イーツェンを部屋につれ戻ったシゼはしばらく姿を消していたが、扉がひらく音に顔を上げると、シゼが陶杯を手にして入ってくるところだった。
ソファに座ったイーツェンの前に、湯気をたてる陶杯を置く。ちらっとイーツェンを見た。
「飲んで下さい。気分がよくなる」
「‥‥何?」
イーツェンは自分の声がひどくかすれて涙まじりなのに、自分でおどろいた。随分前に泣きやんだつもりでいた。
「フェンルの茎茶です」
それが何だかよく知らないままうなずいて、イーツェンは小さな脚がついた杯を取る。口を近づけると、つんとする香りが鼻先で漂った。
見た目ほど熱くはない。一口含むと青くさいがさわやかな酸味が舌の上にひろがった。世辞にもおいしい味ではないが、シゼの言う通り、半分ほど飲むころには随分と落ち着いた気分になっていた。
「ありがとう」
杯をテーブルに置き、自分の横に座らないかと手で示したが、シゼは首を振って数歩下がった。その顔を、イーツェンはじっと見上げる。シゼはどこか疲れているように見えたが、それ以外にいつもとちがった様子は見当たらなかった。
それでも、膝をついて祈っていたあの姿はイーツェンの目にやきついている。あの時、シゼは一人で、レンギの魂の旅立ちを送っていたのだ。
「何で‥‥」
そうつぶやきかけて、イーツェンは首をふる。何故。どうして、こんなことが。
「シゼは‥‥知ってたんだな」
数歩離れた場所からイーツェンを見つめていたが、シゼは口を結んだままうなずいた。イーツェンはまた涙があふれてくるのを感じて、下を向いた。頬からあごをつたった滴が膝の上にぽたぽたと落ちた。
理由といきさつは、すでにレンギが自らイーツェンに説いた。そのことを頭で理解していても、イーツェンの心はまだレンギの死を理解できない。
「レンギは、私には‥‥言わなかった‥‥」
「あの人は、あなたを悲しませたくなかったんですよ。笑顔で別れたいと言っていた」
ぼそっとつぶやいて、シゼは一瞬おいてからつけくわえた。
「4年前にレンギはフェイギアの裁判で不在のまま裁かれ、死罪の宣告が出ていました。王族はほとんど皆、すでに刑は執行されています」
4年前。レンギを追いつめたものの正体の一つを、イーツェンは知る。
シゼの声は静かで、ほとんどおだやかなほどだった。
「今年になってフェイギアの議会がユクィルスにレンギの身柄引き渡しを要求し、この秋にユクィルスの賢人会議が応じる決定をしました」
「‥‥‥」
イーツェンは膝に肘をおき、顔を両手にうずめた。力ない息を吐き出す。体中からすべての力が流れ出していくような気がした。全身が凍えるほどにつめたい。
レンギは微笑していた──と思う。自分の死を知りながら、イーツェンをはげまそうとしていた。
全身に何かがつまったように息が苦しい。鼓動が耳の中で荒く乱れた。頭をかかえ、首のうしろを苛立つ指先で強く抑え、息を押しだすように、イーツェンはつぶやく。
「‥‥国へ帰ると、言っていたんだ‥‥」
「帰れますよ」
のろのろとイーツェンが顔をあげると、シゼは窓の外を見ていた。
「もうこの城にとらわれる必要はない。レンギの魂は、彼があるべき場所へ還ったはずです」
それは一体どこのことなのだろうとイーツェンは思ったが、シゼにはたずねることができなかった。レンギの昔の国はもうなく、今の国は彼を殺した。それではレンギの魂はどこに還るのだろう。あの不吉な鐘の音に送られて、どこか安らげるところに行くのだろうか。かつては存在した、彼の記憶の中の故郷へ、あの優しい魂は還ることができるのだろうか。
この城から解き放たれて──
シゼがイーツェンへ顔を戻して、口元を引き締めた。
「イーツェン。レンギのことは、彼の運命だ。あなたは、あなた自身の運命のことをしっかりと考えて見据えていかなければならない」
「‥‥レンギが、そう言ったんだな」
一瞬おどろいたようだったが、シゼは無言でうなずいた。イーツェンは陶杯をふたたび手に取ってさめた茶を一口飲み、こわばった舌を湿した。ソファに体を沈める。
「うん。わかっている‥‥」
だが、私は私の運命を待っているのだ、とイーツェンは声に出さずにつぶやく。レンギのように。いつか訪れるさだめを。
──その時、この魂は故郷へ還れるのだろうか。
それとも‥‥
その夜は小さな晩餐会があり、イーツェンは広間のテーブルのすみに座って痛む頭で周囲の喧騒を聞き流していた。ざわざわと耳の中で虫の羽音のような音が鳴って、目が回りそうな気がする。
玉座に近い上座にオゼルクが黒衣をまとって座し、時おり笑みをうかべて隣りと談笑しているのが見えた。
イーツェンは気怠い痛みを身の奥底におぼえる。吐きそうだった。周囲で笑顔や明るい声がかわされるたびに、耐えがたさばかりがつのっていく。やり場のない憎しみが体の内側に澱のように溜まって、息ができなくなりそうだった。こんなふうに、自分が人を憎むことがあるとは思ったことがなかった。自分自身の感情におしつぶされそうになる。
オゼルクと目は合わなかったが、時おり見られているような気はした。肌を刺すような感覚をひたすら無視して下を向き、イーツェンは続けて出てくる皿に少しずつ手をつけたが、砂を噛むような味しか感じなかった。薄めたワインで流し込み、どうにか形をとりつくろう。その間も人の声のさざめきが油燭の炎を揺らして、彼の周囲を逃げ場なくとりまいた。
人ひとりの死は、城に何一つ影を落としていないかのように思える。イーツェンはただ歯を噛んで、食事をつづけた。
余興が催されるというのを気分が悪いと辞して、塔へと戻る。どれほど非礼だと思われようが今宵はかまわなかった。彼の檻であるあの塔が、今ほどほっとする場所に思えたことはなかった。
控えの間で食事をとっていた筈のシゼは、晩餐半ばで広間から抜け出したイーツェンを廊下で待っていた。何も言わず、彼の後ろについて歩きはじめる。
イーツェンは脚の間に揺れる鎖を感じながら、靴を引きずるように歩き続けた。枷も鎖も、たえがたいほどに重く感じられたが、一瞬でも早く、ただ静かな場所にたどりつきたかった。
──あなたへ。お守りがわりに。
手の中の小さな感触をころがしながら、イーツェンはじっと暗い天井を見上げていた。レンギの言葉を、声を、表情を、くりかえし思い出す。
──故郷の地に戻るのは、それほど悪いことではありませんよ──
何故あんなおだやかな顔をしていたのだろう。イーツェンに向けた、あれが芝居や強がりだとはイーツェンには思えなかった。レンギの中にあったのは、あきらめや投げやりな気持ちではない。もっと強く、もっと静かな何かだった。
運命を受け入れていたからか? だから、あんなに優しくしてくれたのだろうか。
薄い毛布を体に巻きつけながら、イーツェンは幾度めかの寝返りを打つ。体も心も重苦しいまま眠れない。もう涙は出なかったが、眠れるとも思わなかった。
鐘の音がまだ耳にやき付いている。ただ不吉な、人の心を乱すようなあの音。
‥‥あんなふうに運命を受けとめることが、人にはできるのだろうか。
イーツェンがこの城で耐えているのは、リグの国のためだ。彼が生まれ育ったあの国のため、自分がここにいることには意味がある──イーツェンは、それを迷ったことはなかった。
だがレンギにはもう国はない。故郷だと思った地は彼を裏切り、彼の死を要求した。
心のよすがとてないままに、レンギはどうやって死の運命とその孤独に耐えてきたのだろう。イーツェンにはそれがわからない。そしてそんな彼の姿を、シゼはどんな思いで見ていたのだろう。
「‥‥‥」
手のひらのピアスを握りしめ、溜息をついて、イーツェンは起き上がった。レンギのくれた小さな布に丁寧にピアスを包み、枕元にたたんだローブの隠しにそれを戻した。
髪をかきあげながらしばらく考え込んでいたが、寝台から足をおろすと裸足で立った。寝室の石床の冷たさにいささかぎょっとして、サンダルを履く。
足音をたてないようにしながら扉へ近づき、把手に手をかけた。ゆっくりと押して、ひらいた扉の隙間から顔を出す。
月が出ているのだろう。窓の外の夜はどこか薄ぼんやりとして、闇に慣れた目をこらせば室内の影の形が見てとれた。
廊下へ通じる扉の横に、人影がうずくまっていた。敷布の上に膝をかかえるような姿勢で座り、両膝の上で交差させた腕に顔を伏せている。
イーツェンが寝室から出ても、彼は顔をあげなかった。イーツェンはしばらく扉の前にたたずんでいたが、ゆっくりと歩み寄った。低い声で呼ぶ。
「シゼ」
それでもシゼは動かない。そばに膝をつき、イーツェンはシゼの肩に右手を置いた。シゼの体がこわばっているのが手につたわる固い感触でわかった。肩が息で揺れている。
ただそうやって何かに耐えるように、シゼはじっとしているのだった。
「シゼ‥‥」
体を寄せて腕を回し、イーツェンはシゼの肩を抱く。シゼが何かつぶやいたようだったが、それは言葉になっていなかった。シゼをかかえるように回した両腕の指先をからめ、イーツェンはシゼの肩に頭をのせて、しばらくそのまま動かなかった。
時おりシゼの息がかすれて聞こえる。彼の体はひどく熱く、汗ばんでいた。全身で苦悶をこらえている。筋肉をさざなみのような揺れが走り、シゼはふいに頭を上げて大きな息を吸いこんだ。
イーツェンは腕を解き、シゼの肩を軽く叩いた。手首をつかみ、シゼの体を引き起こす。シゼは何も言わず、逆らいもせずに立ち上がって、イーツェンに引かれるままに寝室へ歩き出した。
シゼを寝台に座らせると扉をしめ、イーツェンはシゼの前に片膝をついた。靴に手をかけ、片方ずつ脱がせていく。くるぶし丈の革靴のひもをほどき、靴をゆるめて引き抜く動作を、シゼは手伝いもしなかったが邪魔もしなかった。
靴を床にならべて置くとシゼをうつ伏せに寝かせようとしたが、彼が右手を拳に握ったままなのに気が付いた。相変わらず逆らう気力もないシゼの手を取って、指をひらく。
汗ばんだ手のひらをさぐった指に、小さなピアスの感触がふれた。
レンギはいつも、左耳だけに翡翠のピアスをしていた。そのピアスの対の片方がどこにあったのか、イーツェンははじめて悟っていた。
イーツェンは隣室の棚から真鍮の小杯を取って戻ると、シゼの手からピアスを拾って小杯に入れ、寝台の頭側に置いた。
シゼの肩を叩いて、うつぶせに寝かせる。自分もサンダルを脱いで寝台にのぼり、シゼの横に膝をつくと、両手をシゼの首すじに置き、彼は前に教わったように指と手のひらを使ってこわばった筋肉を押しはじめた。思った以上の固さに息をつめる。ガチガチにこわばった体は、まるでシゼのかわりに悲鳴をあげているかのようだった。
どちらも無言のままだった。イーツェンはあまり力を入れずにゆっくりと首すじをほぐす。麻のシャツの下のシゼの体の凹凸をさぐり、肩の後ろを手のひらで押しながらゆるめ、首から背骨に沿って腰あたりまで丁寧に背中を押し揉んだ。
しばらくその動作をくりかえしてから体勢を変え、シゼの背中を膝でまたいで彼の上に座りこむと、イーツェンは体重をかけて肩甲骨のあたりをほぐしはじめた。凝り固まった筋を親指でさぐりあて、押し下がってはまた上がっていく。剣の稽古後の体をほぐすためにやりかたを幾度も教わっていたので、はじめの時よりイーツェンの手はずっと慣れていた。
シゼの体が手の下で少しずつほぐれていく。全身をこわばらせていた緊張がほどけはじめると、シゼは細い息を吐き出した。呼吸がゆっくりになってきているのを確認しながら、イーツェンは丁寧に作業をつづける。
体温をうつすように、ゆっくりと手のひらを押し当て、体重をこめた。背骨の左右に手のひらを置き、対称にほぐしていくと、ふっとシゼが身じろぎ、低い呻きをこぼした。イーツェンはシゼの上から体をどかすと、彼の横に座りこんだ。
「シゼ」
静かに呼んで、手をのばし、シゼの髪にふれる。陽に灼けたような色の、褪せた金の髪は指先に少し固い。髪をなで、首から背中までをなでていると、シゼがふいに喉の奥でつまった音をたて、頭をふるわせた。顔の下に腕を置き、首を伏せ、彼は声を出さずにすすり泣いていた。
イーツェンは黙ったまま、子供にするようにただ髪と背中をなでていた。シゼの肩が上下し、呻き声が唇の間からこぼれて、背中に力がこもる。小刻みなふるえが走った。
シゼの背中をなでながら、イーツェンは闇にぼんやりと浮くシゼの姿を見つめていた。視界が涙ににじみ、イーツェンは自分が泣いているのに気付いたが、頬をつたいおちる涙を拭わずに手を動かしつづけた。
手のひらが熱い。泣くシゼの体は、湿った熱をおびていた。
イーツェンがレンギを失ったのと同じように、シゼもレンギを失ったのだ。くらべものにならないほどに古く深い絆を持つ相手を。普段は感情を表にあらわそうとしないシゼの苦悶の様子を見つめながら、イーツェンはただ途方に暮れ、情けなく、そしてひたすらに淋しかった。レンギに会いたかった。彼ならシゼを支えることができる。
やがてシゼの声が低くなり、息が落ち着いて、彼は顔をあげた。肘をついて上体をおこす。イーツェンを振り向いて、黙ったまま彼を見つめていたが、体をよけて場所をあけた。イーツェンに手をのばす。
引かれるまま、イーツェンはシゼのそばに横たわった。シゼがイーツェンに腕を回して引き寄せ、2人は互いのぬくもりにすがるように無言の身をよせる。どちらもそれを、ただそれだけを、必要としていた。
朝日がさしてくる。イーツェンは白っぽい光が段々と明るさをおびてくる寝室の天井を見つめていた。
シゼの寝息がきこえる。彼がどうにか眠りを得たことに、イーツェンはほっとしていた。
イーツェン自身も眠った──眠れるとは思っていなかったが、思いもかけずにそれはおだやかな眠りだった。どちらも相手の中にある苦悶を知っていたからかもしれない。傷の存在を互いに知りながら、それにはふれないようにして、二人は一晩中言葉もなく身をよせていた。
イーツェンの体にシゼの右腕がのっている。軽く抱き寄せられ、シゼの胸元にイーツェンの肩がふれていた。そこからゆったりとした呼吸がつたわってくる。
イーツェンはシゼを起こさないよう用心しながら、ゆっくりと体を回してシゼの方を向いた。低い頬杖をつき、朝のまだかすんだ光の中でシゼの顔を見つめた。
一夜の苦悶がシゼの顔にきびしい線を刻んでいた。口元も顎の線もひどくけわしく、くたびれているように見える。それでもきっと昨夜の苦悶の時よりはいいのではないかとイーツェンは思ったが、昨夜の顔を光の下で見ていない以上、自信はなかった。
イーツェンはしばらくシゼの寝顔を見つめていた。
彼があんなふうに感情をあらわにするのを、イーツェンははじめて見た。それはイーツェンにとってほとんど衝撃的だった。いつでもシゼはどっしりとかまえ、彼の揺るぎなさはイーツェンの心の支えでもあった。何がおこってもシゼだけは変わることがないような錯覚さえ自分が覚えていたことに、イーツェンは今さら気付いていた。
レンギは、自分の護衛にシゼが3年間ついていたと言った。イーツェンの護衛としても、もう2年になる。護衛というより、枷をつけ、枷を外し、彼らの動きを見張るのが役目だ。
そんなことを続けながら、彼はどのくらい苦しんできたのだろう。どれほどに、この城はシゼを傷つけてきたのだろう。それを隠し、それを覆って、シゼはただイーツェンのそばにいた。2年の間、どれほどシゼの存在が自分を支えてきたのか、自分がいつしかどれほどシゼにたよるようになっていたのか、イーツェンは深いところで悟っていた。
いつまでたよっていられるのだろう。──そんなことに、自分もシゼもいつまで耐えられるのだろう。
シゼは耐えるかもしれない。いや、耐えるだろう。彼はきっとイーツェンを守ろうとする。力が及ばなくとも、ただそばにいようとするにちがいない。イーツェンは今ではそう信じていた。そしてそれはイーツェン自身の望みでもあった。シゼのそばにいること、シゼがそばにいることが。
だがそれは、シゼが傷つきつづけることを意味していた。
イーツェンは手をのばし、額にかかったシゼの髪に指先でふれた。乱れた髪を耳の後ろへかきあげ、なでつけてやる。シゼは身じろいだが、目をさますことはなく、髪をなでていると頬のきびしい線がわずかにゆるんだ。そうなると意外なほど若く見える。イーツェンはかすかに微笑した。
大伽藍の鐘が鳴った。
遠く朝の空気を揺らす鐘の音にシゼの睫毛が動き、目を開ける。イーツェンは無言で身をよせ、シゼの額にくちづけてから起き上がった。シゼはイーツェンの動きを目で追っていたが何も言わず、イーツェンが寝台から降りるとゆっくりと体をおこした。
また城での一日がはじまる。
第一部完