その日の夕食は塔の部屋で取った。イーツェンは、いつものように横に座ってパンを口に運ぶシゼを眺めていたが、ウズラのスープを一口飲んでから、たずねた。
「シゼ。エリテが城を去って国に戻ることを聞いたか?」
 シゼが手をとめた。重々しい表情でイーツェンを見つめる。やがてテーブルの陶杯を手に取り、口の中の残りをワインで注意深く飲みくだした。
 レンギではなくエリテと呼んだのは、まだ本当の名で呼ぶのが不自然な気がしたからだ。シゼはその名をもちろん知っているだろうが、長く隠されていた名をここで持ち出していいのかどうか、イーツェンにはよくわからなかった。
 シゼは少しの間考え込んでいたが、うなずいた。
「──国がそう決定したということは、聞きました」
 イーツェンは内心溜息をつく。今日の午後、レンギとシゼと三人ですごした間、シゼは何ら変わった態度を見せなかった。もっともそれはレンギも同じだったが。二人はまるで、いつもと何ひとつ変わっていないかのようにふるまい、イーツェン一人が胸の奥に揺らぐものを抑えかねていたようだった。
 互いに、相手を忘れているわけでも意識していないわけでもないのは、イーツェンがよく知っている。それなのに二人は何一つ、別れについて言葉を交わそうとしない。イーツェンはいささか頭が痛かった。
「会いに行ってこい」
「はい?」
「エリテに」
 シゼはまばたきしたが、無表情で、ゆっくりとワインを飲んだ。イーツェンはほとんど食事の終わった皿を指す。
「それを厨房に片づけたら戻ってこなくていいから、話をしてこい。あっちにいられるなら、朝に戻ってくればいい。部屋の外閂と塔の門の鍵がしまっていれば、お前がここにいなくても大丈夫な筈だ」
「‥‥イーツェン。あなたは何か、誤解している」
「私が何を誤解していようが、お前とあの人が古い友人だということに変わりはないだろう。それなのに、お前たちはお互いにろくに話をしようともしない。ゆっくり話してこい」
 シゼは無表情だったが、半ば言葉を失っているように見えた。イーツェンはスープ皿を拭ったパンを口に放り込み、咀嚼しながら行儀悪くシゼを見ていたが、ごくりと飲み下して言葉を継いだ。
「シゼ。もう会えなくなってからじゃ遅い。行ってきてくれ。たのむ」
「‥‥あなたは‥‥」
 長い溜息をついて、シゼは乱暴な手つきで首の後ろをかいた。困り果てているようだったが、ふいに立ち上がってテーブルの上の皿を片づけはじめた。イーツェンを見ずにぶっきらぼうな声で言う。
「私には役目があります。それに、殿下、失礼ながら私の行動をそこまで決める権利は、あなたにはない」
 シゼらしくもないきつい言い方に、イーツェンはあっけにとられて彼の顔を見上げた。シゼはイーツェンの視線をさけてテーブルと皿に目をおとしたまま、汚れた皿を重ねて手に持ち、わずかに一礼して出ていった。食事の終わりの確認すらせずに。
 とじた扉をじっとにらみながら、イーツェンは腕組みした。頑固者、と、口の中で毒づく。そんな言い方をしたら、気にしているのが丸見えだろうに。
 急所をついたのは確かなようだった。だが、かえってシゼが意固地になったのも確かなことで、これはいささか厄介だった。正面から説き伏せようにも、あの石頭はもはや聞くまい。それに、レンギがいつ城を去るのかわからないが、彼の言い方からして、もうあまり日がないようだった。
 ‥‥これは。どうするか。
 イーツェンはソファの背にもたれ、天井を見上げてじっと考えこんだ。


 翌朝のことである。
 薄い毛布の上から大きな手がイーツェンを揺り起こしたが、イーツェンの体は動かなかった。シゼの声が呼ぶ。
「イーツェン。‥‥イーツェン、もう朝食を食べないと、朝課に遅れますよ」
 それでも顔すらあげないイーツェンを、シゼは不安そうにのぞきこんだ。
「イーツェン‥‥」
「朝食はいらない。食欲がない」
 イーツェンは毛布の中で寝返りを打ち、壁の方を向いて小さく身を丸めた。低い声でぼそぼそと続ける彼の言葉を、シゼが身をかがめて聞き取ろうとする。
「イーツェン? ‥‥具合が悪いんですか?」
「悪い。熱があるし、気分が悪い。頭も痛いし、お前がそばにいるとむかむかする」
「‥‥イーツェン」
 体をおこして、シゼはイーツェンを──正確にはもこもこと丸まった毛布を、見下ろした。
「仮病ですね?」
「だったらどうした。とにかく私は体のどこもかしこも悪い。今日は食事はいらない。部屋の外閂をおろして、塔の門兵にも鍵をしめておくよう命じろ。私は一日ここで寝ているから、お前は、夕食まで戻ってこなくていい。人が部屋にいると気分が悪い」
「‥‥‥」
「嫌か?」
 毛布から顔を出し、イーツェンは立ち尽くしているシゼを見上げた。
「嫌なら、私は明日も病になるぞ。お前があきらめてあの人に話をしにいくまで、部屋から出ないからな」
「‥‥何であなたがそこまで気にするんです」
 シゼはすっかり困惑した様子だった。イーツェンはかるく睫毛をあげる。
「どうしてお前はそこまでためらう? ──それが私の答えだ、シゼ」
「‥‥‥」
「行くな?」
 念を押すと、シゼが長い溜息をついた。
「‥‥わかりました。でも、朝食は食べてくれませんか」
「半分」
 全部平らげておいて「病」を申告するのも不自然だろう。下げられた皿を見て、厨房の誰かが気に留めないとも限らない。
 シゼは少し眉をしかめたが、うなずいた。イーツェンはにこっと笑い、毛布をはねのけて起き上がる。
「よし。じゃあすぐ食べるから」
 大股で寝室を横切るイーツェンを、シゼは無言のまま見送っていたが、小さく首を振って後につづいた。


 ノックの音がした時、イーツェンはソファに座ってたばねた紙の文字を読んでいた。
 一瞬シゼかと思ったが、まだ午餐の鐘が鳴ってすぐだし、叩き方もちがう。イーツェンはあわてて立ち上がると、素早い足取りで寝室へ戻り、紙を枕元へ置いて毛布の中へもぐりこんだ。寝室と居室との仕切り扉は半ば開いたままだ。風がよどみやすいので、昼間はしばしば煉瓦で抑えて扉を開け放してあった。
 間一髪、閂棒の上がる重い音がして、小さな足音が入ってきた。布靴のやわらかな音──召使いの誰かだ、と、イーツェンは思ったが、彼は毛布にくるまったまま動かなかった。
 カタカタと食器を置くような音が聞こえてくる。やがて足音は寝室の入り口で立ちどまり、女のかぼそい声がした。
「昼食をお運びいたしました、殿下。ご気分がすぐれないようでしたら、薬師をお呼びいたしましょうか」
「‥‥大丈夫だ」
 ややたよりなく、だがそれほどひどくは聞こえないように、イーツェンは調節した声で答えた。
女は「はい」とだけ返事をし、そのまま扉が開いてしまる音がして、閂が外からおろされた。室内がしんと静かになる。
 イーツェンは少しの間じっとしていたが、のろのろと身をおこし、腹に手をあてた。‥‥たしかに少しばかり、空腹だった。シゼが厨房に申しつけたのだろう。テーブルの方からいい香りがする。
 やや気をはずませて歩み寄り、だが、並んだ皿を見おろしたイーツェンは溜息をついていた。陶の丸い深皿が三つうっすらと湯気をたてている──ひとつは申し訳程度に盛られた乳粥で、ひとつは薬草を煮出した茶のようなスープ、もうひとつは正体のわからない濁った色をした薬湯だった。
 薬湯の匂いを嗅いで、そのあたりの草をまとめて土と一緒にこねつぶして煮つめたような青臭い匂いに顔をしかめ、イーツェンは舌の先で舐めてみた。
「‥‥本当に具合が悪くなる」
 と呟き、次のスープを口元にはこぶ。こちらは前のにくらべてまだましな味がした──あくまでも比べれば、だが。乳粥は悪くないが、いかんせん量が少なすぎた。
 粥とスープを平らげ、怖いもの見たさと言った体で薬湯も半分ほど飲み、口直しに水差しを取って水を注ぎながら、イーツェンは吐息をついた。
 さっきまで読んでいた紙束を引き寄せ、青墨のインクの線がにじむ紙面に視線を落とした。エリテの──レンギの、素早い筆致。高価な皮紙ではなく、麻を漉いた粗紙にしるした、イーツェン用の覚え書きだった。
 地図の見方を、彼はイーツェンに教えようとしていた。様々な種別の地図、その線のあらわす意味、解釈の方法──そういったものは城の学者がなかなか他所者に教えようとはしないのだと、彼は言って、こうして己の知ることを覚え書きにしてくれたのだった。
 エリテ‥‥レンギ。
 今ごろシゼと二人ですごしているといい、とイーツェンは思うが、その思いににぶい痛みがともなっているのは自分でもわかっていた。不愉快だとか、とがった気持ちではない。ただ胸が奇妙に苦しかった。
 のばした左手で、ローブの上から自分の脚にふれた。今は枷がはめられていない。病で寝ついている筈だからだ。
 彼と同じ鎖が、レンギの脚をいましめていたこともあったのだ。あの枷を、レンギはどんなふうに思っていたのだろう。彼に聞いてみたい気もした。自分の他にも人質となっている人たちがいるという話は聞いていたが、イーツェンは城内で彼らに──少なくともそれとわかる形では──会ったことがなかった。別の城塞や、あるいは館に留められている者もいるのではないかと、彼は漠然と考えていた。
 シゼがかつてレンギの枷をはめ、そして外していたのだろうか。イーツェンにするように。オゼルクがレンギの体を抱いていたと言うのなら、その前に枷を外すのもシゼの仕事だったのだろうか。それは胸が悪くなるような想像だった。
 シゼは決して自分を抱くまいと、ふいにイーツェンは強く思った。あまりにも傷が深すぎる。レンギのそばにいて、身を重ねながら、彼を救うことができなかった──シゼは決してそれを忘れないだろう。イーツェンを抱くことでその傷をもう一度くりかえすことなど、彼にはできないにちがいない。
 吐息をつき、イーツェンは凝った首の後ろを指でもんだ。そんなことより前に、シゼの気持ちはレンギにある。その気持ちの根底にあるのは、たしかにレンギの言うような「友情」であるのかもしれない──それを否定するほどイーツェンは彼らの関わりをよく知らなかった。だがそれでも、シゼは充分以上にレンギへ気持ちを向けている筈だ。シゼが今でも苦しんでいるのを、イーツェンはよく知っていた。
 ──どんな話をしているのだろうな。
 ふと、そう思う。それとも、言葉など必要ないだろうか。
 急に腹の底がねじれたように固くなって、イーツェンは息をつめた。嫉妬などばかげていると思ったが、揺らぐ感情はどうしようもない。
 紙に目をやっても文字が頭に入らず、彼は立ち上がると部屋を行ったり来たりうろうろ歩きはじめたが、窓からは注意深く距離をおいていた。ほとんど北棟の壁しか見えないとは言え、どこかから見られないとも限らない。
 レンギのことを考えながら、壁際を無意味に歩いた。イーツェンは彼が好きだった。おだやかな物腰、時おりに見せる優しい目。それほど長い時間をともにすごしたわけではないが、それでも、まるで兄のように彼を慕うようになっていた。おそらくは、本当の兄弟以上に。イーツェンは自分の兄弟とは離れて育ち、彼らとの絆のありようをほとんど知らなかった。
 国へ戻って、レンギはどうなるのだろう。古い王権につらなる者として、どう扱われるのだろう。それを思うと胸がざわついたが、昨日のレンギのおだやかな顔を思い出すと、これでよかったのかもしれないという気持ちもあった。この城ではきっと、つらいことばかりだったにちがいない。先の運命がどうあれ、国へ戻る運命がさだまったことに、レンギは心の底から安堵していたように見えた。
(私の心はずっとあそこにあった)
 彼は、そう言った。イーツェンはそれが真実であることを知っていた。イーツェンの心もリグにある。故国に、ふたたび帰ることができるかはわからないが、それでも永遠に心は残るだろう。たとえリグが──レンギの故国のように──失われたとしても、永遠に。心は、残る。
(そこに帰れるというのがどういうことなのか、あなたなら、わかるでしょう)
 ──帰る。
 故国に‥‥
 イーツェンは、ローブの隠しポケットから小さな布の包みを取り出し、その中にくるまれていた翡翠のピアスを見つめた。翡翠の玉はいびつな涙型に磨かれ、白く曇った青緑色の表面に緑の細い縞が流れている。
 いつもレンギは、この故郷の石を左耳につけていた。右の耳朶にもピアスの穴の痕があるのを、イーツェンは間近から見たことがあったが、それはほとんどふさがって、長い間ピアスを通されたことがないように見えた。
 指を折って手のひらにピアスを包みこみ、イーツェンは壁にもたれて吐息をつく。
 手の中のわずかな軽さが、悲しかった。レンギが国へ帰ればきっと二度とは会えないだろう。突風にさらわれるように、人はいきなりイーツェンの人生から去っていく。そのことが、どうにも悲しかった。


 長い時間のすえに次のノックが鳴った時、イーツェンは寝台に座って短い木の棒をもてあそんでいた。やや平たく削りだしたそれは、見た目ではそうとわからないが、手に握ると短剣の握り心地がする。
 食事用の小さな短剣などではなく、武器としての短剣に取扱いに少しは慣れておいたほうがいいだろうと、シゼが作ってくれたものだ。これならたとえ見つかっても、どうにでも言い訳がつく。
 握って振ってみたり、手の甲にのせてくるくる回したりして遊んでいたが、扉のノックに顔をあげ、イーツェンは棒を毛布の中へさしこんだ。自分もすぐに毛布にすべりこむ。シゼのノックの音だと思いはしたが、用心にこしたことはない。
 閂棒があがる音がして、足音が入ってきた。いつもと変わらない、シゼの声も。
「イーツェン。夕食です」
 イーツェンは毛布から抜け出すと、サンダルを足先にひっかけながら寝台からおりた。ぱったんぱったんと足音を引きずりながら隣りの部屋へ入っていく。
 シゼがそこに立って、木の盆にのせた皿をひとつずつテーブルに置いていた。昼食の皿は重ねて脇に置かれている。
 シゼの顔をちらっと見たが何も言わず、イーツェンは身をかがめてサンダルのひもを結ぶと、テーブルへ歩み寄った。
 自分の皿をのぞきこみ、顔をしかめる。
「また粥?」
「あなたは病でしょう」
 真面目な顔でそう言ってから、シゼはふっと笑った。
「私の分を半分食べていいですよ」
「シゼ。前々から思っていたけど、私を子供扱いしているだろ」
 イーツェンは唇をとがらせてそう言ったが、重なるように腹がぐぅと鳴った。格好がつかないまま、おとなしくシゼに示されたソファに座る。
 イーツェンに用意された食事は、昼とほとんど変わらない、粥と薬湯とスープ。その横に、シゼが自分のパンを二つに割って置いた。チーズとハムも二つに切ってパンにのせる。礼を言って、イーツェンはパンに大きくかぶりついた。「食事はいらない」などと大層なことを朝に言い放ったものの、彼は本当に腹が減っていた。
 二人はしばらく無言のまま食事をとった。窓の外が次第に闇に暮れていく。どこか遠くで窓がしまる音が聞こえた。
 腹を満たすまではいかなかったが人心地ついて食事を終え、イーツェンは水を一口飲み、口の中をすすいだ。薬湯だけはまた半分残した。昼よりもずっとひどい味がする。一体何が入っているものか、イーツェンにはどうしても想像がつかなかった。
 シゼはとうに食べ終わり、チーズを切ったナイフを丁寧に拭いていた。それを鞘におさめ、彼は空になった皿を重ねはじめた。
 皿を手に立ち上がると扉口まで歩いていったが、シゼはためらってから、振り返った。
「イーツェン」
「何だ?」
「‥‥ありがとう」
 シゼの真摯な目を見て、イーツェンは何故だか喉がつまるような気がする。一呼吸ついて、彼は微笑し、うなずいた。言葉に出して何を言えばいいのかわからなかった。
 シゼも淡い微笑を返し、一礼すると、足音を立てずに部屋を出ていった。