山に入れば道は険しいが、そこまではそれほど勾配のない、大きな平地だ。旅路も歩きやすいだろうと思っていたら、湿地に足を踏み入れた途端、イーツェンの楽観的な考えは天地からひっくり返された。
 たしかに斜面はない。ないが、至るところのくぼみにじめじめと粘るような水気が溜まり、独特の湿っぽい匂いがたちこめるぬかるみの間を、道は縫うように抜けていく。湿地の旅は、イーツェンの想像以上に困難なものだった。ぬかるみに踏み込めば人の靴も馬やロバの足もたちまち泥まみれになり、しばしば泥が絡みついて動きが鈍くなった荷車の車軸を叩いて泥を落とさなければならなかった。
 荷を多く抱えた一行の足取りはのろいもので、しかも、湿地の足場の悪さはイーツェンだけでなく全員を苦しめた。道がないわけではなく、杭の土留めを左右に打ちこんで土を盛った道はたしかにある。だが、ところどころで途切れたり、水が溜まって回り道をしなければならないこともあった。そんな時、先頭を行く男たちは杖のような棒で足元をつつき回しては荷車が安全に通れるかどうか確かめ、時には荷車に載せてきた長い板を地面に置いて、泥の上に道を通した。
「これでも、寒い内はまだ地面が固いから楽なんだが」
 と、休憩中に馬の蹄の間から泥を取り除く手伝いをしているイーツェンへ、カーザも手際よく馬具の確認をしながら説明した。
「春には雪解けの水が入るから、あぶなっかしくていけねえ。見た目が地面でも中に水がわいてんだ。踏み込んだら氷みたいに割れやがる」
 それは怖い。実際イーツェンは、地面のように見えるところに挿し入れた棒がずぶずぶと深く沈んでいくのを何度か見た。あの上に踏み出して呑み込まれたらと思うと、ぞっとする。
 これまでの旅でも、湿地のようなところに足を踏み入れたことはあるし、水があちこちに溜まった場所もあった。だが、こうまで見渡す限りに湿地が続く景色を、イーツェンは見たことがない。大河のカジャの氾濫で水があふれるのかと思ったらそうではなく、地面の色々なところから水が沸き出してくるのがそもそもの原因なのだと、案内人はイーツェンに説明した。何故そうなるのかはわからないが、いわば地面の中にもうひとつの大河があって、気まぐれにその水が地上へあふれ出してくるらしい。水の神々に愛された地なのだと。
 遠くからは平坦のように見えた湿地も、近づいてみるとさまざまな隆起がある。土が盛り上がった場所には潅木がひしめきあうように生え、風にやられてか、泥に倒れた茂みの上には宿り木が重そうな枝葉をひろげている。どれも今の季節には葉を落とし、灰色の枝が寒そうだった。その枝の間に蜘蛛が精緻な巣を張り、冬の日に透明な網が光っている。
 それにしても不思議な景色だった。湿地のあちこちを濁った緑色の土が覆い、ところどころにシダが大きな茂みを作っている。表面で光を反射する水たまりがたくさんより集まって、人の足をはばんでいる場所もあれば、地面は湿っているのに水そのものはどこにも見えないところもあった。一見乾いているのに、よく見ると地面の割れ目のような細い流れが、編目となって一帯を覆った場所もあった。
 溜まり水の周囲には胸にこもるような不快な匂いがたちこめることもあったが、時には、驚くほど澄んだ清水が泥の中から吹くように湧き出している場所もあった。どこから来たのか、わずかな水たまりに小さな魚を見たこともある。泥に住む魚なのか、胸びれや背びれはなく、長細く、胴に白い斑点のある魚だった。
「春には、あの泥の中からたくさんの花が浮いてくる」
 港町の訛りが強い道先案内人のシボンが湿った泥をさして言うのを、イーツェンは信じられない思いで聞いた。この泥の大地が、春になってそんなふうに豊かになるとは信じられない。
 だが、何故信じられないのか。リグでも、すべてが塗りこめられたような灰色の大地の中から、色とりどりの生命がはじけるように芽吹いてきたものだ。それが春だ。大地が割れるのではないかと思うほどの、荒れ狂うように土の中から次々とあふれ出してくる春──それが、きっと、この泥の中にも眠っている。
「きれいだろうな」
 そうイーツェンは呟きながら、リグの春へのやるせないほどの郷愁に胸をつかまれていた。積もった雪が真冬の清冽な白さからやわらいだ色に変わり、雪の中で耐え忍んでいた芽が顔を出し始める。やがてあらわになった黒い大地のあちこちから芽吹きが始まり、ハルリンドウやソルダネラの花が咲きこぼれ、子供らがタンポポ摘みに走り回るのだ。そうなると、完全に春の訪れを告げるブナの芽吹きももうすぐだ。
 春の雨と、湿った大地の匂い。何もかもが豊潤に溶け込んだ、混沌とした匂い。ユクィルスの城の一室でイーツェンは、リグの春をどれほど恋しく思っただろう。ユクィルスの春もきっと豊かなのだろうが、城の暮らしで感じとれるのは人の手が整えた庭園の様子だけで、それは美しいが、あまりにもおとなしく見えたものだった。
 この湿地にも、どれほどの春が訪れるのだろう。川の水が雪解け水で増水し、逆巻くような波を立てるのだろうか。そのそばで咲きこぼれる春の花は、たしかに美しいだろう。
「旅に水路は使えないの?」
 イーツェンは馬の手入れをしながら、この数日ずっと考えていたことをカーザにたずねた。春はともかく、それ以外の季節ならば、カジャの河を道として使うことは出来ないのだろうか。
 カーザは馬具から泥を拭いながら、考え深い表情になった。
「湿地の中では川が何十本にもわかれてるって話なんだよな。流れが悪くなったり、行き止まりになっているところもある。底も浅いから、喫水が浅くないと泥につっこんでおしまいかも」
「はしけみたいなのを使うとか。いかだとか」
 川の旅の途中で、いかだをいくつもつらねて蛇のように長くし、荷を運ぶ様子を見たことがある。その話をイーツェンがすると、カーザは喉の奥でうなって、泥で汚れた手で額を拭った。たちまち顔が泥だらけになる。
「小さいのをつらねる手はよさそうだが、獣はどうする」
 川で目的地までまっすぐ行けるわけではなく、陸路は獣がいないと動けない。今度うなるのはイーツェンの方だった。
「陸路で歩かせて、後で落ち合う‥‥とか。時間の差がありすぎるか」
 イーツェンはまとまらない考えを口にしながら、カーザの額と鼻先についた泥を袖口で擦り落としてやる。
「獣を補給できる宿場があればいいのかも。そこで待ったり、荷の積み替えをしたりできるような」
「春の洪水があるから、川ぎわや湿地ぎわには村を作れんのだよなあ。泥魚食いもひとところに居をかまえんような場所だ、ここは」
 カーザの言葉は素っ気なかったが、イーツェンの言ったことをはなから払いのけるようなつめたさはなく、どこかに策を探しているようでもあった。旅を楽にする方法がほしいのは皆同じだ。実際に何度か旅をしているカーザの方が、イーツェンよりずっとこの旅路の厄介さが身にしみているだろう。
 彼が「泥魚食い」という言葉でさしたのは湿地で暮らす民のことで、昨日もどこからともなく現れ、イーツェンたちの一行に川魚を商って消えた。名こそ聞いたことはあれ、イーツェンにとって目にするのは初めての相手だったが、柳の枝を編んだ籠を2つも3つも重ねて背負い、槍のように先が尖った杖を手に現れた人々は小柄で、イーツェンははじめのうち子供を先ぶれによこしたのかと思ったほどだった。動きやすそうに袖口や裾を縛った服の上に腰丈のマントを羽織っていて、そのマントがイーツェンの目を引いた。小さな毛皮を何十枚とはぎ合わせで作られたマントで、たしかにこのあたりでは大きな獣は捕れそうにないのだが、独特の模様になるようはぎ合わされた様が何とも美しい。この彩りのない湿地に不似合いで、不思議だった。
 彼らがこの地でどうやって暮らしを立てているのか、イーツェンには皆目見当もつかなかった。カーザは、彼らがあちこち流れながら暮らす流れの民であるかのように言ったが、もしかしたら実際の住み処がどこかにあって、他所者には知られないようにふるまっているだけかもしれない。平坦なように見えていた湿地は、足を踏み入れてみると細かな起伏や隆起に富んでいて、背丈ほどもある葦などに視界を完全にさえぎられることもあった。すべてを心得た者には、身を隠す場所も、もしかしたら鳥や獣を狩る場所も、たくさんあるのかもしれない。
「港町のようなものが作れたらいいのになあ」
 溜息をついて、イーツェンは馬の後ろ足にへばりついているヒルに眉をしかめた。小さな焚火から先が炭化した燃えさしを引き抜くと、取って返し、馬が熱で怯えないうちに素早く先端をヒルに押しつける。ぽろりと落ちてうねくるヒルを、靴の踵で踏みつけた。暖かい時期には取りきれないほどのヒルが馬にも人にもへばりつくのだとカーザは笑って、笑う気になれないイーツェンは、また深々と溜息をついた。
「カル=ザラの道がつぶれた今、ゼルニエレードへの道をととのえないと、小麦も塩も油も前より高価なものになってしまうよ」
 高値でも、充分な量を手に入れられればまだいいのだが、さもなければリグは新たなる災厄に直面する。畑と狩りで食料は何とかなるから、いきなり干ばつでも来ない限り飢えるまではいかないと思うが、塩や油が足りなくては、冬に向けて保存食を仕込むことにも難儀する。
 イーツェンが首をつっこむ筋合いのものではないのかもしれないが、心には、これまでの旅で見たさまざまな景色が浮いてはよぎる。はからずも、イーツェンはいくつもの国を渡って多くのものを見てきた。もしかしたらその中に、役立つ答えがないだろうか。これまでリグにもたらされなかった答えが。
「ユクィルスは、この湿地に道を通そうとしたんだろ」
 イーツェンはなおも呟いた。リグの東、この地に道を通して、ゼルニエレードからポルトリへ──ユクィルスの覇権の夢はそう続いていたのだろう。事実、足がかりとして湿地の外れに宿場をかまえている。イーツェンたちがまず目指しているのも、その小さな集落だった。
「私たちにも、やってできないことはないだろう」
 ほとんど独り言のようなその言葉に、カーザは眉をあげてイーツェンを見つめ、それから頭をめぐらせて荷馬車の方へ歩き去ると、大声で出発の号令をかけた。


 乾いた場所が見つかれば、そこで野営をかまえた。見つからなければ、湿った場所でどうにか火を囲んで暖を取ろうとした。
 体力が随分と戻ったとは言え、まだ自分の体が本調子ではないのだと、イーツェンは毎日思い知らされる。ふくらはぎや膝がしめつけられるように痛く、疲労に全身がだるいし、腰の奥にしっくりこない痛みが居座っている。気を使ったカーザにすすめられて荷車に乗ったこともあったが、人が乗るようにできていない荷車の、それも荷物の隙間に詰め込まれ、ガタガタと地面の揺れに容赦なく全身を揺すられるのは、歩くのと同じほど体を疲弊させた。
 誰もが「大丈夫か」とイーツェンに問うて気を使ったが、シゼだけは言わなかった。しきりに聞かれて気が滅入っているイーツェンを知っていたのだろう。シゼはただ黙って、靴がくいこんだイーツェンの足の傷に膏薬を塗り、ふくらはぎの筋肉をもみほぐして、そばで一緒に眠った。
 湿地に立ちこめる湿っぽい空気は、夜ともなると骨までしみいるように凍えることもあったが、2、3人が入れる毛皮の寝袋の中でシゼとよりそうと、互いの体温でどうにか眠れた。リグの者たちは交代で夜の晩に立ったが、シゼはまだそこまで信用されていないのか、夜の間イーツェンのそばを離れることはなかった。
 2人は、あまり話をしなかった。イーツェンは泥の上にじかでも朝まで眠れるのではないかというほど疲れていたし、シゼはいつしか随分と無口になっていた。他の連れとも、時おり必要最小限のことを話しているだけのようで、イーツェンはそれが気がかりだったが、自分が旅を続けるだけで精一杯で、何かをする余裕がなかった。体力も気力も使い果たしつつあるが、リグへの旅路の足取りを、イーツェンのせいで遅らせるような真似はしたくない。ここまで来たのだ。後は、もう何日か歩き続ければいい。歩き続けられる限り。
 意地と、疲労。歩き通せるのかという不安。リグに近づいているという昂揚。そんなものが入り混じって気持ちが揺らいでいるせいか、夢を見る回数が増えてきていた。ひどく疲れて、夢を見る余地などない筈なのに、何故かしきりと見る。中身はわからない──ただ、悪夢だと言うことだけ。夜中に夢から身を引きはがすように目をさますと、何かに追われていたように全身がこわばり、息が荒く喉に絡みついて、焼けるような焦りが口に苦くしみついていた。
 リグが近くなって安心した筈なのに、何故また悪夢に追われるのか。
 いまだに何か、剥がれ落ちようのないものが、イーツェンの骨に深く噛みこんでいるかのようだった。それが時おり動くたび、噛んだ傷から悪夢が膿みのようにあふれてくる。リグがどれほど近くなっても、いや近くなればなるほど、傷はまた生々しく主張しようとする。
 ユクィルスから遠く離れて、あの悪夢のような日々は遠ざかった筈なのに、まだ悪夢はイーツェンから離れようとしない。
 ──それとも、ちがうのだろうか。
 湿地ですごす7日目の夜、悪夢から目を覚ましたイーツェンは、塗りつぶしたような闇を見つめていた。立ち上がれないほど低く張られた小さな天幕は、もぐりこんで眠るための風よけ程度のもので、いくら紐で布と布を縛っても隙間から冷えた冬の空気が入りこんでくる。顎までしっかりと寝袋にもぐっていても、頬が刺すようにつめたい。
 半ば無意識に、背後のシゼの熱にもぞもぞと身をよせた時、闇のどこかからくぐもった人の声が聞こえてきた。イーツェンは耳をすます。見張りの交代の時間らしく、抑えた声で報告を交わす会話が途切れ途切れに流れてきていたが、やがて足音は静かにイーツェンたちの天幕の前を通り、別の天幕にもぐりこんだ。闇のどこかで獲物を狙う夜行性の鳥の声がひびく。その向こうに水の音が聞こえないかとイーツェンはさらに耳をそばだてたが、特に何も聞こえてはこなかった。
 2日前には、水の流れがおかしいからと夜中に叩き起こされ、暗闇の中でどうにか荷をまとめて朝まで皆で身をよせあい、寒さに震えていた。なるべく高いところに野営地を据えるようにはしているのだが、選択肢は限られているし、もし上流で雨が降ってカジャの河の水位が上がればあたり一面水に沈むことすらあり得るのだと言う。冬は山から流れてくる雨が少なくなるため、春や夏ほど上流からの水の流れに気を払う必要はないのだが、それでも警戒を怠るわけにはいかなかった。
 カーザやハンサイがこの季節に最後の旅を予定していたのは、山が雪の季節になり、増水の心配がへる時期を待っていたからなのだ。イーツェンは湿地に足を踏み入れて、はじめて彼らの心配がわかった。この道は何よりも水が恐ろしい。
 リグの山を旅する時に怖いのは、寒さと風だった。ユクィルスではイーツェンは野盗を恐れた。船での旅は、海が荒れることも怖かったが、風がとまって船が動けなくなることも恐怖のひとつだった。あの大海原でどこへもいけなくなってしまう、どこの陸地へもたどりつけないままにさまようしかない──海の茫漠とした広さを目の当たりにしてしまうと、イーツェンはそれが怖くて仕方なかった。
 何が恐ろしいかは、ところによって、人によって、不思議なほどにちがってくる。そんなことを考えながら、ふとイーツェンはラウの顔を思い浮かべていた。あの陽気な若い船乗りは、自分の恩人であるカナバの病の悪化を、海上での嵐よりも恐れていた。結局その恐怖は、彼の願いも虚しく本当のものになってしまったけれども──人の心が何かを恐れるというのはそういうものなのだろう。
 人にはそれぞれの恐怖の形があるのだ、とイーツェンは思う。それぞれの望みに、それぞれの形があるように。他人からどれほど奇妙に見えたとしても、その重さは薄らがない。
「もうじき、湿地は抜けられるそうですよ」
 背中側からシゼの声が聞こえてきて、イーツェンはまばたきした。闇に沈みこんでいくのではないかというほどシゼの声は静かで、よりそった体が声のひびきを肌ごしに伝えてきていなければ、イーツェンは気のせいだと思ってしまったかもしれなかった。
「‥‥起こした?」
 悪夢でシゼを起こしてしまうのはいつものことながら、後ろめたい気持ちで聞いたが、シゼはかすかに笑った。息がイーツェンの髪のはじでくぐもる。右腕が背後から軽くイーツェンの体に回された。
「あなたではない」
「眠れないのか?」
 シゼは返事をしなかった。イーツェンは手をのばして、腰の上に置かれたシゼの右手に自分の右手をのせる。自然と指が絡んで、お互いに言葉にしない何かがつたわるような気がした。闇の中で、シゼは何を見ようとしていたのだろう。
 リグが近づいてくる。それが実感できるほど近くまで来ているのに、2人はそのことについてほとんど話をしなかった。リグへと1歩ずつ歩みを進め、それが何よりも望んだことの筈だったのに。何故か今夜もイーツェンは悪夢につかまり、シゼは無口に何かをかかえこんでいる。
 そういうこともあるのだ、とイーツェンは思った。恐れや迷いというのは、決して人を去ることのない、切り離すことのできない影のようなものなのかもしれない。
「シゼ」
 呟いて、イーツェンがシゼの手を握ると、シゼはかるく握り返した。
 闇はひんやりと深く、首に巻いた毛皮の首巻きの隙間から入りこんだ夜気がちりりと首の輪を冷やす。時に、氷の首輪を巻かれているかのようだ。イーツェンはそのつめたさよりもシゼの手のあたたかさに意識を向けながら、つづけた。
「私は、怖いみたいだ。多分、リグへ帰るのが怖い」
 誰にも言えないことだった。シゼのほかには、誰にも。
 誰に言っても、そんな馬鹿な──と一笑にふされるか、説教されるかだろう。たとえ、イーツェンのことを心の底から気にかけてくれるカーザに言ったとしても。だがシゼは何も言わず、黙ったままイーツェンの手の甲を親指の腹でなでた。
「怖い」
 そうくり返して、イーツェンは本当にそれが真実なのだと悟る。イーツェンの中に棲む暗いものの一部は、リグへ帰ることへの恐怖なのだ。
「帰りたくないわけじゃない。帰れるのはすごくうれしい。でも、怖い。私も変わってしまったし‥‥多分、リグも元のままじゃないだろうし」
 イーツェンの呟きが途切れてもシゼは返事をせず、沈黙が漂うように落ちたが、闇の中で重ねられた手はやさしかった。イーツェンは体の奥に凝っていた緊張がゆるむのを感じる。イーツェンの言葉を、いつもシゼは正面から受けとめようとしてくれたし、そんなシゼを通して、イーツェンは自分の痛みや恐れを受けとめることを覚えたのだ。受けとめて、それから手放すことも。
 シゼに対しては、誰よりも正直になれた。多分、自分自身に対してよりも。
 リグへ帰るのが、怖い。それはイーツェンの中にあるひとつの真実だったが、誰にも言えないことであった。言ってはいけないことでもあった。闇の中でなければ、イーツェンはシゼにすら言えなかったかもしれない。
 カーザやハンサイは幾度か、イーツェンをユクィルスへ行かせたことをすまないと口にした。特にカーザはイーツェンの背に鞭傷が刻まれたことを重く受けとめているようで、この旅の間も、疲れてつらそうにしているイーツェンを見るたびにひどく物思わしげな顔をした。イーツェンに犠牲を強いた、そのことをすまないと思っているのがありありとわかった。カーザの方が、傷を実際に受けたイーツェンより時につらそうなほどだ。
 送り出した側にも罪悪感がある。そのことは、イーツェンを慄然とさせた。
 笑ってリグへ帰らなければならない。イーツェンはカーザを見て、そう腹をくくった。彼らの罪悪感を除くことはできないが、今以上の重荷になるわけにはいかない。ユクィルスがリグへもたらした痛みで、誰もがもう充分に傷ついているのだ。イーツェンが彼らの新たな痛みになるわけにはいかない。
 ──リグへ戻るのが怖いなど、誰にも言える筈がなかった。
 だが闇の中で、自分の秘密をこうして口にしてしまうと、胸に支えていた重さが取れた気がした。怖いものは怖い。それはもう、仕方がない。背中にシゼの温度を感じながら、イーツェンは目をとじて細い息を吐き出す。どれほど怖くとも、歩き続ければリグにたどりつく。
「一番怖いものはなんですか?」
 シゼの声は、いつもより少し低かった。
 何も言うつもりはないのだろうと思っていたので、問いに少し驚いて、イーツェンは身じろぎした。向き直ろうとしたのだが、後ろから回されたシゼの腕がそれをとめる。どちらにせよ闇では向き合っても表情が見えないし、体にずっしりと重くのった毛皮の下では身動きも重い。
「怖いもの?」
「リグへ戻ったとして、一番、何が怖いですか」
「ああ‥‥」
 闇の中でまばたきして、イーツェンは考えこんだ。
 怖いもの?
「‥‥何だろうな。よくわからない」
 リグへ帰ることに漠然とした怖さがあるが、具体的に何が怖いのかと問われると、イーツェンの中にあるものはもやのようにたよりのない恐怖ばかりだ。
 正直に答えると、シゼは少し間を置いて、またたずねた。
「リグへ戻ったとして、起こりうる一番怖い可能性は?」
「何で‥‥」
「考えて」
 この夜中に怖いことなど考えたくはないのだが、背中から彼を抱きこんだ腕に反論を封じられる。シゼがイーツェンの恐怖の正体を見きわめようとしているのはわかったし、久々に話ができるのも心地よくて、イーツェンは言われるままに想像してみた。リグへ戻って、何が起こりうるだろう。戻ること自体にもまだ実感が湧かないのに、その先にどんなことがおこるのかなど、うまく思い浮かばない。
 それでもしばらく考えていた──つもりだったが、はっと気付くと後ろから体を揺すられていた。
「イーツェン」
 首の後ろで囁くシゼの声は警告を含んでいて、イーツェンは重い目蓋でまばたきする。せっかく気持ちよく眠りかかっていたのに起こすほどのことか、とムッとして、裸の足でシゼのくるぶしを蹴った。
「シゼ──」
「真面目に」
「私は真面目だ!」
 思わずそう言い返したものの、眠りかかっていたのはまぎれもない事実なので、イーツェンはきまり悪く言い足した。
「考えてるからちょっと待って」
 シゼが笑ったような息が伝わってきたが、それ以上何も言われなかった。上掛けの隙間からしのびいってくる夜気は刺すようにつめたく、シゼと分かち合うぬくもりに身をよせて、イーツェンは考えをめぐらせる。
 リグへ戻ったとして、そこから、どんな可能性があるだろう。どんな悪いことが? イーツェンが恐れるほどの、何が?
「そうだな‥‥前は、自分がもう忘れられてるんじゃないかと思って、怖かったけど」
 ユクィルスの城にいる間、イーツェンは何度かそういうことを考えた。ありえないことだ──だがありえないとわかっていても、リグから遠く切り離されていると、もはや誰も彼のことなど思い出しもせず忘れ去られているのではないかという孤立感が、幾度もイーツェンの心をわしづかみにした。
「ハンサイやカーザと会って安心した?」
 背後から聞かれて、イーツェンはうなずいた。どうせ見えないだろうが、仕種はつたわるだろう。
 シゼは静かに問いを重ねた。
「ほかに怖いものは?」
「私は‥‥」
 急に渇きがせまってきた喉に、イーツェンは唾を呑んだ。これもまた、シゼ以外には誰にも聞かせられない言葉だった。だが、シゼになら言える。
「父上や、兄上に会うのが、怖い」
「何でです」
「何でだろ‥‥元々あんまり近しくなかったし、父上は‥‥私がユクィルスにいる時も、ほとんど手紙もくれなかった」
 理解はしている。イーツェンは父が愛して裏切られた女の息子であって、王の実子であるのかどうかすらも疑わしい。イーツェンに愛情を向けることが父にとって難しいのは承知していたし、だからこそお互い注意深く距離を保っていたのだが、それでもユクィルスにいた間、父からの沈黙はイーツェンに痛みをもたらした。
 今、戻ってきたイーツェンを見て、父はどんな顔をするだろう。兄たちはどうイーツェンを受け入れてくれるのだろう。すでにいないものと思っていたイーツェンが、こうして戻ってきたことに困惑してはいないだろうか。よもや、戻ってこなければと思われていたら──それは、怖い。
 シゼはまたしばらくの間無言だったが、イーツェンの腕を幾度かなでるようにさすった。
「会いたいですか」
 その問いに答えるのに、イーツェンは一瞬の間を置いた。答えを迷ったのではなく、喉がつまってすぐには答えられなかったのだ。
「‥‥会いたい」
 会いたくもない相手なら、多分、こんなに怖くはない。
 イーツェンは目をとじて、震えそうな言葉を押し出す。
「でも、向こうも会いたいと想ってくれているかどうかがわからない」
「手紙を書いてみたらどうですか」
「てがみ?」
 闇の中できょとんとして、イーツェンは首回りから外れそうな首巻きをもう1度巻き付けた。輪が冷えると、肌に氷が押し当てられているようでかなわない。シゼが気付いた様子で、手探りで手伝いながら答えた。
「山が近くなったら、数人の先ぶれを出すとカーザが言ってた。手紙を言付ければ、届けてくれるだろう」
「手紙‥‥?」
 言っていることはわかったが、何故シゼが一足飛びに手紙という結論に至ったのかがわからない。ぼんやり考えていると、シゼが少し体勢を変え、イーツェンの足を自分の足でかかえこむようにして体を密着させ、眠気で重くなってきた声で呟いた。
「昔、レンギは気分がふさぐと、よく手紙を書いていた」
「誰に?」
 イーツェンは驚き、同時に眉根をよせた。レンギの係累は故国で処刑された筈だ──いや、シゼがレンギのそばにいた時はまだ生きていたか。ならば故国の誰かへ向けて手紙を書いていたということか。
 イーツェンがそう納得しようとした時、シゼが答えた。
「幽霊に」
「何で?」
 また驚いて、声が上ずる。シゼの腕が背後からイーツェンを抱えこみ、なだめるように腰をぽんと叩かれた。
「レンギはそう呼んでいた。誰か、相手の名が心にあったのかはわからないが、とにかく彼は‥‥心にしまいこんだものを幽霊への手紙につづっては、出さずに捨てていた。言いたいことを心に積んでおくのはよくないからと」
 シゼの声がなつかしそうな響きを帯びて、イーツェンははっとした。レンギのことを語る時、シゼはいつも苦しげで、拭いがたい痛みがそこに横たわっているかのようだったが、今のシゼの声はただやわらかく、友のいた景色をおだやかに、そして愛しく思い返しているようだった。
 その声で、シゼは静かに続ける。
「あなたも言いたいことをたくさん心に積んでいるように思える、イーツェン」
「それで‥‥手紙?」
「面と向っては言えなさそうなので」
 悪気なくあっさりと看破されて、イーツェンは反論しかかったが、ぐうの音も出なかった。心に溜まっていることは多分、たくさんあるのだ。不満や自分への哀れみなど心の澱のようなものを除いても、父や兄に問いたいこと、聞きたいことは、たしかにイーツェンの中に積もっている。そういうものを吐き出せたら、少しは心が軽くなるだろうか。
「手紙ねえ‥‥」
「ひとつの案ですよ」
「うん、でも」
 悪くないかも、と言おうとした時、夜気をはじくようにバンッと固い破裂音がひびきわたって、イーツェンはほとんどとびあがった。寝袋の中で毛皮やシゼと絡まっていなければ、とびおきて天幕から走り出ていただろう。夜の中で、その音はそれほど大きく聞こえた。
 特に慌てた様子はなく、天幕の外で低い声が囁き交わされて、誰かが笑った。どうやら焚火に入っていた石が熱せられてはじけたらしい。耳をすましていたが誰かが怪我をした気配もなく、イーツェンはほっと息をついて体の力を抜いた。小さな騒ぎがおさまると、前よりもいっそう静けさがいや増して、世界が深く包み込まれている気がする。
 シゼは何も言わずにイーツェンをさらに引き寄せ、イーツェンはシゼにぴたりともたれかかって眠りに付いた。シゼの声の中に聞きとったなつかしさのせいか、その夜はレンギの短い夢を見た。
 濃い朝もやの中で起き出す頃には、内容はかけらも覚えていなかったが、夢のレンギが導くようにイーツェンの手を握った──その手のあたたかさは、奇妙なほど鮮やかに肌に残っていた。


 乳のように白く濃い朝もやは、次の日の朝にはさらに濃くたちこめ、出立の時間を遅らせた。歩き出してからは、視界が全体にくぐもっていたせいもあり、荷馬の1頭が地面に見えた沼の表面を踏み抜いて足を折った。周囲の地面は固いのに、何故かほんの小さな穴のような深みがあったのだ。
 痛みに悲鳴を上げる馬はその場で殺すしかなく、荷は他の馬やロバに振り替えた。手早く馬の死体をさばいていく男たちを手伝いながら、イーツェンの胸の奥が痛んだ。死んだのは彼が毛並みを梳いてやっていた馬のうちの1頭で、イーツェンから少しでも多くの餌をもらおうとしてかわいらしい仕種で土をかいてみせた小柄な馬だった。
 肉も半ば以上は残していくよりほかなかった。とりあえずの分に麻縄を巻いて吊るせるようにし、荷馬車の後ろの桁からぶらぶらと何本も干し肉をぶらさげた。さっそく鼻の利くハエが周囲を飛び回っている。
 男が5人がかりで、てこを使って馬の死骸──の残り──を沼の上へ転がしこみ、泥の中に沈めた。この湿地にそれほど大きな獣はいないが、それでも狐や狼が出るらしい。ゆっくりと、自重で沼に呑み込まれていく獣の上へ、皆が一握ずつの土を投げかけ、短く祈った。
 これで旅の足取りはまた大きく遅れたが、霧が晴れるたびに山が大きくなってきているようで、イーツェンは山の稜線を目でなぞるのが楽しみだった。山の斜面は鱗のように幾重にも折り重なりながら、上にいくほどその険しさを増し、天頂にはうっすらと雲をまつわりつかせて、濁った空を背にそびえたっている。中腹には点々と白い雪だまりが散っていたが、山頂はすっかり白く雪をかぶっていて、その清々しい白さはこの曇り空の下でも自ら光を放っているように見えた。
 ユクィルスへ旅した時に、遠くから山々を眺めたことはあったが、こうして東側から見るのは初めてで、あらためて大地からそびえ立つ巨人の座のような険しい山の姿を見ても一体どこに自分たちが向かうのかがよくわからない。だがその景色のどこかにリグがあるのだ。
 ──だが、そこへの道は、まだまだ思っていた以上に遠かったらしい。
「水が溜まってる」
 先見に行っていた案内人のシボンが戻ってきてそう告げると、待っていた一行がほとんど苦悶のような呻きをあげた。潅木のとげに刺されないように距離をあけてしゃがみこんでいたイーツェンも、うんざりと天を仰ぐ。水が溜まって通れないとなると、回り道が必要になるのだろうか。
 だが、しばらく何人かで頭を寄せ合って話しこんでから、カーザはシゼを呼んで何かの説明をはじめた。やがてシゼが戻ってきて、イーツェンに伝える。
「ロバと歩きだけなら水を渡れるだろうということで、ここで2手に分かれるそうです。馬と荷車はここで水が引くのを待ち、残りは先に行きます」
「分かれて大丈夫なのか?」
 もし何かがあって荷車が立ち往生してしまったら、少ない人数では手に負えまい。心配したイーツェンへ、シゼはうなずいた。
「湿地はもう、順調に行けば1日で抜けられます。いざとなれば、煙をあげれば集落から見えるので、後から人手をよこすそうです」
 ならいいか、とイーツェンは安心した。まあイーツェンが考えるようなことはカーザだってしっかり考えて手当てしているだろうし、口出しするようなことではないのだが。
「行きますか?」
 たずねられて、少し驚き、イーツェンはうなずいた。リグへ戻るのは怖い──だがそれは、一刻も早く故郷へ近づきたいという思いを弱めるものではない。それに正直、湿地にはすっかり飽き飽きしていた。
「行く」
 そう言ってから、イーツェンは言い直す。
「行こう」
 シゼはイーツェンの顔を見ていたが、表情のなかった口元をわずかにゆるめて、うなずいた。


 荷をまとめ直し、食料と水を分けて、一行は2手に分かれた。どうやらこういうこともあらかじめ考えのうちに入っていたようで、荷は最初から分けやすいように積まれていたようだ。
 先へ行く人数は9人、その中にイーツェンとシゼ、カーザとリョクサも入っている。道先案内のシボンは後に残った。荷車の方が、より慣れた案内人を必要とするためだ。
 水が溜まっているのは、葉が落ちた潅木の枝が蔦のように絡まりあった一帯で、潅木が切り払われて作られた道がすっかりぬかるんで、あちこちに水たまりが生じ、土だか枯れ草だかわからないものを踏む先から濁った水が靴を呑み込むようにのぼってくる。泥が靴をつかんで、しつこく粘りつき、1歩ごとに足を引き上げる力が必要だった。
 踏む場所がどこもかしこもどろどろで、今にも沼に踏み込んでしまいそうな不安から、イーツェンは前を行くリョクサの足取りをなるべく正確にたどった。これのどこが「道」なのかと思うが、あちこちに道標の杭が打ちこんであるので、やはり道は道らしい。
 大きな溜まり水は避けたため、途中から大回りになり、やっと乾いて固い地面を踏んだ時にはもう日が傾いて影が長かった。日が斜めになるだけで吹きすぎる風はぐっと温度が下がり、吹きすぎる風は時に耳をちぎるようにつめたい。イーツェンは、山から吹いてくる風に雪の匂いを感じとっていた。
 急いで野営の準備をする男たちを手伝いながら、彼は険しい山の姿に視線を走らせた。空の手前に立ちはだかるような山々は、少しずつ近づいているようでなかなかたどりつけないが、数日前よりはその姿がずっとはっきり見えてきて、今では山の足元を覆う森も見える。冬の森らしい灰茶けた木の群れの中に、ところどころ、葉を落とさない木々の暗い緑色がのぞいていた。
 ──もうすぐ。
 イーツェンは胸の内で、そう呟いた。
 もうすぐ湿地を抜ける、とカーザは言った。もうすぐリグだ、とイーツェンはその言葉を聞きとる。
 悪夢も怖れも、まだそこにある。だがもうすぐ。そのすべてをかかえたまま、イーツェンの足はまぎれもない故郷の土を踏むのだ。そのことに迷いはなかった。