オゼルクに呼び出されること自体は、珍しくもない。
 それに慣れている己が情けなくもあったが、厭悪は別として、何をされるかについての心構えくらいはある。身はすくむが、恐れているのはオゼルクの行為そのものというより、それに反応して引きずり出される体の快楽だった。
 それでも、どこかで割り切ろうともしていた。オゼルクに組みしかれて理性なく乱れる己を嫌悪していたが、イーツェンはその嫌悪に足をすくわれないようにしていた。四六時中オゼルクに抱かれているわけでもないし、それにイーツェン自身、快楽そのものを頭から否定しているわけではなかった。
 リグの民は気質が大らかで、他者と肉体関係を持つ快楽を忌んだり隠したりすることは、あまりない。イーツェンは、17で人質としてリグを離れるまで女性との関りを数度持った。どれも一夜の、恋とすら言えない遊びだったが、お互いにそれを気まずく思ったり、ことさら秘め隠したりもしなかった。体で愉しむ、そのこと自体を罪や恥だとは思わない。
 だがオゼルクとの関係は、それとはまるで異なっていた。互いに愉しんでいたなら、イーツェンもどうにか己を順応させたかもしれない。しかしオゼルクは、まるで刃で傷つけるのと同じようにイーツェンを追いつめ、嘲笑うように体から快楽を引きずり出した。その暗い意志と悪意、それに応じてしまう自分の肉体──イーツェンをさいなむのは、どこか病的な彼らの関わりだった。
 相手がルディスなら、もっと単純だ。オゼルクに対する反発と執着、さらにはそれを裏返したイーツェンへの征服欲と嗜虐心。ルディスの横暴な欲望はイーツェンを痛めつけはしたが、彼はただ己の快楽をイーツェンから得ようとしているだけで、それ以上の複雑さはなかった。
 オゼルクが何をほしがっているのか、イーツェンには理解できない。だからいつでも、顔を合わせるのが怖かった。取るに足らないものを見るまなざしでイーツェンを眺めやるオゼルクに怯え、その暗い目に浅ましい欲を覚えようとする自分の体に、怯えていた。


 イーツェンの顔を見ると、オゼルクは不機嫌そうに目をほそめたが、ほとんど何も言うことなくイーツェンをつれて廊下に出ると、城内を歩きはじめた。
 一体どこへ行くのかと、イーツェンはたよりないまなざしを下におとし、前を歩くオゼルクの足取りを追った。足の間で鎖がこすれ、太腿にふれる。オゼルクは、イーツェンの足が鎖でつながれていることを無視するようにやや大股で歩いており、イーツェンは追いつくためにかなり早く足を動かさねばならなかった。数歩離れてシゼがついているのが、角を曲がるたびに視界のすみに見える。
 城内は奇妙に静かだった。昼下がりだというのに人の数が少ないような気がする。イーツェンがいつも入れない奥の扉から、オゼルクは城の裏側へ抜けた。門兵はオゼルクの姿に敬礼して道を開ける。
 自分がどこへ向かっているのか、オゼルクが彼をどこへつれていこうと言うのか、イーツェンにはまるでわからなかった。暗く細い廊下を通り抜け、木の扉をひらいて、オゼルクは明るい光に満ちあふれた外に歩み出る。続いたものの白い陽光に目がくらんで、イーツェンは立ちすくんだ。
 方形の庭だった。狭く、一辺はオゼルクの歩幅なら10歩もいかないだろう。中心に低い木が一本植えられている。周囲をかこむ壁にはどれも木の扉が一つずつ、四つの扉が向かい合わせに配されて、それをつなぐ敷石が庭を十字に横切っていた。
 壁は高く、頭上にのしかかるようで、イーツェンは圧迫感をおぼえる。まるで迷路のようだ。
「イーツェン」
 呼ばれてはっとすると、先に行っていたオゼルクが大股に戻り、イーツェンの右手をつかんだ。イーツェンが身を固くするのもかまわず、そのまま歩き出す。向かいの扉を抜け、城内の──もうそれがどこの棟か、イーツェンにはわからない──廊下を歩くと、ふいに彼らは礼拝堂の前に出ていた。
 ぎょっとして、イーツェンはオゼルクの顔を見る。だがオゼルクは前を向いたまま、冷たい表情は読みがたく、イーツェンの手をはなさずにアーチ状にひらいた入り口へつづく石段をのぼった。
「オゼルク‥‥?」
 入り口をくぐると、まずは表堂。ゆるやかに湾曲した壁に左右をかこまれ、壁の上方にうがたれた壁龕には「古き神々」のさまざまな石像が飾られている。奥にひろい空間だった。
 オゼルクはイーツェンの手を引き、表堂の奥、壁が狭まった通路へ向かっていく。イーツェンはシゼを振り向こうとした──シゼが足を踏み入れられるのは、ここまでだ。ここから先は王族と神官の場所とされている。
 オゼルクが振り向きもせずに言った。
「お前はここで待て、シゼ。祈るのにいい場所だろう」
 どこか胸の騒ぐ言い方だった。イーツェンは体をねじって背後のシゼを見ようとするが、たたずむ影を見ただけで、表情を見るより前にオゼルクがぐいと腕をたぐって引き寄せた。鎖が小さく足の間で鳴って、イーツェンはころびそうになる。二の腕をつかんでそれを支え、オゼルクは半ば引きずるようにイーツェンを奥扉の向こうへせきたてた。
 円蓋が頭上にそびえる円柱回廊がひろがっていた。天窓から陽が線となってさしいり、左右にならぶ円柱の間を通路がまっすぐに貫いている。人の姿はなく、オゼルクとイーツェンの足音だけが空虚にひびき、鎖が鳴るかすかな音すらイーツェンは自分の耳に聞こえる気がした。
 両開きの壮麗な扉は今はとじている。そこには目もくれず、壁のすみの緋色のカーテンをたぐると、オゼルクはたっぷりとした襞の下にイーツェンを押し込んだ。
 布をくぐった先は、側廊だった。またオゼルクがイーツェンの腕をつかんで廊下の奥へと歩き出す。イーツェンは視線を奇妙に据えたままのオゼルクを見やった。
「オゼルク? 一体、なにを──」
 小さな扉を開くと、その先に部屋があった。室内には布で覆われた額や石像が保管するように規則的に並べられ、棚には水盤や脚つきの大きな杯が伏せて並べられている。神官の衣らしいたたんだ衣裳が、棚の一画に丁寧に積まれて、淡い光にきらめく色糸のかがやきを見せていた。
 聖具室だった。
「じき、鐘が鳴る‥‥」
 オゼルクが低い声でそうつぶやいたのが聞こえたが、イーツェンには意味がわからなかった。午餐の鐘が鳴ってからまだそれほど立ってはいない。刻の鐘が鳴るまではまだ時間があるはずだ。
 立ちすくんだイーツェンを見やって、オゼルクは薄く笑った。
「お前は最近、レンギと仲がよかったようだな」
「‥‥誰ですか、それは」
 イーツェンは表情を変えずにオゼルクを見つめ返したが、同時に奇妙な怒りを感じていた。エリテの真実の名を、オゼルクが口にするということに。それはまったく理屈にあわない怒りだったが、名前を汚されたような気がした。
「エリテ、だ。お前はその名しか知らんか?」
 ぽつりと言って、オゼルクは天井を見上げた。平らな天井に白い漆喰が塗られ、その上に金泥で何かの装飾紋様が描かれていた。まるで蛇のようだと、イーツェンもぼんやりとオゼルクの視線を追う。
「あれは昔、よくここで泣いていた。‥‥まだ、12かそこらの頃だ。子供の頃からよく泣くガキだった」
「‥‥‥」
 斜め格子の入った磨りガラスの窓は乳白色で、外は見えない。うすぼんやりとした光の中でオゼルクの金の髪が淡く光った。
 腰の後ろで手を組んで、オゼルクは棚に並んだ聖具を眺めやっている。磨かれた玉のついた錫杖、蜜水を溶くための銀のスプーン、内に小さな香炉をしこんである球形の吊り香炉、枝分かれした燭台。蝋燭がおさめられた塗り箱。とりとめのない視線がその境をさまよっていく。
 レンギの泣く顔など、イーツェンには想像できなかった。それを言うなら、彼やオゼルクが子供だった頃のことも想像がつかないのだが。彼らはどんな子供だったのだろう。レンギは8歳で城に来たと言っていた。2年後には人質として同じ国からきた相手をなくして、ひとりぼっちになっていたはずだった。
 ──泣きもする‥‥
 そんなふうにこの城でただ一人、生きていくしかなかった子供だ。
 イーツェンはオゼルクの表情を見つめた。イーツェンに斜めの背中を向け、オゼルクは無言で室内を眺めているようだった。遠い日の記憶をたどっているのだろうか。彼が何を考えているのか、イーツェンにはわからない。
 レンギを追いつめたくせに──と、オゼルクをなじる言葉が喉の奥まで出かかったが、イーツェンは唇の内側を噛んだ。レンギの記憶は、イーツェンにとって大切なもの──ほとんどこの城で唯一のあたたかな思い出であって、イーツェンがそれを心の支えにしていることをオゼルクに知られたくはなかった。弱みを見せたくもないし、レンギについて彼と語るのは嫌だった。
 オゼルクがふりむく。イーツェンは反射的に一歩下がって身を離そうとしたが、肩をつかまれて体がねじれた。
 視界にうつる部屋が回った。脚の鎖が踏ん張ろうとする体の動きを邪魔する。足の動きを封じられたイーツェンは背中からオゼルクの腕の中に崩れていた。オゼルクが床に膝をつき、イーツェンの体を抱きすくめる。
「オゼルクっ!」
 もがこうとした体を押さえ付けられ、ふいに激しいくちづけで唇をふさがれた。荒々しい舌がイーツェンの舌をとらえ、翻弄しながら擦り上げる。濡れてざらついた感触が口腔の粘膜を這った。唇をあわせたままオゼルクはただイーツェンを求めるように長いくちづけを強いる。熱をそのまま流し込まれるような酩酊にイーツェンは抗おうとしたが、唇が歪むほど強く押し付けられて舌を吸われると、甘い快感がぞくりと背すじを流れて体の芯がにぶく痺れた。
 身をよじって、どうにかのがれようとする。オゼルクが唇を離して息を継ぐ隙に、イーツェンは顔をそむけた。
「何を考えて‥‥っ」
 ローブの上から体の中心をオゼルクの手が這い、一瞬、呼吸がつまる。
「ここがどこだかわかってるんですか‥‥!」
「かまうまい。どうせ、お前の神々ではなかろう」
「そんなことじゃ──」
 喉に指が回された。ひやりとする気道への圧迫に、イーツェンの体は凍りつく。反射的な恐怖を隠すすべもなかった。
 オゼルクが彼を見下ろし、物憂げに唇のはじを歪めた。
「ルディスのやり方も、しつけには悪くないと言うことだな」
「私は犬ではない!」
 ふくれあがった怒りにまかせてオゼルクの手を振り払い、イーツェンは床に腰をついたままオゼルクから後ずさった。だが足首をつかまれ、ローブをたくしあげてむきだしの脚がさらされる。
「やだ! オゼルクっ‥‥! いやだ!」
 悲鳴をあげて、イーツェンはもう片方の足でオゼルクを蹴ろうとするが、脚の間を鎖がつないでいてはほとんど意味をなさなかった。両足をまとめてオゼルクの左肩にかつぎあげられる。太腿の裏から足の間に入り込んだオゼルクの手が鎖を握り、ぐいと引き寄せた。
 枷がひきつれて足に痛みがはしる。オゼルクの右手がローブをひらきはじめ、イーツェンは荒い息をつきながら彼をにらんだ。
「いやだ‥‥!」
「ほかのことが言えないなら黙っていろ」
 低い声だった。何故それほど冷ややかな目をしているのか、イーツェンにはオゼルクが理解できない。まるでイーツェンを憎んでいるかのように、彼の態度にも表情にも熱はかけらもはなかった。いつもの、愉しんでいる余裕すら、今のオゼルクからは感じ取れない。
 指が足のつけねをまさぐって、イーツェンの牡を握りこむ。ほとんど痛みに近い──だが熱い感覚に、イーツェンは眉根をよせてこらえた。オゼルクはずらした下帯から昂ぶりを引き出し、根元から先端までを長い指で擦り上げた。彼の指の中で、イーツェンのそれは従順な反応をはじめていく。
「んっ‥‥人が‥‥、くる‥‥」
「鐘が終わるまではこないさ。ここは空だ」
「鐘って──」
 足がおろされてぐいと抱え起こされ、イーツェンの体はうつ伏せに聖具台に返された。天鵞絨の貼られた長方形の低いテーブルのようなもので、幅が狭く、胸をのせると頭が向こう側に出る。イーツェンは台のはじをつかんで首をひねり、背後に膝をついたオゼルクを見ようとした。
 背中にのしかかられて重みでさらに台に押し付けられ、イーツェンは体の下敷きになった腕と、床についた膝の痛みに呻いた。鎖も外されていないのに、オゼルクはむやみに彼の足をひらこうとして膝の間に靴をねじこみ、外へ蹴り出す。
 このまま後ろから犯されるのではないかという恐怖が頭をよぎった。ルディスですらそれをイーツェンに強いたことはなかった。なじんでいない体に男を受け入れるのがどれほどの痛みか──
 イーツェンは身をすくませてかすれた声を出した。
「オゼルク、お願いだから、もっとゆっくり‥‥」
「もっとゆっくり犯してくれ、か?」
 首すじを唇が這い、乱した襟の内側に歯の痕をつける。小さな痛みに体をふるわせ、イーツェンは唇を噛んで床を見つめた。オゼルクの体の重さと熱が背中から染み渡ってくる。どれほどこの状況を嫌悪していても、オゼルクの指がふれれば体は待ちかねたように反応を示し、教え込まれた快感をむさぼりはじめる。
 前から回った指がイーツェンの牡にからみつき、指の腹で先端をなぞり、円を描くようにゆるやかに擦った。オゼルクの息が荒い。首すじにかかる呼気の熱さにイーツェンの頭が一瞬しびれ、彼は湿った呻き声をこぼした。
 固くなった昂ぶりからオゼルクの手が離れる。イーツェンは下肢にわだかまる熱からどうにか気をそらせようとしたが、オゼルクは彼の右手を取ると勃起に寄せた。抗おうとするイーツェンを寄せた体の重みで封じ、耳朶をたっぷりとなめる。
「イーツェン。お前は、私がお前に興味を持っていないと言った。ルディスに示すためだけにお前を抱いていると」
 かすれた囁き声が耳に直接ふれ、鼓膜をふるわせていく。服ごしに感じるオゼルクの体はひどく熱かった。肌を直接重ねる時よりも、はるかに。
「だって‥‥そうでしょう‥‥」
 噛んだ歯の間から言葉をきしませながら、イーツェンは強いられるまま、自分の指を昂ぶりにからめた。オゼルクが手を重ねたままゆっくりと動かす。ゆっくりすぎる動きだった。
「私はな、イーツェン。私に好意を寄せる相手と体を重ねることに、我慢がならない。媚びを売り、多くを求める‥‥そんな相手のなまあたたかい体を抱くと思うと、反吐が出そうになる」
「あなたは、おかしい──」
 じりじりと擦り上げられ、手を動かされた。イーツェンの指は快感を求めてのび、己の昂ぶりの表面を淫らな動きでなぞりはじめる。オゼルクが顔を寄せ、耳の後ろから顎までを舌でゆっくりとなぞった。
「そうか? だがそれが、私がお前を抱く理由だ。お前は私を憎んでいる。だから私は、安心してお前を抱ける。お前に何かを与える必要もなければ、お前から何かを得る必要もない。私はたぶん、そんなお前が好きでもあるのだよ、イーツェン」
「あなたは──」
 腰の奥に熱がゆらぎはじめ、自分とオゼルクの指でなぶる快感に、頭がくらりと揺れた。イーツェンは短く呻いた。
 オゼルクの手が離れたが、イーツェンはそのまま己を追いあげはじめる。もうどうでもよかった。オゼルクが身を起こし、ローブの後ろを腰の横によけ、むき出しにした尻を強く揉みしだく。肉体の奥にずんと重い快感が生じて、イーツェンは我知らずオゼルクの手に腰を押し付けていた。
 楔の先端から滴りがあふれ、指でそれをすくうようにして、全体を濡らしながら愛撫をつづけた。ぬるりと濡れた指がすべりを増し、さらに強い快感を生みだす。
「んっ‥‥」
 オゼルクの指が侵入をはじめていた。唾液で濡らした指がゆっくりと孔の外側をなぞり、そのまま先端をさしいれてくる。イーツェンは体の力を抜いてそれを受け入れながら、足をさらに開こうとしたが、鎖が太腿の間に張った。ちりりと心がもどかしさに焦げる。オゼルクの左手はイーツェンの尻をつかみ、指先をくいこませては強く揺すぶっては、半ば痛みのような快感を呼び起こした。
 奥までゆっくりと入り込むと、指はそのまま内側をなぶるように動いた。彼の指を、自分の体がはっきりと締め込んでいるのを感じながら、イーツェンは腰をゆする。
 遠く、どよもすような音があがった。イーツェンはびくりと体をすくませる。つづいて大伽藍の鐘の鳴り響く音が壁石をふるわせ、彼は顔をあげた。
 鐘──
 その瞬間、奥の性感をなぞられて喉から呻きが洩れる。強い動きではない。ねだるように腰が動いた。イーツェンの指は己の牡をさらに淫らな動きでしごきあげ、快感をのぼりつめていこうとする。
「ひ、ぁっ‥‥」
 ゆっくりと引かれ、次の指が入り込んできた。満たされる感覚が強くなる。鐘の音を聞きながら、裡襞が指の動きに攣れ、粘膜が引かれる快感に、イーツェンの肌がふるえた。
 次の瞬間、望む奥にふれられていた。喉から呻く声をこぼし、イーツェンは腰をつきだしてオゼルクの感覚に満たされようとする。容赦のない指先が生みだすあらがいようのない熱感。それをむさぼって体をくねらせながら、一気に己の手で自分自身を追い上げた。短い息をくりかえしながら、荒々しい快感のほとばしりに意識が一瞬はじけとぶ。
 小さな、だが切羽詰まった声をあげて、イーツェンの首ががくりと前に落ちた。荒い息をついてつっぷした体の後ろから、入り込んでいたものが抜けていく。下肢にはまだ快感がざわめき、イーツェンはどうにか体をおこしたが、力なく床に座り込んでオゼルクに乱れた体の正面を向けた。
 オゼルクは無表情のまま、イーツェンに手布を投げる。イーツェンはぼんやりと彼の顔を見上げたが、布を拾うと、自分の吐精がべったりとついた右手を機械的な仕種で拭いはじめた。
 鐘はまだ鳴っている。奇妙な鐘だった。大伽藍の上の鐘楼には組み鐘が吊り下げられ、刻の鐘以外にもいろいろな知らせのために鳴らされることがあったが、低い音の鐘を二つ組みあわせたこの音色を、イーツェンはこれまで聞いたことがなかった。
 いったい、何の──
「死者の溜息だ」
 オゼルクがふいにぼそりと呟き、立ち上がって、磨り硝子の窓に歩み寄った。外の見えない乳白色を透かして彼の目は遠くを見る。表情は殺していたが、その顔にはどこかイーツェンの背すじをひやりとさせるものがあった。
 イーツェンは熱が残る頭をふる。陰鬱な音色にふさわしい、不吉の名前だった。
「死者‥‥?」
「城内で死者を送る時に鳴らす鐘のことだ。いくつか種類があるが、これは、死罪になった者の魂を送りだす鐘だ。滅多に鳴るものではない。城の中で断罪がとりおこなわれることは珍しいからな」
「死罪?」
 うつろに、イーツェンはくりかえした。乱れたローブが裸の足にからむのを払いながら、膝で立ち上がる。オゼルクの表情と言葉に、ふいに心臓を氷でつかまれたような気がした。
 よろよろと身をおこす彼に、オゼルクは温度のない笑みを投げた。
「後ろ盾を失った者の末路だ。お前の運命の上で鳴らないといいな」
 歩み寄り、イーツェンの肩をつかむと強く唇をむさぼる。イーツェンはよろめきながら彼の腕をふりほどき、棚にぶつけた肩で体勢をどうにか支えると、歪んだ表情でオゼルクを見つめた。まるで救いを求めるような声をあげる。
「だって──でも‥‥あの人は、国へ帰ると言った!」
 オゼルクの青い眸は湖のように光をうつすだけで、そこには何の感情もなかった。かすかに、彼はその目をほそめる。
「そうだな。使者は首を持って帰るという話だ」
「‥‥‥」
 イーツェンの目に涙が盛り上がる。だが唇を噛み、彼は蒼白な顔でオゼルクを睨んだ。オゼルクの前で泣きたくはない。泣くまいとこらえながら、憤怒の言葉を叩きつけようとしたが、声が見つからず、彼はただオゼルクを凝視していた。
 最後の鐘がうつろな音を引きながら、石壁に吸いこまれるように消えていく。
 イーツェンの頬を涙のすじがつたった。くいしばった歯の間から、彼は低い言葉を吐き出す。
「あなたは最低だ、オゼルク。あなたがたは‥‥」
 オゼルクは興味もなさそうにかすかにうなずいたが、すぐにまた窓の外へ視線を投げた。奇妙に白っぽいその顔を数秒見つめ、イーツェンは身を翻す。乱れたローブを直しながらほとんど──鎖が許すかぎり──走るようにして聖具室を出たが、オゼルクは彼をとめなかった。
 側廊を抜け、陽が無数の糸のようにさしこむ円柱回廊の円蓋の下を抜け、涙をこぼしながら歩き続ける。足の間で鎖が張り、ときおり体勢をくずしたがどうにか転ぶことなく、奥扉を抜けて表堂へ走り込んだ。
 シゼは、壁にうがたれた小さな壁龕の前に跪き、頭を垂れ、右手を額にあてて祈っていた。
 歩み寄りながら、イーツェンは深く落ちたシゼの肩と、丸く曲がった背な、前に垂れた首の線を見つめる。床に落ちる彼の影すらも、ただ静謐に祈っているように見えた。
 足音が近づくと、シゼは音をたてずに立ち上がり、イーツェンへ向き直った。その表情は沈欝だったが、いつものように抑制されたものだった。
「シゼ‥‥」
 それ以上どうにも声が出ないまま、喉がつまって、イーツェンは小さな嗚咽を洩らした。立ち尽くしている彼を見つめていたが、シゼは手をのばしてイーツェンの頬にふれる。親指で頬の涙をぬぐい、シゼは無言のまま、小さくうなずいた。