──無事帰ってこい。
兄のトゥルグスはそう言って、イーツェンは無言でうなずいた。メイキリスは泣いていた。父のウィハクは言葉もなく、イーツェンの頭に手を置いて凍りついたように立ち尽くし、やがて祈りの言葉を口の中で呟いた。上の兄のザハクはそこにおらず、王の名代としてユクィルスの司令官との会議に出ているというのが理由だったが、実のところ、彼ら王族がひとところに集まるのをユクィルス側がよしとしていないためでもあった。
別れはほんの短い時間で、イーツェンは型通りのことしか言えなかったが、去り際にトゥルグスはイーツェンをいきなり抱きして、もう一度言ったのだ。無事帰ってこい、と。
イーツェンはただうなずいて、兄が彼を哀れんでいるのだと思った。イーツェンが生きてリグに戻らないことは、そこにいた誰の目にも明らかだったからだ。少なくともその時、イーツェンはそう感じていた。
──無事帰ってこい。
いつかその言葉を果たせる日が来るなど、イーツェンは長い間、思いもしなかった。あれが永遠の別れになると、父や兄たちも思っていた筈である。
それがこうして、思いもかけずに約束を果たし、無事に帰ってきた今、兄の顔を見たイーツェンは混乱していた。どうしてリグにいる筈の兄がこのヒノにいるのか、どんな顔をして向き合えばいいのか、それに──
まだ握っていた手を思い出して、イーツェンはシゼと自分の手を見おろし、それから目を上げてシゼの顔を見た。ぎょっと驚いて動きをとめる。下流を眺めやるシゼは、滅多に見ないほどやわらかな表情をしていて、口元にはっきりとした微笑があった。
「‥‥‥」
張りつめていた気が抜けて、イーツェンは何か言うのも忘れてシゼの顔を眺めた。厳しい目元がやわらぐと、思いもかけないほどやさしい顔になって、シゼの奥には普段からでは伺い知れない表情が眠っているのがわかる。多分、イーツェンが見たことのないような顔も。
滅多に見られない、シゼの笑顔はイーツェンにとっては大事なものだった。何故今笑っているのかはわからないが、機嫌がよさそうなシゼの姿を見ていると、心の中で渦巻いていたもやもやした感情がほどけてすうっと溶けていく。イーツェンの疑問やとまどいなど、大したことではないような。
シゼは、やわらいだ表情のままイーツェンを見る。イーツェンはどうしてか、一瞬赤面してから、少し早口にたずねた。
「何で笑ってるんだ」
シゼが、とまどったようにまばたきをしてから、また下流へ目をやった。表情は静かなものに戻っていて、イーツェンはそれが惜しかったが、シゼの声にはまだ微笑があった。
「会いたがってましたよ。ものすごく」
「‥‥そうかな」
とは言ったが、イーツェンはたしかに、まさに川に飛びこんでこようとした兄の姿を思い返して、ふっと笑みをこぼしてしまった。このつめたい川に飛びこんで無事でいられるわけもないというのに、あの時の兄は船頭にとめられていなければ本当に飛びこんでいたように見える。
(──無事帰ってこい)
3年前に聞いた言葉がよみがえって、イーツェンはふいに全身が軽くなったように感じた。何がどうなっているのかはわからないが、トゥルグスはイーツェンの顔を見てうれしそうだった。あの時の兄との約束を守れた、そのことだけでも、誇ってもいい気がした。
だが、ヒノの門が見えるあたりまで来た頃には、持ち直した筈の気持ちはすでに下降していた。イーツェンは川から吹いてくる風の痺れるようなつめたさに身をすくめ、つい足をとめる。それをシゼが、背に当てた手で前へ押す。容赦のない押し方に、イーツェンはしぶしぶ半歩ずつくらい前ににじり出ながら、シゼをにらんだ。
「何だよ」
「風邪を引く前に戻りますよ」
言葉はやさしいが、とまる気はかけらもない。心の準備をする暇もなく──要するにここに来るまで気持ちの整理が付けられなかっただけだが──ヒノの方へ押しやられていく。ここからでも、門のそばの見張り台の上から見張りが下へ何か叫んでいるのが見えて、イーツェンはシゼの後ろへ隠れたくなった。
「シゼ‥‥」
そう呼びかけて、何を言おうとしたのかはわからない。ただ、呼んだ声があまりにも心細そうで、言った自分がぎょっとしてしまった。兄に会いたいか会いたくないかと言えば、会いたい。その筈だ。船上でイーツェンを呼んでいた必死な顔を思い浮かべると、心の奥が強くたぐりよせられるようで、何も考えずに兄のところまで走っていけたらいいと思う。
だが、見えない何かがしがみついているように、ヒノに近づくにつれイーツェンの足取りは重くなる。会いたくないわけではないし、会いたくないなどとは誰の耳にも──シゼにも──聞かせたくはない。それでも、兄と顔を合わせることを考えると、冬風にひえきった肌の下にじわりと汗がひろがって、体の中がざわつく。
背中の芯に重い痛みが生じて、イーツェンは唇をあまり動かさずに呟いた。
「背中が痛い」
「気のせいだろう」
間髪入れずに戻ってきた返事に唖然として、イーツェンははじかれたようにシゼの顔を見た。耳で聞いた言葉が信じられなかったし、イーツェンの痛みをシゼがそんなふうに一蹴したことは今までなかった。
シゼは前を向いたまま、少し口元をしかめたように見えた。
「心に負担があるから痛みが生まれることもある、イーツェン」
「‥‥ああ」
怒りを向けようとしていたまさにその瞬間、的を外されたような気がして、イーツェンは溜息をついた。兄と顔をあわせたくない、その気持ちのせいで背中が痛むと、シゼが言いたいのはそういうことらしい。何だかなあ、としみじみとする一方で、もっと言い方があるだろうと少しずつムッとしてきたイーツェンの背を、シゼは問答無用でヒノの門のほうへ押していく。町を囲んで切り開かれた草地を歩きながら、イーツェンは救いを求めるように右を見て、左を見てから、シゼを見て、さっきから気になっていたことを今さら聞いた。
「剣はどうした?」
シゼは右手に木剣を下げてはいるし、短剣も身に付けているが、腰に見慣れた長剣がない。
リグの一行と共にゼルニエレードを発つ時、ハンサイはシゼの剣を旅荷の中にしまいこんでおくよう忠告した。邪魔になるだろうし、シゼの手がすぐ届くところに剣があるとリグの者たちも落ちつかないからと言われ、イーツェンはシゼに信頼がないことに腹を立てたが、シゼは逆らわずに長剣をカーザに預けて短剣を腰に下げていた。だが、沼地を抜けるために2隊に分かれた時に、長剣はシゼの手に戻された筈である。
シゼはイーツェンの顔を斜めに眺め、イーツェンの背中を押しながら、一呼吸置いて短く答えた。
「荷物の中だ」
聞いているのはそういうことじゃなくてどうして今剣を持っていないかだ、とまたムッとしたイーツェンだったが、気付けばヒノの裏門はすぐ目の前で、しかも半割りの丸木で作られた扉がひらいて、その向こうから膝丈の、美しい焦げ茶のブーツが枯れた草地に踏み出してくるのが見えた。イーツェンは反射的に、泥汚れがこびりついたままの自分の靴を見おろす。汚れてよれよれになったブーツの足が1歩、2歩と動いて、その場にとまろうとしたが、シゼの手が腰のすぐ上を押して、自然と足が前に出た。
「シゼ」
イーツェンは、噛んだ歯の間から、押し出すようにシゼの名を呼ぶ。シゼはイーツェンの耳元に顔を傾け、冬の風に消えそうなほど低く言った。
「全部、言いたいことは言ってくるといい、イーツェン。手紙に書く筈だったことは、みんな吐き出してこい」
「イーツェン!」
よく張った声がシゼの言葉の語尾をかき消すようにひびいて、きれいなブーツが茶色い枯れ草を踏みしだきながら駆けよってきた。シゼの手が背中から離れたのを感じる。顔を上げようとしたが、上げられない。次の瞬間、うつむいたままのイーツェンは、強い腕にがばっと抱きこまれていた。
反射的に、逃げたくなる。身に深く染みついた習性のようなものだ。その衝動は抑えこんだが、体がこわばるのはどうにもとめられず、兄が気付いていないことを祈りながらイーツェンは喉の奥につまった息を吐き出そうとした。嫌、というのではない。ただ、居心地が悪い。どう反応していいのかわからない。
イーツェンを抱えこむ兄の腕には遠慮がなく、右腕で肩を抱きこんで強くイーツェンの体を引き寄せる。イーツェンはぎこちなく緊張をとこうとしながら、そろそろと兄の背に右腕を回した。兄のまとった上着は、しっかりと裏打ちされて目のつまった毛織物で、いかにもあたたかそうな手ざわりがうらやましい。
「イーツェン」
耳元で、トゥルグスの声がくぐもった。喉にかかるような切羽つまったひびきに、イーツェンは驚く。まさか──泣いているのだろうか。
は、と大きな溜息がトゥルグスの体全体をふるわせて、彼はイーツェンの髪をぐしゃぐしゃっとかき乱した。
「よく、戻った。よく‥‥生きて戻った。海を渡って‥‥本当に、何て無茶なことを‥‥まったく、お前は‥‥」
その先は、声が曇ってよく聞きとれなかった。イーツェンはまだ何か言っている兄の声を聞きながら目をとじ、自分を抱える両腕と、がっしりとした体によりかかる。兄がひとつ言葉を重ねるたびに、心の奥底から大きな塊がふくれあがってくるようで、どうしたらいいのかわからない。息をとめた体の奥に熱が溜まって、目の裏がじんと揺れた。
「お前は本当に馬鹿者だ!」
いきなり兄の声が耳元で怒鳴って、イーツェンはとびあがった。顔を上げようとしたが、トゥルグスの手は髪の中にからまって、イーツェンの顔を自分の肩口に押しつけたまま、彼は自分の体ごとイーツェンの全身をがくがくと前後に揺さぶった。激しい声はところどころかすれて、まるで全力で走ったかのように息も荒い。
「下手をすればどんなことになったか、ちょっとは考えたのか! 海に沈んだらどうやってお前を探せばいい。折角生きのびた命で何てことをするんだ!」
「だって──」
トゥルグスの方に顔をつけたまま、イーツェンは口の中で呟いた。だって、どうすればよかったというのだ。リグへの道を、その時に見えた道を、イーツェンはとにかく歩いてきただけだ。
子供のように叱りとばされる筋合いはない。反発しつつも、兄への遠慮が先に立ってほんの小さな声で呟いたのだが、なんと兄の耳にはとどいていたようだった。はるかに大きな声で怒鳴っていたのに、イーツェンが不満を漏らした途端にぴたりとその声をとめ、あらためてイーツェンを揺すった。
「だってじゃない!」
「‥‥‥」
「死んだと思ったんだぞ!」
正直それは、イーツェン自身、何度か思ったことだ。もう自分の命も尽きたと。だがそれをトゥルグスに言っても何の慰めにもなるまい。兄の声には悲痛さがあって、そのひびきがイーツェンの心を刺す。
離れたリグの地に、イーツェンのことはどのように、そしてどれくらい伝わっていたものだろう。イーツェンは顔を上げて聞こうとしたが、乱暴な手で髪をかきまぜられて、頭がぐらんと揺れた。
「来い!」
そう、やはり怒った声のままで言うと、トゥルグスはイーツェンの首根を引っつかむようにして、町の門の方へ大股に歩き出した。イーツェンは救いを求めて周囲を見回したが、いつのまにか彼らを取り巻いて作られた人垣は皆笑っていて、カーザとリョクサたちの横にやっと見つけたシゼも微笑したまま、一向にイーツェンを助けに来てくれそうにない。
口だけで「馬鹿」とシゼに向けてののしると、シゼが笑い出しそうな顔になって肩を揺らした。イーツェンはそのまま、なすすべもなくトゥルグスに引きずられ、兄が滞在しているらしいひときわ大きな屋敷の中に入ると、奥部屋に据えられた小上がりの座敷の毛皮に座らされた。その間ずっと、兄は罵倒とも泣き声ともつかない文句を途切れ途切れに吐き出していて、イーツェンの右手を痛むほど握りしめた手は小さくふるえていた。
ふっくらとした上等な羊の毛皮の上に、靴を脱いであぐらで座りこむと、トゥルグスはじっとイーツェンの顔をのぞきこんだ。部屋の奥の壁には縦に細長い窓が3本並び、そこから白っぽい冬の光がすじのように入りこんで、彫りのくっきりしたトゥルグスの顔を照らしている。
「腹は減ってないか? 茶を飲むか? 寒くないか? 火を入れろ!」
質問しているのに、イーツェンの返事をひとつも待たず、最後の一言を扉口の方へ命じた。イーツェンは何か言おうと口をひらきかけ、兄の言葉を追って扉口へ目をやり──凍りついた。
薄く青みを帯びた灰色の瞳が、イーツェンを見つめ返していた。イーツェンと年ごろは同じほどか、少し上だろう、22、3の年ほどの青年が、織物を吊るした扉口に立っている。白みの強い肌はリグの民のものではないし、くっきりと刻まれたような鼻すじや、高い頬骨もちがう。薄い金髪と、青みのある目は、明らかにユクィルスの人間だった。
やせてはいないが、ほっそりとした体つきを灰色のマントに包んでいて、そのマントのふちは赤い毛糸でぐるりとかがられている。赤ふちのマントを茫然と見て、イーツェンは青年の顔を見た。
青年は静かな表情を変えず、腰をかがめてイーツェンとトゥルグスへ敬意を表すると、部屋の奥に据えられている暖炉の前へ膝をついて火をおこしはじめた。その間ずっと、イーツェンとも兄とも目をじかに合わせず、まぶたは行儀よく伏せられたままだ。最初にイーツェンを見据えたあのまなざしすら幻だったのかと思う。そう。赤ふちのマントをまとう者は、人と目をあわせてはいけない筈だ。
室内には、トゥルグスとイーツェン、その青年の3人だけで、そこからも兄が彼を信頼しているのだと知れる。明らかにユクィルスの人間を、そこまで信頼してそばに置いているのは何故なのか。イーツェンは問う目をトゥルグスへ向けたが、兄は安心させるようにひとつうなずき返しただけで、何も答えなかった。
埋み火があったのだろう、手際よく火をおこすと、青年は暖炉の脇に片膝を付いて頭を垂れ、まるで家具のひとつのように動かなくなった。トゥルグスは彼へ、おだやかな声をかける。
「茶を持ってきてくれ。それから、下がっていい」
青年は身をおこして、扉口に垂れた織物を細くからげて外へ出ていった。かきおこされた炎の灯りが窓からの細い陽光と入り混じり、吊り下がった織物に浮き出す葉脈模様が、揺れるたびにうっすらと光る。
さっきまでのやかましさが嘘のように、兄は黙りこくってあぐらに肘をつき、イーツェンを見つめていた。イーツェンは相変わらずざわざわと心が揺らいでいて、突然の沈黙を急いで埋める気にもなれない。
そう言えばまだ兄をきちんと見てないな、と思って、彼は兄の顔を見つめ返した。トゥルグスはイーツェンの6歳上なので、今28歳になるが、見なかった3年半の間に目元には厳しさが増し、実際よりも年上に見えた。リグを去ったイーツェンだけでなく、国元に残った彼らにとっても決して楽な日々ではなかった筈で、イーツェンは兄をつくづくと眺めた。体つきは前よりがっしりして肩幅が広くなったが、顔は少し痩せていて、よく知っているのに知らないような、不思議な近さと遠さを同時に感じた。
それでも、こうして2人きりでいて息苦しくないのも、家族ならではなのだろう。居心地がいいわけではないが、誰かと膝詰めで向き合った時の圧迫感はなく、イーツェンはごく自然に呼吸ができていた。
トゥルグスは髪の中に指を入れて、ぐさぐさとかきまぜた。イーツェンの顔を見はするが、視線は火の方へとんだり、天井を眺めたりと忙しい。彼がいきなり何も言おうとしなくなったので、少し待ってみてから、イーツェンは体の前に右手を置いて軽く頭を垂れた。
「古帳の長のご継受、おめでとうございます」
「ああ。‥‥え?」
間を置いて、驚かれる。イーツェンは身を戻して肩をすくめた。兄が古帳の長に取り立てられたという話は、ゼルニエレードでハンサイとザインに聞かされている。
「皆に聞いたから」
まじまじと、トゥルグスはイーツェンの顔を眺め、妙に長い溜息をついた。イーツェンが何か的外れなことを言ってしまったかと心配になり始めた頃、兄はやっと決心したように口をひらいた。
「傷を負ったそうだな」
「──」
すぐには答えず、イーツェンはトゥルグスの表情を読みとろうとした。傷の話はあまりしたくないのだが、黙っていることもできないだろう。そう思いつつも、何となく、思いついたことを逆に問い返す。
「何でここに、兄上?」
「お前がいるからだ!」
正面きって、驚くほど激しい勢いで怒鳴られた。とは言え、兄のその勢いがイーツェンを案ずるからだというのはわかってきたので、怖くはなかった。
「だって、いつ知らせが‥‥」
「ハンサイが、荷の先ぶれと一緒に手紙で知らせた」
まだ苛々した口調で切って捨てる。そう言えば先ぶれを出すと言ってたか、とイーツェンは記憶を探った。沼地の民相手に商売している商人に言付けるため、いつ届くのかは保証できないという話だったが、どうやら手紙は彼らのずっと先を行っていたらしい。
ハンサイはどこまで手紙に書いたのかと考えをめぐらせつつ、イーツェンは、人が入ってくる気配に顔を向けた。さっきの青年だ。静かに入ってくると、カルザ茶の香ばしい湯気をたてる器をそれぞれトゥルグスとイーツェンの前に並べ、相変わらずどちらとも視線を合わせずに出ていった。彼が去った後も揺れる垂れ幕を見送っているイーツェンの意識を、兄の声が引き戻す。
「飲め!」
我に返ったイーツェンは、湯気の香りを喉の奥まで吸い込んだ。
──故郷の香り。
カルザ茶の、それは何という香りだったろう。土臭い、木の匂いのまざって、ざらついた、決して洗練されたとは言えない香り。それを前に嗅いだのは、ユクィルスの城でジノンがイーツェンのために手配してくれた時だった。
ジノンのことを思うと、息苦しくもあり、彼に出会えたことを幸運に感じる気持ちもあって、どういうふうに向き合っていいのかわからない。彼のことは好きだったが、彼が演じているもの──あるいはなろうとしているもの──が好きになれるかどうかは、今のイーツェンには判断がつかなかった。それでも、愛するものを守ろうとして犠牲をいとわない、そのジノンの立つ場所は、イーツェンにもよくわかる。ジノンは息子のためならば何でもするし、何にでもなるだろう。
今ごろ、どうしているものか。
思いをはせながら熱い茶を一口飲むと、苦味と香気が舌を灼く。イーツェンは唇をすぼめて、湯気と思い出を息で吹きとばした。土の器ごしに、手にもじんわりとぬくもりがつたわってくる。
トゥルグスの声は、さっきよりもやさしかった。
「背中の傷はひどいのか」
イーツェンは右の肩だけをすくめる。
「もう、それほど。たまに痛むだけで」
実際にはもっと頻繁に痛みがあるし、山からくるしんとした寒さは傷にやさしくはなかったが、慣れているので、その程度の痛みは特別なものには感じない。それに、耐えきれないほどの強い痛みは、もうほとんどなかった。
あぐらの膝のすぐそばに杯をおろし、兄は真剣な目でイーツェンを見据えた。
「首の布を外してくれ、イーツェン」
「それは‥‥ご勘弁下さい」
「イーツェン──」
「嫌だ」
おだやかに言おうとしたが声が少しふるえて、イーツェンはひとつ唾を呑み、低くつけ足した。
「ハンサイが知らせたでしょう。見るほどのものじゃない。ただの‥‥奴隷用の輪だ」
トゥルグスの表情をするどい痛みがよぎり、奥歯をぐっと噛んだのが、強い顎の線からわかった。
「見せてくれ。たのむ」
その声は、少しかすれている。イーツェンはゆっくりと茶を離れたところに置くと、首に巻いた布に手をかけた。兄の視線を感じたが、目をあわせることができずに、布を外し、部屋があたたまってもひえたままの首の輪を人目にさらした。誰かに見せたくはないのだ。特に、リグの者には。
一瞬の沈黙が、ひどく重かった。
兄の声はやさしい。
「外せないのか」
「つがいのあるものではないので」
イーツェンは首を振る。
「シゼが、どうにか外せないものかと鍛冶を回ったこともあったけど、首に近すぎるとかで、皆、嫌がって」
「リグの鍛冶師にすぐ切らせる」
きっぱりと言いきり、膝づめで距離をつめたトゥルグスはイーツェンの手から布を取ると、元のように首に巻いてくれた。その手がまたイーツェンの髪をかきまぜ、彼は重い溜息をついて、ぼそっと言った。
「シゼというのは一緒にいたあの男か」
「はい」
どうせ聞かれるだろうと思っていたので、イーツェンは落ちついてうなずいた。むしろ、シゼのことは兄ときちんと話して、相談を仰ぎたい。
「ユクィルスで私の世話をしてくれていた者で、私をここまでつれてきてくれた恩人です」
「そんな男が、何故お前を助けた?」
この問いは予想外で、ふたたび手にしたカラザ茶を飲み、イーツェンは答えを探す。シゼが、何故イーツェンを助けたか──そんなことは、これまで考えたことがない。
兄はイーツェンのためらいが気に入らなかったようで、両目をするどくすがめて、イーツェンの表情を読むように顔を近づけた。
「ユクィルスの兵だろう。それが何故、お前を救って、国を出て、こんなところまで来た。何故リグまで来た? ユクィルスの兵は、我が国を踏みつけにしたんだぞ」
「それは‥‥ゼルニエレードで、シゼは去ろうとしたけど、私が引き止めたんです。私が、リグまできてほしいとたのんだ」
「お前は、何で」
トゥルグスは、きびしい表情でイーツェンの答えを要求する。少し腹の奥がムカッとしたが、やはり兄相手だとどうにも弱く、イーツェンは溜息を口の中で殺した。何で、か。
彼らをつなぐ絆を、本当にわかってもらうには長くなる。ユクィルスの城でイーツェンが何をくぐりぬけなければならなかったか、そばにいたシゼが何を見てきたか──そして彼らが、どれほど傷ついたのか。かつて、イーツェンと同じような立場にいたレンギを救えなかったシゼの心に、大きな悔恨が残っていること。ユクィルスでの凄惨な出来事がイーツェンに残した傷。城から逃げ出して、お互いのぬくもりしか頼るものがなかった日々。背中の痛みに屈服しそうだったイーツェンを、シゼが決して見捨てることなく支え、時には厳しく、海を越えた遠い地まで守り抜いてくれたこと。
そのどれもが、言葉に出して他人に語るには、イーツェンにとって生々しすぎた。そもそも何故、ユクィルスですごした2年間がイーツェンにとってそれほどの地獄だったのかについては、一生、誰に語ることもできないだろう。身に受けた蹂躙を、リグの誰かに知られることを思うだけで、イーツェンは息が詰まる。あれは一生、彼が深くに埋めつづける秘密だ。背に残った傷、目に見える傷など、あれにくらべればほんの一部の傷みにすぎない。
首の後ろをちりりと、熱とも寒さともつかないものが這った。兄にはわかってほしいが、語れないことが多すぎる。人には見せられない秘密を両手いっぱいにかかえて戻ってきてしまったのだと、イーツェンはしみじみ悟らざるを得なかった。
兄は、ぐっと口元を引き結んでイーツェンの答えを待っている。炎の中でパチンと木がはじけ、イーツェンは輝くような真紅の光にちらりと目をやってから、トゥルグスと真正面から視線を合わせた。
「シゼが私を助けてくれたのは、彼がそういう男だからだ、トゥルグス。行くあてのない、たよるものもない私を放り出すことなどできない、あれはそういう男だ。そんなことは考えもしない。ただそういう男だから、私のために、何度となく命を賭けてくれた」
語れないことは山ほどある。だが、語れる真実もある。語らなければならない真実も。
息を深く吸って、吐き、イーツェンはあらためて背すじをのばした。
「私がシゼに、リグまで一緒に来てくれるようたのんだのは‥‥ゼルニエレードで、彼を引きとめたのは──」
もうひとつ、息を吸う。言葉をすぐには吐き出すことができなかった。言わなければならないことはよくわかっている。それなのに、何が自分をためらわせているのだろう。恐れ、羞恥、見栄。兄の目に自分がどう映るかへの不安?
だが、何を恐れることがあるだろう。何を恥じることがあるだろう。城で死を目前にしていたイーツェンを救い出した、その瞬間のシゼの姿、雨の中で彼を背負ってくれた背中、悪夢を見たイーツェンを抱きよせてぬくもりを分け与えてくれた腕。ひとつひとつの記憶が、イーツェンの魂には、深く刻まれている。
そして、イーツェンの手を離してゼルニエレードで去ろうとした時のシゼの目を、彼は思い出す。そこには痛みと、願いと、それを押し隠そうとする抑制があった。イーツェンのことを心にかけながら、シゼはそれでも、彼らふたりに未来があるとは信じていないのだ。リグへ戻ればイーツェンはただ元の自分の暮らしに戻り、そこにシゼの居場所はないのだと思っている。だから、イーツェンの無事をリグの者に托して、去ろうとした。それが最善だと信じて。
肌がざわついて、目の奥が熱くなった。イーツェンは、辛抱強く待っている兄へと視線を戻し、まっすぐに告げた。
「彼が好きだからだ、トゥルグス。シゼが好きだから、ずっと一緒にいたい。私は、彼と一緒に生きていきたいと思ってる」
はっきりと言葉にした途端、肩の力が抜けて、イーツェンは頭がくらくらした。今さら、心臓が喉元までせり上がって大きな鼓動を打っている。
ぬるくなった茶に手をのばすイーツェンの前で、トゥルグスが喉で唸るような声をたてた。
「何てこった、イーツェン」
その声に怒りや拒否のひびきはなく、兄はただ途方もなく困りきっているように聞こえた。馬鹿を言うな、と叱りとばされるだろうと身構えていたイーツェンは、まばたきする。
トゥルグスは拳を作った片手で額を押さえた。
「何てこった。何を言ってるのかわかってるのか。‥‥親父の心臓がとまるかもしれんぞ」
「父上は、気にしないでしょ」
元々、近しい親子ではない。軽い気持ちでそう言ったのだが、兄がいきなり両手に顔をうずめて、打ちひしがれるようにうなだれたので、イーツェンは驚いた。
「‥‥すまん、イーツェン」
絞り出すようなトゥルグスの声は、深い悔恨に揺れて、かすれていた。