ヒノの集落を翌日に発つと決まり、イーツェンはひどく落ちつかずに浮わついた気持ちを抱えていた。ヒノに残していく荷とリグへ運ぶ荷を振り分け、荷を載せる山牛のハジュカの装備を点検し、春までの細かな申し合わせなど、大事なことをひとつずつ周囲が片付けていく中、イーツェンは兄の──そしてシゼの──強い勧めの元、体力をつけることにほぼ専念していた。よく休み、体をほぐして、移動にそなえる。
もう山は冬だ。冬の入り口ではあるが、すでに風は切るように冷たく、厳しい冬ごもりの予感をはらんでいる。冬が始まれば、家から出られない者たちは毛織物や木を使った細工物など、様々な手仕事に精を出すのだ。皆で作る様々な毛織物もリグの大事な交易品で、密に織られた織物は薄いものでも重く、風を通さない。
「染めに一工夫して、目を引くものにすればもっと高値でさばけると思いますよ」
イーツェンは兄との昼食の最中、何気なくそう言った。リグの毛織物がいかに優れているか、離れてみて身にしみた彼の無邪気な感想だったが、それを聞いたトゥルグスは真剣な顔で考えこんだ。
「染めか。たしかにな。若い者に学ばせたいな。どのような色がいいと思う?」
「赤でも青でも、深い、あるいは淡い、見ればリグだとわかる色がよいかと」
キルロイで見た赤い色を思い出しながら、イーツェンは答える。あの深く独特な緋は人の目と心を引く。
「淡い、というのは?」
「淡く色を入れるためには、元の毛の色をしっかり抜かねばならぬので、淡く美しい色は珍品となります。そう言えば、時おりハジュカに白い仔が生まれますよね?」
トゥルグスのうなずきを待って、イーツェンは考えこみながら続けた。
「ああした白いハジュカを交配させていけば、色の薄い毛がとれるようになっていくのでは?」
「白いものは体が弱いぞ」
「特別手がかかるのはわかっています」
豆や穀物をつぶして獣脂で固めたものを食べながら、イーツェンはうなずいた。おいしいものではないが、冬を越す大事な体力源だ。特にイーツェンは、いかに毛皮で覆っても首の輪が冷たく、体温を奪われやすい。兄やカーザに言われてから、イーツェンはなるべくよく獣脂を摂るようにしていた。
トゥルグスはしばらく黙って食べながら、イーツェンの言ったことを色々と検討しているようだった。彼は、困難の多かったイーツェンの旅のことはあまり聞きたがらない、というか聞くのがつらいようだ。その一方でイーツェンが遠方で見聞きした物事には強い興味を示すので、多少言葉を選びながらも、イーツェンは兄の役に立てるのが嬉しい。
それに、辛かったことなど、イーツェンも語りたくはないのだった。なかったことにできるものでもないが、人に話したり、細かに思い出したいものではない。いつか、もっと静かな気持ちで振り返れるようになる時が来るのかもしれないが、今はまだ無理だ。そんな時が来るのかどうかもイーツェンには自信がなかった。
旅立ちの前の日ということで、兄や皆とともに、山の五柱神に祈りを捧げる。シゼもイーツェンの隣で黙って祈っていた。
まず、一行は山腹にある、ユクィルスがかまえた駐屯地を目指すことになっていた。冬の間はその駐屯地もたたまれるが、最後の旅荷の到着を待っているという。そこからリグの門まではすぐだ。山道も、ユクィルスがリグの人々を使って切り開いてきたおかげで以前よりは楽になっているらしく、その点ではユクィルスの優れた技術の恩恵をリグも受けたと言っていいのかもしれない。恩恵、と言い切るにはためらいがあるが。
カーザたちが買い付けてきた荷のいくらかは船に積まれ、上流の荷積み場へ向かう。急流はハジュカで陸から船を引きながら上がるそうで、なかなか険しい道のりになるようだった。船の出立は、イーツェンたちが沼地で別れた荷馬車の到着を待ってからになるので、あと数日遅れる。
ヒノの町全体がざわついていて、寒さに似合わぬ活気でイーツェンの気持ちも高まっていた。仰げば、己の育った山がそびえる圧倒的な姿が見える。今からそこへ帰るのだ、という実感が見るたびに深まり、やっとイーツェンの中に根を下ろしていく。自分でも直視しないようにしていた心の内の空虚が、押しこめていたあきらめが、ひとつずつほぐれて、溶けていくようだった。
カーザが忙しく立ち働き、人々に指示を出してハジュカを数え、蹄を調べて長旅に耐えるほど健康かどうかよくたしかめている。シゼも人々の中に混ざってあちこち動き回っている様子で、一度、イーツェンと目が合うと軽くうなずき、また荷積みの仕事に戻っていった。手伝いたかったが、力仕事の役に立てないのはよくわかっていたので、イーツェンは自分とシゼの荷を作った。これがほぼ最後の荷造りになるのだろうと思うと、感慨から、手もとまりがちになる。
シゼの剣も、ひとまずハジュカか荷車に載せた方がいいだろう。ヒノに入ってからシゼの腰に剣がないことを不思議に思っていたが、出立の日取りが決まると、カーザが剣を返しにきて、初めてイーツェンは、シゼが彼に剣を預けていたのだと知ったのだった。よもや手元から離しているとは思わなかった。
「自分が剣を持っているといらぬ警戒を呼ぶだろうと言ってな、預かっててくれと言われた」
返しに来たカーザは、イーツェンにそう説明した。イーツェンは剣を受け取りながら、シゼの気持ちをありがたく思う一方で、気を回させてしまったことを思うと心中は複雑だった。剣を手放すことがシゼにとってどれほど重いことなのか、イーツェンはよく知っている。無腰になるというだけではない、この剣はシゼの分身のようなものだ。
カーザが返してくれたこの剣は、ほかの荷とは別にしてハジュカか荷車に載せよう。身に付ければ山道の旅の邪魔になるだろうし、シゼはあからさまに武装するのを好むまい。だが道中で盗賊が出るかもしれないことを考えれば、深くしまいこんでおくのも避けたい。
荷をまとめ終わると、外に出たイーツェンは青くしんと晴れた空を見上げる。風が雪の匂いを運んできていた。
出立の準備はほとんど済んだのか、辺りに満ちていたせわしなさは消えていた。後は、おのおの明日にそなえて食事を取り、早く休むだけだ。明朝は朝日とともに旅立つことになる。
まだ陽はあるが影は長く、見上げた山の峰は夕闇に沈みつつあるように見えた。空気が冷え冷えとしていて、イーツェンは分厚い毛裏のついたマントに身を包むと、ヒナを囲む木柵から出て水車小屋のある川辺へと急ぎ足で向かった。おそらくその辺りで、シゼがリョクサに剣の手ほどきをしている筈だ。リョクサは相変わらず実に無口で表情にもとぼしいが、無口同士で気が合うのか、仕事の合間を縫ってシゼと二人で木剣を振っている。トゥルグスの供も数回加わって、剣と山刀を交わす時の型について話し合っていた。
冬の夕暮れは、あっというまに暗くなる。その前にと、足を速めて川の方へ向かったイーツェンは、何やら川べりに立って話をしている二人の姿を見て立ちどまった。もっとも話をしているのは主にリョクサのようで、シゼは数度うなずきはしたが、ほとんど何も言っていないように見える。
リョクサが一言、二言以上話すところを見るのは珍しい。イーツェンは淋しい木立の間に足をとめ、邪魔しない方がいいかとためらったが、その時、シゼがイーツェンの方へ向けて木剣を持っていない右手を上げた。
リョクサがイーツェンに目をとめ、ひょこっと頭を下げると、踵を返して立ち去っていく。数歩離れたところを去っていくリョクサを見送り、イーツェンは迷ったが、石まじりの土を踏んでシゼへ歩みよった。
「もう、暗くなるから」
当然のことを言ったイーツェンに、シゼはひとつうなずき、イーツェンの格好をじろりと見て眉をひそめた。
「川辺は冷える」
「お前に言いたいよ、それは」
むしろ温かい格好をしているイーツェンが言い返すとシゼは口元を軽く上げ、自分のマントの前を合わせて歩き出した。イーツェンも肩を並べる。
数秒ためらったが、心に溜めるよりよかろうと、イーツェンは思いきってたずねた。どうせシゼは、答えない方がいいと判断すれば答えない。
「リョクサと、何の話を?」
「異国のことに興味があるらしい」
「へえ」
イーツェンはまばたきした。ゼルニエレードの商館にいたのだから、リョクサは異国にはむしろ慣れている方だろう。そう思ったのだが、そこにシゼがぼそっとつけ足した。
「ユクィルスがどんな国なのかも知りたがっている」
「‥‥‥」
思わぬ言葉に足をとめて、やはり立ちどまったシゼの顔を見つめ、イーツェンは口を開け、そのままとじた。チカチカと頭の中を言葉にならない思考のかけらがまたたき、流れる──そして、ふっと形を結んだ。
「‥‥そうか。それは、もっともかもな」
故郷を踏みにじった国だ、知りたいのは当然だろう。侵略されるまで、リグの者にとってユクィルスはただ遠い噂のような、ほとんどなじみのない国だった。そう呟いたイーツェンの顔を眺めていたシゼが、小さくうなずいた。
「敵を知ってリグを守りたい、と言っていた。あなたのように」
「私の?」
驚いて、半ばぎょっとして、イーツェンはまばたきした。彼を見ているシゼの目が不意に優しくなって、彼は何かを言いかけ──その視線が宙へ浮いた。眉を寄せる。
「雪?」
イーツェンも顔を上げ、随分と青く沈んできた夕刻の空に、白いものがちらりと舞いながら落ちてくるのを見た。
「風花だよ」
イーツェンはそう言って、空へと目を細めた。まだ雪の匂いは少ししかしない。物問いたげなシゼへと、説明を続ける。
「遠くの雪が風で飛ばされてくるものだ。ここで降っている雪ではないんだよ」
白く、名の通り小さな花にも見える雪片が、かすかな光のように落ちてくる。黒い地にふれるかふれないかのうちに、吸いこまれるように消えてしまう。シゼは天から地まで、じっと見つめながらその軌跡を追っていたが、右手をさしのべ、落ちてくる雪片を手につかんだ。握る。開くと、皮膚の厚い手のひらにはもう何ものっていなかった。
シゼは、その手のひらをじっと見下ろす。身じろぎもしない彼の姿に、イーツェンはつい息をつめた。
「‥‥昔」
シゼの声は低く、イーツェンは耳を緊張させる。シゼはゆっくりと続けた。
「剣を教えてくれた男に、言われたものだ。先のことに望みをかけてはいけないと。そんな望みは‥‥雪のようなものだと。つかんだ瞬間に、淡く消えてしまうものだからと」
もうひとひら、手のひらにとまった白いかけらを見つめて、シゼはまた手を握った。イーツェンはその拳を、指を見つめる。イーツェンを幾度となく守り、救ってきた手だ。
拳を開くと、シゼの手の中の雪はもう溶けて、消えていた。
ふっと、小さな溜息がシゼの口元に白く曇る。イーツェンは何もない手のひらと、シゼの顔を交互に見つめながら、遠く風にのってきた雪片のひとつがシゼの睫毛にとまったのに気付いた。
シゼはまばたきもしていなかった。いつのまにか、その声は囁くようだった。
「だが──それでも、手をのばしてもいいのかもしれない。たとえ消えてしまうとしても」
シゼの唇がかすかな笑みを刻んだ。どこか苦く、同時に温かい微笑だった。
「あなたといると、そう思える」
「シゼ‥‥」
シゼが、雪を握っていた右手をイーツェンへのばす。イーツェンはシゼの顔を見つめながら、その手をつかんだ。冷えた手は、だがしっかりとイーツェンを手を握り返して、強さを伝えてくる。
「リグへ行こう、イーツェン」
シゼがそっと、そう言った。髪にひとひら落ちた雪片が溶けて消える。イーツェンは何か言おうとして、言葉にならず、ただひとつうなずくと、シゼに体を寄せるようにして二人でヒノの町へ戻っていった。
[続く]