もはや冬なので、ヒノで出される夕食も旅の食事と大きくは変わらず、冬の保存食が中心だった。塩漬け肉、燻製の魚、乾燥させた木の実に水で戻した干し菜といった質素なものだが、あたたかな屋根の下、時間や見張りの順番を気にすることなくゆっくりと食べられるだけで、ひどく贅沢な食事に感じられた。
量もたっぷりとある。腹がくちくなるほど食べた後は、干した山ぶどうを小皿に盛ったものが出され、酸味の凝縮した味のなつかしさについ口元がほころんだ。濃く煮出したカラザ茶も飲んで、すっかり気分よくシゼのそばで寝床にもぐりこんだら、もう頭から暗闇に飛びこんだように眠りに落ちていた。
目が覚めると、もう板戸を外した窓から見える空は明るく、昼も近いようだった。起き上がろうとしたが、全身が音を立ててきしみそうなほどこわばっている。嫌な感じの痛みではないが、とにかく疲労が溜まっていて体が思うようにならず、呻きながら何とか体を起こしていると、部屋の片隅で帳面を見ていたモーファンが顔を上げて笑った。イーツェンより5、6歳年上の男で、港町のゼルニエレードから旅をしてきた仲間の1人だ。
「キツかったなあ。次は船かハジュカを使うから、もうちっとマシだ」
「ん‥‥」
まだ起ききってない頭でもそもそと返事をして、イーツェンは周囲を見回した。10人ほど入れる広い部屋に皆で雑魚寝をしたのだ。泊まり部屋として作られたという部屋は壁に作り付けられた暖炉で今も火が燃えていて、室内は暖かく、毛皮の敷布も乾いたものが提供されて、久々に快適な眠りだった。
見回したが、隣で寝ていた筈のシゼの姿はない。と言うか、モーファン以外は誰も部屋にいなかった。イーツェンの寝具以外はきれいに片付けられていて、1人で寝過ごしたことを悟ったイーツェンは気恥ずかしさで赤面した。
──起こせばいいだろうに。
八つ当たり気味に心の中でシゼに呟き、壁際に寄せられた荷の中から自分の荷物袋を見つける。中につめてある筈の着替えを探したが、すっかり何もない。顔をしかめたが、とりあえず旅の癖でシャツとズボンは身に着けて寝たし、頭側に置いておいた靴は泥が乾いたまま残されてあったから、イーツェンは汚れた服のまま、泥を払った靴を履いて立ち上がった。
「親小屋へ行けばメシがあるよ」
親切に教えてくれるモーファンに手を振り、歩き出す。全身の関節が寝ている内に固められてしまったかのようで1歩ごとに体のあちこちがきしんで、また寝床に戻りたくなったが、腹が減っているし汚れてない服も見つけたい。シゼの居場所も気になる。思えば昨夜、「汚れ物を出しておけ」と言われた記憶があるから、多分、服は洗いに出すことになっていたのだろう。イーツェンはそれどころではなく寝てしまったのだが、誰かが──きっとシゼが──荷物の面倒を見てくれたらしい。
それはありがたいが、着替えがほしい。
眉根を寄せて溜息をつきつつ、扉をあけて表に出ると、目の前の道を丁度豚を引いていくところだった女がイーツェンに顔を向けて手を振った。人なつこい仕種にイーツェンも微笑して手を振り返し、光に目をほそめて空を見上げる。冬の空らしく、全体に白っぽく、うっすらとかすみのような雲が出ているが、天気は悪くないし風もあまりない。ただ薄い雲のふちが引き裂かれた布のようなすじになっていて、空の高いところの風は強そうだった。まだ地上にその風が届いてはいないが、届いた時には寒くなるだろう。
首をすくめ、首輪を隠すために巻いてる布を直した。リグの者相手であろうとも、見せびらかしたいものではない。マントも見つからなかったので、身をちぢめるようにして、とりあえずイーツェンは勘に従って歩き始めた。
ヒノの町は、川から引きこんだ静かな流れを囲むようにしてほぼ半円形に広がり、町の外側は木の柵で作った防壁で囲まれている。町並みは十字に交錯する2本の道を中心にしてひろがり、整備された道の中央には水はけのための溝が入っていて、道の表面も固くしっかりと踏み固められていた。区画を割るためか、一定間隔で杭が打たれていて、いかにも計画的な町作りはユクィルスの技術だろうとイーツェンは思う。
十字の道の交差したところには大きな樫の木がそびえて、冬も濃緑の葉に光を溜めていた。何とはなしにその木に近づいてみると、根元に白い石が並べられており、なめらかに磨いた川石の表面には様々な字や護符がわりの模様が刻み込んである。イーツェンが立ちどまって見ていると、横から声がした。
「願い札だ。春になったら、流れに流す」
横を見ると、カーザが立っていた。ヒノへの行程がひとまず無事に終わったことでひとつ肩の荷がおりたのか、彼は晴れ晴れとした表情で、いつになく若々しく見えた。まだ後続の荷の到着を待たねばならないが、そちらもすでにハジュカ2頭を──迎えに行けるところまで──ミナギが出している。
カーザの服はさっぱりと泥を落ちていて、どうやら洗ったもののようだ。イーツェンは何となく、自分のシャツの肘についたままの泥をはたき落としてから、石に目を戻した。
「木ではなく、石に?」
木札に願いを刻んで神々に願を掛けるのは、リグではよくあることだ。子供っぽい行為だとされてはいるが、大人でもたまにやる。刻んだ願いがかなえばそれでよし、かなわなければ悪霊を払うということで、どちらであっても年が変われば燃やしてしまう。
「きれいだろ。上流に行ったところの淵で取れる」
流れで角が取れ、なめらかで平べったい石を、カーザは手の一振りで示して、口元に笑みを溜めた。
「家族をリグに置いてきてる者も多いからな。互いの無事と再会を祈って、名を石に刻むのがいつしかならわしになった。はじめは木札に書いていたんだが、まじないのひとつではないかとユクィルスの司令官が嫌ってな。それで、石に彫って、こっそりと用水池の浅いところに沈めとくようになったんだ。今はもう怒る連中もいないから、こうやって十字樫の下に並べられてる」
「‥‥‥」
イーツェンは白い石を見つめて立ち尽くした。やがて何か言おうと口をひらいたが、それより先に腹が鳴って、カーザが笑い出す。
「悪い、悪い。飯はこっちだ、来な」
大きく手招きされて、イーツェンはカーザの後ろを歩き出した。ヒノは、とうに冬支度をすませた様子で、使われない建物の窓や扉は木板を打ちつけて完全にふさいである。住む人も少ないだろうし、道を歩く者もそれほど多くは目にしなかったが、決してさびれた雰囲気はなく、どこか集落全体から活気が感じられてくるのが不思議だった。
道に面した屋根と柱だけのハジュカの厩舎では、10頭ほどのハジュカがのんびりと干し草を食んでいる。さらに向こう側には畑が見えたが、カーザはイーツェンをつれて逆の方角へ曲がった。にぎやかな人の気配が空気を揺らしているのを感じとり、イーツェンはわけもなく喉元が緊張するのを感じる。
曲がってすぐ目の前にある家は、よくある2階建てだったが、2階の部分がやけに大きく取られているところを見ると、屋根裏まで含めて3階分ありそうだ。建物自体も大ぶりで、リグでは軽めに作ることが多い2階部分も太い材を用いて堅牢に作られており、しかも2階へのぼる階段が家の外についているのがイーツェンの目を引いた。かろうじて斜めの角度で掛かってはいるが、はしごと言ってもいいくらいの急な階段だ。
1階の窓からは、がやがやしたしゃべり声や、煙っぽい空気が流れ出してきている。近づきながら、カーザが説明した。
「もし外敵がヒノに侵入したら、女子供はここの2階へ上げて、階段を落とす仕組みになってるんだ」
「外敵?」
おだやかならぬ言葉に、イーツェンはぎょっとする。カーザが森の熊や狼のことを話しているようには思えない。
「そなえは必要だからな」
そう言って、カーザは1階の大きな扉をくぐった。扉そのものは開け放たれて石で押さえられているが、間口には扉がわりの熊の毛皮が吊るされていて、それをめくって小屋の中へ入る。部屋に満ちた空気のあたたかさに、ほっと体がゆるんだ。
中は太い柱で支えられた大きな部屋で、15、6人の男たちが部屋の中心の炉を囲んでいる。こういう小屋の床は土間か、さもなければ丸太やそれに近い木を並べて床にしてあることが多いのだが、この部屋は丁寧に仕上げられた木の板で立派な床板が敷かれており、イーツェンは靴裏の泥を入り口で軽く落とした。木のぬくもりと匂いが心地いい。
皆は、床に積んだ毛皮に座りこんだり寝そべって、くつろいでいる様子だった。中央の炉は床に四角く炉を切って灰を敷きこんだ平炉で、炉のはじに焼きレンガを2つ並べた簡単な鍋置きが据えられ、その上に浅い鉄鍋が据えられていた。ぐつぐつと、中で何かが煮えている。イーツェンの鼻は獣肉の匂いを嗅ぎ取って、また腹が鳴った。
「ああ、おいでおいで」
小柄な女がぬっと現れて、イーツェンの肩を抱くように炉の方へつれていく。部屋が全体にけぶっているので、女性がまざっていることにイーツェンは気付かなかったが、よく見ると男の中になじんで談笑している女たちが何人かいた。今、イーツェンを炉のそばに座らせて手に木の椀を渡そうとしているのは、たしかミナギの妻で、ラーセイという名だった筈だ。
鍋の中身をよそった皿を渡される。山盛りにされた肉からは熱々の湯気が吹き出しているようで、たちまち口の中に唾液があふれてきたイーツェンは礼もそぞろに、口先でどうにかさました肉にかぶりついた。噛んだ肉から染み出してくる汁がとてつもなく熱く、目を白黒させながら口から湯気を吐き出していると、周囲の皆が笑った。
旅で食べ慣れた、味の辛くて固い塩漬け肉ではなく、まだやわらかい鹿肉だった。弾力に富んだ肉を噛みしめると口の中に獣の味と香りがひろがっていく。そう言えば、獣脂に漬けてあるとっておきの鹿がある、と昨日自慢げにミナギが言っていたのはこれだったのか。新鮮な肉ともまた違う、熟成の進んだ濃厚な肉の味が、一緒に煮こまれた木の実の香りとまざりあっていて、ねっとりと香ばしい味わいがあった。少ない煮汁で焼くように、鉄鍋でじっくりと料理したもののようだ。いかにもな山の味わいが、なつかしかった。
「ふっ、ふっ」
熱さに、意味不明な音まじりの息をこぼしながら肉を噛みきり、煮汁と肉汁をいっしょに呑みこんで、手に押しつけられた飲み物をあおる。幸い、杯の中身は水だった。
食べながら、少し落ちついてきたイーツェンは、左右に目をやってシゼを探したが、ここにもその姿はなかった。とりあえず腹ごしらえをしてから、と思っていると、イーツェンが気付かないうちに右側に陣取っていたミナギが話しかけてきた。
「海を渡ってきなさったそうですな」
「ん‥‥」
今度は次に渡された黒パンで皿を拭って食べながら、イーツェンはうなずく。正直、旅の話は今はまだしたくない。だが、好奇の目がいくつも自分に集まっているのを感じて、もごもごと続けた。
「城のように大きな船に乗って海を渡ってきた。200人も乗せられるそうだよ」
うわっ、とその言葉に皆がどよめく。まだ子供っぽい顔をして、頭の上できつく髪を結い上げている娘が身をのり出した。
「海にはどんな怪物が?」
イーツェンは笑って肩をすくめる。リグを離れてから、どんな怪物よりも人が怖い、ということを学んだ日々だったが、勿論そんなことは言えなかった。
「船に害は為さないけど、船を追ってくる大きな魚の群れを見た。波を切るように駆けてくる、人よりもずっと大きな魚だよ。子供なら丸のみできるほどの海蛇を船乗りが釣り上げたこともある。でも1番の怪物は、海の波と、嵐だ」
あの巨大な嵐、まるで船ごと巨人の手の中で転がされているような衝撃や、船が今にも砕けんばかりの船体のきしみ。火をすべて落とした暗闇の中、しがみつけるものにしがみついてひたすらに耐えていた恐怖。言葉では伝えられないだろうと思いながら、イーツェンはいくつか、相手が聞きたそうなことを選んで語る。甲板から船内へ、格子甲板の隙間からなだれこんできる海水。船底に溜まるアカ水の、涙が出るような悪臭。次々と運び込まれる怪我人と、闇に近い中での手当て。
話しているうちにいつの間にか人の輪ができていて、彼らの問いに答えては語るのに、思いのほか時間がかかってしまった。やがて、いつのまにやらこの夏にあたりを襲った夏嵐に話が移り変わって、皆が夏の思い出を語り出した隙に、イーツェンは横のミナギに耳打ちする。
「シゼを見なかったか?」
ミナギは、どうやら山ぶどうの酒らしきものが入った浅い椀を口に運びながら、太い眉を持ち上げるようにしてイーツェンを見た。イーツェンは何となく、言わずもがなのことをつけ足す。
「私の連れだ」
もっとも、ミナギにしてみれば今回の一行は全員「イーツェンの連れ」だが。
「異国の男?」
ややぶっきらぼうに問い返されて、ムッとしたが、うなずいた。それがどうした、と反射的に喧嘩腰になってしまいそうな自分を抑える。他意はないのだ、他意は。その筈だ。
「そう、その男」
「あれは何者なんです」
今度こそはっきりと非難がましいひびきを聞きとって、イーツェンはほとんど入っていない水を飲む仕種でひと呼吸分稼ぎ、気持ちの整理をこころみた。昨日、シゼに面と向って言われなかっただけマシだろう。そう自分に言い聞かせる。
カーザや旅の一行がこの道程の間にシゼの存在を受け入れたからと言って、ミナギのように新しく出会う者にとっては、シゼはただの「ユクィルスの男」でしかないのだ。そのたびごとに不信や非難がくり返されるのは、もう仕方のないことで、イーツェンにはどうしようもない。リグに戻ればさらに覚悟が必要だろうし、根気よく対していくしかない。
答えるのに間が空いたのは、腹が立ったからだけではない。ミナギの問いにどう答えたらいいのか、自分の中にはっきりとした答えがなかったのだ。考えをあちこちにめぐらせながら、イーツェンはできるだけおだやかに言った。
「私の大事な恩人だ」
正しい答えだと思う一方で、その言葉ひとつでは足りない気がしてならない。シゼがどうイーツェンを救い、守ってきたか、それを伝えるすべが何ひとつない気がして、ふっと胸がつまる思いになりながらイーツェンは言い足した。
「本当に‥‥大事な人なんだ」
ミナギがぎょっとしたようにイーツェンの顔を凝視する。何か言いたそうにしたが、彼はひとつ息を吸って、ぼそっと答えた。
「水車小屋の方に行ったのを見ましたよ」
「ありがとう」
イーツェンは礼を言いながら、それ以上誰かに引き止められないように素早く立ち上がる。シゼが顔も見たい。ゼルニエレードに着いた時のように、イーツェンを置いて何も言わずにどこかへ去っていったとは思わないが、居場所もわからずにいるのは落ちつかない。
煙と熱気が立ちこめている小屋を出ると、ひとつ段になっていたのを忘れて戸口からころがり落ちそうになりながら、イーツェンはよろめきつつ着地した。あたたまった体には、一段と風がつめたい。身をちぢめてぶるっと体をふるわせ、イーツェンは首の布をきつく巻き直して歩き出した。
水車小屋がどこかは知らなかったが、町の外だろうと判断して門のそばの見張り小屋の男に方角を聞き、町裏の小さなくぐり戸から柵の外に出た。町の周囲は見晴らしがきくように木が切り開かれているが、それでも膝近くまである草群れがあちこちで枯れかかっている。その間を人とハジュカが踏み固めた道が数本通っていた。
町から30歩ほど離れたところに、川が流れている。やがてカジャの川に流れこむ支流の1本であると言い、今は川床の中央を静かに流れていたが、いつもの川はもっと水が多いのだろうということが乾いた川床の幅からもうかがえた。普段は川底になっているのだろうとおぼしい乾いた地面には、小さな石がたくさん転がっていて、イーツェンは歩みよって石を拾ってみたい気にかられるが、今は別の用がある。
川からは小さな水門を通して水路を町の中へ引き込み、用水として細い川を町内の数ヶ所に通していた。治水に長けていた、ユクィルスの技術だろう。
冬になって水量が減っているとは言え、それでも川は15、6歩ほどの幅で悠然と流れていく。それを上流へ向かってしばらく道なりにたどった先に、水車小屋があった。水が減っても水車が回るよう川の一部に石で堰を作って、水車のある岸へ水を流している。歩みよるにつれ、堰からこぼれ落ちる水音が滝のように耳にひびいた。
その流れの力を使って水車が回る音が、水音に混ざってギシギシと聞こえてくる。小屋の中には粉ひきに使うひき臼がある筈だ。人気のなさそうな小屋に歩み寄ろうとした時、風に混ざって人の話し声のようなものが耳をかすめ、イーツェンは木々の間で足をとめて周囲を見回した。つめたい首をすくめて、手のひらに白くくもる息を吐きかけながら、小屋の向こう側へ視線を向ける。
水辺の土手に生えた柳は、低い枝を払われていて、川岸の見通しはいい。その水辺、小高く盛られた土盛りのこちら側に、人影があった。
水音にまぎれて言葉はよく聞きとれないが、話している声は彼のものらしい。ひとりなのか、それとも見えない相手がいるのか。イーツェンはまばたきして、相手を見定めようとした。その時、イーツェンの存在に気付いたのか、それとも丁度頃合いだったのか、声がとまって男が立ち上がる。
リョクサだった。片手に木剣を下げた彼は、流れに背を向けて早足で歩き出したが、その道の先にイーツェンが立っているのに気付いて、驚きに目を大きくした。いつもあまり表情の変わらないリョクサの顔が上気して、頬が赤くなっている。寒さからにしても色が強く、イーツェンが当惑していると、リョクサはひとつうなずいてから小走りでイーツェンの横を駆け抜け、ヒノの方へ走り去った。
イーツェンは短く刈られた草を踏んで、土手の方へ近づく。水車小屋のわずかに上流にはまたひとつ低い堰が作られており、魚をとらえるための細い籠をいくつもくくりつけた縄が水辺の木々の幹に結んで、流れに渡されている。柳の枝を束ねたものがいくつも沈められているのも見えた。水でやわらかくしてから、籠を編むのだろう。冬の間、イーツェンもやらされたことがある。
やや上流の水べりでシゼがかがみこみ、膝をついて、水をすくって顔を洗っていた。イーツェンが風に身をすくめるほど川べりの風はつめたいというのに、シゼは上半身裸だった。
その姿にぎょっとして立ちすくみ、何か言おうと口をあけたが、イーツェンは言葉が出ない。
イーツェンの──リグの民の──薄褐色の肌とはちがい、シゼの肌は少し赤みがかかっている。旅の間に陽光に照らされた腕や顔、首すじはなめらかに焼けていたが、冬の光を浴びる背中は意外なほど肌の色が淡く見えた。腕が動くたび、肩骨がなめらかに動き、肩から背中にかけて束ねたような筋肉のすじが盛り上がる。何気ない動きの中にすら強さがあって、イーツェンは見惚れるようにシゼの背の線を目で追っていた。
シゼの背には古傷が白っぽく残り、ほとんどが剣で受けた傷のようだったが、何か原因がわからないものもある。脇腹に残った傷はやや赤みを帯びたまま癒えていて、毒でも入ったのかとイーツェンは息苦しくなった。自分の傷を感じるのとはまるで違う痛みに、肌がちりちりする。あの傷は、どれほど痛んだのだろう。
「1人で町の外に出ては駄目だ」
水音がやみ、シゼが立ち上がりながら素っ気なく言った。イーツェンを振り向く彼の首すじから胸元へと水滴がつたって、シゼは脱いだシャツで無造作に水を拭う。そのシャツを何回か振ると、土手をのぼり、木々の間を歩いていって2本の木の間に渡してある棒にそのシャツを引っかけ、そばに干してある別のシャツを手にした。
「あ、服」
イーツェンは水辺の空き地に干してある洗濯物に今さら気付いて、木の間に大量に垂れ下がっている服の中から自分のものを探そうとする。シゼがシャツに腕を通しながら答えた。
「起きる前に持っていこうと思っていたが、リョクサに稽古を頼まれて、思ったより時間を取った」
「ああ、それで」
リョクサが上気したような顔をしていたわけだ。シゼの足元にも木を削った素朴な木剣があるのを見ながら、イーツェンは納得してうなずいた。旅の途中は誰もが疲れすぎていて、剣の稽古などする時間も余裕もどこにもなかった。ヒノについて早々、いつのまに2人で──と気持ちが少しもやっとするが、元々リョクサに剣を教えてくれとシゼにたのんだのは自分なので、不満を感じるのはわがままだろう。棘のような感情を、イーツェンは心の外に追い払った。
「リョクサはどう? 筋がいいと思うんだけど」
シゼは、枝に掛かってる服の中からイーツェンの服を取り、乾いたかどうか手でたしかめながらうなずいた。
「体の使い方はしっかりしている。だが、肘よりも手首を使おうとする悪い癖がある」
「山刀に慣れているからだよ」
イーツェンはなつかしい気持ちで微笑む。イーツェン自身、ユクィルスの城でシゼに剣を教わった時、幾度もそれをシゼに注意されたものだ。手首ばかり使おうとすると不安定になるし動きの効率が悪いから、肘をもっと意識して使えと。
シゼは少し難しい顔をした。
「山刀でも、肘を使った方がいいように思いますが」
「そうかなあ」
首を傾け、イーツェンは考えていたが、ふと思いつきが浮かんできて、手を打った。
「お前の方も、山刀の使い方を教わってみたら? リョクサでもいいし、カーザもうまいらしいよ。お互いに得るところがあるかもしれない」
シゼはそれには返事をせず、手にそろえたイーツェンの服を示した。
「着替えますか」
はぐらかそうとしていることには気付いたが、イーツェンはいったんその話題を棚上げすることにした。山刀とは言え誰かに戦い方を教わるのはシゼには居心地が悪い考えかもしれないし、結論をせまったところでいいことはない。納得すれば、そのうち返事が戻ってくるだろう。
「ここで着替え?」
「汚れた服のままがいいですか」
少し笑って、問い返された。うーんとうなり、イーツェンはシゼの差し出した服を受け取る。ほかに人がいる様子はなかったが、とりあえず木陰に寄ると、上から下までそっくり着替えた。寒さと、干されていた服の冷たさに鳥肌を立てながら、それでも久々にきれいに洗った服をまとうと気分がさっぱりする。
「食事は?」
「食べたよ」
「背中の調子は?」
「寒いからちょっとこわばりがあるけど、痛みはほとんどない」
「足の裏は」
「今日は痛くない」
「首は──」
イーツェンは右手を上げて、矢継ぎ早のシゼの問いをとめた。
「私は平気だ、シゼ。ぐっすり寝たし、ごはんも食べた。着替えもしたから機嫌もいい」
言った途端にくしゃみが出て、シゼは難しい顔で干してあるマントを取ろうとしたが、まだそこまでは乾いてないようでさらに難しい顔をした。イーツェンは「いいから」と手を振って、毛織りのシャツの下で両肩をすくめ、赤くなっているだろう鼻先をこする。リグの育ちだ、寒さには慣れている筈だが、やはりユクィルスでの生活で体がなまった気がする。
「お前は? ずっとここでリョクサと剣の稽古をしてたわけじゃないだろ」
「昼前は洗濯とハジュカの餌やりを手伝っていた」
よく働くものものだ。イーツェンなど昼まで寝てしまったというのに。
「探したよ」
皆と一緒にいるかと思ったのに、と続けそうになって、イーツェンは言葉を呑み込み、川の方を向いた。ミナギの、あまりシゼを歓迎していない様子が今さらずしっと胸にこたえる。肩をすぼめて、彼は川へ向かって歩き出した。
草が生えてすべりやすくなった土手を川べりまでおりていくと、水音が肌にせまるほど近くなる。短い下生えの上に尻を下ろして座りこみ、膝をかかえて、イーツェンは胸いっぱいに水の匂いを吸いこんだ。湿地でも散々水の匂いは嗅いだが、同じ水でもこの川の水はまったく匂いが違っていて、森の匂いと混ざり合った水の香には、冬の空気のように潔い清涼感があった。寒さに体がちぢむが、同時に、身の内からすべてのものが洗い出されていくような気がする。
すぐそばに、草を踏む足音が近づいた。
「雪になるかも、とカーザが言っていた。火のそばに戻ろう、イーツェン」
「もう少しだけ」
引き寄せた膝の上で頬杖をついて、イーツェンは目をとじる。低い堰からあふれた水がこぼれ落ちる音が体を満たしていくのにまかせて、心の緊張をゆるめた。水音を、まるで静寂のように感じるのは不思議だ。
火のあたたかさには心惹かれるが、すぐに戻りたいとも思えなかった。戻ればまた旅の話や、ユクィルスの話までも色々聞かれるのではないかと思うと、腰が重くなる。リグを離れている間に多くのことが変わってしまって、イーツェンは人に注目される自分をどうしたらいいかわからずにいた。
リグに戻れば、己の身の回りはすべて以前とそっくり同じに戻るかのような錯覚があったが、そうはいかないのだということがやっと身にしみつつあった。リグも変わっただろうし、何より、イーツェン自身が変わったのだ。
(それに──)
シゼがいる。
イーツェンにとっては当たり前の、そのことがどれほどリグでは物事を波立たせるか、今さらながらに考えていたらまた腹が立ってきた。ただ大事な人をつれていく、それだけのことが、何故こんなに難しくならなければならないのだ。
川を見つめて唇を引き結ぶイーツェンの横に、シゼが同じように腰を下ろした。何か言われるかと思ったが、彼は黙ったままイーツェンに身をよせ、左腕を背中に回して、膝頭をなだめるようにやさしく叩いた。川風から少しでもかばおうとしてくれている様子に微笑み、イーツェンは体をよせて、シゼの肩に頭を預ける。そんな細かな動きのひとつひとつを首にくいこむ輪が邪魔してくるのも、相変わらず忌々しい。
シゼは何も言わず、イーツェンも何も言わなかった。眠る時以外に、こうして2人だけでいられるのは久々のことだ。シゼによりかかりながら川面を眺め、細かな渦や白波が生まれては消えていく様を、イーツェンはただぼんやりと目で追った。
やがて、シゼが回した手でイーツェンの肩を叩く。
「戻ろう、イーツェン」
「‥‥ミナギは、お前を他所者として見ている」
川を見たまま、イーツェンは呟いた。言いたくはなかったし、シゼもわかってはいるだろうが、あえてイーツェンが告げておくべきことのような気がした。
「わかっている」
「でも、カーザやリョクサは、もうちがう。お前のことを、お前がどんな男かを知っているから、ちゃんと受け入れてる」
イーツェンは、おだやかなシゼの返事にかぶせるように早口になる。
「すぐには難しくても、いつかはみんなわかる。だから‥‥」
だから、と小さく口の中でくり返して、イーツェンは言葉を探した。だから。何と言えばいいのだろう。ミナギの態度に傷つくほどシゼはやわではないだろう。リグの者はただでさえ異国の人間には不信感を隠さないところがあるし、ユクィルスの兵としてのシゼの過去は、リグでは敵意や憎しみさえ生みかねないものだ。そんなことは、はじめからわかっていたことだった。わかっていて、イーツェンはシゼに一緒に来てくれとすがったのだし、リグまでは一緒に行くと、シゼはうなずいたのだ。
──その先のことは、運命にまかせる。
彼の言葉を思い出し、溜息をついて、イーツェンはシゼの肩に額をのせた。背中に回した指先でシゼの背をなでる。運命は、まだ見えてこない。
ただ、守れればいい、と願った。イーツェンにできるのは、シゼがずっとしてくれたように、今度は彼がシゼを守ることだけだ。だが、対する相手がリグの人間だというのが何とも皮肉で、それを思うと気持ちが苦くて仕方なかった。リグの者たちの気持ちはわかる──頭では。だが心の一番底では、リグへやっとたどりつこうとしている今、ここまで彼らが何をくぐり抜けてきたのか知りもしない者たちからシゼがそしられたり敵意を向けられることに、我慢がならなかった。
「気にしなくていい、イーツェン」
シゼは静かに言って、回した腕でイーツェンを体の横に抱きこんだ。
「大丈夫だ」
「‥‥みんな、知らないんだ」
ふっと喉が詰まって、呟いた声が半ば涙声になったことに、イーツェンは自分で驚いた。咳払いして、ごまかそうと無駄な努力をしていると、シゼが身をねじって、両腕でイーツェンのひえた体を抱きこんだ。
「あなたが知っている、イーツェン」
「‥‥うん」
シゼの肩口に顔をうずめ、ほとんど反射的にすがりつくように抱き返して、イーツェンはくぐもった声でうなずく。何もかも、シゼと一緒にいた時間はイーツェンの中に深く刻まれている。
「それで充分だ」
シゼの手のひらが、子供をあやすようにイーツェンの肩骨の間をやさしく叩いた。イーツェンは体の力を抜いてシゼによりかかり、溜息をこぼす。そうしてシゼの腕に身を預けていると、寒さに痺れる肌とは裏腹に、色々なこわばりが体からも心からも流れ出して、溶けてしまうようだった。
「立てますか」
イーツェンをかかえたまま、シゼがうながし、体を支えて一緒に立ち上がる。一旦は身を離したが、イーツェンは正面からシゼに両腕を回し、抱きしめて首すじに顔をうずめた。
シゼの手がたしかめるように髪をなでる。だが、やさしくなでながら、耳元に聞こえてきたのは子供をたしなめるような物言いだった。
「防柵の外に出る時は1人では駄目だ、イーツェン。いくらこのあたりが安全だと言っても、何があるかわからない」
そう言えばさっきも、シゼは開口一番イーツェンにそれを言ったのだった。また言うということは、よっぽど説教しておきたいのか。
イーツェンはシゼのシャツに鼻先をうずめたまま、口をとがらせる。
「水場までなんて、女子供も来るだろ」
「1人では来ない」
「リョクサは1人で戻ってったぞ!」
「武器を持っている」
言い返されるのがまた腹立たしく、イーツェンはシゼから少し体を離してにらんだ。
「しょうがないだろ。お前を探してたらここまで来ちゃったんだ」
シゼはまだ何か言いたそうにしていたが、左手でイーツェンの前髪を額から払うと、その手でイーツェンの頬を包んだ。ひとつ溜息をつく──その溜息がイーツェンの乾いた唇をくすぐって、ほんの一瞬、唇が重ねられた。
ひえた唇の、かすめるような感触が、イーツェンの唇にうっすらとした痺れを残して離れる。シゼの指の腹がイーツェンの頬をなでたが、その指もすぐに離れた。
イーツェンは言葉もなく、足元から木剣を拾い上げて土手をのぼりはじめたシゼを追った。反射的に唇をなめるが、くちづけの名残りは幻のように消えている。欲望や快楽のためのくちづけではない、ほんの刹那の、ほとんど挨拶のようなくちづけなのに、体の奥をわしづかみにされたようで、鼓動が強くなっていた。
土手の上でシゼが振り向き、イーツェンに左手をのばす。そんな斜面ではないが、おとなしくイーツェンはその手を掴んで引き上げられるのにまかせた。そのまま手を離さずに握ったまま歩き出そうとすると、シゼはイーツェンの顔を見たが、手を振りほどこうとはしなかった。
手を握り、よりそうようにして2人で川辺から戻ろうとした時、ふっとまたシゼが足をとめて上流へ顔を向けた。イーツェンはシゼの視線を追って川の流れを見つめたが、上流から拍子を取るような歌声が聞こえてくるのに気付くまで、数瞬あった。段々と近づくそれは、野太い男の歌声だ。
「波の数、数えて、雨の瀬に、漕ぎ出しゃ、鳴くのは、カエルと、モズばかり」
何だかよくわからない、ほとんど子供の戯れ歌のように聞こえるふし回しが、水音にまじって大きくなってくる。船乗りの歌だと悟って、イーツェンはシゼに体をよせ、シゼの左手を握ったままの手にぐっと力をこめた。知らない歌だが、旅の途中、船頭たちが似たような歌でふしを取りながら船を操る様子はたくさん見てきた。
──ここを、船が通るとすれば‥‥
すぐに身を隠せるように土手のふちまで下がり、緊張のおももちで見つめていると、先が細く、船べりの低い川船が見えてくる。船首に立つ船頭が長い竿を操りながらほがらかに歌い、石堰とその横で乱れる流れを上手によけて、川向こうへと船を寄せた。
川船の上には何故か天蓋のような覆いがしつらえられており、一見すると船の上に小さな小屋を積んでいるようにも見える。何だろうあの船、とイーツェンが目を見ひらいて凝視していると、船頭のすぐ後ろに座り込んで合いの手を入れていた男が、いきなりがばっと船べりに身をのり出し、船頭に叱られながら、川に飛びこまんばかりの勢いでイーツェンへ向けて怒鳴った。
「イーツェン!」
その声と相手の顔が頭の中で重なった瞬間、まるで足元がひらいて自分が呑み込まれていくような気がした。自分が真っ青になっているのがわかる。肌が凍ったようで、全身が小さくふるえ、握っているシゼの手の感触すら感じなかった。
シゼの腕がイーツェンを抱えこんでしっかりと支える。頭がくらくらして、イーツェンは何とか足を踏みしめようとしたが、膝が崩れそうだった。
「イーツェン!」
マントをまとった男は両手を振り回し、船をイーツェンのそばの川岸につけろとわめくが、船はそのまま下流へと流れていく。ヒノの船着場に入るのだろう。途中で船からとびおりようとした男を船頭が怒鳴りつけ、2人は怒鳴り合いながら船と一緒に瀬を回って、木々の生える土手の向こうに見えなくなった。
茫然と見送るイーツェンを、シゼが抱きかかえる腕で揺すった。
「イーツェン、あれは誰です?」
「‥‥あれは」
イーツェンをのぞきこむシゼの眉はぐっとよせられて、厳しい影がくっきりと刻まれている。イーツェンはその顔を見つめて、かすれた声を絞り出した。
「兄上だ」
シゼが大きく目を見ひらいた。おかしなもので、彼の驚きを見ることで少しイーツェン自身の驚きがおさまって、イーツェンは浅い呼吸をくり返しながらうなずいてみせる。それでもまだ、深く呼吸をすると心臓がこぼれおちてしまいそうだった。
「下の兄だ‥‥」
トゥルグス。リグの第二王子であり、イーツェンにとっては8つ年上の兄は、たしか今は書物を管理する古帳の長になった筈だ。イーツェンは幻でも見た気持ちで船が消えていった土手の向こうを見つめたが、耳に残る兄の声は確かに本物だった。
リグにいる筈の兄が、山のふもとのこんなところで一体何をしているのだろう。
いつかは真正面から顔を合わせなければならないと思っていた相手だ。シゼに手紙を書くよう提案されてから何度も、イーツェンはトゥルグスに手紙をどう書こうか考えて、そのたびに行き詰まってきた。その相手が、何故か今まさに、目の前を船に乗って流れていったのだ。
一体、どういうことなのか。今何が起こったのか、まったくわからないまま、イーツェンは下流を見つめて茫然としていた。