シゼはどこだ、と聞いて「いない」という返事が返ってきた時、イーツェンはさして深く受けとめなかった。
何かの用で出かけたか、気晴らしにでも町に出ているのだろうと思う。旅の間、シゼはずっとイーツェンに目を配っていたため、のんびりできる時間などなかった筈だ。こうしてリグの商館にたどりついた今、シゼもやっと警戒をといて一息つけるだろう。
出かけるのもいいよなとか、明日くらいには一緒に出かけられるかも、などと呑気に考えながら、「どこに?」と問うた時、あたたかな粥の椀を手渡され、話が途中になった。蜂蜜を入れたうっすらと甘い粥には、裂いた干し魚と新鮮な緑の刻み菜が惜しみなく入っていて、一口食べるごとにしみじみと噛みしめてしまう。「食べられるようなら夕食用に鶏を潰しましょう」と言うハンサイを、イーツェンは「そんなことはいいから」と贅沢をしないよう制した。冬が近づいた今、残っている鶏や豚は貴重だ。やわらかで新鮮な肉を食べたいのは山々だが、イーツェンのためにここで無駄をさせるわけにはいかない。
寝床に起き上がって粥を食べるイーツェンの横で、ハンサイとザインは毛皮の敷物に座りこんで、リグの近況を伝える。上の兄が長老座に迎えられて正式に王の補佐になったことや、下の兄が古帳の長に任命されたことを聞き、イーツェンはなつかしくうなずいた。古帳の役は、リグにおける様々な記録を書き記して後世に残す役で、リグの知のみなもとでもある。3年前、カル=ザラの道をふさぐ法を探り出したのも、古帳の者たちであった。
妹のメイキリスが婚姻の予定を先のばしにして、まだ嫁いでいないのには驚いたが、リグにも色々あっただろうからやむないことか。だが、おかげで思いもかけず、妹の婚姻の儀に顔を見せられるかもしれない。そのことには心がはずむ。
アンセラ側へ向かう街道を崩してしまったため、ゼルニエレードのある東の商路の拡大に力を入れはじめているのだとハンサイは説明した。この商館を通じて、リグの硝石や毛皮などをもっと高くさばく方法を探しているのだ。その話を聞きながら、イーツェンはふとポルトリにいる筈のマリーシを思った。ポルトリでも力のある商人に嫁いだにちがいない彼女へ、イーツェンの正体と身分を明かした上、手紙と贈り物でもしておいた方がいいかもしれない。人脈をつなぐことができればリグの商売の役に立つだろう。マリーシが相手にしてくれるかどうかはわからないが、駄目で元々だ。
リグの様々な話を聞いていると、自分がユクィルスで耐えた2年間や、裁きによる鞭打ちが無駄ではなかったのだと感じられて、気持ちの奥がほっとゆるむ。リグを守ると誓って3年前に故郷を後にした、その役割をイーツェンはたしかに果たしたのだ。
2人の話を聞きながら粥を1杯たいらげたところで、イーツェンは「シゼはどこに出かけると言っていた?」と何気なくたずねた。さっきの問いの答えをもらっていないことを思い出したのだ。
今度もまたハンサイとザインの返事はなく、イーツェンは粥のおかわりを食べる手をとめて、まばたきした。シゼは、目的を言い置かずに出かけたのだろうか。
「いつ戻る?」
「‥‥多分‥‥」
言いにくそうなハンサイの顔を見つめて、彼が視線を合わそうとしないことに気付き、イーツェンは胸が黒い群雲で満たされるような気がした。何かがおかしい。
「シゼに何かあったのか」
「いや、いや」
ザインが両手のひらをイーツェンに向けて、落ちつけという仕種をした。イーツェンは残っている粥の椀を床へ置き、ザインへまっすぐに向き直る。
「ザイン。シゼはどこに?」
「夕方になれば顔を見せにくると思うよ」
のんびりとした表情でのんびりとした物言いだったが、イーツェンはそれが尚更気に入らない。何かを隠しているのだ。
手がかりを探して、部屋の中に視線を走らせた。普段は誰かが使っているらしい小部屋で、足付きの小さな引き出しや長箱が壁際に置かれている。部屋のすみにイーツェンの荷物がよせてあるのは見つけたが、シゼの荷物はどこにも見当たらなかった。
「シゼの部屋は?」
帰ってくるまでそこで待つかと聞くと、ザインもハンサイも答えず、また奇妙な間があいた。イーツェンは問いつめようと口をひらき、それから思い直して口をとじ、深々と深呼吸してからふたたび口をひらいた。
「シゼは、夜、どこで眠っている」
2人は互いに顔を見合わせ、何か視線で争ってから、ハンサイがしぶしぶイーツェンの問いに答えた。
「知りません」
「‥‥‥」
これは何か、とんでもないことになっているのではないだろうか。
イーツェンは背中が寒くなった。熱を出していた間の記憶を探ると、シゼが枕元にいたのはうっすら覚えているが、たしかにいつもいたわけではない気がする。
イーツェンは気まずそうな2人の姿をじっと眺めた。もっとも、はっきりと気まずそうなのは大柄な体をすくめたハンサイだけで、ザインの方は少々うんざりしているようにも見える。イーツェンが眠っているうちにシゼを巻きこんで何かがあった、それは明らかだった。
何があった、と怒鳴りたいのをおさえて、イーツェンは淡々と語りかける。
「シゼは私の大事な連れだ。客として、遇してほしい」
「それは、しかし──」
反論の声を上げかけたのはハンサイで、だが男はすぐに黙った。ザインが脇腹をつついて黙らせたのだ。ザインはイーツェンのするどい視線を受けとめて、おっとりと微笑した。
「おおせのように。帰っておいでになられたら、早速そのようにいたします」
「‥‥‥」
ザインの顔をしばらく眺めてから、イーツェンは膝にかかっている毛布を剥いで無言で立ち上がった。熱の引いた体はくらくらとたよりないが、それをこらえて、部屋の隅に荷物と一緒に置かれたサンダルをつかみ、自分が寝着なのに気付いて荷物の中から着替えを引っぱり出す。
2人へ、出ていくよう合図した。
「悪いけど、着替えるから出ててくれ」
「お出かけは無理かと」
のんびりと忠告するザインをよそに、イーツェンは壁際の長箱へ座りこんだ。体は重く、まるで糊か何かで固めたように関節がこわばっているし、力が入らなくて他人の体のようにたよりない。だが、シゼの居場所がわからないというのに、一向にらちのあかない2人を相手にじっと座っている場合ではなかった。
「出てってくれ」
くり返して、寝着の前を留めている紐をほどきはじめる。本当に寝着を脱ぎ捨てて、2人の目に背中の鞭打ちをさらすつもりはなかったが、とにかくイーツェンが本気だということを知らせるために手を動かす。膝丈の寝着は勿論イーツェンのものではなく、やわらかなリンネルで仕立てられた上等のものだ。こんなところにも自分の境遇が大きく変わったことを実感するが、ありがたみを噛みしめる余裕はなかった。
ザインが立ち上がると、イーツェンの前に立ち、少し体をかがめて彼をのぞきこんだ。イーツェンは手をとめて見上げる。鋭角な鼻と広い口元、がっしりとしているが丸みを帯びた顎──ザインの顔は、表情によって少年のようにも老成した男にも見えるし、山の民と大きくかけ離れた血筋にも、近しい仲間にも見える。いくらか血が複雑に混じっているらしいとかつて自分で言っていたが、イーツェンがそれを詳しく聞いたことはなかった。
ザインの目元に、3年前には多分見なかった細いしわが、影となって刻まれている。苦労をあからさまに見せるたちではないが、この3年は彼にとっても楽な日々ではなかったのかもしれない。
「イーツェン」
「うん」
うってかわってひどく真面目なザインの声に、イーツェンはうなずく。ザインは静かに問うた。
「あの男は、何者だ」
「私の連れで、恩人だ。リグへ一緒に行く」
シゼが何者であるかなど、すぐさま人にわかるように説明できるとは思えない。イーツェンが端的に、彼らが知る必要があることだけを選んで言うと、ザインが何故か溜息をつき、ザインの背後に立っているハンサイが顔をこわばらせた。
「まさか」
イーツェンがするどい視線を向けると、ハンサイは吐き出すように言った。
「ユクィルスの兵だった男ですよ。リグにつれていく気ですか?」
「‥‥‥」
眠っている間に何があったのか、一瞬で呑みこめた。
イーツェンは茫然と、ハンサイの言葉を頭の中でくり返す。ユクィルスの兵。シゼは、イーツェンと関わることになったそもそものはじまりや、己の立場を正直に彼らへ語ったにちがいない。自分がユクィルスの兵であったことまでも。アンセラ遠征に参加したことまで語ったかどうかはわからないが、どちらであるにせよ「ユクィルスの兵」という言葉を吐き捨てたハンサイの怒りは、剥き出しで荒々しいものだった。
シゼは、彼らの怒りを目の当たりにしたのだ。
「しかも、王子を奴隷のように扱って‥‥」
「そんなことはしていない」
イーツェンは声を荒立てないように否定する。
「私に輪をはめたのは別の男だし、シゼは、旅を無事に切り抜けるために私を奴隷としてつれていただけだ。シゼが私を守って、海を渡ってここまでついてきてくれたんだ。ユクィルスにうらみがあるのはわかるが、それをシゼにぶつけないでくれ。私の恩人だ」
説明しながら、胸の奥底からふつふつと抑えがたい怒りが沸いてきて、イーツェンは今にも怒鳴り出してしまいそうだった。
ハンサイたちに怒っているのではない。彼らが「ユクィルス」の名に過剰に反発するのは、思えば仕方のないことだ。イーツェンが腹立たしいのは、あらかじめ考えてさえいればハンサイたちの反発が見通せた筈なのに、呑気にシゼにすべてをまかせて眠っていた自分自身だった。
イーツェンの意識がありさえすれば、シゼのために弁護ができたし、シゼに投げかけられた──かもしれない──非難を、いわれのないものとしてしりぞけることもできた。なのに、イーツェンは自分のことだけで手いっぱいで、シゼを思いやる余裕もなく、シゼなら大丈夫だろうと決めこんでしまったのだ。
シゼを探し出さないとならなかった。今、すぐに。
「着替える。出てってくれ」
強い口調でそう言って、イーツェンは2人に出ていくよう手を振る。顎に力がこもって、自分がひどく強情な顔をしているだろうとわかったが、かまう余裕はなかった。
ハンサイが溜息をつき、イーツェンが膝にのせた古い着替えを見た。
「‥‥せめて、新しい着替えをお持ちします」
「ああ、俺のを貸してさしあげよう。背丈も大体合う」
ポン、とザインが手を拳で打って、いそいそと部屋から出ていく。3年前もそうだったが、相変わらず飄々とした男である。
イーツェンと部屋に2人きりで残されたハンサイは、ザインを追って出るかどうかためらうそぶりを見せてから、イーツェンへ向き直った。イーツェンは男へ向けて右手を上げ、何か言いかけた彼をとめる。
「たのむ。今は何も言わないでくれ。後で聞くから」
ハンサイの口元がぐっと締まって、顎骨が張り、彼は明らかに言おうとしていた言葉を呑みこんだようだった。悪いとは思うが、イーツェンはもし彼が今「ユクィルスの男など」とイーツェンに説いてかかったら、平静でいられる自信がなかった。いや、むしろ感情的に怒鳴り返してしまうだろう自覚なら山ほどある。
──ユクィルスの男だから、兵だったから、何だと言うんだ。
そう面罵できたら、どんなにか楽だろう。だが、イーツェンがユクィルスで多くをくぐり抜けなければならなかったように、ハンサイたちもユクィルスが引き起こした様々な物事に翻弄され、苦しみを味わった筈だ。故郷を蹂躙され、国を奪われる寸前までいった。
彼らにはイーツェンの知らない苦悶や分かち合えない憎しみがあるのだろうと思うと、責める言葉を、リグの王子であるイーツェンが言うことはできなかった。それは、言ってはならない言葉であった。
そして、イーツェンはシゼに怒りを向けることもできなかった。
港までの道を、近ごろ着慣れていない長衣の裾を翻して歩きながら、イーツェンは溜息をつく。横で、ザインの呑気な声がした。
「まあ、カーザもハンサイも、悪気があったわけじゃなし」
「‥‥知ってる」
「お前も大人になったなあ」
ザインは人前ではそれなりに丁寧にイーツェンに接したが、砕けた席や、2人だけの時はまるで弟に対するような口をきいた。3年経っても、それは変わらないらしい。いや、むしろ親しげになっている気がする。余裕があればなつかしくも思えただろうが、あいにくと今のイーツェンは心の中に荒れるものを抑えこむのに必死で、ほかの感情が入る余地がない。
ザインは相変わらず、少しゆっくりすぎるほどの口調で言葉を足した。
「あいつらが追い出したわけでもない」
「知ってる」
くいしばった歯の間から、イーツェンは答える。いくら怒りに目がくらんでいたとしても、リグの人間は、イーツェンの背中の後ろでイーツェンの連れに「出ていけ」とせまるような恩知らずではない。山の民は、屋根の下へ招き入れた相手は客として最後まで守る、それがしきたりだ。
──シゼは自分で出ていったのだ。
イーツェンを、守るために。
やっと川沿いに出ると、イーツェンは川港の前に建つ平屋根の小屋の向こう側をのぞきこんだ。横長の桟橋を動き回る荷夫や、船乗りたちの姿をじっと眺める。
昨日、シゼは日が暮れる寸前にイーツェンの様子を見に商館を訪れたのだが、その時の彼は服が汚れていて、剣を持っていなかったとハンサイは言った。シゼが剣を持ち歩かないなんて、あり得ないことだ。
だが、ハンサイが見まちがえたとも思えない。商館にシゼが立ち入った最初から、ハンサイがシゼの剣に警戒を払っていたのをイーツェンは知っている。ユクィルスの兵だとわかったなら、尚更、シゼが訪れた時にその腰を見て剣の有無を確認した筈だ。
ハンサイたちを気にして剣を持ってこなかったか、それともほかの理由があるのか。そう思いながら、イーツェンは港で働く男たちに目を走らせた。
「目つきが悪くなったね」
横で、ザインがぼそっと呟く。イーツェンがにらむと、何故か神官は微笑していた。
「気分は大丈夫か、イーツェン?」
「‥‥うん」
溜息をついて力のこもっていた肩を落とし、イーツェンは手の甲で額を擦る。出かけると言い張ったイーツェンをザインはとめることなく、心配してついてきてくれたのだ。イーツェンに長衣を着せ、その格好に合うようにやわらかい布を首に巻いて、首の輪を隠してもくれた。出かける前にもう少し体力をつけろと、干し杏を3つイーツェンに無理に食べさせたのも彼だ。その思いやりはありがたい。
「シゼも、夕方になれば顔を見に来るだろうから、戻って待ってたらどうだ」
「‥‥じっと待ってるだけなんてできない」
一列につないだ豚を引いてきた男をよけて道はじに下がりながら、イーツェンは呟いた。今でさえ、体がしっかりしていれば走り出してしまいたいほどだ。全身が嫌な予感に締めつけられていて、肌の下につめたい汗が溜まっているかのように体がざわつく。
じっと待っていたら、嫌なことばかり考えて行き場のない怒りを膨らませてしまうのはわかりきっていた。それなら少しでも外の空気を吸った方が気がまぎれる。もしシゼを見つけられなければ、その時は陽が落ちる前に商館に戻って、待つしかない。
「どこを探す気だ?」
「港。多分、海の方で働いていると思う」
昨日──いや、すでに3日前、シゼとともに歩いた川辺の道を、イーツェンはザインと一緒に逆に歩きながら、ザインの問いに答えた。
汚れた服と、剣を持たないというシゼの身なりから納得できる結論は、それしかない。少なくともシゼはどこかで働き口を見つけたのだろうとイーツェンは確信していた。この町で働こうとすれば、やはり手っ取り早いところは港だろう。シゼがまず港へ向かっただろうというあたりまでは、イーツェンは確信があった。荷揚げが減っているこの時期にどの程度の仕事があるかはわからないが、骨惜しみなく働くシゼのような男はどこでも重宝がられそうだし、彼には仕事が必要だ。
シゼがイーツェンを残して商館を出ていく時、ハンサイはシゼに礼金を渡すと申し出たが、シゼはそれを断ったのだと言う。
──馬鹿。
もう何回目かの呟きを、イーツェンはそばにいない男に向けて胸の中でくり返した。くれると言う礼金ならもらっておけばよかったのだ。リグへ行かないのならば、冬の間、どこかで厳しい季節をやりすごす必要がある。シゼの分の旅費の残りは持っていった様子だが、もうそれも大した額はない。冬ごしのためには、仕事口を見つける必要がある。
何をしているかはわからないが、働いている間は邪魔になるので剣を外しているのだろう。そして、汚れた格好のままイーツェンの様子を見にきた。だから訪れが日暮れ直前だったのだ。日のあるうちは働いていた筈だ。
──馬鹿‥‥
いくら言っても、言い足りない気がする。金などもらっていけばよかったのだ。受け取ったからと言って、金目当てとそしられるようないわれもないし、イーツェンが夢にもそんなことを考えないことは、シゼもわかっている筈だ。つらい生き方をしてきて、生きのびるためにきっと色々なことをしてきたくせに、どうしてこんな土壇場で潔癖な振る舞いをしようとするのか。
「船乗りには見えなかったけどなあ」
ザインは首をひねって、イーツェンは口元をかすかにゆるめた。呑気な彼の態度に、少し救われる。
「港の仕事は船乗りに限らないだろ。それに船で働いた経験もある。私も、働いたよ」
「船で?」
「うん。調理場で下働き」
「へえぇ‥‥」
感心したような驚いたような声を上げたが、ザインは肩を並べて歩きながら、それ以上聞いてこようとはしなかった。てっきり根掘り葉掘り聞いてくるだろうと思っていただけに拍子抜けしたが、そう言えば、ハンサイもイーツェンがどう旅をしてきたのかについてはまるで聞かなかった。
気にならないわけはないだろうに、とけげんに考えていると、気配を察したらしいザインがおだやかに言った。
「シゼに、あまり聞くなと言われてる。つらいことの多い旅だったから、イーツェンが自分で話すまで聞かないでくれと」
「‥‥ほかに何か言ってた?」
足元の石を蹴って、イーツェンは転がっていく石を見つめた。
「背中の傷のことなら聞いた。ほとんど治っているが、嫌がるだろうから勝手にふれるなと」
「‥‥‥」
「あと、酒はかえって傷が痛むから飲ませるなとか、首の輪がつめたくなるから冷やさないよう注意してやれとか」
始めのうちこそシゼの気づかいに心が揺れたイーツェンだったが、ザインが並べる言葉を聞くうちに気分がげんなりしてきた。子供の心配じゃあるまいし、そんな細々としたことを言い残すくらいならイーツェンに何か言伝てのひとつもできなかったのか。居場所について言い残すとか。
はあ、と大きな溜息をつくと、ザインはイーツェンの表情を勘違いしたようだった。
「苦労したんだな、イーツェン」
「‥‥まあ、色々と」
たしかに苦労はしたが、今はどうでもいいことだ。イーツェンはシゼに会ったら言ってやりたいことをひとつひとつ胸の中で数えながら、港への道を歩きつづけた。
港へ着くまでに、ザインが2回ほど顔なじみに呼びとめられたが、イーツェンがかまわずに歩いていくと、すぐに走って追いついてきた。小耳に挟んだ感じでは、ザインは町の神殿にしきりに顔を出しているらしい。
見覚えのある浜に出て、港のはじに立ったイーツェンは、海風に身をすくめながらあたりを見回した。今日はいかにも冬の前ぶれと言った冷えこみで、時おり息が白いほどだ。風向きが山の方から吹いているからだろうか。
だが、歩いてきたことで頭も体も随分とすっきりしていた。2日間寝ついて手足は少々たよりないが、眠っていた分、旅の疲労は軽減されたようだ。爪が剥がれた左足も前ほど痛まない。
港の桟橋には10隻ほどの小船と帆も立てられる荷船が4隻停泊していて、首の長い起重機に男たちが取りついて船に樽を積みこんでいる。海岸へおりてそちらへ向かおうとした時、イーツェンは2度と聞かないだろうと思っていた声を聞いた。
「リオン!」
「‥‥ラウ?」
桟橋を走ってくる船乗りの姿を、イーツェンは2、3度見返したが、たしかにそれはサヴァーニャ号で世話になったあの船猿だった。水を補給してすぐサヴァーニャ号へ戻ると言っていたくせに、まだゼルニエレードにいたのだろうか。
寒さなどものともせず、肘まで袖をまくり上げた裸足の船乗りは、イーツェンの前まで走ってくると上から下まで彼の格好を見て、げらげら笑い出した。それまで何ともなかった長衣姿が、笑われると何ともきまり悪く、イーツェンはつい口をとがらせる。
「何してんの。船に戻ったのかと思ってた」
「戻ったよ。今日は修理用の麻とか買いこみに来てんの」
「修理するの?」
「春までもう国に戻れねえからな。修理用の港に入れて大掃除したら、ぼちぼちこのへんで島の間を回って、春に向けて仕入れすんだよ」
「へえ」
用が済めばすぐルスタへ向けて出航するんじゃないかと思っていたので、イーツェンは意外な心持ちでうなずいた。船は、馬車のように好きなように行ったり来たりできるものではなく、潮や風によって動きの制約を受ける──というのはわかるが、まだ呑みこめないのが正直なところだ。
桟橋のほうから誰かが怒鳴り、ラウは返事をすると踵を返して走り出そうとしたが、くるりとまた回って、イーツェンへ駆け寄った。顔を近づける。
「お前の男、さっき船大工の小屋で鋸引いてたぞ」
「えっ、どこ?」
やはり港にいたのだ。
お前の男、という赤面ものの言葉を気にする余裕もなく、意気込んで身をのり出したイーツェンへ、ラウは哀れみのまなざしを向けた。
「捨てられたのか、売られたのか?」
「ちがう!」
色々と、根底が間違っている。
ラウは汚れた手で遠慮なくイーツェンの髪をくしゃくしゃにかき混ぜるて笑うと、川の入り江に近い建物をさした。イーツェンがそばの道を通りすぎながら視線の下に眺めた建物で、あれが船大工の小屋だと言われると、たしかにそばの川岸の囲いの中に何本もの材木が浮いている。
「俺、昨日あいつに酒オゴってもらっちゃった。いいヤツだな」
その言葉はもう、半分走り出したラウの後ろ姿から聞こえた。戻っていくラウへイーツェンが「ありがとう」と怒鳴ると、後ろ姿のまま右手だけひらひらと振る。
ザインは腕組みして一部始終を眺めていたが、何も言わず、船大工小屋へ向かうイーツェンのすぐ後ろをついてきた。
数軒の掘っ立て小屋をすぎて河口に近づくにつれ、葦のような細い草がひょろひょろとたよりない茂みを作って群れていた。砂と泥が混ざって固まったあぜ道を歩いて、イーツェンは木を切る作業の音がしてくる方へとまっすぐに向かう。船大工小屋は小屋と言うには大きく、横幅が広い建物で、丸木の柱の間にやわな板を打ちつけて壁としただけだ。板の平屋根も、小屋の半分だけにしか架けられていない。
板戸が外されてあけっぱなしの入り口から、イーツェンは中をのぞきこんだ。癖で、つい奴隷らしい腰の低い態度を取ってしまいそうになるが、思い直して背すじをまっすぐにのばす。
屋根が半分しかないおかげで、作業場の中は明るい光に照らされていた。道から見ただけではわからないが、川に面した側の壁も半分ほどしかなく、大きな間口からは水面に反射した光が充分に小屋の中にさしこんでいる。
小屋の中には太い丸木の柱が何本も立てられ、その間をロープや低い横桟がつないで、何かの木組みのような複雑な構造がいくつもできあがっていた。ロープの一部には、道具を入れた袋が鈴なりに吊るされている。
12、3人ほどの男たちが立ち働く小屋の中は、おがくずとタールの匂いが立ちこめていて、埃っぽい。底を上にした小船が1隻、低い木組みにしっかりと固定されていて、男の1人が手にした刷毛で船底のタールを塗り直していた。かたわらでは小さな火囲いの炎に汚い鍋をかけてタールをぐつぐつと煮ており、鼻を突くきつい匂いはそこから漂い出していた。
イーツェンは、木材が積み重ねられた作業場の一画に目をやった。そこで働いているのは1人だけで、丸太にノミを打ちこんで船の船首飾りらしきものを作っている。後ろ姿だが、背が低すぎるし、肩幅が不格好なほど広い──シゼではない。
視線をとばして、今度は土間のはじに座りこんでいる4人の男たちに目を留めた。面取りしている途中なのか、一部だけが四角い材に整形された丸木が作業台にのせられていて、2人引きの鋸が土間に転がっている。男たちは水桶から柄杓で水を飲んでいたり、何かの葉を噛んでいたりと、一休みしている様子だったが、その中から1人が立ち上がってイーツェンを見た。
ほっとして、全身の血が抜けたようだった。シゼの顔を認めた瞬間、膝がいきなり言うことをきかなくなって、イーツェンはへなへなとその場にしゃがみこむ。目の前に駆けよってきたシゼを見上げて、何とか微笑した。
「やあ、シゼ」
「‥‥‥」
シゼは眉を寄せて、何か言いかけ、それを呑みこんでからイーツェンの脇に立つザインへ目を向けた。
「無茶をさせないようにと‥‥」
「言った、言った」
ザインがおっとりとうなずく。一体ほかにシゼが何を言い残していったのか、知りたい気もしたがやはり聞くまいと心に決め、イーツェンはかがんできたシゼの手をつかんで立ち上がった。
「話がしたい」
そう端的に告げると、シゼはまた何かを探すようにイーツェンの顔を見つめた。
「‥‥仕事が終わったら、商館に行きます」
「終わるまで待つ」
できるだけおだやかに、イーツェンは言った。商館に来るというシゼの言葉を疑っているわけではない。だが、少しでも早く話がしたかったし、商館の者たちのいないところでシゼと向き合いたかった。
シゼは困った顔でイーツェンを眺めている。その視線がイーツェンのまとっている長衣と首に巻いた布に走って、イーツェンはうなずいた。
「ザインが服を貸してくれて‥‥ザイン?」
見回すと、すぐそばにいた筈の神官は、奥の作業台で弓形に反った木材に鉋をかけている太った男と話しこんでいる最中だった。あれも知り合いか、とイーツェンが感心していると、ザインは踊るような足取りで小走りに戻ってきて、にっこりと2人に笑いかけた。誰といても彼は居心地がよさそうにしていて、その肌なじみのよさがイーツェンには少しうらやましい。
「休憩取っていいってよ。少し借りるな!」
後半は肩ごしに男へ向けて親しげに怒鳴ると、ザインは2人にくいっと指で合図をして船大工の小屋から出ていった。イーツェンはシゼにひとつうなずくと、2人で肩を並べるようにザインの後を追いながら、たずねた。
「ラウに酒おごったんだって?」
「ええ、まあ」
あまり気まずい思いをさせないようにと軽い話を向けただけだったのに、何故かシゼの返事は歯切れが悪い。イーツェンがちらりと視線を向けたシゼは、遠いものを眺めているような、焦点が曖昧な表情をしていた。
あぜ道から河原におりて、葦の間に転がっている流木を見つけ、2人は並んで腰を下ろした。刈られているのか、葦の背は余り高くはなく、草の間から静かな川面を眺めながら、イーツェンは引き抜いた蘆の細い葉を指先にくるくると巻いた。
あたりには水と土の匂いが漂っていて、川辺の石に水が当たる音がおだやかに響いている。少し寒かったが、澄んだ空気があるかなしかの風に揺らいで肌をなでるのは、心地よかった。
ザインは、近くの知り合いに挨拶に行くと言って姿を消していた。嘘なら見え見えの気づかいだが、案外本当かもしれないとイーツェンはザインの顔の広さを思う。どちらにしても、シゼと2人にしてもらえたのはありがたい。
肝心のシゼはと言えば、何もしゃべらずに川を見つめているだけだ。イーツェンは指に巻いた葉をねじって、意味もなく結び目を作る。
「剣は、どうした?」
「預け物屋に預かってもらってます。仕事の邪魔になるので」
「よく、すぐに仕事が見つかったな。何でまた船大工のところに?」
「‥‥昔」
まだ何か考えている表情のまま、シゼは前を見て、ぽつりと言葉をつなげた。
「砦で、大工の下働きをしていたことがあって。簡単な心得ならあります」
へえ、とイーツェンは呟く。指先に草の結び目をきつく縛った。
「初めて聞いた。お前のことを、私は何も知らないな」
「‥‥イーツェン」
「うん」
「怒ってないんですね」
そういうシゼの口調がいかにも意外そうで、イーツェンはつい笑ってしまった。イーツェンが烈火のごとく怒ると覚悟していたのに、拍子抜けしたのだろうか。
「怒ってないよ。お前にはね」
ずっと川を見ていたシゼが、やっと体を回してイーツェンへ向き直る。イーツェンはシゼの目をまっすぐに見据えると、右手をのばしてシゼの膝にふれた。
「すまなかった、シゼ。商館の者が口さがないことを言わなかったか」
「‥‥当然のことでしょう。リグの人たちにとって、ユクィルスは仇も同じだ」
本気でシゼがそう言っているのがわかって、イーツェンはシゼの膝頭をつかむ指に力をこめる。商館へ行く前から、シゼはこうなることをとうに覚悟していたのだろう。イーツェンと自分では身分が違うと、彼は何度か言ったが、その言葉の裏にはもっと根深いためらいがひそんでいたのだ。
わかっていなかったのは、イーツェンだけだった。リグへ戻れば何もかもうまくいくと、そこまで楽観していたわけではないが、帰れさえすればその先のことは何とかなると気楽にかまえていた。リグの者たちがユクィルスの男にどんな目を向けるかなど、考えもしていなかった。
シゼはまた、遠い表情を川へ向ける。荷を載せた荷船が川面をすべっていく。船頭の親とともに乗りこんでいる小さな子供が、2人へ向けて勢いよく手を振って、イーツェンも軽く左手を振り返した。
「イーツェン」
「うん」
「私は、リグへは行けない。行けば‥‥あなたの重荷になる」
そう言い出すだろうとは覚悟していた。だが、それを言うシゼが川へ向けている視線の空虚さに、イーツェンは心臓が苦しくなる。すべてのものを抑えこんで、淡々と、シゼはそんなふうに物事をあきらめようとするのだ。
「お前が、ユクィルスの兵士だったからか」
「私がユクィルスの兵として遠征に参加して、アンセラで人を斬ったからだ。あなた方と同じ山の民を」
「それはお前が私を助ける前のことだ。お前は私の恩人だ、シゼ。恩人を悪く言う者は私が許さない」
おだやかに、だが囁くようにイーツェンがその言葉を口にすると、シゼは唇だけの小さな笑みをイーツェンへ向けた。
「あなたに、そんな真似はさせられない」
だから商館を去ったのか、と言いそうになって、イーツェンは唇を噛んだ。責めてはならない、と思う。シゼは、イーツェンとハンサイやカーザたちの対立の種になりたくなかったのだ。シゼと彼らとどちらにつくか、その選択をイーツェンにさせまいとした。だから自ら商館を去り、リグへ行くまいと決めたのだった。
ゆっくりと息をして、イーツェンは自分の心に騒ぐものをなだめようとする。もしシゼをここで失ったらどうなるのかなど、考えたくもない。動揺や怒りをシゼに見せるわけにはいかない。己の存在がイーツェンを追いつめたと思えば、シゼはさらに遠くへ身を引こうとするだけだろう。
シゼの手をつかむ方法は、多分、ひとつしかない。
「リグへ行かないとして、どうする。ここで冬を越すのか?」
イーツェンがたずねると、シゼは意表をつかれた様子でイーツェンの顔を眺めてから、ゆっくりと口をひらいた。
「北西に行ったところに開拓地があって、冬の間、船乗りなどを開墾の手として雇い入れているそうです。ひとまず冬はそこをたよってみようかと」
過酷な仕事と暮らしだ、とはイーツェンは言わなかった。イーツェン以上にシゼはよくわかっているだろう。食べ物も、寝床も、充分に用意されているとは思えない。
「春になったら?」
シゼは一瞬、答えをためらった。イーツェンが黙ったままじっと待っていると、やがて重い口をひらく。
「サヴァーニャ号は、春先にポルトリへ寄港してからルスタへ戻るそうです。あれに乗ろうかと」
イーツェンはひとつうなずいた。ラウと酒を飲んだと聞いて意外に思っていたが、シゼはサヴァーニャ号について情報を取ろうとしていたのか。
「ユクィルスへ戻るのか?」
ユクィルスはシゼの故郷ではないが、生まれ育ってそれなりに勝手のわかる地だ。誰もたよる者のない異国よりは、やはりなじみのある地の方が暮らしやすいだろうか。
だが、イーツェンの問いに、シゼは首を振る。
「あの国には‥‥2度と戻らないつもりだ」
その声に遠い痛みを聞きながら、イーツェンは目をきつくとじ、息を吸いこんだ。川と葦の匂い、なつかしいような湿った泥の匂いが体の内側へ深く入りこむ。だが何も、イーツェンの内側にぽかりと口をあけている空虚をうずめることはできなかった。
リグへは行かず、ユクィルスにも戻らず、シゼは過去のすべてを置いて、どこへ行こうというのだろう。