リグの商館に残って最後の旅立ちの準備をしているのは、商荷の長のカーザと、商館領事のハンサイ、さらに賄い役としてまだゼルニエレードに滞在している3人のリグの男たちだった。
 ハンサイとカーザは商館内に住み込み、ほかの3人は町外れの家を借りて住んでいるのだと言う。リグへ向かう最後の秋荷とともに3人とカーザはリグへ向かうが、ハンサイは冬の間も商館に残って、春の荷の契約をまかされる様子だった。
 シゼは夜こそ商館には戻ってくるものの、相変わらず、朝早くから船大工小屋で働いている。契約をしたから勝手に仕事をやめるわけにはいかないというシゼの言い分はもっともで、そんな彼を尊敬する気持ちはあったが、イーツェンは暇だった。
 何しろ、することがない。
 ハンサイたちは「体を休めるように」と言ってイーツェンに仕事をさせてくれないし、シゼはいないし、ザインでさえ冬の前の寒回りのために近くの村を回っていていない。
 暇を持て余している自分に、イーツェンは少しとまどっていた。ユクィルスでは、塔から出ることも気ままにはいかず、本を読んだり考え事をしたり、食事会があればその仕度をしたり、たまには散歩に出かけたりと、することの少ない日々の中で多少の退屈はあっても、特に何をしなければと思い決めることはなかった。
 それが今は、することがないのがほとんど苦痛だった。体が休められるのはありがたいのだが、何をすることもない無駄な時間が落ちつかない。船でこきつかわれていた方が落ちつくくらいだ。
 3日目ともなると部屋にいるのにすっかりうんざりして、イーツェンは口やかましいカーザの目を盗んで奥庭へ出た。人のいない隅の方に陣取ると、まず手足や背中の筋肉を丁寧にのばして体を温め、動きながら全身の調子を見る。心配していた左肩の痛みもすっかり薄れていて、まだ筋の痛みはあるが、大したことはなさそうだ。熱の影響はほとんど残っていない。
 これなら大丈夫だろうと調子に乗って、剣もないのに構えの体勢を取ってみる。深い踏みこみをしてみてもほとんど背中が痛まないのに、自分で驚いた。旅と、船内で働き回っていた間に、思った以上にイーツェンの体は癒えていたようだ。
「坊主っ子、おいで」
 ひととおり体を動かした頃を見はからったように、庭の中ほどでパンを焼いている女に声をかけられて、イーツェンは焚火を囲む人の輪に加わった。今日の彼は動きやすい大きめのシャツと、裾をつぼませたズボンを履いて、ゆるみのある幅広の腰帯はその一部をリグ式に腰の後ろへ垂らしている。その動きやすい格好で首に布を巻き付けているのはいかにも不自然だったが、はじをシャツの襟の中へ折り込んでどうにか形をつけていた。首の布のことを誰かに聞かれたら、火傷していると答えることにハンサイと取り決めてあるが、今のところ、誰も聞かない。
 この裏庭に集まっているのが周囲の商館の人間ばかりで、地元の人間がほとんどいないということもあるのかもしれない。新しい面子が入ってくるのに慣れていて、イーツェンがリグの商館の人間で、それもいい血筋の息子なのだということだけはしっかりと小耳にはさんでいたが、後はあまり頓着していない様子だった。
「これ、食うか」
 赤っぽい栗色の髪を布の中にたくしこんで、布と髪を1本に編み込んだ先を背中に垂らした女が、木のへらを上げてみせる。パンと粥の中間のようなやわらかい種をへらに塗り付けて、直火であぶっているのだ。少し焼けると、また上から種を塗って焼き重ねる。イーツェンは礼を言ってさし出されたへらを受け取ると、誘われるまま火の側に座りこんで、汗が引いていく体の熱を保った。
 火を囲んでいるのは5人の男女で、彼らは同じ商隊の仲間だという話だ。普段は漁師だが、保存してある干し魚や塩漬けの魚、それに塩田で作られた塩を持って川沿いの貿易に行くのだという。
 このあたりの商館にいるのは、リグのようにそれぞれの国や町から貿易のためにやってきている人間か、貿易組合に雇われている商人たちだ。皆そろって見聞が広く、世間話が大好きで、イーツェンにとってはうとい山の東側の地理や出来事を聞けるのが楽しかった。
「お前は? もう山は冬だろ」
 白いものがまじったひげ面の男にそう問われて、イーツェンは礼儀正しく一瞬目を伏せた。年上への礼儀を見せたのだが、お互いに口調はざっくばらんだ。
「リグに戻る商隊についてくよ。国まで戻るのは、春になるけど」
 言いながら、へらに貼り付いている焦げたパンを口でかじり取った。かじる歯まで熱いので、火傷しないよう小刻みに吹きさましながら食べる。口当たりはぼそぼそしているが、焼けた層が幾重にも重なり合っているのが何とも香ばしく、蜂蜜の香りが湯気に混じって口の中に広がる。木のへらをさっと濡らしてから生地を塗り付けて焼くのだが、へらは林檎の枝から削り出したもので、へらの焦げた部分からも甘い香りが漂っていた。
「いい荷物入った?」
 イーツェンがはふはふと熱い息をつきながらたずねると、それをきっかけに話は塩の荷と、近くの塩田に及んだ。今年の塩の出来はあまりよくなかったらしい。
 塩を積んだ商隊が突然の豪雨にやられて塩の荷が溶け崩れてしまい、流れた塩をどうにか回収できないものかと「荷を積んでいたロバを洗って流れ落ちた水を煮詰めたもんだ」などという嘘臭い昔話にイーツェンが笑いころげていると、後ろで誰かが咳払いをした。
 振り向くと、商館の若者──リョクサが立っていた。年は21だと言うからイーツェンの1つ下で、黒髪は短く刈り上げて後ろ髪だけが長く、彩りのきれいな編み紐でくくっている様子がお洒落だが、服装はいつも質素だ。
「イーツェン、カーザが呼んでる」
 ぼそっと言う彼の表情は今ひとつ読みづらい。うなずいて、イーツェンは皆に挨拶してから立ち上がった。リョクサだけでなく、商館の者にはできるだけ対等に扱ってもらうようにしているのだが、リョクサはどうもイーツェンの名を呼び捨てにすることに慣れないらしい。
「荷物の手配はどう。魚の買い付け、できた?」
「干し魚15袋、後で運んでくる」
 リョクサはイーツェンの先に多って歩きながら、いつものぶっきらぼうな口調でそう言ったが、裏の扉から商館に入る手前でぴたりと立ちどまった。イーツェンを振り向く。肩は細く見えるのだが、近くで見ると意外と筋肉がついていて、背中に厚みがある。
「何」
 イーツェンは首を傾げてリョクサを見上げた。背の高い青年で、多分そのせいで肩や手足が細く見えるのだろう、やせぎすの印象ばかりが強い。目が大きくて、笑いさえすれば愛嬌のある顔立ちなのだが、いかんせん表情が薄く、どこかしら感情の焦点がはっきりと見えてこないところがあった。シゼの、用心深く自分を抑えた無表情とはまた違って、リョクサの無表情は時おりイーツェンを不安にさせる。
 だから、リョクサがいつになく強い目でイーツェンをのぞきこむようにした時、イーツェンは驚いた。
「剣、使えるのか」
 問われて、またたく。これまで、カーザやハンサイに言いつけられた用以外でリョクサが話しかけてきたことはない。
 ──さっきのを見ていたのか。
「教わったから、少しだけ」
 そう答えると、リョクサは小さくうなずいて扉へ向き直ろうとした。イーツェンは右手で彼の腕をつかんで、とめる。
「興味があるのか? なら、時間のある時にシゼに教わればいい。剣はすごくうまいから」
 リョクサは一瞬何を言われたのかわからないような顔でまばたきしたが、無言のままイーツェンに背を向け、商館の裏扉に手をかけた。返事もせずに建物に入っていく。
 商館の者で、シゼがユクィルスの兵だったことを聞いて表情ひとつ変えなかったのはリョクサだけだ。特にシゼを受け入れたそぶりも見せないが、反発を表に出しもしない。彼なら、シゼに剣を教わることに反感もなさそうなのだが。
 悪くない考えだと思ったんだけどな、と溜息を噛み殺して、イーツェンは彼の背を追った。シゼと打ち解けてもらうのに剣を仲立ちにするのは名案に思えたが、相手が乗り気でなくてはどうしようもない。


 そして、シゼ本人もまるで乗り気ではなかった。
「リグでは、こうした長剣はあまり使わないでしょう」
 日暮れ直前に戻ってきた彼は、イーツェンが取り置きしておいたベーコンとパン、それに魚のスープを食べながら、素っ気ない口調で言った。
 腹が減っているのか、パンを軽くスープに浸しては大きな口でかぶりつくシゼの顔を、イーツェンは床の敷物にあぐらをかいて眺めた。本当はシゼと一緒に夕食を待っていたかったのだが、商館の者たちの食事から1人で外れるのも気が引ける。こうしてイーツェンとシゼの寝床を同じ部屋に据えることにすら、ハンサイもカーザも「示しが付かない」と反対したのだ。もっともイーツェンは「背中が痛む時に誰に薬油をつけてもらえばいいんだ」としれっと強行した。彼らの顔色を見てばかりはいられない。
「まあ、リグでは山刀が多いから、あまり剣は使わないけど。基本的な体の使い方は教えられるんじゃないか?」
 甘く煮てから干したナツメを口に放りこみ、イーツェンは左手で山刀を振り回す仕種をしてみせた。リグでは分厚い刃を持つ山刀を携える者が多く、護身用として、さらに枝を払ったり、狩りの獣をさばいたりする道具にも使われる。イーツェンもひとつ守り刀を持っていたが、ユクィルスの城に到着する前に取り上げられたきりだった。
 ユクィルスの兵が使うような長い剣は、たしかにリグの暮らしでは使いどころがない。だが、剣に対する身の守り方は学んだ方がいいのではないかとイーツェンは感じていた。剣は、山で暮らす道具としては長すぎて邪魔だが、いざ戦いとなるとその長さに対して山刀で戦うのは、慣れていないと難しい。
 そこまで本格的に剣の鍛練に取り組むかどうかは別にして、リョクサに剣を教えるのは、シゼと彼らとを近づけるいいきっかけになりそうな気がした。正面切って何かを言い合いこそしないが、リグの者たちとシゼの間にはまだつめたい距離が横たわっている。
 だが、イーツェンの考えなどお見通しだったのか、食事を終えたシゼが薄めたワインを飲みながら淡々とした口調で言った。
「あまり気にしないでいいですよ」
「‥‥そういうわけじゃないけど」
 見透かされていたのがおもしろくなくて、イーツェンは腕組みしてシゼの顔を眺める。シゼが帰ってきたのが日暮れだったから、外にはもう夜の闇が落ち、部屋は2人の間に置いた油燭の灯りだけでは寒々として見えた。この商館には暖炉のある部屋が1つしかなく、そこはハンサイたちが使っている。ハンサイはイーツェンに暖炉の部屋をゆずろうと申し出たが、どうせあと数日の内にイーツェンたちはリグへ出立するし、自分のためにハンサイを動かすのは気が引ける。
 毛織りの肩掛けで肩をくるみ直しながら、イーツェンはどう言ったものかと少し思案して、口をひらいた。
「リョクサのことだけじゃなくて。私もまた剣を教わりたいし」
「もう、いいでしょう」
「何が」
 シゼの言葉の真意が掴めずに眉をしかめたイーツェンへ、空の皿を手にして立ち上がったシゼは、胸がひやりとするような静かな視線を向けた。
「もう、あなたには剣は必要ない」
 そのまま出ていこうとするシゼをイーツェンは息を呑んで見送りかけたが、すぐに跳ね起きると大股に走って、シゼがあけようとした扉を叩きつけるようにしてしめた。シゼの前に無理矢理入って扉に背をもたせかけ、冷静そのものの顔を見つめる。
「どういうことだ。どういう意味だ、シゼ」
「イーツェン‥‥」
「何がもういいんだ」
 声が思いのほかに強くなっていて、イーツェンは深い呼吸をして何とか口調を落ちつかせた。背中に扉の固い感触がふれている。その向こうの廊下に誰かがいたらはっきりと彼らの声が聞こえるだろうが、そこまで頓着してはいられなかった。
「私がお前に剣を教わろうとするのは変か?」
 シゼは空の皿を手にしたまま、少し考えあぐねるように首をかしげて、イーツェンを顔を眺めた。ゆっくりと口をひらく。
「リグに帰れば剣を持つ必要はない。もう、いいでしょう」
「──でも」
 一瞬、ひどくうろたえて、イーツェンは思わずすがるような口調になっていた。
「私は教わりたい。だって‥‥楽しかった。いつも、お前に教わるのは」
 シゼの表情は揺らがなかったが、珍しく口元にふっと笑みがかすめた。その笑みがどうしてか淋しげに見えて、イーツェンの心臓が強い鼓動を刻む。リグに帰れば必要はなくなると──これは、剣の話なのだろうか。シゼが話しているのはそれだけのことなのだろうか。
「考えておきます」
 それだけを言って、シゼはイーツェンに扉の前からどくよううながした。イーツェンは無言のままシゼに道をゆずると、階下に片付けにおりて行く彼の姿を見送ってから、部屋の中へ戻って後ろ手に扉をしめた。
(もう、いいでしょう)
 あの一言に、上辺の言葉以上のものが含まれているように感じるのは、考えすぎだろうか。イーツェンの気持ちや不安が先走って、空回りしているだけなのだろうか。
 1人で考えこみながら、イーツェンは腕組みして天井を見上げた。
 ──空回りでもいい。
 奥歯を噛んで、彼はむっと口を結ぶ。シゼがどういうつもりだろうと、ただ手をこまねいて見ているだけなんてできるわけがない。


 翌日、「背中の筋肉をほぐすのにいいから」と言いくるめてカーザに短めの木剣を買ってきてもらうと、イーツェンはリョクサの時間が空いた時を見はからって一緒に川へ出かけた。1人で行ってもいいのだが、人気のない場所は物騒だし、やはりリョクサをどうにかして味方に付けたいと言う気持ちもある。
 リョクサのことを口実にすれば、シゼはまたイーツェンに剣を教えてくれるかもしれないし、と思って、イーツェンは溜息を噛み殺した。夕べはよく眠れなかった上、朝起きたらシゼはもういなかった。シゼがどういうつもりで言ったのかは、結局わからないままだ。単なる一言に深い意味を読みすぎているのかもしれないとも思うが、部屋のすみにシゼが置いていった剣の鞘を見つめて、朝からイーツェンは気持ちの中にひどく固いものをかかえてしまったのだった。
 あの言葉に、深い意味なんかないのかもしれない。単にイーツェンに教えるのが面倒になったのかもしれないし、とまで考えてしまってかえって落ち込み、気持ちは晴れないままだ。
「体をほぐすから、つきあってくれないか」
 川べりでいい場所を探しながら、リョクサにもう1本の木剣を渡す。相手がいた方がいいからと、やはりカーザに買ってきてもらった物だ。わがままを言うのは身分につけこんでいるようで気が引けたが、遠慮してもいられない。暇で、体がなまっているのも事実だし、少しでも元のように動けるようになりたければとにかく根気よく体を動かすのが大事だと、エナも言っていた。
 船着場の上流に向かうと、枯れかけた葦の河原には人影が少なかった。網を引く者の邪魔にならないよう、離れたところに数歩分の空き地を見つけて、イーツェンはリョクサと向き合った。
「握りは、こう」
 山刀のように手首を斜めして持とうとする彼へ、まず握り方から教える。2人で突きの型と斜めに振り下ろす型をくり返して木剣を振ると、たちまち肩が疲労で重くなった。左肩は思うように動かないし、肩の奥に糸を引き結んだような引きつれがあって、それが時おり周囲の筋肉まで痺れさせる。
 やはり鍛練を続けないとな、と溜息をつきながらにじんだ汗を拭うイーツェンの横で、リョクサは黙々と単調な振りをくり返していた。にこりともせず、浅い踏みこみで木剣を振る、その振り方も体勢もろくに様になっていないが、腰が低くて粘るような重心の安定感があった。たよりないように見えてその体がよく鍛えられているのが、動きからはっきりとわかる。振る木剣の音もするどく、イーツェン自身よりよほど見込みがありそうで、イーツェンは眺めながら感心した。
 だがリョクサ本人にはまるで楽しそうな様子もなく、イーツェンがほめてもほとんど反応を示すことなく、義務的に木剣を振りつづけている。段々と、彼をここまで引っぱってきたことに気がとがめはじめて、イーツェンは声をかけた。
「適当なところで休んで。‥‥悪いね、つきあわせて」
 聞こえなかったのかと思ったが、リョクサは少しの間素振りを続けてから、やっと木剣をおろした。イーツェンの手にある木剣を示す。
「シゼに教わったのか」
「うん。城にいる間に、教えてもらった」
「誰かと戦ったことはあるのか」
 まるで詰問するような口調だが、敵意は感じないし、きっと質問しているだけなのだろう。不器用で無愛想な男には慣れているので、イーツェンは特に気にせずにうなずいた。
「1度だけ、人と立ち合ったことがある。そりゃもうひどい目にあった」
 セクイドに立ち会いを挑まれた、あの時のことを思い出すと今でも笑いがこみあげてくる。思うさま打ち据えられて、全く本当に、ひどい目にあったものだ。
 くすくす笑い出したイーツェンをリョクサが不審そうに見ているので、イーツェンは呼吸の間から説明した。
「アンセラの出の男に立ち会いを挑まれて、負けたんだよ。後から仲良くなれたけどね」
「アンセラの者も城にいたのか?」
「まあ、そう」
 セクイドは出自を隠し、サンジャの奴隷として城にもぐりこんでいたわけだが、そこは面倒なので話をはぶき、イーツェンはつけ加えた。
「リグが山門をとざして助勢に行かなかったことを怒ってたんだ。後から、街道を崩したことを知って、許してくれた。リグの者がアンセラの者を解放しに行ったろう? あの礼を言われたよ」
「その人は今、どこに‥‥」
「知らない。アンセラの復興を願っていたから、きっとがんばっているんだろう」
 なるべく淡々と言おうとしたが、そうして口にした言葉に、心の奥をするどい刃がかすめたようだった。イーツェンは、ユクィルスを去ることができた。だがセクイドはきっと今もあの地にいる。今、どうしているのだろう。アンセラの地をユクィルスから解放しない限り、彼にはイーツェンのように帰り着く故郷はないのだ。
 ──私は恵まれていたのかもしれない。
 そう思い、イーツェンは自分で一瞬、ぎょっとした。だが、思えば思うほどそんな気がしてくる。その一方で、背中に大きな傷まで負ってきた身では素直にそうとも納得できず、自分の中で考えが千々に絡み合って、喉がふっと熱い熱を持った。
 動揺を隠すように素振りをはじめ、イーツェンは横なぎの動作をためした。左腕の動きが鈍く、大半を右手1本で振る形になるので、その分軽い打撃になってしまって、このままでは使い物にならない。
 横では、リョクサがそのイーツェンの動きをしきりに真似て、何も言わずに暇つぶしをしている。つまらなそうな表情を見ると、自分の意地につきあわせて悪いことをしたなあと後悔の念が心ににじんだ。やはり、どうも空回りしているようだ。
 それでも、体を動かすのは気持ちいい。しばらく鍛練とも言えないような動きをくり返してから、2人は河原から引き上げて商館へ戻った。帰る途中の道すがら、リョクサは仏頂面のまま「楽しかった。ありがとう」とイーツェンに告げ、イーツェンは余計に途方に暮れたのだった。


 リョクサと一緒に剣の稽古──まがいのこと──をしてみたと報告する間、シゼは黙って酢漬けの魚を薄いパンで巻いたものを頬ばっていた。今日もよく食べる。
「お前のほうはどうだった? 材の切り出しは終わったのか?」
 自分で話すだけではつまらなくなって水を向けると、シゼは途端に渋い顔になった。食べ終わった手からパンくずを払い落とす。
「切ってみたら、内側に大きな割れ目が入った木があって。板取りからやり直しです」
「でも、明日までだろ?」
 シゼが働くと約束した日は、あと1日だ。聞きながらイーツェンは不安を隠そうとしたが失敗したらしく、シゼはイーツェンを表情を読むように視線を走らせ、うなずいた。
「明日で終わりです。‥‥そうしたら、多分リョクサに剣を教える時間も取れる」
「本当に?」
 自分でもわかるほど声がはずんで、イーツェンは羊毛の敷物の上で膝を使ってシゼににじり寄った。こんなにすぐシゼがそう言ってくれるとは思っていなかった。
「リョクサはすごく才能があると思うよ。足の裏がしっかりと地面を噛んでいて、腰が流れない」
「あなたは──」
 シゼはそう言いかけて、言葉を切った。イーツェンをじっと見てから、もう1度おだやかに言い直す。
「あなたもまだ、剣をやってみたいですか」
「お前が教えてくれるなら」
 喉の奥で、心臓がぎくりと鼓動を打った。ためらわずに言葉を返したイーツェンを、シゼはまた探るように眺める。何を見ようとしているのかはわからなかったが、うなずいたシゼのまなざしはやわらかかった。
「では、あなたも一緒に」
「‥‥本当に?」
「あなたが望むのなら」
 シゼの返事が終わる前に、イーツェンは両腕をひろげてシゼに大きく抱きついていた。シゼの手が背中をかかえこんで、もう片方の手がイーツェンの髪をなでる。そのまま強靭な体に全身を預け、イーツェンはシゼの首すじに顔をうずめた。
 ささいなことなのかもしれない。単に、イーツェンに根負けしてくれただけなのかもしれない。だが、リグへ行こうとシゼの手を引きとめてから初めて、イーツェンが引いているだけでなく、シゼの方から歩み寄ってきてくれた気がした。
「教えてくれ」
「ええ」
「久しぶりに振ってみたら体が斜めになっちゃって」
「足の爪先が内側に入りすぎているんじゃありませんか。あの癖は直さないと、次の動きに移る時に体勢が崩れる」
 生真面目に説かれて、イーツェンは小さく笑いながらシゼから体を離した。シゼはまだ子供の内に、砦で出会った男から剣を教わったと言っていたが、よほど理屈っぽい男だったのだろう。こんな風に言葉できっちりと体の使い方を教える男を、イーツェンはほかにほとんど知らない。
「少しずつ、また覚えるよ」
 そう言うと、シゼは納得した様子でうなずいた。
 眠る前に、イーツェンはハンサイから借りてきた地図を広げ、リグへの道のりをシゼに説明した。方角や距離をきっちりと測った地図ではなく、旅人が使うための道行きがわかるだけの大ざっぱな手書きの地図だが、ハンサイに聞いた道のりをくりかえしながら、指先でざらついた皮紙の上をたどる。
「これがカジャの川。このあたり一帯が沼の多い平地で、シレイギオの大足と呼ばれてる。ユクィルスがこの上流に宿場を作ったんだって。ローギシアってつけられたけど、今はもうヒノって名前に変わってる」
「ローギシア‥‥」
 心の底から嫌そうに、シゼは眉間をしかめた。それが自分がはじめて聞いた時の反応とそっくり同じだったので、イーツェンは素直に笑った。
「変えてくれてよかったよ。ローギスの名前がついてる宿場なんか、絶対にごめんだ。全然休めない」
 それにしても、そうして宿場まで作って旅路の整備をしようとしていたあたり、やはりユクィルスはリグを足がかりにして山の東へ兵を繰り出そうとしていたのだろう。わざわざリグのような小さな国を占領し、王族を人質に取ったのは、リグの者たちを道を作る労働力として使うためでもあったのだ。
「ここまでは川をのぼれる。それから陸路に入って、森を回り込んで、北東から山のふもとへ入るんだ。もう山は冬だろう。‥‥今ごろ、リグは雪が降ってる」
 窓の外を風がうなるように吹き抜け、とじてある板戸がカタカタと鳴った。夕刻に見た空は異様に赤く、天気が崩れるかもしれないとカーザは言ったが、たしかに風の音が大きい。
 火の気のない部屋がしんと身の底を冷やし、イーツェンは地図を片付けると、寝床の用意をして、シゼと同じ毛皮の下へもぐりこんだ。枕元の油燭のねじを絞って、芯にのぼる油をとめ、火を消す。あたりが闇に沈むと窓の外の風が余計に大きく聞こえて、イーツェンは山牛の毛皮の中に耳まで沈みこんだ。ごわついているが、毛足の長い毛皮はとにかくあたたかい。
 右肩を下にしてシゼに身をよせ、いつもの体勢で落ちつくと、少ししてシゼの腕がイーツェンの腰をゆるく抱いた。イーツェンは背を丸め、シゼの肩に額をつける。互いの間にある距離を少しでもちぢめると、心が落ちつく。
「荷物はあらかたそろったそうだ。天候を見て、早ければ3日後にはリグへ向かって発つと、ハンサイが決めた」
「それはよかった」
 闇の中で、シゼの声はやわらかにひびいた。一緒に行ってくれるのだと、イーツェンはあらためて実感する。淡々とした彼の言い方で、それがわかった。
 ──リグへ、一緒に。
 シゼの温度が体に染みる、なじんだ感覚に、体も心もゆっくり弛緩していく。船で離れ離れになっていた間、イーツェンはラウと一緒に身をよせて眠りはしたが、冷えた下層甲板で人の温度で身を温めるのは、ただ体を休めるためだった。
 シゼの横で眠るのはまるで違う。寝着ごしではあるが、ぴたりとふれあった体がひとつの熱を分かち合っているのがわかる。まるで血が体の内をめぐっていくように、シゼとイーツェンの2つの体の間を熱がめぐりながら、彼らをつないでいるようだ。
 1日の疲れが体の芯からじんと溶け出して、イーツェンは目をとじた。
「今日、セクイドたちのことを思い出していた。今ごろどうしているんだろうな」
 シゼの返事はなかったが、髪をなでていた指が髪の間に入りこんで、くしゃっとかきまぜるような仕種をした。
「私はもうすぐリグに帰れるし、お前もこうやって一緒にいてくれる。‥‥やっぱり、恵まれてるんだよな」
 昼間に思ったことをこうして闇の中で口に出してみると、昼よりもすとんと腹の底までその考えが染み込んでいくのがわかった。うん、とイーツェンは自分で自分に呟く。旅の真っ最中には思いもしなかったことだが、意外と今、自分が幸せなのだと気付いていた。何があったとしても、今、ここにいる彼は恵まれている。
 シゼが身を傾け、イーツェンの体に深く腕を回して彼をかかえこんだ。ふ、とシゼの匂いが身を包む。ここ数日船大工の手伝いをしていたせいか、うっすらと汗と雄の匂いが入り混じった中に、木の匂いが香ってくるのが少し不思議だ。
 耳元にひびく呼吸の音。沈黙の中で、シゼが彼の言葉をじっと受けとめているのがわかって、イーツェンは微笑した。シゼの体に腕を回して強靭な体を確かめるように抱きしめると、シゼが大きく息をつく動きが体ごしに伝わってくる。
「時々、あなたの考えていることがよくわからない」
 困惑しているというより、微笑んでいるような声だった。イーツェンも笑う。
「おあいこだ。私もお前の頭の中が、たまにわからない」
 顔を傾けるとシゼの顎が唇にふれて、イーツェンは強い輪郭を唇と舌先でなぞった。あまり首をのばそうとすると、首の輪がくいこんできて動きを妨げるのが忌々しい。
 ざらついた肌をなめると、舌の先で肌がうっすらとふるえた。ふ、と体の奥底で欲望が身じろぎするのを、イーツェンはごく自然に受けとめる。
 シゼがほしい、と素直に思う。シゼへ向かう気持ちや欲望は、イーツェンがこれまで感じたどんなものともちがう、ひどく甘く、また同時に生々しいものだった。この気持ちをシゼにぶつけてみたいが、シゼはそれをただ受け入れてくれはしないだろう。多分その前に、彼らの間にはまだ片付けなければならない問題があるのだ。イーツェンが目をそらしてきた、そしてシゼも目をそらしてきたこと。
 今夜それをシゼに問うには、もうイーツェンの体は眠りで重い。
 シゼが動いて、闇の中で彼の唇がイーツェンの唇を探り当てた。お互いに体を傾けあいながら、ゆっくりと舌を絡ませ、吸って、生々しい熱を分けあう。よりそった体の熱、そして口の中のむき出しの熱を分かちあいながら、イーツェンは低く呻いた。やわらかく、どこか淡いほどのくちづけなのに、ゆっくりと頭の芯が痺れていく。
「‥‥もう、眠って」
 唇を離してシゼが囁き、イーツェンは彼の肩に頬をのせて少しの間、笑った。何がおかしいのかはよくわからなかったが、体の中に軽やかな熱が満ちているのが心地いい。
「好きだ、シゼ」
 時おり何を考えているのかわからなくとも、どれほど頑固でも、どれほど心配させられても。
 囁いて、無言のシゼの顎にもう1度くちづけてから、イーツェンはおだやかな眠りに落ちていった。