翌朝、目を覚ますと、イーツェンはシゼと同じ毛布をかぶって寝ていて、どうしてか横の毛皮の上にトゥルグスも転がっていた。
「‥‥‥」
 まだ重い目で、寝息を立てているトゥルグスの顔をぼんやり見る。兄は半開きの口ですやすやと眠っていて、平和そうだった。
 室内はうっすらと明るい。目だけ上げて、イーツェンは明かり取りの窓の板戸が外されているのを確かめた。夜は板戸を立てて寝るから、誰かが開けたのか──と思ったところで、見慣れぬ色が目のすみに入って、そちらへ顔を向けた。
 部屋のはじ、小さな足台があるところに灰色の影がうずくまっている。灰色のマントを体に巻き付け、朝日の中で奇妙なほど小さな、それはあのカジャンの青年だった。イーツェンの動きに気付いただろうが、従順に目を伏せて動かない。彼が窓を開けたのだろう。
 イーツェンはあくびをして、起き上がり、首輪の冷たさに顔をしかめて毛皮をしっかりと首に巻き直すと、足先で兄の膝をつついた。
「トゥルグス」
「ん‥‥」
 呻いてトゥルグスが腫れぼったい目を開ける。すぐにこめかみを押さえて目をとじた、その動作で大体呑み込めた。
「どれだけ飲んだんです」
「‥‥さあなあ‥‥シゼに聞いてみろ」
 振り向くと、シゼは目を開けていたが起き上がろうとはせず、むっつりと天井を見ていた。自分が寝てしまった後一体何がどうなったのだ、と溜息をついて、イーツェンは着替えに手をのばした。
「二人で何してるんですか」
 シャツをかぶる。昨夜、シゼがシャツを脱がして寝かせてくれたのだろう。ズボンは履いたままだったので、上から腰帯を巻き、厚地の胴着を着込んで、ブーツを探した。
「茶とカスクを持ってきてくれ」
 兄がうなるように言う。灰色の影がゆらりと立って、扉へと急いだ。
 その扉が音もなくとじられると、イーツェンはのそのそと起き上がる兄へ顔を向けた。
「兄上、失礼ですが、何故ユクィルスの人がカジャンに?」
「帰りたくないんだそうだ」
 関係ない、と払われるかと思ったが、兄はあっさりそう答えた。
「どこに?」
「ユクィルスにだ。リグにいたいと言われたが、そうですかと簡単に言うわけにもいかん事情があってな。縁あって、カジャンを努めさせている」
「はあ‥‥」
「人が死んでるからな」
 ぼそっと言って、トゥルグスは立ち上がると、しんどそうに両肩を回した。イーツェンは起きたシゼと一緒になって寝床の毛皮を丸める。その頃にはカジャンの青年が、茶と、甘く焼き固めた小さなパンを持って戻ってきていて、三人はありがたく熱い茶にありついた。
 湯気を口元で吹きながら、イーツェンはトゥルグスとシゼの二人にちらちらと視線をとばして様子をうかがう。二人は昨夜のように互いに意識した視線を向けることもなく、くつろいで、ごく自然にふるまっているように見えた。昨夜がどういうなりゆきだったにせよ、そう険悪なやりとりはなかったようだ。だがこの二人が朝まで酒が残るほど飲みながら、何を話したのかはイーツェンの想像の外だった。いや、ほとんど会話などなかったのかもしれないが──その方が想像しやすい。
 腹が温まると、トゥルグスは身支度をすると言い置いて自室に引き上げていき、カジャンの青年も影のように付き従っていった。イーツェンは水盤の水を使って顔を洗い、口をすすぐ。梳いた髪を後ろでまとめ、靴を履いて靴ひもをしっかりと結んだ。
「何か言われたか?」
 シゼにそうたずねてみたが、シゼは汚れ物を入れた籠をかかえながら首を振っただけだった。イーツェンは一瞬置いて、またたずねてみる。
「何か、言ったか?」
 その質問には足がとまった。イーツェンへ顔を向けたシゼは、落ちついた調子で答えた。
「少しだけ」
 少しって、何をどれくらいだ。と思いつつ、イーツェンは部屋から出ていくシゼの背に声をかけた。
「ありがとう」
 一瞬、歩みをゆるめながら、シゼは肩ごしにチラッとイーツェンを見て、うなずいた。扉の向こうへ出ていく。
 もしシゼが兄に何か言ったとすれば、それはイーツェンのためだ。そう、イーツェンは思って、複雑な、だがどこか甘い感情を味わった。昨夜のシゼは、兄に対して怒っていたようだった。リグの人間がイーツェンを守るべきだったのだと。
 それができなかった事情がある、と思う一方で、シゼがそうやってイーツェンのために怒りを見せてくれたのが嬉しかった。
 階下に降りると、後ろから階段を降りてきたトゥルグスにぽんと背中を叩かれる。反射的に息をつめたが、痛みは本当にうっすらとしたもので、イーツェンはほっと体の緊張をといた。背中の傷は、寒さが増すにつれて時おりに痛みもするが、その苦痛は表面的なもので、以前のように肉の内側から深くえぐられるような痛みは感じなくなっていた。
 兄はイーツェンのたじろぎに気付いたのかどうなのか、今度はもっとやわらかな仕種で彼の肩を抱いた。
「行くぞ」
 水筒を手にして腰に剣を吊るしているトゥルグスの姿に、イーツェンはまたたいた。行くところがあるとは言われたが、意外な遠出になるようだ。


 驚いたことに、兄はイーツェンをつれて二人きりでヒノの町の街門から出ると、やがて木々の間を縫う獣道のような、細い小道に踏み込んだ。
「危険じゃないんですか?」
 このあたりの森には隠れ住む民がいて、木々を切り開いてヒノの町を作る時にも彼らの許しを得たと聞いている。無闇に森の奥へ踏み込んで彼らの機嫌を損なうなとも。
 だが兄は、マントに包まれた肩を軽くそびやかした。
「話はついている」
「どこに行くんです」
「お前を、会わせたい者がいる」
 前を向いて先を歩む兄の言葉はどこか固く、イーツェンは眉をひそめた。二人だけで、と言われた時にも何か奇妙な感じがしたのだが、果たして兄がどういうつもりでどこに行こうとしているのか、何故詳しい説明をしようとしないのかがわからない。
 問おうとした時、兄の方が先に口をひらいた。
「シゼは、アンセラ侵攻の時、ユクィルスの兵の中にいたそうだな」
「それが?」
 いけないと思いつつ、つい攻撃的な口調になっていた。だからどうした、と言い返したい。兄たちを始めとするリグの者たちが、値踏みするように──いや時として罪人を見るかのような目でシゼを見るのが我慢ならなかった。たとえ彼らの目には罪人だとしても、イーツェンにとってはかけがえのない存在だし、そもそもシゼの罪ではないと思う。その時、その場所にいなければならなかった、それはめぐり合わせであって、選択の余地はなかったのだ。そう思ってしまうのは感情的で、わがままだろうか。
「知ってたか」
「ええ」
 朝露に湿った、枯れかけの下生えを踏み、あるかなしかの道をたどる。薄茶色のしなびた草を踏む足の、ズボンの裾がしっとりと重くなり始めていた。
「アンセラで人を斬ったのも聞いたか?」
「ええ。夕べ、そんな話をしてたんですか?」
 それなら先に寝るべきではなかった、とうんざりしているイーツェンの気持ちを読みとったのか、前を歩くトゥルグスの声は少し後ろめたそうだった。
「聞かないわけにはいかない。どういう人間なのか知る必要があるんだ、イーツェン。俺には責任がある」
 それには返す言葉がない。イーツェンは黙り込み、周囲に立ちこめる森の空気を吸いこんだ。道というほどの道には見えないが、どう目印があるのか、兄は脇目も振らずに歩き続けている。二日酔いは抜けてきたのか、やや大股だ。少しの間、二人は無言で歩き続け、前を行く兄の足取りについていける自分にイーツェンはほっとした。この旅を通して、体は思った以上に大きく回復してきている。背中の痛みは時おり引きつれるし、歩くうちに体に疲労が溜まり始めるたのも感じるが、こらえきれないほどのものではなかった。
 遠くで鳥の声がする。
「城での暮らしはどうだった、イーツェン」
 不意に兄がそう聞いた。
 イーツェンは淡々と答える。
「まあ、人質ですから、普通に扱われましたよ」
「‥‥リグのことが伝わってからは、どうなった」
「牢に入れられました」
 感情を出さないように、事実だけを伝える。せり上がってくる記憶を苦い唾とともに飲み下し、自分自身を記憶と切り離そうとした。あそこで何があったかなど、誰かに言えたことではないし、言いたいことでもない。忘れられるとは思えないが、少なくともあれはもう過去のことだ。遠い場所で起こった、遠い出来事だ。
 小枝が靴の下で音をたてて折れる。何も言わない兄の背へ、イーツェンはつけ足した。
「シゼが助けに戻ってきてくれたんです。彼がいなければ、私は死んでいた」
「戻った? どこかに行っていたのか」
「巻きこみたくないから、言い含めて城から一度出しました。シゼは‥‥私を守ろうとして、城内での立場を悪くしていたので」
 ぴたりと足をとめて、トゥルグスが勢いよく振り向いた。
「お前を守らねばならないようなことがあったのか?」
「客分扱いとは言っても、所詮は人質なので、立場が弱くて」
 イーツェンはやんわりと誤魔化した。城での日々がどれほどつらかったか、苦しかったのか、言ってしまいたい衝動もある。すべてをぶちまけて、反応を引き出したいという暗い気持ちも。だが、城の中で何があったのかと問うトゥルグスの目に浮かんだはっきりとした痛みを見ると、そこにさらなる痛みを足したくはなかった。自分とシゼがあの痛みをくぐり抜けなければならなかっただけで、もう、充分だろう。
 トゥルグスは目を細めた。
「お前もシゼも──何か隠しているだろう。ユクィルスの城で何があった」
 視線をそらしては駄目だ。イーツェンは兄の視線を受けとめて、小さな溜息をつく。
「そりゃありますよ。ひとつひとつ言っても、もう仕方のないようなことばかりです。嫌がらせもされたし陰口も叩かれる。リグだってそうだったでしょう? ユクィルスの人間の中にはあまり行儀のよくないのも混ざってたと思いますが?」
 どれだけ自然に切り返せたか、自分にはわからない。イーツェンは肩にも声にも力が入らないように努めた。言っていることは嘘ではないのだ。隠していることではなく、話していることの中にある真実に心を向ける。
 トゥルグスはしげしげとイーツェンの顔を眺めていたが、その目の中にふっと読めない表情が動き、彼は目をそらした。白い息をつくと、手をのばして、イーツェンの髪をぐしゃっとなでた。
「お前は変わったな」
「‥‥少し背が高くなったとか?」
「そうではなくて。‥‥いや、そうだが──昔は、控えめで誰の言うことにもおとなしく耳を傾けていただろう」
 今は口がすぎるということか、と少し後ろめたくなったイーツェンの表情を見て、兄は笑った。楽しげな、ゆったりとした笑みだった。
「そうして、お前は言いたいことをいつも心に呑み込んでいるように見えた。言うことを恐れているようだった」
 イーツェンはまばたきした。頬骨の上が熱くなる。兄の言うことには心当たりがあったが、そこまで読まれているとは思っていなかった。イーツェンは出来る限り控えめに、人の邪魔にならぬように、特に父や兄たちの邪魔にならないように気を払ってきた。そうするのが当然だと思っていた。
「‥‥すみません」
「あやまるのはこっちだ。兄弟なのに、俺はお前を放っておいた。もっと──話すべきだったと、お前がリグを去ってから、何度も思った」
 低い声で吐き出すように言って、トゥルグスはまた歩き出す。その足取りはさっきよりも遅く、一歩ずつを踏みしめているようだ。
 どう答えたらいいかわからず、イーツェンは黙って兄に続いた。朝の空気は冷たく、肌にしんと凍みてくる冬の冷たさに息も白く曇る。
「お前は、だがユクィルスに行って──変わったな。引かなくなったし、何と言うか、落ちついている。大人になった」
 思いもよらぬ言葉に、イーツェンはあやうく腐った倒木につんのめりそうになった。落ちついているとか、大人になったとか、自分の中では今の己にまったくつながらない。いつもうろたえて、シゼや周囲の人間にたよったり、迷ったりしてばかりのような気がしている。
「はあ‥‥」
「本当だぞ」
 信じていないだろう、という疑いをありありと出して言われたので、イーツェンはつい笑ってしまった。自分が思っているより、この兄にはしっかりと見抜かれてしまっているようだ。
 それにしても、誰かに会わせたいと言われてつれてこられたものの、すっかり周囲は森の中になっていて、一体こんなところで誰に会おうというのかわからない。供もつれずに、と思ったところであのカジャンの青年のことを思い出し、イーツェンはためらいがちに口を開いた。
「あの‥‥出すぎていたらすみません。あのカジャンの人ですが、何故、兄上のカジャンに?」
「ああ」
 トゥルグスは平坦にうなずいて、目の前の枝をそっと上に曲げてイーツェンをくぐらせた。目をこらせば見える程度の細い道はあるが、消えかけた小道には誰かが普段から使っている様子はなかった。
「あの男はな、ユクィルスの文官で、兵ではなかった。リグに派遣されてきて物資の手配などの差配をしていた男だ。カル=ザラの街道を崩してユクィルスへの帰途を断った後‥‥」
 兄は言葉を選んでいる様子だった。
「ユクィルス側の者が、全員おとなしく我らに従ったわけではない。剣を手に最後まで戦おうとした者たちもいた。その時に、彼らを説得して投降させたのがあの男だ」
 それなら、彼がユクィルスに帰りづらいのもわかる。やむを得なかったとは言え、国に帰れば背信行為として告発されることもあり得る。
 だが──やはり、彼がカジャンとして兄に仕える理由にはなっていない。イーツェンは兄の足跡を踏むように追いながら、続く言葉に耳をすませた。
「奴らはリグの娘を一人、人質に取っていて、投降と共にあの子を解放する手筈だった。だが、兵の一人が最後になって彼女を殺し、己も自決した」
「ああ‥‥」
 自分が胸を貫かれたような気持ちで、イーツェンは嘆息した。やはり、リグでも誰かの命が失われたのだ。
 肩ごしに、トゥルグスがちらりとうなずいた。この話をするのは彼にとっても辛いのだろう。唇がこわばって固い。
「あの男は、そのことで責を感じている。償いをして、リグで働きたいと申し出があった。本来なら死んだ娘の親がカジャンとなるべきかとも思ったが、親が無理だと拒んだので、俺が引き受けた」
「‥‥‥」
 咄嗟に答えのしようがなく、イーツェンはうなずいたが、動作だけだったので兄が気付いたかどうかは疑わしい。
 カジャンを他人が引き受ける、というのは、過去の例がないことではないが、イーツェン自身は一人も知らない。カジャンにすらほとんどなじみがないのだ。他人のカジャンを引き受けるというのはとんでもなく重い行為であった。罪と罪人とを、その手に同時に引き受けるのだ。あらゆる意味で、たやすいことではない。
 そして、いつの日か、カジャンは許されなくてはならない。カジャンの存在する意味は、罰ではなく許しにあるからだ。いつ許すのか、許しを与え、その結果を受けとめるのもトゥルグスの役目ということになる。
 それほどの重荷を、兄が何故選んだのか、聞きたいと思いながらイーツェンは口をためらった。だが、兄の方からぽつぽつと、靴の下で砕ける落ち葉のように乾いた声で語った。
「ユクィルスがいた二年間、我らは街道を崩すための技を解き放とうとしてきた。ひそかに動くよう心を配ってはきたが‥‥その間、あの男は我々の動きに気付いていたと思う。はっきりとではないだろうが、何かしているということは知っていた筈だ。だが、何も言わずに見逃した。リグの娘に手を付けるような真似も、目の届くところではさせなかった」
「‥‥‥」
「味方だったわけではない。だが、敵であろうとはしていなかった。俺はそれだけでも、あの男に恩がある。ああした時、自分の側ではない相手に心をかけるということは、なかなかできるものではないと思う」
 イーツェンの知らない二年の年月が、兄の言葉の中に深く根を張っているのを感じる。イーツェンの中にも、リグを離れた二年間が根を張っているように、兄の中にもその年月が絡みついているのだ。
 行く手をふさぐように重なり合っていた葉を落とした木々が、ふいに裂けるように左右にひらけ、イーツェンと兄は木々の奥に隠された小さな空き地へと出ていた。うっすらとした光が空から漂い落ちるようにあたりを照らし、突然明るくなった気がして、イーツェンは目をしばたたく。ずんぐりとした丸石がいくつも置かれた地面を見て、彼ははっと兄を仰いだ。
「誰の墓です」
「ヒノを足がかりに、ユクィルスは水の道を開こうとしていた。川に治水を行ってな。堰を作って流れを変えようとしていた時、石堰が破れて、土工をしていたリグの者が七名、流された」
 兄は、まばらに枯れて土が剥き出しになった草地を眺め、枯れた草の間にある墓を見下ろして、ぽつりと答えた。冬の陽にその顔は白い。
「ユクィルスの者も一人死んだ。一緒に葬ってある」
「‥‥皆、山につれて戻らなかったんですか」
「その時は許されなくてな」
 トゥルグスが固い声で言った。
「だからせめてと、この地に埋めた。ここにはな、昔、小さな神殿があって、流れの神官たちが冬をこしたと言われている場所だ」
 指で示されて見ると、空き地の向こう、枝から垂れるつるの影の向こうに、崩れかけた──というより崩れた後のような石の建物がひっそりとうずくまっていて、イーツェンは瞠目した。苔や草に半ば覆われていて、すぐには目に付かなかったのだ。
「昔は、リグからも二人、常に神殿のお世話係を出していたと言う。やがて人はここのことを忘れたが‥‥神々は人よりも時が長い。まだ我らのことを忘れずにいてくれるだろう。彼らを導いて山へと帰してくれるだろう」
 イーツェンは曇る息を散らしながら、ゆっくりと墓石へ歩み寄った。名を示すものははっきりとはないが、一部の石にはまだ新しいノミの跡があって、誰かが弔いのために形を刻もうとしているようだった。ヒノの者が足を運んでいるのだろうか。
 物言わぬ石が冬の地面にうずくまっているのを見つめてから、彼は膝を曲げて身を屈めた。
「お前が戻ってきたことを、知らせてやりたくてな」
 そう、兄がひっそりとした声で言う。
「皆、喜んだだろう。お前が生きて無事に戻った、ということは、我らが戦いをくぐりぬけた証でもある」
 石のそばから小石混じりの土をすぐい上げると、イーツェンの指の間で、冷たい土がさらさらとこぼれ落ちた。そうやって色々なものがこぼれ落ちていったのだ。人の人生が、そして時には命が。
 手に残ったわずかな土を握りしめた。ひやりとした温度が、すぐに肌の熱になじむ。
 イーツェンが問うと、兄はひとつひとつ粗末な墓標を指しては死者の名と家を教えた。しんと冷えてくる冬の空気に、肩掛けの首回りをかきあわせながら、イーツェンはすべてを聞いた。
 リグの七名の話を終えると、トゥルグスは数歩離れたところにある、同じような丸石の墓標へ歩み寄った。
「これは、死んだユクィルスの男だ。治水を行う者のひとりで、最後まで堤に残っていて流された。リグの者たちが五日かけて、彼が流れた先を探し出したという」
 そしてこの地に埋められたのだ。
 イーツェンはかつてユクィルスの城にいた時、ふと、自分がリグで死ぬことはないのだと──故郷から遠く離れたユクィルスで一人葬られるのだと──気付いて、心が霜に覆われるような気がしたものだ。レンギが葬られた時にも、帰れずに異国で骨となったその運命を重く受けとめた。
 この男はどうだったのだろう、とイーツェンは思う。誰か、残してきた者はいるのだろうか。伝えられずに終わった言葉はあるのだろうか。
 兄が静かな声で続けた。
「俺はな、イーツェン。この二年を、ただリグの傷とはしたくない」
 目を上げると、兄は肩をすぼめて、木々の間へ視線を投げていた。
「カル=ザラの道は崩れ、我らの暮らしも大きく変わる。変わらざるを得んだろう。だがそれを負けたゆえ、奪われたゆえとはしたくない。かつて山崩れの時も嵐の時も、皆、力を合わせて生きのびてきた、それがリグの民だ。時に新しい地を開拓し、時にとどまって血のにじむような努力で暮らしを取り戻した。祖たちのそうした努力は我々の宝だ。‥‥いつか、今回の我らの日々も、未来のリグの民の宝としたいと思う」
 どこか遠くで山鳥が鳴いた。
 兄トゥルグスは、イーツェンがリグを離れている間に古帳の長となった。古帳とは古い記録を扱う者たちのことで、文書だけでなく口伝も扱う。その役目は昔の記録の保管だけではない。過去の膨大な知識を持つ者、「智慧ある者」として、時に様々な助言や進言を行う重い存在であった。リグにおいて、古帳は王の片腕と言ってもいい。
 そうした身分ゆえに、兄はリグの今を、リグが歩んできた歴史のひとつとして、大きな絵の中でとらえているのかもしれない。それが古帳であるということか、とイーツェンは感心もし、彼の言葉に大きく揺さぶられるものもあった。
「あのユクィルスの男をカジャンとしたのも、ひとつにはそれがある。あの男を追い出して、なかったことにする方がたやすいかもしれん。だが、それ以外の道があるかもしれない。そうだろう?」
 そう言って、兄はイーツェンをまっすぐ見た。
「俺はな、昨夜、シゼに言った。リグに残るのはたやすい道ではないだろうと」
「トゥルグス──」
「いいから聞け。気持ちがどうだろうと、あれはユクィルスの兵だった男だ。アンセラを攻め、人を斬った男だ。山の民の血に濡れた手でリグで生きていくのは、決して簡単なことではない」
 それには返す言葉がなく、イーツェンはずしりと重い息を胸に呑み込んだ。山の民は辛抱強い気質だが、山の民同士の仲間意識が強く、受けた恩と同じぐらい恨みを心に残すところもある。見るからに異国の者であり、兵士であるシゼを、そう優しく受け入れてはくれないだろう。
 だが、それでも。
 強情に口を結んだイーツェンを見て、トゥルグスは頬をほのかな笑みにゆるめた。
「しかし、お前は戦い続けるだろうとも言っておいた」
「え?」
「お前は、戦うだろう。人がどう思おうが、シゼがどう思おうが」
 まばたきしたイーツェンへ、トゥルグスはますます楽しげな笑みを向ける。そうして見るとふっと昔の面影が濃くなって、この人もこの年月で随分変わったのだな、とイーツェンは実感した。人から見れば、イーツェン自身もきっと変わったのだろう。
 イーツェンは重心を右足にかけて、少しだけ首を傾けた。
「トゥルグス。アンセラを攻めたのも、その時人を斬ることになったのも、シゼの意志ではない。してしまったことは取り戻せないし、償いはしかるべきかもしれないが、あやまちをやり直す道は誰にでもあっていい筈だ」
「ほらな」
 小さく、トゥルグスは笑った。
「お前は戦うだろう、あの男のために」
「‥‥悪いですか」
「いいや」
「シゼは──それを聞いて、何か言ってましたか?」
「知っている、と言ってたよ」
 目を細める、その兄のまなざしはやさしい気がする。
 彼の答えに、イーツェンも少し笑った。シゼならそう言うだろう。イーツェンのあきらめの悪さは誰よりよく知っている筈だ。
「ほかには、何か?」
 兄になら、イーツェンにも言わない本音を洩らしたかもしれないと思ったのだが、トゥルグスは軽く肩をそびやかした。
「いや」
 そのまま二人は、しばらくたたずんで静寂のうちに墓を見ていた。
 この地で命を落とした者たちへ、イーツェンは心の内でひとつひとつ礼を言う。いつの日か、彼らの失われた命も、この地で実を結ぶかもしれない。河の石堰について、工事は今はとまっているが、トゥルグスたちは守り番を置いて細かな手入れを続けさせていると言っていた。兄もまた、この地の先にある可能性を探しているのだ。
 傷にはしたくない、そう言った兄の言葉をイーツェンはもう一度噛みしめる。イーツェンの背に鞭傷が残ることを知る兄が──目にはしていないとは言え──傷という言葉をただ何も考えずに言ったとは思えなかった。それが兄の覚悟だと、彼なりの言葉で告げたのだろう。
 ──傷にはすまい。
 息がふいに、氷のように白く凝った。空気が一気に冷えてきて、これまでより明らかに白い。トゥルグスが空を見た。
「山は雪だな」
「‥‥ええ」
 イーツェンもつい空を見る。リグの集落があるだろう嶺々は、木々や手前の尾根にさえぎられて見えなかったが、雪の匂いのする風は故郷から吹いてきている気がした。