リグが近い。それが肌でわかる。
 息のひとつひとつ、体の内側にしみこんでくる風の匂いから、故郷が近くにあるのを感じる。深く、身の奥に、あの険しい大地の呼び声が聞こえる。
 浮き立つ心とは裏腹に、歩みはまるで雲を踏むようで、山を見上げる体にも現実味がなく、イーツェンは見慣れた筈の山肌をぼんやりと仰いだ。黒々とした冬の森、むき出しの傷のように露出した岩峰。山の中腹から山頂にかけてはまだらに溜まった雪が冬の陽光に青白く光り、とがった頂は冠雪の白さとかすみに覆われていた。かすみのふちが日にぼうっと輝いて、景色は美しいが、あの中は嵐だ。
 おろした足の下で、枯れ葉が砕ける乾いた音がした。イーツェンはかまわず、前を見たまま進む。1歩ずつ、リグに、故郷に近づいて──
 何かがおかしい、と気付いたのはしばらく歩き続けてからだった。歩いても歩いても、体が引き戻されているかのように目の前の風景が一向に近づいてこない。いやむしろ、何もかもがぼんやりと遠ざかり、いつしか山の天頂から流れ下ってきたかすみが目の前に溜まって、山の風景をイーツェンからとざしていく。聞こえるのは足の下でするどく砕ける枯れ葉の音だけだ。自分の息づかいすら聞こえず、視界は白っぽい霞に覆われ、苦しくなったイーツェンは喉に手を当てたが、手の先に太い鎖を探り当ててぎょっと立ち尽くした。
 じゃらん、と鎖が鳴り、イーツェンの首を後ろへ引きずり戻す。鎖の力は緩まず、前へ進もうとする体はあがけばあがくほどつめたい汗が流れるばかりで、踏んばった足の下で枯れ葉が次々と砕け散った。
 呻きをこぼして、イーツェンは喉を締めつける鎖をつかみ、ほどこうとする。息ができない。足がまた枯れ葉の山を踏みつぶし、足元がぐらりと揺らいで見おろすと、地面と思ったものは白い骨の山だった。靴の下で砕けていたのは、枯れ葉ではなく人の骨だったのだ。雨ざらしの白い骨にはわずかに残った腐肉を求める虫が絡みつき、頭をもたげて、次の餌を探している。
 叫ぼうとした瞬間、喉をつぶすほどの勢いで鎖が締まって、イーツェンは鎖の重さに引きずられて膝をついた。半狂乱でもがく手がはねのける骨の中で、ただひとつだけ肉が残った首がイーツェンを見て、ニヤリと笑った。
 はしばみ色の目。いつも酷薄そうに片側が上がっていた唇は青黒く、死者の色をしている。血の気のない頬が腐りかけているが、それはまぎれもないルディスの首だった。ルルーシュの者たちに吊るされた筈の男の喉から下は骨と化しており、その喉骨に幾重にも縄を絡みつかせて、ルディスは笑っている。
「あんまり踏むなよ。死んでても痛いもんは痛いんだよ」
 息を吸いこもうとする喉には強く鎖がくいこむばかりで、喘ぎひとつ出せず、イーツェンの指は鎖をかきむしった。あたりはほの白いかすみにすっかり包まれて、リグはもはや幻であったかのようにどこにも見えない。それどころか、かすみと骨以外の何も見えない。
 恐怖に汗ばんだ体が、また後ろから強く鎖で引かれた。のたうちながら骨の中に倒れこんだイーツェンの髪を、容赦のない力がつかみ、ゆさぶって、耳元で2度と聞くまいと思っていた男の声が酷薄な笑みをにじませながら囁いた。
「逃げられると、本当に思ったか?」
 ローギスの声が笑い、いつのまにかイーツェンは四肢で這わされ、背後からのしかかった男が体の中に、奥に、彼を引き裂くようにして入りこんでくるのを感じる。熱に裂かれるような痛みにイーツェンは絶叫したが、鎖の締まる喉からは引きつれた息しかこぼれなかった。


 ──遠くで、誰かの悲鳴が聞こえた。


 体を強くかかえこまれ、暴れながら、イーツェンはその悲鳴が自分の喉から出ていることをぼんやり意識したが、何が何だかわからなかった。じんじんと血の流れる音が耳を満たし、人の声は水を通したかのように遠くぼやけてしか聞こえてこない。逃れようと無茶苦茶に振り回す腕を取られ、動きを封じるように全身を強く抱きしめられた。
 シゼの声がする。言っていることが聞きとれず、イーツェンは冷や汗に濡れた全身を痙攣させてあえいだ。体のふるえがとまらずにシゼにしがみつくと、背中に回し直された腕が強い力でイーツェンを抱きこみ、ふたつの体の間に隙間がなくなるほど引き寄せられた。
 いきなり背後で大きな音がひびきわたって、心臓がさらに早く乱れた鼓動を打った。まばゆいほどの光の輪が背後から投げかけられ、くらんだ目をとじて、イーツェンはシゼの肩に額を押しつける。何が何だかわからず、ただここから逃げ出したくてたまらなかった。何かが追ってくる。それが怖くてたまらない。
 近づいてくる荒々しい足音に全身がすくんで、声が出なかった。だがシゼの腕はわずかもゆるまず、イーツェンに逃げる余裕を与えない。
「離れろ!」
 怒鳴り声が頭上から浴びせられて、凍るように身をちぢめたイーツェンのすぐ近くで、シゼの落ちつき払った声がした。
「灯りを壁に掛けて、酒の壺を取ってくれ」
「貴様、何を──」
「悪い夢だ」
 そう言いながら、シゼは左の手のひらでイーツェンの背中をゆっくりとさすった。イーツェンはまばたきし、おずおずと顔を上げて、刺すような光に目をぎりぎりまで細めながら、背後に立つ男たちの姿を見上げる。まるで2人に覆いかぶさろうとするように、すぐそばに立ったカーザが険しい表情で彼らを見おろしており、扉口にはハンサイらしき影が立っているのが見えた。
 リグの商館だ。
 すべては夢だったのだと、一瞬ですべてが心にすとんと落ちて、イーツェンは凍りついていた体から力を抜いてぐったりとシゼにもたれかかった。まだいきり立った様子でシゼへ怒声を浴びせるカーザへ、どうにか声をかけようとするのだが、声が喉に途切れてうまくつながらない。体中がまだふるえている。
 やっと、囁きを絞り出した。
「すまない、嫌な、夢を、見て」
 それ以上は言えなかった。言いたくもなかった。シゼの体温にすがりつき、イーツェンは体の奥によどんでいる何かを吐き出そうとするように息を吐く。シゼにうながされて横を見ると、ハンサイが膝をついて小さな酒の杯を差し出していた。
 ふるえるイーツェンの手のかわりに、シゼの手がそれを受け取って、飲むようにうながしながらイーツェンの唇に当てる。シゼの肩に頭を預け、杯をつかむシゼの手に自分の手を重ねて、イーツェンは林檎の香りがする酒を数口、咳き込むことなくどうにか飲みこんだ。
「大丈夫ですか」
 ハンサイが心配そうにのぞきこむ。下着姿で寝ていたらしく、そのままの寒そうな姿に、イーツェンは申し訳ない気持ちでうなずいた。
「すまなかった。‥‥起こしてしまったな」
「悲鳴が、聞こえたので」
「夢見のせいだ。子供じゃあるまいし」
 笑おうとしたが、顔がこわばって動かなかった。シゼにもたれかかったままそれ以上何も言えずにいると、シゼが床に酒杯を置き、汗に湿っているイーツェンの体を毛皮の上掛けでくるむように覆った。
 カーザが掲げていた灯りをおろす、その動きにつれて部屋の壁と天井を大きな影が踊る。シゼにかかえられたまま強靭な体によりかかって、イーツェンはカーザとハンサイを見上げた。
「本当に、悪かった。もう大丈夫だから、戻ってくれ」
 カーザは長袖のリンネルの下着と下帯だけで、裸の足がひどく寒そうだ。右手に灯りを持っているのは知っていたが、左手には不気味に光をはね返す山刀を持っているのに気付いて、イーツェンはぎょっとした。彼の悲鳴を、カーザは現実の身にさしせまった危機だと思ったのだろうか。
 眉をきつくしかめたままのカーザは、イーツェンを抱えているシゼを見てから、ふたたびイーツェンへ視線を向けた。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫。ごめん、起こして‥‥」
 イーツェンがあやまっていると、ハンサイが手を振って謝罪を払った。
 何かいるものはあるか、と問われて、首を振る。汗に冷えた全身が気持ち悪くて風呂に入りたかったが、夜中ではどうしようもない。とにかく彼らを起こしてしまったことがひたすらに申し訳なく、その理由が悪夢だというのがまたきまりが悪くて心がふさいだ。このところ、こうまでひどい夢は見なかったのに、どうして身が安全になった今になって、また悪夢に追いつかれているのだろう。リグへの出立が目の前で、何を不安に思う必要もないと言うのに。
 カーザが部屋の油燭に明かりを移し、ハンサイとともに寒そうに身をすくめて去っていくと、イーツェンはシゼにうながされるままに横になった。首の輪がすっかり冷えてしまって、顎まで上掛けにもぐりこんで溜息をつく。
「ごめん、シゼ。起こしちゃって。‥‥そんなに大きな声だった?」
 シゼはイーツェンが残した林檎酒を飲み干すと、イーツェンの横に身を横たえて、淡々と言った。
「肘打ちされて起きました」
「えっ」
 思わず起き上がりかけたイーツェンの腰をかかえるようにして、シゼが引きずり下ろす。おとなしくシゼに身をよせる位置におさまり直して、イーツェンは背中をシゼに預け、体から力を抜いた。芯まで凍えた肌はまだ血が通っている気がしないが、つたわってくるシゼのぬくもりに少しずつ緊張がゆるんでいく。
「ごめん。痛かった?」
「少し」
 シゼの声はおもしろがっているようだった。
「あなたは、眠っている時の方が筋がいいのかもしれない」
 無言のまま、イーツェンは後ろにいるシゼを右肘で軽くつつく。シゼがその腕をつかまえて、腕ごと背後からかかえこまれた。
 それきりどちらにも言葉はなく、イーツェンはぼんやりと影が揺れる壁に視線を投げかけたまま、背後に横たわるシゼの呼吸を数えていた。おだやかで、静かで、揺るぎのない呼吸。吸って、吐き出す、そのたびにくぐもったシゼの息の湿り気がイーツェンの髪にふれる。
 こうしてすぐそばにシゼがいて、腕と腕をからませ、背中にぬくもりを感じていると、じわじわとだが、何も恐れることはないのだという落ちついた心持ちが戻ってくる。シゼは何があってもイーツェンを守ろうとしてくれるだろうし、イーツェン自身、シゼがそばにいてくれさえすれば、自分にそなわる以上の力を振り絞れる気がした。
 だが、夢に対して、人はどう戦えばいいのだろう。眠れば、そこで常にイーツェンを待っているものだ。のがれようがない。そして、シゼにもイーツェンを夢から守ることはできない。
 喉元の、つめたい輪の表面を指でさすって、イーツェンは溜息を噛み殺した。すっかり首になじんだ輪が今はひどく息苦しく、呼吸をこの瞬間にも断ち切ってしまいそうだ。理屈ではあり得ないとわかっていても、少しずつ輪が小さくなってくる気がしてならない。夢の中で彼をとらえていた鎖のように。
「眠れませんか」
 耳元のシゼの囁きに、イーツェンはぎくりと身をこわばらせた。何となくシゼがもう眠った気がしていたのだが、考えてみれば油燭をつけたまま火の始末もせず眠りはしないだろう。
「うん‥‥」
 何故、とはシゼは問わなかった。わかりきったことだろう。イーツェンは背中をねじらないよう慎重に寝返りを打ち、厚い毛皮の上掛けの下でシゼと向き合った。
「眠るとまた、夢を見る気がする」
 正直に打ち明けると、シゼはうなずいた。
「うなされたら、また起こしますよ」
 至って淡々と、何ほどのことでもないようにイーツェンに約束する。イーツェンは唇を少しゆるめた。
「‥‥みんなを起こしちゃったな」
 もうリグへ向かおうと言うのに、まだ何かに背中を追いかけられている自分がいささか情けない。どうして振り払えないのだろう。何故今、こんなところで追いかけられているのだろう。
「気にすることはない」
 シゼはあっさりと言ってのけて、イーツェンの腰にゆるく腕を回し、安心させるようにぽんと叩いた。
「色々と大変だったから、まだ心が落ちつかないんでしょう」
「そうなのかな」
 シゼの肩に頭をのせ、小さな息をついて、イーツェンは夢の中で首を引いた鎖の強さを思い出す。
 それと同時に、体の内側にねじこまれた男の熱と苦痛が鮮やかによみがえって、臓腑の深いところから吐き気がこみあげてきた。背中を丸め、目をとじようとする。全身がべったりと汚泥にまみれているようで、見えない汚れを肌から削ぎ落としてしまいたくてたまらない。だがそれは、きっともう落とせないものなのだ。イーツェンの内側に刻み込まれ、灼きついた、誰にも消すことのできない暗闇だった。
 後ろに置いてきたつもりで、城でのことは──そのいくつかは──まだあまりに生々しすぎる。その奥をのぞきこもうとするたび、とじこめた箱の口がひらいて中から蛇がうようよと這い出してくるかのように、何か得体の知れないものがイーツェンを呑みこもうとする。悪夢はそこからくるのだろうか。
 腰をゆるく抱くシゼの腕の重さが、どこかにさまよい出してしまいそうなイーツェンの気持ちを引き戻し、イーツェンはしんと冷えた夜気を吸いこむと、その息を最後までゆっくりと吐ききった。体の芯によどんでいるものが、少しだけ淡くなる。
「‥‥お前は、どんな夢なのか聞かないな」
 イーツェンが呟くと、シゼは少しの間を置いてから答えた。
「私もたまに夢を見る、イーツェン」
「どんな──」
 聞きかけて、だが好奇心で聞いていいことではないかと口をとじた時、シゼがぽつりと言った。
「間にあわなかった夢だ。城へ戻って、あなたを‥‥助けられない夢を、何度か、見た」
 淡々とした言葉の奥に深い影を感じて、イーツェンは目をとじた。シゼの肩に額を押しつける。
「でもお前は、私を助けてくれた」
「あの時ほど怖かったことはない」
 シゼの息がイーツェンの額の髪をかすかに湿らせていた。言葉がじかに肌にしみこんでいるようで、じわりと温かい。
「あなたを見た時、もう助けられないのではないかと思った。遅かったのだと。あなたはそれほど弱って見えたから」
「‥‥その時の夢を、今でも見るのか?」
「──幾度か」
 呟いて、シゼは唇でイーツェンの額にかすかにふれた。愛しむと言うよりは、確かめるように。イーツェンが本当にここにいるのだと。
 腰の上にのせられたシゼの腕を手のひらでなでながら、イーツェンは胸の奥がしんと空洞になったような気持ちで考えこんだ。誰でも夢を見る──かつてイーツェンにそう言ったのはセンドリスだ。ジノンの盟友であるあのほがらかそうな男の奥にも、暗い何かが棲んでいる。シゼの中にもそれは身をひそめていて、一瞬の心の隙間から外へ這い出そうとするのだろうか。
「あなたは、城の夢を見るんですか?」
 おだやかに問われて、イーツェンは天井にゆらりと揺れるわずかな光と影を見上げた。
「そう。大体は。城とか、地下牢とか‥‥でもさっきはリグの近くの夢だった。もう、山の形まではっきり見えてた。なのに、鎖で引っぱられて前に進めなくて‥‥怖かった」
 ぽつりと、最後の言葉を吐き出す。こんなことが言えるのはシゼだけだ。ほかの誰かに言えば、城で一体どんなことがあったのかと心配するだろうし、詮索もするだろう。シゼはそのすべてを知っているし、イーツェンがどれほど弱音を吐こうが、笑ったり軽んじたり、逆に哀れみもしない。ただまっすぐに受けとめる。
 こうやってシゼに本音を告げ、受けとめてもらうことで、いつもイーツェンは心の中にあるものを前よりはっきり見つめられるのだった。自分の中に溜まっているどろどろと暗いものさえ、シゼがそばにいてくれればしっかりと見据えられる気がする。
 シゼの手が腰から脇腹を軽くなで、イーツェンはのばした左手でその手をとらえた。シゼが握り返してくる、その力にたよるようにひとつ息を吸い、あらためて右肩を下にしてシゼとまっすぐ向き合う。シゼは左肩を下に、体を斜めにしてイーツェンを見ていた。
「シゼ」
 呼びかけると、シゼはかすかにうなずいて、イーツェンが先を続けるまで辛抱強く待っていた。イーツェンは数度、唇を動かしては言葉を整え直す。今をのがしては、この闇と向き合う機会はふたたび来ない気がした。吐き出してしまえば少しは楽になるかもしれない。
「シゼ。私は‥‥まだ時々、夢を見る。‥‥男に組みしかれる、そういう夢だ」
 シゼは表情を変えなかった。口元がこわばったようにも見えたが、か細く揺れる灯りでは微妙な表情の変化まではとらえられない。声はいつもと同じ、抑制のきいた低い声だった。
「知ってます」
「私は‥‥多分、今でもあの夢を見るのは」
 シゼの手を離し、イーツェンは左の拳で額をこすった。
「城でおこったことを、今でも恥じているからだ。お前もよく知っているだろうけど‥‥あの城で」
 乾いた喉に唾を呑みこむだけで、ひどく喉がひりひりした。暗い闇がすぐそこにぽっかりと口をあけているようだ。全身が冷え、血管を夜の闇のようなつめたい何かが流れているようだった。あるいはそれは、さっき見た悪夢だろうか。あのどろどろとした汚泥が、まだ出口のないままイーツェンの血の中に混ざって全身をめぐっているのだろうか。
「イーツェン。もう、終わったことだ」
 シゼの右腕が、上掛けの下でイーツェンの二の腕をつかんだ。やさしいが、強靭な手だった。
「もう、忘れるべきだ。あなたのせいではないし、あなたが恥じることでもない」
「でも‥‥」
 イーツェンは奥歯を噛んだ。人のしたことだと、無理強いだったからと簡単に忘れられる記憶ではないのだ。ここまで必死で旅を続けてきたが、悪夢はその旅で振り落とされることもなく、ずっとイーツェンの中にひそんでついてきた。当たり前だ。イーツェンがあの城で見た何より恐ろしいものは、他人の顔ではなく、ほかでもない己の顔だったからだ。自分の知らなかった、自分の顔。
「私は、愉しんでた、シゼ」
 やっとのことでイーツェンはその言葉を押し出した。どれほどあの瞬間の自分を恥じたことだろう。心のない快楽に押し流されてすべてを見失っていた己が、今でもイーツェンは怖くて仕方がない。
「城で、あの時──」
「当たり前だ」
 強い口調でふいにシゼがさえぎり、イーツェンの腕をつかむ手に力がこもった。ほとんどぶっきらぼうな声だった。イーツェンは、聞き違えたのかと茫然としてから、何も続けないシゼへ問い返す。
「当たり前だと、言ったか?」
 その言葉をどう取っていいのかまるでわからない。ただ心臓が凍りつくようにつめたく、小さくちぢんでいた。痛みと恥辱と、そして怒りのやり場がない。どうしてか横っ面を張られたような衝撃が心にあった。
(当たり前?)
 何が当然だと言うのだ。
「シゼ──」
 ひどく上ずった声でなじるように名を口走った瞬間、シゼの指が骨まで握りつぶすようにイーツェンの腕にくいこみ、イーツェンは喉の奥で引きつった呻きをこぼした。苦痛と驚きに全身がぞくりと凍りつく。
「痛いですか?」
 シゼの目にまっすぐ見据えられ、イーツェンは何も言えずにふるえる顎を引いて小さくうなずいた。眉の間に影を溜めたシゼの表情は静かだが、ひどくするどく、瞳の奥にはイーツェンの言葉を許さない激しさがあった。
 指はゆるんだが、痺れが二の腕に残るほどの強さだった。肌にはシゼの指の痕が残っているだろう。イーツェンは何を言うこともできず、ただ息をつめてシゼを見つめる。
「人の体は痛みを切り離すことはできない、イーツェン。体を心で思い通りにすることはできない。体というのはそういうふうにできている。あなたが恥じることではない」
 きっぱりと言いきるシゼを見つめて、イーツェンの頭の中は拭ったように空白だった。二の腕にじんとした痛みが脈を打ちはじめ、その脈が頭蓋の中にまでひびいて息がつまる。気持ちがとりちらかっていて、どう考えたらいいのかわからない。
「でも──痛みとはちがう」
「同じことだ」
「でも‥‥だって、お前も見ただろう」
 追いつめられるように、そんなことを口走っていた。本当なら何が何でも思い出したくないことだが、シゼはイーツェンがオゼルクに犯されているところをじかにその目で見ている。何故今さらそれを持ち出したのかもわからなかったし、口にした瞬間にその場を逃げ出したくなったが、シゼの強い眼光に射すくめられて身動きすらできなかった。
「見ても見なくても同じだ」
 シゼは不機嫌そうに眉をしかめた。
「痛みが思い通りにならないことは、あなたもよくわかっているだろう。人の体は必ずいつも心に従うものではない、イーツェン。そんなことで自分を責める必要はない」
「‥‥‥」
 イーツェンが答えられずにいると、シゼの目にふっと怒りの強い光がともって、覆いかぶさるようにイーツェンの体に腕を回し、抱きよせた。力なくシゼの肩口に顔をうずめたイーツェンの耳元に、低い声が囁く。
「あなたを痛めつけたのは彼らだ。‥‥私はそれを許して、見ていた。恥じるべきは、彼らと私だ。あなたではない」
「‥‥お前は──お前は、だって、ほかに方法がなかった」
「あったかもしれない」
 しんとした空気に染み入るようにぽつりと呟き、シゼはイーツェンの背を強く抱いて彼の反論を封じた。にじみ出る後悔が、シゼの声を静謐なものにしていた。
「もうわからないことだ。だが、あなたがあんなに傷つかずにすむ道があったかもしれない」
「でも──」
 自分は愉しんでいたと頑固に言い張りそうになった時、髪にシゼの唇を感じ、イーツェンは呻いてシゼに身を預けた。喉がつまって言葉を出すことができない。シゼが何と言おうと、あの記憶は消えないものだ。ユクィルスの城で身に思い知らされた快楽は、今でも傷となってイーツェンに深い爪痕のように刻みこまれているし、体の上を通りすぎていった陵辱の記憶は、遠いようでまだ消えてはいない。背に残った傷のように、それらはいつか薄らぎはしても、消えることはないのかもしれない。
 だが。
 ──同じなのだろうか。
 あの鞭打ちの苦しみと、体にもたらされた望まぬ快楽の記憶は。
 今は、そう納得して心が整うというわけにはいかない。だが、シゼがそう考えているということにイーツェンは救いを感じた。出口が決してないと思っていた闇だが、もしかしたら出口はあるのかもしれない。そしていつか、そこにたどりつけるのかもしれない。そうすれば夢も見なくなるだろうか。
 今はのぞきこんでも闇しか見えないが、もしかしたら──いつか。
 ほとんどやみくもに抱きつくイーツェンを、シゼは同じほどの力で抱き返した。イーツェンの背の傷のことなど忘れたかのような強い抱擁に、イーツェンは体だけでなく心が強くたぐられる気がする。心の深くからこみあげてくる感情がこぼれる前に呑みこむと、喉の奥に苦さがひろがった。
 あの日々は、イーツェンだけでなくシゼをも深く傷つけたのだ。傷が残ったのは、イーツェン1人ではない。
 シゼの首すじに顔をうずめ、熱い肌に頬を付けて、つたわってくるぬくもりで自分を落ちつかせてから、イーツェンは顔を上げる。
「シゼ」
 シゼはおだやかに目をまたたかせただけで、何も言わずにイーツェンの背をなでていた。自分の苦しみや痛みを吐き出さない彼だが、決して傷ついていないわけではない。全部を受けとめて、ただあきらめる──それはいかにもシゼらしいが、じれったくもある。
 2人の体の間に左手を入れ、イーツェンはシゼの胸に手のひらをあてた。
「お前は悪くない、シゼ。お前は、生きのびるために城の意志に従っただけだ」
 強く押しつけた手のひらにシゼの心臓の鼓動がつたわってきて、何か、言葉にならないものが互いの間に通うような気がした。本当に言いたいことをうまく言葉の形にできないのは、何故なのだろう。まばたきもなく見つめるシゼの目を、イーツェンはまっすぐに見つめ返した。
 銅色のシゼの瞳に、少し離れたところに置いた油燭のちらちらと揺れる炎の穂がうつりこんでいて、時おり炎そのもののような強い光がともる。射るような強靭なまなざしに、イーツェンは魅入られたように体を傾けて、顔をよせながら囁いた。
「もう、自分を許せ」
 かすかな声しか出ない。シゼの鼓動にあわせてイーツェンの全身にも血が脈を打つようで、いつしか肌がじわりと熱を持っていた。
 シゼは数秒、無言だったが、やがて右手がイーツェンの頬を包むようにふれた。
「あなたも」
 珍しいほどにかすれた声と、その手に引き寄せられて、イーツェンは体を倒す。視線を最後まで合わせたまま、2人の唇が重なり、ゆっくりと熱を分け合うようなくちづけを幾度も重ねた。
 荒い呼吸を継ぐために顔を離すと、イーツェンはシゼの目をのぞきこんだ。たよりない炎の元でも、シゼの目の芯が欲望に黒ずんでいるのがわかる。その目元をのばした指先でなぞりながら、イーツェンはシゼの中に固くくいこんだままの痛みをやわらげてやりたいと願った。イーツェンがまだユクィルスにつながる悪夢を拭い去れないように、シゼもまた、心のどこかをユクィルスに残したままなのだろう。イーツェンのことだけでなく、彼はあの地でレンギを失って、その傷をかかえたままでいる。
 許さなければならないのだ、とイーツェンは思った。イーツェンも、シゼも。あの城で見た己の姿を、己の無力を許さなくては、いつまでも悪夢は深く身にひそんだまま、きっと消えない。
 それでも、自分を許せるとは思えなかった。今はまだ。城でイーツェンが思い知ったものはあまりにも脆い自分の弱さだった。脆くて、醜い。今思い出しても息がつまる。
(だが──)
 シゼの首すじに顔をよせて、イーツェンは彼のぬくもりと大地のような匂いを深く吸いこむ。シゼはそんなイーツェンの弱さすら知って、それでも長い旅の末にここでこんなふうに彼を支えてくれている。シゼがいてくれれば、いつか悪夢の出口を見つけられる、そんな確信が心の奥からにじんでくる。ユクィルスを脱出してこの地までたどりついたように、心もいつかユクィルスから離れることができる筈だ。
 ふたたびシゼの唇にくちづけながら、イーツェンは体の芯に残るつめたさから逃れるようにシゼに全身を預け、背中に腕を回して強靭な体を抱きしめた。
「お前は私の灯台のようだな、シゼ」
 船で覚えた言い回しを使うと、シゼが数回またたいて、イーツェンはつい笑った。
「私が見失っている色々なものをいつも照らして、教えてくれる。お前がいなかったら、とうに道に迷っていただろうな」
 唇をまた近づけ、唾液で濡れているシゼの唇をなめていると、しのび出してきたシゼの舌がイーツェンの舌にふれた。夜気が冷たいからかシゼの舌がひどく熱く感じられて、イーツェンはぞくりと身をふるわせながら唇をあわせ、その舌を吸う。互いの熱い息がくちづけの中にくぐもった。
 悪夢が喰い荒らした心の隙間が、シゼの熱で埋まっていく。求めるイーツェンの衝動に応えるように、背を抱くシゼの腕は強く、イーツェンと同じほどに切羽つまった力がこもっていた。