子を修道院へやって口減らしをこころみることもあり、冬の間、集まった子供らに文字やリグの国のことを教えるのもイーツェンの役目だった。
離宮での冬は修道院にくらべてもっと穏やかで、人々は大きな一室に集まり、炎をくべた中央の炉を囲んで重ねた毛皮の上に座りこんで話をしたり、手すさびに牛の角や骨を使って彫り物をつくった。女部屋では女達が糸紡ぎや刺繍に精を出す。
冬の狩りに男達が出ることが決まれば、離宮全体がざわめいて、子供らは毛皮をまとった男たちが威風をたたえて狩りへと向かうのを胸高ならせて見おくったものだった。
(──今はもう、何もかもが、遠い‥‥)
リグのことに思いをはせると、胸が締めつけられるような気がする。自分を育てたあの地をこれほどまでに愛していたことに、イーツェンはこのユクィルスに送られてはじめて気がついた。
だがそれでも、窓から深い秋の空をながめやる時、イーツェンの心をしめるのは故郷のことではなかった。彼の心にあるのは、シゼと、レンギのことだった。去って行ったレンギの言葉のひとつひとつ、さりげなくも優しい微笑み、他愛もなかった彼らの会話をくりかえしくりかえし思い出しながらイーツェンはシゼにかける言葉を探しつづけたが、それは空しいこころみだった。
なすすべもなく、時ばかりがこぼれおちていく。体からも、心からも。
シゼのためにイーツェンができたことは、ただ剣の修練をつづけることだけだった。その時ばかりはシゼは前の彼に戻り、イーツェンに以前と変わらない態度で接しているように思えた。
おおよそ、3日に一度。まだ冬の気配すら遠いが、それでも近づく冬をにらんで城に身を寄せる兵の数は少しずつ減り、傭兵は冬のねぐらを探しはじめる。冬の城に受け入れられる者はごくわずかだ。
彼らがどこへ行くのかとイーツェンがシゼに問うと、シゼは少しの間無言でいてから、短くこたえた。どこでも、食事と寝る場所にありつけるところへ、と。
どこかの砦、貴族の屋敷の軒下、食客を受け入れるほどに裕福な者たちの家──あるいは村の用心棒。イーツェンに想像できるのはそれくらいだった。飯の口にありつけない者たちはどうなるのだろう。一冬の盗賊に身を落とすのではないかと思いつつ、それをシゼには聞けなかった。そこにはまた、イーツェンの知らないシゼの傷があるような気がして。
訓練場は夏よりもずっと静かになり、イーツェンにとってはありがたかった。シゼは変わらずイーツェンの相手をし、剣の扱い方そのものよりも身のこなしの基本をくりかえし教えた。イーツェンの手のひらは一夏の間にそれなりにしっかりとしたが、まだ時おりに水ぶくれを生じて彼を悩ませていた。
「少しは上達しているのかなぁ」
イーツェンがそう呟くと、シゼはイーツェンの肩の高さを直しながら、またしばらく答えなかった。こんなときのシゼが言葉を選んでいるのか、それとも答える気がないのか、イーツェンにはよくわからない。レンギのこと以来、シゼの中にはひどく重苦しいものがはりつめて、言葉を口にするのが苦痛なのではないかと思うことすらあった。
だが、その時は言葉を選んでいただけだったらしい。イーツェンの肩にかるくふれたまま、シゼはゆっくりと言った。
「あなたは、筋がいい。私などではなくきちんとした師につけば、本当はいい剣士になりますよ」
「まさか」
おどろいて、イーツェンはシゼの方へ頭を回そうとしたが、基本の型に戻るようシゼの左手が頭を押さえた。
「本当です」
「でも──私は非力だし」
「そうですね」
みごとなくらい、否定しない。だが逆に、シゼが嘘やでたらめを言ってイーツェンを喜ばせようとしているわけではないのだと、イーツェンにはわかった。心臓がどきりとはねる。
「ですがあなたは目がいいし、反応もいい。何より自分の振る剣の間合いをよくつかんでいる。力で相手を負かすのは無理だと思いますが、技さえきちんと学べば、今からでも充分身につくと思います」
「‥‥リグの離宮で少し教わった時には、すごくつまらなくってすぐやめちゃったんだけどなぁ‥‥」
その時のことを今さら後悔して、イーツェンはつぶやいた。別に剣士になりたいという望みがあるわけでも何でもないが、シゼが認めてくれたことが嬉しくて仕方ない。シゼの指示通りに前を見て木剣をかまえながら、口元がほころんだ。
「そのうちシゼを負かせるようになるかな」
「なれますよ」
半ば以上冗談のつもりの言葉に返ってきたのは、おだやかで、やさしい声だった。イーツェンはそれ言っているシゼの顔を見たいと思う。
前を見たまま小さくうなずき、彼はシゼにくりかえし教わったように、小指と薬指の力を抜いて木剣をしっかりと握った。
そんなある日のことだった。イーツェンを訓練場でにらみつけていた少年──彼と、思いもかけぬ再見を果たしたのは。
訓練場の横には城内馬場があり、逆の方向には木の兵舎がつづいて細長い小屋が列のようにつらなっていた。奥行きのない小屋の床は踏み固められた土間で、兵士は藁をつめた敷布団を寝床がわりにして眠るのだと、イーツェンはシゼから聞いていた。
兵舎の中に建っている倉庫小屋の一つで、イーツェンは服を着替えていた。城に戻る前に修練用のローブから普段着に戻らねばならない。ローブを脱ぐと肌着姿でかるく体を拭った。汗をかいた体は秋の空気にすぐ冷えはじめる。
そこは武器庫ではなく──少なくとも今は──ぐらぐらと不安定な棚には輪にまとめた縄やぼろ布が積み上げられ、バラバラに分解された馬車の車輪や車軸なども壁ぎわに重ねられている。窓は上方についているが陽射しは中までは入らず、扉をしめていると小屋はうすぐらかった。
イーツェンは乱れた髪をかるく指で払う。普段着のローブへ手をのばそうとした時、ふと動きをとめた。
人の気配を感じた気がした。ふりむく。
棚には背板がなく、向こう側が見えるが、いくつも並んだ棚の向こうは物の影になってほとんど見とおせない。
耳をすませてはみたが、小屋の外を誰かが大声で喋りながら歩きすぎ、その声に消されて何もわからない。
汗の引きかかっていた肌がまたじっとりと湿る。我知らず、息を殺していた。背中がぞわぞわとして落ち着かない。数度うしろをふりむいたが、やはり目につくものは何もなかった。それなのに、そうして確認するたびにかえって得体のしれない怖さばかりがましていく。部屋のあちこち、目の届かない場所に形のない闇がうずくまってこちらを見ているような気がした。
「‥‥‥」
シゼ、と口をひらきかけて、イーツェンは苦笑する。扉の外にはシゼが控えている筈だったが、ただ影に怯えたと言って彼を呼びつけることなど出来なかった。五つの子供じゃあるまいし。
(ばかばかしい──)
横合いの棚に置いたローブに手をのばした。布をつかんで、一瞬ためらい、最後だと思いながらイーツェンはもう一度後ろを振り向いた。
視界にキラリと光がはしった。声も息も喉でとまる。まっすぐに彼めがけて振りおろされてくる冷たい輝きを見た瞬間、全身がしびれて頭から血が引いた。
視界を裂きながら、刃が近づいてくる。刃こぼれのある鉄の刃──食事用の短剣とちがい、両刃で肉厚の短剣は、うすぐらい部屋の中でも青白くかがやいてイーツェンにせまった。
身をねじった不自然な体勢のまま、地面をかるく蹴っていた。体が後ろへのけぞりながら倒れこみ、したたかに肩が棚板を打って、熱湯のかかったような痛みに口から悲鳴があがった。棚が揺れ、バラバラと音をたてて革帯が落ちてきた。
イーツェンのいた空間をざっくりと切り裂いて刃が抜けていく。体が無意識に受け身をとって地面にころがり、足をのばして相手の足首あたりを払った。
手ごたえがあった──だが、弱い。相手は犬の威嚇のような唸りをあげ、大きな動作で短剣を振りおろす。
その瞬間、イーツェンは相手の顔をはっきりと見た。
やせこけた、肩も頬も不自然なほどにほそった少年──目ばかりがギラギラと、怒りと怖れにみひらかれ、半開きの口から音をたてて荒い息をついている。骨ばった全身に猛々しい気魄があふれていた。もつれた黒髪が額からこめかみにかけて垂れている。
(この少年は──)
あの時の。はっとするがそれを口にする間はない。おちてくる刃をよけようと地面に倒れた身をひねろうとしたが、倒れた時に下敷きにした自分の右腕がねじれてうまく動けない。恐怖が全身をつかんだ。イーツェンはかすれた悲鳴をあげて少年の手首を蹴ろうとしたが、足は空を切った。
だが足裏がどうにか少年の胸を押しやり、のしかかってくる彼の均衡をくずす。少年は中腰のまま、バランスを立て直そうと足を踏んばった。イーツェンは体の下から腕を抜き、腰と足でいざって後ろへずり下がろうとする。
ほこりがたちこめる中、二人の体があたった棚がぐらぐらと揺れていた。少年がそれに気を取られた隙をとって、イーツェンはどうにか立ち上がった。咳込みながら、
「一体、どうして──」
「リグはアンセラを裏切った!」
少年のぼろぼろのシャツの胸元がひらき、内側ににぶい鉄色の鎖が下がっているのが見えた。イーツェンは立ちすくむ。それは奴隷の鎖だった。レンギが足首につけていた輪ほど拘束の強いものではなく、主人の手によって着脱が許されているが、つけた者を奴隷として示すことにかわりはない。
(──アンセラ)
アンセラは、リグの隣国だ──いや、だった。リグから山あいの道を抜けた先、山すその平地に都を持つその国は、長くリグの友邦であった。山に囲まれたリグへ物資をはこぶ輸送路はアンセラにまっすぐ通じ、ゆえにアンセラがユクィルスの軍に陥ちた時、リグは生きる道を断たれたに等しく、ユクィルスとの同盟に応じるよりほかになかった。
イーツェンは半ば茫然と少年を見つめた。そうか、アンセラの民か、と思う。アンセラの民はリグの民に似て肌の色がやや濃く、あごが細く、切れ長の目と大きな黒い瞳をもつ。だから以前に見た時、どうしてかなつかしいような思いがしたのだ。
「裏切りって‥‥何を‥‥」
リグはアンセラが完全に陥ちてから屈服し、山道の門をユクィルスへひらいた。だが、アンセラを裏切るような真似は、イーツェンの知るかぎり行っていない。
少年はイーツェンをにらみつける。怒りに歪んだ激しい顔の、その目にはうっすらと涙がひかっていた。
「リグはアンセラの要請をこばんで援軍を出さなかった──」
「‥‥‥」
「アンセラの者たちが助けを求めてリグの山門へたどりついた時も、門をとざして沈黙を守った!」
無言のイーツェンへ、少年はふるえる手で短剣をつきつけた。殺すためや傷つけるためよりは、ただ内側からわきあがる憤激を押さえかねての動作のようだった。
「長年の友邦への、それが仕打ちか!? アンセラの王子は門の前でユクィルスの兵にとらえられ、そこで心臓を串刺しにされて息たえた」
声もまた、ふるえていた。そこには深い憎悪と嫌悪、そしてすべてを圧するはげしい悲しみがあった。
ふいに視界にシゼがあらわれ、イーツェンの心臓がはねた。足音をたてず、いつのまにか少年の背後にしのびよっている。中の騒ぎを聞きつけたのだろう。少年は背中の動きにまるで気づいていない様子だったが、イーツェンはかるく首をふってシゼの動きをとめた。
少年はその仕種を自分へ向けられたものととったらしく、ぱっと頬に血の色をのぼらせた。イーツェンをにらんで声を一段とはねあげる。
「あの方を殺したのは、あの槍だけではない! リグの者たちが命惜しさにユクィルスにすりよった、その裏切りがあの方の胸を貫いたも同然だ!」
「‥‥それで、あなたは? その方のゆかりか?」
丁寧な口調で、少しゆっくりと、イーツェンはたずねた。そでのない肌着と下着をまとっただけの体が冷えてこわばりはじめていたが、動く愚はおかせなかった。
「‥‥俺はあの人の侍従の一人だった」
涙をにじませ、歯をきしらせて、少年はつぶやいた。イーツェンは唇をぐっとむすぶ。アンセラはリグよりも厳格な気風で、血のつながりやその貴さを重要視する。王族の侍従──ということは、彼自身が王家の遠縁か、そうでなくとも血統のよい貴族の家柄に生まれついたはずだった。その胸元に今や奴隷の鎖が揺れている。
──とらえられ、奴隷として売られたのか‥‥
やせて、うす汚れた服をまとい、奴隷の鎖をつけた少年を見つめて、イーツェンは立ちすくんでいた。
「あの方は苦しんで死んでいったのに、お前のような者は恥知らずに敵の食事を取って、敵の屋根の下でのうのうと生きている──」
痛罵をまともにあびせかけられ、イーツェンの口からかすれた笑い声がこぼれた。そう、見えるだろうか──のうのうと、苦労もなく。そうかもしれない。ユクィルスの城の屋根の下で眠り、寝床と食事と水を得て。何の痛みもなく生きているように見えるだろうか。
体から、すべての力が抜けていくような虚しさがあった。
「何がおかしい! 生き恥をさらし、友邦を見殺しにして生きのびて、それがリグの王族の誇りか?」
あらんかぎりの憎しみをこめて、少年は吐き捨てた。イーツェンへ向いた短剣はわなわなとふるえ、まっすぐで純粋な怒りと憎悪がふきつけてくる。イーツェンはみひらいた目で少年を見つめた。
(生き恥をさらし──)
レンギの面影が胸をよぎる。同時に、心の深いところを痛みにえぐられたようだった。
生きること、ただこの城で生きつづけること。
たやすい筈がなかった。
たやすくなど、あるものか──
シゼが動き、背後から少年の右手首をつかんだ。かるくねじりあげて短剣を地面に落とし、すばやく靴の下に踏みつける。暴れる少年を左手で押さえこんで軽くあしらいながら、シゼはイーツェンへ気づかわしげなまなざしを投げた。
「‥‥殿下」
イーツェンは少年を見つめていたが、シゼの顔を見、荒く息をつく少年の顔を見た。少年はシゼに逆らうのをあきらめた様子で体から力を抜き、イーツェンをにらみかえした。
(あまりにも純粋な憎悪。あまりにも単純な──)
少年は知るまい。イーツェンもまた、まるで奴隷のように鎖でつながれて城で生きていることなど。生き恥と言うならそうかもしれない。だがそれすらをも甘受し、ここで生きることを選んだ。かつてレンギがそうしてきたように。彼らが何を失いながらその道を選んだか、苦痛に満ちた決断を、この少年はかけらも知るまい‥‥
腹の底が怒りに煮えるようだった。
あごを上げ、イーツェンは毅然と背をのばした。
「シゼ。彼が、私に剣を教えてくれるそうだ。彼と立ち合う」
まばたきをして、シゼは言葉なくイーツェンを見た。少年も耳にした言葉が信じられないかのようにイーツェンを凝視し、口をあけて、またとじた。
イーツェンはするどい表情で少年を見つめる。
「私を叩きのめしたいのだろ? 訓練場で待っていろ。着替えて行く」
右手を払うように振った。シゼが一瞬ためらったが、イーツェンがさらに視線でうながすと少年の自由を奪っていた腕をゆるめ、手首はつかんだまま扉へとつれていく。小屋の外へ少年を押しやると、シゼは扉をしめ、イーツェンを振り向いた。
イーツェンは腹腔に冷たい怒りの奔騰を感じながら、体から埃を払い、さっきまで着ていた修練用のローブを頭からかぶる。乱暴な動作で袖を通した。
「イーツェン──」
「うるさい、黙ってろ」
イーツェンがぴしゃりと言い放つと、シゼは面食らった表情のまま口をとじた。地面から短剣を取り上げて、抜き身を布で包んでしばり、腰のうしろへさしこむ。
シゼが心配しているのはわかっていたが、イーツェンは彼の方を見ずに身繕いをつづけた。今は思慮のある言葉など聞きたい時ではなかった。ただ、身の内にたぎる怒りと虚しさをどこかに吐き出さねば、頭がおかしくなってしまいそうだった。