吐き出す息が白く曇り、風の流れに散らされていく。
 イーツェンは狐の毛皮で裏打ちされた重いマントを体に巻き付け、ひえきった全身をふるわせた。どんよりと空が濁り、空気は霧をはらんで湿っぽく、身にしみこんでくる冷気を払うすべはない。至るところ、どこもかしこも大きな影に包まれていて、つめたかった。
 風が弱いのと、雨がふっていないことばかりはありがたかったが、空に群れる雲の黒っぽさは不吉だ。カーザたちもそう思ったのか、昼の休憩もそこそこに歩き続ける強行軍で、全員の足取りが引きずるように重かった。
 今朝からロバの機嫌が悪く、わずかな溜まり水を渡るのも嫌がって、首を振り立ててはいなないて、手間をかけた。なだめようとする声も聞かず、挙句に背の荷を振り落とそうとして暴れ、とにかく聞き分けがない。しばらく人の手をわずらわせていたが、最後にはそれまで黙っていたシゼが「目隠しをしよう」と切り出してイーツェンを驚かせ、カーザがいきなり得心の表情になって、ロバの頭に即席の袋をかぶせて視界を覆ったのだった。
 はじめはそれも嫌がっていたが、やがてロバがおとなしくなって引かれるまま悪路を歩き出したのには、イーツェンは目を見張った。馬にそうするのをユクィルスで見たことがある、とシゼは言い、カーザたちは感心した様子でうなずいた。
 旅の間に少しずつ、信頼はこうして積み重なっていくものかもしれない。
 どうやら、その一帯には数日前に雨が降ったらしく、足元は思った以上に悪かった。疲れが積み重なり、イーツェンは寒さが骨までくいこんでくるのを感じる。首の輪の上に布と毛皮とを巻いているのだが、金属の輪は首を巻く氷のようで、時おり頭の芯に強い痛みまでも感じた。ズキズキと、鼓動にあわせるような痛みが、切りつけるようなするどさで血の中を駆け抜けるたび、足がとまりそうになる。
 皆が無口だった。人数が半分以下に減ったのもあるし、疲れ果てているせいでもある。イーツェン以外の全員は自分の食糧と水を背にかついでおり、やや前かがみになって湿った地面に注意深い目を据えて歩く一行を、重苦しい空気が包んでいた。
 それでも、わずかずつではあったが、次第に景色は変わりつつあった。イーツェンは木の変化に気付く。水が地面の上に上がりやすい湿った土地では、背の低い潅木や、葦やシダの茂みばかりで、大きな木はほとんど根付かない。それでも泥の中にどうやってか根を張る木も見てきたが、どれも枝には独特のひょろ長さがあって、決して大地に深く根付いているようには見えなかった。その風景が、次第に、太くしっかりと根を張った木々に変わられていく。
 やがて、見上げるほどのコナラの木が3本固まって生えている小高い丘が見え、カーザがそれを指して全員を鼓舞した。
「爪先を越えられるぞ!」
 おう! と応じて皆が口々に明るい声を上げ、久々の笑みを交わす。
 爪先を越える──
 カーザがそう言うのは、この湿地を含んだ広い平地が「シレイギオの大足」と呼ばれ、巨人が山越え──と言っても1歩で踏み越えただけだが──の前に片足で力を溜めた大きな足跡だと言われているからだ。すなわち「爪先」を越えるというのは、湿地と平地を抜け、山のふもとへ入ることを意味する。
 カーザの指したコナラの木は幹がみっしりと太く、曲がった根を地に広く這わせて枝を広げていた。さらにその向こうに目を向けたイーツェンは、枝を広げた木々たちの姿を見つける。地を這うもやでうっすらと白く包まれた風景は、まだ遠かったが、朝に見た景色とはまるでちがっていた。
 爪先越え。木の下を行く道を歩きながら、イーツェンはその言葉を胸の内で繰り返してみる。爪先を越えれば、集落のヒノまではもうすぐの筈だ。ヒノはまだリグの外だが、ユクィルスが作った駐屯地のひとつで、今はリグの民が住む町となっている。
 それにしても、こちら側が「爪先」だったのか、と1人でこっそり感心もしていた。伝説によればここから山を越えていったのだから、爪先が山に向かっているのは当たり前なのだが、あまり考えてみたことがなかったのだ。山を踏み越えて、巨人はどこへ歩き去っていったのだろう。彼にかかったら、イーツェンがここまでしてきた旅など、ほんの数歩ですんでしまうにちがいない。
 そんなことをとりとめなく考えるうち、進む足取りはさっきよりも軽くなっていた。皆が明るい顔をしている。視線を横にめぐらせると、彼と並ぶように歩いているシゼの表情も、ほっとゆるんでいるように見えた。皆のようにリグへの帰郷の念はなくとも、旅に一段落つけたいのは彼も同じだろう。誰もが疲れている。
 ふっとシゼの顔が動いて、歩きながら、まっすぐにイーツェンを見た。物を問うように小首を傾げた彼へ、イーツェンは微笑む。リグへの距離が近くなればなるほど、こうしてシゼと共に肩を並べて歩けることが奇跡のように思えてならなかった。帰りたい──かつてユクィルスの城にいた時から、幾度も口に出してそうくり返しはしたが、イーツェンの中にはいつでも深いあきらめがあったのだ。生きてふたたびリグを見ることはかなうまいと。
 それが、今こうして、リグの仲間やシゼと共にリグへ向かって歩いている。ユクィルスを出てからまだ半年にもならない月日だったが、その間に起こった物事は数えきれない。それに、思えばこの旅は、シゼと城で出会った3年前、お互い知らぬ内にすでに歩み出していた道であるような気がした。
 もし何かひとつでも物事がかけ違っていたならば、彼らのどちらも、今ここにこうしてはいられなかっただろう。もし、シゼが城に残っていたイーツェンのところへ戻ってきてくれなければ。彼を城から救い出そうとしてくれなければ。もし彼らのどちらかが、リグへ向かうことをあきらめてしまったならば。
 一体いくつの運命を積み重ねるようにして、ここまで共にたどりついたのか。それを思うと、気が遠くなりそうだった。
「イーツェン」
 ふいに足がすくんだようにとまってしまったイーツェンを、シゼが呼ぶ。背に負った大きな荷のせいでやりにくそうに右手をのばすと、泥のついた手でイーツェンの額から前髪を払った。
「もう少しだ」
 疲れた、だがやさしい声で言い、シゼはやはり泥のこびりついた靴で地を踏みしめるようにして歩いていく。イーツェンもふたたび歩き出しながら、前を向いて、ひとつうなずいた。最後まで歩き通さなければならない。旅は、まだ終わってはいない。


 爪先越え、というカーザの言葉通り、歩くにつれあたりの景色はあっというまに変化して、じきに彼らは黒ずんだ木々が左右に立ち並ぶ乾いた土の道を歩いていた。大地には木の根が絡み合って網の目のようにひろがり、風が木の枝を揺らして抜けていく、言葉もなく囁くような、その音がなつかしかった。
 木の根元は分厚い苔に覆われていて、木々の間にも水気の多い空気が漂っているが、地面は乾いていて歩きやすかった。道には明らかに人の手が入っており、邪魔な枝や根を払った跡があちこちに見受けられる。ところどころに、道標として短い杭が左右に打ちこまれていた。それは湿地でも幾度か目にしたしるしだったが、どうにかして旅の道を作ろうという試みが続けられてきたことを伺わせた。ぬかるむ湿地でも、土留めの柵や石堰のおかげで足元が支えられた場所もあったのだ。
 カーザの話では、それらはユクィルスが──リグの者を使って──着工したものが多く、今後引き継ぐかどうかについてはリグの中でも意見が割れているとのことだった。
 引き継ぐべきだろうと、イーツェンはそれを聞いた時、言葉に出さずにひそかに思ったのだった。カル=ザラの街道を通ってユクィルスが攻め込んできたように、新たな道ができれば次はどのような災厄が訪れるかわからないと怖れる者たちの心もわかる。だが、もうすべては動き出してしまったのだ。ならば前へと進むしかあるまい。そのためには道が必要だ、というのがイーツェンの思いだった。
 理屈だけではなく、とにかくイーツェンは、あの広い海のように、広々とした世界へとつながる道がほしい。どちらを見ても波しか見えず、気が遠くなるほど広い海原だったが、世界はその海よりもさらに広いのだ。そこへの道を、ユクィルスへの遺恨ゆえに閉ざそうとするのは、あまりにも後ろ向きな気がした。ユクィルスの残したものを、すべて傷として捨ててしまうのも。
 だが、リグにいなかった自分がそれを口にしてしまうのは乱暴な気がして、彼はその思いを胸にしまっていた。ここまで一緒に歩いてきたシゼならばわかってくれるかもしれないが、ゆっくり語る余裕もなく、旅はここまで続いてきた。リグへ帰りつけば、その時に己の考えと向き合う時間もできるだろう。それまでは、身の回りのことだけで精一杯でもあった。今は、とにかく歩くだけだ。1歩でも前へと。
 道先案内人は後ろに残してきたが、道に詳しいセッカという青年が通りすがりに木を指さした。動きにつられたイーツェンがその先を見ると、大人の背丈ほどの高さの枝が折られた跡がある。まだ新しく、木の幹に残った傷は乾いてもいないようだった。
 せいぜい1日、2日というところだろう。こんなところの枝を折るのは、誰かへの目印か何かだろうか。イーツェンは、歩きつづけながらセッカと話しているカーザを見て、眉をひそめた。
 その時、シゼが左腕を出してイーツェンの足をとめた。疲れから、よろめくように地面を踏みしめたイーツェンは、シゼが険しい顔で道の行く手をにらんでいる様子をけげんに見つめた。
「シゼ?」
 ざわざわと、木々の間をつめたい冬の風が抜け、まだ枝にしがみつくように残っていた赤い葉がほろりと舞い落ちる。黒い斑点の染みた葉の表がくるりと裏返って、地面へと落ちていった。
 シゼの右手が、腰の短剣の柄にかかった。長剣は背に負った荷の中にあって、咄嗟の用には遠い。イーツェンも体を緊張させた。
「何」
 できるだけ小声でたずねた時、木々の向こうへ曲がっていた道の先から、ぬっと巨大な影が現れた。先を行く全員が足をとめる。
 それはいかつい肩から背にかけて大きく盛り上がった巨大な獣で、全身が赤っぽい長い房毛に覆われ、長い毛足の下からは太い4本の足がにょっきりと出て地面を踏みしめて、武骨な蹄が土にくいこむ。毛並みはもつれた毛玉のようで、それだけなら微笑ましいような姿でもあるのだが、獣の顔には愛嬌のかけらもない。2本の短い角が狭い額から生え、つぶれたように短い鼻は呼吸のたびに鼻毛のようなひげが揺れて、その鼻に寄った2つの小さな目はまるでこちらをにらみつけているようだ。太い唇のはじが反り返って、内側の赤い歯茎がのぞき、剥いた歯の隙間からぺっと唾を吐く。その姿はまるで得体の知れない魔物のようでもあった。
 頑強そのものの体を左右にゆっくりと揺するようにして、獣は1歩ずつ彼らへ近づいてくる。
 イーツェンは数度まばたきしてから、シゼの左腕をつかんだ。シゼが払おうとする──彼はこういう時に自由を奪われるのを極端に嫌う──が離さず、子供をなだめるように1度、2度とゆすった。
「シゼ、あれは」
 言い終わる前に、獣の後ろからひょいと小太りの男が姿を見せ、満面の笑みで腕を振った。
「よお、やっとご到着か! 待ちくたびれちまって、お前らのメシは全部食っちまったぞ!」
「ミナギ!」
 カーザがほとんど怒ったような声で、相手の男の名を叫ぶ。
「合図ぐらいしろ、ドテ頭!」
「こっちも出合い頭ってやつでな。見回りのついでだ」
 悪びれもせず言い返す男は、焦げ茶色の毛織りのシャツの上に、毛皮をはぎ合わせた袖無しの長衣をまとい、腰に巻いた数本の革帯から山刀や様々な道具袋のようなものをじゃらじゃらと下げている。
 イーツェンはほっと息をつき、まだつかんでいたシゼの腕を離して、苦笑まじりに言った。
「あれは、ハジュカだ」
「ハジュカ?」
 シゼは1歩も進まないまま、互いを歓迎しあうカーザやセッカたちと、ミナギという男を見ている。いや、どちらかと言うと、離れていても見上げたくなるような堂々たる獣を凝視しているようだった。獣はふんっと鼻息を吐きながら不機嫌そうに尾を揺らして、尾の先の房のようなぼさぼさの毛玉を振っている。
「ハジュカは──」
 そう言って、シゼは言葉を切り、困ったようにイーツェンを見た。
「あなたは、ハジュカは牛だと言っていた」
「うん」
 イーツェンは、シゼが何を言いたいのかわからず、まばたきする。
「山牛だ」
 シゼにも以前話したことだが、リグの民は暮らしの中でハジュカという山牛を使う。多少の山道ならハジュカに乗ったり、荷をハジュカに運ばせたり、畑仕事の手伝いに使うのだ。図体が大きくて体が重いのが難点だが、性質がおとなしく、数日ならほとんど飲み食いもなく歩き続けられる頑健な獣であった。
 シゼは、またハジュカの方を見た。
「あれは牛ではない」
 途方に暮れた言い方に、イーツェンは呆気にとられ、こらえきれず、はじけるように笑い出していた。たしかに、ユクィルスの田園で見た牛はハジュカに比べるとはるかに小ぶりだったし、鼻が前に出ていて顔立ちもかわいらしく、ハジュカのようにつぶれた感じもない。目が大きくて、ロバのようなかわいらしさがあったとも思う。もつれた赤毛をゆさゆさと揺らしながらのし歩き、唾を吐き散らすハジュカとは、たしかに同じ牛には見えない。
「山牛だ、シゼ」
「はあ‥‥」
「大丈夫、あんな顔で今にもこっちを踏みつぶしそうに見えても、おとなしいもんだよ。子供でも扱える。ちょっと大声で叱るとすくんで動かなくなっちゃうくらいだし、怖いところなんかないよ」
 それこそ子供にでも言い聞かせるような調子になってしまったが、まだ不審そうな目でハジュカを見定めているシゼをイーツェンがなだめようとしていると、前からリョクサが近づいてきた。
「イーツェン。ミナギが、挨拶したいと」
「ミナギはヒノの人?」
 問いにリョクサがうなずき、イーツェンはほっと息をついた。ミナギは遠出をする姿でもないようだし、ヒノまではもう近いのだ。皆がハジュカの足元で荷を下ろし、ハジュカの背にくくりつけてあった木の背負子を組み立てているのを見やって、そちらへ手を振った。
「シゼも荷をおろしてくるといい。ハジュカに積めるだけ積むだろうから」
 シゼは一瞬、嫌そうな顔でためらったが、イーツェンが笑いをこらえてうながすと、荷をかついでハジュカの方へ向かった。行き違うようにカーザにつれられたミナギがやってくる。リグの民ばかりの一行の中で、見るからに異国の男であるシゼにミナギは不審の目を向けたが、カーザに背を押されてイーツェンの前に立つと、顔中をほころばせて笑った。
「よくぞご無事でお帰りになった!」
 イーツェンの手を両手で握って、感極まった様子でぶんぶん上下に振る。カーザが肩をすくめてミナギを紹介した。
「こっちがヒノの町番、ミナギ。ハジュカの運び者の親衆のひとりでもある。そんで、こっちがイーツェン」
 イーツェンの肩書きをとばして、ざっくばらんに言う。イーツェンはまだ手を離さないミナギに苦笑しながら、うなずいた。
「会えてうれしい、ミナギ。ヒノはもう近い?」
「ほんの半刻ばっかりで。ハジュカに乗られますか?」
「いい。皆の荷物をのせて」
 正直、乗りたい気持ちは山とあったが、重い荷を丸1日以上担いできたシゼやカーザたちの方が、ほとんど手ぶらに近いイーツェンよりずっと疲れている筈なのだ。膝が痛いとか、足の指の間が擦りむけて痛いとか足の裏のマメも潰れて痛いとか、泣き言を重ねたいのも山々なのだが、くたびれ果てている皆が体力を振り絞るようにして歩いてきたのも、担ぐ荷を載せた背負子や背負い袋のひもがその肩にくいこんであざになっているのも、イーツェンは知っている。
 何より、と、ミナギの肩ごしに、ハジュカに大きな背負子をくくりつけようと皆と四苦八苦しているシゼの姿を見やった。ヒノにつくのなら、シゼと一緒に歩いてつきたい。まだリグではないが、リグヘの大きな1歩だ。シゼにハジュカのことを説明したように、シゼにとっては初めて見る景色を、ひとつでも共有したい気持ちがあった。
 ミナギはもう1度、イーツェンにハジュカに乗るようすすめたが、イーツェンは断った。一休みしてから、一行はミナギが引くハジュカの後ろを歩き出す。先が見えたこともあって、全員の足取りが軽く、笑顔も見えた。
 森はずっと続いているわけではなく、道はひらけた水辺に出たり、今は枯れ地のように見える小さな草原を横切って、やがて行く手に静かな川べりに切り開かれた広い平地と、その中心にある町が見えてきた。町は木の杭柵に囲まれ、背の高い柵の内側に建つ細くひょろ長い見張りの塔から、誰かが青い布を旗のように振っていた。
 先頭のミナギが、どこからか棒にくくり付けた青布を取り出して、大きく振った。それに応えて、柵の一部が柱を支点にして大きく外側にひらき、木と石で作られた町並みが彼らの目の前に現れる。
 やや立て込んではいるが、イーツェンが何となく仮住まいの集落のように想像していたのとは異なり、本格的な家並みであった。正面に見える建物の1階は主要な部分が石積みで、その上に木組みの軽い屋根裏部屋がある、なつかしいリグ風の家だ。だが煙突の位置が、リグでよくあるように壁と屋根のきわからではなく、屋根の1番上の切り妻部分に造られているのが何やら珍しい。思えば、ユクィルスの建物にはその形が多かった。屋根の勾配がきつく、屋根がやたらと尖って見えるのはリグの家の形だ。
 感慨深く眺めていると、門の中から10人ほどの集団がわっと小石を散らすように出てきて、勢いよく彼らの方へ走ってきた。
 ハジュカを引きながらミナギが振り向いて、一行へと叫ぶ。
「ヒノへようこそ!」
 またひとつ、道程を越えたのだ。
 いきなり体から力が抜け、イーツェンは歩こうと思いながら、へなへなとその場の枯れ草の上にしゃがみこんでいた。樽に穴があいて中の水が流れ出していくように、体からどんどん何かが流れ出していくような気がする。何もかもがまだ現実とは思えないが、目の前にある建物のなつかしさや、煙突から空にたなびいていく煙の色がどんどん迫ってくるようで、胸が苦しい。壁を覆う石の色や木の柱を飢えたように見つめて、動けなかった。
 横で服の擦れる音がして、顔を向けると、シゼも同じようにイーツェンの横でしゃがみこんでいた。
「どうかしたか」
 そう聞くと、ただ首を振る。だが、動けないイーツェンへ歩み寄ってこようとする皆を「大丈夫だ」と言うように手を振って遠ざけているのを見て、イーツェンはやっと、シゼが彼を待ってくれているのだということに気付いた。イーツェンが立って歩き出すのを、待っている。
 門の前でヒノの人々に歓待を受ける一行の輪からどっと笑い声が上がり、イーツェンは空を見上げた。川のどこかに堰が作られているのか、小さな滝のような水音が遠くからひびいていた。水を渡ってきたつめたい風に吹きつけられ、全身をすくめる。しゃがみこんだ尻もすっかりつめたくなってきていた。
 数度息をつき、立ち上がろうとためしてみると、嘘のように軽く立てた。シゼも同じように立って、歩き出したイーツェンの横を、何事もおこらなかったかのようにゆっくりと並んで歩いていく。ヒノの門と町並みが段々と近づき、皆の笑顔は傾き始めた冬の日にくっきりと照らされて、地面に人々の長い影が踊るように交錯していた。
 ハジュカがぺっと唾を吐き、カーザが慌ててとびのいて、皆が笑った。イーツェンはシゼと歩調を合わせながらゆっくりと歩み寄る。シゼの手がそっと彼の背にふれて、マントの上から勇気づけるようになでた。
 この瞬間を、一生忘れまい。そう思いながら、イーツェンは唇をぐっと噛みしめるように結び、ヒノへ向かって歩き続けた。