風が一陣通り抜けて、川の表面が鱗のようにざわざわと小さく逆立った。だがイーツェンの肌をふるわせるのは体の外の寒さではなく、身の内に据わった、氷のような寒さであった。
 身を縮めた彼へ、シゼが気づかわしげな声をかける。
「戻りましょう」
「シゼ。私は、お前を信じている」
 シゼがまばたきして、イーツェンをうながそうとしていた動きをとめた。イーツェンは流木に座ったままシゼへ向き直り、こわばった微笑を浮かべる。
「お前ほど信頼した相手はいない。知っているな?」
 シゼは考えるような深い表情をしてから、うなずいた。イーツェンは指先に結んでいた草の葉を足元に払い落とし、静かに問いかける。
「お前は、どうだ。私を信じられるか? 私を信頼できるか?」
 シゼはイーツェンの強い視線にたじろいだ様子で、川へまなざしを戻した。
「これは‥‥信頼の問題ではない、イーツェン」
「私はそうだと思う」
 問いつめるのではなく、真摯に問いかけるように。イーツェンは、シゼにどうにか届くよう、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私はたしかにたよりないし、お前の信頼に値しないかもしれない。お前のように強くはないし、多くのあやまちを犯してきた」
「イーツェン──」
「いつもお前にたよりきりで、いつも守ってもらっていた」
「それはちがう。あなたは自分の強さでやり遂げてきた、イーツェン」
 シゼはイーツェンの目を見て、きっぱりと言い切る。イーツェンは思わず微笑して、シゼの膝にのせていた手で彼の左手を握った。
「ずっとお前にたよっていた。お前がいるといつも安心できたし、一緒なら、何があっても乗り切ることができると信じられた」
 そして実際、ここまで多くのものを乗り切ってきた。以前のイーツェンなら、自分がこの旅をやり遂げることなど思いもしなかっただろう。
 シゼはまだ強情な表情で首を振る。イーツェンを見つめたまま、かすかだが険しい緊張を頬ににじませたその表情が、イーツェンは好きだった。精悍なのに、どこか子供っぽくも見える。
「あなたがやり遂げたのは、あなたの力だ」
「私ががんばれたのは、お前を信じていたからだよ、シゼ。1人では駄目だった。ほかの誰かと一緒でも、きっと駄目だったと思う」
 まぎれもない、それは真実の言葉だった。シゼの存在とシゼへの信頼が、いつもぎりぎりのところでイーツェンを支えたのだ。イーツェンに強さがあるとすれば、それはシゼを信じたがゆえの力だ。信じることがどれほど人を支えるのか、イーツェンはユクィルスの日々とこの旅を通して、はじめて知った。
「お前を、信じている」
 葦の茂みの中から雁のように大きな鳥が、羽音をひびかせながら飛び立った。川沿いの道を行く荷車の、今にも壊れそうな車輪のきしみが上の道からひびき、川のせせらぎの音が石を洗う。だが、イーツェンとシゼの周囲だけはひどく静かだった。
「だから、この1度だけでいい。お前に私を信じてほしい、シゼ」
 またたきもしないシゼの銅色の瞳を見つめて、イーツェンはひとつ息を継ぐ。指先がたよりなくざわつく手を、軽い拳に握りながらゆっくりと続けた。
「信じて、一緒に来てほしい。きっと色々あるだろう、お前も嫌な思いをするだろうし、多分私にもつらいことがある。それは否定できない」
 シゼは何か言いかけるように唇をかすかにひらき、それからぐっと口を結んだ。イーツェンの目をくいいるように見つめる。
 獰猛なほどするどいが、深い視線に、イーツェンは波立っていた心がおだやかに静まっていくのを感じた。何があろうと、シゼがどういう結論を出そうと、この一瞬を彼は決して忘れまい。シゼとすごした時間のすべてが、今の彼を支えている。楽しかった時だけでなく、苦しかった一瞬ずつすら、かけがえのないものだった。
「でも、きっと何とかなると思うんだ。お前がいてくれさえすれば私はがんばれるし、リグの者だって、いつまでも怒りにまかせて心をとざすようなことはないだろう。ハンサイやカーザはお前のことを何も知らない。知ればきっと、ユクィルスの者だからとまとめて悪し様に言うようなことはなくなる。今はまだ、彼らはお前を知らないし、お前は彼らを知らない」
 川から渡った風がひんやりとした湿気をはらんで髪の間を抜けていく。イーツェンは言葉を切り、喉元へそっと手を当てた。首に巻かれた布の下では、金属のつめたい輪が変わることなく厳然と喉をとらえている。
「私の首輪を見た者は、誰でも輪だけを見て、私を奴隷だと思う。私が本当は何者かであるかは関係ない。彼らがお前にしたのはそれと同じことだ。人が私の輪を見るように、お前の外側だけを見た。お前もまた、リグの者が皆そうすると決めて私から離れた」
 シゼはまばたきしたが、何も言わなかった。イーツェンはおだやかに続ける。
「でも、人はそれがすべてではない。その奥にもっと色々なものがある。私もお前を知るまでに時間がかかった」
 はじめのうち、イーツェンはシゼの外側しか見ていなかった。ユクィルスの城兵。イーツェンの見張りと世話役を何も考えずにこなしているひややかな男だと、役目以外のことを気にかけない男であると、シゼに対して決めこんでいた。シゼがその殻の向こうに覆っていた優しさや傷に目が行くようになったのは、随分と後のことだ。
 イーツェンはシゼのまなざしをまっすぐに見つめ返す。シゼは目をそらさない。
「見きわめるだけの時間をくれ、シゼ。一緒に、リグへ来てほしいんだ」
 シゼはすぐには答えなかった。イーツェンは言葉を重ねたい衝動をこらえて、シゼが自分の中にあるものを言葉にするのを待つ。彼の返事がどんな風に返ってくるにせよ、丸ごとはねつけるようなことはしたくなかった。たとえどんな答えでも、それはシゼが心の奥から絞り出すようにして出した答えだ。簡単には引き下がれないが、彼の気持ちを否定はできない。
 イーツェンの居心地が悪くなるほどの長い間、シゼは彼の顔をじっと眺めていたが、不意にまなざしがやわらいだ。
「私がリグへ行って、それで何もかもうまくいくと信じているわけではないのでしょう、イーツェン」
「うまくいくとかいかないとか、ここで考えていてもわからないだろ。ためしてみないと」
 祈るように、すがるように、切羽つまった気持ちを心の内に溜めたまま、イーツェンはなるべく自然にひびくように返事をする。
 シゼはまたしばらく考えこんでいたが、ふっと溜息のように呟いた。
「あなたの重荷には、なりたくない」
「わかってる。その気持ちはうれしいけど、私は大丈夫だ。お前を重荷にはしない」
 イーツェンが右手をのばすと、シゼがその手を取った。シゼと指を握り合わせて、イーツェンは言葉にならないものを乾いた肌ごしに伝えようとする。
「今回だけでいいから、信じてくれないか」
 シゼに信頼してもらうこと、それだけしか彼を動かす術はないのだとイーツェンは思う。イーツェンを守ろうとして商館を去ったシゼは、イーツェンがうろたえていたり、傷ついた顔をしたり、下を向いていても戻っては来ない。こんなことは何でもないことなのだと、必ず乗りこえていけるものなのだと伝えなければ、いつまでも一方的にイーツェンを守ろうとするだろう。
「信じてくれ」
 と、イーツェンはぽつりとくり返した。シゼは言葉を探すように考えこみながら、無言でイーツェンを見ている。
「私のために、リグへ来てくれ」
「‥‥イーツェン」
 ずっと黙っていたシゼが低い声でイーツェンの名を呼んだが、その先に言葉はなく、唾を呑みこむ喉が動いた。息をつめて待っていたが、そのまま迷いと沈黙だけが長くのび、イーツェンはやむなく最後の切り札を口にする。
「せめて、春まで。その先のことはまたその時に決めればいいだろ」
 シゼは軽く首を傾げてイーツェンの顔を眺め、それから川のほうへ顔を向けた。表情には物憂げな影があったが、口元には微笑が浮かんでいる。その表情が何を意味するかわからないまま、イーツェンは握ったままの手をねだるように何度か引いた。
「冬をどこかの開拓地で越すなんて、心配でしょうがない。それにリグを見てみたいと言ってただろ? ここで見に行かなかったら、どんな国なんだろうって思って一生すごすことになるぞ」
「あなたは、あきらめるつもりはないんですね」
 シゼの声はやわらかで、イーツェンの指を握り返す彼の指にも力がこもった。イーツェンは、いつのまにか子供のような口調になっていたことに気付いて、頬をしかめる。
「私のことは、お前が1番よく知っているだろ」
「‥‥そうですね」
「お前が、私をリグへつれていくと言ったんだ、シゼ。旅の終わりまで一緒に行こう」
 結局どこまでも子供がねだるような言い方になってしまって、イーツェンは頭をかかえそうになったが、シゼはふっと笑った。空へ視線をとばして、一瞬目をとじる。まるで何かを透かしているようだった。
「イーツェン。‥‥人の憎しみは、根深いものだ。あなたは何でもまっすぐぶつかっていくが、それだけではすまないことも多い」
「そうだな」
 シゼの指を手の中に握りこんで、イーツェンはうなずく。リグへ行くことで、シゼは傷つくかもしれない。イーツェンにとってもこれは大きな賭けだった。リグへ一緒に行ったとして、そこから先がどうなるのか、どうすればいいのか、今の彼には皆目見当がつかない。
 そもそも、自分がリグでどういう立場になっているのかもわからないのだ。イーツェンは3年の時を経てリグへ戻り、どんな風にその先を生きていくのだろう。かつてのように導院や離宮で学びながら雑事をこなす日々には戻らないだろうが、ならば、どうなるのか。
(だが、きっと)
 シゼがいれば大丈夫だと、イーツェンは思う。2人ならば、きっと一緒にリグでの居場所を見つけられる。イーツェンのためだけでなく、シゼのための居場所を。
「一緒に行こう」
 イーツェンは半ば自分に言い聞かせるように、そう呟く。シゼが身を傾け、左手はイーツェンの手と握り合わせたまま、右腕だけで彼の体を抱いた。シゼの体の熱がふっとイーツェンを包みこむ。
 抱擁は一瞬で、すぐに身を起こして立ち上がったシゼはイーツェンを見おろしてうなずいた。表情にはまだ憂いがあったが、声はおだやかだった。
「リグまでは一緒に行く。その先のことは‥‥運命にまかせる、イーツェン」
「うん」
 喉に何かがつまったようなぎこちなさをこらえて、イーツェンはうなずいた。今はそれ以上のものをシゼに求めることはできない。ここまで1歩ずつ旅をしてきたように、この先も、1歩ずつ積み重ねていくしかなかった。


 シゼは船大工小屋での仕事を片づけに戻り、入れ違いに現れたザインはイーツェンを引っぱって町へ行くと、広場の脇に建つ小さな神殿へ彼をつれていった。
 神々の姿を浮き彫りにした石がはめこまれた正面の壁を見て、イーツェンはたじろぐが、ザインは彼の手を引いて短い石段を登っていく。門構えはしっかりしているものの、かなり間口の小さな神殿だ。
「おいで」
「ザイン、私は‥‥旅の間、あまり神々に祈らなかったんだ」
 ユクィルスの城で耐えていた日々、そのどこかでイーツェンは祈りを失った気がする。神々に怒りやあきらめといった反発の気持ちはほとんどなかったが、ただリグを遠く感じるのと同じように、祈ることは彼にとって遠くなってしまった。こうしてザインを前にすると、それが少し恥ずかしい。
「いいんだよ」
 ザインは神官らしく、ゆったりとした口調を使う。
「こうして私と出会って、3年ぶりに話すように、出会ったその時々に話しかけてみればよいのさ。神々は辛抱強いし、人に耳を貸すのだけは得意だ」
「‥‥‥」
 昔から、イーツェンは神官としてのザインの信仰がどういうものなのか、時にわからなくなる。皮肉のかけらもない素直な口調で、毒のあることを平然と吐く。
 あけ放たれている扉をくぐると、しきりのないがらんとした部屋が広がっていた。床には白や褐色など色のついた石がとりどりに敷き詰められ、左の壁際に沿って大きな長い水槽が据えられているのが目を引く。壁にぴたりとよせて煉瓦で作られた水槽は、手前側が扇の弧のようにふくらんでいて、その前の床には花や干し魚、木彫りの像などの供物が積まれていた。
 水槽には水以外、特に何も入っていないようだったが、イーツェンがじっくり見る前に、彼の手をつかんだままのザインがまっすぐ部屋を横切った。水の前の床で祈ったり、あぐらをかいて瞑想している様子の人々はこちらを見上げもしない。
 祭主のような存在も見えず、ここの主神は何かととまどうイーツェンの手をザインがどんどん引いていく。部屋を通り抜けた正面には扉のない出入り口があって、その向こうからは淡い陽光がにじむように室内を照らしている。神殿と言っても一部屋だけの小さなもので、その向こうは中庭になっているようだ。この町には、建物に囲まれた奥庭がやたらと多い気がする。
 まるで門をくぐるように部屋をまっすぐ抜けて、ザインとイーツェンは奥の庭へ出た。四方を建物に囲まれた庭は思いのほか広く、小さな畑と井戸までそなえられていて、15人ほどの人々が思い思いの場所に座りこんでは茶を飲んだり縫い物をしている。
 ザインはさっさと鍋を囲む人たちのところへ歩み寄ると、なじんだ様子で言葉を交わし、小さな木の椀を2つ持って戻ってきた。イーツェンと肩を並べて、畑を囲む縁石に腰をおろす。
 渡された椀を、イーツェンはしげしげとのぞきこんだ。湯気を立てるそれを茶のようなものかと思ったが、少し白濁した半透明の汁が入っていて、表面に薄く油の艶が浮いている。
「骨茶だ。あったまる」
 まばたきし、イーツェンはザインにならって片手で持った椀を、茶を飲むように口に付けた。一口すすると、魚の匂いと潮の匂い、それに何とも言えない香ばしさが口の中に熱くしみ渡る。あまりの熱さに思わずむせるところだった。
 魚のスープともまた違う、すっきりした味わいがあって、首を傾げるイーツェンにザインがにっこりと説明した。
「干した魚の骨を火で焦がして、煮出したものだよ」
「おいしい。ありがとう」
 素直に礼を言うと、ザインはうなずいて視線を畑へ向けた。イーツェンもつられて、畑に植えられているカブや、見たことのないちぢれた襞のような葉の野菜を眺めながら、熱い骨茶をすする。川辺に座っているうちに体が冷えていたし、疲れていたので、茶を飲んでひろがる熱さが心地よく、緊張がゆるんで溜息が出た。
「‥‥リグへ一緒に行くんだな?」
 数呼吸置いて、ザインがたずねる。イーツェンは口元の湯気を吹きながらうなずいた。
「うん。一緒に行く」
「大変だぞ」
 ザインの声はおだやかで、イーツェンを問いつめるような気配はまるでなかった。イーツェンはまたうなずく。
「ユクィルスで兵として雇われていたことは、なかなか皆には受け入れてもらえないと思うけど。でも、やってみないとわからないことだから」
 言いながら、決心がさだまっていくのを感じた。先がどうなるのか、イーツェンにもシゼをリグまで伴うことへの不安はあるが、その不安に挑むことなくシゼの手を離してしまうことの方がずっと怖い。今度見失ったら、きっともう2度と会えない。
 ザインは、だが首を振った。
「あの男の方だよ。あれは、強情な男だぞ」
「シゼと何か話したの?」
「お前が寝ている間に、少しね。恋人なのか?」
 ごく自然に聞かれてごく自然に答えそうになったが、一瞬口ごもって、イーツェンは顔が熱くなるのを感じた。
「‥‥まだちがう」
 シゼとの関わりを人に説明するのはあまりにも難しい。イーツェンにとっては、とにかくずっと一緒にいたい相手で、心から信頼をよせる相手でもあるのだが、自分たちを「恋人」と言うには色々と足りない気がする。体の接触がまるでないわけではないが、最後まで情交したこともないし──などと、あけすけなことを人に言えるわけもなく。
 そんなことを考えながら、イーツェンはさらに勝手に赤面した。たとえ体を重ねていたところでそれだけで「恋人」とは言えないこともわかっているのだが、シゼとイーツェンの間に残る体の距離は、シゼのためらいをうつしたもののように思える。それを越えないことには、自分たちの関係にはっきりした名前がつかない気がしていた。
「でも、好きなんだ」
 小さな声で、ザインへ向けてそう打ち明けた。ザインはとっくにわかっているだろうが、それでもあらためて口に出すと、気持ちのどこかによどんでいた後ろめたさがすんなりと消えていく。リグへ戻って、シゼの手を離すまいとするなら、人に隠したり、口ごもったりするようなことではない。
 ザインはイーツェンの顔をしみじみ眺めていたが、やがて静かな溜息をついた。
「なら、覚悟した方がいい。3年ぶりに王子が戻ってきたらユクィルスの男を恋人にしていたとなると、父上や兄上たちは卒倒するかもしれん」
「それは大丈夫だろ。私のことは気にしてないよ」
 あまり父や兄と近しくなかったことが、こうなると安心の材料になるのが皮肉だ。シゼは気にしているらしいが、王族としての身分のことも、イーツェンはさして心配していなかった。どうせ元々、王族としての数の勘定には入っていないようなところがあったのだ、今さらそんなものに足をひっぱられるつもりもない。
 ザインが冷めた骨茶を飲み干し、椀を振って雫を切った。
「人と人との距離というのは難しいものだ、イーツェン。目に見えない距離が、一番怖い」
 話の流れが唐突だったが、ザインが何かを言いたいのだろうと察してイーツェンは黙っていた。時おり彼は、警句のように抽象的なことを言う。
「その遠さは、人の心が作る遠さだ。相手の心が作っている遠さなのか、自分の心が作っている遠さなのか、見誤らないよう、思いこまないよう、しっかり目と心をひらいておくのが賢く幸いな者となる」
「‥‥シゼが」
 黙っていようと思ったのに、イーツェンはつい呟く。心と心の距離。目に見えないのが時に切ない。
「私と、距離を残そうとしているんだ。いくら大丈夫だと言っても、私を信頼してくれない」
 ザインがさっと顔を動かしてイーツェンを見た。イーツェンは立てた膝に頬杖をつき、前かがみに背中を丸める。奴隷のままの姿だったら、人前でできるような格好ではない。
「リグへ一緒に来るとは言ってくれたけど、多分、その先のことは信じていないんだと思う。旅が終わってリグに戻れば、私が気持ちを裏返すと思っている。だから、いつも1歩後ろに引く」
 人にそんなことを言うつもりはなかったのに、ずっと体の中に抱えこんできたことが、ぽつりぽつりと唇からこぼれ落ちていた。イーツェンの中に棲みついている不安。シゼの、決して消えることのないためらい。
 ザインは小首を傾げて、考え深い表情を作る。
「彼は、お前を信じていないようには見えなかったけどな。本当にそんなことを思っていたら、わざわざリグまで行くことを承知しないだろう」
「‥‥でも、最後のところで信じてもらえてない」
 溜息をつき、イーツェンは自分を元気づけるように右手で頬を軽くはたいた。ザインに愚痴っても仕方ない。リグに行くとシゼが言ってくれただけで、今は充分な筈だ。
「いいんだ、ごめん」
 話を打ち切ろうとした時、ザインがやわらかい声で言った。
「疑われているのは本当に己か?」
「‥‥どういうこと?」
「私は、ひとつところに長くはとどまらないようにしている。長くいると、そこに心が残ってしまって、立ち去りがたくなるから」
 イーツェンはとまどって、ザインの明るい表情を見つめた。渡りの神官は孤独で危険な生活だが、これまで1度もザインからそうした根無し草の暮らしがもたらす影を感じたことはない。思えば、不思議な男だった。
 底の読みとりづらいやさしい声で、ザインが続ける。
「手に入れるのを怖がる人間もいるんだ、イーツェン」
「ザイン‥‥」
 いきなり赤子の甲高い泣き声があたりをふるわせて、イーツェンはぎょっとした。井戸の側で縫い物をしていた女が、傍らの編み籠から布の塊のようなものを取り出して胸元であやしはじめると、その声は少しずつゆるやかになる。
 ザインは、母と赤子の姿に目を向けて微笑し、胸元で祝福の印を切ってからイーツェンへ視線を戻した。
「自分がその幸運に値すると、信じることができない者もいるんだよ」
「‥‥シゼも?」
「さて。それは自ら見定めねばならないことだ」
 眉をしかめてイーツェンはザインの顔を見つめたが、神官の表情はあくまでにこやかで、相変わらず年齢不詳だった。
 彼は、何かを手に入れるのが怖くて旅を続けていると言うのだろうか。
「ザイン。旅の間に誰かを好きになったこと、ある?」
「好きになりかけたら逃げるようにしている」
 ニヤッと俗っぽい笑みを見せて、ザインは立ち上がると空の椀を2つまとめて井戸ですすぎに行った。椀を返して戻ってくる彼へ、イーツェンはなるべく軽い調子で問いかける。
「リグには長くいたよね」
「だから、じきお別れだ」
 うーん、と両手を上げてのびをすると、ザインはイーツェンの頭を親しみをこめた手で叩いた。
「元々、リグにとどまってお前を待ってたんだよ。待ってれば無事に戻ってくるような気がしたから」
 思いもかけない言葉に、一瞬、どうしていいかわからずイーツェンは立ちすくんだ。
「‥‥本当に?」
「本当。死んだと聞いて、リグを離れようと思った。だから山を下りて、ここにいたんだよ」
「ああ‥‥」
 ザインは淡々と言ったが、自分の「死」がリグに伝わっていたことをあらためて思い知り、イーツェンはうつむいた。彼にはどうしようもなかったとは言え、イーツェンが死んだという知らせに心を痛めた者がいたのだ。
 頭を横からこづかれて顔を上げると、問答無用でザインに頬をつねられた。
「痛!」
「下を向くな、下を。生きて戻ってきたんだ、胸を張れ!」
 ほがらかに言い放つと、ザインは唐突に両腕を投げかけてイーツェンを抱きよせ、抱きしめた。背中にほとんどふれないよう、腰に腕を回した抱き方に心づかいを感じながら、イーツェンはザインの肩口に額をのせて溜息をついた。奇跡のように再会した後で、またすぐこの神官と離れてしまうのが淋しい。
「次はどこに行くの」
「冬はここで越して、大足の回りの村を回る。春に商隊を見つけたら、後は風まかせさ」
 大足というのは北西にひろがる沼まじりの平野の一帯だ。リグへ行くにも越えねばならないそこは、巨人の足跡になぞらえて「シレイギオの大足」と呼ばれている。かつて天に頭を届かせるような巨人が踏んだ跡なのだと。
「旅、つらくない?」
「お前の旅はつらかったんだな」
 ザインはイーツェンの髪をなでて、もう1度抱きしめる。彼が質問をそらしたことには気付いたが、イーツェンは問い直しはしなかった。とどまらずに旅をする暮らしが、つらくないわけがない。それでも旅を生活にする理由がザインにはあるということだ。
「よくやった。よくがんばった、イーツェン。生きて帰ったことを誇れ。旅の向こうにあるものが必ずしも求めたものとは限らないが、それでもたどりついた己を誇ることは忘れずにおくんだよ」
 珍しく、イーツェンの耳元に囁くザインの声は湿っていて、イーツェンはザインの背中を軽く手のひらで叩いた。
「ありがとう、ザイン」
「お前は幸せ者だ、イーツェン。誰もが旅の間に愛するものを見つけられるとは限らない」
 愛するもの、と言われて一瞬だけぎょっとしてから、イーツェンは体の緊張を抜いてザインの肩にもたれた。
「ザインも、いつかきっと出会うよ。その時は離しちゃ駄目だ」
 ザインは答えずに小さく笑って、イーツェンの体を離した。男2人が抱きあっていたというのに、ザインが見るからに神官の格好をしているので、神々の教えに感じ入ったあまりの出来事にでも見えるのか、周囲はさして彼らに奇異の目を向けていなかった。
 ザインはイーツェンの肩を抱いたまま神殿を出て、商館に戻る道を歩き出す。道の左右をさしてはイーツェンに賭場や酒場のありかを教える口調はもうただ軽やかで、楽しげだった。
 やっと出会えたザインとも、またすぐに別れなければならない。そのことはイーツェンに、この旅にあった様々な出会いと別れを思い起こさせた。多くと出会い、多くと別れた。旅での出会いは豊かなようでいて、その先は必ず別れにつながっていた。まるで剥がすことのできない裏表のように。
 ザインにとっては、その旅こそが彼の人生そのものなのだ。
 いつか、彼が旅の中で求めるものに出会えるようにと、イーツェンは心の中で祈る。そしてイーツェン自身もこの旅の先で、求めるものをつかめるように──握った手を離さずにすむように、と。