体だけでなく心をつなぐように、切羽つまったくちづけを幾度もくり返す。シゼの中にある傷をうずめてやりたかったし、イーツェン自身の闇もシゼの熱で満たされていくようだった。
やがて、2人は早い息をつきながら、薄い闇の中で視線を絡み合わせた。あたりにはりつめたひどく濃密なものが彼らの間をつないでいるのを、イーツェンはひりつくような肌に感じる。欲望や愛しさ。そしてそれだけではない何か。イーツェンにも名付けられない、痛みすらともなう何かが互いのまなざしの中に渦巻いていた。
心臓を見えない力にわしづかみにされたようで、イーツェンはふっと息をつめ、シゼを見つめつづけた。強くシゼへと引き寄せられる、生々しいほどの感情に圧倒されてしまいそうだ。体の中にひどく獰猛なものがある。
さぐるような手で、シゼのシャツの上から心臓の位置にふれた。イーツェンの手のひらの下でシゼの鼓動がしっかりと命を刻む、そのことがひどく特別なことに思える。きっと、何もかもをくぐり抜け、2人で生きてここまでたどりつけたことが何よりも特別なのだ。
「シゼ」
何かをつたえなければならないような気がして、イーツェンはかすれた声を押し出す。胸の中に熱くどよもすような、行き場のない嵐をどうしたらいいのかわからない。
「‥‥シゼ」
シゼが手をのばして、イーツェンの額に落ちた前髪を耳の後ろへかきあげた。その声はやさしい。
「私の道しるべはずっとあなただった、イーツェン」
頬にあてられた手に引き寄せられるように、イーツェンはまたシゼに唇を重ね、言えない何かを伝えようとする。生々しく荒い熱に溺れるように舌を絡めていると、シゼに下唇をゆるく噛まれた。わずかな痛みすら気持ちを昂揚させて、お互いをむさぼりあう。
シゼの性急な動きにむき出しの欲望を感じて、体の芯が大きくひとつ脈を打ったような気がした。重くあたたかな上掛けの下で、イーツェンはシゼの足に自分の足を絡める。裸のすねがシゼの足にふれ、そのわずかな接触だけでまた心臓が大きくはねあがった。
シゼが唇を離し、少し早い息をつきながらイーツェンの目をじっとのぞきこんだ。欲情と、ためらいと。シゼの瞳は油燭の弱い炎を受けて琥珀のような色に輝き、それ以上に複雑なものが目の奥で揺らいでいた。
まさかこの期に及んで、また距離を置こうとするつもりだろうかと、イーツェンは身構えた。一言言われたらその3倍は返すつもりでシゼのシャツの裾をしっかりと握りしめ、意気ごんでいたが、シゼはふいにイーツェンの背に大きく腕を回し、彼を抱きよせた。毛皮の下で2人の四肢がもつれるように重なり合って、シゼは体を返しながら自分の上にイーツェンを引き上げる。イーツェンは全身を預けてシゼの力に従いながら、ぴたりと重なり合わされた体の熱さに溜息をこぼした。
シゼの欲望が固さを増しているのが、太腿に押しつけられる感触でわかる。イーツェン自身の腰にもはっきりとした熱がこもり、イーツェンはシゼに押しつけるように腰をゆすった。重なり合い、互いを味わうくちづけの中で、シゼが呻く。その呻きが音よりも唇を揺らす息となってイーツェンにつたわり、夢中で絡める舌先には唾液の濡れた音がまとわりついた。
腰の奥から背骨へ、イーツェンは体の奥底から熱があふれ出してくるのを感じる。シゼの欲望に自分の体が呼応して、お互いの間で何かがひびきあい、2人を強く引きよせている。イーツェンだけでなくシゼもそれを感じている筈だった。
シゼの手がせわしなくイーツェンの背を抱き、髪の中に片方の手を差し入れてくちづけを深める。体を愛撫する側の手は背中をすべりおりて、下着の上からイーツェンの尻をつかみ、大きくゆさりと体をゆすられた。固くなった互いの牡が服ごしに擦り合わされ、布を通した接触だけで、焼けつくように熱い。イーツェンは唇の隙間から喘いだ。
「シゼ‥‥んっ──」
「あまり声を出すと聞こえますよ」
低く、そんなことを言いながらも、シゼは今度は両手でイーツェンの腰を掴み、互いの体を強く押しつけるように揺すった。痺れるように刺激的で、だがもどかしい愛撫に、イーツェンはシゼの首すじに顔をうずめ、かすかな汗にまじってたちのぼる欲望の匂いを吸いこむ。獣のように獰猛で濃密な匂いに、頭の芯がくらりとした。
「‥‥まずいかな?」
なけなしの理性で、半分上の空のまま呟く。シゼに体を預けて、強靭な顎の線を唇と舌でなぞった。ハンサイとカーザの部屋はすぐ隣ではなく、一部屋はさんだ向こうだが、夜の静けさの中で声は意外とひびいてしまうかもしれない。彼らに知られようとも、イーツェンは正直どうでもよかったが、シゼはやはり気になるのだろうか。
だが、シゼの返事はイーツェンの想像と少し異なっていた。
「様子を見に来られると、困る」
イーツェンは動きをとめて、シゼの顔を間近で見つめた。下から彼を見つめ返す目は、至って真面目だ。
「たしかにそうだけど‥‥聞きまちがえないだろ」
「2人とも、心配していた」
たしかに心配はしていたし、声が聞こえれば何事かと聞き耳をたてられかねない。だが、それとこれとを聞きまちがえるようなことがあるだろうか。シゼは本気で懸念しているようだが。
たとえ聞こえても、リグの人間なら気をきかせて放っておいてくれるとイーツェンは思うが、シゼをまだ気に入らない様子のカーザあたりは、わかっていてもここぞとばかりに邪魔しにくることがないとは限らない。
体を重ねたまま、あれこれ考えていたら面倒になってきて、イーツェンは疑問をまとめて頭の外に押し出した。先のことより、目の前のことだ。
「わかった、大丈夫」
口先だけで保証して、イーツェンはまたシゼに唇を重ねた。荒々しく舌を絡ませ、シゼの昂ぶりに自分のものを服ごしに押しつけると、肌を食い破っていきそうな熱が腰からひろがっていくのを感じる。薄い皮膚のすぐ下で、熱い血が脈を打つ。
唇を離して頭を上げようとしたら、シゼの指が髪の間に入りこんでイーツェンの顔をもう1度引きよせた。彼の息も荒い。喉の奥で低いうなりのような呻きをこぼして、シゼはイーツェンの唇をむさぼった。
「ん、ふ」
逃げ場のない呻きが体の芯にこもる。唇を合わせたまま、膝をひらいてシゼの両側にまたがるような体勢になると、イーツェンは少し楽になった動きでシゼに押しつけた腰を揺すった。シゼはイーツェンの背中の傷を気づかって彼を上にしたのだろうが、積極的に動くのが気恥ずかしかったのは最初の一瞬だけで、すぐに体も心も素直に快楽を追い求め始めている。いや、快楽だけではなく、何よりもシゼを求めている。
薄暗かったが、何もかもがひどく鮮明だった。シゼの荒い息、自分の息づかいや短い喘ぎ、布と布が擦れる音、肌にふれるすべての感触。背を撫でながらイーツェンをうながすようなシゼの手、イーツェンの頬を撫でる指先。信じられないほど何もかもが生々しい。
上体を少し起こし、イーツェンは重い上掛けを体から引きずりおろした。つめたい夜気がほてった肌を冷やす、その一瞬のつめたさまでもが鮮やかに体に残った。
シゼの左手がイーツェンの頬を包み、2人はせき立てられるように唇を重ねた。この手が決して彼を裏切らず、傷つけないことをイーツェンは知っている。この瞬間、どれほど心や体が無防備になろうとも、シゼのそばならば安全だということを、彼の心も体も深いところで知っている。
くちづけの間から切れ切れの呼気をこぼしながら、イーツェンは左肘で体を支え、右手を2人の体の間にすべりこませて下着の前の紐をほどいた。昂ぶる気持ちにせかされて、その手でシゼの下着の前も同じようにほどこうとしていると、シゼの右手がその動きを追って、イーツェンの服の前合わせから中へ入りこみ、勃ち上がっているイーツェンの牡をじかにつかんだ。その指のつめたさと、あまりしっかりと握る手つきにイーツェンは一瞬ぎょっとしたが、シゼの強靭な指でしごかれると、信じられないほど生々しい感覚に背がぞわりと震えた。
シゼの息がイーツェンの唇にくぐもって、その息の荒々しさがつたわってくる。言葉にならない感情が、その息や、イーツェンのものにためらいなくふれる性急な手、間近からイーツェンを見上げる荒々しいまなざしにこもっている。
そのすべてが、イーツェンへと鮮やかに伝わってくる。
「‥‥シゼ」
何かが心を食い破っていきそうで、イーツェンは絞り出すように呻いた。胸の内側で、心臓が暴れるような拍動を打っている。こめかみやうなじに汗がにじんで、唇が呼気に震えた。
シゼの下着をやっとひらいて、その中に手をすべりこませ、イーツェンは固くなっているシゼのものを握りこんだ。息を呑むほどに熱くあからさまな形を指でなぞり、イーツェンは短い呻きを喉の奥に呑みこみながら、シゼの肩口に顔をうずめた。首の輪が邪魔だが、もうそのことにも意識がほとんどいかないほど昂ぶったまま、シゼの首のつけ根、肩へとつづく箇所の肌を舌で味わい、せきたてられる感情をこらえきれずに軽く歯を立てる。体中で灼けるような欲望がざわめいていて、わずかでも多くシゼの熱を味わいたくてたまらなかった。味わえば味わうほど、体の奥が飢えているのがわかる。
ひどく獰猛な熱が体の芯を溶かしていく。くらくらと頭の芯が揺れた。腰を少し下げると、2人の牡が何もへだてずじかにふれあって、指で感じたのとは比べものにならない生々しさに、イーツェンはめまいがした。唇から抑えようのない喘ぎがこぼれる。まだ海を渡る前にシゼのそれを口に含んだことすらあるのに、その時よりはるかに濃密なことをしている気がする。肌よりもっと内側にふれて、ふれられているような。
ふれているだけではすぐ物足りなくなって、イーツェンがシゼの牡を握り直そうとした時、その手の上からシゼの強靭な手が重なった。汗と体液に湿った指と指が絡みあうようにすべって、手の中に2人のものを一緒に握りこむ。シゼがその手をゆっくりと動かして、熱がはりつめた2つの牡を、根元からしごきあげた。
シゼの指と自分の指──敏感な牡で微妙な感触の差を感じ取って、イーツェンは呻く。左手で上体を支えていられずにシゼの上へ身を崩すと、シゼの左腕が背中を強く抱いた。重なり合った2つの体の間に牡と手が挟まれて、自由に動かせず、ひどくもどかしい。
どちらのものともわからない滴りが右手指を濡らし、シゼの指と絡ませた指の間から湿った淫靡な音がひびいた。背中に回されたシゼの腕にうながされて、イーツェンはゆっくりと腰を揺すり、ぬらりとした牡がこすれあう快感に喉で呻く。シゼの指がイーツェンの指の上から2人のものをまとめて握りこんでいるせいで、指のざらついた皮膚に擦られながら、互いの牡のなめらかな皮膚も擦れあっている。幾重もの快感に背すじの芯がじんと揺らいだ。
シゼはイーツェンに主導権を預けながら、時おり下から腰を動かしてイーツェンの動きに応じてくる。やみくもに快感だけを求めたい衝動と、この濃密な一瞬をわずかでも長く味わいたい気持ちとがせめぎあっていたが、シゼの腕に腰を抱えこまれて揺さぶられると、密着した牡同士がぬるりと擦れる快感に息が上ずり、全身が震えた。
「ん、あっ──」
声がこぼれる唇をシゼの肩に押し当ててこらえようとしたが、シゼのどこか苦しげな声が「イーツェン」と名を呼ぶ。何かにせき立てられるようにイーツェンは顔を上げ、荒い息をつく唇をシゼと重ね、その中に声を殺した。せわしない息をこぼしながら濡れた唇を押しつけあい、重なり合う2人の手を動かす。足先までじんと熱が満ちて、目の裏まで熱かった。体も心も、信じられないほど純粋に昂ぶっていく。
ほとんど唐突なほど、絶頂が強烈にイーツェンの体の芯を突き抜けて、熱い精液がシゼの自分の手の中にあふれた。間を置かず、シゼの全身が強い力にこわばるのを感じ、イーツェンはまだ快感にくらみながらべたついた手でシゼの牡をしごき上げた。
体が揺れるような低い呻きとともに、シゼの精がどろりとあふれ出す。イーツェンは目をとじ、短い息で喘ぎながら、骨が抜けたかのような全身をシゼに預けた。やがて、息が思い通りに吸いこめる程度に整うと、どうにか体を返してシゼの横に仰向けになって四肢を投げ出す。
しばらく、荒々しく湿った2対の息の音だけがひびいていた。肌の内側にまだ快感の残響が残っているようで、イーツェンは震える唇から息を吐く。汗ばんだ肌が夜気にふれて冷えていくが、寒さが体の中に入りこんでくる余地もないほどまだ全身が昂ぶっていた。首の輪だけがひえているが、それでも肌のすぐ内側まで荒々しく甘い熱が満ちている。それでいて、今にも眠りこんでしまいそうなほど心がおだやかだった。
シゼが動いて、手布を取ると、イーツェンの手と肌に付いた精液を拭った。わずかも動きたくないほど気怠い体のまま、イーツェンは下帯を取りつくろって何とか身ずまいを直し、自分の方の始末を手際よく終えたシゼと一緒に上掛けの下へもぐりこんだ。
全身の肌は欲望と快感の名残りにまだ湿っていて、体にしみこんだ熱が肌の奥でざわめいているのがわかる。シゼがどんな顔をしているのか見たかったが、シゼが油燭の火を消すと部屋は闇に沈み、イーツェンは重い瞼をとじてシゼに身をすりよせた。シゼが体を斜めにして、イーツェンに右腕を回す。心にも体にもなじんだ仕種で、イーツェンをゆったりとかかえこんだ。
「眠れそうですか」
シゼの囁きはいかにも彼らしくて、イーツェンはつい微笑の形に口のはじを曲げた。こんな時にはそれより何か言うことがあるだろうと思うが、イーツェン自身にも何も言葉が浮かんでこない。体はまだ快感の名残りにほてっているが、気持ちは平穏で、あたたかだった。
「ありがとう」
何に対しての礼かはわからないまま、それだけを囁き返した。多分、何もかもにだ。シゼは返事をしなかった。
眠れるかどうかは自分でも疑問だった。肌にまだ濃密な快感がはっきりと残っているし、口の中にはシゼの味を感じるし、体の芯にふれるようなシゼの手の熱さの記憶も拭い去れない。肌がちりちりするような昂揚が居座っている。
眠れないんじゃないかな、と呟こうとしたが、本当にそれを言えたのかどうか自分でもわからなかった。いつのまにか、まるで意識がどこかへ引きずりこまれるようにイーツェンは深い眠りの中へ沈みこんでいた。そのまま何の夢も見ず、ただぐっすりと朝まで安らかな眠りをむさぼる。
仕事に出かけるシゼにつきあってどうにか目をさましたが、あっさりとくちづけひとつでなだめられ、ご機嫌で眠りに戻った。
自分ではうとうととまどろんでいるだけのつもりだったが、どうもしっかりと眠っていたらしい。次にはっと意識が戻ったのは、いきなりハンサイに叩き起こされている時だった。
真剣な話がありそうな顔をして、寝床の横に腰をおろしているハンサイの様子に、イーツェンは思わず身構えた。もしかしたら昨夜のシゼとのことを知っていて、「軽率な行動は」などといましめられるのかと覚悟する。おとなしく言わせておくつもりはない。
だが、ハンサイはイーツェンの目の前にどさりとひとかかえの帳簿を置くと、計算用の珠盤をその横に並べて、「さあ、はじめましょう」ともっと恐ろしいことを言ったのだった。
教えられた通りに数字と数字をつき合わせ、計算し、イーツェンは昼すぎまでひたすら帳簿をにらんですごした。船の中でやっていた帳簿つけは、水や食料の数を記録するだけの単純なものだったが、ハンサイが持ってきた帳簿は商館のものだ。荷の仕入れ値や細かな値引き、取引の後で判明した荷の不備──小麦の袋に虫が付いたとか──や、処分品、それに細々とした税金や経費までもがつけられている。
税金が正しく計算されているか、何かの拍子に2度以上帳簿に書き込んでいないかなど、前後を行き来し、独特の省略された書き方を読み解きながら計算をやり直して、イーツェンはついに間違っている箇所をつきとめた。倉庫の使用料が重なって記入されているし、廃棄された筈の干し魚の箱が損金としてきちんと処理されていない。
筆跡から見るに、帳簿を付けているのは主に2人──おそらくハンサイとカーザ──だが、ほかにも別の手が入っていて、記入の癖が一定していないのも混乱の元だった。帳簿は1人だけにまかせた方がいいんじゃないかと思いながら、帳尻合わせをしたことをイーツェンがハンサイに告げに行くと、彼は下の部屋でロバに付ける荷馬車の引き具の手入れをしていた。
並べられた馬具に、旅立ちが近いことをとあらためて悟り、ふとイーツェンは足をとめてその様子を眺めた。使いこまれた革の引き具はあちこち手脂で黒光りし、濃い飴色に光っている。角が丸くすり減った革のふちに、ハンサイが丁寧な手で油をすりこんでいた。なめらかな丸石に獣の油をつけて、それを革ふちに幾度も擦り付ける。
顔を上げ、ハンサイはイーツェンに微笑を向けると、自分の横に座るように場所をあけた。商館の一階にある土間の装具室で、木の棚には馬具のほかにも荷詰め用の麻袋や分解した木箱、麻縄などが整然と並べられている。ネズミよけの毒団子も仕掛けてあった。
床に置かれた道具の入った木箱に、イーツェンはゆっくりと腰を下ろした。少しばかり背中にこわばりが出てきたので薬油を塗りたいのだが、シゼ以外の誰かに頼むのには抵抗があるし、シゼは船大工の作業場へ最後の仕事に出かけている。
「わかったよ」
端的に告げて、イーツェンはハンサイに帳簿と、自分の計算し直した数字を見せ、帳尻の合わせ方を説明した。話の合間にハンサイが打つ相槌から、どうやらすでに正解を知っていたらしいと気付き、イーツェンは一通り数字をさらった後で小首を傾げてたずねる。
「何かのためしか?」
ハンサイは軽く眉を寄せて、油が染みた指先を付けないよう用心深く帳簿を確かめていたが、ちらりと目のすみでイーツェンを見た。イーツェンは肩をすくめる。
「答えはもう知っていたのだろ」
「まあ、手慣しということで。帰りの旅の帳簿の手伝いをしてもらおうと思ったんだが、この様子ならまかせてよさそうだな」
「商売の帳簿は付けたことないけど」
「カーザが確認するので平気だろう」
それなら安心かな、と思いながらも、イーツェンにほとんど仕事をまかせようとしなかったハンサイの態度が変わったことに少しとまどって、イーツェンは同郷の男が帳簿を読んでいる横顔を見つめた。眉が太く、リグのものにしては厚めの唇を結んだ顔立ちには落ちつきがある。彼が妻と息子をリグに置いてきていると聞いたイーツェンが「妻子もこちらに呼べばいいのに」と言うと、ハンサイは「次はそうする」と答えたのだった。ユクィルスの兵が駐屯している間、家族での旅立ちはすべて禁じられていたのだと、イーツェンは彼の話から初めて知った。国に残した家族を人質として、ユクィルスはリグの家族をバラバラにしようとしたのだ。
誰もが戦っていた──たとえ武器を持たず、正面切って言葉や剣を交えたのでなくとも。ユクィルスの兵がいるリグへ家族を残してこなければならなかったハンサイも、残されて離れ離れとなった家族も、その誰もが戦っていたのだと、イーツェンはあらためて思い知る。
1人でユクィルスにいた間も、多分本当は1人ではなかったのだ。離れた場所で、皆が自分なりにリグのために戦おうとしていた。そんな中で、イーツェン自身、何かの役目を果たせたということが今となっては誇らしくもある。
「明日、発てそう?」
ハンサイが返してきた帳簿をかかえて立ち上がり、イーツェンはたずねた。商館の雰囲気もまだおだやかだし、もう出立が目の前だという気がしない。
ハンサイはうなずいた。
「大丈夫だろう、風も雲もいい。──イーツェン」
「ん?」
うなずき返して扉へ向かっていたイーツェンは、ハンサイを振り向いた。ハンサイは短い髪を太い指でかきまぜるように頭をかきながら、イーツェンの顔をじっと眺める。その目はやさしかった。
「シゼのことだが」
「何?」
素早く聞き返しすぎたのが自分でわかって、イーツェンは顔全体が熱くなる。
ハンサイは一瞬黙ってから、おだやかに続けた。
「船大工の給金で、自分の旅費は返せるだけ返すと言ってきた」
「‥‥ああ、そう」
イーツェンは天井の梁を目で仰いだ。旅費に費やした金は、イーツェンの気がかりのひとつではあった。センドリスから路銀の助けとして借りた金をどう返すか、イーツェン自身にもはっきりした算段があるわけではない。すべてを人にたよることはできないと思ってはいるが、父や兄から助けは借りられるだろうし、返すあては見つけられる。そんなことをシゼに心配されるいわれはない。そもそも、イーツェンがいなければシゼがこんなところまで旅をしてくることもなかったのだ。何かの礼こそしても、シゼが稼いだ金を受け取ることなど考えたこともなかった。
イーツェンに言わずにハンサイに相談したあたり、シゼもイーツェンの反応は見こしているのだろう。溜息をついて、イーツェンはハンサイにひとつうなずいた。
「わかった、ありがとう。そのうち話してみる。‥‥頑固なんだよ」
思わず愚痴るようにこぼすと、ハンサイが笑った。
「みたいだな」
「シゼがもし金をここに置いてこうとしたら──」
「受け取らないよ。リグの恩人から金を取るような誇りはない」
そう言ってから表情を引きしめて、ハンサイは目に苦いものをよぎらせた。
「会ったばかりの頃は‥‥本当にすまないことをした」
「うん。でも皆、つらい思いをしたから仕方ない」
シゼを受け入れられなかったハンサイやカーザたちの気持ちはわかる。なだめるように言いながら、リグに帰ってもきっと似たようなことがおこるだろうと、イーツェンは心の奥で覚悟する。誰かが怒りをシゼにぶつけて、シゼを傷つけようとするだろう。
その時、シゼを守ってやれるのはイーツェンだけだ。何しろシゼ自身にも自分を守る気がない。
「でも、シゼがいなければ私は無事に戻ってくることはできなかった。私は‥‥私には、シゼが必要なんだ」
なるべくおだやかにイーツェンが言いきると、ハンサイは口元に厳しい線を刻んでうなずいた。だが、難しい表情をしたのはイーツェンの言葉に反感を覚えたためではないらしい。
「我々には、あなたを守ることができなかった、イーツェン。‥‥シゼがあなたを守ってきてくれたのは、我々にとっても救いだ」
「それ、シゼにじかに言ってやってくれないか?」
そうすればせめてもう少し物分かりがよくなるかもしれないと、溜息まじりのイーツェンに、ハンサイは短い笑いをこぼして目尻にしわをよせた。
「似たようなことなら、今朝言っておいた」
「今朝、そんな話したんだ?」
「うむ」
何の用もないのに世間話をするような2人には見えないが、と思って、イーツェンはふっと手にかかえた帳簿に目をやった。ふいに色々なことが腑に落ちた気がする。ああ、とつい笑みがこぼれた。
「シゼが頼んだのか」
帳簿を持ち上げる仕種をして見せる。それなら、いきなりイーツェンに仕事が回ってきた理由もわかる。シゼはイーツェンが暇を持て余していることをよく知っている。
ハンサイは1度否定しようとして、それから思い直した様子で肩をすくめた。きまりが悪いのか、耳の先が少し赤い。
「暇だとつまらないだろうから、仕事をさせた方がいいとは言われた」
「無理にでなくてもいいんだけどね」
それが彼らの負担になっては本末転倒だ。苦笑したイーツェンへ、ハンサイは研ぎ石を持ち直した手を大きく振った。
「いや、手はいくつあってもありがたい。王子と言えども使っていいなら使わせてもらうことにした」
「力仕事以外ならなんでもやるから。カーザにもそう言っておいて」
王子として、あるいは壊れ物のように扱われるのは落ちつかないし、居心地が悪い。
旅に出たらがんばるよ、と言うつもりでイーツェンは軽く言ったのだが、言ったがためにそのままハンサイに引き具の手入れと準備を手伝わされ、荷の木箱に貼りつける目印の荷札をそろえたり、リグに持ち帰るための写しの帳簿や手形の控えを油布で厳重にくるんだりと、いいようにこき使われる羽目になったのだった。
夕方にはまたリョクサにつきあって剣の素振りを教え、そんなわけで、夕食後に部屋の扉を誰かが叩いた時、イーツェンは毛布に横たわって裸の背中にシゼの手で薬油を塗ってもらっていた。はっきりした痛みが出てきたわけではないが、背中の芯にこわばりがあって、旅立ちの前に念を入れておきたい。
ゼルニエレードで調達した薬油は前に使っていたものよりさらりとしていて、花のような甘い匂いがした。シゼが傷の上から用心深く手のひらで力を加えて筋肉をほぐそうとするたびに、香油が肌と肌の間で湿った音を立てる。音と肌を這う手のおかげで、ふっと油断すると今朝の淫靡な記憶がよみがえりそうで、イーツェンは気をそらすのに苦労していた。何しろシゼは、昨夜のことがイーツェンの背に負担をかけたと気に病んでいるふしがあって、少なくとも今晩は2人の間に何事もおこりそうにない。ちょっとぐらい無理をしてもいいじゃないか、などとイーツェンは思うのだが、シゼが聞く耳持たないことはわかっている。
そんなちょっとした不満や疲労感、シゼの手から感じるほのかな昂ぶり、目の前に迫った出立への期待や昂揚が入り混じって、シゼの手で背中をあたためられながら、イーツェンはぼんやりとしていた。
扉を叩く音にもすぐには反応できず、シゼの手が背中から離れてはじめて、誰かが扉の外で待っているのだと気付く。立ち上がったシゼが扉に寄って相手と会話をしてから、イーツェンを振り向いた。
「カーザが、用があると」
「あ‥‥靴の修理だ」
イーツェンは枕に額を埋めたまま呟く。旅立ちのために、裏打ちのあるしっかりとしたブーツをシゼと一緒にそろえたのだが、イーツェンの分は大きさが合わなかったので靴の内側にもう1枚あたたかな毛皮を縫い込んで仕立て直してもらっていたのである。その手配をカーザにたのんだきりだった。
「受け取っておきますか」
シゼは扉をあけずに、イーツェンの答えを待っている。少し考えてから、イーツェンは体を起こした。
「いや、入れてくれ。背中を拭いてくれるか?」
表情を変えることなくシゼは扉をあけると、背を向けて座っているイーツェンの後ろに膝をつき、やわらかい布を取ってイーツェンの背から薬油を拭いはじめた。
そばにカーザが立った気配に、イーツェンは顔を上げ、男の視線がシゼの拭うイーツェンの背中に据えられているのを見る。緊張しないようにしたがどうしても背がこわばって、イーツェンはそろそろと息を吐き出し、肩をゆるめた。鞭打ちの傷を人に──シゼ以外に──見せることには強い抵抗があるが、いつまでも拒んでもいられまい。どこかで自分の気持ちを変えたかった。
「靴のことだろう? ありがとう、手間をかけた」
そう声をかけると、カーザははっとしてイーツェンのそばに片膝をついた。毛皮の裏が付いたブーツを左手にかかえたまま、その顔が青ざめて頬の線が固くなっているのを見て、イーツェンはぎょっとした。自分では見えないが、そんなに傷がひどいのだろうか。
「ごめん」
ついあやまって、イーツェンは靴を受け取ろうと右手を伸ばしたが、いきなりカーザがのしかかるようにイーツェンへ体を傾け、両腕で──まるで壊れ物にふれるようにそっと──かかえこんできたので、その場で硬直した。シゼはあっさりと手を引いた様子で、イーツェンは完全にカーザの腕の中にかかえこまれる形になる。カーザのまとっている袖の太い上着は、羊皮の起毛を内側に向けて仕立てたもので、ざらついた革裏がイーツェンの裸の腕と背中の肌を擦った。
「‥‥‥」
何か言おうとしたが、言葉が見つからずに頭の中がとりちらかるばかりで、イーツェンは目のすぐ下にあるカーザのうつむいた頭を見た。
「‥‥カーザ?」
「よく、ご無事で──こんな──」
震える声で絞り出し、顔を上げたカーザの目は真っ赤で、目のふちが濡れていたが、まなざしには爛とした怒りが燃えて、言葉とともに荒い鼻息で小鼻をふくらませた。感情が昂ぶるときの癖らしい。奥歯がぎりりと鳴った。
「あいつらぶっ殺してやる!」
いきなり怒鳴られてイーツェンは仰天したが、一瞬置いて、うっかり笑い出してしまった。カーザの衝撃はイーツェンの傷そのものに向いているのではなく、それをもたらしたユクィルスに向いているようだ。
激高しているカーザの背中を叩き、その腕をといて、イーツェンはシゼがさし出した長袖の下着に腕を通した。何も救いの手を出そうとしなかったシゼを目のはしでにらんだが、シゼは素知らぬ顔のまま、イーツェンの服を膝元に置く。
「もう、見た目ほどひどくはないんだよ」
見た目がどうなっているかわからないまま、とりあえずそう言うと、カーザは少しだけほっとしたようだった。
「まともに旅ができるようになるまで少しかかったけど」
と、イーツェンは厚地の毛織りでできたシャツをかぶりながら付け足す。
「シゼがずっとついていてくれたから、無事に来られた。何もかもシゼのおかげだ」
薬油の入った細長い革袋を木をくりぬいた筒にしまっていたシゼが、その手をとめてイーツェンを見た。イーツェンはにやっと笑いかける。リグへ帰りつくまでにカーザやリョクサたちをシゼの味方につけようと決心したことは、シゼには内緒だ。
シゼはどこか居心地が悪そうにむっつりと黙っていたが、カーザがシゼへ向けたまなざしに感謝の色が混ざっているのを見られただけでイーツェンは満足だった。本音を言えば、シゼのたじろいだ顔を見られたので、さらに満足だった。
ロバ4頭立ての荷馬車2台と、背に荷を山積みにしたロバを12頭つらねた隊列に、さらに大量の荷を積んだ荷馬が5頭。その隊列が、先頭にいる道先案内人の号令でゆっくりと動き出す。今度の旅はのんびりした進みになりそうだった。
イーツェンはザインに両腕を回し、神官の背中を抱きしめた。旅の無事を祈願した神官は、いつもの長衣の上に美しい縫い取りのある短い礼装の上着をまとい、胸元に護符を下げている。
「ありがとう」
ありったけの気持ちをこめて、ザインとその横に立つハンサイへ礼を言うと、2人から微笑が返ってきた。ザインがイーツェンの尻をぽんと手のひらで叩く。
「それはこちらの言うことだ、イーツェン。会えてよかった。再びめぐりあうことができて、本当によかった」
「うん」
ここで離れれば、きっと流れの神官であるザインと再び会うことはないだろう。会えたとしてもずっと先、どちらの人生もその時には違った形になっているにちがいない。
だが、どこか淋しいと言うよりは晴れやかな気持ちで、イーツェンはザインにうなずいた。それからハンサイに手を振る。
「また、国で会おう」
「ご無事で」
朝から昼まで続いた荷積み作業のせいか、ハンサイは少し疲れた顔をしていたが、故郷へ旅立つ彼らに嬉しそうな笑みを向けた。ハンサイ本人はゼルニエレードに残って、次の春に来るリグの商隊の受け入れや、冬の間の商館の管理を行うことになる。妻子と再会できるのは春のことになるだろうか。
「イーツェン」
シゼの声にうながされ、イーツェンは新しい旅用のマントに包んだ体を行く手に向け、それから、もう1度後ろの町を振り向いた。街道と言うには少しばかりみすぼらしい土の道に面して木杭の防壁がめぐらされ、町と外とを隔てている。その向こうにある町並みは、その多くが灰色の漆喰の壁と木の梁、板葺きや薄石を用いた屋根の建物で、冬の空から落ちるぼんやりとした光の下で、家々はまるで小さな獣の群れが身をよせあっているように寒々しい。その向こうにある海は町にさえぎられて見えないが、屋根ごしにすらりと立った帆柱が2本、誇らかに天を示していた。
海側から吹きつける風が髪を揺らし、イーツェンは首をすくめて、あたたかな首巻きの毛皮を巻き直した。首の輪をしっかり隠せるように、毛皮のはじに結べる止め紐がついているものだ。
もう1度、見送りのハンサイとザインへ笑みを投げ、辛抱強く待っていたシゼと一緒に肩を並べて、彼は土埃の絡む道へと足を踏み出した。目の前に広がる平野は見通しがよく、茶色い生け垣に囲まれた畑が町を中心に大地の模様のように広がっている。その向こうは木々の群れが散らばる荒野で、小屋が何軒かつらなる小さな集落がそのところどころに見える。左手外れのカジャの川は、葦の茂みに囲まれてゆったりとした川面に陽光を溜め、驚くほど胴の細い川船で漁をしている人々の姿がまるで絵のようだった。
そして、遠く折り重なる丘陵の彼方には、青白くかすみのかかった山の峰々をのぞむことができる。まだ遠い。だが、たどりつくべき景色は、もうそこにある。
その景色へ向かって、イーツェンはシゼとともに、そしてリグの者たちとともに歩き出した。