深く、頭を下げた兄の姿を前に、イーツェンは何と言っていいのかわからなかった。
父とイーツェンの中が決して睦まじいものではなかったのは──ただ疎遠なだけで、険悪さとはかけ離れていたが──近い者には、何の秘密でもない。それは、誰かへの想いで自分を裏切った母を父が許せないことや、イーツェンを己の子かどうか確信が持てない父の心の揺らぎを映した遠さなのだろうと、イーツェンは思っていた。仕方のないことだろうと、あきらめてもいた。ユクィルスにいる間、父から届いた便りは始めの内のふたつだけで、トゥルグスとメイキリスが時おりリグの近況を知らせるほかは、イーツェンは誰の声を聞くこともほとんどなかった。
そんな父が最後によこした手紙には、あらかじめ示し合わせておいた符丁で、リグの山を崩してカル=ザラの街道をふさぐことが記されてあった。イーツェンの運命の終わりを告げるその手紙を、父が己の手で書いてくれたことに、今でもイーツェンは感謝していた。
ユクィルスが街道がふさがれたことを知れば、その報いは、人質であったイーツェンにはね返る。それは始めからわかっていたことで、おそらく報いは死であることも、誰もが知っていた。つまり父の手紙は、イーツェンへの別れの手紙だったのだ。
その手紙を己の手で書くほどには、父がイーツェンのことを心にかけていたのだと、あの時のイーツェンには感じ入るものもあった。疎遠であっても、何かの形で父はイーツェンに別れを告げようとした。それは、父にとってたやすいことではなかっただろうし、受け取るイーツェンにもたやすくはなかったが、遠いリグと、あの瞬間、たしかにつながっている気がしたのだ。
父は、長い間、イーツェンにとってそれほど遠い人であった。顔を合わせても、互いによそゆき以上の会話をした記憶がない。ユクィルスへのイーツェンの旅立ちに際しても、父がどのような表情をしていたのか、イーツェンは思い出すことができなかった。
彼と父の距離が遠かったのは、決して兄のせいなどではない。父の後妻として求められたイーツェンの母が、誰かと許されぬ逢瀬をしていた、そのことが父との間に大きな溝を刻んだのだ。母は生まれたイーツェンをつれて王宮を離れ、山腹にある祈りの宮へと引きこもって、病を得てみまかるまでを元の巫女としてすごした。
もう、遠い昔のことだ。ユクィルスでの日々をのりこえて戻った今、イーツェンはつくづくとそう思う。母の顔すら、イーツェンははっきりと思い出すことができない。
誰が責められるべきことでもない、もうその筈だ。ましてや、兄に至っては尚更、関わりのないことだった。
イーツェンがかける言葉を選んでいると、トゥルグスが顔を上げ、両手を付けたまま、悔恨が深く刻み込まれたまなざしでイーツェンを見つめた。
「父上は‥‥お前を、ずっと心にかけていた。どうしたらいいかわからずに、距離を置いてしまったことを、いつも悔やんでいた」
「──」
でも、と言いかけたイーツェンは、兄の目が濡れているのに気付いて言葉を失った。何かが兄をさいなんでいる。それが何だかわからないまま思わず身をのり出して、兄が膝の上に握った拳に右手を重ねた。きつい拳にこもった緊張が伝わってくる。
「トゥルグス?」
「イーツェン。父上は、お前がユクィルスへ発った後、何度も手紙を書いた。お前に許しを求める手紙だ」
「手紙って‥‥」
ふ、と体中がつめたくなった。イーツェンは兄の青ざめた顔を茫然と見つめる。何かがまちがっている。父からのそんな手紙は、ひとつもイーツェンの手に届いていない。
「俺が、よけた」
トゥルグスは、苦しげにその言葉を吐き出した。イーツェンは咄嗟には意味がわからない。ただ兄を見ていた。
「父上がお前に書いた手紙を、俺が除いたんだ。ユクィルスへ送る手紙の中から」
「‥‥何で」
イーツェンの声は、自分の耳にもひどく弱かった。トゥルグスは目をきつくとじて、長い息を吐く。
「よくないと思った。お前に‥‥未練を持たせることになるかもしれないと」
「よくないって」
イーツェンは頭を振る。乾いた笑いがこぼれた。引こうとした彼の手を、逆にトゥルグスがすがるようにつかんだ。
「イーツェン──」
「ちょっと、待って」
左手を上げて、トゥルグスの言葉をとめ、イーツェンは兄の手を払って立ち上がる。じっと座っていることができなかった。暖炉のぬくもりとしのびこんでくる冷気がイーツェンの動きにかきまぜられて、肌を熱と冷たさがちりりとなでていく。
イーツェンの内側にも、熱と、凍えるような寒さが同時に揺らいでいた。うろうろと、数歩さまよって、彼は額を手の甲でこする。
「未練て、何」
「‥‥‥」
「だって、兄さん‥‥」
見下ろした兄はまた両手に顔をうずめていて、落ちた肩がひどくたよりなく、イーツェンはふるえそうな声を呑み込んで暗い天井を見上げた。イーツェン自身、死を覚悟して人質となったし、リグの者も彼が生きて戻るとは思っていなかった。それはまぎれもない事実だ。
だから、トゥルグスは父からイーツェンへの手紙を握りつぶした──異国にいるイーツェンの心が揺らいで、里心が付かないようにと。そのことを、イーツェンは苦く何度も噛みしめる。
何故そうしたのかはわかる。兄は、最善と判断した策を取っただけだ。父がどんなことを書いたのかはわからないが、イーツェンに渡る前の手紙にユクィルス側の目が通されて、知られたくないことを知られてしまう危険性もあった。そんな危険を犯す余裕は、リグにはなかった。
だが、もしユクィルスの地でイーツェンが命を落としていたならば、父の思いや手紙の存在を知らずにいたのかと思うと、心の底に奈落へ落ち込む大きな穴があけられたようだった。
トゥルグス本人は、リグから何度も手紙を書いてくれた。彼の手紙はイーツェンにとって数少ないリグとのつながりのひとつだった。なのに、まるで彼にずっと裏切られていたような痛みが、イーツェンの胸に満ちて、息をとめそうになる。
長い間、どちらも何も言わなかった。それがどれほどの間だったのか、立ち尽くしていたイーツェンにはわからない。何度も息を呑み込み、イーツェンは兄の前に戻ってすとんと腰をおろした。
「父上は知っているんですか」
「‥‥言えるか、こんなこと」
肩を落としたまま、右手で額を覆い、トゥルグスは呻くように答える。イーツェンは視線の合わない兄の顔を眺めた。目のふちが赤いのはともかく、青ざめているのに頬の上の高い部分と鼻先だけがひどく赤いのは、恥のためだろう。よかれと信じてやったことではあっても、兄は心底、恥じているのだ。
体から力が流れ出していくようで、イーツェンは深い溜息をついた。よかれと信じて、イーツェン自身、色々な選択を重ねてきた、そのことは身に覚えがある。兄は、リグを守ろうとしただけなのだ。
「その手紙は、今、どこに?」
「‥‥それが、な」
さらに歯切れが悪くなって、トゥルグスはちらっとイーツェンを上目で盗んだ。イーツェンは助け船を出す。
「捨てた?」
「まさか」
心外だという顔をして、かがめていた上体をまっすぐ起こした。手紙を隠したことを告白したくせに、手紙を捨てたと疑われるのは納得いかない様子だ。理不尽さに、イーツェンは少し笑ってしまった。
「それなら、読みたい」
今のままでは、まるで心の整理がつかない。父が彼に手紙で許しを求めたということにも、その手紙をトゥルグスがさえぎっていたということにも。彼の決断に共感する部分もなくはないが、どうにもやるせない怒りが心にわだかまっていて、どう受けとめたらいいのかもわからない。
手紙を見れば、ひとつ心に定まるものもあるかと思って求めたのだったが、トゥルグスは天井を向いた。
「‥‥もうない」
「何で」
イーツェンは眉をぐっとしかめる。わからないことばかりが積まれて、息苦しい。
「燃やした」
トゥルグスの答えは、なおイーツェンにはわからないものだった。捨てたか、と問われた兄は否定した。なのに、燃やしたと言う。それは捨てたと同じことではないか、とイーツェンの苛立ちが高ぶって、声がとがった。
「どうして──」
「お前の棺に入れたんだ!」
彼と同じほどに苛立った調子で、トゥルグスが激しく言い返した。目のふちが赤く、声は揺れていた。がしがしと自分の頭をかいて、首のうしろをつかむ。
イーツェンは呆然と、口をあけた。少ししてから、やっと声が出た。
「私の‥‥弔いを出したんですか」
「死んだ、と聞いた。死んだと思った。だから‥‥」
後頭部の髪をまたかきむしるようにして、トゥルグスは喉をつまらせ、天井を見て、あちこちイーツェン以外のあらゆる場所へ視線をとばした。
「お前の棺に入れて、火にくべた」
そうか、とイーツェンは思う。死者の体のないまま、弔いを出したのだ。
リグの者は死者を地に埋めて山へ還すが、なきがらがない時には香りのよいビャクシンの木で小さな棺を作り、贈り物をつめて燃やす。その棺が、煙に乗ってこの地上のどこかへ死者を迎えに行けるように。そして灰を山へと埋めるのだ。
「‥‥私の棺」
呻くように、呟いていた。頭がくらくらする。息苦しく、揺れる炎の赤さに心が呑みこまれそうだ。兄がすまなさそうに続けた。
「だから、お前は今のままでは、リグへの国境いはまたげない。俺が‥‥」
耳の中を濁流が流れていくようで、半ばしかその言葉が聞こえない。よろりと立ち上がった彼を兄が呼んだ。
「イーツェン。‥‥イーツェン!」
とりとめなくそちらへ手を振って、イーツェンは幕をからげて部屋の外へ出た。数歩離れたところにあの召使いの青年が控えている。その横をよろめいて、しまいにはほとんど駆け出すように部屋の間を抜け、表へととび出す。外に人影は少なかったが、手押し車に薪木を乗せて運んでいる子供たちから好奇の目が向けられた。イーツェンは何も考えずにそのまま大股に歩く。マントも室内に残してきたし、ブーツも脱いだままで、素足の裏を刺されるような冷たさだったが、心の中に感情がとびちっていて、意識がどこにもまとまらない。
土の踏み固められた道を歩いて、イーツェンは白い息を吐き散らしながら考えをひとつに集めようとした。父からの手紙、兄の告白、自分の弔い──すべてに心がひっくり返っている。異様にざわつく肌の熱気を冬の空気が吸い取っていく。
「イーツェン?」
「あ──」
ほとんどぶつかりそうになって、イーツェンははっと足をとめた。別に相手がいきなり現れたわけでもないが、見えていても意識に入っていなかった。
カーザが、奇妙なものを見るようにイーツェンを見ている。そりゃ奇妙だろう。マントもブーツもなしだ。だがイーツェンはそれよりも、カーザの顔を見た瞬間、反射的にたずねていた。
「シゼを見た?」
どうしてそれを聞いたのかはわからない。カーザも呆気にとられたようだったが、顎を引いてうなずき、広場の方を指した。
「あっちだ、が‥‥」
「ごめん」
ほとんど遮るようにして、早足で、カーザが指した方角へ向かう。カーザは知っていたのだろうか──イーツェンの弔いが出されたことを。彼がリグにとって死者であると言うことを。だが思えば、ゼルニエレードの港町で会った時の彼は、イーツェンが死んだものだと信じていた様子であった。
広場の一角には馬をつなぐための杭がずらりと打たれ、その後ろにある厩にまばらに荷馬がつながれている。冬の寒々しい風が抜ける町で、そこだけはやけににぎやかに人でごった返していて、何かが呼び交わされていた。
「どうした、イーツェン」
カーザが小走りに追ってくる。イーツェンは答えようとして口をあけたが、何も出なかった。どうしたというのだろう。自分でもよくわからなかったし、わかっていてもそれを説明できる気がしなかった。
行き場のない視線で、低い建物に囲まれた広場を見渡す。30人以上の男女が陽気な調子でさざめくように怒鳴り交わしながら、忙しそうに立ち働いていた。広場の隅に設けられた10近くの煉瓦の炉のすべてに火が入り、薪がくべられて、大きな鉄鍋がのせられている。その活発さに、イーツェンは目をぱちくりさせた。長細い平炉の上には大きな肉塊が串に刺されて渡され、火に油が滴るたびに上がる火煙を、少女があおいで消している。
トゥルグスたち一行を迎えるための食事の用意か、と納得した時、ひときわ大きな笑い声がひびいて、視線を動かしたイーツェンはシゼを見つけた。7、8人の男たちがそれぞれ丸木に座りこみ、いびつな円座を作って前に置いた石の上でトウ豆の殻を潰している。冗談でもとんだのか大口をあけて笑っている男たちの中に、真面目な顔をしたシゼが座って、手にした石で豆の殻を打っていた。
うまくいかない様子で、また叩く。リグでは子供の頃からやらされる仕事なのだが、慣れないと殻だけを潰して豆を取り出す力加減が難しい。隣に座っている青年が生真面目な顔で石の持ち方を直してやり、シゼがまた叩く。今度はうまくいったようで、全員が手を叩いて何かはやしたてた。シゼの表情もやわらかい。
イーツェンはたたずんだまま、それを眺めて、微笑が口にのぼってくるのを感じた。
「イーツェン」
溜息のように名前を呼ばれて、肩にずっしりと重いマントがかけられる。顔を向けたイーツェンはトゥルグスの、ひどく後ろめたそうな表情を見てから、彼が左脇に抱えたイーツェンの靴を見た。
「ごめん」
「すまん」
2人で、同時に相手にあやまって、気まずい笑みを交わす。トゥルグスが差し出した靴を受け取り、イーツェンはしゃがみ込んで土を払った足に靴を履いた。足先がじんじんと冷たい。痛いほどだ。
カーザが心配そうに、だが手持無沙汰にそばをうろうろしている。イーツェンが彼へ「大丈夫」と手を振ると、ほっとした様子で去っていった。兄もイーツェンの横で同じぐらい居心地悪そうにしていて、彼らをチラチラと人が見ながら通りすぎる。
「さっき──」
そう言いかけて、イーツェンはトゥルグスの視線が彼を越して、広場へ向かっているのに気付いた。シゼを見ている。
ぱっとその視線を追うと、シゼが顔を上げて一瞬、イーツェンとトゥルグスを見た。イーツェンにわずかに視線をとめてから、また豆を割る作業に戻る。豆を割る途中でもう1度イーツェンたちの方へ視線を向け、また作業に戻った。イーツェンは思わず唇が笑みの形に曲がるのを感じた。
「あれか?」
横から兄の声がして、シゼに集中していた視線を引きはがす。トゥルグスはまだシゼを見ていた。真剣な、ともすると厳しいほどの表情に、イーツェンは眉を寄せて険しく応じた。
「それが何か?」
「いや‥‥」
気圧された様子で、兄は溜息をついて視線をそらせると、眉の上を手の甲でこすった。息が白い。イーツェンも今さらしみこんできた寒さにマントの襟元をかきあわせ、縁取りの冬狐の毛皮に顎をうずめた。
「まさか、男をつれて戻ってくるとは思っていなかったからな。驚いた」
まさか戻ってくるとも思っていなかっただろう、そう喉元まで出かかって、イーツェンは舌先を噛んだ。彼を抱きしめた兄のぬくもりは本当のものだったし、苛立ちを刃のように使っても、後悔するだけだ。
「はっきり言っておくけど」
と、イーツェンは固い声で先手を打った。
「シゼに関しては、半歩たりともゆずらないから。何を言われてもくつがえすつもりはない」
「‥‥何も言ってないだろう」
「言っても駄目ってことだよ」
そうイーツェンに言われた兄があんまり悲しげな顔をしたので、きまりが悪くなったイーツェンはぼそぼそとつけ足した。
「恩人なんだ。ユクィルスまで一緒に来てくれただけのことじゃない。本当に、色々と支えてくれた」
「お前の恩人なら、俺にとっても恩人だよ」
その言葉にイーツェンが意外そうな顔を向けると、トゥルグスは白い歯を見せてニッと笑った。イーツェンは数秒、言葉もなくそこに立って、兄の顔を見ていた。
ふっと胸の奥が軽くなる。罪悪感からそう言ったのかと疑いもしたが、シゼの方へ目を向けた兄の表情は冴えていて、後ろめたさなどなかった。わかってくれたかどうかはともかく、イーツェンの意志を尊重しているようだ。
そこに立ち、歓迎の仕度の喧騒に身をゆだねながら、2人は肩を並べて黙り込む。やがて、イーツェンはそっとたずねた。
「私は、死者ですか」
葬られた、ということは死んだ者だ。死者はリグに立ち入ることができない。兄はうなずいた。
「だから、迎えに来た。父上も境の門まで来られる。そこで俺が命を戻す儀式を行い、お前を、リグの地へと戻してやる」
「‥‥‥」
「父上はお前の顔をいち早く見たがっていたが──」
兄はひどく言いにくそうに言った。
「死者と会うのはいささか不吉だ、ということでとめられてな。何せこれまでの歴史に前例のないことだ」
「ああ‥‥」
相づちと言うよりは、上の空で呟き、イーツェンは指の背でこめかみを強く押した。めまいがしそうだ。イーツェンの記憶にある限り、葬られた者が「生きて」戻ってきたことなどほとんどない。「死んだ」状態で王と顔を合わせた前例など、たしかにないだろう。生と死の境にいる者が王と会うのは、言われてみれば不吉なことなのかもしれなかった。
こんな状況はイーツェンの想像の外だったし、ましてや自分がその「死者」であるということを、どう受けとめたらいいのかわからない。あまりにも大きすぎてまだ事態を呑み込むことができないでいた。
何より、リグにはもう自分の居場所がない気がして、それがイーツェンをいたたまれなくさせた。リグを離れている間にイーツェンは真実の名を失って名なしになり、リグでは葬られた。リグにとって、イーツェンはすでに死んだ存在なのだ。何故そうしたのかはわかるが、帰る場所を奪われたような思いは消えなかった。
兄との間にねじれた沈黙が落ちる。風が吹きつける頬がかじかみ、布の下で首すじの輪がちくちくした。たたずむ2人へ、人々が悟られないように好奇の視線を投げる。心底いたたまれなかったが、さっきのようにこの場からも逃げ出したとして、行くあてもない。
目のすみで、シゼが片手をあげた。イーツェンはまばたきし、あらためてシゼに視線を向ける。豆を割る作業の中にまざっているシゼが、まっすぐにイーツェンを見て、上げた手で軽く手招きしていた。
イーツェンは兄へ顔を向ける。
「話の続きは‥‥後でいいですか。私も話したいことが色々あるけど、今はちょっと、落ちつきたい」
トゥルグスはほっとしたようにうなずいた。彼の腕をぽんと叩いて親愛の情を示してから、イーツェンは行き交う人の間を抜けて、シゼと周囲の男たちの円座へと歩み寄った。
シゼは横倒しの丸木に座って豆の殻を石で叩き割っていたが、イーツェンが近づくと、横にずれて座る場所を作った。円座のほかの皆が無躾に向ける視線に、イーツェンは挨拶し、シゼにくっつくように狭い丸木に腰をおろす。
シゼは足の間に上が平らな石の台を置き、トウ豆を置いて手にした石で殻を叩き割っている。慣れていないので、リグの者が1度で割るところを2度3度とくり返してはいるのだが、真剣にやっている様子が微笑ましかった。
イーツェンはシゼの右手に手をかけてとめ、どこで打ったらいいか見てやる。打ち石の、丸みのある部分で打つ方がうまくいくのだ。少なくともイーツェンはそうだった。うなずいて、ためしながら、シゼがイーツェンの耳にだけ、そっと言った。
「何かありましたか」
「‥‥後で話す」
イーツェンはくっつきあった太腿や肩から伝わってくるシゼの熱に気を取られながら、曖昧に返した。人の耳も多すぎるし、まだうまく話せるほど自分の中で整理がついていない。
シゼはうなずいて作業に戻った。周囲の皆も、がやがやと下らない話に戻る。誰のところで犬が子を生んだとか、誰の洗濯物に鳥が糞をかけたとか。近くの火からは、魚を焼く匂いが濃厚に漂ってきている。
イーツェンは少しの間、ぼんやりしながら、かごに放りこまれたトウ豆の中から殻のかけらを取り除いた。シゼは黙々と豆を割っている。やがてふと、イーツェンは、シゼにだけ聞こえるように囁いた。
「でも、言いたいことは言ってきた」
シゼは豆を割る硬質な音を立てながら、うなずく。
「お前が好きだって」
そうイーツェンが言った瞬間、シゼの手元が狂って、豆の位置を支える左の親指をしたたかに打った。